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山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

鞍馬から貴船へ 4

2017年01月30日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月18日(金)叡山電車で鞍馬へ、義経ゆかりの場所を巡って紅葉の貴船神社へ。

 貴船神社の境内図と歴史  



鞍馬寺の西門を出ると、紅い「奥ノ院橋」が貴船川に架かっている。橋を渡ると、もうそこは貴船神社の門前町です。人通りが急に増えてくる。やはり貴船神社は「恋の神社」と云われるだけあって人気があるようです。
貴船神社は、手前から本宮、中宮、奥宮と三神域から成っている。それぞれ数百m離れているが、それをつなぐ道は貴船川の清流に沿い、紅葉や青葉に覆われ、またお茶屋や川床が並び退屈させない。

貴船神社の始まりについて、神社のサイトには諸説あると断りながらも
「第18代反正天皇の御代(約1600年前)、初代神武天皇の皇母・玉依姫命が御出現になり「吾は皇母玉依姫命なり。恒に雨風を司り以て国を潤し土を養う。また黎民の諸願には福運を蒙らしむ。よって吾が船の止まる処に祠を造るべし」と宣り給い、「雨風の国潤養土の徳を尊び、その源を求めて黄船に乗り、浪花の津(現在の大阪湾)から淀川、鴨川をさかのぼり、その源流である貴船川の上流のこの地(現在の奥宮の地)に至り、清水の湧き出づる霊境吹井を認め、一宇の祠を建てて水神を奉斎す」とあり、”黄船の宮”と崇められることになったと伝えられている。」とある。
神武天皇の母・玉依姫命が黄色い船に乗って淀川、鴨川を遡り、現在の奥宮の地に祠を建て水神を祀ったのが貴船神社の始まり、ということです。白鳳6年(666)、社殿の立替えの記録が残っていることから、かなり古くからあったようです。

平安時代には、水の供給を司る神を祀っていたことから、天皇の勅使が雨乞いや雨止みの祈願に訪れている。
永承元年(1046年)7月、洪水により社殿が流失したことから、天喜3年(1055)4月、現在の本宮の地に社殿を再建・遷座して、元の鎮座地は奥宮とした。「当社は長らく賀茂別雷神社(上賀茂神社)の摂社とされてきたが、これは天喜3年の社殿再建が契起となっているとする説がある。近世以降、それを不服として訴えが続けられ、明治以降になってようやく独立の神社となった。江戸時代までは賀茂別雷神社の祭神である賀茂別雷命も祭神としていた」(Wikipediaより)

社名の「貴船」の由来について、境内の由緒書きに「古くは「貴布禰」と記したが、「黄船」「木船」「木生嶺」「気生根」などの表記も見られる。明治4年(1871)官幣中社となり、以後「貴船」の表記で統一された」とある。また読み方については、公式サイトに「地名として「貴船」を「きぶね」と発音するのが一般的だが、神社名を公式に申し上げる際には、湧き出している御神水がいつまでも濁らないようにと祈りをこめて「きふねじんじゃ」と申し上げるのである」と書かれています。

 貴船神社:本宮  

本宮入口の鳥居が見えてきた。この鳥居は「二の鳥居」で、「一の鳥居」は叡山電鉄の貴船口駅近くにあり、かなり離れている。本宮に寄らず、中宮・奥宮へ向かうには、右の車道を進めばよい。

鳥居を潜ると、貴船神社の紹介には必ずでてくる参道の階段です。最も神社らしく感じる場所。
現在の本宮は、天喜3年(1055)に、現在の奥宮より移転されたもの。元々の貴船神社は、現在の奥宮にあったが、度々の洪水で流されたため移されたそうです。全国に約450社ある貴船神社の総本社。境内は年中、自由に参拝できる。6月1日は「貴船祭」

参道石段を登り門を潜ると境内。本宮の境内は広くありません。門のすぐ左手に樹齢400年、樹高約30mの御神木の桂の木がある。根元からいくつもの枝が天に向かって伸び、上の方で八方に広がる。貴船は「気生根」とも書かれるが、この桂の木は「御神気が龍の如く大地から勢いよく立ち昇っている姿に似て」いるので御神木とされたという。
御神木・桂の木の並びに、小さな「石庭」があります。作庭家・重森三玲が昭和40年に、古代人の神聖な祭場「天津磐境(あまついわさか)」をイメージして作庭したものだそうです。玉依姫命による「黄船」伝説から、庭全体が船の形に造られ、中は黄色い土が敷きつめられている。
貴船神社は縁結び・恋の神社として有名ですが、御神木や船が多いのも特色です。
写真中央が本殿で、右が権殿、左が拝殿。流れ造り・銅板葺きの本殿は平成17年に造営し一新された建物。
ご祭神は「高おかみの神(たかおかみのかみ)」で、古くから水を司る神様として崇められてきた。

本殿前に黒馬・白馬の銅像が建ち、傍に「絵馬発祥の社(えまのふるさと)」の説明板が立っている。それによると、平安時代、雨乞い・雨止みの御祈願のため歴代天皇が勅使を遣わされれる際、雨乞のときは「黒馬」を、長雨を止めてほしいときは「白馬」又は「赤馬」を献上して祈願していたとされています。それがいつからか、生馬に変えて板に馬の絵を描いた「板立馬」を奉納するようになった。この「板立馬」が現在の絵馬の原形だそうです。だから貴船神社は絵馬発祥の地になる。

貴船神社で有名な「水占(みずうら)みくじ」。貴船神社は、水の神様と縁結びの神様が同居している。水占いとはよく考えられたものです。いつ頃から始まったのでしょう?。水占みくじの場所は拝殿前にあり、「水占斎庭」と呼ばれている。狭い御神水なので混雑しています。

占い紙は横の社務所で、1枚200円で売っている。紙は積み重ねられているが、占いなので上から順に取るのではなく、好きな位置から紙を引く。透かして見たが、さすがに文字はみえません。紙をそっと水に浮かべ、文字の浮き出てくるのを待ちます。

おじさん一人で水占いとは・・・、少々照れるがここは社会体験と挑戦してみました。私は、何気なく一番上の紙を取ってしまったのですが。10秒位で文字が浮き出てきました。「吉」で、占いの内容はまずまず。色恋沙汰をしてみたいのですが・・・。
占い紙の中ほど左右にQRコードがあります。このQRコードをスマホで読み込み、言語(五カ国)を選択すると翻訳され音声まで聴こえるそうだ。デジタルの時代はここまで来たか。

本宮は狭い境内なので、水占みくじをしなければ、あっという間に見終わってしまう。時間があったので、祈雨の行事が行われていた「雨乞の滝」へ寄ってみようとしたが入口が分らない。社務所で訊ねると、現在、禁足地になっており行くことはできない、そうです。
本宮前の貴船川沿いも紅葉の綺麗な所。写真右上の建物は、本宮の休憩所なので、お茶を楽しみながら紅葉を鑑賞できます。

 貴船神社:奥宮へ  


本宮を出て、紅葉を愛でながら貴船川に添って上流へ歩く。おじさん一人でも、十分楽しい気分になります。道沿いには料理屋、お茶屋さんが並び、京の奥座敷の雰囲気を感じさせてくれます。

中宮(結社)入口の階段だ見えてきました。次は中宮(結社)に寄りたいのだが、貴船神社には参拝順のルールがある。「三社詣」と呼ばれ、「本宮」→「奥宮」→「中宮」の順で参拝するのが、縁結びのための古くからの習わしだそうです。私も従わないわけにはいかない(^^)。
ちょうど昼過ぎ、お食事処「ひろ文」さんがあるので、昼食にします。

貴船川は貴船山と鞍馬山の谷間を流れ、賀茂川へつながる。この川沿いは大変風光明媚で、京の奥座敷といわれるだけあります。夏は川床で涼を感じ、秋は紅葉で魅了される。ライトアップされるんでしょうか、川沿いには照明器具が見えます。

川沿いを進むと奥宮の紅い鳥居が見えてきました。奥宮は本宮から700mほど奥になる。この辺りは、本宮や中宮付近にあった旅館やお茶屋、川床などなく、神域の気配が強く感じられる。
この奥宮は貴船神社創建の地で、元々本宮があったところ。度々の洪水で損壊され、天喜3年(1055)に現在の本宮の地に社殿を再建・遷座し、ここは奥宮となった。水の神様も、時には自虐的に暴れるんだ。
写真左側に、注連縄の張られた大木がある。「相生(あいおい)の杉」と呼ばれ、説明板には「御神木。同じ根から生えた二本の杉。樹齢千年。相生は「相老」に通じ、夫婦共に長生きの意味」とあります。

紅い鳥居の先に、小さな紅い橋が架けられている。橋には「思い川」「おもいかは橋」と書かれている。川を覗いてみるが、ほとんど水は流れていない。
ここが本宮だった頃、この小川で手を洗い、口をすすぎ、身を清めてから参拝していた。だから「みそぎの川」、「御物忌川(おものいみがわ)」だった。ところがここを訪れた和泉式部の恋の話と重なり、いつの頃からか「おものいみ川」が「思ひ川」と呼ばれるようになったという。

薄暗い杉並木と白い砂利の参道が続く。奥宮までくると訪れる人も少ない。本宮のような華やいだ雰囲気はなく、「気」に満ちた厳粛な雰囲気が漂う。参道奥の朱塗りの神門をくぐると、奥宮の境内です。

神門を潜ると、すぐ左側に御神木の「連理(れんり)の杉」がそびえる。杉(左)と楓(右)が一つにくっついた珍しい木で、夫婦和合・男女の仲睦まじいことの象徴として、御神木にされている。

 貴船神社:奥宮(本殿・拝殿・船形石)  



中央の能舞台のように見えるのが拝殿。左の本殿に祀られている奥宮のご祭神は 「闇おかみの神(くらおかみのかみ)」。この神は、本宮の「高おかみの神」とは「呼び名が違っても同じ神なり。一説には、高おかみは「山上の龍神」、闇おかみは「谷底暗闇の龍神」といわれる同じ龍神」(公式サイトより)で、水を司る神様。

「本殿の真下には「龍穴」と呼ばれる大きな穴があいており、誰も見ることは許されていない。この龍穴は大和の室生龍穴、岡山備前の龍穴とともに日本三大龍穴のひとつとされている」(公式サイトより)。この龍穴に物を落とすと、にわかに曇り空になり龍穴から激しく風が吹き上がるという言い伝えがある。
本殿の前の建物は拝殿ですが、見ようによっては能舞台に見えます。
貴船神社・奥宮は「丑の刻参り」ゆかりの場所としても知られている。「丑の年、丑の月、丑の日、丑の刻に、貴船の神様が牛鬼を従者にして降臨した」という故事に基づくもので、本来の「丑の刻参り」は心願成就、つまりあらゆる願い事をかなえるためのものでした。ところがいつの頃からか、「丑の刻参り」は「呪いの藁人形のまじない」というように一般に広まっていった。

