近江国と上総国を結ぶ線上にいる人物として「藤原黒麻呂」がいる。
以前にも記事にはしていたが、再度TRYしてみようと思う。
wikipedia コピー
藻原荘(もばらのしょう)は、奈良時代に成立した日本の初期荘園のひとつ。上総国埴生郡、現在の千葉県茂原市を中心とする一宮川流域に存在したと推定される。
『朝野群載』所収の、寛平2年8月5日付藤原菅根等連署施入帳にみえ、興福寺領であった。
宝亀5年(774年)上総介に任ぜられ現地に赴任した藤原黒麻呂は、入手した牧を開墾し藻原荘が成立した。
黒麻呂の子春継は常陸大目坂上盛の女をめとって藻原荘に住み生涯を終えたが、子の良尚に自分の死後は当荘中に葬り墓所として保全するため興福寺に施入するよう遺言した。
しかし、良尚は遺言を果たさぬうちに貞観19年(877年)に急死したため、寛平2年(890年)良尚の子菅根らが田代荘とともに興福寺に施入した。
一宮川中流の藻原寺付近にあったとされ、荘園の存在した奈良・平安時代は埴生郡の郡域内であった。
その後郡域に変更があり、江戸時代には古代の埴生郡の太平洋側が長柄郡に併合されたので、長生郡発足以前の長柄郡にあたる所である。
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黒麻呂の父と母、その周辺
父:藤原巨勢麻呂、母:山背王の娘(山背王=藤原弟貞 父は長屋王 母は藤原長娥子で、藤原不比等の娘)
妻:田辺清足の娘、縣犬養氏
息:春継 母は縣犬養氏
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藻原にある橘樹神社に関すること
下記のページがすばらしく、いろんなヒントが見つかった。
http://engishiki.org/kazusa/bun/kaz190201-01.html
穂積忍山宿禰 (ほづみのおしやますくね)
日本武尊の妃、弟橘媛の父。
景行四十年十月に「時に王に従ひまつる妾有り。弟橘媛と曰ふ。穂積氏忍山宿禰の女なり」とあり、
五十一年八月に「(日本武尊の)妃、穂積氏忍山宿禰の女弟橘媛は、稚武彦王を生めり」とある。(『紀』)
『記』成務巻には、天皇が穂積臣らの祖、「建忍山垂根」の娘、弟財郎女をめとり、和訶奴気王を生んだとある。
系譜上の位置づけは定かではないが、崇神紀七年八月に「穂積臣遠祖」とある大水口宿禰の子か孫であろう。
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memo
藻原荘
上総と近江を結ぶ藤原氏
黒麻呂の子孫
黒麻呂が因幡守であった事
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橘木荘
九條蓮西尼 相伝は頼偏 良海(九条兼実の息)となっている。
長谷川景則
下河辺氏?
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斉藤兼綱(茂原の豪族斉藤兼綱)
宗祖生国の先住者安房に移住した阿波忌部いんべ族の動向について
https://genshu.nichiren.or.jp/genshu-web-tools/media.php?file=/media/shoho41-37.pdf&type=G&prt=1270
田代荘
田代荘(たしろのしょう)は上総国長柄郡、現在の千葉県長生郡長柄町田代地区を庄域とし、平安時代を中心に発展した興福寺系の荘園。初見資料は『朝野群載』所収、寛平2年(890年)8月5日付の「藤原菅根等連署荘園施入帳」。
宝亀5年(774年)に上総介に任じられた藤原黒麻呂が現在の茂原地区を私牧として設定し以降、子春継の代に至るまでその土地を開墾して藻原荘とし、同じ一宮川の上流域の谷戸である田代地区を買得集積し、これを田代荘とした。なお、施入帳には「田代荘 壱処在長柄郡、壱処在天羽郡」とあり、田代荘は長柄郡と天羽郡に分置されていたとみられ、天羽郡の部分は天羽荘とも称された。
藻原荘に住み生涯を終えた春継は、興福寺に施入するよう遺言していたが、菅根の亡父良尚は遺言を果たさず急死しため、菅根らが施入したとされている。また、9世紀半ば頃から、東国では朝廷の統制力は既に弱まり、寛平・延喜東国の乱に見られるように治安が不安定なっていく時期であったことから荘園を存続させるため、黒麻呂の孫良尚に死により継承した曾孫菅根等が本家職を藤原氏の氏寺である南都興福寺に藻原荘とともに施入(献上)したとも考えられている。
橘樹神社
http://engishiki.org/kazusa/bun/kaz190201-01.html
穂積忍山宿禰 (ほづみのおしやますくね)
日本武尊の妃、弟橘媛の父。
