父の日記 昭和17年

昭和17年の日記 
ようやく召集解除 神武屯を発ち東京へ向う

昭和17年3月13日

2005-03-13 | 昭和 (父の日記 昭和17年) 
13日 (金) 晴れ 暑し

日毎に敵の砲撃も頻りとなる。今日我が放列の
前方、左方等を砲撃してゐる。珍しく放列に近く落ち
破片がバラバラと飛んで来た。然し弾着は、まだ四、
五百米は離れてゐるやうだ。此の間の工兵隊が作った
B道を砲撃してゐるらしい。此の道路は所々敵に暴
露してゐるし、自動車が可なり頻繁に通過するから
交通遮断を敵がやってゐるのだらう。友軍も総攻
撃の準備に着々配備を固めてゐるので敵も攻
撃の近いのを感ずいたかも知れない。
朝九時頃、里村軍曹を段列に連絡にやる。第五
中隊の方列へ運んだ土嚢、掩体材料をⅡstから
受領する連絡だ。序でにGuagua迄行って卵子、野
菜等を買って来る。夕方五時頃帰る。掩蓋材料は
Ⅱst飯田隊で集めた事は集めたが貧弱な材料で
量も少くとても我々が前に使ってゐた程のものではないと。
又運搬の命令は受けてゐないから運搬は出来ない
と言ってゐたと。Δへ電話をかけて此の旨伝へておく。
今日は三時間許り昼寝をする。土嚢や掩蓋材
料を外してしまった掩体はそのままで砲手達もあと
を又整備する気もない。大砲は閉脚したまま。今日は一日
砲手達は休養。敵弾が左方に落ちて破片が来だした
ら慌てて掩壕の整備を始める。
こう待機の日が長くては兵隊の士気が倦んでしまって
困る。病人は続発するし、指揮官はサボッてしまふ。第二
小隊長が准尉であると言ふのはどうもやり難くて困る。
自分より数年年上の者に対してはどうも言いたい事も遠
慮してしまふし、指揮も消極的になってしまふ。砲手
が大分段列へ下がってしまったので放列の夜間
の警戒を不寝番一名にしてしまった。人員が少なくても
警戒兵を単哨にすると言ふ事はよくない事なんだが。
前車置場の兵と一緒にして二名宛にしたらいゝのだが。


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