Wikipediaは「丑の刻参り」について「丑の刻(午前1時から午前3時ごろ)に神社の御神木に憎い相手に見立てた藁人形を釘で打ち込むという、日本に古来伝わる呪術の一種。典型では、嫉妬心にさいなむ女性が、白衣に扮し、灯したロウソクを突き立てた鉄輪を頭にかぶった姿でおこなうものである。連夜この詣でをおこない、七日目で満願となって呪う相手が死ぬが、行為を他人に見られると効力が失せると信じられた。ゆかりの場所としては京都府の貴船神社が有名」と説明している。

貴船神社にとっては迷惑なことですね。謡曲「鉄輪(かなわ)」などの影響でしょうか?。ちなみに謡曲「鉄輪」は「室町時代の謡曲の題名。「かなわ」と訓む。あらすじは後妻を娶った男を先妻が恨み、貴船神社に詣でたところ「赤い布を裁ち切り身にまとい、 顔には朱を塗り、頭には鉄輪を乗せ、ろうそくを灯せば鬼となる」とお告げを受ける。男は悪夢に悩み安倍晴明の元を訪れ鬼となった先妻と対決して鬼は消え失せる、というもの。」(Wikipediaより)
本殿横に注連縄で囲われた小さな空き地があり、中央に「権地」(ごんち)と書かれた札が立っています。
本殿真下には「誰も見てはならぬとされる神聖な龍穴」があり、そのため本殿をその位置で解体修理できない。そこで横の「権地」まで移動し、解体修理後に元の位置まで戻すのです。一種の「遷宮」で、貴船神社では「附曳神事(ふびきしんじ)」と呼んでいる。

平成23年(2011)12月29日、奥宮の本殿修復のため150年ぶりに「附曳神事」が行われた。龍穴は、絶対に誰にも見られてはいけない。そのため本殿の西に手広い菰(こも)を結び付け、本殿を権地へ曳き移すにつれ菰も引っ張られ龍穴を覆い、誰ににも見えない。さらに絶対に守らなければならないこととして「境内にいるすべての人間は声を出してはいけない」ということがある。そのため神職をはじめ宮大工、氏子、一般参加者も神の葉(榊・さかき)を口にくわえ、無言で少しずつ静かに動かしていったそうです。修理完成した翌年5月31日、元の場所に同じような方法で曳き戻された。


本殿左横に、貴船神社創建伝説の玉依姫命が乗って来たという「船形石」(ふながたいし)がある。その黄色い船が人目に触れぬように小石に覆われ囲われたものと伝えられている。船舶関係者から「船玉神」として信仰されていて、小石を持ち帰ると航海安全の御利益があるそうです。



 貴船神社:中宮(結社(ゆいのやしろ))  



13時15分、奥宮を出て貴船神社の参拝順ルールに従い、一番最後に中宮に寄ります。本宮と奥宮の中間にあるため中宮 (なかみや)と呼ばれる。本宮から上流へ300m、奥宮から下流へ400m位。
中宮の社に祀られている御祭神は「磐長姫命 (いわながひめのみこと)」。
磐長姫命の御鎮座に関して、貴船神社のサイトには以下のような伝承があることを紹介している。

昔、瓊々杵尊(ににぎのみこと)が木花開耶姫(このはなさくやひめ)に一目ぼれし、姫の父・大山祇命(おおやまつみのみこと)に結婚したいことを申し上げる。大山祇命は姉の磐長姫も添えて、二人の娘を送り出した。容姿端麗な木花開耶姫に対して、姉の磐長姫はたいへん醜かったため、瓊々杵尊は木花開耶姫だけを娶り、磐長姫を送り返した。そのため磐長姫は大いに恥じて「我長くここにありて縁結びの神として世のため人のために良縁を得させん」といわれて、この地に鎮まったという。
中宮は「結社(ゆいのやしろ)」とも呼ばれ、貴船神社は「縁結びの神様」として知られるようになった。平安時代には既に「縁結び」の神社として、貴族から庶民に至るまで参拝されるようになったという。

平安時代の女流歌人・和泉式部も、夫・藤原保昌との不仲を憂い、貴船神社にお詣りした。その甲斐あって縁が戻ったそうです。その時の心情を詠った和泉式部の歌碑が建っている。
現在でも縁結びを願う人が多いいのでしょうか、結び処には沢山の「結び文(むすびぶみ)」が結ばれ、奉納されています。以前は、境内のススキを結んでいたようですが、植物保護のため止められた。私は、縁結びとは縁無くなった歳なので、結ばなかった。






本宮には船形をした石庭、奥宮には船形石があった。ここ中宮にも「天の磐船(あめのいわふね)」がある。貴船神社の創建伝説が、神武天皇の母・玉依姫命が黄色い船に乗ってやって来たというものなので、貴船神社と「船」との関わりは深い。
苔むした舟形の大石が置かれている。平成8年(1996)京都の造園家・久保篤三氏により、結社の御祭神・磐長姫命の御料船として奉納された。長さ約3m、重さ6トンの船の形をした自然石で、貴船の山奥で見つけられたものという。

狭い境内なので、あっという間に見終わってしまう。出口の階段を下りると、昼食にカレーうどんを食べた「ひろ文」さん。恋とか、縁とかよりもこの景観ですね。気分が和みます。

帰路に着くため叡山電鉄・貴船駅へ向かいます。鞍馬と貴船は一日で周れる範囲。男性的で武骨な鞍馬を先に訪れ汗をかき、それから女性的な貴船に下りて寛ぐというのがベストだと思う。逆に貴船で寛いだ後、鞍馬へ向かうのは大変です。あの急峻な山道を俺は登りたくない・・・。


詳しくはホームページ

鞍馬から貴船へ 3

2017年01月22日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月18日(金)叡山電車で鞍馬へ、義経ゆかりの場所を巡って紅葉の貴船神社へ。

 源義経息つぎの水~~義経堂  


山中へ入っていくと右手に「源義経公息つぎの水」がある。修行時代の牛若丸は、九十九折参道の由岐神社近くにあった東光坊という僧院に住まい、夜毎剣術修行のため奥の院の僧正ガ谷まで通ったという。その途中にあるこの湧き水で喉を潤したそうです。現在でも湧き続け、柄杓が置かれている。


少し距離があるが山道を登って行くと「義経公背比べ石(せくらべいし)」にたどり着く。ここは奥の院参道の最頂部で、この先は下り坂となります。下って行けば僧正ガ谷、奥の院魔王殿を経て貴船へ着きます。

牛若丸16歳の時、父義朝の仇を討つため鞍馬寺を出て、関東から奥州平泉に下ります。その際、名残を惜しんでこの石と背比べをしたと伝承されています。柵の中に置かれている石は1m半ほどでしょうか。背比べしたのですから、同じくらいの高さだったのでしょうね。

鞍馬山の写真には必ずでてくる有名な「木の根道」は「背比べ石」のすぐ真ん前です。道というから、かなり距離があるのかと思ったが、50m位でしょうか。

風雨の浸食によってむき出しになったのかと思ったが、そうではなかった。ここの地質が硬いため、根が地中まで這い込めないためのようです。杉の根が浮き出て、地表を這うようにして横に伸び、奇観を呈している。
ここで牛若丸が兵法修行をしたと伝えられ、五条大橋で弁慶と争ったあの身軽さは、その成果なのでしょう。こうした場所で子供を遊ばせたら、牛若丸とまでいかなくとも丈夫でたくましいく成長すると思うが。現代の親は絶対にそうはさせません。眼の色変えて飛んできます。案内板に「できるだけ踏まないよう」と書かれているが、踏んで歩くほうが大変です。

「下に這う鞍馬の山の木の根見よ 耐えたるものはかくのごときぞ」與謝野寛(鉄幹)


木の根道を過ぎ、緩やかな斜面を降りていけばすぐ大杉権現社です。柵で囲われ、惨めな姿の大杉(?)が見える。これが祀られているご神木なのでしょうか。後で調べると、昭和25年の台風で折れてしまったそうです。この辺りは護法魔王尊のエネルギーの高い場所だそうですが、自然のエネルギーのほうが強かった。

この大杉権現社から参道に出るのに一苦労。明確な方向案内が無く、斜面のどの方向に下りていけばよいのか迷った。カンで降りていったらアタリでしたが・・・。

やっと奥の院参道の階段に出た。かなりの急階段が続いているが、降りなので楽です。やがて白幔幕の張られたお堂が見えてきた。僧正ガ谷不動堂らしい。

僧正ガ谷不動堂は昭和15年(1940)の建立で、宝形造、本瓦葺、正面に向拝が付いている。堂内には、伝教大師・最澄が天台宗開宗の悲願のために刻んだと伝わる不動明王が安置されている。

不動堂の周辺は鬱蒼と茂る杉の大樹に囲まれ、昼なお薄暗い。この辺り一帯は「僧正ガ谷」と呼ばれ、牛若丸と鞍馬天狗の出会いを題材にした謡曲「鞍馬天狗」の舞台。九十九折の道にある僧院・東光坊に預けられ住んでいた牛若丸は、昼は学問、夜はここ僧正ガ谷まで通い武芸に励んでいたという。ここで天狗と出会い、剣術や妖術を習ったのでしょう。鞍馬天狗といえば、なぜか嵐寛寿郎を思い出してしまいますが・・・。

不動堂の真ん前に義経堂がある。
源義経は平家を滅亡させたのち、兄の頼朝に憎まれ、悲劇的な最後を遂げた。鞍馬山(鞍馬寺)では、義経の魂は幼少時代を過ごした懐かしのふるさと鞍馬山へ戻ってきたと信じ、護法魔王尊の脇侍「遮那王尊(しゃなおうそん)」として祀られている。義経は神になったのです。毎年九月十五日に「鞍馬山義経祭」が行われている。

 奥の院魔王殿~~貴船へ  


僧正ガ谷からさらに10分ほど降りていくと、鞍馬寺の最奥部の奥の院魔王殿(おくのいん まおうでん)にたどり着く。11時過ぎです。この魔王殿には、650万年前に人類救済の使命を持って、金星からやってきたとされる護法魔王尊が祀られている。

建物は、昭和20年(1945)に焼失し、昭和25年(1950)に再建されたもの。見えているのは拝殿で、奥に本殿があります。幔幕の円い紋は、屏風坂の地蔵堂、大杉権現社や僧正ガ谷不動堂で見られたのと同じ紋。これは「羽団扇」という鞍馬寺の寺紋で、義経に兵法を伝授したといわれる天狗をイメージしたものだそうです。
鞍馬寺はここまで。”お疲れさま!”ということで、魔王殿前には幾つかベンチが用意されている。皆さん、食事したり地図みたり、寛いでいらっしゃる。
ここから引き返すには大変です。叡山電鉄駅のある仁王門までは2キロあり、それも坂道を登らなければならない。それより、このまま坂道を600mほど降りれば鞍馬寺の西門でありまた貴船の入口に着く。バス停も近くなのでそのまま帰ってもよし、あるいは貴船神社へ寄ってみるのもよし。私は最初から貴船へ行く予定でした。

これから降ります。西門まで何もありません。紅葉も無く遠望もきかず、ただひたすら急な坂道を下るだけ。参道のように整備もされていない。山の登山道と同じ。
この坂道を登ってくる人もかなりいる。先に貴船を訪れ、それから鞍馬寺へ向かうのでしょう。すれ違う人は皆さんキツそうです。下りで良かった。
所々、こうした木の根の芸術に出会う。これも硬い地盤のせいでしょうか?。浸食によるもののように見えますが。



