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象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

蒲池一族の滅亡と龍造寺隆信の野望(その3)〜柳川城陥落と本家蒲池氏の壊滅

2025年07月04日 15時47分10秒 | 戦争・歴史ドキュメント

 前回「その2」では、毛利氏の九州進出により”多々良浜の戦い”において大友氏は毛利氏を撃破。更に大友氏は龍造寺軍を佐賀城に囲い込むも、”今山の戦い”では奇襲を練り、見事に討ち破った龍造寺隆信は復活。その後、”耳川の戦い”で島津氏に歴史的大敗を喫した大友氏は衰退。その後、領内の有力武将の大半を失い、かつては九州の半分を制圧した大友宗麟だが豊後に逃げ帰り、九州制覇の野望が潰えた所までを述べました。
 やがて大友氏や島津氏と並ぶ九州三強にまで成長した龍造寺だが、一方で最大の肥後者毛利氏を失った隆信は大友氏に対抗する為に、筑後国の最大勢力である蒲池氏への接近を画策し始める。その一方で、蒲池鎮並も”耳川の戦い”で父盛が出陣し、龍造寺との連携を模索してたから、隆信には余計に都合が良かった。
 この頃の隆信は肥前国全土をほぼ制圧し、大友軍の”耳川の敗戦”を聞くや、その僅か7日後(11/9)には、2万の大軍を率いて筑後へ侵攻。龍造寺は島津氏と内通し、更には柳川城主で本家蒲池氏の鎮並を手懐け、幕下の礼を取らせて公然と連携を取っていた。まさに、柳川城陥落と蒲池一族の壊滅は計画通りの行動でもあった。


蒲池鎮並の孤立と愚行と龍造寺隆信の躍動

 一方で、蒲池分家(上蒲池氏)の山下城主・蒲池鑑広らは龍造寺には従わず、龍造寺の攻撃を想定し、城内に立て籠もる。山に囲まれた山下城(八女郡立花町)は厳しい地形にあり、鑑広の徹底抗戦もあって、龍造寺軍は長期戦を強いられ、1579年5月に始まった山下城攻撃は約7ヶ月間にも及んだ。
 一方、この間に北肥後を攻略する為に、龍造寺は幕下においた蒲池鎮並を先兵として送るも、その待遇に不満を抱き、時折戦場を離脱。これが龍造寺の怒りを買い、隆信との関係も悪化し、鎮並も自身の選択を後悔する様になる。
 そんな思いとは裏腹に、龍造寺の勢いは増すばかりで、筑後・肥後の制圧は一気に進み、山下城に孤立し戦意喪失した鑑広は降伏し、和睦が成立。その後、龍造寺は久留米の高良山に本陣を移し、筑前の秋月氏と筑紫氏を説き伏せ、筑後十郡と肥後北部を完全制圧する。
 翌1580年、蒲池宗雪の死後僅か1年で筑後国の情勢を一変させた隆信だが、意気揚々と佐賀に戻り、一方で龍造寺軍に散った筑後の武将らは宗雪の死を惜しみ、鎮並を罵った。お陰で鎮並は、筑後勢と龍造寺勢の双方から孤立する様になる。

 そんな鎮並だが、元々不和だった蒲池分家が龍造寺により本家よりも優遇されてる事の不満もあり、昨年暮れ頃に龍造寺への離反を決意。だが、今や堕落した大友宗麟に頼る事もできず、新家督の義統では心もとない。故に、残る選択肢は島津氏だけであった。
 時代を遡れば、蒲池氏と島津氏は特別な関係があり、特に鎌倉時代の”地頭系蒲池氏”では、初代蒲池久直、行貞、行末、行房と4代に渡り継承されたが、2代目行貞は薩摩で島津氏の先祖忠平と共に盗賊と戦い、討伐した功績により黒島と平島を与えられ、4代目行房は薩摩国の川辺郡の惣司になった様に、薩摩国とは密接な関係にあった。だが、今や大友氏を下した島津氏は、豊後だけでなく肥後にも勢いを伸ばしつつある。

