海軍大将コルシンカの航海日誌

ロシアの作曲家リムスキー=コルサコフについてあれこれ

キュイの歌劇(その1)~人物像

2004年09月23日 | 関連人物
ロシアの作曲家ツェーザリ・キュイの歌劇《ペスト流行期の酒宴》のCDが発売されました。

A Feast in Time of Plague (amazon.co.jp)
Andrei Baturkin (baritone)
Alexei Martinov (tenor)
Dmitri Stepanovich (bass)
Ludmila Kuznetsova (mezzo-soprano)
Tatian Sharova (soprano)
Russian State Symphony Orchestra
Valeri Polyansky (conductor)

これはロシア歌劇の愛好者にとっては特筆すべき記念的な出来事なのです。
というのは、キュイの歌劇が完全な形でリリースされたのは、レコード時代も含めておそらく初めてのことだったからです。

ツェザーリ・アントノヴィチ・キュイ(1835-1918)というと、どのような人物像が浮かぶのでしょうか。
一般的にはおおよそ次のようなところでしょう。

 1 ロシア五人組のメンバーの一人
 2 歌曲やピアノ作品などの小品で(多少)知られている
 3 毒舌の批評家

私は4番目として「実は大オペラ作曲家(らしい)」を加えたいのですが、それはさておき、これらの一つひとつを、彼の生い立ちや社会的地位を交えながら検証していくと、彼がいかに複雑で矛盾に満ちた人物であるかということが見えてきます。
その考察は別の機会にするとして、ここでは3つ目の「毒舌の批評家」という点に少々触れておきます。

「もし地獄に音楽院があり、...」と、ラフマニノフの交響曲第1番の初演に対してキュイが寄せた有名な批評があります。
若きラフマニノフをノイローゼに追い込んだ遠因の一つとも言われる曰く付きのものですが、もちろんこれだけではなく、彼が書いた辛辣な、時として仲間からも悪意に満ちているとすら受け取られた批評のおかげで、彼は多くの「敵」を作ってしまったようです。
それが伺える当時のカリカチュア(風刺画)があります。
これがなかなか味わい深い(?)ものなので、ご紹介しておきましょう。

古代ローマの円形闘技場。
皇帝の観覧席に座っているのがキュイその人です。
キュイの名前のフランス語読みセザールCesarは、いうまでもなくカエサルCaesarに語源を持つものであり、音楽論壇におけるこの「独裁者」を古代ローマ皇帝になぞらえているわけです。
そして、試合場からその皇帝キュイに向かって剣を高々と上げて拝謁する4人の剣闘士たち。
古代ローマにおいては、戦いの前に皇帝の面前でこうするのが習わしだったそうですが、よく見るとこの剣闘士たちの出立ちはどこかおかしくて、色々な国の民族衣裳のようなのです(この点に注目)。
さらに剣闘士たちが剣とは反対の手に持っている楯には何やら文字が刻まれています。
実は、これらはそれぞれキュイが作曲した4つのオペラのタイトルとなっているのです。

このカリカチュアは二重の意味でキュイを皮肉っています。
すなわち、この4つのオペラの中で、生き残っていくのは果たしてどれか、時代の試練に耐え後世に伝えられていくほどの「力」のある作品はどれか、という問いかけに加え、さらにあなたのアイデンティティは一体どこの国のものなのか───という、キュイの出自にも関わる、ある意味差別的で陰湿な「仕返し」をもしているわけです。

2番目の意味については少し補足が必要です。
キュイのオペラの作品リストを見ると、ロシア以外の作品を原作としているものが数多くあります。
今回発売された《ペスト流行期の酒宴》も、ロシアの大詩人プーシキンの原作ではありますが、舞台はロシアではありません。
オペラ以外でも、どちらかと言うと上流社会向きのサロン風音楽が多いとされており、「ロシア五人組」「国民楽派」の一人であっても、キュイに限っては他のメンバーほどのロシアの土着性は感じられず、明らかに彼らの中では浮き上がった存在です(その彼が「五人組」の急先鋒として論陣を張るという何たる矛盾!)。
よく指摘されるように父がフランス人、母がリトアニア人であるという複雑な彼の「出自」が、音楽作品にも反映されているということなのでしょう。

話をオペラに戻すと、彼の作品の舞台はロシアだったり、イギリスだったり、フランスだったり、中国だったりと多様なのですが、先ほどの剣闘士たちも実は楯に刻んだオペラの舞台となった国の衣裳を身につけていたわけです。
彼らの中で生き残るのは、どの「国」なのか、すなわち、カリカチュアには帝政ロシアの老臣たるキュイは、何人として振る舞うべきなのかを問いただすという強烈な当てこすりをも織り込んでいるのです。

実はこのカリカチュアには、もう一人の人物が試合の進行を司る役人として剣闘士たちの横に描かれているのですが、残念ながらこの人物が誰なのか私には分かりませんでした。
この人物とキュイだけが、リアルスティックな似顔絵で描き込まれているのです。彼が誰なのか身元が割れれば、さらにこのカリカチュアを面白く見ることが出来るかもしれませんね。



[この記事は「コルシンカの雑記帳」に掲載していたものに加筆修正して再掲しました]