新・からっぽ禅蔵

上座部仏教僧としてタイで修行の後、日本の禅僧となった、水辺を愛するサーファー僧侶のブログ。

波乗り雑記帳2(9)ーサーフィンライフの終わり?ー

2020-12-13 08:03:26 | 日記
僕(当時25歳)は、サーフィンそのものに集中したくて、Wサーフィンクラブの仲間と海へ行く事を減らし、1人で電車に乗ってサーフィンをしに行くようになった。
その電車内では、電車サーファーの高校生たちや、地元の素朴な女子高生たちと知り合った。
そんなある日、Wサーフショップのスタッフから、次のような電話連絡があった。

「今度ウチ(Wサーフショップ)主催のサーフィンコンテストやるんだけどさあ!Sクラス(1番レベルの高いスペシャルクラス)の出場者が少なくてさあ。禅蔵なら、Sクラスレベルだから、ウチのコンテストのSクラスに出場してよ! って言うか、実はもうSクラス出場者の1人として禅蔵の名前書いといたから!絶対に出場してよ!」と。

僕は、「また、コンテストかよ‥‥‥」と思った。

「波乗り雑記帳」シリーズ1に書いたが、そもそも僕は、16〜17歳の頃、ディスコダンスに本気で取り組んでいた。
しかし、僕よりダンスが下手なTくんが、全日本ディスコダンスコンテストで第3位に入賞。彼はその後、芸能界入りも果たした。
僕はこの事に納得がいかなかった。
「Tくんは、俺よりダンスが下手なのに全日本3位って何だよ。ああもうダンスなんかバカバカしい!」
そう思ってダンスをやめた。

そして18歳からサーフィンを始めたのだ。
しばらくして湘南に住み、当時は毎日のようにサーフィンをしていた。
そこでも、次第にコンテストが活発に行われるようになった。そう、サーフィンコンテストである。
そして21〜22歳の頃。当時の僕のホームビーチである湘南の鵠沼海岸海岸で行われた「第1回 渋谷109サーフィンコンテスト」に出場した。
しかし、このコンテストの運営がグダグダで、同じ色のゼッケンを着けた選手が混ざるなど、有り得ないミスが連発された。
(そのためか、僕の記憶では、このコンテストはこの1回きりで終わり。第2回目は開催されなかった。)

第1次予選。
僕はゼッケン赤だったが、隣のヒートのゼッケン赤の選手がこっちに流されて来てゴチャ混ぜ。
しかも、その第1次予選の結果発表では、初め僕が「1位」と発表されたあと、運営スタッフが「あれ?こっちのゼッケン赤が1位かな?」などと半信半疑な事をつぶやきながら1度発表された結果を変更され、僕は「4位」にされてしまい、そのため、僕は第1次予選落ちとなった。
そもそも、同じゲッケン赤であっても、定められたエリアでしっかりと波に乗ったゼッケン赤の僕と、隣りからダラダラ流されて来てロクに波に乗っていないようなもう1人のゼッケン赤。どっちが「1位」でどっちが「4位」か。もう考えるまでもなく本当の結果はハッキリしていると思うのだが。
いや、それも言い訳にしかならないのだろう。
結果、僕は「4位」のレッテルと共に予選落ちした。

その後僕は、そんなつまらないコンテストから離れ、1人でフリーサーフィン。
湘南のビッグウェーブに乗り、それを期に湘南を離れて、地元の都会の街に戻って来たのだった。

そんな経緯もあって、僕は、もう絶対にコンテストには出たくない!と思っていた。
まあ、Wサーフショップのスタッフが、「禅蔵はSクラスレベル」と評価してくれたのは嬉しいけど、そのコンテストには、僕は出場しなかった。

そんなある日、僕は久しぶりに、いつもの御宿ではなく、東浪見付近の某海岸でサーフィンをした。
ローカル線の電車に乗って、無人の駅で下車して、誰もいない田んぼ道をひたすら歩き、その海岸で1人でサーフィンをした。
そこは、有名ポイントと有名ポイントの間に位置している事から、僕らは、その海岸を「間(ま)ポイント」と呼んでいた。
現在はどうか知らないが、当時は、間ポイントはいつも空いていて、のびのびとサーフィンを満喫できた。
その日は、胸サイズのグッドウェーブで、僕は、自由に思うままのラインでライディング出来た。
最高の気分だった。
そして、「もう、サーフィンをやめよう」と思った。

なぜか?
このとき僕は、次のように思ったのだ。
「こんなに天気が良くてポカポカと暖かくて、海も綺麗で、しかも無人。これほど最高の条件下で、これほどの良い波に、これほど好きなだけ乗れる事は、きっともう無いだろう。思う通りのラインで乗れた。オレのサーフィンテクニックも今がピークに違いない。きっともう、今より上達する事は無いだろう。もう充分楽しんだ。もうこれで終わりにしよう」と。

そして、なんだか清々しい気分で僕は帰路についた。
サーフィンは、何度かやったりやめたりを繰り返したが、この時は、なんだか本当に清々しい気分だったので、今でも強く思い出に残っている。

因みに僕は、10代の頃には次のように思っていた。
「太く短く好きなように自由に生きて、25歳で人生を終えたい」と。
いや、別に自殺願望があったわけではない。
ただ10代の頃の僕には、25歳以上は醜い年寄りに見えていた。
「俺は、25歳以上のオッサンになんかなりたくない!25歳までの、若々しくてカッコイイ自分のままで人生を終えたい」と、ばく然と考えていたのだ。
しかし、まあ実際には、25歳で人生を終えなかったが、その代わり、サーフィンを終えた。

そして、その翌年。
1987年の夏に、僕は、不本意ながら?26歳になった。

この頃、我が家では事件が起きた。

僕が過去にK子とつい合っていた事は、「波乗り雑記帳」シリーズ1に書いた。
彼女の両親は実の親ではなく、彼女は、人からもらわれた子だった。東京の新宿で育ち、一時、新宿のヤクザの幹部とも付き合っていた。
そんなK子は、僕と別れた後も、3歳年下の僕の妹と交流を持っていた。
妹は、K子の影響を受けて、都内某地域を仕切るヤクザの幹部と付き合っていた。
しばらくしてそのヤクザ者とは別れたようだが、そのとき妹は、妊娠をしていた。
当時、僕は妹に「そんなヤクザ者の子なんて下ろしたほうがいい。中絶しろ。生んだら、苦労するだけだぞ」と言った。
しかし妹は、シングルマザーとして、子供を産んで育てる決心をしていた。
まあ、シングルマザーとは言え、1人暮らしの僕と違って、妹は親元にいた。
父も母もいる実家で、その子供を産み、育て始めた。因みに子供は男の子だった。
その男の子が1歳くらいに成長した頃、父1人を置いて、母と妹は、幼い妹の子連れて3人で家出をした。
これが、1987年の我が家の事件である。
理由は、妹が未婚のまま子供を産んだ事について、厳しい父が毎日のようにいつまでもモンクばかり言っていたからだそうだ。
僕も厳しい父とは疎遠だ。
母たちが居なくなれば、僕は天涯孤独になってしまう。
そう言えば、湘南に住んでいた頃のサーフィン仲間である横須賀出身のN島さんは、両親を早くに亡くしていて天涯孤独であったが、僕は、まだ天涯孤独になるのは少々寂しい。

そこで僕(当時26歳)は、母たちを探すための旅に出る事にした。


(以下は次回に続く)



【写真:本文とは無関係。
過日サーフィンをした某海の波。】
◆新・からっぽ禅蔵 別録~波乗り雑記帳2~

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