新・からっぽ禅蔵

上座部仏教僧としてタイで修行の後、日本の禅僧となった、水辺を愛するサーファー僧侶のブログ。

禅ネタ本39ー馬祖禅の矛盾ー

2020-12-06 07:41:12 | 日記
さて、柿村崚・吾妻重二 両氏の共訳を頼り、馮友蘭(ひょうゆうらん)氏が『中国哲学史 成立篇』で述べるところを引用したい。

馮氏は、
「漢以前に「道家」という名称はなかったし、また『老子』の思想は荘子と同じではない。老学は楊朱の学を一歩進めたもの、荘学はこれを二歩進めたもの」
という。

更に、
「老学は漢初にあって流行し、荘学は漢末において隆行をみた。(中略)実際には『老子』は『老子』、『荘子』は『荘子』なのである」
と述べ、次のように続ける。

「道家という名称は漢人によって立てられた。老・荘がともに道家とされたのは、老学と荘学は異なるとはいえ、ともに当時の伝統的思想・制度全般への反対派だったことによる。もう一つは、老学と荘学が説く「道」「徳」の二概念が共通していたからである。漢代、道家の名のもとに両者が一括されたのは、ここに理由がある。この二概念が道家の根本概念であったことは、司馬談が道家を「道徳」家と称していることからも窺えよう。」

上の引用文について、少々考えてみたい。

以前にも書いたが、前漢の時代、武帝は儒家思想を政治教化の基とした。
また、五経を研究する五経博士が置かれ、学官を設けて教育するなど、儒家一尊としていた。

すなわち、上の引用文では、老・荘の学派が、そうした儒家への反対派だった事を述べている。
道家には、基本的に儒家を意識し、アンチ儒家のような立場をとる側面があることは、以前にも一言した。

次に、老・荘の学派に於いて「道」の概念が共通しているというのは、前回に見た狩野氏の述べるところと一致する。
但し、こちらは「道」のみでなく、「〈道〉〈徳〉の二概念が共通していた」とされる。

狩野氏が、「道」について『老子』・『荘子』からの引用文を示したことに倣って、同様に、「徳」の共通点も挙げておこう。

①(訓読)
德(とく)を含むことの厚きものは、赤子(せきし)に比(なら)ぶ。蜂(はち)・蠆(さそり)・虺(まむし)・蛇(へび)も螫(さ)さず、猛獸(もうじゅう)も據(よ)らず、攫鳥(かくちょう1)も搏(つか)まず。骨(ほね)弱く筋(きん)柔らかくして握(にぎ)ること固(かた)し。
(『老子』55章より)
〔1攫鳥=「攫」は「つかむ」「さらう」の意。攫鳥は、獲物を掴(つか)んで攫(さら)う鷹(たか)や鷲(わし)などの猛禽類。〕

②(訓読)
泰氏(たいし1)は其の臥(ふ)すや徐徐(じょじょ2)たり、其の覺(さ)むるや于于(うう3)たり。一(いつ)には己(おのれ)を以(もっ)て馬(うま)と為(な)し、一には己を以て牛と為す。其の知(ち)は情(まこと)に信(まこと)、其の德は甚(はなは)だ眞なり。
(『荘子』応帝王篇より)
〔1泰氏=太古の帝王。2徐徐=ゆるやかな様子。3于于=満足な様子。〕
(①②の番号は筆者に拠る)

上、『老子』55章を換言すれば、
外敵に立ち向かう屈強な大男より、小さくて無防備な赤ん坊のほうが、かえって外敵の攻撃を受けない。「徳」を具えた者は、こうした赤ん坊に譬えられるを説く。

一方の『荘子』応帝王篇では、
なりゆきに任せて逆らうことなく、あるときは馬のように、またあるときは牛のように、その時々に応じて自然に振る舞う。それこそ誠の智慧を具え、真の「徳」を具えた者であるとする。

どちらも、ことさらに強引な行動をすることが無く、自然体で、ありのままに振る舞うところに「徳」が存するという共通概念を示している。
同時に、上2例からは、老荘思想の象徴的スローガンとも言える
「無為自然(むいじねん)=為(な)すこと無く自(おの)ずから然(しか)る」
の精神が伝わってくる。
ここには、人による作為的なことへの批判が込められていると見てよいであろう。