 つまり、龍造寺に対抗できるのは島津氏しかいない。だが、口の軽い鎮並はこの計画を周囲に漏らし、叔父(鎮並の母の弟)で”耳川の戦い”の後に龍造寺側に翻った筑後鷹尾城主の田尻鑑種の耳に届く。 
 但し、この田尻鑑種も酷い男である。かつては”筑後15城24頭の旗頭”と呼ばれた名門蒲池氏を守るべき立場にありながら、龍造寺の手先になり、身内に多大な犠牲を出しながらも、悔いるどころか、今や龍造寺から離反し、島津氏と内通しようとしていた。
 全く、鎮並の愚行も情けないし、隆信の残虐な蛮行も末恐ろしいが、単なる思いつきで動く鑑種の度重なる離反もまた情けない。
 ここにて、田尻鑑種は鎮並を本家蒲池氏の家督から引きずり下ろす決意を固める。今や大友氏が衰落したと言えど、蒲池氏は、龍造寺に島津氏、大友氏という三大勢力に囲まれ、危い綱渡り外交を行わざる負えなくなり、やがて九州は勢い著しい龍造寺と島津氏の激突を迎えようとしていた。

 特に、1580年2月に始まった龍造寺の蒲池氏への攻撃は苛烈を極め、隆信の息子政家の軍と鍋島直茂の軍を併せ、計2万人余の兵で柳川城を包囲。だが結局、”柳川は3年、肥後は3ヶ月、肥前筑前は朝飯前”と謳われた難攻不落の柳川城を1年近く掛かっても攻め落とせず、隆信は田尻鑑種を仲介に、蒲池氏と一旦は講和を結ぶ。この時、鎮並は隆信との対立を決意していたが、隆信の所業の残忍さについてゆけなくなった事も大きかった。
 因みに、城内で孤立した筈の鎮並は長期戦の展開にも上機嫌であった。兵糧(昨秋の新米)と地下水は十分に蓄えられ、迷路の様に幾重にも張り巡らされた水路は、城の防御だけでなく夜間に物資を運び入れるのを容易にした。
 ”長期戦に持ち込めば、島津氏が応援に駆けつけ、筑後勢が味方に付き、大友氏も勢いを増すだろう。南北から攻めれば龍造寺はすぐに堕ちるし、肥前も手中にできる筈だ・・”
 確かに一理ある夢想だが、島津氏の北上の時期は未定で、大友氏は衰退期にあったが故に、鎮並の籠城は自身の首を絞めただけとなる。


龍造寺隆信の謀略と襲撃

 この頃になると、筑前・筑後・肥後・豊前などの4ヵ国のかなりの部分を勢力下に置いた龍造寺だが、肥後には隆信に服従しない土豪勢力が多く残存し、隆信から龍造寺の家督を突いだ政家は柳川城を包囲しつつ、肥後を攻める2正面作戦を計画した。
 翌1581年3月には、龍造寺軍が鍋島直茂を先陣に肥後へ侵攻。筑後や肥前から5万余の兵を集め、各地に配備。その後、鍋島軍の2万の兵で肥後の有力武将・赤星氏(菊池一族)を壊滅させ、肥後一円を制圧。と、ここまでは隆信の計算通りに進むが、筑前では戸次道雪(立花城主)と高橋紹運(宝満城・岩屋城両主)が荒平城(福岡市早良区)を拠点とし、筑前に配備する龍造寺勢と対峙していた。
 そんな中、隆信は柳川城の事が気になりつつも、”今出馬しなければ筑前は攻略出来ない”と、柳川城を包囲してた鍋島氏と共に、5月末に筑前へと向かい、総勢4万3千の大軍となったが、道雪と紹連の挟み撃ちを防ぐ為に立花・宝満両城間の道路を封鎖。これまた長期戦の気配を見せてたが、龍造寺全軍の総玉砕型奇襲攻撃で両軍に夥しい数の死者を出すものの、荒平城は炎上し、大友軍は戦闘不能となる。

