想像も混じっているのだが…
ブラームスは遠く離れた東洋・日本の曲の中に『見知らぬ曲なはずなのだけれど、どこか懐かしさ』を感じていたと思う。
彼がまだ「極子の琴」を聴く以前に、すでに自分のピアノ曲の中に日本に似た旋律が出来上がっていた。
2つのラプソディ―(47歳の時の作曲)の一番の中の第二のテーマで、私たちは高校時代にブラームスの「さくら」と言っていたくらい、雰囲気が「桜」である。(PPの部分から)
更にラプソディー以前に、ブラームスが19歳の頃、エドゥアルト・レメーニというハンガリー出身のヴァイオリニストの伴奏をすることになり二人で演奏旅行に行っていた時代がある。
彼こそがジプシー音楽をブラームスに案内した人物だろうと思う。
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私がオーストリアを旅行した際に、オーストリアとハンガリーの国境付近にポツンと小屋があり、ロマ(ジプシー)の音楽が聴ける店であった。
音楽を奏でる面々が舞台から降りてきて、次々とテーブルを回って、店の中はだんだんと熱を帯びたようになり、カオス状態になっていく。魔術にかかったように…
そして、ブラームス自身も10代の頃に、酒場でピアノ弾きのアルバイトをしていたのである。
ロマ音楽の聴ける店にも気軽に立ち寄ったに違いない!
ロマの音楽に接し興味を持ったという事は、その先の未知なる「世界の音楽」に興味が移っていった可能性もある。
おりしも万国博覧会もウィーンで開催もされ(1873年)ヨーロッパでは東洋への関心が高まっていたはずである。ブラームス40歳の時である。
1886年には、レメーニは神戸・横浜へと演奏会で来日することとなった。
ブラームスはレメーニに、日本の音楽を採譜してくるように頼んであったのではないだろうか?
(若い時分に仲違いをしている二人ではあるのだが…)
さて鹿鳴館の華であったと言われている戸田極子。
彼女は明治20年(1887年)10月に一家でオーストリア・ウィーンに渡っている。
wikipediaの註によると
『ピアノ教師として公使邸に出入りしていたボクレットが日本の民謡をピアノ用に採譜した楽譜『日本民謡集』を出しているが、ブラームスの遺品の中に、ブラームス自身の書き込みのある『日本民謡集』が見付かっている。書き込みは「六段」「乱れ」「春雨」などにあり、演奏している筝を直接聴きつつ書き込んだと思われることから、山田流の筝の名手であった極子が演奏を披露したのではないかと言われている(関東大震災により戸田邸が全焼したため、上記の楽譜以外に確証といえるものは残っていない)。この出来事を題材として、日本画家・守屋多々志は「ウィーンに六段の調(ブラームスと戸田伯爵極子夫人)」(平成4年第77回院展出品、大垣市守屋多々志美術館所蔵)を描いた。』
ブラームスも聴いたと思われる「戸田極子の琴」
さて、耳で聴く「琴」の音は、西洋の音階に当てはまったのだろうか?
本物を聴いたブラームスは、そこに違和感を感じたのではないだろうか?
楽譜の音符では確かにこう書くしかないのだが、
本当の音はそうではない・・・と感じたに違いないのである。
六段に書かれたブラームスのメモ書きは「この音に非ず…」であると、ウィーンの楽友会館の記事だったか、どこかで読んだ記憶がある。
極子の実の母親は『岩倉(野口)槇子』と言い、その父親は【野口為五郎賀代】という。大津にいた人物である。辿っていくと、加山雄三に迄つながっているのである。
因みに、我が九里に野口に嫁いだものもおり、しかも野口家は彦根城すぐに住んでいたそうである。
何処か繋がっているような気がしないでもない。
https://www.a-wgm.at/ausstellungen/sterreichische-musik-japan-japanische-musik-sterreich
ブラームスに影響を及ぼした二人のハンガリー人。
↓
1853 年 5 月、ヴァイオリニストのレメーニーがハノーヴァーで演奏会を開いた時、
伴奏したのがまだ 19 歳のブラームスだった。
1853年、ブラームスは人生において知遇を得た最も深い人物。ヨーゼフ・ヨアヒム(1831-1907)