中島氏は八十四家中、八十二家が尾張から近江国へと移ってきている。
その先が湖北の富田村であった。
武家家伝の富田氏から一部を貼らせていただくと、
『富田氏は宇多源氏佐々木氏庶流といわれている。『寛政重修諸家譜』によれば、佐々木源三秀義の五男隠岐守義清の五代の裔にあたる義泰のとき、出雲国富田荘に居住し、その地名をとって苗字にしたという。
義泰の子師泰が出雲国富田城を築いたといわれ、その子秀貞のとき、はじめ広田氏といっていたのをあらためて富田氏にしたという。秀貞のころがちょうど南北朝内乱期にあたり、秀貞は貞治六年(1367)、出雲において戦死している。」
義泰の子師泰が出雲国富田城を築いたといわれ、その子秀貞のとき、はじめ広田氏といっていたのをあらためて富田氏にしたという。秀貞のころがちょうど南北朝内乱期にあたり、秀貞は貞治六年(1367)、出雲において戦死している。」
そのあたりを能義郡史談(国立国会図書館デジタル)に見出した。




富田四郎左衛門尉義泰が広田に居て広田氏となり、1265年に野木(能義)の地頭となって富田に住んだために、富田氏となった。
とある。
富田判官秀貞の時は、南北朝時代。
上記の富田と東浅井郡の富田と関係があるのだろうか?
尼子も出雲国にも近江国にもある地名なので、富田もそうなのかもしれない。
東浅井郡富田村・尾西市富田
他にも富田という地名は多い。中島も多い。