 荒平城を落し勢いが増す龍造寺は、大友勢の筑前における最大の拠点である戸次道雪の立花城に狙いを付けるが、道雪は既に68歳で、跡継ぎにも恵まれず、反大友派の筑紫氏が間に入り、筑前国15郡のうち西南9郡を龍造寺領とする事で和睦。結果、立花城(福岡市東区)と宝満城(筑紫野市)・岩屋城(太宰府)を除き、この時52歳になった隆信だが、肥前・肥後・筑前・筑後を手中に収め、人生の絶頂期を迎える。続いて、弟を豊前に派遣し無血で3郡を手中に収め、今回の博多の出陣で隆信は意気揚々と博多から柳川へ向かう事となる。
 一方、柳川城に籠城する蒲池鎮並の戦いは依然孤立無援の中で続けられ、鎮並が裏切った大友勢も立花城の戸次道雪と宝満城の高橋紹連が抵抗を続けるだけで、今更当てにできる筈もなく、その勢いもない。また、筑前と筑後の武将らは龍造寺に服属し、更に肥後や豊後も従属し、今や鎮並は四面楚歌の状態にあったが、(前述した様に)このタイミングで田尻鑑種が調停に乗り出した。
 鎮並は1580年11月末にこれを受け入れ、正式に降伏し、和解が成立。300日余に及ぶ籠城が終り、鎮並のメンツは立ったが、この4月に家督を息子政家に譲っていた隆信には腹立たしい屈辱でもあった。更に須古城に隠居し、酒色に溺れた隆信は1人で歩けない程の肥満体になり、狂言や乱行も目立ち、鍋島直茂とも対立。これが後の島津氏との戦いに大きな失策に繋がる事となる。

 その島津氏は大友氏の勢力は(衰洛したとは言え)未だ侮り難く、龍造寺勢力が薄い南肥後から北進し、肥後を攻略すれば筑後の柳川城を北部九州制圧の戦略拠点にできると踏んだ。故に、蒲池氏へ関心が高まるも鎮並は既に龍造寺に降伏し、一旦は諦めかけたが、念の為に服属申し出の書状を送ったのだが・・
 殆ど諦めてた所に、島津氏からの服従の催促状が届き、息を吹き返した鎮並だが、隆信との和解後僅か1ヶ月足らずで龍造寺からの離反を再び企み、島津氏に手紙で服従申請の趣旨を送り、その内容は隆信の異常人格を攻撃するもので、計らずも隆信の耳にも届いていた。

 ”ここに鎮並を抹殺する時がきた。だが真正面から攻め入っても昨年の失敗を繰り返すだけで、佐賀に巧く呼び寄せて討ちとるのだ”
 翌1581年5月、”昨年我々は和解をし、今や親子の間柄です。猿楽の名手とされる貴殿を招いて友好の宴を催したいので、佐賀にお出で頂けないでしょうか”と、隆信の言葉を丁重に伝え、鎮並を佐賀に誘い出そうとした。だが、隆信に不審を抱き、島津氏の返答を待つ鎮並は病気を理由に一度は断り、母(田尻の姉)も同様に反対。
 そこで、龍造寺は使者を遣い、鎮並の母と義兄の鎮久、妻(隆信の娘=玉鶴姫)を何度も慎重に説得し、鎮並もその熱意と誠意に折れた。
 ”隆信とは婿舅(むこしゅうと)の関係であり、娘と孫の愛情もあるし、よもや舅が娘婿を謀殺する事はあるまい”と、鎮並は母と妻と兄の説得を受入れ、5月末には猿楽座百人と家臣2百人を引き連れ、柳川城を出発する。


柳川城陥落と塩塚城の惨劇

 当然、蒲池氏の士族の中には反対するものも多かったが、鎮並は”相手にも内心の情はある筈だ。気持ちは判るが、私も色々と考える所もあるし、天運があれば怖れる事はない”と笑って応えた。ただ一説には、鎮並の側室(玉鶴姫)が先に佐賀に行き、隆信の悪巧みに気付き、密使を遣わず自ら柳川に帰った為に鎮並とは行き違いになり、隆信の謀略に嵌ったとされる。
 因みに、龍造寺は以前にも、鑑広から蒲池分家の家督を継いだ鎮運を謀殺する為に、隆信の姪を妻に迎えさせて、佐賀に誘き寄せた。だが、異変を感じた鎮運は多くの軍勢を引き連れてた為に、隆信は謀殺を実行できず、無事筑後へ帰還できた。が故に、以降これが教訓となり、龍造寺は巧みに鎮並を誘う事に成功するのだ。

