先日、いつものように、某湖でカナディアンカヌーを漕いで楽しんだ。
その場で、僕のカヌーの先生と雑談している時、たまたま話しの流れで、僕は、「実は昔サーフィンをやっていたんです」と白状した。
すると先生は、次のように言った。
「なるほど、やっぱりそうか。いや、禅蔵さんの、水の上でのバランス感覚は かなり優れているので、過去に何かのウォータースポーツをやっていたんだろうなあ、とは思っていたんですよ」と。
僕にとって それは、とても嬉しいお言葉であった。
思えば、人が、知識によって何かを語っても、その人の背景までは見えてこない。
しかし、身体の動きはウソをつかない。
ちょっとした動きを、見る人が見ればその人の背景までが見えてくる事がある。
例えば、口先でいくら禅を語っても、実際に坐禅をしてもらえば、本当に禅に精通している人かどうか、見る人が見れば直ぐにわかる。
さて、それはともかく、以下は本題。
◆靈巖和尚〔慧宗〕
●原文
僧問、「如何是學人自己本分事?」
師云、「抛却真金、拾得瓦礫作什摩?」
●試訳
僧問う、「如何(いか)なるか是(こ)れ學人(がくじん=修行者)自己の本分(根元的な自己の本性)事?」
師云、「却(かえ)って真金(しんきん=ここでは輝くありのままの本性)を抛(ほう)り〔捨てて〕、瓦礫(がりゃく=ここではガラクタのように役に立たない理屈)を拾い得て什摩(なん)と作(な)す?」
(*〔〕内は補足。)
※体得すべき事は、理屈よりも行動で示すべきであり、その行動の中に、生き生きとした本来の自己の有り様が体現される、のかも知れない。
そんなわけで、先日、僕はおよそ15年ぶりでサーフィンをした。
15年ぶりなので、インストラクターさんに付いてもらってのサーフィンであった。
海に入って一発目の波に乗った時に、インストラクターさんから次のように言われた。
「おっ!禅蔵さん、15年経っても体が波乗りを覚えているんですね!」と。
ここに、僕にとっての “自己の本分” があるのかな?(笑)
【サーフィンはスマホ片手に出来るものではないので、今回は写真は無い。】
◆新・からっぽ禅蔵◆
その場で、僕のカヌーの先生と雑談している時、たまたま話しの流れで、僕は、「実は昔サーフィンをやっていたんです」と白状した。
すると先生は、次のように言った。
「なるほど、やっぱりそうか。いや、禅蔵さんの、水の上でのバランス感覚は かなり優れているので、過去に何かのウォータースポーツをやっていたんだろうなあ、とは思っていたんですよ」と。
僕にとって それは、とても嬉しいお言葉であった。
思えば、人が、知識によって何かを語っても、その人の背景までは見えてこない。
しかし、身体の動きはウソをつかない。
ちょっとした動きを、見る人が見ればその人の背景までが見えてくる事がある。
例えば、口先でいくら禅を語っても、実際に坐禅をしてもらえば、本当に禅に精通している人かどうか、見る人が見れば直ぐにわかる。
さて、それはともかく、以下は本題。
◆靈巖和尚〔慧宗〕
●原文
僧問、「如何是學人自己本分事?」
師云、「抛却真金、拾得瓦礫作什摩?」
●試訳
僧問う、「如何(いか)なるか是(こ)れ學人(がくじん=修行者)自己の本分(根元的な自己の本性)事?」
師云、「却(かえ)って真金(しんきん=ここでは輝くありのままの本性)を抛(ほう)り〔捨てて〕、瓦礫(がりゃく=ここではガラクタのように役に立たない理屈)を拾い得て什摩(なん)と作(な)す?」
(*〔〕内は補足。)
※体得すべき事は、理屈よりも行動で示すべきであり、その行動の中に、生き生きとした本来の自己の有り様が体現される、のかも知れない。
そんなわけで、先日、僕はおよそ15年ぶりでサーフィンをした。
15年ぶりなので、インストラクターさんに付いてもらってのサーフィンであった。
海に入って一発目の波に乗った時に、インストラクターさんから次のように言われた。
「おっ!禅蔵さん、15年経っても体が波乗りを覚えているんですね!」と。
ここに、僕にとっての “自己の本分” があるのかな?(笑)
【サーフィンはスマホ片手に出来るものではないので、今回は写真は無い。】
◆新・からっぽ禅蔵◆
これ怖ーい話しですよね。
8月の坐禅修行の時、バレないようにちょっと練習しておこうかなと思いました。
ここだけの話しですが、坐禅やっているように見せかけるコツってありますかね?
コツは幾つかあります。
身体的なコツをこの場で文章で説明するのは難しいですが、とにかく、背筋だけはピンと伸びているのに、身体のどこにも力みがない坐相(坐禅の姿勢)を心がけてみて下さい。
それから、指導者が説明した事に対して、「え~?どこそこの坐禅会では、そんなふうには習いませんでしたけど?」と言ってはいけません。
禅的な、精神的な姿勢として、行雲流水があります。
つまり、臨機応変である事が第一条件なのです。
にもかかわらず、坐禅修行の場で、上記のような質問をする人がいたら、その人は、「今ここ」を重視する禅思想を、全く知らないド素人さんだと、自らアピールしているようなものです。
まとめると、身体には力みがなく、精神的にはその場その場に臨機応変に応じる。
これを、心がけてみて下さい。
おそらく、これは、禅修行の場のみならず、普段の生活にも役立つはずです。
禅蔵 合掌
バレエをやってたので姿勢は何となくついていけますけど、
臨機応変は『空気を読める』と錯覚しているので勝手にクリアしたと判定!
そうであるならば、本当に、あとは脱力するだけかと思います。
そもそも、女性や子供のほうが、変な力みがなくて綺麗な坐相で坐ってらっしゃる事が多いです。
だからもう、蓮の花さんは出来ているのかも。
やっかいなのは、坐禅好きのオジサマたちで、「オレは坐禅をやるぞお!」という気合いが入っていたりする。そうするともう最悪なほど力みが現れちゃっていたりします。
そういう方には、「坐禅をやるぞお!」と構え過ぎないで、自然体でただ坐って頂きたいなあ、と思うのですが。
ちなみに、私事ですが、最近僕が時々やっているシーカヤックでは、僕はド初心者なので「漕ぐぞお!」という力みがあって直ぐに疲れてします(笑)
でも、シーカヤックのインストラクターさんは、やはり全く力みの無い自然な漕ぎ方をしています。あれなら何時間漕ぎ続けても疲れないと思います。
坐禅もそう。
力みがあると、足がシビレたり痛くなったり疲れたりします。
いろいろと、参禅工夫してみて下さい。
禅蔵 合掌
根本的な心構えの違いーだったのか。
私も、坐禅体験(曹洞宗のお寺)結構やってましたが
、坐禅姿勢やるぞおっと最善を尽くしたから力が最高に入ってたでしょうね。
英語でI am doing zazen with the best form!ではなく
ただI sit here!ですかね。
そう言えば、僕が昔お世話になっていた某寺院のご住職も、「ただここに坐る。それさえ出来ない人に、何が出来るというのでしょうかねえ」と話していた事を思い出しました。
禅蔵 合掌
禅蔵 合掌