道南ドライブも目的だった江差、観光も終わりましたがまだ昼前!
もっと南下しようと車を走らせました
道の駅 「もんじゅ」 でトイレタイム
上の国町
道の駅で「上の国町」の観光情報を入手
夷王山(いおうざん)標高159m 上ノ国町市街地
山頂には鳥居が置かれており、1457年のコシャマインの戦いでコシャマインを討ったことで
知られる武田信広を祀る「夷王山神社」がある。
勝山館跡ガイダンス施設 上ノ国三館
勝山館の模型 道南12館
ここで歴史に時間となりました時代はなんと中世時代へ.遡ります~
上ノ国は北海道で最も早い時期に和人が定住した地であるとされる。
1189年、源頼朝が奥州の藤原氏を攻めた際に、糠部や津軽の人々が上ノ国付近まで逃れた
そのころの蝦夷は
渡党、日の本、唐子の三種に分かれ、渡党は髭が濃く多毛であるが和人に似ており
言葉が通じ、本州との交易に従事したと記載されている。
また津軽地方を中心に西は出羽国秋田郡から東は下北半島までを領した豪族安東氏)である。
鎌倉中期頃から北条氏宗家(得宗)の被官(御内人)として
蝦夷の統括者(蝦夷沙汰代官職)に任ぜられ、鎌倉時代末期から南北朝時代を通し
津軽十三湊を本拠地とし栄えたが
室町時代に入ると下国(しものくに)と上国(かみのくに)の二家に分かれ対立したと見られ
上国家は出羽小鹿島や出羽湊(現秋田県秋田市)を領し、後に秋田郡を制して秋田城介を称し
下国家は津軽十三湊を領したが11443年に南部義政にせめられて蝦夷地に逃げ込んだ
又一部は出羽に移り檜山(現秋田県能代市)を中心に出羽最北部西半から蝦夷地南部を領
安東政季は1456年までに12の部下を道南各地の小領主として砦を築いて配置
この砦は「館」(たて)と呼ばれ、これが一般に「道南12館」と呼ぶ
このとき函館の周辺は「下之国」、上ノ国や江差の周辺は「上之国」と称された。
これが町名の由来である。
457年にアイヌのコシャマインが館を次々と襲って攻め落としていったのです。
道南にあった12ほどとされる館は陥落していったものの、最後に残った2つのうち一つ、
それが花沢館でした。
そこで若狭国からやってきていた武田信広はコシャマインを討って反乱を抑えました。
この功績により、蛎崎家の婿になり新居として、洲崎館を築きました。
武田信広は徐々に権力を握り、北海道西海岸の交易権を手に入れたことで、
新しく拠点として「勝山館」を築きます。 *館の位置関係は上記上ノ国三館参照
勝山館跡ガイダンス施設 で中世の歴史を再度見直すこことなりましたが
もう一つありました! 「夷王山墳墓群」
これは 次回に
画像 2009-05-05 上の国町