新・からっぽ禅蔵

上座部仏教僧としてタイで修行の後、日本の禅僧となった、水辺を愛するサーファー僧侶のブログ。

水の惑星

2016-12-19 16:13:41 | 日記
久しぶりに、ブログを更新する。

僕は、僧侶としてのお勤めが、以前にも増して忙しい。
しかし、一方で、ここ最近 時間があれば僕は海にいた。

僕が海で何をしていたかは、今はナイショにしておく(笑)

だが 元サーフィン歴20年の僕としては、海上の自由さを久々に実感し、同時に、ガチガチに固まっていて動かない陸上の固定観、その感覚を思い出した。

そう。
ゆらめく海上に長時間いた人が、急に陸上に上がると、動かない地上に違和感を感じる事がある。

ただ、もしかしたらこの感覚は、ベテランサーファーや、船乗りなどにしか分からない感覚かも知れない。

が しかし、本来 我々人間は、動き回る母親の体内の羊水の中にいて、動かない地上に産み落とされたとき、泣きわめき、そして生老病死の苦しみが始まるのである。(仏教でも一切皆苦と教えている)

いずれにせよ、禅僧である僕は、行雲流水(こううん-りゅうすい=行く雲、流れる水)の如く、臨機応変に自由自在でありたい。

もっとも、本来 僧侶というのは、ガチガチに定められた戒律を厳守するばかりではなく、恐ろしく厳しい上下関係の中で生きているので、「自由自在」からは最も遠い存在かも知れない(笑)

僕は、宗教的な能書きや自己暗示で、「禅の修行にこそ自由がある!」と思い込む事はしたくない。

では、「自由」をどう定義するか?

今は、J・S・ミルの『自由論』や、ルドルフ シュタイナーの『自由の哲学』等々には触れない。

が、少なくとも一般的に言うところの自由とは、「他者からの束縛や圧力を受けずに、思うままであること」であり、それは、教育や洗脳や修行の度合いに関わるものではない。

遥か昔、唐の時代の中国には、自由な禅僧がいた。
彼の名は、天然という。
天然は、思うままに僧堂(坐禅堂)の聖僧(坐禅堂に鎮座する仏像)に馬乗りになって股がって喜んだり、また、寒い時には、木製の仏像を焼いて焚き火をして暖を取ったとされる。
このバチアタリなほど自由な行為は、当時の中国の禅院では認められた。
いや、認められたどころか、寧ろ高く評価された。

しかし、現在の僧堂で、我々禅僧がそんな事をしたら どうなるか?
おそらく、その僧堂の古参たちにブチ殺されてしまうだろう(笑)

つまり、およそ自由などとは程遠いのは明白だ。

まあ、それはともかく、以下は本題。

紆余曲折の後に、僕がK大学で禅と仏教を学び、禅僧となるよりも ずっと以前、僕がまだ無学で愚かな不良少年だった頃、僕は、書店で、たまたま一冊の本を手にした。
その本の題名は、『スーパーネイチャーⅡ』。

この本は、ライアル・ワトソンという生物学者が書いたものを、内田美恵さん+中野恵津子さんの日本語訳で、日本教文社から出版された書籍である。

内容を一言すれば、「あたりまえ」と思っているような自然な現象の1つ1つが、実は、奇跡のような現象なのだというもの。
換言すれば、この現実の日常こそが奇跡だ、と言っても良いかも知れない。

さて、ライアル・ワトソンの著書では、『スーパーネイチャー』・『スーパーネイチャーⅡ』のほか、『ネオフィリア』や『水の惑星』などが面白い。
更に言えば、彼の師であるデズモンド・モリスの『裸のサル』も見のがせない。

デズモンド・モリスは、次のような主張をしている。

「多くの人間は、自分たち人類は他の生物たちより優れていると思い込んでいる。だがそれは間違いだ。人間も他の生物たちと同等。その意味で人間は、体毛の薄くなった裸のサルでしかない」と。

さて、今ここでは、ライアル・ワトソンの『水の惑星』から、幾つかの言葉を引用し紹介したい。

「水は自由奔放に姿を変えていく。繊細で幾何学的に精巧な一片の雪、空を覆う荘厳な雷雨、砕け散る波の強烈なエネルギー、束の間の虹の比類なき美しさ、そして無限の海の眠りに誘うような広がり(以下省略)」

「科学的に言えば、水は変わり種だ。液体の方が固体、つまり氷より密度が高いというもの変わっていて独特だが、固体、液体、気体の3つの状態をもち合わせる化合物となると、水のほかにはまったくない。また強力な溶剤でもあるので、長い時間をかけて地上のあらゆるものを溶かしてしまう。何ものも、水の力をのがれられない。このユニークな物質は、無色にして無味無臭。乾いた砂にさえ15%の水分が含まれているし、地表の71%までが水に覆われている。まさに、水は地球を丸ごと潤している(以下省略)」

「水と生命、このふたつは切り離せない関係にあるらしい。われわれは水より生まれ、水によって活かされている。」

いかがだろうか?

彼の主張は誤解を招きやすい表現を含むようにも感じる。
しかし、通常、多くの人達が水に対して無関心である事に対して、実は僕らの周囲、及び、僕ら自身は、多くの水分で構成されている、という事実に目を向けてみようよ、というのが、彼が伝えたい事のように思う。

僕が、海や河や湖などに魅力を感じ、水に引き寄せられるのは、単に僕が元サーファーだからではなさそうである。





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