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象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

一瞬を生きる・・・映画「春に散る」に思う

2025年03月12日 04時17分36秒 | 映画&ドラマ

 どうしても、ボクシングをテーマにした映画は、舞台上の演出され過ぎたパンチの”撫で合い”になり、最後には感動と興奮を誘うものが多い様な気がする。
 所詮はフィクションであり、興行的に成り立たないと映画産業は潰れる。が、こうした延々と続く殴り合いを美化し過ぎれば、違和感を感じなくもない。
 勿論、戦争や紛争に比べれば、リング上の殴り合いとは言え、ボクシングは厳格なルールに守られたスポーツの1つであり、試合毎に数多くの死傷者が出る訳でもない。

 因みに、文部科学省(2012年)の”中高の部活中に起きた死亡・重度障害事故”の競技別発生件数(10万人当り)では、1位の自転車(29.29件)、2位ボクシング(18.13件)となり、3位ラグビー(7.3)、4位の柔道(4.8)を大きく上回る。但し、小学校を含めた体育の授業では陸上や水泳も多いとされる。
 一方、一般のスポーツでは登山が年間300人を超える死者を出す事から、”ボクシングだけを危険扱いするな”との一部の声もある。しかし、世界医師会は”ボクシングは他のスポーツと違い、頭部にダメージを与える事を目的とする”事を問題視し、”ボクシングの他にMMAやキックも含めた格闘技を禁止すべき”と訴えている。


潔く散るだけが人生なのか?

 一方で、人生は破壊でも崩壊であるべきでもない。だが、ボクシングに限らず、多くの人生は失敗と敗北の積み重ねでもあり、が故に、出来るだけ損失や損耗を避けようと賢く生きる必要がある。
 しかし、自分に真正直に生き、桜の様に”潔く散る”というのも、古来から伝わる日本人の誇れる美学でもある。
 映画「春に散る」(2023)は、ボクシングに半生を賭けた2人の男の物語である。
 不公平な判定で負けた事をきっかけに渡米し、40年ぶりに帰国した元ボクサーの広岡仁一(佐藤浩市)と、同じく不公平な判定負けで心が折れた若きボクサーの黒木翔吾(横浜流星)・・・2人とも”燃え尽きれなかった”という点では一致していた。
 最高の結果であれば、若い男は屈辱を晴らし王者になってお叫びを上げ、老トレーナーは長年の夢が叶ったと涙を流し、劇場は感動と興奮の渦に包まれる。そうでなければ、2人は静かにリングを去り、一方はそのまま死を待つだけの人生を送るだろうし、もう一方は別の人生を模索するだろう。
 事実、この映画では両方の結末が交差する。

 屈辱と損耗を積み重ね、人生を燃え尽くしてまでも栄光と勝利を追い求めるのか?それとも、将来を考え、家族の事を考え、燃え尽きる事なく、後悔に悩みながらも長い人生をズルズルと過ごすのか?
 両者共に、死ぬまで続く険しい勝負には変わりはない。勝利と敗北、成功と挫折、波乱と平坦・・そのどちらを選択しても厳しい道のりになる事に変わりはない。
 つまり、人生とは目先の損得や長い目で見た期待値だけでは、計算できない何かが隠されているのだろう。

 ”俺には今しかない”と縋る、ブランクと訳ありボクサー黒木と、”オレには先がない”と嘆く、重い心臓病を患う元ボクサーの広岡・・・互いに心に傷と致命傷を抱えながらも、2人の目的と野心は世界タイトル奪取との1点で一致する。
 最後には、”2人で世界王者になる”という夢は果たされ、その代償として黒木は右目を失い、ボクシングを辞め、新たな社会人として再スタートする。一方、広岡は桜の木の下で1人自死する。

 勿論、フィクションとしてみれは感動的なシーンにも映るが、その後の黒木という若者の将来を考えると・・・少し考えてしまう。
 それでも、亡き父のジムを受けついだ女会長の真田令子を演じる山口智子がとても懐かしく、往年のトレンディーな雰囲気が眩く、新鮮な存在に映ったのが救いだった。
 試合前は、”貴方は自分の為に黒木君の人生を潰そうとしてるだけよ”と訴える彼女だが、黒木が王者になった時には、子供の様に喚き叫び、我を忘れて興奮し、大喜びする。
 試合後、黒木が入院する病院で母親から”失明すると知ってて息子をリングに上げたのね”と責められ、広岡は静かに病院を去る。まるで、闘いに破れ去り、全てを失ったボクサーみたいに・・・
 ”貴方らしいわね”と令子が囁くと、”少し桜を見たくなった”と、広岡は力なく呟き、その満開の桜の下で他界する。