こうした作為的な態度への批判は、後の禅家に於いても見られる。

ところで、今さら言うまでもなく、禅宗は、中国に於いて老荘思想よりもずっと後になって構築された。
その初祖は、菩提達磨とされている。しかし、達磨の伝記には史実というよりも伝説的な部分が少なくない。因みに、歴史上の人物としての「だるま」は、「達摩」と表記され、伝説的な禅宗初祖としては「達磨」と表記される事が多い。(「手」のだるま・「石」のだるまとして分類される)
では、「実質的な中国禅の創始者」というと誰なのか?
それは、馬祖道一(ばそどういつ)(709~788年)とされる。
現代でも、禅を学ぶ者・禅の修行をする者の中で、達磨の思想を伝える文献は読んだ事が無くても、この馬祖の語録を読んだ事も聞いた事も無い者はいないだろう。
もしそんな者がいたとしたら、それは、“聖書を読んだ事が無いキリスト教徒”と同じようなものだ。
さて、その実質的な中国禅の創始者である馬祖道一は、次のように述べている。
  
(訓読)
道(みち1)は修(しゅう)するを用いず、但(た)だ汚染(おせん)すること莫(なか)れ。
何をか汚染と為す。但だ生死の心有りて、造作し趣向せば、皆(みな)是(こ)れ汚染なり(2)。
若(も)し直に其の道を会(え)せんと欲(ほっ)せば、平常心是れ道なり。
何をか平常心と謂(い)う。造作無く、是非無く、取捨無く、断常無く、凡(ぼん)無く聖(しょう)無し。
〔1道=当該の引用文の後、「道は即ち是れ法界(ほっかい)なり」と見える。ここでの「法」は、諸法(しょほう)すなわち万物の自然な現象。「法界」は一切のありのままの現象世界を指すと思われる。
2造作し趣向せば皆是れ汚染なり=作為的につくりあげたものを目指してそれに向かえば汚れに染まるという事であろう。〕
【上の引用文にある「平常心是道(びょうじょうしんぜどう)」は超有名な禅語。これを「聞いたことが無い」という禅マニアさんは居ないはず。】
 
さて、上の如く、「道」と称する万物ありのままの道理を体得するには、人為的な造作や取捨をせず、無作為で偏りの無い心であれとする。
しかも、「修するを用いず」とあるので、修行さえ作為的な行為と見なし、これを不要としているようだ。

仏教の一翼を担う禅家では、上のように老荘思想にも通ずる自然体を理想としている。
しかしその一方で、
少なくとも後世の禅寺では、厳密に定められた差定(さじょう=諸行事の次第や配役を決めた指示書)に従って、看経(かんきん=読経)や坐禅や作務(さむ=労働)などを重要な仏道修行として行っている。

ここに於いて禅家は、ある種のジレンマに陥っているように思われる。

これに対し、やや強引な反論を試みれば、次のようにも言えるかも知れない。

①、上に挙げた仏道修行に徹することで、個人的な作為は持ち込まない、つまり個人レベルに於いて無作為であり、偏りが無い。強いては、自我を持ち込まない〝無我〟の体感を可能にする。

