甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

菅笠日記11 崇峻天皇の都とは?

2019年02月14日 22時37分14秒 | 宣長さんの旅

 吉野の桜を見に、宣長さんは旅をしていました。春が終わるまでに、「菅笠日記」を読み終えよう、そういう気持ちでスタートした記事は、昨年は4月13日にダウンしました。

 もうサクラの気分ではなくなっていたようです。花粉の気分は続いていたと思いますが、そこからさらに続ける気持ちがなくなったのですね。

 能書きはいいから、少しだけ宣長さんのあとについて行こうと思います。今年の春こそ、ぜひ吉野の桜を見て、伊勢本街道を通って、松坂まで帰れるようにします。

 談山神社(たんざんじんじゃ)でおなじみの多武峰(とうのみね)は紅葉の名所です。私は一回しか行ったことがないけど、今度は春の盛りにでも行けたらいいですね。

 宣長さんに連れて行ってもらおう!

 しばしやすめる家にて。例の都のあとを尋ぬれば。【崇峻天皇の都倉椅(クラハシノ)柴垣の宮】あるじ。この里中に金福寺(キンフクジ)と申す寺ぞ。その御跡(ミアト)には侍(はべ)る。このおはしける道なる物をとて。子にやあらん。十二三ばかりなるわらはをいだして。あない(案内)せさす。これにつきてゆきて見る。

 しばらく休憩させてもらったお家で、ここらあたりにあった都の跡というのを訊ねてみました。

 すると、家のご主人は、「崇峻天皇のくらはしの柴垣の宮」というのがございました。今は、金福寺というお寺になっております、ということでした。

 そこまでの道をお教えしましょう、ということで、そこのお子さんで、十二三才という男の子を呼んでくれて、私たちの案内をしてくださるということになりました。

 私たち一行は、この子について行くことになりました。



 二三町ばかりも立かへりて。かの寺といひしは。門などもなくて。いとかりそめなる庵(いおり)になん有りける。猶くはしきこともきかまほしくて。あるじのほうしをとぶらひしかど。なきほど也けり。

 先ほどのお家から何百メートルかを歩いて、たどり着いたお寺というのは、山門などもなく、お寺という体裁ではなく、仮の庵というような建物でありました。もう少し詳しいことが訊きたくて、庵の主を訪ねてみましたが、誰もいない様子で、どうしようもありません。

 さあ、困りましたね。そんな昔の天皇の都など、どうして訪ねたかったんでしょう。それはもう、「古事記」にちなむ地名・旧跡を訪ねたかったからですね。私みたいなものと、めざしているイメージが違います。

 宣長さんは、古代の王たちの生活や都が今はどうなっているのか、本当に知りたかったのだと思われます。

 そこにあったはずではあるのだけれど、あまりに頼りない、かすかな土地の記憶しかなくて、地元の人に聞いてもなかなか実像がつかめなかった。

 そこにあった、という漠然とした伝説があるだけで、ただ山と野原と荒廃した土地しかありません。農地として利用されていたら、それはいい方かもしれない。

 古墳や都だって、はっきりしないし、モヤモヤとした空気だけがあったことでしょう。



 まへにごまだうとて。かやぶきなるちひさき堂のあるを。さしのぞきて見れば。不動尊(フドウソン)のわきに。聖徳太子崇峻天皇とならべ奉りて。かきつけたる物たてり。されどむげに今やうのさまにて。さらに古(いにしヘ)しのぶつまと成りぬべきものにはあらず。

 庵のそばには、護摩堂という小さなお堂がありました。のぞいてみると、お不動さんが立っておられて、その脇には聖徳太子と崇峻天皇と書きつけた木像みたいなものがあります。しかし、今風のもので、古代の雰囲気を伝えるものではないようです。つい最近作ったものという気配もあります。

 ああ、何だか怪しいお寺です。古き都があったのか、全く見当もつかない。宣長さんの探索の旅は、またも頓挫しました。ちっとも古代が立ち上ってきません。それはもう、千何百年前の昔のことではあるし、古代の都も、すべて土の中に消えてしまったことでしょう。

 考古学者でもない宣長さんとしては、お手上げです。でもまあ、地元で、そういう都があったという噂はちゃんと聞けたし、取材旅行としてOKです。

 でも、実像が湧いてこない。あとはすべて宣長さんの脳内再生にかかっています。

 どんなイメージがあったんでしょう。続きはまた今度!


★ 書いた後で、少し気になってウィキペディアを見せてもらうと、都ではなくて、お墓を探していたのかもしれないです。現在でも、本当はどこに崇峻天皇様が眠っているのか、よくは分からないようで、とりあえず確定はしているけれど、実際は不明ということでした。

 蘇我馬子に引き立てられて即位し、馬子排斥を口にしたら、すぐに暗殺されてしまったなんて、悲劇の天皇様のようです。聖徳太子の叔父さんにあたる方ですし、馬子という存在がものすごく大きかった古代の話なんですね。

 聖徳太子といい、馬子といい、私はこの人たちのこと、ほとんど知らないのと同じです。ああ、不勉強だ!


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