原作との違い

 確かに、エンディングとしては美しいし、潔しすぎる。
 後から知った事だが、沢木耕太郎さんの同名小説が原作だという。どおりで凝ってると思ったが、映画で見れば、沢木さんらしさが失われてた様にも思えた。
 「一瞬の夏」(1981)からすれば、「春に散る」(2016)は穏やか過ぎたのだろうか?私には少し物足りなくも感じた。勿論、小説を読んでいないので何とも言えないが・・

 オープニングで魅せた広岡のクロスカウンターは完璧で見事だったし、その彼が過去に同じジムで凌ぎを削ったボクサー仲間を自宅に招き、老後の暮らしを互いに見つめ直そうと、終活に取り組む過程は暖かくも思えた。
 一方、佐瀬健三(サセケン)役で出てる片岡鶴太郎がボクシングの世界の殺伐感を巧く和らげてた様に思う。
 所詮、人生は1人じゃ生きられないし、老人1人では何も出来ず、野たれ死ぬしかない。若い時に失った夢をかつての仲間と追いかける事で、限られた”最後の人生を尽きたい”と願う広岡に満開の桜は微笑んだのである。
 その事は、ボクシングの世界王者になるという夢よりもずっと尊く美しい事だったのかもしれない。

 そこで、なぜ映画では原作と異なる設定になったのか?を「映画と原作小説の違い3選・・」から、その違いを纏めます。
 先ず1つ目は、小説では元ボクサー広岡の目線から描かれてるのに対し、映画では黒木の目線と広岡の目線の両方から描かれている。これが一番の違いで、私が不足に感じた部分である。それに小説では、広岡が(引退して身寄りのない)元ボクサーらの為にシェアハウスを作ろうという話から始まる。
 2つ目は、小説では黒木は父親がジムの経営者で恵まれた環境の設定となり、豊かであるが故に生きる道を失った存在として描いている。一方映画では、貧困家庭のシングルマザーの元で育った設定となり、母親への優しさがボクシングをする原動力となる。
 3つ目は、小説では不動産屋で働く、複雑な過去を持った佳菜子(橋本環奈)だが、映画では広岡の姪で、子供の頃から父(広岡の兄)の世話をする設定だ。

 この様に、映画と小説が(設定の部分で)大きく異なった理由として、監督が”今を生きる”に焦点を当てた事が挙げられる。
 小説では、引退した老ボクサーの限られた残りの人生を中軸にして、過去の自分に似た若きボクサーと出会う事で運命が変わっていく様が描かれている。
 一方、映画では”今”に重きをおいた為に、若きボクサーの情熱的な躍動や盲目にも映る欲望に傾倒する様子を生々しく描く。が故に、黒木が貧しい出自である方が”今”を生きる力強さと危うさが等身大に伝わってくる。

 事実、監督は”今回は<老いと若さ>がテーマで、沢木さんが昔なら若い側にいたと思いますが、今は沢木さんだけでなく、僕も浩市さんも老いの側にいる。そういう世代から残された時間を生きるとは何ぞやを考える。一方で、若い世代はその世代の別の取り組み方がある。この映画がそういう事を考えるきっかけになればと思います”と語る様に、老年ボクサーと若きボクサーの2つの視点が必要だったのだろう。


最後に

 勿論これに異論はない。
 ただ、それでも不足を感じるのは何故だろうか? 
 それは、広岡の老いと黒木の若さにはある種の属性のの違いを感じたからだ。つまり、質感の違いと言ってもいいだろうが、広岡の若い時の”今”はもっと重厚な悲壮感に包まれ、渇いた何かがあった筈だ。
 それに比べれば、現代の若者である黒木のそれは、刺々しく荒っぽくはあるものの、浅薄で軽薄にも感じなくもないし、少なくとも渇いた何かは存在しない。例えば、母親への優しさと貧しさが、自らをプロボクサーの道へと向かわせる原動力だとすれば、これほど単純な構図もない。

 本当の沢木さんは、何不自由なく育った若者(黒木)の脆さと優しさを、老ボクサー(広岡)の視点で見つめていたではないか。
 事実「一瞬の夏」では、カシアス内藤の”脆さ”と優しさを自分のそれと同化し、ルポルタージュの大作に昇華させた。
 エディ・タウンゼントをして”最高の逸材”と言わしめた内藤が世界を獲れなかったのは”脆さのせいである”と・・沢木氏は自分に言い聞かせたのである。
 つまり、広岡は黒木の脆さに自分を見出し、黒木がどう生きるべきか?何を選択すべきか?を教えたかったのではないか・・
 しかし映画も小説でも、”老いと若き”の2人が夢見た世界のベルトを獲得する所で、幕が降りるのは同じである。