②、修行とは「行(おこな)いを修(おさ)める」と書く。馬祖は、「修める」のみ用いるべきではないとしているのであって、「行い」は否定していないと見ることも出来る。

しかし、上の①・②に試みた反論は、妥当とは言い難い。
なぜなら、禅寺の修行は、現実には次の如くであるからだ。

●上の①に対して。
禅寺で定められた差定は、それが個人レベルであっても集団レベルであっても、人為的かつ作為的な行動指示書であることには変わりはない。
同時に、基本的に集団での共同生活で構成されるその場では、自分勝手な言動は慎んで我(が)を立てず、協調性を重視すべきなのは言うまでもない当然のマナーである。
そしてそうした態度は、無作為や〝無我〟によって出来る事ではない。
寧ろ、意識的に我を立てぬよう、深く考えぬかれた綿密な気配りや配慮によってのみ協調性が構築されると言ってよい。
従って、「個人レベルに於いて無作為である」と言い切るのは妥当ではない。
勿論、定められた差定の中で一心不乱に修行に没頭しているときに、一定程度〝無我〟のような意識に陥ることはある。
だが、それを換言すれば、我(われ)を忘れている瞬間があるという程度のことであり、一時的に強く集中しているか、或いは、一時的に思考が鈍り、気が遠くなっているに過ぎない。そうした状態は、修行でのみ得られる特別な境地ではなく、一般的な仕事やスポーツ、そのほか様々な日常的営みのなかでも起きうる現象である。
 
●上の②に対して。
次に、「馬祖は〈修める〉のみ用いるべきではないとしているのであって〈行い〉は否定していない」と見た場合はどうか。
それについては、こうだ。
定められた差定に従った「行い」は、個別の目的を達成させる行為ではなくても、1人1人が割り当てられた役割を、指示通りに、1つ1つ貫徹することが求められる。それは即ち「修める」行為であり、「修」と「行」はセットで行われていると言わなければならない。
そもそも、何事もやりっ放しであっては、集団生活は成り立たない。1人1人が役割を成し遂げる。すなわち「行いを修める」。これが、集団生活に於ける一員としての、重要な心がけである事は論を俟(ま)たない。

これら禅寺に於いて行われている修行は、
「道は修するを用いず、(中略)造作し趣向せば、皆是れ汚染なり」
という馬祖の示すところとは、やはり、どうしても矛盾すると、筆者にはそう思えてならない。

理想とする無作為で偏りの無い自由な境地は、厳密な規則に従った一心不乱の修行のなかにしか見い出せないというのなら、それはある種のジレンマに陥っている状態だと指摘せずして何と表現すればよいのか。
一定方向に偏った限定的な価値観や枠組みに捕らわれるべきではないというのが、馬祖の「道は修するを用いず」の背景にある真意ではなかったか。

要するに、歴史上有名な高名な禅僧の言葉と言えども、綿密に見ていくと、老荘思想にも通ずる自然体を理想としながらも、実際にはジレンマに陥っていたり、どうにも矛盾していたりする様子が浮き彫りになってくる。
少なくとも、実際の禅僧の1人である僕が、特に禅宗を擁護する事なく虚心に見るならば、そう思えてならないのだ。

極論すれば、
厳しい修行に身を置き綿密な作法や繊細な気配りを身に着けたいのならば禅。
一方、自然体で自由な境地を求めるのならば老荘思想を選べば良い、という事になりそうだ。


(以下は次回)



【写真:本文とは無関係。
先日サーフィンをした某海の夜明け頃の様子。
ところでサーフィンは、サーファー同士、つまり人間同士の間には厳守すべきルールがある。また、サーフィンテクニックを磨くには、綿密な研究も必要だ。
一方で、サーフィンは、自然体で自由な境地を体感できる。
即ちサーフィンには、厳密な禅に通じる部分があり、同時に、自由な老荘思想に通じる部分もある、と言えるかも知れない。】
◆新・からっぽ禅蔵◆

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1 コメント

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Unknown (禅蔵)
2020-12-07 18:13:00
●お葬式●

本文とは関係が無いが、ここ最近、お若い年齢の自殺者の葬儀を連続してお勤めさせて頂いている。
もしかしたらこれも、コロナの影響なのかも知れない。

そこで、自殺を考えている人に言いたい。

自殺は、自らを殺す殺人でしかない。殺人はするな!
生きてさえいれば、きっとまた笑える日も必ずやって来るさ。
「全てを失った。もう死ぬしかない!」と思っても、あなたの身心は、全身全霊で生き生きと生きているのだ!それを殺すな!

そもそも、そんなに死なれたら、僕みたいな葬式クソ坊主をどんどん儲けさせるだけかもよ?
坊主を儲けさせるな!
死ぬな!

いやマジで、僕は葬式やるより、趣味のサーフィンに行きたいのでw
マジで死なないで下さい!
お願いしま~す!
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