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九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

伊賀光季の母は二階堂行政の娘 行政の母は熱田神宮藤原季範の妹である。

2021-01-21 | 山内・伊賀・深尾・下河辺・野本・結城

伊賀光季の四人の息たちは、何れも十歳以下であったという。政子が涙を溜めながら、その息たちを慰め、奮い立たせようと、声をかけ、領地も与える。

幼い子どもたちへの深い配慮だと思っていたのだが、この時代に武士である親が戦いで歿してしまう事は数多あったであろうと思う。
平等にそのようにしていたのではなく、義時の後妻の兄であったからか?と調べてみた。
それもあったろうが、プラス二階堂行政とその周辺が関係すると思うのだ。

伊賀光季の母は二階堂行政の娘という。
そしてこの二階堂行政の父は工藤行遠、母は藤原季兼の娘(藤原季範の妹)なのである。

藤原季範といえば、源頼朝の母である由良御前の父親である。
しかも、季範の母系から尾張氏の血が入っている。

さらに、由良御前は頼朝だけではなく、希義・坊門姫(一条能保室)も生んでいる。
そこから、一条家とのつながりが生じ、北条義時と伊賀の方の娘が嫁いだ先が一条能保の息であった実雅なのである。

尾張の血が入っているという事は、大江氏・中原氏とも近い!のである。
尾張貞親が中原広忠の祖父であり、其の広忠が大江広元の祖父なのである。

源頼朝は、熱田神宮と由良御前周辺の関係をことさらに大事にしていたと思う。
乳母との関係もそうだが、幼い時を支えてくれた人を大事にしていると思う。

その人たちがあって、今の自分がいることを、意識していたのかもしれない。

===*===

更にこの季範の系である「藤原南家貞嗣流」の貞嗣は、
藤原巨勢麻呂の息の名で、黒麻呂と兄弟である。





千葉氏の中の【原氏】 【藤原南家 原氏】

2020-05-27 | 千葉氏

いつもそうなのだが、私自身全く知らないことを調べつつ書いているので、間違いも満載。
そして、常に意見がコロコロと変わっている。
一番新しい記事が今の頭の状態であって、古い記事もその当時の頭の中の状態なのである。しかも、いつもカオス状態。。。

しかし、留めておかないと誰かにも届かない。
その誰かが「九里氏」を調べてみよう!という気になって、
歴史本における「不詳」の多い九里氏の調査に繋がっていくと、とてもうれしい!!

===*===

いま、気になっているのが「永田氏の中の原殿」
その原氏は、千葉氏の中の原氏なのではないか‥‥と思っていた。
が、良く調べてみると白井原氏も臼井原氏も1250年あたりにはまだ「原氏」を名乗っていなかったかもしれない可能性がある。
とすると、尾張二宮の「原氏」かもしれない。浪合記に出てくる「原高春」の系である。
一見関係なさそうなのであるが、、、


「永田胤信」
それ以前のこととなるが1250年あたりから1300年位(?)、息の長綱が「原殿」と呼ばれている。
「殿」が付くには、敬う気持ちがある人の養子となった…という意味も含まれているのではないだろうか?あるいは、烏帽子親がそうであった等もあるかもしれない。


結論から述べると、【藤原南家の系】の原氏かな?と思っている。
源頼朝の母は藤原南家貞嗣流の藤原季範の娘(由良御前)である。
その【貞嗣流】を見てみると【藤原巨勢麻呂】の十男である。
藻原の開拓者であった「黒麻呂」も貞嗣の兄にあたる。

浪合記の「原氏」と久野氏は繋がっているので、藤原南家とつながる事となる。
藤原南家工藤氏流の久野氏は、遠江国発祥といわれる氏族。とwikipediaにもある。

===*===

掛川市本郷にある【高藤城】
http://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/totoumi/shiseki/chuen/takafuji.j/takafuji.j.html

鎌倉時代、原氏の始祖出羽守師清が原谷(原殿神廟)に足を踏み入れて


…とある。この出羽守師清とは?を調べると、

武家家伝 遠江 原氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tot_hara.html

「原氏は平安の末頃、出羽前司師清が遠江国原谷庄に来住して以来、土豪として鎌倉初期から地頭・領主の地位を戦国期まで相伝した。原師清は藤原南家藤原木工介為憲の流れで、工藤氏の一族である。為憲六世の孫がすなわち師清である。原師清の後裔は橋爪・原田・久野・孕石・小沢などの諸氏が知られる。」