 個人的には、ごく普通の若者(黒木)がその脆さが故に見事に美しくも散っていく様を描き、またそれを見届け、静かに満開の桜の元で死に絶える老人(広岡)をカメラが追う所で幕を閉じてもと思わなくもない。いや、それじゃ出来すぎだろうか・・
 でも、若い時の沢木氏だったら、燃え尽くす様な人生を描きたかったんではないだろうか?少なくとも、カシアス内藤に注いだ沢木氏の熱い視線とは異なる様に感じた。
 私が不足に思うのは、そういう所にある。


補足〜ボクシングと脳障害のリスク

 1890年から2011年の間に1604人のボクサーがリング禍によって死亡し、年間平均死亡者数は13人との調査結果がある。
 一方、マニュエル・ベラスケスによる死亡事故資料によれば、判明してるだけでも1865人を数えた(2011年10月時点)。
 1986年以降の29年間の平均では、千試合当りのプロボクサーの死亡事故は0.41件(0.041%)とされ、冒頭で紹介した部活での死亡率(0.018%)と大きな開きはない。だが、死亡率は低くとも、負傷率は17.1~25.0%と他のスポーツよりもずっと高くなる。

 頭部を集中して攻撃するボクシングというスポーツが頭部に致命傷を負い易いという議論は無視できる筈もない。一方で、スパーリング時のヘッドギヤ装着だけでなく、極度の減量や分厚いグローブが脳に深刻なダメージを及ぼすとの医学上の報告もある。
 確かに、映画みたいに両者が延々と、36分間フルラウンドで殴り合ったら、毎晩の様に脳障害で死傷者が生まれるだろうか。ボクシングをスクリーン上で綺麗事の様に演出するのは勝手だが、何でも度が過ぎると取り返しのつかない事になる。
 過去の「ロッキー」シリーズでもそうだが、素人の殴り合いみたいなボクシングはやるべきではない。つまり、感動と興奮を呼び覚ますだけの為に、ボクシング映画を作るのは”死に急ぐ”いや”人生を急ぐ若者”を見てる様で、どうも私には耐えられない。

 因みに時代別で見れば、1800年以前は僅か37人で、1820~80年代も26~42人とほぼ横ばいだったが、90年代に134人に急増。1920年代の223人をピークに1980年代の83人と下降するも、2000年代には103人に増加した。国別では、米国(871人)、英国(333人)、豪州(155)、メキシコ(53)、日本(47)、フィリピン(40)、…とボクシング大国が名を連ねる。
 また、死亡事故が起きたラウンドは6Rと10Rが最も多く、10Rまでが8割近くを占める。階級で言えば、選手層の厚さに比例し、ライト級を中心に正規分布を描く。死亡原因は頭部損傷が8割で、リング上で死ぬケースが75%を占めた。

 一方、プロボクサーの死亡平均年齢は23.1歳。アマチュアのそれは20.5歳で、試合中の死亡はプロが68%、アマが22%を占めた(9%はトレーニング中に死亡)。
 また、勝った(引分け含む)選手の5.4%が死亡し、タイトル戦での死亡率は4%だった。
 更に注意すべきは、1950年から2011年にかけ、東京だけで26件の死亡事故が起き、世界で最もボクシングでの死亡事故が多い都市となっている。
 つまり、ボクシングは映画で見るよりも、ずっと怖いスポーツなのだ。
 それでも一部の若者がプロボクサーに憧れるのは、人生ではともかくリングの上では”自由に羽ばたける”からなのだろうか・・

 


2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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燃え尽きるという事 (paulkuroneko)
2025-03-12 13:43:30
沢木耕太郎さんは
人間には3通りあって、”燃え尽きる人間”と”そうでない人間”と”いつかは燃え尽きようと思う人間”がいる。
1番多いのは3番目のタイプで、その”いつか”は永遠に来ないと語っています。

今に聞いてもズシンと来る言葉ですが、「桜に散る」の”散る”は”燃え尽きる”とは少し違うような気もします。
事実多くの若者は、燃え尽きないまま人生を終えるのが普通ですよね。
ボクシング渦もそうですが、心半ばで運悪く死んでいくボクサーも多い筈です。
カシアス内藤さんの場合は、天賦の才能が燃え尽くす前に他界されたような気もします。
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paulさん (象が転んだ)
2025-03-12 20:29:08
全く同感です。
沢木さんにしても、その”いつか”を模索する為に、カシアス内藤さんに関するルポルタージュを「クレイになれなかった男」と「一瞬の夏(上下)」と「カシアス」の3部作にして書き上げました。
沢木氏も燃え尽きたいと思って書いた筈ですが、内藤氏と同様に燃え尽きる事は出来ませんでした。

今回の「春に散る」は燃え尽きる事のできなかった沢木氏が”散る”事をイメージして書き上げたフィクションだったと思います。
ただ内藤の時代とは違い、今は世界を獲るハードルが低いですよね。
故に、若者が世界王者になる設定になったんでしょうが
夏に朽ちた内藤と春に散った広岡の対比は絶妙とも言えますね。
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