三連休の前の夜、昔ならウキウキしたのだと思います。でも、今はあまり浮かれた気分ではありません。
連休の間も仕事はあるし、自分が頑張れば片づく仕事であればいいのだけど、自分が頑張ってもどうにもならない、というのか、自分にはどうしようもできない仕事に振り回されているので、主体性がなくて、仕事をさせられている気分があります。
そこをもう一歩踏み込んで、無理やり自分の仕事にして、素早く解決できればいいけど、そうもできないようなので、「なるようになるさ」と思いつつ、ボチボチ仕事します。
そんな個人のボヤキを書いても何にもなりません。
ワクチン三回めも、予約のことを考えていませんでした。今の状況では、何だか三回めはやらなくていいやという人も多いみたいです。
確かに、三回めが終わったら、数か月後には四回め、その次は五回めとあと一年くらいはコロナと付き合わねばならないようです。
五回めくらいでもう打ち止めとなるでしょうか。私たちは、されるがままに無料ということなので、それでは打ってもらおうと出かけるわけですが、あとしばらくはコロナと付き合わねばならない。
でも、これも対応策は見えてきたから、最初の頃の悲壮感はなくなりました。まわりの人でも何人かはコロナ経験者も出てきたし、その人たちも当たり前のように暮らしているから、それこそインフルエンザみたいなものだ、ということになってくれたらうれしいです。
急にまた怖い病気になるかもしれなくて、まだ安心はできないですけどね。
私たちは、暑くもなく寒くもない、一年のうちのちょうどいい時期にさしかかったようです。
これもそんなに長続きはしなくて、来週くらいになれば、暑さに参ってしまったり、紫外線でスルメみたいになったりするんでしょうか。
せいぜい養生していきたいです。
何かホッコリするものが必要です。そうでないと、今夜は終われない。
啄木詩集(岩波文庫 1991)から、詩でも抜き出してみます。
卯月の夜半
眠れる人は、覚めてこそ
まことの暗(やみ)を知るべけれ
さめたる人は、眠(ねむり)にぞ
まことの光したしまむ。
三連あるうちの最初、ちっともイメージが湧かないし、わざとらしいですね。わざとひねくれた言い回しをしているみたい。
目が覚めたら、闇がわかりますよ。目覚めた人は、眠ったら光を感じますよだなんて、どういう理屈なのか、深いのか、適当なのか、あまり真実を言いえていないような気がします。
卯月(うづき)の夜半(よわ)の花の窓、
夢の樹影(こかげ)に身は覚めて、
(眠りか、あらず、永劫(えいごう)の
ゆめの中なる覚め心地)
旧暦四月の夜中、とてもクリアーな気分でいるよ、という宣言みたいな文句です。果たしてこれでちゃんとしたオチにつなげることができるのか、これは四月の何を伝えたいんだろう。
啄木さんはお酒とか、飲んだはずですよね。女の子とイチヤイチャするのは好きだったんですよね。奥さんがいるのに、わざとらしいというのか、カッコイイふりをしちゃうから、ちょっと彼のお話聞いてみようかなという女の子たちは寄ってきたのでしょうか。
少し羨ましい。おしゃべりが得意だったでしょうか。そりゃ、先頭切ってカッコイイところをみんなにアピールしましたか?
私は、もう二十代もそれからも、ずっとボンヤリ系だったから、啄木さんみたいなカッコイイ男風にはなれなかったなあ。
春の夜、少しクリアーな気分がした、ということですね。それはいいことです。覚めた気分がそこにあれば、何かアイデアが浮かぶかもしれない。
天地(あめつち)つつむ花の(か)の
うるほひ深き『影の世』や、
覚めて覚めざる一瞬に
光と暗(やみ)を忘れける。
花の下で、花の香りに包まれて、光でもない闇でもない、とても大切な瞬間を過ごしているよ、という四月の夜の思い、みたいな詩でした。
私は? 啄木さんを笑ってますけど、彼みたいなの、書けてないですね。光と影はずっと求めてはいるんですけど……。
★ 啄木さんの19歳の時の詩のようです。そうなのか、だったら仕方ないかな。背伸びしている感じはあるのかなぁ。
本の表紙には、晩年の口語詩が優れている、というふうに書いてありました。読んでみたら、確かにそんな気もします。見直してみなくちゃ!
三行書きの短歌もいいけど、もっとコンパクトにまとめた口語詩は、一つの世界があるようです。これは知らなかった。