
私達は映画を見る時、見た印象やその結果だけで、傑作か駄作か、さもなくば良作か凡作かを判断する。つまり、”人は失敗からは何も学ばない”様に出きているのだろう。
Netflix版「新幹線大爆破」が”親の七光り”の陰でそこそこ話題になってる様に、75年版の原作が世界中での空前絶後の大ヒットになったという事を知ってるから、話題になってるだけで、ドラマに近い作品そのものが秀作か?は別ものである。
さてと、リメイク版「新幹線大爆破」のアラ探しはここまでにして、先日アマプラで配信されてた「ショウタイムセブン」(2025)についての批評です。
リメイクの出来については、映画が原作を超える事がない様に、リメイク版がオリジナル版を超える事はないと私は強く思う。が故に、リメイクする監督は”過去の栄光への挑戦”という旗印を掲げ、果敢に挑むが、その多くは挫折してしまう。
しかし、仮にオリジナルに及ばなくとも”リメイクしただけの甲斐はあった”と製作陣は自身を鼓舞したいし、見る側も原作程ではないにせよ”良作には違いない”と思いたいもんだ。
つまり、見る側の期待値とはそんなとこで、言い換えれば、異なる視点から作られたオリジナル版を新たに見てみたいというのが本音ではないだろうか。
リメイクの限界と愚作
確かに、作る側も見る側もある程度は裏切られるとは思いつつ、リメイク版に”新しい何かを見出したい”という好奇心は持ちたい筈だ。
因みに、「ショウタイムセブン」の原作は「テロ、ライブ」という2013年の韓国映画で、僅か1日違いで公開された当時の話題作「スノー・ピアサー」と興行収入を争う程に大ヒットした作品であり、タイトル同様に”テロ独占生中継”をテーマにした作品である。
事実、予告編を見ただけでも、「ショウタイムセブン」との差は圧倒的で、映画と動画以上の格差がある。何がそうさせたのかは以下でも述べるが、一言で言えば”全てが消化不良過ぎた”って事に尽きる。
確かに、韓国映画と日本映画のレヴェルと製作技術の違いと言えばそれまでだが、創造力や勢いを含め、ここまで歴然とした格差があると日本人として悲しくなる。
また、多くのレビューでは”中盤まではスリルがあって・・”とあるが、それもその筈で、中盤まではほぼ原作の「テロ、ライブ」のパクリであったからだ。つまり、創造のない所には模倣しかないし、その典型が地に堕ちた評価の目立つリメイク版である。
まず、駄作に成り下がった要因の1つに、不可解で不明瞭なエンディングがある。
最後に、犯人は”悪いのは企業や政治で、オレは悪い奴じゃないし、むしろ社会の被害者だ”と言い放ち、TV局に乗り込み、手に持ってた爆弾のスイッチを押すが、肝心のTV局が爆破されるシーンはなく、逆にTV画面ではロンドンのテロ爆破が速報として流れている。
結局、TV局が爆破されたのか、そうでないのか?犯人が誰なのか?も曖昧なままで、若い女性3人組のポップユニットが歌を披露する所で幕を閉じるが、これも製作スタッフのやる気のなさを如実に象徴している。
次に、過去に賄賂疑惑でTV局の看板キャスターからラジオ局に左遷させられた折本(阿部寛)だが、全てが彼による自作自演(ショウタイム)で、ロンドンの爆破中継もその延長だと見れば、最初からTV局に爆弾はなかったと思えなくもない。
が故に、最後で仕方なく強引にかつ中途に話を繋ぎ合わた様に見えたし、これこそが致命的でもあった。それに、折本の必死の訴えも不透明すぎて、見る側は何をどう理解すべきかサッパリである。
そもそも”ショウタイム7”という19時から生の報道番組の、その設定自体が時代遅れもいいとこである。
つまり、見るだけ無駄、いやレビューするだけ無意味とも言える愚作に近い凡作だが、そう考えると脚本の時点から致命的欠陥を抱えてたのかもしれない。渡辺一貴監督には悪いが、これは映画とはとても呼べないし、製作陣の技量にも大きな問題があると言わざるを得ない。
それに、公開まで何度も試写をした筈だが、失作とも呼べるこの作品からキャストやスタッフも含め、彼らは何を学んだのだろうか?