景行四十年十月に「時に王に従ひまつる妾有り。弟橘媛と曰ふ。穂積氏忍山宿禰の女なり」とあり、
五十一年八月に「(日本武尊の)妃、穂積氏忍山宿禰の女弟橘媛は、稚武彦王を生めり」とある。(『紀』)
『記』成務巻には、天皇が穂積臣らの祖、「建忍山垂根」の娘、弟財郎女をめとり、和訶奴気王を生んだとある。
系譜上の位置づけは定かではないが、崇神紀七年八月に「穂積臣遠祖」とある大水口宿禰の子か孫であろう。
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いろいろと気になることが多い、この周辺である。
私も何か調べていて違う名字での名前ともう一人藤原の名前の人が違う人ってそんな修飾があるとまず同じなんじゃないって逆に気になるので同じ黒麻呂で違う名字の方を探してみます。私が気になったのは誰だったか?こちらに伝えたいと思った方いたんですよ。
そもそも藤原って鎌足が本人の意思なく頂いた名前ですし、黒麻呂って文字から思うのは藤系の方というよりは原系の方だと思いますよね。さあどうなるか?とても楽しみです。
名前の作り方も下の名前が後に名字になってそうに思う事もありますが全く違う名前にするってよっぽどの理由ですし、それを藤原にしちゃうってのも少し頻繁にでてくるとテクニックのようにも感じることも多いです。単なる間違いもあるみたいですけど、文字に意味を込める事はしそうですよね。唐よりも柄のが好きになってきたのと、長生郡がまた昔から気になるので私とってとてもありがたい記事に感じました。諏訪大社の秋宮だかと調べていたばかりなのでそこでひらめいた長生郡が出てくる記事はタイムリーです。行ってみたい場所です。長+生で考えると山口と兵庫も今気になってます。忘れちゃうので入れておきますね。
たくさん、コメントいただいてありがとうございます。
黒麻呂をピックアップみたら、古市黒麻呂に出会い、お墓が「現奈良県宇陀市菟田野町古市場の宇太水分神社内の金刀比羅神社の祠である」ってありました。
九里政直が見回っていた場所と思います!
で九里さんの関わる奈良なのでビンゴって思ったんですよ。
調べても色々と制約もありふっと忘れてしまうんで教えてくれて助かりました。ここのところ金比羅調べてましてね、それで出てきたんだと思うんですよね。
京極さんの金比羅さんともう一つの四国の金比羅さんの東京にも両方共に以前からお世話になっておりましてね。で四国は調べないでずっときてたんですけどやっと時期が来たようで調べ始める事なりそうです。そしたらなんと昔あったお寺が気になりそしてそこでなくなっららしい薬師如来が超気になってます。で不動と毘沙門さんも最近やたら昔の縁が戻ってきたようで岡山のお寺にあるなんで、ニュースでも出てきたお寺でまたびっくりですよ。この関係は私の縁ではなく父や他の縁のようなのですが、すっかり流されてます。
古市っていうのも結構謎の方いますし、古墳群も大阪にありますよね。もう一回戻って調べる機会を頂いたんできっとお互いい情報に出会えそうですよね!
今日一つ検案事項が片付き残り一つ、我が家はインフル騒動で大変でしたけど、乳酸菌とキャベツと大根で免疫力あげてコロナにも対応していきたいです。
そうそうアブラナ科のお花で4弁で中に十字が出るってお花があったんですけど菜の花だったかな?四弁も父の方は関係してくるとも思うんですよね。
で五弁もどうも関係しそうで桔梗はお墓に持って行くんですけど、黄色い五弁のアザサというお花が奈良の三宅町で有名だと知った後、すぐ鶴瓶の家族に乾杯で出てきたんですよ。青とか紫でなく黄色。五弁と言うと梅なんですけどこのお花も五弁代表として入れておきたいんですよね。お水綺麗な所しか咲かないとかそういう接点があれば九里さんの関わる地とリンクしてきそうに思います。三島で見た梅花藻も近江でもあるんだっけなあ?これは白だったかな?
私はあまり花に興味ないんですけど、家紋とかのお花とか葉っぱの枚数とかもヒントにはなりそうに思います。九里さんの家紋も調べてみますね。
あと装飾古墳も好きなんですけど、ベンカラとか靫(弓を入れる物)まであるって事は旧石器からの文化継承している鉄を扱える特別な集団っぽいですね。
近くまで行けていたのに〜!5世紀ってまた私の探っている年代よりも古いだけに超楽しみです。日本の歴史変わるんじゃないかな?もっと注目されるべきエリアですよ。コメンテーターの古市さんもとっても好きです。真面目で真剣に日本の常識と闘っているようで、ちょっと特殊なルーツ入ってそうですよね。高市(奈良)とか市辺(近江)を繋げる人でしょうね〜。工具とかがあるって事は命令するだけでなく作れる技術があったからの鉄製工具。権力あっても支持するだけじゃなくちゃんと自分たちで出来る民族っぽいですよ。