甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

前近代にもどれたら……

2020年09月02日 21時40分33秒 | 私たちの社会・世界

 渡辺京二さんの「逝きし世の面影」(1998)という本を読んでいます。買ったのは2012年で、もう八年かけて読んでるけど、やっと半分の306ページくらいまで来ました。これはすごいことです。

 遅いということ? そこまで進んだということ?
ハイ、私にしてはよくここまで読んだなあという「スゴイ」なんです。なかなか読み進められない。

 第一章くらいまで読んで、すべて忘れて、ふたたび読んでみようとして、また挫折して、何度か挫折を繰り返しました。おもしろくないわけではないのに、挫折するのです。それが、今年何度目かの挑戦で最初から読み始めて、やっと半分まで来ました。

 あと半年くらいしたら、読み切れるでしょうか? どうだろうね?

 そもそも八年前か、もっと昔から、渡辺さんと同じところを低いレベルで見ていたんです。気になっていました。

 日本の、強制されたものではなくて、自然な形で進んでいた日本の人々の姿、それはどんなだったか、気になっていた。



 それは、高校生の時に読んでたはずの夏目漱石先生の「現代日本の開化」という講演にも述べられていたことでした。江戸までの自然な形を失い、この近代国家となった日本において、人々は上滑りで、地に足がついてなくて、軽薄なままに進んでいくのだ、という指摘があったのです。

 でも、それから何十年も、漱石先生の指摘がイマイチ分からないまま、いい年をしたオッサンになりました。「何だか、やはり明治から現代までの百数十年の日本は、何だか落ち着かないし、方向性は、ただの近代化しかなくて、とにかく経済が豊かで、世界と肩を並べたらいいんだ的な考えでやってきて、確かにそれなりにはなっているのに、やはり、空疎なものを感じる……。」

 それで、百年以上前に漱石先生が指摘された、日本社会は、もう自然を失った社会で、何だかいつも自らの空白感を抱えていかなくてはならない、というのを見直したかった、そのための本でした。

 渡辺さんは、当時の渡来人の目を通して、当時そこに存在した人々の姿をよみがえらせようと、あれこれ抜き書きしてくれているみたいなのです。冒頭の絵は、1953年と1954年に来日したペリーさんの遠征記にある、伊豆の下田の混浴風景だったそうです。



 明治維新から、世の中的にはものすごい変革で、それまで自然な流れで発展していた日本の社会が、西欧に対抗するため、統一国家を作らなくてはならない。国家の軍隊を持たねばならない。中央集権的な、統一の価値観を持った国民を要請し、そのためには教育も管理し、土地制度も、国家で管理する。

 もちろん、税金も薄く広く徴収する。産業を興し、企業から上がって来る利益を使い、さらに国家の発展をさせねばならない。いろいろと目標を立てて、目をつり上げて猛然とやってきたこと。

 それは、当時としては必然的なものだったのかもしれないけれど、人々は振り回され、ずっと明治・大正・昭和までの八十年ほど、戦争に負けるまで突き進んでいかなくてはなりませんでした。

 日本全体で何十年もかけて、大きな犠牲を払い、周辺諸国にも被害が及ぶ長くはた迷惑な時代がありました。

 それは、いろんな人たちが、いろんな立場で解明しようとしているし、いろんな立場の人々が、見たり聞いたりしたものを伝えてたりする。

 その少し前の、幕末から明治にかけて、シーボルトさんからペリーさん、ハリスさん、オールコットさん、ビゴーさん、フェリックス・レガメさんなど、いろんな人たちも、日本の人々の姿を目撃し、そこを旅して、記録していた。

 渡辺さんは、膨大なそれらの資料から、一つずつ拾い上げ、並べ替え、テーマを設け、外国から来た人たちは、日本の庶民のどんなところを見て、どんなふうに感じたか、それらの記述から、どんなことが考えられるか、というのを延々と書いておられるのだと思われます。

 情報量としてものすごいので、読んでは忘れ、前の記述が頭に入っていないのに、次へと進む、何とももどかしい読書を続けています。

 それで、今日は何を書くんです?

 ハイ、少しだけ、分かりやすいところから。

 江戸末期の日本の人々は、混浴は当たり前、家の前で行水もしてしまうし、きれいなお姉さんでも、全裸でお湯を浴びたりしていた、別に見せようとか、それが自分のアピールになるとか、そんなゲスなことは考えてなくて、何もかもアッケラカンとしていた。

 無邪気で、男女ともお風呂では裸の付き合いだし、そこでトラブルが起きるとかはなくて、みんな自然に過ごしていた。

 なんと、江戸末期の日本は、かなりの人たちがアダムとイブ状態で、イチジクの葉っぱなんか必要なくて、みんな無垢のままで暮らしていた。

 それだけではないんだけど、ハダカという面だけ見ても、ものすごく無邪気に過ごしているように見えていたらしいのです。

 そういうところは完全に失いました。私たちは、楽園を追われ、生活の嵐に振り回される日々を百数十年送らされてて、過去にはそれにプラス戦争も負荷させられた。いろんなものを背負わされて、江戸時代の無邪気を失っているというんです。

 そんな、なくなったものを今さら言っても仕方がないよ、ということもできますが、少なくとも、過去に、日本の土地で、こんな無邪気な人たちがいて、それは私たちの祖先たちであり、懐かしいような、哀しいような、気分にさせられる。

 それが「逝きし世」なんです。そういう社会、もう無理だとは思うけれど、自分の世界だけでも、前近代を取り戻したいし、素朴で無邪気だったご先祖様の姿に戻りたいと思うんです。

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