ようやく見えてきました紅い橋が。貴船に着いたようです。奥の院魔王殿から20分位でしょうか。










ここは貴船側から鞍馬山への参拝口にあたる鞍馬寺・西門です。西門といっても、鳥居のような簡単な木組だけの門です。傍に登山費(愛山費?)を徴収する受付所がある。
受付の方の話によると、クマが今年は6回でたそうです。イノシシはどうですか?、と訊ねたら、普通に歩いていますよ、という返事だった。猪熊山にならんことを・・・。



詳しくはホームページ

鞍馬から貴船へ 2

2017年01月15日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月18日(金)叡山電車で鞍馬へ、義経ゆかりの場所を巡って紅葉の貴船神社へ

 鞍馬寺・本殿金堂  



最後の石段を登りきると、本殿金堂前の広場に出ます。本殿金堂は、昭和20年(1945)に焼失し昭和46年(1971)に再建され、一重、入母屋造、銅板葺の建物です。内々陣には、中央に毘沙門天像、右手に千手観音菩薩像、左手に護法魔王尊像の尊天(三本尊)が祀られています。これは秘仏で、厨子の前に立つのは「お前立」。本尊の御開帳は60年毎の丙寅の年です(次は2046年?)。

鞍馬寺公式サイトに鞍馬寺の起源について「『鞍馬蓋寺縁起』によれば、奈良時代末期の宝亀元年(770) 奈良・唐招提寺の鑑真和上(688~763)の高弟・鑑禎上人は、正月4日寅の夜の夢告と白馬の導きで鞍馬山に登山、鬼女に襲われたところを毘沙門天に助けられ、毘沙門天を祀る草庵を結びました。
桓武天皇が長岡京から平安京に遷都してから2年後の延暦15年 (796) 造東寺長官、藤原伊勢人が観世音を奉安する一宇の建立を念願し、夢告と白馬の援けを得て登った鞍馬山には、鑑禎上人の草庵があって毘沙門天が安置されていました。そこで、「毘沙門天も観世音も根本は一体のものである」という夢告が再びあったので、伽藍をととのえ、毘沙門天を奉安、 後に千手観音を造像して併せ祀りました。」とあります。
宝亀元年(770)寅の月、寅の日、寅の刻に、鑑禎(がんてい)上人が毘沙門天に助けられた。鑑禎上人は草庵に毘沙門天の像を祀ったのが寺の起源とされる。また寅は神使として大切にされています。

平安中期以降、京都の北方守護の寺として信仰を集め参詣が相次ぎます。『枕草子』の清少納言や『更級日記』の菅原孝標の女、紫式部などの女流文学者も来山し、鞍馬寺の様子を描写している。そして平安末期には源義経(幼名牛若丸)が少年期を過ごす。戦国時代になると、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康などの武将がしきりに戦勝祈願を行い、豊臣秀頼が由岐神社拝殿を再建しています。
鞍馬寺の伽藍は、文化9年(1812)の大火災や、昭和20年(1945)の本殿焼失などで失った。現在見られる堂宇は近年に建立されたものです。しかし、仏像などの文化財の多くは無事で、現存しているそうです。

本殿金堂前の広場。紅葉の紅色は別にして、紅色が目立ち、神社のように錯覚する。よく考えたら”本殿金堂”というのも不思議なものだ。本殿は神社の、金堂はお寺の建物を指すのが一般的。それをあえて”本殿金堂”と呼ぶのは、神と仏を統一しようとする鞍馬弘教の野心なのでしょうか。

現在の鞍馬寺で特異なのはその信仰形態です。
鞍馬山は、古くから古神道、陰陽道、修験道などの山岳宗教の山だった。8世紀末に鞍馬寺が創建され真言宗寺院として信仰を集めていたが、12世紀からは天台宗に改宗する。ところが戦後の昭和22年(1947)、住職・信楽香雲はヨーロッパの神智学の影響を受け、多様な信仰を統一して「鞍馬弘教」と称して独立する。現在、鞍馬寺は鞍馬弘教の総本山となっている。

以下は鞍馬寺公式サイトによるものです。
鞍馬山の信仰は「尊天信仰」だという。尊天とは、すべての生命を生かし存在させる宇宙エネルギーで、真理そのもの。その働きは愛と光と力になって表れる。千手観音菩薩は「愛」の象徴「月輪の精霊」、毘沙門天は「光」の象徴「太陽の精霊」、護法魔王尊は「力」の象徴「大地(地球)の霊王」だそうです。この三身を一体として「尊天」と称するという。こうして鞍馬寺は、毘沙門天、千手観音、護法魔王尊を三位一体の「尊天」と呼び、本尊として祀っている。

神智学とは何か?。興味ある人はWikipediaの詳しい解説をどうぞ。私は、チンプンカンプンでさっぱり理解できない。ただ注目したのは、幸福の科学、オウム真理教、阿含宗などの日本の新宗教にも隠然たる影響を与えたという。「オウム真理教の世界観・身体観は、用語だけでなくその構えや骨格において、〈神智学〉の強い影響がある」と書かれています。

鞍馬寺の鞍馬弘教を、そうしたオカルト宗教と同列と思いたくないが、それにしても何か違和感を覚えます。九十九折参道にあった「愛と光と力の像「いのち」」も、鞍馬弘教の思想を表現したものだったようです。鞍馬山(鞍馬寺)は、普遍的な真理を追求する哲学の場であるより、天狗が住み、牛若丸が修行した山岳霊場のままであってほしいナァ。

本殿金堂のすぐ前に、石畳の模様が描かれ、「金剛床(こんごうしょう)」と呼ばれている。中央の六角形は「六芒星」と呼ばれ、宇宙エネルギーが降臨する場所だそうです。ここに立つと宇宙エネルギーを受け取ることができ、尊天と一体化できるとか。まさにパワースポットです。難しいことはヌキにして、中心に立ってみました。

本殿金堂前の広場からの眺めで、向かいには比叡山が見えます。本殿金堂のまん前にある、朱色の欄干の出っぱりは「翔雲台」。観光客用のものかと思ったら、ご本尊がはるか南の京の都を見守る台だそうです。

本殿金堂の右側に、閼伽井(あかい)護法善神社があります。寛平年間 (889年~898年)、鞍馬寺中興の祖・峯延上人を大蛇が襲うが、逆に法力によって捕まってしまう。大蛇は魔王尊に供える水を永遠に絶やさないことを誓って命を助けられ、閼伽井護法善神(あかいごほうぜんじん)としてここに祀られたと伝わります。
本殿前には井戸があり、その脇の棚には沢山のカラフルなバケツが置かれている。信者さんが水汲み用に置かれているのでしょうか。
毎年6月20日に行われる「鞍馬山竹伐り会式(たけきりえしき)」は、この故事からきている。
長さ4メートル、太さ15センチ近くもある青竹を大蛇に見立て、僧兵姿の鞍馬法師が近江、丹波の両座に分かれ伐る早さを競い、その年の農作物の吉凶を占うそうです。

 奥の院参道へ  


閼伽井護法善神社とは反対側の本殿金堂の左手には本坊(金剛寿命院)、いわゆる鞍馬寺寺務所がある。その前に門がある。この門が奥の院参道入口です。
門の手前左に低い柵で囲われた小さな庭「瑞風庭」があり、盛り砂が置かれている。これは650万年前に人類救済のため、魔王尊が金星より降臨する様子を表現したものだそうです。「愛と光と力の像」の続編みたいなもの。

10時20分、瑞風庭の脇を通って奥の院参道へ入る。門を潜ると階段から始まる。本殿金堂までの広い階段と違い、狭く険しい山の階段です。参道となっているが、これからは山道です。階段上り口に手洗い場がある。鞍馬山へも心身を清めて入れ、ということでしょう。
ここからがいよいよ牛若丸の世界に入る。鞍馬寺の”宇宙エネルギー”とか”愛と光と力”などとは全く異質の魔境に入って行く。鞍馬山を感じるのはここからでしょう。
しばらく行くと、紅葉と白壁の霊宝殿(鞍馬山博物館)が見えてくる。その手前に与謝野晶子・寛歌碑があります。小さく、薄暗いので見逃しやすい。鞍馬寺の先代管長・信樂香雲が、歌での与謝野晶子の弟子だった縁で建てられたものでしょう。
紅葉に覆われた三階建ての建物が、鞍馬寺「霊宝殿(鞍馬山博物館)」です。
1階は鞍馬山自然科学博物苑展示室で、鞍馬山の動植物、鉱物などを展示する。2階は寺宝展示室と与謝野鉄幹・与謝野晶子の遺品等を展示した、与謝野記念室がある。3階は仏像奉安室で、国宝の木造毘沙門天立像、木造吉祥天立像、木造善膩師童子(ぜんにしどうじ)立像の三尊像をはじめとする仏像奉安室。現在「清盛と義経をめぐる謎」展が開かれていました。

営業日:火曜日~日曜日 9:00-16:00
休業日:月曜日(月曜日が祝日・祭典日のときは翌日休館、12月12日~2月末日休館)
料金:200円

霊宝殿のすぐ前に「冬柏亭」(とうはくてい)という小さな書斎が置かれている。与謝野晶子の書斎ですが、彼女がこの鞍馬山で使ったという訳ではない。経緯は傍の説明板に書かれていました。
与謝野家は、昭和2年に現在の杉並区荻窪に居を移した。昭和4年12月に晶子の50歳の賀のお祝いに、弟子達から書斎「冬柏亭」が贈られ翌年に完成。晶子没後の昭和18年、冬柏亭は門下生の岩野喜久代氏の大磯の住居へ移された。書斎の所有者・岩野氏と鞍馬寺管長の信楽香雲とは同門の縁(晶子の短歌の弟子)であったことから、昭和51年(1976)に岩野氏の好意により、ここに移築されたということです。
「冬柏」の名は、与謝野鉄幹が主宰となり創刊した文芸機関誌「明星」が終刊後、昭和5年(1930)に「冬柏」の名で復刊したのに因む。
冬柏亭横の階段を登り、山門を潜ると本格的な山道が始まる。その山門脇に、鞍馬山自然科学博物苑としての注意書きと”WARNING”が貼り出されていました。
クマ、ヘビ、ハチなどと出合った時、「自然のままで観察」すべきでしょうか?。



詳しくはホームページ

鞍馬から貴船へ 1

2017年01月07日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月18日(金)
一昨日(16/11/16)高雄の紅葉を見てきたが、京都でもう一ヶ所訪れたい所があった。鞍馬から貴船です。以降の天気予報がハッキリしないので、この日に出かけることにしました。鞍馬・貴船の紅葉は、チョッと早い気がするのですが・・・。ネットの紅葉情報では”見頃”となっているが、当てにはならない。
鞍馬へは、数十年前の若かりし頃、営業をサボって友人と時間潰しに行った記憶があるが、木の根道の印象しか残っていない。貴船は初めてです。貴船はおっさん一人で行くような所ではないのだが、好学(?)のため足を向けます。

