札幌建設の第3弾
島判官は雄大な札幌の建設構想を実行に移して、雪の中で地割りを行い、
役所を建て、農商民を募りました。
しかし、厳冬酷寒の雪国での都市建設は多額の費用と労力と困難を要し、
二代目東久世通禧開拓使長官とも衝突し、志半ばで解任されました。
4年、札幌に赴任した岩村判官らは、移民の招致、道路工事、市街の測量に着手
島判官の構想を一部変更し、建設を再開した。
市街地は、11間幅(約20m)の道路を南北に交叉させる碁盤の目状とした。
その基本的なブロックは、60間四方(11,644㎡)とし、6間幅(約11m)の中通りを設け
そして幅3尺の側溝を道路両側に付けた。明治4年ごろの札幌地図
クリックして拡大して見てください(記号が下記の写真と一致します)
ア)島判官が札幌の建設の中心地とした地(南1条西1丁目付近)
イ)札幌本陣(札幌駅逓所)
札幌本陣及ビ創成橋 ウ)開拓使札幌本庁仮庁舎
今と違い飛び越えれそうな川です
そのころの札幌の風景です札幌仮役所物見ヨリ西ヲ見ル
札幌官宅本通ヨリ東ヲ望ムエ)札幌豊平橋之旧景
このころは中島を中継地点で渡し舟と橋で豊平川を渡っていました
又明治4年は市内最初の公園である偕楽園 オ)の建設、
や最初の官立学校である資生館設置などありました。そのころの札幌の近郊
江戸時代からの開拓地として札幌村・荒井村が存在していました
明治2年 カ)東本願寺(南7西10)に建立
明治3年 酒田県(現在の山形県)県募民96戸が
庚午二の村(苗穂村)、庚午一の村(丘珠村)、庚午三の村(円山村)に入植
「辛未一ノ村」とは、
今の南7条西6丁目より以東一帯につくられた50戸ほどの移住地区
札幌神宮の仮神殿を奉遷(北6条通) 4年に円山に建立
柏崎県(新潟県)の札幌村(元村)に22戸入植(元町地区)
明治4年
二十四軒・八軒・十二軒に入植
辛未(しんび)村全50戸のうち分散移転した戸数に由来します
*二十四軒・八軒は今でも地名として残っています。
本願寺道路が完成
このように明治政府が本格的に札幌建設に力をいれ農民の入植もますます
増えてきています。
この時の札幌中央区の人口は637人だそうです
ほかにこの年は
薄野に官許遊郭を設置(南4条通り)
アンチセルが岩内付近で野生ホップを発見
開拓使顧問ケプロンら来日。
黒田清隆が開拓使の次官になる などがありました
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一の村が苗穂で
ニの村が丘珠かと