 ともあれ、幾重にも運に見放された鎮並は1581年5月25日に村中城(佐賀城)に到着したが、初めて見る佐賀の壮大な町並みに圧倒され、その晩に開かれた宴会では、龍造寺政家と鍋島直茂が同席し、極度の緊張が襲ったが2人の態度に打ち解け、酔いも回り、楽観的気分に包まれ、深夜にまで及んだ。だが、鎮並は同席した兄鎮久を使い、龍造寺側の腹心を巧みに探らせ、謀殺の心配がない事を確認し、宿舎の佐賀城北本行寺に戻り、翌日中は宿舎に滞在した鎮並だが、龍造寺への疑惑が晴れたお陰で、終始上機嫌であった。
 そして運命の27日、鎮並一行は隆信への謝礼の為に須古城(佐賀白石)へと向かう途中、佐賀城北の与賀神社の馬場で龍造寺の軍勢に四方を囲まれる。隆信が差し出した龍造寺軍は僅か2百人の蒲池勢を取り囲み、鎮並は”思った通りだ。兄を信じたお陰でこのざまだ”と鎮久に責任転嫁したが、返す言葉もない鎮久は忠誠を示す為、敵軍に矢を解き放ち、”7度生まれ変わっても龍造寺を怨んでやる”と、敵中に斬り込んだ。
 そこに、鍋島氏の遣いが”降伏すれば命は助ける”との趣旨を鎮久に伝えるも、それを拒絶し、敵中で討死。鍋島直茂は妾の子で家督を相続できず、無能な弟に仕え蒲池家を支えてきた鎮久に恩情を掛けたのだが、結果として173人の兵が犠牲となり、与賀神社の堀は遺体で埋め尽くされ、真っ赤に染まったという。
 追い詰められた鎮並は、近くの民家に隠れ、心静かに沐浴した後、切腹し自決(享年34歳)。因みに、「その1」の冒頭で指摘した様に、与賀神社の解説板の文章は明らかに史実を歪曲して作られている。例えば”どんな行き違いであったか”という他人事ではないし”やむなき会戦”でもない。

 更に龍造寺隆信は、鎮並を謀殺するだけでは飽き足らず、筑後国鷹尾城主の田尻鑑種に柳川城に残された蒲池氏残党の完全討伐を命じた。一方、柳川城を守っていた鎮並の末弟総春は本家蒲池氏一族の滅亡を案じ、龍造寺への忠誠を示す為に柳川城を退去し、城主を隆信の義弟で重臣でもある鍋島直茂に明け渡した。
 その後、田尻氏の支持に従い、蒲池総春や鎮並の妻(玉鶴姫)を含む百余人は柳川城を出て、佐留垣城(柳川市大和町皿垣)に逃げ籠もり、鎮並の次弟総安は男女5百余人を連れ、柳川城の支城・塩塚城(同塩塚)に籠もった。
 同年6月1日、田尻氏はまず鎮並の母(田尻の姉)と6歳の次女(蒲池統虎→久鎮)を鷹尾城に引き取り、2700人の兵で塩塚城を攻撃。元々、蒲池氏と田尻氏はほぼ同族で”同じ討たれるなら・・”と、親族同士が討ちあい、5百余人全員が僅か2時間ほどで死絶。更に、田尻勢にも死者108人、負傷者836人という甚大な死傷者を数えた。
 因みに、蒲池統虎は後に田尻氏の命で逃げる途中で殺されたが、その名跡は鎮並と首藤氏の娘との間に生まれた蒲池鑑続が継ぎ、系譜上では本家蒲池氏の子孫となる。


