同じgooblogerの「自閑様」にヒントをいただいて、進めている。
賣渡進 私領田地之事
合壹段者 徳分壹石五斗
光明真言五斗
庄負なし(庄負田なしの意味)
先(or 在)蒲生下郡本郷内七条二十六里三十六坪
字 梶
「梶東」ではなく「梶取屋敷」(かんどり・やしき)のようで、
中世、荘園の年貢、公事物を領主のもとに船で運搬するさいの責任者の屋敷
この本郷あたりまで、水路がきていたのだろうか??
右件古地ハ元者
九里宮内左衛門徳徒也
直銭六○○○○仁限り永代長田南方売
渡進実正明白也本続(?)○○相
副引失間○○
○下一同徳政かけ下地を
○○○○為○○件
九里宮内左衛門尉
明應八年己未四日 種信
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購入してくれたのが「長田南方(南家?)」
近江源氏(田中政三著によると)
「永田氏は湖東に移って以来、長田(現近江八幡市長田町)に住している。
しかもその全盛期には長田城を築いて本拠としたと伝えられている。
さらに観音寺城跡大手筋にも、永田曲輪の跡があり、なお長田町には永田家の屋敷と、永田城跡がある」そうである。
永田氏には「称九里」と書かれた系図がある。
また、九里三郎左衛門は永田刑部少輔景弘と兄弟関係であったことが織田信長の文書で分かっている。
「右、九里ハ…」の文書は九里三郎左衛門の事だろうか?
とすれば、九里三郎左衛門が江州野洲郡入日岡城主であったという事になるのだろうか?
また、永田刑部少輔の本当の名前は「正貞」と書かれている。
信長公記に相撲の場面で、永田正貞が活躍している。
加賀藩の初代の九里も「九里正貞」である。
以前書いたブログ記事があった。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/9d7c64bd43cb666b41abc673062b5318
堂々巡りの箇所ばかりで、スミマセン。
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また、九里に「牧野氏」の所は良いと勧められて長岡藩に入った永田氏のことを、その末裔さんから「400年以上も前にこのように言われたのだ」と長岡藩の九里の末裔さんに伝えたという微笑ましい話を教えていただいてもいる。
わが大和宇陀松山藩・丹波柏原藩の九里も永田氏とは縁が深く、政道の娘が永田廣賢に嫁いでいて、政方の妻も永田廣満の姉か妹である。更に佐々氏から九里に養子に入って下さった「修政」も実は永田傳左衛門廣満三男であり、更にその廣満の兄弟も佐々家に養子として入っているのである。(この系は佐々宗淳=光圀公の配下にいた助さんの兄の系である。)
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古文書解読、
間違いのご指摘・解読ご参加、いただけますと有難いです!
なんとか解読したく、よろしくお願いいたします!!