 叡山電鉄・鞍馬駅へ  


京阪電車・出町柳駅を降り、そのまま地上に出ると叡山電鉄・出町柳駅です。ローカル風の小さな駅ですが、比叡山、大原、鞍馬、貴船など京都を代表する観光地への路線なので、リュックを背負った人が多く、いつも混んでいます。
紅葉シーズン限定(11/5~11/27)の秋のもみじ展望列車「きらら」号が運行されていた。一部分ですが、窓ガラスが天井付近まで大きく、座席が窓側向きになっており、座ったまま窓外の紅葉を満喫できる。ホームへ入ると運よく止まっていた。運転席越しに写真を撮るため、最前席に座る。7時55分発「きらら」号です。

市原駅と二ノ瀬駅間の約250m区間は「もみじのトンネル」と呼ばれ、夜(16時半以降)にはライトアップされ幻想的な風景が広がるそうです。線路の両側をモミジが覆い、赤く染まる紅葉を列車の車窓から眺めることができる。車内の灯りは消され、速度を落として運転してくれます。昼間も速度を落として、楽しませてくれました。

叡山電鉄・鞍馬線の終着駅・鞍馬駅。早朝のせいか人は少ないが、ここでも中国人が目立つ。駅横に、電車の先頭部と動輪が保存・展示されている。案内板によれば、昭和3年鞍馬線開通時の車両で、平成6年に引退するまで65年間走り続けてきたという。「この車両の一部を保存展示し、当社の歴史にその名を留めたいと思います」と結ばれている。

駅前に巨大な天狗のお面が睨んでる。鞍馬寺がある鞍馬山は天狗が住む山として、古くから都の人々に畏怖されてきた。鞍馬山の天狗は「僧正坊(そうじょうぼう)」と呼ばれ、日本各地に出没する天狗の総元締めだそうです。「鞍馬天狗」、東映映画の時代劇しか思い浮かばないが・・・。

 鞍馬寺・仁王門  


8時半、まだ静かな鞍馬寺の門前町を通り、仁王門前に着く。鞍馬駅から5分程の距離。紅葉が紅い天狗の顔とダブってくる。仁王門の両側には湛慶(たんけい、運慶の長男)作と云われる仁王尊像が睨みを利かせている。柱に掲げられた仁王門の説明書きに「寿永年間(1182-1184)に建立されたが、明治24年に炎上したので、明治44年に再建され、更に昭和35年に移築修理が加えられた。向かって左側の扉一枚は寿永の頃のものである。仁王像は湛慶作と伝えられ、明治の再建時に丹波よりお移しされたという」とある。門前の左右にあるのは、狛犬ではなく阿吽(あうん)の寅。唐招提寺の開祖、鑑真和上の高弟鑑禎が夢のお告げで鞍馬山に登ると鬼女に襲われたが、毘沙門天によって助けられた。その日が寅の月、寅の日、寅の刻だったので、鞍馬寺では寅を大切にしている。

仁王門奥に受付があり、登山費名目で300円徴収されます(公式サイトでは「愛山費」となっている)。通路中央に「浄域」の立て札が。これから俗界を離れ浄域の世界に入るのです。正面石垣下に、観音様の漣華から流れ落ちる浄水があります。汚れを落とし清浄な気持ちで山へ入りましょう。
受付所には、熊出没への注意書きが貼り出されている。これは清浄な気持ではいられないゾ・・・。

鞍馬山の模型。晋明殿内にあったものです。

 晋明殿と鬼一法眼社  



仁王門からすぐの所に晋明殿がある。1992年に建てられ、一階の正面に智慧の光を象徴する毘沙門天像を祀っている。

晋明殿の二階は、鞍馬山鋼索鉄道ケーブル山門駅となっている。昭和32年鞍馬山ケーブルが敷設され、鞍馬寺という宗教法人が運営する珍しい鉄道会社。多宝塔駅まで、距離は200m、約2分で着くという日本一短い鉄道。料金は、運賃でなく”寄進料”で片道200円。「鞍馬山ケーブルは、足の弱い方や年配の方が少しでも楽に参拝できるように敷設されたもので営利事業ではありません。 そこで運賃を戴くのではなく、鞍馬山内の堂舎維持にご協力いただいた方に、そのお礼としてケーブルを利用していただくということになっています」とおっしゃっておられます。
ケーブルを使うと坂道を登らなくてもよいが、九十九折参道には、鬼一法眼社や「鞍馬の火祭り」で有名な由岐神社など見所もある。ケーブルに乗ってしまうとそれらに寄ることができない(帰りに寄る、という方法はあるが)。お寺も「清少納言や牛若丸も歩いた道です。健康のためにも、できるだけお歩き下さい」と、ケーブルカーを利用しないことを薦めている。良心的ですネ。

健康のため歩きます。すぐ右手に小橋と紅い社が見えてくる。牛若丸に兵法を授けたと云われる武芸の達人・鬼一法眼(きいちほうげん)を祀っている「鬼一法眼社」です。
鬼一法眼は伝記「義経記」に登場する人物。京の一条堀川に住んでいた陰陽師で、文武両道にもすぐれ、中国から伝わった天下の兵法書「六韜三略」(りくとうさんりゃく)を秘蔵していた。17歳の義経は噂を聞き、見せて欲しいと頼んだが断られてしまう。そこで一計をめぐらし、法眼の娘と親しくなり、鬼一の館に出入りする。そして密かに盗み読みし暗記してしまう。こうして義経の武芸者としての基が築かれていった。
鬼一法眼は創作か?、実在したか?。その後、人形浄瑠璃や歌舞伎の演目「鬼一法眼三略巻」の題材となって庶民を楽しませてくれている。

右手崖上の祠には、鞍馬寺の本尊の一尊である護法魔王尊が祀られている。その前が「魔王の滝」と呼ばれ、修行の場だったようです。

 由岐神社(ゆきじんじゃ)  



「鞍馬の火祭り」で有名な由岐神社が見えてきた。入口の門と思いきや、そうではなかった。これは本殿前の拝殿です。案内板に「重要文化財の拝殿は、慶長12年(1607)、豊臣秀頼によって再建されたもので、中央に通路(石階段)をとって二室に分けた割拝殿という珍しい桃山建築で、前方は鞍馬山の斜面に沿って建てられた舞台造(懸造)となっている」と書かれている。割拝殿(わりはいでん)は幾つか見てきたが、舞台造(懸造)で通路が階段というのは初見です。

割拝殿を潜り、御神木の大杉の横の階段を登ると由岐神社の本殿です。
祭神は、大己貴命と少彦名命。由緒書きに「天変地異が続く都を鎮めるため、天慶3年(940)、御所内に祀られていた祭神をこの地に勧請したのが当社の始めとされ」とある。京都の北方を鎮護する神社として創建された。世の平穏を祈願して、矢を入れて背に負う「靫(ゆき)」を祀っていたことが、現在の神社名の由来となったという。
その祭神勧請の際に、村人がかがり火を焚き、鴨川の葦で作った松明をもって迎えたという。それにちなんで毎年10月22日に行われるのが例祭「鞍馬の火祭」です。松明が燃えさかる火の祭典として知られ、京都三大奇祭の一つとなっている。

 九十九折(つづらおり)参道  


仁王門から緩やかな坂が続いている。標高は、仁王門が250m、本殿金堂が410m。高低差160m、約1キロの坂道を登ってゆきます。折れ曲がっているところから「九十九折参道」と呼ばれている。由岐神社辺りから、本格的な九十九折の坂道となる。

由岐神社を出てすぐの左手の階段上に義経公供養塔がある。この辺りには、かつて多くの僧院が建っていたようだ。その一つに東光坊阿闍梨(とうこうぼうあじゃり)の僧坊跡があります。遮那王と名乗った幼少の牛若丸(源義経)は、7歳から約10年間ここに預けられ住み、昼は学問、夜は奥の院まで通い武芸に励んでいたという。牛若丸伝説はこの僧坊で暮らしていた時のお話です。その後義経は、16歳の時鞍馬寺を出て、関東から奥州平泉に下ります。
僧坊跡に、義経公を偲んで昭和15年(1940)に義経公供養塔が建立されました。

右側の赤い社は「川上地蔵堂(かわかみじぞうどう)」。ここの地蔵尊は義経公の守り本尊であったと伝えられ、牛若丸が日々修行に行くとき、この地蔵堂に参拝していたと伝わる。

小さな広場があり、新興宗教らしきモニュメントに出会う。「愛と光と力の像「いのち」」の説明書きがあり、読んでみると「この像は、鞍馬山の本尊である尊天(宇宙生命・宇宙エネルギー・宇宙の真理)を具象化したものです。像の下部に広がる大海原は一切を平等に潤す慈愛の心であり、光輝く金属の環は曇りなき真智の光明、そして中央に屹立する山は、全てを摂取する大地の力強い活力を表現しています。この愛と光と力こそは、宇宙生命・尊天のお働きそのものであり、先端の三角形はその象徴です」とある。なんと鞍馬寺が創作したモニュメントでした。白砂利が敷かれているのは枯山水庭園を意識しているのでしょうか?。「浄域」鞍馬山には不似合いに感じるのだが・・・。

「いのちの像」から双福苑をすぎ、しばらく緩やかな坂道を登って行きます。九十九折参道の中ほどに中門が構えている。中門は、もともと仁王門の脇にあったもので、勅使門または四脚門と呼ばれ、朝廷の使いである勅使の通る門でしたが、この場所に移築されました。

門をくぐり、更につづら折りの坂を登って行く。この中門からは敷石の道になり、本殿金堂まで石造りの階段が多くなる。
この九十九折(つづらおり)の道は清少納言が『枕草子』で「近うて遠きもの、鞍馬のつづらおりといふ道」と書き残しています。変化にとみ、日陰で心地よく、緩やかな坂道なので「近うて遠きもの」という感じはしませんでした。清少納言の時代は、これほど整備されていなかったのでしょう。
次の折れ曲がり位置に、奥に直進する道がある。この道は「新参道」と呼ばれ、鞍馬寺ケーブルの終点・多宝塔駅からの平坦な道です。ここが合流点です。

最後の急階段が待っている。これを登ると本殿金堂前にでる。階段中ほどに転法輪堂(洗心亭)がある。転法輪堂は昭和44年(1969)の建立で、内陣に丈六の阿弥陀如来像が安置されている。併設されている洗心亭は、参拝者のための無料休憩所とギャラリー。簡単な軽食も用意されているそうです。





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紅葉の高雄・三尾めぐり 5

2016年12月25日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月16日(水)、神護寺(高尾、たかお)→西明寺(槙尾、まきのお)→高山寺(栂尾、とがのお)の「三尾」紅葉めぐり

 高山寺の境内図と歴史  


指月橋から20分くらいで、高山寺入口が見えてきます。周山街道の左脇から坂道を登って行く。落ち葉の散乱するなか、ゆるやかな山道を登る。参道の雰囲気はありませんが、この道が高山寺への表参道なのです。現在では、バス停に近い裏参道が”表”になっていますが。「世界文化遺産」の碑もある。平成6年(1994)、高山寺だけが「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されたのです。