===*===

実は、工藤氏は佐々木高信の娘二人が「二階堂氏」に嫁いでいることからも、佐々木氏とごく近かったと思われるのである。

佐々木哲学校の「高島高信」の記事より
http://blog.sasakitoru.com/200504/article_11.html

『高信の娘は2人あって、2人とも有力吏僚系御家人の二階堂氏に嫁いでいます。1人は出羽家の二階堂義賢に嫁ぎました。義賢は左衛門尉・民部少丞を経て叙爵され、引付衆に列するとともに、伊賀守に補任されて受領となっています。またもう1人の娘は和泉家の二階堂行員(大宰少弐)に嫁いでいます。行員の祖母(父行章の母)は佐々木信綱娘で、しかも行員の妹は六角頼綱に嫁いで頼明を生んでおり、和泉流二階堂氏は佐々木氏との間に重縁を結んでいたことが分かります。高島佐々木氏は庶流とはいえ、有力御家人との間に閨閥を築きました。』

===*===

以上のことから、永田氏に最も近い「原氏」は藤原南家に存在する「原氏」となるように思えるのである。

という事は、永田氏は、黒麻呂の裔かもしれない「富木氏」と同じ流れをくむことになる。

しかも、富木常忍の母は千葉氏と言われている。
永田胤信の母も千葉氏であったのではないだろうか?

「胤」が通字の氏族。
きっと千葉氏の中に佐々木高信の妻となった女性がいる!
そこを今度は掘ってみたい。










藤原範季が義経を支持!! 叔母は頼政の母であった(2)

2019-07-02 | 藤原氏

では、なぜ範季は義経を匿ったのだろうか。

あくまでも私の考えだが、
範季の父能兼はわりと早くに亡くなり、兄が養父となって支えていたのだが、その兄範兼も亡くなり、幼い子供たちが残った。

今度は範季が兄の子ども達を引き取って育てていた。(1165年以降)
それ以前のことだが、義朝の六男・範頼を引き取って自らの子・範資と一緒に養育している。(1159年あたり)
それだけではなく、(1180年)高倉天皇の第四子となる尊成親王も範季の妻と、また姪の二人が乳母となり育てていた。後に後鳥羽天皇となった人物である。

さらに九条兼実の忠実な家司でもあったという。

この藤原家は【藤原南家貞嗣流】であり、儒家であったそうだ。
自分の記事で恐縮だが、以下で触れている。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%8D%97%E5%AE%B6%E8%B2%9E%E5%97%A3%E6%B5%81

さて、なぜ義経を…だが、この範季の父能兼の妹が【源仲政】の妻であり、【源頼政】の母であったからだと思う。

つまり、頼政とは従兄弟であり、この叔母は、父が亡くなった後、また兄が亡くなった後に支えとなってくれた女性だったのではないだろうか。

頼政は、久寿2年(1155年)に源義賢の長男・仲家(木曾義仲の兄)を養子にしている。

保元2年(1157年)には頼政の弟の頼行が、突然罪を受けて流罪となり自害する事件が起きた。
頼政は頼行の子の源宗頼・源政綱・源兼綱を養子にしている。

このように、子供を大事にしていることも、彼女の慈愛に満ちた生き方が周囲に影響していたのかもしれない。(想像)彼女は源斉頼の養女であり、源頼政に嫁いだ人物ではないのだろうか?


九条兼実の家司といえば、中原兼遠(中原頼季と同一人物であれば)もそうであったと思うので、範季と兼遠は同僚であったかもしれない。

兼遠は義仲を育て、範季は範頼を育てかつ義経を匿い、頼政は仲家(義仲の兄)を育てていたことになる。


藤原能兼の妻、つまり範兼・範季の母となる女性だが、高階為賢の娘であった。
そのあたりの影響もあったのでは、と思う。









藤原・小野・横山・成田・中条氏のライン

2018-10-24 | 中条氏

【藤原・小野・横山・成田・中条氏のライン】
藤原季範の祖父実範↓
藤原 実範(ふじわら の さねのり、生没年不詳)は、平安時代中期の廷臣・漢詩人。藤原南家貞嗣流、左兵衛佐・藤原能通の長男。官位は従四位上・文章博士。

父:藤原能通
母:藤原元尹の娘
妻:小野資通の娘 ?男子:藤原成季筑前秋月祖。三並祠に子孫の位牌有?男子:藤原季重
男子:藤原季兼(1044-1101)薩摩地頭、基兼也。
妻:高階業敏の娘 ?男子:藤原季綱(?-?)

