1873年のプラーター公園で万国博覧会が開かれたことがわかっている。
ブラームスは語る(2) ブラームス回想録集 より
1887年のブラームスの記述を見つけたので、ご紹介したい。
『ブラームスは昨日、プラーター公園のハンガリー風居酒屋「チャールダ」に行ったそうだ。
「いいことを教えてやろう。食事はかなりのものだった。グラ―シュは絶品だし、トプフェンパラチンケンも最高、ビールもワインも良い。なんたって有名なジプシーバンドが出演しているんだよ!」
ブラームスはこの楽団に次から次に弾いてもらったと、夢中で話していた。」(p.50)
wikipediaの「ハンガリー舞曲」より
【ブラームスは1850年代の前半に、エドゥアルト・レメーニの伴奏者としてドイツの各地で演奏旅行を行い、その時にレメーニからジプシー音楽(ロマの民族音楽)を教えられて魅了された。それ以来ブラームスは、それをハンガリーの民族音楽と信じて採譜を続け、1867年に出版社のジムロックに最初の6曲を送ったが、その時は拒否されている。結局それらを含む第1、2集が1869年に出版されると大好評となり、1880年に第3、4集が刊行された。
『ハンガリー舞曲集』に作品番号は付いていない。これが自作ではなく、伝統音楽の編曲にすぎないことをブラームスが慮ってのことであった(とはいえ、第7曲、第11曲、第14曲、第16曲の主題は、完全にブラームスの創作であったらしい)。のちにレメーニは『ハンガリー舞曲集』の成功を知ると、これが盗作であるとしブラームスを相手に訴訟を起こした。結果はブラームスが「作曲」ではなく「編曲」としておいたことが幸いして、ブラームスが勝訴した。】
此処で重要と思われるのは、ブラームスが19歳(1853年)に出会い魅了されたジプシー音楽(ロマの民族音楽)を採譜し続けて。34歳の時最初の6曲の出版を試みていること。
36歳の時には1,2集を出版し大好評となり、47歳の時(1880年)には3,4 集も出版された。
その音楽に魅かれてから編曲して新たな息吹を与え、世に出すまでに17-27年かかっている。
ブラームスは交響曲第一番も、構想を練り始めてから、完成を見るまで21年を費やしている。
蠟管蓄音機に出会ったブラームス(1889年)は録音している‥‥wikipediaで聴けるのだが音がひどくて‥‥私は途中で切ってしまった。足で拍子を取っているのもブラームスなんだろうか?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%BC%E8%88%9E%E6%9B%B2
ブラームスの部屋は、音楽室・図書室・寝室の3部屋だったそうだ。
カールスガッセにあったそうだ。
↑ 「ブラームス」 三宅幸夫著 新潮社 写真の一部を拡大し、私が撮ったもの。
1897年に死没しているブラームスの見た風景は、もう少し素朴な公園だったかもしれない。