表参道を進んで行くと入山受付小屋がある。ここで入山料:500円支払う。8時半~17時、無休。
通常は無料で境内に入れるそうですが、紅葉の季節になると表参道、裏参道共に参道の途中に小屋が設けら、入山料を徴収される。

高山寺境内略図(受付でのパンフより)

寺伝によれば、宝亀5年(774)光仁天皇の勅願によって華厳宗寺院「神願寺都賀尾坊(しんがんじとがのおぼう)」と称し開創されたのが始まりとされる。弘仁5年(814)には「栂尾十無尽院」に改称。深い山中の山寺で、隠棲修行の場所であったらしい。
荒廃していたが、神護寺の文覚の弟子であった明恵(1173-1232)が入り、建永元年(1206)後鳥羽上皇から「日出先照高山之寺」の額を下賜された。これにより寺名を「高山寺」と改称した。これが実質上の高山寺の開基とされる。
その後、藤原氏から厚い保護を受け栄えたが、室町時代の戦乱で石水院以外の伽藍を焼失する。江戸時代に入って復興が進められ、現在のような姿に再建されたのは寛永13年(1636)になってから。

平成6年(1994)年世界文化遺産(古都京都の文化財)に登録された。

 石水院(国宝、鎌倉時代)  



受付所から真っ直ぐ進む参道は「金堂道」と呼ばれ金堂へ達する。右に折れる道は国宝・石水院へ行く。まず石水院から訪れることに。

「石水院」は明恵上人が後鳥羽上皇から学問所としてら賜った建物で、「五所堂」とも呼ばれた。13世紀前半鎌倉前期の建築で、明恵上人時代の唯一の遺構といわれている。明恵の住房だったとも、経蔵だったとも伝わる。
創建以来、何度も移築と改造を繰り返されてきた。現在の石水院は、明治22年(1889)に金堂横から移築されたもの。
こうして変遷多い石水院だが、国宝に指定され続けているのは、明恵上人の時代唯一の遺構であることと、鎌倉時代の初期における寝殿造の特徴を残していることによる。
先ほど受付で入山料500円徴収されたが、石水院に入るには、さらに800円の拝観料が必要である。ネットで数年前のデータでは600円だったのだが・・・。入山料は紅葉時期だけだが、石水院の拝観料は通年です。


履物を脱ぎ客殿に上がる。左に畳に間を見ながら、渡り廊下をでつながっている石水院へ。廊下の先では、一人の女性が座り込み、しばらく動かないまま室内を見入っていました。
渡り廊下の先が石水院の西面で正面にあたる「廂(ひさし)の間」です。この「廂の間」は立ち入ることが出来ず、外側の廊下を通ることに。板敷きの間で、壁のようなものは無く、菱格子戸と吊り上げられている蔀戸(しとみど)によって開放的になっている。

「廂の間」の中央に「善財童子(ぜんざいどうじ)」の小さな木像がぽつんと置かれている。陰影を落とす薄暗い板敷きと、愛くるしい小像のポーズとが何ともいえない絵を作り出しています。開け放たれた蔀戸からみえる遠景の紅葉も良い。何時までも見とれていたいシーンです。

善財童子は「華厳経」という経典に出てくる求法の旅をした童子で、菩薩行の理想者として描かれている。 インドの裕福な家に生まれたが、仏教に目覚め文殊菩薩の導きによって旅に出る。53人のさまざまな人々(善知識)を訪ね歩き、知恵や経験を学びました。そして修行を積み、最後に普賢菩薩の元で悟りを開いた、と伝えられています。
こうした善財童子を明恵上人は敬愛し、住房に善財五十五善知識の絵を掛け、善財童子の木像を置いていたという。あの徳川家康も、善財童子の話に感銘し、江戸から京都までの宿駅を五十三と定めたという(東海道五十三次)。ホンマかいな?

ここに置かれている善財童子像は、西村虚空氏(1915~2002)が 石水院に過ごしながら彫った一木造りの像。西村虚空氏は、熊本県出身の彫刻家、画家ですが、尺八の世界でも有名な方です。


高山寺で紅葉の楽しめるのは、開山堂とこの石水院周辺だけです。ここ以外は杉林に囲まれ、鬱蒼とした山中という風景。石水院拝観料:800円は、仏像の拝観と錯覚しそうですが、仏像はありません。紅葉の拝観料です(紅葉がなくても拝観料とられますが・・・)。ですから800円分紅葉を鑑賞することになる。他の人に迷惑かからない程度に、足を投げ出し寝転んで鑑賞します。ただ神護寺、西明寺の素晴らしい紅葉を見てきた後だけに、それほど・・・。
右のガラスケースには鳥獣人物戯画の二~四巻の縮小版を展示している。

南縁の奥の間には、幾つか展示物が置かれている。欄間には「日出先照高山之寺(ひいいでて まずてらす こうざんのてら)」の扁額が掛っています。これは後鳥羽上皇(1180-1239)自筆と伝えられ、寺名の起源となったものです。「華厳経」に由来し、「日が昇って、真っ先に照らされるのは高い山だ」という意味で、そのように光り輝く寺院であれとの意が込められているそうです。

この南縁の室内に入った所にガラスケース入りで、高山寺を代表する宝物・鳥獣人物戯画が展示されている。もちろん模写品です。国宝で教科書にも載り、誰でも名前だけは知っている。オリジナルは、甲・丙巻が東京国立博物館に、乙・丁巻が京都国立博物館に寄託保管されている。現在(10/4~11/20)は九州国立博物館で、”九州初上陸”と銘うって特別展が開かれている。
「鳥獣人物戯画」は甲乙丙丁の4巻からなる墨絵で彩色はない。甲巻、乙巻は平安時代後期(12世紀後半)、丙丁巻は鎌倉時代(13世紀)の制作と推定されている。昔、学校で鳥羽僧正作と習ったが、現在では4巻それぞれ作者は異なり、作者未詳のようです。

 高山寺(茶園、開山堂、金堂)  


石水院とは参道を挟んで反対側に、日本最古の茶園といわれる茶畑があります。竹柵で囲われ、入口に「日本最古之茶園」の石柱が建つ。
ここが我が国のお茶の発祥地。鎌倉時代初期、臨済宗の開祖として知られる栄西(1141-1215)は、留学していた中国の南宋より茶の種と茶を抹茶にして飲む喫茶手法を日本へ持ち帰った。明恵上人はその栄西より茶の種を分けてもらい、それを高山寺の境内に植えて茶園を開いた。山内で植え育てたところ、修行の妨げとなる眠りを覚ます効果があるので衆僧にすすめたという。当初は薬、覚醒用に利用されたが、その後、宇治へ伝わり、そして日本各地へと広まっていった。
現在この茶園は宇治の篤志家により管理され、5月中旬に茶摘みが行われ、毎年11月8日には新茶が明恵上人廟前に献上されるそうです。

参道を少し登ると、右手に紅葉に覆われた開山堂が見える。前はちょったした広場になっており、ここも紅葉が美しい。
開山堂は、明恵上人が晩年を過ごし、入寂した禅堂院(禅河庵)の跡地に立つ。建物は室町時代に兵火をうけて焼失し、江戸時代の享保年間(1716-1736)に再建されたもの。明恵上人坐像(重要文化財、鎌倉時代、木造彩色)が安置されている。開山堂裏の、石段を登った小高い所に明恵上人御廟があります。
 
明恵(みょうえ、1173-1232)上人は、高山寺の中興の祖であり、実質的な開基とされる。紀州有田郡吉原(現在の和歌山県有田川町)の生まれ。8歳で両親を亡くした孤児となり、1181年9歳で生家を離れ、母方の叔父に当たる神護寺の僧・上覚のもとで仏門に入った。東大寺や建仁寺で学んだ後、建永元年(1206)34歳の時に後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられ、また寺名のもとになった「日出先照高山之寺」の額を下賜された。これにより寺名を「高山寺」と改称した。これが実質上の高山寺の開基とされている。

境内で最も奥の、鬱蒼とした杉木立の中に金堂が建てられている。一重入母屋造、銅板葺で、本尊「釈迦如来像」が安置されている。元々はここには本堂があったが、室町時代に焼失してしまう。現在の金堂は、寛永11年(1634年)に御室仁和寺から古御堂を移築したたものである。

金堂右手100m位の所に、以前の石水院の跡が残されています。

 サァ、帰ろう  


金堂からそのまま真っ直ぐ下れば表参道ですが、帰りは裏参道へ降りてみます。石水院のすぐ横に細道があり、栂ノ尾バス停へ降りる近道になっている。かなりの急坂で、下りるとすぐ目の前が栂ノ尾バス停です。バスでやって来て、この坂を登ってお参りされる人もおられるので、途中に入山料徴収小屋も建てられ、「裏参道」と呼ばれています。最近ではバスやマイカーで来られる人のほうが多く、表裏が逆転しているようだ。紅葉の見ごたえは裏が断然です。

栂ノ尾バス停。バスから降りると、すぐ目の前が高山寺の裏参道。表参道の方は距離も長く、紅葉もありません。裏参道を利用する人のほうが断然多い。裏表が逆転しています。ただ裏参道は急坂ですよ。

高山寺前の栂ノ尾バス停から帰りのバスに乗ってもよかったのだが、高雄バス停の坂道の紅葉を見たかったので神護寺まで引き返すことにした。30分くらいで神護寺前の高雄橋に着く。高雄バス停へ登る階段がある。七曲の坂道を登って行きます。この坂道を降りてくる人も多い。バス停や駐車場があるからです。

見下ろしても、見上げても紅葉一色。普通に歩いて5分程度の坂道ですが、この景観ですので3倍ほどかかりました。バス停には多くの人が並んで待っている。紅葉シーズンですが、30分に1本位しかありません。ですからかなり混みます。14時20分発のJRバスで四条大宮へ。四条大宮まで40分ほど。阪急電車で大阪へ。16時日本橋着。紅葉を満喫できた一日でした。

 古文書「阿不幾乃山陵記」(あふきのさんりょうき、重要文化財)について  


高山寺に残されていた「阿不幾乃山陵記」についてチョットばかり興味があった。

古文書「阿不幾乃山陵記」を知るには、まず天武・持統天皇御夫婦のお墓について説明しなければならない。天武天皇は土葬で、持統天皇は天皇として初めて火葬され、御夫婦そろって同じ「大内陵(おおうちのみささぎ)」(日本書紀、「延喜式」では「檜隈(ひのくま)大内陵」)に合葬されたと伝わる。問題はその「大内陵」がどこかです。有力地が二つあり、江戸時代から論争されてきた。一つが明日香村にある野口王墓古墳、もう一つが近鉄吉野線の岡寺駅前にある見瀬丸山古墳。両者のどちらが、天武・持統合葬陵であるかは、以降明治時代まで混乱が続いた。
見瀬丸山古墳は、奈良県では最も大きく全国でも六番目の大きさを誇る全長318mの前方後円墳。内部の横穴式石室に巨大な家形石棺が二つ納められていた。また幕末の著名な山陵家である蒲生君平や北浦定政などが主張したことから、幕末から明治の初めにかけて、見瀬丸山古墳が天武・持統天皇の合葬墓で、野口王墓古墳は文武天皇陵とされてきた。