つまり”人は過去から何も学ばない”とはそういう事である。
勿論、映画関係者ばかりの問題ではなく、昨今の”シン”さえ付けとけば話題になる、浅薄な日本映画界に蔓延る深刻な病魔なのだろう。
最後に〜「テロ、ライブ」との決定的な違い
とにかく、「ショータイムセブン」と比べ、原作の「テロ、ライブ」は展開の中身が格段に濃密である。それに比べ、リメイク版は”ショータイム”というだけあり、ネット上にド派手に貼りつく違法サイト系バナーの如く、全てがペラペラだ。
更に、ラジオ局DJを演じる阿部寛も背が高いだけの無機質な凡人にも思えたし、「テロ、ライブ」の主役のハ.ジョンウは、苦い過去を抱えた元看板キャスター(ユン)の陰鬱を巧く演じている。
特に、序盤での小型爆弾が、説得に失敗したユンに変わった若い美人キャスターの顔を襲うシーンは圧巻であり、この時点でリメイク版とは決定的な格差が生まれた。
これもネタバレになるが、更には、犯人に不正賄賂を見抜かれてブチ切れた警視庁長官の頭がぶっ飛ぶシーンには、韓国映画の本気度と覚悟と凄みを垣間見る。
因みに投資戦略には、リスクヘッジ(危機回避)ではなく、逆にリスクを拾う事で大きなリターンを狙うオプション取引の手法(=レバレッジ効果)があるが、原作では敢えて人質の犠牲というリスクをとったタスク(作戦)が大きな鍵となる。つまり、覚悟がなければ大きなリターンは得られないし、この映画では、そういう事も教えてくれる。
更には、TVキャスター時代のユンの賄賂疑惑も複雑に絡み、犯人もそこを巧みに突き、大統領の謝罪をしつこく要求するが、ここら辺の微妙なドロドロの駆け引きも実に憎い。少なくとも、リメイク版みたいにアンケートを取り、世論を計りに掛けるなんて幼稚な事はしない。
原作を見終わって、リメイク版とは全てに違いがあり過ぎると感じた。勿論、リメイクしようという気概は評価できるが、自分の能力を超える事を望んでも、愚策を生むだけである。
つまり、気概は危害を生むだけで、今回の様な失態に終わってしまう。それは、キャストらの中途な演技からも、冷めた空気が漂ってるのをはっきりと感じ取る事が出来た。
今回のリメイクも、無謀なリターンを追い続けた挙げ句、投資に失敗し続けるトレーダーみたいに、血をダラダラ流して死ぬか?一気に死ぬか?実際、そういう運命になる様な気がする。
そう、リメイクは監督やスタッフが思う程に単純でも簡単でもない。そこには愚作という大きな落とし穴が待ってる事に誰も気付かない。いや、そんな危機感すらない。
つまり、人は失敗からは何も学ばないし、過去からも何も学べないのだ。
前半はいいんですけどね。後半が……。
掃除のおじさんの件とかは伏線だなと気づきましたし。
「テロ、ライブ」後半が違うんですね。見てみます!
