今朝のニュースで、札幌冬季オリンピック70m級ジャンプで金銀銅の3つのメダルを独占したジャンパーのひとり、笠谷幸雄さんが亡くなったのを知りました。少し心はうずいたのです。どうにもできなかったけれど。
札幌から50年以上経過して、日本は、また懲りずにオリンピック云々を言っていたけれど、本当に「国家的行事」は政府やその取り巻きの利権業者たちの儲けのための狩場であって、一般の人々のものではなくなりました。フランスでなら、人々のものになるのか、それはもうわかりません。私には、オリンピックは全く必要なくなりました。たぶん、IOCの貴族たちの都合のいいように金のなる木になるんでしょう。
そうなんですが、1972年の頃は、素直に日本の選手たちの活躍がうれしいと私なんかは思ったものでした。それもただ踊らされてうれしかったような催眠効果だったのか。「なぜうれしいの?」と訊かれたら、答えられなかったでしょう。何となく鼓舞されました。私も小さかったですから。
金メダルも、その他も、選手たちが頑張ったことに変わりはなく、それにランキングをつけるなんて、ナンセンスなことでした。ただ、みんな遠くまで飛び、早く走ればいいだけです。それに権威付けでメダルなんていうものを配るから、もらった本人も自分が偉い人になったような気になってしまう。余計なお世話でしたが、そこにビジネスも関わって来るから、権威付けは必要だったのか……。
そして、私たちは国家的な権威に弱いし、ただ金メダルをとっただけでいろいろ優遇されたり、就職口が見つかったり、若い人に教訓を述べたり、最悪の場合は議員さんになってしまったり、どんどん自らの価値を安売りしてしまうのです。
1位になったかもしれないけど、それは一時的なものであり、時間が経てば抜かれるし、次から次と若い人は出て来るし、暫定的な、ほんの一瞬のものだったはずです。一瞬だから、逆に価値があるわけで、それはそれとして、別の人生ではそんなの忘れて、自分のやりたい人生を送る、まあ、それは理想かな? みんな全人生をかけてオリンピックに打ち込むのだから、生涯オリンピックはついて回るものになるんでしょうね。他人が人の人生をとやかく言うものでもないか。
そして、私は50年経過して、相変わらず、あの時一緒に喜んだ気になっていた自分を思い出します。
笠谷さんがこの50年以上、どんなことをしてこられたのか、私は全く知りません。だけど、ニュースを聞いて心動かされてしまう。ほんの一瞬の出来事だったのに、ずっと永遠になってしまったのか。
笠谷さんがこの世におられなくなっても、私が生きてる限りずっと興奮と感動は続く。当たり前のことなんですけど、それが不思議です。ご冥福を祈りたいです。