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源有仁とその周辺 (再び『源行真申詞記』を考える)

2017-03-03 | 近江国 佐佐木庄
『源行真申詞記』と『歴博データベース』によると、佐佐木庄は源有仁の領であった。

永治二年というキーワードと源有仁、そして、新を新院・武者所、友員を「祐師・有師・etc」「師友・師朝・師祐・etc」などと替えていろいろ検索してみた。師という字は、かずと読める。友は、ユウ・とも、「すけ」とも読める。いろいろなパターンが考えられる。


思っていたような情報はなかったが、源有仁と村上源氏との関係がみえてきた。先日中原一統と村上源氏との関係について『中原氏の一統は村上源氏の雅頼の家系と深い関係をもっていたに相違ない。』の一文を見つけていただけに、見逃せない。

有仁の父は「輔仁親王」であり、母は「源師忠」という人物である。

【永久の変】という事件も、関係してくると思う。

wikipediaによると、『この事件の背景には複雑なものがあり、それがこの事件に対する異なる解釈を生む原因となっている。すなわち、「白河法皇が自己の子孫による皇位継承の安定化のために対立候補であった異母弟・輔仁親王とその後ろ盾である村上源氏を排除しようとしたでっちあげ」とする見方

(源有仁は、輔仁親王の息である。)

「白河法皇が父である後三条上皇の遺詔に反して弟の輔仁親王に皇位を譲らずに実子の堀河天皇(次いでその皇子である鳥羽天皇)に継承させたことによる後三条上皇-輔仁親王派の反発から引き起こされた事件」とする見方

に分かれている。

^ 前者は竹内理三・安田元久・米谷豊之祐・坂本賞三らが採り、後者は河野房雄・槇道雄などが採る(槇、2001年、P17-18・27-28)。』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%B9%85%E3%81%AE%E5%A4%89


また、仁寛から立川流にクリックしてのwikipediaには、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E5%B7%9D%E6%B5%81_(%E5%AF%86%E6%95%99)

千手丸事件で罰せられたのが仁寛、および実行犯とされる千手丸の2名のみであったのは、そもそも天皇暗殺計画がなかったからではないか。

即ち、謀反は輔仁親王や支持勢力の村上源氏(仁寛も一族の1人であった)の影響力を削ぐために白河上皇によって捏造されたものであり、かれらを一掃せずとも所期の目的を果たせさえすればよしとしたため、この2名のみを「生贄」としたのではないか[注釈 22]。

とある。


そして、この事件の後に、輔仁親王の息子であった『源有仁』が白河院の養子となる。有仁王となるが、鳥羽天皇に子供が生まれたために臣籍降下となる。

『源行真申詞記』の事件当時、源有仁は左大臣であった。つまり、事件は左大臣の領での出来事であったわけである。


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申詞記のなかの、新六郎友員の新だが、『新院』の【新】とも考えられることに気が付いた。

永治元年(1141年)十二月七日、三歳でご即位なさった。そのため、先の天皇である崇徳天皇を新院と申し上げ、もともとの上皇である鳥羽上皇を一院と申し上げた。…と保元物語に出てくるそうである。

(永治元年(1141年)12月7日、崇徳天皇は体仁親王に譲位して三条西洞院第に移る。)


愚昧記の紙背文書であった『源行真申詞記』だが、この愚昧記の著者である三条実房の父公教か、祖父実行が書いたのであろうか?
これは検非違使問注所の報告書であったのではないだろうか?
(愚昧記=左大臣藤原(三条)実房(一一四七〜一二二五) の日記で、仁安元年(一一六六) から建久六年(一一九五)までの記事)

それが三条家にあって、裏紙として使っていた…と考えられる。

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藤原頼長の家司に中原師安がいたように、源有仁の家司も、中原がいた可能性はないだろうか? (頼長の家司は、「論集中世の文学散文篇」よりの情報だが、他では確認できず。)

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検非違使(けびいし、けんびいし)は日本の律令制下の令外官の役職である。
別当(べっとう)は、本来、律令制において本官を持つ者が他の官司の職務全体を統括・監督する地位に就いた時に補任される地位。

官司
令外官

律令制度の下で、令外官として設置された検非違使庁や蔵人所などの責任者。機関の統括責任者ではあるが、所内部の実務については直接関与しなかった(例えば、検非違使別当の場合、検非違使庁そのものは統括するが検非違使ではなく、同様に蔵人所別当も蔵人所を統括するが実務の責任者は蔵人頭であり蔵人としての職務は行わなかった)。対外的な責任者であるとともに、天皇・太政官との連絡にあたった。後には一部の寮・司にも別当が設置された。

代表的なものを挙げていくと、蔵人所別当は通常一上(多くは左大臣)が任命され、蔵人頭以下の補任及び天皇家の家政機関的な「所」の人事に関与した。検非違使別当は衛門督または兵衛督を兼ねる中納言・参議が任じられ、その命令である別当宣は内外に対して勅に匹敵する法的効果を有した。



一上(いちのかみ)とは、筆頭の公卿を意味する一ノ上卿(いちの しょうけい)を略した語で、通常は左大臣のことを指した。

天皇の師傅である太政大臣と天皇の代理である摂政関白を除いた公卿の中で最高の地位にある大臣がこれを務めた。すなわち、通常は左大臣が務めるが、もし左大臣が欠員もしくは一上の資格がない摂政関白を兼ねる場合には右大臣が、それも不可能な場合には内大臣が任じられることになっていた。ごく稀に大納言が務めた例もある。一上は蔵人別当を兼務して蔵人頭以下の蔵人を指揮し、陰陽寮別当が置かれた場合にはこれも兼務した。

一上任命の際には「一上宣旨」と呼ばれる勅宣が出されるのが通例だったが、一上の左大臣が摂政関白に就任することで一上を退く場合には、自ら後継の一上を指名する場合もあった。特異な例として、左大臣藤原道長が摂政就任によって一上を退く際に、当面の間は大臣以下大納言以上の7人の公卿のうちその日最も早く出勤した者がその日の一上職務を行うこととしたことがあったが、これは右大臣藤原顕光と内大臣藤原公季が高齢で老耄の気があることを道長が危惧したための対策だった(『小右記』長和5年3月16日条)。久安3年(1147年)には左右両大臣の不在によって一上となった若輩の内大臣藤原頼長が、大いに政務の再興を図って兄の摂政藤原忠通を圧倒している。

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いろいろなことを考えさせられる「謎の文書」である。

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