子の成季、季綱らも父と同様に文章道によって名をなし、その子孫からも文章博士を輩出したため、実範は後世、南家の家学の祖として一門の尊崇を受けることとなった。また三男の季兼の子孫は熱田神宮の大宮司職を世襲する家柄となった。


横山資孝(資隆)  小野義孝の子。
           1004年、朝廷より小野牧の別当に任ぜられる。

横山経兼     資孝(資隆)の子。 朝廷より従五位下に任ぜられる。
           前9年の役に参戦し、安倍定任(さだとう)の首をとる軍功を上げる。

横山隆兼     経兼の子。 朝廷より従五位下に任ぜられる。

横山時重     隆兼の子。 朝廷より従五位下に任ぜられる。

横山時広     時重の子。 朝廷より従五位下に任ぜられる。
           淡路国守護。  丹波国守護。

横山時兼     時広の子。 朝廷より従五位下に任ぜられる。
           淡路国守護。
           頼朝に御護刀を献上した有力御家人七名に名を連ねる。(吾妻鏡)
           和田合戦で敗れ、横山一族は衰退した。

成田成任  小野資隆(横山資隆)の子
          埼玉県北埼玉郡成田を領した為成田と名乗る。
         
地名平山在、子孫夜須朝日村在

成田成綱  小野成任の子。 成尋とは兄弟。 吾妻鏡に記述あり。
          1156年、保元の乱で義朝に従い軍功を上げる。
          義朝の子頼朝により尾張の守護に任ぜられる。
          1193年頼朝と北条政子との間に男児(のちの3代将軍実朝)が
          誕生した際には、小野成綱が御護刀を献上した。
          1194年頼朝の上洛に従う。

成田義成  小野成綱の子(兄)。 山城国守。 後に後鳥羽上皇に使える。
成田盛綱  小野成綱の子(弟)。 尾張守護。 後に後鳥羽上皇に使える。
      佐々木姓盛綱の事也。

成田成尋  小野成任の子。 成綱の弟。

中条家長  小野成尋の子。 尾張国守護大名となる。
          評定衆の一人となり「御成敗式目」の制定にかかわる。
          埼玉県北埼玉郡中条(ちゅうじょう)を領した為中条と名乗る。
          南北朝時代のはじめまで小野(中条)氏が長らく守護職を世襲した。
      中条家長の娘。児島宮頼任親王の子、藤原関白家の東寺長者道乗室となる。
      頼任僧正の母

大串重親  小野経兼の曾孫。 名門畠山重忠は重親の烏帽子親。
         重親は畠山重忠と共に「平家物語」「吾妻鏡」にも記述される
         有名な武将。
         頼朝の奥州藤原氏討伐の際には、藤原国衡の首をとる武功を上げる。

横山季兼  小野義孝の曾孫。 村上天皇の皇子・為平親王の子から数えて
        四代目の源有兼(1113年相模国守)の養子となる。
        横山季兼も相模守となる。 季兼は「吾妻鏡」「曾我物語」にも
        記述される有名な武将。



小野義孝(義隆)  孝泰(隆泰)の子。 武蔵介。
      939年武蔵介に任命される。
      勅旨牧・小野牧の別当となる(いつなったかは不明)。
      赴任が終わっても京へは帰らず。
      現在の八王子に住み、在名(ざいみょう)を横山と名乗る。
      八幡八雲神社の境内 八王子市元横山町二丁目十五番地二十七号には横山神社      がある。 
      この横山神社は大江広元が義孝の御霊を鎮めるために建立したものです。 

      また義孝(義隆)が孝泰(隆泰)の子であることは東京都教育委員会の
      調査によっても確認されいる。



横山義孝の孫成任は北埼玉郡成田を領有して成田大夫を称し、嫡男の成田太郎成綱は保元元年(1156)の保元の乱に際しては源義朝に従って ... 家長は父成尋が僧であったことから八田知家の猶子となり、本姓藤原氏を称して中条藤次家長を名乗った。