蒲池一族の壊滅と、その生き残り

 こうして塩塚城が陥落したが、更に隆信は、田尻氏領内の佐留垣への攻撃を指示する。が、鑑種は”それでは約束が違う。総春が死ねば蒲池本家は絶滅する”と必死に懇願するも、猛獣と化した龍造寺は牙を剥いた。
 これには鑑種も逆らえず、念仏を唱えながらも蒲池一族を攻撃。塩塚城の惨劇と同様に、同族同士の討ち合いが始まり、瞬く間にその多くが死滅。残された婦女たちも全員が自刃した。但し、蒲池総春を頼って近くの民家に何とか逃げ延びた玉鶴姫だが、3歳になる幼児を抱いたまま追手に見つかり、共に自決。ここに佐留垣城も陥落。1581年6月3日、400年の歴史を持つ本家蒲池氏は壊滅した。

 一方、田尻鑑種は討ち取った蒲池勢全員の首を切り、3つの船にのせ、須古城へ送ったが、隆信はそれらの首を1つ1つ検分したという。
 お陰で、龍造寺隆信の残忍性は異常の域に達し、その名は広く知れ渡り、龍造寺からは確実に人心が離れていく。更に、隆信の残忍さを批判する声は筑後だけでなく、地元佐賀ても起きていた。
 事実、龍造寺四天王の一人百武賢兼は”鎮並の謀殺は必ずや龍造寺家を滅ぼすであろう”と涙ながらに語ったという。
 後に龍造寺氏が没落し、鍋島直茂の下に肥前の勢力が再結集されたのも、隆信の残虐非道な性格に起因した。事実、筑後の武将らは密かに島津氏と通じ、或いは大友氏に協力し、最終的に蒲池氏を受け継いだ立花宗茂の領地となる。つまり、龍造寺が支配した地域の民は全て、隆信に背を向けたのだ。
 勿論、精神異常のサイコキラーと言えばそれまでだが、それにしても残酷すぎる。

 本家蒲池氏は絶滅し、これにより、鎌倉時代以来の名門蒲池氏は滅亡し、名家の歴史を閉じるのであった。
 しかし、龍造寺隆信による本家蒲池氏絶滅の中でも生き延びた子孫らがいた。
 後に、長崎に落ち延びた鎮並の正妻(赤星統家の娘)との間に生まれた娘(長女)の徳姫(徳子)で、龍造寺勢に攻め込まれた時は14歳になっていたが、運良く工女らに守られ柳川を脱出し、有馬晴信の領地である島原半島へ船で渡ったとされる。
 因みに、有馬氏も龍造寺により圧迫され、娘を政家の妻として差し出し、何とか和睦したが、多くの所領を奪われ、家臣を失い、龍造寺には復讐を誓っていた。そんな有馬氏は娘の内情を知って深く同情し、大友氏の重臣・朽網宗暦の子鑑房の妻に迎えた。その子孫には「蒲池物語」を著した蒲池豊庵(久留米藩)や朽網氏の名跡を継いだ朽網鎮武らがいる。

 2人目は、豊前に落ち延びた鎮並の2男・宮童丸(後の蒲池経信)で、祖母で蒲池宗雪の正妻貞口院に保護され、豊後日田に土着し富裕郷士となる。3人目は(直系ではないが)鎮並の義兄・鎮久の子の熊千代(後に蒲池貞久)で、塩塚落城の際には母と共に農民らに匿われ脱出。その後、隆信の残虐行為を償うとした龍造寺家晴の家臣となり、家晴が諫早の領主になった時、貞久も諫早に住み着いた。
 4人目は鎮並の弟・統安の子(次男)で、物乞いをしながら彷徨い歩き、やがて英彦山に辿り着き、修験僧として池坊氏(宗信→豪鎮)になり、難を免れた応誉である。
 その後、柳川藩主となった立花宗茂に招かれ、家老格の武家となり、宗茂の正室誾千代の菩提寺(良清寺)を開く。応誉の子孫は代々住職を勤め、蒲池氏を再興。一族は藩士として寺を守り、現在に至るが、この一族の子孫が松田聖子(蒲池法子)である。
 一方、蒲池法子の父は良清寺(柳川市)の先代住職の弟だが、柳川市から久留米市荒木町に移り、17歳まで久留米市で育った。蒲池鎮並のは長女徳子は”のりこ”とも読むが、蒲池法子(のりこ)は徳子から来てるのだろうか。


