甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

兼好法師とはどんな人?

2021年06月05日 05時47分00秒 | つれづれな人々

 何日か前、中公新書の「兼好法師」という本を買いました。著者は小川剛生さんという方で、慶応大学の先生をされています。

 小川先生は国文学の方だから、古文書をスラスラ読んでしまえるみたいで、横浜の金沢文庫にある手紙を写経などに再利用したゴミ文書から、手紙を解読し、その中で浮かび上がる兼好像を取り上げていました。

 断片を解読し、それぞれを年代に振り分け、誰から誰への書状なのかを判別し、当時の人間関係も解明して、そこにいたと思われる兼好という人をまとめてくれていました。兼好さんは関東にいたのは知ってたけど、そちらでお仕事もしていたなんて! そして、鎌倉幕府の関係者だったなんて! 何だかビックリでした。

 金沢文庫古文書から得られた情報をもとに、兼好の在俗期を再現してみたい。
 卜部兼好(うらべのかねよし)は仮名(けみょう、通称)を四郎太郎という。一家は祭主大中臣氏に仕えた在京の侍と推定したが、そこから伊勢国守護であった金沢流北条氏のもとに赴いた。亡父は関東で活動し、称名寺長老となる以前の明忍房釼阿(みょうにんぼうけんな)とも親しく交流し、正安元年(1299)に没して同寺に葬られた。

 意外だったのは、兼好さんは貴族ではなくて、侍身分だったことでした。そして、鎌倉方に所属していたなんて、何だか不思議です。てっきり南朝方かと思っていました。三重県の山奥に兼好さんのお墓という史跡もあるみたいだから、伊勢の国とのつながりはあり得ます。

 でも、にわかには信じられないなあ。


 父の没後、母は鎌倉を離れ上洛したか。しかし姉は留まり、鎌倉の小町に住んだ。倉栖兼雄(くらすかねお)の室となった可能性がある。兼好は母に従ったものの、嘉元三年(1305)夏以前、恐らくこの姉を頼って再び下向した。そして母の指示を受け、施主として父の七回忌を称名寺で修した。

 さらに延慶元年(1308)十月にも鎌倉・金沢に滞在し、翌月上洛し釼阿(けんな)から貞顕(鎌倉から都に六波羅探題として派遣されていたエライお方)への書状を託された。また同じ頃、恐らくは貞顕の意を奉じて、京都から釼阿への書状を執筆し発送した。……嘉元三年は二十三歳、延慶元年に二十六歳となる。不自然ではなく、当面この説に従ってよいであろう。

 若い頃、兼好さんは北条方でお仕事をしていた。それはお父さんが開いてくれた道であり、母や姉もその流れの中で生きていたというのです。

 よくもまあ、そういう手紙が捨てられないで残っていましたねえ。紙は貴重品だったから、裏まで再利用し、お経を書かれた後も、そのまま残されていたそうです。

 それを解読したら、鎌倉末期の武士たちの手紙のやり取りが見えてきたというのです。鎌倉・室町とは遠い時代ではなくて、今も解読してもらうためにたくさんの資料がどこかに埋もれているのかもしれないです。

 でも、ニセモノもあるだろうし、捏造もあるんでしょうか。

 少しだけ兼好さんに近づくことができたんでしょうか。

 いやいや、まだまだですね。私も勉強しないとね。でも、何をめざしているんだろう。基本はことば探しなんですけどね。

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