遺族の願いを撥ね付け、証拠のシャツを死守する検察の「保身」を告発する――
空っ風が吹き抜ける、冬の曇り空だった。旋回するトンビの鳴き声と、渡良瀬川のせせらぎに混じり、女性のすすり泣く声が聞こえた。手を合わせた細い肩が震えている。
そこは、十七年前、彼女の子供が殺害され、遺体となって発見された中州だった。全裸で棄てられていたのは、まだ四歳の娘。すぐ脇の流れの中から見つかった娘のシャツには、犯人の精液が付着していた。そのDNAを証拠に逮捕されたのが菅家利和氏だった。
そして女性は「足利事件」の被害者の母、松田ひとみさん。
昨年、それまでの捜査が間違いだったことを知った。さらに「時効なのでもう捜査はできない」と検察から聞かされた。ならば、娘の死はいったい何だったのか。母が、犯人に聞きたかったこと。「なぜうちの子だったのか」。
もう為す術がないのなら、せめて娘の遺品を返して欲しい。母は検察にそう伝えた。だが検察はその願いを撥ね付けた。捜査はしないが、シャツも返さないというのだ。いったい真意は何なのか。今や信頼が地に堕ちた検察。その組織が隠蔽したい疑惑がシャツにある。
■検察を襲った大激震
大阪地検でのフロッピーディスクの改ざん・犯人隠避事件で前特捜部長ら三人の検察官が起訴され、最高検幹部までが処分を受けた。尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件では、検察は不可解にも船長を釈放。一方で、検察が不起訴とした小沢一郎元民主党幹事長は検察審査会が強制起訴議決。どこまでも続く検察の激震……。証拠隠滅罪で起訴された前田恒彦元検事は、無理筋の捜査の辻褄を合わせるために、日付を“一文字”改ざんしたのだという。
筋読みに物証を合致させた検察。だが足利事件では、逆に誤った物証に筋読みを合わせてしまったのだ。
殺人罪などで逮捕された菅家さん。彼は、犯人とDNA型が一致するという前提で、自白に追い込まれた。宇都宮地検では検察官が自供調書を取っている。
一九九〇年五月十二日。菅家さんは足利市内のパチンコ店にいて被害者の松田真実ちゃんと出会ったと決めつけられた。真実ちゃんを自転車の荷台に乗せて、渡良瀬川の中州まで連れ出し、殺害して悪戯をした。検察はそう断定して起訴した。
「自転車に乗るかい?」。その一言で、幼女の誘拐に成功したとされる調書は、全くもって不自然なものだった。全体的な時間の経過に無理もあり、裏付けはほとんど取れていない。犯人しか知り得ない事実=「秘密の暴露」もなく、現場周辺で、菅家さんを目撃した人もいなかった。
逆に、自供とはまるで符合しない目撃証言があった。真実ちゃんらしき女の子と、手を繋いで遺体発見現場に向かって“歩く”男がいたのだ。漫画の「ルパン三世」によく似た男だったという。それは、複数の人物によって目撃され、調書にもされたが、なぜか封印されてきた。
結局、捜査は唯一の物証だけを重視した。現場に残されていた、被害者の半袖シャツに付着した犯人の精液。科学警察研究所(科警研)で行われたDNA鑑定により、その型が菅家さんと一致したとされた。検察はその鑑定に全幅の信頼を寄せ「やってません」と涙ながらに訴えた人間の言葉を無視し、犯罪者と決めつけた。
だが、昨年行われたDNA再鑑定で、それが不一致だったことが判明。つまり、菅家さんは“犯人にはなれない人”だったのである。ならば残された菅家さんの自供調書とは、いったい何なのか。
「検面調書」。用紙の中央に、そう印刷された分厚い束は、今となれば、最初から最後まで丸々一冊が“でっちあげ”ということになる。日付“一文字”の改ざんどころではない。
今年一月、菅家さんの再審では、当時の取り調べの様子を録音したテープが流された。合計六時間以上にも及ぶそのテープは、森川大司(だいじ)検事(当時)が録音したものだと言う。
法廷の天井にあるスピーカー。私はその真下の席を選んで座り、ペンを手に耳を傾けた。その内容は、まさに筋書きに、自供を合わせる作業だった。