龍造寺隆信に対する謀反と田尻鑑種の蜂起

 難攻不落の柳川城を開場させ、新たに鍋島直茂を城主とした龍造寺だが、薩摩・島津氏の勢力は確実に北進を続け、北肥後から筑後南にまで勢力を伸ばしていた。
 一方、自らの手で蒲池一族を死滅させてしまった田尻鑑種だが、この時点では龍造寺に敵対する気はなかったが、隆信は680町(6800石)の領地を与え、信頼を得ようとした。ここにて筑後で最有力となった田尻氏だが、蒲池一族の怨霊に苦しめられ、以後は夜を恐れる老人に成り果てる。
 翌1582年2月、筑後国の城主らが柳川城主の鍋島氏に反旗を翻すも、直茂の大軍はそれぞれの城をを包囲し、和睦を結ばせた。一方で筑前では、相変わらず大友派の戸次道雪と高橋紹連が龍造寺勢や秋月や筑紫らの反大友勢に対し、獅子奮迅の抵抗を続けてたが、6月になって紹連の長男統虎(後の立花宗茂)が道雪の娘婿になると、若干15歳の宗茂は秋月勢との初陣を飾り、筑後だけでなく筑前でも新たな風が吹く様になる。

 一方この頃、島津義久は田尻鑑種に接近し、肥後八代の支配を依頼し、田尻氏は承諾し、島津氏に接近。そして同年10月、田尻鎮種と蒲池分家(鎮運)を謀殺しようと龍造寺政家と鍋島直茂は彼らに接近するも、既に島津氏に翻った田尻は龍造寺勢に蜂起し、鷹尾城に立て籠って縁戚を領内の4つの支城に配し、龍造寺勢に火を放った。こうして田尻氏は宣戦布告を行うも、一方で蒲池分家鎮運は士気が低く、龍造寺側についた。
 これに対し、3万の龍造寺勢は鷹尾城に攻め込んで包囲するも、田尻勢の鉄砲隊は激しく抵抗し、龍造寺勢には多くの犠牲者が出る。痺れを切らした隆信は自ら前線に赴き、総攻撃を仕掛けるも再び鉄砲隊にやられ、夥しい数の死傷者を出して須古城に舞い戻った。政家と直茂も柳川城に退却したが、この間に田尻氏は島津氏への援軍を要請し、事態は長期戦となる。

 その後、再び辺春城主入道紹真は龍造寺に反旗を翻し、敵軍は多くの犠牲を出すも、同じ筑後勢であり士気は上がらず、辺春城は陥落。一方、鷹尾城で籠城を続けてた田尻鑑種だが、島津氏の援軍300名が到着し、田島勢の士気は大いに盛り上がり、籠城は1年3ヶ月にも及んだ。
 他方で、島津本軍も肥後南部に侵攻した事で龍造寺隆信は危機感を抱き、支配下にあった赤星統家(八代)を柳川に呼ぶように命じたが、これには応じず、隆信は人質として扱ってた赤星氏の幼い息子と娘を処刑。これに激怒した赤星氏は島津氏に”隆信を討つ”よう訴えた。
 以降、筑後の有力な武将らの心は龍造寺を離れ、鍋島直茂は隆信を説得するも狂った暴君に聞く耳はない。お陰で島津氏の勢力は増大し、熊本を落し、更に北進を続けた。
 1583年、龍造寺は3万7千の軍を送り込み、島津軍と高瀬川を挟んで対峙したが、筑前の秋月氏が島津義弘を説得し、肥後北部の分割は龍造寺に不利な条件だが、和平にこぎ着けた。また、籠城を続ける田尻鑑種にも秋月氏が調停に入り、翌年2月に田尻氏は息子を人質に取られ、鷹尾城を追い出され、所領2千石で佐賀郡巨勢に追いやられた。また、島津軍も肥後方面に退却し、田尻鑑種の実質上の敗北であった。
 その後の田尻の人生は鎮並同様に隆信に謀殺される運命だったが、運良く隆信が死去すると鷹尾城を奪還し、島津氏に寄り添うも、秀吉による九州平定後は鍋島氏に忠誠を誓い、惨めな人生を送るが、最後は朝鮮の役に従軍し病死。

