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らくだの災難

2009-10-11 | 信仰
今日は休みでしたが、朝5時に起きてしまいました。


しばしばそういうことがあるのです。
「休みこそ早起きして一日を長く使いたい!」
という気持ちは常にあるのですが、その気合が眠気を上回ってしまうことがある。

せっかく与えられた時間ですから無理に眠ろうとせずに、新聞を取ってきて読み始めました。
『広島と長崎が五輪を共催で誘致へ!』
なんて見出しがある。
(東京が落ちたばかりなのに。いつまでもオリンピックで村おこし…っていう発想もどんなものかなア)
なんて思いながら読んでいました。

それから洗濯をし、ゴハンを炊いて納豆と漬物と味噌汁で朝食を済ませました。
そして、千葉県に住む母親に電話をしました。


実は二週ほど前の夜、私は母から電話をもらったのですが、そのときは仕事でひどく疲れていたので、母の長口舌にイラついて、
「疲れてるから、もう切るよ!」
と、一方的に切ってしまったのです。

後になって(悪かったナ)と後悔したのですが、謝りの電話を掛けるのも何だかバツが悪い。
でも、今日は十時からのミサに与るつもりだったので、何となくスナオになれて、電話をしたのです。

母は最初は少しボーッとしてましたが、すこしずつ頭のエンジンが掛かって来たらしく、やがていつものペースで喋り始めました。
「今月の○○日に父さんの墓の人が葬式のやり方教えに来るんだけど、オマエも来ないかい?」
なんていってます。
私は話の脈絡がよく飲み込めませんでした。父は来月83歳になるけど、まだまだ元気です。なんで「葬式のやりかた」を?

何となく分かったのは、父は千葉県の某所に無教派の墓地を買ったらしく、万が一のためにそこの人がいろいろ説明してくれる…という話らしいこと。
私は○○日はたまたま休みでしたが、そんなことのために二時間掛けて朝九時に実家に帰る気にはならず、断りました。

母はそれからも喋り続けました。兄のこと。姉のこと。父が外で転んでヒザを打ったけど、運よくカバンがクッションになってケガをしないですんだこと…・

それにしても、よく喋るなア。母は世間的には「お喋り」のほうではないけど、それでも良く喋る。
ホームのご入居者も職員も、女性は本当に良く喋るからなア…。

ひとしきり聴くと、「これから用があるから」と言って、私は電話を切りました。母は、
「ハナシをたくさん聞いてくれてありがとな」
と、言いました。


今から半世紀近く前、両親は兄と姉、乳飲み子の私を連れて北海道から上京してきました。
それから父も兄も姉も、田舎者の愚直さで本当に良く働いてきました。
決して金持ちにはなれなかったけど、ほとんどケンカをすることもなく来て、今でも五人とも健康であるのはほんとうに有難いことだと思います。



今日のミサでは「金持ちが神の国に入る」ことのたとえが朗読されました。

ある身なりの良い人が、旅に向うイエスに、
「先生、永遠の命を受け継ぐにはどうしたらよいでしょうか?」
と問いかけました。するとイエスは次のように答えました。

イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。
「あなたに欠けているものがひとつある。行って持っているものを売り払い、貧しい人に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから私に従いなさい」
                               マルコ10-21

するとその金持ちは気を落とし、立ち去ってしまいました。そして、イエスのあの有名な警句が出てきます。

「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」
                               マルコ10-25


ここだけ取り出すとイエスは金持ちをひたすら否定しているようですが、この章全体を読むと、決してそんな印象は受けません。
このたとえはマタイにもルカにもあり、マタイでは「青年」とルカでは「議員」と書かれています。つまり、お金も地位もある良いとこのお坊ちゃんのようです。
そして向上心も強かったのでしょう。

いっぽうのイエスは弟子たちを連れてエルサレムに向うところでした。率直に言って、十字架に架かりに行く、死地の旅です。
そこに「どうしたら天国にいけますか」と尋ねられたのですから、「財産を全部処分して私に従いなさい」と答えたのです。
でも「慈しんで言われた」ともありますから、それが出来ないことも初めから見通していたのでしょう。

ところで、「らくだが針の穴を通るより難しい」という「らくだ」は実は誤訳だったという説も強いようです。
元のアラム語では「らくだ」と「綱(ロープ)」の発音が同じなので、ギリシャ語に訳すときに間違ってしまった…というのです。
でも「ロープを針の穴に通す」というより「らくだが針の穴を通る」というほうがずっとファンタジックでメルヘンチックで、印象強いと思います。
希代の演説家でもあったイエスは、やはり「らくだ」といったのではないでしょうか?


イエスはマタイ書でも律法学者の偽善性を突くのに「らくだ」を使っています。

「あなたがたはブヨ一匹でさえ漉してとりのぞくが、らくだは飲み込んでいるではないか」…と。

「ブヨを漉してらくだを飲み込む」というたとえは、キリスト教国では「小さなことにはこだわるが、大事なことを無視する」というコトワザにもなっているそうです。
そして「らくだを飲み込む」という大胆な表現をするイエスなら、「らくだを針の穴に通す」という発想も自然なもののように思うのです。

らくだは「ひづめが完全に割れていない」「反芻をする」という旧約のレビ記の分類に抵触してますから、汚れた動物として嫌われていたようです。
それがイエスのたとえにも影響したのでしょうが、何となく気の毒ですネ。

私は、自分がこれから金持ちになるのは「らくだが針の穴を通る」くらい難しいと思っていますので、「どうすれば針の穴を通れるんだ?」と悩むらくだの表情が頭に浮かんで、親近感が沸いたのでありました。




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