佐々木定綱が石見国守護と成って補任となったのが1193年
島根県史によると、この時に近江・美濃・石見・隠岐等守護他とあるが、隠岐は総地頭とあるそうである。
ちょっと横道にそれるが、
近江八幡の「隠岐(起)太郎」はひょっとすると「定綱」のことだったのだろうか?(九里種信の関係文書)
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E4%B9%9D%E9%87%8C%E7%A8%AE%E4%BF%A1
その後広綱の代に移るはずであったが、其の広綱と息たちの死により隠岐の地頭職は失い、この跡に義清・息政義・泰清と移っていったように見える。
近江にいた真野氏が承久の乱の前後に隠岐島に全員が移り住んだと、ブログにコメントを下さった方がいらしたが、この佐々木義清の時代となるようである。そのコメントによると、其の後に近江にいた真野氏は別の人たちであるそうである。
佐々木義清は、承久の乱の功により「出雲・隠岐 両国守護」となり、1125年.1127年にそれぞれの守護補任となっている。(wikipedia)
あれれ、石見国は、入っていない??
石見国は定綱の後、益田兼高に守護職が移っていく。
益田氏に関しては、論文がある。
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/23/kiyo0023-02.pdf
始りからして「石見国」とある。
上記の論文の中に、
「藤原国保のもとで、久安三年石見国留守所下文(久利家文書、平安遺文二六〇二)により
長房が久利別符司に補任されている。
石見国に多く、且つ益田氏と関係の深い別符の初見史料で、
この時期に石見国における領域的庄園制形成の画期があったのではないか。」
1126年 清原長房
久安三年1147年 長房 久利別府司に補任
清原長房宛、久利別符司職. 「任先祖相伝之理」. 久利文書
別府とは「開墾所を管理する役所」のことだそうだ。
開墾を奨めて、管理、という事になると、それまでは荒れた土地であったのだろうか。