法然を調べていて思わぬところに中原氏がいて驚いた。
以前パンフレットをいただいていた京都「住蓮山 安楽寺」は、松虫姫・鈴虫姫で有名である。
法然上人の弟子、安楽房とは【中原師広】であった。遵西ともいう。
父は中原師秀。
祖父は中原師元。
この中原は近江国の中原や親光・親厳・親季・朝親とは少々遠いが、大外記の系でもある。
さらに、式子内親王がこの松虫姫・鈴虫姫を連れて瀬戸内の島に渡り【光明三昧院】で暮らしたというではありませんか。
以前調べた際には【尼聖如】とあったが、HPでは【如念方尼】となっている。
http://anrakuji-kyoto.com/archives/2808
http://www.honnet.jp/metro/rekisi/r211/rekishi37.html
式子内親王の生涯を京都で追い掛けた身としては、恥ずかしい限りです。
今日、深谷の畠山重忠公史跡公園に行って参りました。又記事にしますので、御覧頂ければ幸いです。
荒川も堰止め渡る皐月雨
(重忠橋と言うのが、荒川に懸かっておりました)
式子内親王ご自身は、京都で病没なさったそうですので、少しの間居たと言う可能性も考えられます。
激動の世の中でしたので、情勢を見て戻ってきたのかもしれません。
松虫姫、鈴虫姫、は、院の官女達からイジメを受けていたそうですので、遵西や住蓮も助ける意味で出家を認めたような気がします。
後白河法皇の皇女は、亮子内親王(~建保4年4月2日(1216年4月27日))、丹後局の覲子内親王(~建長4年6月8日(1252年7月15日))などおり、他の内親王の誤伝、高倉天皇の皇女坊門院範子内親王(~1210年)などおります。
今日暑きTシャツを着て出掛けよう
調べ直します!
九条兼実の娘、宜秋門院かなぁ?