改めて、無罪を訴える菅家さんに対し、検事は〈DNA鑑定で、君の精液と一致する精液があるんだよ〉と迫る。菅家さんは〈全然わかんないんですよ。本当に……絶対に違うんです〉と関与を否定。
だが、鑑定を絶対的に信頼している検事は、聞く耳など持たない。〈君と同じ精液を持っている人が、何人いると思っているの?……君と一致するんだよ〉。逃げ道無しの取り調べ。身に覚えのない内容を突きつけられ、菅家さんは、次第に沈黙し、やがてすすり泣きを始める。〈否定する時は、僕と目を合わせていないね……ずるいんじゃないか、君〉と追い詰められていく。
気が弱かった菅家さんは、当時を思い出し、ため息をつく。
「何を言っても、本当のことは聞いてもらえないんですよ。追い込まれて、話を合わせるしかない。勘弁してもらえないです。今も、森川検事が夢に出てきます」。深夜、突然目覚め、フラッシュバックに苦しむという。
法廷で、菅家さんは森川検事に謝罪を求めた。
「十七年半もの長い間、無実の罪で捕まっていたことをどう思うんですか」
森川検事は「証拠を検討して犯人に間違いないと判断して起訴した。非常に深刻に受け止めている」と述べるだけで、謝罪しようとはしない。「謝ってください」と訴える菅家さんに対し、今度は森川検事が目を合わさず「話したとおり」と繰り返した。
森川検事の取り調べは、被告に黙秘権を告知しておらず、弁護士にも連絡しなかったなどの問題点が指摘され、違法な取り調べであったと裁判で断定された。だが結局、処罰はない。
再審が始まる前には、検察は「速やかな無罪こそが被告の名誉回復になる」と、証拠調べを求める菅家さんの気持ちを撥ね付けた。冤罪の原因究明を避け、無罪を“勝ち取り”逃げ切ろうとしたのだ。それは「真実」や「正義」などと言う言葉から、かけ離れた検察の姿にしか見えない……。
事件の“真犯人”ルパン。私は取材を重ね、その男を探し続けた。男は、北関東で続いた五件の「幼女誘拐・殺人事件」の犯人である可能性もある。わずか二十キロ圏内で続いた事件は、手口や現場などに共通点が多いからだ。そして幼女趣味などの事件は、再発の恐れも高い危険な犯罪なのだ。だからこそ、真犯人の情報は複数のルートで捜査当局に伝えてきた。しかし「時効」を理由に現在、当局の捜査は行われていない。
菅家さんを誤認逮捕し、実質的な捜査は、わずか一年半しか行われていないにもかかわらず、まるで真犯人の弁護士かのように、「時効」という言葉を繰り返す当局。これまで私が男の情報を提供した先には、検察庁も含まれていることを、ここに書き残しておく。
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宇都宮地検
■司法を動かした遺族の言葉
菅家さんの「冤罪キャンペーン報道」。そして真犯人を探す一方で、私は連続事件の被害者家族の方々の取材もして廻った。中でも、どうしても話を聞きたかったのが、松田真実ちゃんのご遺族だった。
事件“解決”後、静かに暮らしているその方を、渦中に巻き込むことに抵抗はあった。可能な限り、報道被害は排除しなければならないが、この事件を伝えるためには、被害者の名前や写真も報じることになる。遺族の理解は必要と考えた。そして何より、“一番の弱者の声を聞け”が取材に課した私の決めごとだった。この事件であれば、それは間違いなく四歳で殺害された真実ちゃんであり、気持ちを代弁できるのは母親しかいない。
松田ひとみさんは、事件発生当時から全ての取材を拒否し、その行方もわからなかった。松田さんの知人を捜し、手紙の転送などをお願いした。今にも途切れそうな細い糸を慎重に手繰るような作業の果て、私の携帯電話に松田さんから非通知で着信があったのは、〇七年の秋だった。それは、取材の承認とはほど遠く、抗議に近いものだった。もどかしい電話でのやりとり。それでも何度かの電話を経て、松田さんと会えることになった。
