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藤原範季が義経を支持!! 叔母は頼政の母であった(2)

2019-07-02 | 藤原氏

では、なぜ範季は義経を匿ったのだろうか。

あくまでも私の考えだが、
範季の父能兼はわりと早くに亡くなり、兄が養父となって支えていたのだが、その兄範兼も亡くなり、幼い子供たちが残った。

今度は範季が兄の子ども達を引き取って育てていた。(1165年以降)
それ以前のことだが、義朝の六男・範頼を引き取って自らの子・範資と一緒に養育している。(1159年あたり)
それだけではなく、(1180年)高倉天皇の第四子となる尊成親王も範季の妻と、また姪の二人が乳母となり育てていた。後に後鳥羽天皇となった人物である。

さらに九条兼実の忠実な家司でもあったという。

この藤原家は【藤原南家貞嗣流】であり、儒家であったそうだ。
自分の記事で恐縮だが、以下で触れている。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%8D%97%E5%AE%B6%E8%B2%9E%E5%97%A3%E6%B5%81

さて、なぜ義経を…だが、この範季の父能兼の妹が【源仲政】の妻であり、【源頼政】の母であったからだと思う。

つまり、頼政とは従兄弟であり、この叔母は、父が亡くなった後、また兄が亡くなった後に支えとなってくれた女性だったのではないだろうか。

頼政は、久寿2年(1155年)に源義賢の長男・仲家(木曾義仲の兄)を養子にしている。

保元2年(1157年)には頼政の弟の頼行が、突然罪を受けて流罪となり自害する事件が起きた。
頼政は頼行の子の源宗頼・源政綱・源兼綱を養子にしている。

このように、子供を大事にしていることも、彼女の慈愛に満ちた生き方が周囲に影響していたのかもしれない。(想像)彼女は源斉頼の養女であり、源頼政に嫁いだ人物ではないのだろうか?


九条兼実の家司といえば、中原兼遠(中原頼季と同一人物であれば)もそうであったと思うので、範季と兼遠は同僚であったかもしれない。

兼遠は義仲を育て、範季は範頼を育てかつ義経を匿い、頼政は仲家(義仲の兄)を育てていたことになる。


藤原能兼の妻、つまり範兼・範季の母となる女性だが、高階為賢の娘であった。
そのあたりの影響もあったのでは、と思う。









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