この天武・持統天皇陵は、鎌倉時代の文暦2年(1235)に大規模な盗掘にあい、多数の副葬品が奪われたことが知られていた。当時、京の都でも大騒ぎになったという。「新古今和歌集」の選者・藤原定家も日記「明月記」の中に、人づてに聞いた話として「持統天皇の遺骨を納めていた骨蔵器が銀製であったため、盗賊がこれを墓の外へ持ち出し、持統天皇の遺骨を路上に捨てて銀製骨蔵器だけを持ち去った」と記している。その後、盗掘者は逮捕され京の街を市中引き回しにされたという。

明治13年(1880)、ここ高山寺で「阿不幾乃山陵記」(あふきのさんりょうき)という古文書が見つかった。これは上記の盗掘事件後、勅使(鎌倉幕府の役人か、あるいは天皇の勅使が)が派遣され実地検分した時の記録です。「阿不幾」は「青木」と同音で、野口王墓古墳が昔から「青木御陵」と伝承されていたことからくる。この古文書は、高山寺の僧・定真(じょうしん)が書き残したもの。明恵上人亡き後、直弟子たちがそれぞれ塔頭を持って高山寺を守ってきた。その中の一人が方便智院の定真です。この方便智院に保存されていたそうです。
陵墓内の石室・棺の大きさ・形状・配置などが寸法入りで詳しく記されている。金銅製の棺台の上に置かれた漆塗り木棺と、金銅製の外容器に銀製の骨臓器があったと記される。このことから前者が天武天皇で、後者が火葬された持統天皇のものだと断定された。

明治政府は翌明治14年2月、天皇陵の変更を行い、野口王墓古墳を天武・持統合葬陵である「檜隈大内陵」として正式に治定し、塚穴古墳(高松塚古墳のすぐ南)を文武天皇陵に治定し直した。なお、治定からはずされた見瀬丸山古墳は、今なお後円部の一部を陵墓参考地として宮内庁の管理下においている。

現在、天皇陵古墳は宮内庁の「静安と尊厳を維持」の方針によって、研究者の調査どころか立ち入りさえ認められていない。ほとんどの古代天皇陵は謎のままで、被葬者さえ確定されていない。そうしたなか野口王墓古墳は、「阿不幾乃山陵記」によって天皇陵内部の詳細な様子が判明している唯一の天皇陵で、唯一被葬者が確定できる古墳だそうです。

このような貴重な歴史資料だが、高山寺を訪れ、何も得られなかった。案内にもパンフレットにも載っていない。ところが九州で開催されている「特別展 鳥獣人物戯画」のパンフレットが置かれていた。現在(10/4~11/20)九州国立博物館で、”九州初上陸”と銘うって「鳥獣人物戯画」の特別展が開かれているのです。その出品目録の中に
●「阿不幾乃山陵記 (作者)定真筆  1巻 鎌倉時代 13世紀 (所蔵)千葉・国立歴史民俗博物館」
とあった。そこで「千葉県の文化遺産」をネットで調べると
●「9221 阿不幾乃山陵記(方便智院本) 古文書 鎌倉 国立歴史民俗博物館」とあります。
国の文化財データのサイトにも載っており
●「所在地:国立歴史民俗博物館 千葉県佐倉市城内町117、所有者名:大学共同利用機関法人人間文化研究機構」となっている。
何らかの事情で高山寺を離れ、関東に流れてしまっています。昭和39年(1964)、国の重要文化財指定を受ける。


詳しくはホームページ

紅葉の高雄・三尾めぐり 4

2016年12月18日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月16日(水)、神護寺(高尾、たかお)→西明寺(槙尾、まきのお)→高山寺(栂尾、とがのお)の「三尾」紅葉めぐり

 槙尾山・西明寺へ向かう  



神護寺参道の長い階段を降り、高雄橋に戻る。高雄橋を渡り、清滝川に沿って上流に歩き、西明寺を目指します。高雄はどこを見ても紅葉だらけですが、この周辺は清滝川の清流と谷間、紅い橋があり、ひときわ絵になる場所です。

清滝川に添って散策路が続いている。車はほとんど見かけない。高雄橋から西明寺の入口にあたる指月橋(しげつきょう)まで15分位でしょうか。清流とカエデの紅葉を堪能しているうちに着いてしまいます。

高雄はどれも紅い橋だが、途中に場違いな橋が現れる。これが潅頂橋(かんじょうばし)で、西明寺への近道で「裏参道」と呼ばれている。少し歩いてみたが、参道の雰囲気が感じられないので引き返す。

紅葉に見とれて歩いているうちに、赤い欄干の橋が見えてきた。西明寺の入口にあたる「指月橋」(しげつきょう)です。この指月橋周辺は、高雄でも1,2を争う紅葉の景勝地。橋上で、東南アジア系のカップルが派手な結婚衣装で抱き合い、カメラ(ビデオ)におさまっていました。

 西明寺:指月橋から表門へ  



鮮やかに色づいたカエデに迎えらて、指月橋を渡る。入山拝観券に「見下げても 見上げてもよし 槙尾山」と書かれていますが、この指月橋周辺も「見下げても 見上げても」絵になる絶景地。橋の手前には「槙尾山聖天堂」の石柱が建つ。

指月橋を渡ると拝観受付があり、拝観料500円支払う。但し、紅葉の時期以外は境内拝観自由で、本堂拝観のみ400円だそうです。拝観時間:9時~17時、無休。
西明寺も山岳寺院なので参道の石階段を登って行くことになる。神護寺ほど距離はありません。この階段が苦になる人は、緩やかなスロープだけの裏参道を利用されると良い。階段を登りきると表門です。表門は、本堂と同じ元禄13年(1700)の桂昌院の寄進により造営されたもの。

 槇尾山・西明寺(まきのおさん・さいみょうじ)  


表門を潜ると、すぐ正面が本堂です。現在の本堂は、元禄13年(1700)に五代将軍 徳川綱吉の生母 母桂昌院(けいしょういん)の寄進により再建されたものと言われるが、東福門院(後水尾天皇中宮)の寄進によるとする説もある。

本堂正面の須弥壇上の図厨子内には、本尊の木造釈迦如来立像(重要文化財)が安置されている。高さ51cmほどの小さな仏像で、鎌倉時代に仏師運慶によって彫られたものという。



本堂脇の縁越しに庭園が見える。小さい庭だが、緑の植栽や苔と、それに覆いかぶさる紅葉が美しい。









本堂の前に槙(まき、高野槙)の大木が立っています。傍の案内板には、樹齢700年で「日本最古の槙の木の一本」とある。この木が「槇尾(まきのお)」の名前の由来となったそうです。

西明寺は真言宗大覚寺派の寺院。山号は「槇尾山(まきのおさん)」、本尊は釈迦如来。受付所で頂いたパンフに、西明寺の由来について
「天長年間(824~34)に弘法大師の高弟智泉大徳が神護寺の別院として創建したのに始まると伝える。その後荒廃したが、建治年間(1275~78)に和泉国槇尾山寺の我宝自性上人が中興し、本堂、経蔵、宝塔、鎮守等が建てられた。また正応三年(1290)に平等心王院の号を後宇多法皇より命名賜り、神護寺より独立した。さらに、永禄年間(1558~70)に兵火にあって焼亡したが、慶長七年(1602)に明忍律師により再興された。現在の本堂は、元禄一三年(1700)に桂昌院の寄進により再建されたものである」
と記されている。


西明寺の境内は広くはありませんが、どこを眺めても紅葉一色。紅葉シーズンだけ、境内有料となるのもわかります。

 高山寺へ向かいます  


ちょうど正午、指月橋を後にし高山寺に向かいます。静かな道を歩き進むと、5分位で周山街道(国道162号線)に突き当たる。ここからは車の往来の激しい周山街道を歩かなければならない。これといった景色もなく、車に神経使わされるだけ。

高山寺までの中ほどに紅い欄干の白雲橋がある。国道といえ、場所柄紅い橋になっている。この周辺だけが紅葉を楽しめます。しかし車は多いですが。


詳しくはホームページ

紅葉の高雄・三尾めぐり 3

2016年12月11日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月16日(水)、神護寺(高尾、たかお)→西明寺(槙尾、まきのお)→高山寺(栂尾、とがのお)の「三尾」紅葉めぐり

 神護寺境内図  



境内は広い。山岳寺院ですが、境内に達してしまえばそれほど高低差はありません。紅葉の最盛期なので、境内全域が紅く色づいている。
楼門を入った右手に、手前から順に書院、宝蔵、和気公霊廟、鐘楼、明王堂が建ち、その先には五大堂と毘沙門堂が南向きに建つ。毘沙門堂の後方には大師堂がある。五大堂北側の石段を上った正面に金堂、その裏手の一段高いところに多宝塔が建つ。「かわらけ投げ」の地蔵院は境内西端です。

 和気清麻呂公霊廟と鐘楼  


朱塗りの板塀で囲まれているのが和気清麻呂公霊廟。もとは和気清麻呂公を祀った護王社があったが、明治19年(1886)に京都御所の西に移転し護王神社となった。この霊廟は昭和9年(1934)、山口玄洞寄進により建立されたもの。
左階段上が鐘楼です。入母屋造、こけら葺、袴腰の鐘楼は、江戸時代の元和年間(1615-1623)に建立されたもの。その鐘楼の中には国宝の梵鐘が吊るされている。「姿の平等院」、「声の三井寺」とともに「銘の神護寺」といわれ「日本三名鐘」の一つに数えられている。平安時代の貞観17年(875)の鋳造で、序の詩は学者・橘広相、銘は文人・菅原是善、書は歌人・藤原敏行によるのもで、当時の一流文人の合作で「三絶の鐘」とも呼ばれた。総高149cm、口径80.3cm。

 五大堂・毘沙門堂・大師堂  



右の五大堂は元和9年(1623)の建築で、入母屋造・銅板葺きの三間堂。不動・降三世・軍茶利・大威徳・金剛夜叉の五大明王像を祀っている。

五大堂の南に建つ毘沙門堂(写真では左)は江戸時代の元和9年(1623)の建築で、入母屋造、銅板葺の五間堂。昭和9年に新しく金堂が建つ前は、この堂が金堂で本尊の薬師如来像を祀っていた。現在は、厨子内に毘沙門天立像(平安時代、重文)を安置している。

毘沙門堂の西側に建つ大師堂(重要文化財)は入母屋造、こけら葺きの仏堂。神護寺の前身だった高雄山寺時代に空海が住まいとしていた「納涼房」を安土・桃山時代に復興したもの。内部の厨子に正安4年(1302)作の板彫弘法大師像(重要文化財、秘仏)を安置する。