 そして翌1584年3月、島津氏と龍造寺が島原半島で激突する”沖田畷(なわて)の戦い”が起きる事となる。

 かなり長くなったので、今日はここまでです。次回の最終回では、蒲池氏から立花藩に引き継がれた歴史と蒲池一族のその後を述べたいと思います。

 


8 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Unknown (tokotokoto)
2025-07-04 22:25:03
一言でいえば
悲しすぎる。
でも松田聖子はこの蒲池一族の不遇な歴史を知ってたんだろうか。 
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tokoさん (象が転んだ)
2025-07-05 01:57:17
少なくとも
両親は知ってたと思います。
蒲池鎮並の長女の徳姫(徳子)は”のりこ”と読みますから
蒲池法子と名付けたんだと思います。
いや、そう思いたいですよね。
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蒲池貞久 (paulkuroneko)
2025-07-05 17:10:25
鎮並の義兄で、その息子の熊千代(蒲池貞久)も感動的な人生でした。
柳川城陥落の際、隆信の娘を側室とする龍造寺家晴は、隆信が沖田畷の戦いで討伐された時に柳川城主となったんですね。

家晴は蒲池貞久を家臣に迎え入れますが、龍造寺一族にとって恩義ある蒲池鑑盛の孫の貞久を預かり、蒲池氏の血筋を残そうとしました。
その後、家晴が諫早(鍋島家)の領主になった時、貞久も諫早に住み着きますが
武士の恩義とは敵味方関係なく、代々受け継がれていくものです。
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paulさん (象が転んだ)
2025-07-05 19:34:34
次回で書く予定ですが

隆信が死んだ後、大友勢が息を吹き返し、筑前の戸次道雪と高橋紹運が龍造寺支配下にある筑後国を攻め込んだ時、柳川城を徹底抗戦して守ったのが家晴でした。
多分、この攻防戦にも蒲池貞久は家臣として参加したかもですが、生き延びた事で蒲池一族の
血は守られた訳です。
その後、肥前国の実権が龍造寺家から鍋島家に移ると、貞久の子孫は蒲池性を名乗ったとされます。

結局は、隆信の残虐行為は龍造寺一族の壊滅に繋がり、鍋島直茂や龍造寺家晴らの龍造寺四天王によって、蒲池家の血統が守られる事になります。
歴史と大衆は、とても正直に出来てんですよね。
コメント、痛く感動しました。
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名将と愚将 (#114)
2025-07-06 17:13:41
渋々龍造寺に仕えながら
最後は隆信を裏切り
名家佐賀藩の藩主に君臨した
鍋島直茂と

元々精神異常の暴君上がりで
戦の戦術や戦略を直茂に依存してた
隆信では雲泥の差がある

隆信が死んだ時
その首は龍造寺家に送られたが
一族は受け取るのを断ったらしい
つまり一族の恥ってことだ 
返信する
#114さん (象が転んだ)
2025-07-06 19:47:21
隆信の生首は引き取り手がなく
一応は、肥後(玉名市)のお坊さんの手で供養されたらしいです。
今は鍋島氏の墓地(佐賀市高伝寺)と同じ所にあるとの事ですが
そのお寺は私が通ってた大学のすぐ近くにあると言うから・・・

世間とは狭いもんですね(笑)。
返信する
Unknown (Carsten)
2025-07-07 06:16:27
興味深い記事をありがとうございました。筑後国出身の蒲池久直の子である行員が、薩摩国の河辺郡黒島の地を領有したという記録に関連して、薩摩における蒲池(蒲地)氏の系譜や支流(分家)に関する文献や史料が他にも存在するかどうか知りたいです。特に、この薩摩の蒲池氏に関する地域の歴史書や記録について、参考になる情報があれば教えていただけますでしょうか。
返信する
Carstenさん (象が転んだ)
2025-07-07 14:00:01
はじめましてです。
「筑後争乱記」と「筑後戦国記」や、その他様々なサイトを参考に書いてますが
歴史の専門家でもないので、詳しくはわかりません。
薩摩国と蒲池氏とかで検索するしかないですかね。
相談に乗れなくてスミマセン。
返信する

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