覚悟がなければ、こんな映画は出来ない。
少なくとも、平和ボンボンな日本人では絶対につくれない。
言葉を失ったという点では
テロライブでの最後のシーンで、橋の建造で犠牲になった父親の息子が犯人で、その表情がとても幼く純朴に見えた所でした。
駄作に関しては、堂々と不満をぶつければいいのに、そんな事を言うと”可愛そ〜”とか”ケチばかり付けるな”とか、真逆のバイアスが掛かる。
今の若い人達は、批判する事が恥だとか罪だとかの負のイメージを持つけど、明確に直線的に批判しないと、こんな糞みたいな映画は次々と作られる。
それに、キャストもスタッフも駄作だと感じたら、堂々と不満をぶつけるべきで、それは契約で守られてる筈です。
そんな悪しき慣習を阻止する為にも批判は必須ですが、悲しいかな、この映画の謎解きをマジでやってるバ◯もいる。
事実、私のブログも”批判が過ぎる”と偶に言われますが、リスクを指摘する人がいなくなれば愚策はやり放題です。
人は失敗からは何も学ばない。だから批判すら出来ない。もう一度、批判の本質を考えるべきだと思いますね。
韓国に大きく差をつけられるんですよ
いつから日本人はゝゝゝ
反省と学習ができない人種になったんでしょうね
「ソウルの冬」でも見て、一から勉強し直して欲しいです。
昨今の日本映画と同様に、子供向けの様な謎解きゲーに凝りすぎて、映画の本質が見抜けなくなっています。
つまり、映画を含めた興行の基本はわかり易いという事で、長嶋さんがあれだけの国民的大スターになりえたのも、野球素人でも理解出来る圧巻のパフォーマンスにあったからです。
でも、東野圭吾みたいな人気だけの幼弱な原作では映画も愚作になる。
その典型の様なリメイクでした。
中身はペラペラだけど、非常に親しみやすく読みやすい点にあると思う。
だから映画にしやすいし、謎解きも複雑なだけで難しくはない。1つが解ければ全て解決するといった感じだろう。
興行という点で見ても、非常に都合のいいインスタントな小説と言える。
でもそれが傑作に繋がるか?愚策に成り下がるか?は別問題。
勿論だが、漫画みたいな小説は読もうとは思わないけど
今作の監督は、謎解きという策に凝りすぎて、知らず内に映画の本質を見失い、気が付いたら自滅した様に思えます。
そういう意味では、誰もが”3分で読める”タイプの東野圭吾の作品は映画製作者にとって非常に魅力的に映るとは思います。
ただ、言われる通り、それが傑作になるか、愚作に転げ落ちるかは監督やキャストも含めた製作陣の力量と技量に依存するかもです。
ただ、リメイクしたいと思わせるだけ原作の完成度は高いので、それを超えるどころか、凡作に終わる可能性も多いんでしょうか。
つまり、リメイクに拘らずにスピンオフの方が秀作や良作が生まれ易い様に思います。
多分転んだサンは
そういう事をいいたかったのだろう。
この映画は韓国現代史の暗部をさらけ出し、その詳細を理解させる為に、フィクションを交えて作られた。
ソウルの春になるつもりが、韓国現代史上最悪の虐殺である光州事件に成り下がる。
1980年と言えば、日本がバブル全盛の時に韓国は軍部クーデターが民主主義を打ち砕き、我が物顔の如く横行していた。
そしてその軍事政権が10年以上も続く。
まるでナチス政権が現代の韓国に蘇ったようでもある。
キムヨンス監督は、この現代の惨劇を韓国の全ての若者に知って、更に理解して欲しかったんでしょう。
一方で、複雑に見える展開も軍事反乱の中心勢力である”ハナ会”さえ抑えとけば、難しくはないです。
ハナ会とは、朴正煕大に陸軍士官学校卒の全斗煥を中心に忠誠を誓う私的組織ですが、軍事クーデターで大統領になった朴は同じ軍を警戒するも、陸軍の中核を占める私的親衛隊の存在は心強かった筈です。
が、17年続いた朴の独裁も当時民主化に関し大きく対立してたKCIAに暗殺され、”ソウルの春”と呼ぶ民主化運動が活発になります。
この映画は、その後に起きた光州事件(ソウルの冬)で幕を閉じ、再び軍事クーデターによる長期政権を許すという、矛盾にも似た悔しい結果となる。
クーデターも成功すれば革命と崇められ、失敗すれば反逆罪で処刑される。
つまり、一か八かに運命を預けた全斗煥の覚悟も評価されるべきかもですね。