 金堂と多宝塔  



金堂が、五大堂・毘沙門堂を見下ろすように、広い石段上に南面して建つ。この時期、艶やかなカエデ紅葉に彩られ、絵になる階段です。

金堂は昭和9年(1934)に実業家・山口玄洞の寄進で建てられたもの。入母屋造、本瓦葺きの本格的な密教仏堂で、昭和仏堂建築の傑作とされる。須弥壇中央の厨子に本尊の薬師如来立像(国宝)を安置し、左右に日光・月光菩薩立像(重要文化財)と十二神将立像、左右端に四天王立像を安置する。
金堂の背後の小高い位置に建っているのが多宝塔。ここも紅葉の美しい場所です。
金堂と同じく昭和9年(1934)に、実業家・山口玄洞の寄進で建てられたもの。内部に国宝の五大虚空蔵菩薩像を安置する(毎年5月と10月に各3日間ほど公開)。

 和気清麻呂公の墓所  



金堂の右奥に、山中に入る二筋の小道がある。入口に道しるべの石標が建てられ、「右 和気清麻呂公御墓参道」、「左」には性仁法親王・文覚上人の墓への道を示している。なお高雄山(標高428m)山頂へも、この左の道を登るそうです。




石標に従い右の小道を入っていく。平坦な山道で、10分位で垣根に囲まれた和気清麻呂公の墓所が現れる。
神護寺を創建した和気清麻呂公は、延暦18年(799)67歳で亡くなると、高雄山中にその墳墓が祀られた。この墓碑は、明治31年(1898)に建てられたもの。


 かわらけ投げ  



地蔵菩薩像を祀る地蔵院前の広場、境内で一番紅葉が美しい場所です。


ここが、いわゆる「かわらけ投げ広場」で、「かわらけ投げ」の発祥地。売店で2枚100円で、直径5cmくらいの素焼きの皿「かわらけ」を売っている。「記念に持って帰る」と言ったら、売店のあばさんに怒られた。”厄を家に持って帰ってどうするの!”って。それもそうだ、厄払いのために投げるんだから。
投げる人、覗き込む人、写真撮る人、さまざまです。なかなかうまく飛ばない。紙ヒコーキのようにふんわり飛ぶより、スッーと消えたほうがよいのかも。厄だから。ここはちょうど清滝橋の真上辺りでしょうか。清滝川まで飛ばすのは、まず無理でしょう。

 伝・源頼朝像  


何かでよく見たことのある肖像画です。これは神護寺に伝わっていた国宝「伝・源頼朝像」。日本の肖像画史上の傑作として名高い。寺の史料である『神護寺略記』によって源頼朝とされてきたが、近年では異説も多く確定できない。そのため、国宝の指定名称にも「伝」の字が付されている。
絹本著色、大きさは縦143cm、横112.8cmで、ほぼ等身大に描かれている。筆者は藤原隆信というのが通説だったが、これも最近否定されてきているようです。
神護寺の所蔵だが京都国立博物館に寄託されている。毎年5月1日~5日に開かれる「曝涼(虫干し)展」では、神護寺に里帰りし一般公開されるそうです。
(写真は小冊子「高雄山 神護寺」より)


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紅葉の高雄・三尾めぐり 2

2016年12月06日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月16日(水)、神護寺(高尾、たかお)→西明寺(槙尾、まきのお)→高山寺(栂尾、とがのお)の「三尾」紅葉めぐり

 清滝橋から高雄橋へ  


清滝橋上で上流を見ればダムのようなものが見える。これが”危い”と注意書きにあったダムなのうだろうか。
清滝橋を渡り、神護寺の正面に行く途中。神護寺の手前でこの絶景です。11月中旬だがもう満開、いや見頃となっている。神護寺の紅葉は京都で最も早く見頃を向かえ、京都の紅葉シーズンの始まりを示すという。
川向の「もみじ屋」別館へ渡るつり橋。「もみじばし」とあり、「ゆすったりしないで下さい」と書かれている。歩くだけで微かに揺れ、少々気持ち悪い。「もみじ屋」だけあって、絵になるもみじ風景です。この別館は「川の庵」と呼ばれ、本館は裏山の上にある。即ち高雄バス停の横。山上の本館からの眺めも素晴らしいようです。
この辺は神護寺の正面からは反対側になるので、訪れる人は少ない。皆さん、こんなに素晴らしい景観があるのをご存知ないのでしょう。高雄観光ホテル先に紅い「高雄橋」が見えてきた。ホテル横の川沿いには川床小屋が並んでいる。
高雄観光ホテルのすぐ先に、紅い欄干の高雄橋が現れる。右山上に高雄バス停や駐車場があり、坂道を下りてくればすぐ高雄橋です。だからこの高雄橋が実質上、神護寺の入口になり、この辺りから人が多くなってきます。

 参道の階段  


山岳寺院である神護寺の境内もかなり高い所にあり、階段はつきもの。階段は長いが、それほど傾斜がきつくないので苦無く登れます。なによりズッーと紅葉に覆われているので、”綺麗ネ!、ワァー絶景!”と楽しみながら登っていける。途中にお茶屋さんもあるので、休憩もできる。
お茶屋さんはお茶だけでなく、うどん、そば、おでん等のお食事もできます。名物「もみじまんじゅう」も。
参道の丁度中ほどに「硯石」(すずりいし)がある。案内板には次のように書かれている。
「空海弘法大師が神護寺に在山の時、勅願の依頼を受けられたが、急な五月雨で橋が流されたため、この石を硯として対岸に立てかけた額に向けて筆を投げられたところ、見事に「金剛定寺」の四文字を書かれたという。但しこの寺は現存していない」
弘法大師のこういう話は、どこにいっても尽きないネ。それだけ弘法大師が崇拝されていたということでしょうが。
「硯石」の傍には茶屋「硯石亭」があります。ここの名物は「もみじ餅」。他にもぜんざいや湯豆腐セットなども。しかし何と言っても一番は紅葉の美しさ。庭に入って眺めるのは自由ですが、座ってはいけません。座りたかったらぜんざいを。

 神護寺の楼門が見えてきた
  



楼門が目の前に見えてきた。階段は辛い、という人のために滑らかな坂道も用意されている。階段中央のテスリも高齢者には優しいですネ。両側の緑と紅色のグラデーションが冴えます。長い階段の参道でしたが、しんどくありませんでした。
階段途中で、硯石亭のお庭を見下ろす
登りつめると拝観受付所のある正門にあたる楼門です。鬼瓦に寛永6年(1629)の刻銘があるので、その頃の建立とされる。両脇には持国天、増長天が睨んでいます。
ここで拝観料 500円払って門を潜る。拝観時間 朝9時~夕4時,無休(ただし、紅葉の時期は朝8時から拝観できるようです)


楼門から階段を見下ろします。この時期紅葉に彩られ美しい。春の新緑も冴えそうです。

ここまで400段余りの階段があるという。しかし単調な階段でなく、折れ曲がったり、紅葉を楽しんだり、またお茶屋で一服しながら登ってきたので、あっという間でした。



 神護寺の歴史  


★ 始まり ★
奈良時代末期、桓武天皇から新都建設の最高責任者(造宮大夫)を命じられ、平安京造営に力を尽くした和気清麻呂(わけのきよまろ、733~799)は、天応元年(781)国家安泰を祈願し河内国(現在の大阪府)に神願寺(しんがんじ)を建立した。またほぼ同じ時期に、山城に愛宕五坊(白雲寺・月輪寺・日輪寺・伝法寺・高雄山寺)の一つ「高雄山寺」を建立した。
高雄山寺(現在の神護寺)は和気氏の氏寺としての性格が強く、延暦18年(799)清麻呂没後、高雄山寺にその墓所が造られ、和気氏の菩提寺としての性格を強める。

★ 最澄、空海の時代 ★
清麻呂の子息(弘世、真綱、仲世)は亡父の遺志を継ぎ、最澄(767~822、伝教大師)、空海(くうかい、774-835、弘法大師)を相次いで高雄山寺に招き仏教界に新風を吹き込む。

延暦21年(802)、和気氏の当主であった和気弘世(清麻呂の長男)の要請により、比叡山中にこもって修行を続けていた天台宗開祖・最澄が、高雄山寺で法華経の講説を行う。
延暦23年(804)最澄と空海は遣唐使として唐へ。
延暦24年(805)唐より帰朝した最澄は、桓武天皇の要請で高雄山寺にてわが国最初の灌頂壇を開く。
大同元年(806)空海、唐より帰朝。最澄は、帰国後1か月にもならない空海のもとに弟子・経珍をやり、空海が唐から持ち帰った経籍12部を借覧し、その後も借り続けた。
大同4年(809)空海は高雄山寺の初代の住持に迎えられ入寺する。以来14年間住み活動の拠点とし、高雄道場と呼んで真言宗を開くための基礎を築いた。
弘仁元年(810)、空海は高雄山寺において鎮護国家の修法を行う。
弘仁3年(812)最澄は弟子と共に高雄山寺に赴き、空海から灌頂(密教の重要な儀式)を受ける。この時、灌頂を受けた僧俗名を列記した空海自筆の「灌頂歴名」が現存し、国宝になっている。
この間数年間にわたり、高雄山寺を中心に最澄、空海の親交が続けられてきた。

ところがWikipediaには以下の記述がある。
「813年1月、最澄は泰範、円澄、光定を高雄山寺の空海のもとに派遣して、空海から密教を学ばせることを申し入れ、3月まで弟子たちは高雄山寺に留まった。しかし、このうち泰範は空海に師事したままで、最澄の再三再四にわたる帰山勧告にも応ぜず、ついに比叡山に帰ることはなかった。
813年11月、最澄が「理趣釈経」の借用を申し出たが、空海は「文章修行ではなく実践修行によって得られる」との見解を示して拒絶、以後交流は相容れなかった。」
その後、最澄は空海と決別したという。

弘仁七年(816)、空海は高野山を修禅観法の道場としてその開創に着手。
弘仁13年(823)、最澄、比叡山の中道院で没、享年56歳。
弘仁14年(823)、空海は東寺を賜って住み、鎮護国家の道場としてその造営を任されている。

天長元年(824)清麻呂の子・真綱は、河内の神願寺が低湿の砂地にあり、汚れた地で密教壇場にふさわしくないという理由で高雄山寺と合併し、高雄山寺を定額寺として「神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)」(略して神護寺)と改称した。「神護国祚真言寺」とは、「八幡神の加護により国家鎮護を祈念する真言の寺」という意味。合併の際に多くの霊宝が移された。現在、神護寺の本尊として金堂に安置される薬師如来立像(国宝)もその一つ。
承和2年(835)空海の死(62歳)。

★ 文覚上人による神護寺の再興 ★
神護寺は空海の後、弟子の実慧や真済が別当(住職)となって護持されたが、正暦5年(994)と久安5年(1149)年の二度の焼失で堂塔のほとんどを失なう。その後、神護寺は衰退、荒廃していく。
平安末期の仁安3年(1168)、文覚上人(もんがく、1139-1205)が神護寺に参詣すると、八幡大菩薩の神意によって創建され、弘法大師空海ゆかりの地でもあるこの寺が荒廃していることを嘆き、再興を始めた。早速草庵をつくり、薬師堂を建てて本尊を安置した。しかし復興が思うにまかせぬため、承安3年(1173)意を決した文覚は後白河法皇を訪ね、千石の収入のある荘園の寄進を強要した。そのため、法皇の逆鱗にふれ、伊豆に配流されてしまう。その伊豆で、同じ運命の源頼朝と親しくなり、平家打倒の挙兵を促したと伝えられている。
治承2年(1178)文覚は配流を許され寺に戻る。
寿永3年(1184)年、文覚上人が後白河法皇の勅許を得、源頼朝の援助もあ って寺の再興は進んだ。文覚自身は罪を得て対馬に流され、1205年配流先で生涯を終えた。遺骨は弟子・上覚により持ち帰られ、当寺に埋葬されたという。神護寺の再興は弟子の上覚と明恵によって続けられた。

