九里 【九里】を探して三千里

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鏡神社のある近くの「夕日岡城」と永田氏と九里氏

2016-12-13 | 九里バラバラ情報
鏡神社近くの「夕日岡城」は、信長文書の下記のことではないだろうか?(東京大学史料編纂所DBより)
元亀1年5月17日

信長文書

近江永田景弘宛朱印状写 舎 兄 九 里 三 郎 左 衛 門 跡 与 力 ・ 家 来 、 寺 庵
簡(肝) 要 候 、 仍 状 如 件 、 五 月 十 七 日 信 長 朱 印 元 亀 元 也 、              
            永田刑部少輔 殿 右 九 里 ハ 、 江 州 野 州 郡 入 日 岡 城 主 也 、

九里となっていた永田刑部少輔は、永田景弘のことである。九里七郎右衛門とも名乗っていた。(法名・高宗)
この人が、入日岡の城主である…ということで、しかも九里の舎弟である。つまり九里三郎左衛門の実の弟か、義理の弟であろうと思われる。『武家雲箋』にも、その名前は載っている。

永田氏と九里氏とは江戸時代初期になっても婚姻関係があり、近しい関係である。


信長の指揮のもと行われた相撲大会に始めは行司役として、その後では力士として出場している。番外編で出場した永田氏だが、確か負けそうになりながらも勝ったような記憶がある。(↓に以前書いた記事があり)
http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/f7a5115674366e94ab9afe0efc19a40d


夕日岡と入日岡、是は同じお城だったのかどうか…『近江の城郭探訪』のブログに【夕日ヶ丘城(向山城・入日ヶ岡城) 近江国(野洲)】とあるので、どちらも同じお城であることが分かった。(ありがとうございます!)地図や写真も付いている。

http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/6903d1a0d860054a4140ee7e32ab5618

鏡神社と九里、やはり関係があるかもしれないと思う。何を探ればいいのだろうか。

永田刑部少輔景弘は本名を正貞という。九里にも正貞がいる。(以前も書いたが…)

【綱文和暦】 元亀1年5月17日(15700050170) 1条
【綱文】 織田信長、近江の永田正貞に所領を安堵せしむ、
【区分】 大日本史料
【人名】 織田信長,永田正貞
【官職】
【地名】 近江
【事項】 安堵

九里正貞(加賀藩の九里系図)

「九里氏姓源本出越前一乗谷 世々仕朝倉家朝倉喪亡之後、曽祖甚左衛門正貞天文十一年壬寅生、
矣壮歳于尾列信長公頗従洲俣之役興信長公相俱以馬渡俟河甚有軍功、其後復帰越前仕柴田勝家 一日辞禄而去 
至同州府中始奉拝謁 高徳公天正八年

公就封於能列之日正貞扈従賜采地弐百石 正貞容貌長大あり勢力故毎臨軍窶々有殊功 平日誇シ武晩年好禅學 元和五年致仕譲次子定則 剃髪號宗智…」九十三歳、最後は禅を学び、宗智と號し、没している。
天文十一年に生まれ寛永十年に亡くなっている。(1541年~1634年)

(そして、永田氏の高宗の孫が宗智と號しており、ひょっとして記載する場所を一行間違ったのではないか…と思ってしまう。)


さて、墨俣の役の時(1566年)、一緒に河を渡ったそうだが、信長32歳、九里甚左衛門25歳の時である。
1570年元亀元年に九里三郎左衛門がスパイ容疑で没収された与力・家来・寺庵が永田刑部少輔(右九里ハと言われ、系図にも称九里とある)に渡るが、これも、もしかすると九里甚左衛門正貞のことなのかもしれないと思ってしまう。


どなたかに解明していただきたい事案である。


 
   
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