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橘木文書 二宮荘(橘木荘)

2020-02-16 | 雑記

二宮荘(中世)

平安末期から見える荘園名上総国長北郡のうち上総国二宮橘木神社の神領を基盤に成立,鎌倉期までは橘木荘とよばれた

康治2年8月19日の太政官牒案(安楽寿院古文書/平遺2519)に「壱処〈字橘木庄〉在上総国長北郡内」とある
永暦元年2月23日の美福門院庁下文・同年12月の尼蓮西解案(報恩院文書/県史料県外)や「庄々所済日記」(安楽寿院古文書)によると,当荘は保延6年に藤原通憲(信西)が,安楽寿院に寄進し,翌永治元年に立券された寄進当時,四至に牓示を打つ際西南は国の在庁と相論があるため,東南は藻原荘と相論があるために打てなかった
その後安楽寿院領を伝領した美福門院は,永暦元年2月に通憲の娘二位局蓮西を預所に補任した

元久3年4月11日の頼遍処分状(橘神社文書/県史料諸家)によると,当荘内十三郷方は蓮西から養子頼遍に,さらに元久3年頼遍から醍醐寺座主良海に譲られた同じ頃のものと推定される
2月24日の北条義時書状(同前)によると,当荘十三郷方は義時の請所となっていた

ちなみに,貞応3年4月22日の皇后宮(藤原有子)令旨(橘神社文書/県史料諸家)にも十三郷方が関東の沙汰であったことが見える
また,当荘が寄進時の保延6年はおそらく国守高階泰重任終の年にあたり,泰重の姉妹は信西の妻となっているので,この立荘には泰重の介在が予想される

嘉元4年6月12日の永嘉門院(瑞子内親王)使家知申状并御領目録(竹内文平所蔵文書/神奈川県史資料編3)にも当荘は安楽寿院領として見え,「泰継朝臣相伝知行」とある
この泰継は泰重の子孫にあたるので,領家職は高階氏に相伝されたと推定される

ところで先の頼遍処分状に「十三郷方」と見え,建久5年10月20日の蓮西年貢支配状(橘神社文書/県史料諸家)に「橘木社御年貢三方支配」とあり,また十三郷方が年貢の3分の1を負担するよう定められている
ことにより,荘内は十三郷方を含めて3つの地域に分かれていたことがわかる
したがって当荘の年貢米200石や寺用物は3か所が均分負担した先の「庄々所済日記」によると,当荘本郷は信西の甥範定,五ケ郷は信西の孫恵敏,三ケ郷(十三郷の誤りか)は安楽寿院殿僧が各々支配しているが,これは建久5年以降の蓮西の死後,同人の有した預所職が分割知行されたものといわれる(古文書研究9)
下って,康安2年4月25日の関東管領高師有施行状(帰源院文書/神奈川県史資料編3)で,鎌倉府は細川清氏跡である荘内庄吉郷の下地を御愛局代にわたすよう守護千葉氏胤に命じている

貞治元年12月22日の鎌倉公方足利基氏寄進状(円覚寺文書/同前)によると,庄吉郷は御愛局追善のため基氏から円覚寺舎利殿に寄進されている
また同荘小林郷は貞治3年9月16日付鎌倉公方足利基氏御教書案・同年10月2日付上総守護新田直明請文案(極楽寺文書/同前)から,この時点でその半分が極楽寺地蔵院に寄進されていることがわかる
さらに観応2年8月23日の粟生為広譲状写(尊経閣文庫所蔵文書/栃木県史史料編中世3)から,荘内秋羽郷高師村3分の1が当時粟生氏の所領であったことが知られる

室町期における荘内の郷名としては,応永16年3月3日に邑陊郷(万光寺所蔵梵鐘銘/県史料金石1),同年2月9日には長尾郷(橘神社所蔵鰐口銘/同前),応永17年9月には舟木(長柄町味庄天満神社所蔵鰐口銘/同前)が各々見え,下って享禄2年には本納(大網白里町正法寺所蔵鰐口銘/同前)の名が見える
戦国期には一時伊勢宗瑞(北条早雲)に占拠されており,永正16年4月28日の伊勢宗瑞箱根領注文(箱根神社文書/神奈川県史資料編3)によると,宗瑞の子菊寿丸(長綱)が箱根権現別当坊金剛院に入寺した際に寄進された所領の中に,当荘の年貢1,000貫文が含まれている

===*===

ここに出てくる【蓮西尼】は比丘尼蓮西ともいわれ、『信西の娘』であるようだ。
蓮西尼から相伝される頼遍は養子で、その後九條兼実の息である良海に渡る


これらの事が書かれた「橘木文書」は長谷川氏に宝暦に渡ったそうである。
この長谷川氏は満仲の裔(下河辺氏?)の長谷川氏であろうか?

非常に興味深いと思う。




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2 コメント

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二宮荘長谷川?に回答 (長谷川治部太夫)
2021-03-13 19:53:56
短くコメントします。千葉県茂原市に住む長谷川です。「橘木文書」は大正時代、京都の長谷川家から橘樹神社に伝わっています。 茂原長谷川家との関連は分からないのですが、当家が戦国時代、京極氏の流れの上総多賀氏が中興したとされ、森茂暁「佐々木導誉」を読んでいると東上総に佐々木氏の勢力が浸透していたと考えています。
「満仲の裔」というのは不明ですが、古い家系とされ「太田桔梗」を家紋に使っています。ルーツ探し中に貴サイトにあたりました。今後ともよろしく。
追 中原氏のお話が出てきますが、当家では長元2、3年に創建された「熊野神社」「道祖神社」を祀っており、丁度「長元の乱」で中原氏が上総に派遣された年なので、興味をもっています。
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コメントありがとうございます! (kunorikunori)
2021-03-13 20:42:46
長谷川治部太夫様

コメントありがとうございます。

東上総に佐々木氏でしたか。

長谷川様、太田氏とも関係のある下河辺氏との関係はございますでしょうか?

我が家も茂原と関係があると思っております。また近江国の佐々木氏の初期とも関係があると思っております。特に京極と六角と分れる以前のことと成ると思います。

長元の乱、其の時にやってきた中原に、先祖がいるのかもしれませんね。

もしもお嫌でなければ、メッセージ(私のメールにダイレクトに届く)を左の一番上に設置しますので、メールをいただけますと、ありがたいです。

何かしら情報交換ができると嬉しいです。
が、お嫌でしたらスルーなさってくださいませ。

コメント、我が家にも とても近い感じがしました。
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