(文。剃髪号安楽。円光大師高弟。安楽寺開祖。 | |||||||||||||
鈴虫姫・松虫姫之事以後鳥羽天皇勅為所殺) |
上が系図に書かれている註である。
この箇所がわざわざ書かれているという事の意味を考えるに、このことに対する憤懣なのではないだろうか?
(勝手な想像)
***
さて、この住蓮と安楽(遵西)を死罪にしたのは「二位法印尊長」という人物なのだが、調べてみると父は一条能保であった。
母は坊門姫ではないかもしれない。
承久の乱で敗戦が明らかになると逐電し行方不明となる。
この続きが驚愕なのだが、(wikipediaより↓)
「6年の潜伏の後、嘉禄3年(1227年)京において謀反を計画しているところを発見され、六波羅探題・北条時氏の近習・菅十郎左衛門周則によって逮捕された。逮捕される時、抵抗して武士2人に傷を与えた挙句、自殺を図ったという(『吾妻鏡』6月14日条)。だが死に切れぬまま、逮捕されて車に乗せて六波羅に担ぎ込まれ[1]、六波羅で誅殺された(一説に自害したとも、傷により死亡したともいわれる)。
『明月記』によると、捕縛された際に自殺し損なった尊長は、「早く首を切れ。さもなければ義時の妻が義時に飲ませた薬で早く自分を殺せ」と叫び、問いつめる武士たちに「今から死ぬ身であるのに、嘘など言わん」とも述べたといい、探題の時氏・時盛らを驚愕させたという(『明月記』6月11日条)。3年前の北条義時の死が妻の伊賀の方による毒殺であったとの発言であり、
・・・」
尊長は一条能保の息であることがわかった。
義時の娘に一条実雅に嫁いでいる人がいるため、いち早く一条家に義時が歿したことが伝わったか…
一条家に嫁いだ娘は伊賀の局の実の娘のようである。何か秘密を知っていた可能性もある。
戦乱の世、伊賀の局自身の(自害する時のために肌身につけていた)薬を義時に使った?とか、
葬儀は泰時の到着を待たずに行われたそうである。
一条実雅
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E9%9B%85
一読したけれど、たいした事は書いていませんでした。
この事件は、法然、親鸞の配流の法難として有名なので、一応知っていました。
なお、出家したのは松虫(松虫姫)と鈴虫(鈴虫姫)という名前の女性だったという説がある[6]。 この二名の名前は、『安楽寺略縁起』や『住連山安楽寺鹿ケ谷因縁団』等にみられる記述である。 この説に対し仏教史家の今井雅晴は、『安楽寺略縁起』は江戸時代末期の成立、『住蓮山安楽寺鹿ケ谷因縁団』は1899年(明治32年)に刊行されており、この時代以前の資料に記述が見られない事から、江戸時代以降の創作である可能性が高いとしている[1]。
Wikipediaとある。
少なくとも、1780年(安永9年)の都名所図会まで100年は遡れますね😃
Wikipediaに加筆しましょうか?
色変はる紫陽花のごと歴史かな
コメントありがとうございます~♪
「都名所図会」にあるとのこと、快挙!!ですね。
其の系図の註がいつ書かれたものかはわからず、古ければ実在の人物となりますね。
一応、今出川左大臣家のお嬢様二人のようですが、
ちょっと調べてみようと思います。