九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

善法寺通清 の 三人娘

2019-01-10 | 日記

善法寺通清は入江氏(家?)ともかかれている。
また、紀良子は月海夫人ともよばれていたそうである。
もしも順徳天皇とつながっていたならば、宮道氏とも繋がることとなるそうである。

【紀良子】wikipedia
紀良子(きの りょうし/きの よしこ、建武3/延文元年(1336年) - 応永20年(1413年))は、南北朝時代から室町時代の女性。室町幕府2代将軍・足利義詮の側室で、3代将軍足利義満、その弟満詮の母。
「北向」と号される。石清水八幡宮検校善法寺通清の娘。良子の母である智泉尼聖通が順徳天皇の皇子四辻宮善統親王の孫に当たるともいわれたため、義満の皇胤説が生まれ、皇室への対応の原因ともされるが、系譜の真贋は定かではなく、義満が自身の母系が皇胤であるとした動きは確認できていない。姉妹に後円融天皇生母の紀仲子と、伊達政宗 (大膳大夫)正室の輪王寺殿がいる。このため、後円融天皇と義満と伊達氏宗は母系の従兄弟にあたる。


【広橋仲子】wikipedia
(ひろはし ちゅうし/なかこ、藤原 仲子、紀 仲子 、延元元年(1336年)または延元4年(1339年) - 応永34年5月20日(1427年6月14日))は、室町時代の女性。女院。後光厳天皇の典侍で、後円融天皇の生母。広橋兼綱の養女で、実父は石清水八幡宮祠官善法寺通清。生母は四辻宮尊雅王の娘(法名智仙聖通)とされる。院号は崇賢門院。姉妹に紀良子(足利義詮側室、足利義満生母)、伊達政宗正室輪王寺殿がいる。比丘尼御所の大慈院(南御所)開基とされる。


【蘭庭明玉禅尼】コトバンク
(らんてい みょうぎょくぜんに)
1356-1442 南北朝-室町時代,伊達政宗(大膳大夫)の妻。
延文元=正平(しょうへい)11年生まれ。石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の検校(けんぎょう)の娘。足利義満の生母紀良子(きの-よしこ)の妹。伊達氏宗を生む。夫の死後出家し,陸奥(むつ)伊達郡(福島県)に輪王寺をたてた(のち仙台に移転)。嘉吉(かきつ)2年7月20日死去。87歳。


~~~*~~~

この通清の妻であった方である。

智泉聖通(読み)ちせん しょうつう
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
智泉聖通 ちせん-しょうつう
1309-1388 鎌倉-南北朝時代の尼僧。

延慶(えんきょう)2年生まれ。四辻善成の姉。順徳天皇の曾孫。
石清水(いわしみず)八幡宮の別当善法寺通清と結婚し紀良子(きの-よしこ)を生む。
のち出家し,臨済(りんざい)宗の夢窓疎石に師事。
京都に通玄寺をひらき,その後曇華(どんげ)庵をたて隠居した。
嘉慶(かきょう)2=元中5年11月25日死去。80歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典

朝日日本歴史人物事典の解説

智泉聖通
没年:嘉慶2/元中5.11.25(1388.12.24)
生年:延慶2(1309)
鎌倉末・南北朝期の臨済宗の尼で,尼五山通玄寺の開山。順徳天皇の孫の四辻宮尊雅王の娘。
兄は夢窓疎石の高弟で天竜寺第2世の無極志玄。
石清水八幡宮の社家善法寺了清(通清)に嫁ぎ,足利義詮 の妻で義満, 満詮の母である紀良子を含め数人の子を生む。
のちに出家し夢窓疎石に師事して仏道を極める。
応安7/文中3(1374)年ごろには清水坂に庵を構え(『後愚昧記』),のちに高倉通三条上ル西側に通玄寺を創建。康暦2/天授6(1380)年の通玄寺仏殿経始の記事(『空華日用工夫略集』)から開基はこのころと考えられている。至徳2/元中2(1385)年に通玄寺東庵を構え隠居した。
東庵はのちに曇華院に発展,応仁の乱で通玄寺が焼失したあとに寺跡を継いだ。<参考文献>『通玄寺史』,大石雅章「比丘尼御所と室町幕府」(『日本史研究』335号),芝野康之「室町加州における一在京領主について」(『中世の社会と一向一揆』)
(岡佳子)

~~~*~~~


コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 源扶義の娘が、藤原兼隆の正... | トップ | 夢想疎石の周辺と九里氏 »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
凄い気がする (りひと)
2019-01-10 17:18:52
面白くなりそうですね。5696
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

日記」カテゴリの最新記事