父の日記 昭和17年

昭和17年の日記 
ようやく召集解除 神武屯を発ち東京へ向う

昭和17年3月11日

2005-03-11 | 昭和 (父の日記 昭和17年) 
11日 (水) 晴れ 暑し

今日も新陣地へ工事に行く。古江准尉は兵隊
が疲れるから一日位休まうかと言ってゐたが早く工
事を終ってしまった方がいゝので僕は今日も行
かうと言って行く事にする。九時半頃出発、貨車
四輌に掩体材料を積んで行く。十時
半頃から作業開始、牽引車置場の進入路等
も作る。古江准尉は井戸掘りなぞを一生懸
命で進入路の工事など無関心で困る。今
日だけで工事を終らうと言ふのにのんびりしてゐる。
昨日作った井戸は作り方が悪くてきれいな水が
出ない。又今日別に作ってゐたやうだが失敗した
とか言ってゐる。午后、此の陣地の左側方へ敵
砲弾数発落下し、破片が飛来する。我々が
後の暴露してゐる所を車輌等で通ったからそ
れで撃って来たのか。さうではなささうだ。もっと左の
方を撃ってゐる。此の陣地を敵に知られてしまったので
はないかと心配する。
夕方四時半頃終って帰途に着く。帰ると又発熱
患者がふえてしまった。三、四分隊で三、四名発熱
し寝こんでしまふ。此の頃又病人続出で実に困
る。今発熱患者が十数名ゐる。昨日牽引車を
持って段列に下がった水溜が発熱して寝込んで
しまふし、中西はまだ全快しないやうだし、放列で
も各分隊数名宛発熱し戦闘に差支へるやうな始末。
炎熱下に過激な作業をしたために発熱したのではない
と思ふが、もしさうだとすれば此れから先何の工事も出来
ないわけだ。三日間の工事もそんなに激しいとは思へない
し、又発熱患者も必ずしも作業に行ったもの許りでは
ないし。全く心配させる。
中隊長から電話があって明晩陣地変換をすると言ふ。
今夜中に歩兵はもとの第一線の位置まで前進し、明日
から数日は敵情探索ださうだ。Δは未だ移動せず
射撃をし始める頃になって前のΔに一部を移動する
積りだと中隊長は言ってゐる。放列に患者が多い
のでΔから遠藤ヱ生兵長を呼ぶ。放列では佐々
木ヱ生兵迄発熱してしまった。八時半頃遠藤
兵長が来る。各分隊の患者を看て廻る。現在
のΔに患者収容所を設け軽い患者はΔへ収
容する積りとの事。そんならば放列の患者を皆
Δへ持って行ってしまふか。段列では少し遠すぎて
困るがΔなら近いし連絡の便も頻繁にあ
るし便利だらう。患者も中隊長の傍にゐれば
早くよくなるかも知れない。
ラヂヲは蘭印、ジャワ、ビルマ方面の大戦果の
発表等切り。蘭印の戦果は捕虜9万3千
人、火砲700門歯獲と。大した戦果だ。内地
では第二次戦勝祝賀で酔ふてゐる事だらう。
Bataan半島では総攻撃を前にして病人続出
で処置ない。あまり休養しすぎたのだ。戦闘
最中で迫撃前進中とか敵弾の飛んで来る時に
は一人の患者もでなかったのだが、敵砲段の
音もしないし此方も一切射撃しない休養時には却
って病人が出るのだ。早く総攻撃を開始して晴れ
てManilaへ入城したいものだ。A,B,C,D,包囲
陣もズタズタに崩壊した今日、Bataanの敵将
マックアーサーも、もう白旗をあげてもいゝ時分だ。

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