郊外のファミリーレストラン。何組もの家族連れが、楽しく時を過ごす週末に、松田さんは初めてマスコミという人種と正面から向き合った。
娘を殺害された母と、犯人と名指しされた男の冤罪を報じようとする記者。
「何を今さらですか」
席に座ったとたん、私はぴしゃりと言われた。
「今頃、私が話をしても、何も変わらないんじゃないですか? 犯人は、もう逮捕されたんでしょう。何で、まだ取材しているんですか?」
取材は、母親の側から始まった。
「逮捕された菅家氏が、冤罪を訴えているんです……」
「そんなこと……今さら……私は、その男が、犯人と信じてますよ」
「はい、当初は自供をしてました」
「真実を連れて行ったと言ったって、刑事さんから、そう聞きましたよ」
「えぇ、自転車に乗せて誘拐したという供述をしました」
「え? 自転車? 歩いてでしょ?」
「いえ、荷台に乗せてと」
「えー、そんなはずないですよ、真実は自転車の荷台になんか乗れませんよ」
「そうなんですか、四歳でしたね」
「はい、(幼児用の)かごが付いた自転車じゃないと無理ですよ」
それは、母親だからこその感覚だった。
「裁判は傍聴されていないのですか」
「マスコミがいるから行けませんでした。新聞にも、書いてあったのかもしれませんが、知らないです、見たくなかったですから……」
話す程にすれ違っていく事実認識。
母親は警察から、詳細な犯行内容を聞かされていなかった。そして遺族が初公判を傍聴するために、裁判所に出向いた際には、刑事からこう言われた。
〈マスコミがたくさんいますから、法廷に入らずこのまま帰った方がいい〉。事件後、マスコミに追われ、プライバシーまで暴かれた夫婦は、素直にその言葉に従った。
母親は、菅家さんの供述や、判決内容を私から聞くことになった。供述に存在する矛盾や、捜査の不自然さ。彼女が感じたいくつかの疑問は、やがてテレビカメラの前に立つ勇気へと変わっていった……。
十七年ぶりに渡良瀬川に立つ遺族。それは思い出したくもない場所だったろう。右手に花束を持つ松田さん。傍らには、事件後に生まれた妹と弟も寄り添っている。子供達二人は、この取材をきっかけに、幼くして亡くなった姉の最期を知った。
中州にしゃがみ込む三人の姿。予期せぬことが起きたのはその時だ。
最初に大粒の涙がこぼれたのは、母親の眼ではなかった。真実ちゃんには一度も会うことができなかった、きょうだい達の頬。
「おねえちゃんに会いたかったよ……なんで真実ちゃんだったの?」
「お母さんもそれがわかんないんだ。返して欲しかった」
絞り出すような妹の問と、母親の答え。弟の涙は、足元の砂地に吸い込まれていく。我々取材クルーは、遠くから三人の姿を見守るしかなかった。
以後、松田さんは、次第に私の取材に協力をしてくれるようになった。深まる疑問は、遺族ですら納得できないものだったからだ。
昨年四月、DNA再鑑定の結果が不一致と判明した。その翌月、松田さんは宇都宮地検から連絡を受けて、検察庁まで出向いた。真実ちゃん自身のDNA鑑定の協力を求められたのだ。その協力をする一方で、松田さんは、検事に向かって訴えた。
「菅家さん、あえて『さん』をつけさせて頂きますが、もし菅家さんが無罪であるなら、早く軌道修正をして欲しい。捜査が誤っていたならば、謝るべきです。捜査は誰が考えたっておかしいでしょう。ごめんなさいが言えなくてどうするの」
検事にとって、遺族の口から出たそれは、まさかの台詞だったろう。まるで子供を叱る母親のようでもあった。
検察庁から出てきた松田さんをインタビューした私は、昨年五月三十一日に、母親のその想いを電波に乗せた。菅家さんが突然釈放されたのは、それから四日後のことだった。
無罪が確定した今年三月、松田さんは再会した検察官から、〈お母さんに言われたあの言葉で、菅家さんを釈放することになりました〉と説明を受けた。
http://bunshun.jp/bungeishunju/ashikaga/201012.html