★ 室町時代~江戸時代 ★
室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)で再び兵火をうけ大師堂をのこして焼失しまう。
元和9年(1623)年、京都所司代・板倉勝重が奉行になり、細川忠興の帰依も得て、金堂(毘沙門堂)、五大堂(講堂)、明王堂、楼門などの伽藍の建て直しが行われた。江戸時代中期には堂宇七、支院九、僧坊十五を数えるまでに再興された。

★ 近代 ★
神護寺も例に漏れず、明治の神仏分離令(1868)による廃仏毀釈の弾圧を受ける。公式サイトには「ところが、明治維新後の廃仏毀釈によって愛宕山白雲寺は消滅、当寺も開創以来維持されてきた寺域はことごとく分割のうえ解体され、支院九と十五坊はたちまち焼失、別院二ヶ寺と末寺のすべては他寺に移された。」とあります。
少しでも残されただけでも幸いです。奈良県「山の辺の道」石上神宮近くの大寺院・内山永久寺は、全域果樹園に成り果てている。ただ一つ境内池が残され、松尾芭蕉がこの寺を訪れた時に読んだ句碑だけが寂しそうに立っています。

昭和10年(1935)、京都の豪商・山口玄洞の寄進により、金堂、多宝塔、清麻呂廟、唐門などの伽藍の再建、修復が行われた。
戦後の昭和27年(1952)、寺領の一部を境内地として政府より返還され今日に至っている。



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紅葉の高雄 ・ 三尾めぐり 1

2016年12月01日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月16日(水)
紅葉のシーズンがやってきました。今年は京都の高雄と決めていた。この地域は、神護寺の高雄(高尾、たかお)、西明寺の槙尾(まきのお)、高山寺の栂尾(とがのお)を合わせて「三尾(さんび)」と呼ばれ、京都を代表する紅葉の名所であります。高雄へは、通常1時間ほどかけてバスで行くのですが、ハイキング(ウォーキング)を兼ねて歩いてゆくことにしました。京都の奥座敷・清滝を出発点に、錦雲渓(きんうんけい)の東海自然歩道を1時間半ほどかけて歩き高雄に入る散策コースです。そして神護寺→西明寺→高山寺と紅葉めぐりし、高雄バス停からJRバスで帰りました。

 京都の奥座敷:清滝(きよたき)  


地下鉄・日本橋~阪急・淡路~桂~嵐山と乗り継いで、6時50分嵐山駅に着く。ここから清滝行きのバスが出ています。早朝のため車が空いていたせいか、バスで15分位で清滝に着きました(7時半)。清滝は愛宕山東南麓の清滝川に沿った静かな里で、桜・紅葉の名所、夏は避暑地として「京都の奥座敷」といわれる景勝地です。
この清滝には四年前(2012/11/19日)、愛宕山登山で来たことがある。その時は阪急・嵐山駅から歩きました。途中、化野念仏寺に寄り、無縁仏と化した幾千もの石仏・石塔に覆いかぶさる紅葉の凄まじさに感動した。そして300mもの恐怖のトンネルを・・・。思い出します。

錦雲渓には右の広い道を下りて行く。真ん中の狭い急坂を下り、清滝川にかかる朱色の橋「渡猿橋」から清滝の里を抜けても行けますが、若干遠回りになる。


坂道を5分ほど下れば金鈴橋が見えてくる。この周辺も紅葉が絶景です。橋を渡たりきると「愛宕山登山口」の標識が立つ。愛宕山(標高924m)の山頂には火伏せの神として信仰が厚い愛宕神社がある。古くから神社への愛宕詣が盛んで、登山道は参拝道でもあるのです。清滝は愛宕参りの休憩地・宿場でもあった。

 錦雲渓(きんうんけい)1  


これから橋を渡り、清滝川の左岸を上流へ向かって歩きます。清滝から上流の高雄までは「錦雲渓」(きんうんけい、又は「錦雲峡」)と呼ばれる。清滝川は下って落合いで保津川と合流している。清滝川に添った下流方向は「金鈴峡」(きんれいきょう)と呼ばれ、東海自然歩道のハイキングコースに含まれています。
錦雲渓は、清滝から高雄までの清滝川渓谷で、約4kmのハイキングコース。東海自然歩道になっており、よく整備されているという。普通に歩いて1時間半ほどで高雄・神護寺に着くという。写真撮りながらのんびり歩いて渓谷美を楽しもうと思っているので、2時間ほどを予定している。現在7時半過ぎなので、10時までに高雄・神護寺に着けばよい。
この辺りは舗装された林道で、右下を流れる清滝川のせせらぎの音を聞きながら気持ちよく歩けます。
高雄までの道のりに、分岐道が二箇所ある。それ以外は一本道で迷うことはない。まず最初の分かれ道がここです。金鈴橋から15分くらいでしょうか。高雄へ続く錦雲渓は、真ん中の坂道を下りて行く。右への小道はすぐ行き止まり、左への舗装道は月輪寺を経て愛宕山山頂への登山道です。4年前の愛宕山登山では、この道を下山してきた。途中の月輪寺は、その年七月の豪雨で大きな被害に遭い無惨な姿をさらしていた。山岳寺院の宿命です。復興されたのでしょうか?。
真ん中の坂道を下りて行くとすぐ二番目の分かれ道に出会う。真っ直ぐ進む道と、V字形にバックする道の二道に分岐する。立てられている案内標識はV字形にバックする道を示している。何故バックするんだろう?と疑問に思うが案内標識に従う。
川沿いを清滝の方向へバックします。歩き続けるが変化がない。このままでは清滝まで戻ってしまうのではないかと心配になってきた。オイオイどうなっているんだよ!と、不安な気持ちになってくる。
やがて右岸へ渡る橋が現れホッとした。しかし何故これだけ引き返さなければならないのだろうか?。錦雲渓ハイキングコースの最大の難所です。
橋を渡り、清滝川の右岸を今度は上流に向かって歩く。すぐ横が清滝川の清流で、飲みたくなるほどの澄みきった透明な川水。川魚も心地よく泳げるだろうナ、と探したが見かけなかった。清滝川はゲンジボタルの生息地だそうです。
「危い」案内標識がある。”危い”って、じゃどうするんだヨ。引き返すか、先へ走るか、それとも斜面を這い上がるか、観念するか。
こういった山中には、必ず熊、イノシシの注意書きが見られるものだが、この錦雲渓では見かけなかった。熊、イノシシの方が心配ですが、大丈夫なのでしょうか?。

 錦雲渓 2  





この風景を見ていると、二年前の赤目四十八滝(三重県名張市)の景勝地を思い出します。なんとなくよく似ている。赤目四十八滝ほど危険な箇所もアップダウンも少なく、平坦で歩きやすい。


ここまで緑だけで紅葉は見られなかった。錦雲渓の中ほどから少しづつ紅葉が散見されるようになる。寺院を華やかにする紅葉も良いが、こうした自然の中に色づく紅葉はなお良い。こうした景観は人の手によるのでなく、自然の自然になせるもの。京都の寺院の紅葉は綺麗だが、あまりにも作為的すぎる。

やがてベンチが置かれ休憩所になっている小さな広場にでる。木組みが剥き出しになり廃墟となった建物跡も残っている。以前の茶屋跡らしい。お茶屋さんがあったということは、それなりに人出があったということですね。清滝からここまで誰一人出会わなかった。ここのベンチ座っているおじさんが初めての人です。嵐山-高雄パークウェイが整備され、マイカーやバスで高雄に入るようになり錦雲渓を歩く人がいなくなったのでしょうか。険しい道もなく渓谷美を味わいながら川沿いを歩く1時間半ほどのハイキングコース。もっと沢山のハイカーに出合ってよいものですが。それとも朝8時という早過ぎる時間のせいでしょうか?。


案内図を見れば、ベンチのある広場はちょうど清滝~高雄の中間地点あたり。広場の横に、右岸へ渡る橋が見えます。”潜没橋”とか。増水したら潜没するんでしょうか。それともダムの放流で?。この辺りも自然の織り成す景勝地。川遊びしたくなります。
橋を渡ると杉木立が道の両側に、塀のように直立して並んでいる。これも「北山杉」っていうのでしょうか。北山杉は、真直ぐで一定の太さをもった、しかもフシのない美しい木だという。ここの杉もそれにピッタリです。

所々、紅葉を堪能できる箇所がある。心が和み、俗世間から逃避できます。平坦な歩きやすい道が続き、新鮮な空気と爽やかな風景を楽しみながら歩き続ける(「危い」の警告板は何度か出会うが・・・)。やがて清滝橋が見えてきた。ようやく神護寺にたどり着いたようです。8時50分なので、1時間半弱で錦雲渓を歩いたことになる。



詳しくはホームページ

「ならまち」から白毫寺へ 4

2016年11月28日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年9月24日(土)奈良公園南の「ならまち」を散策し、高畑・新薬師寺へ、そして白毫寺まで歩く(その4)

 「高畑町(たかばたけちょう)」界隈と志賀直哉旧邸  


「頭塔」の北側に広い車道が東西に走っている。「ならまち」中央を貫き、「ならまち大通り」と呼ばれています。高畑の真ん中を通って”剣豪の里”柳生町へ続く。そこからこの高畑辺りからは「柳生街道」と呼ばれている。
高畑町は、春日山の南西麓にあり春日大社の南域に当たる。かっては春日大社に出仕する禰宜、神職らが住居を構えていた社家町だったそうです。広い車道だが走っている車は少ない。「ならまち」と違いここまで足を運ぶ観光客も少なく、喧騒とは縁遠い静かな住宅地です。
奈良公園、春日大社に近く、歴史と自然の風景に恵まれた閑静な高畑界隈は、大正から昭和にかけて多くの文化人、画家などに親しまれてきた。志賀直哉もその一人です。ここに志賀直哉自ら設計した邸宅を建て,昭和4年から約十年間住んだ。武者小路実篤、小林秀雄、尾崎一雄など多くの文化人が集まり文化サロンを形成し,文化・芸術論に花を咲かせたという。こうした自然と静寂に恵まれた中で執筆活動を行い、昭和12年に代表作「暗夜行路」を書き上げた。
平成12年には国の登録有形文化財に認定、また平成28年には奈良県指定有形文化財(建造物)に指定された。現在建物は地元の奈良文化女子短大が買取り,生徒・学生達のためのセミナーハウスとして利用する共に広く一般公開もされている。。開館時間:9時~17時半(12月~2月は4時半まで),入館料:350円(小中学生は割引あり)

志賀直哉旧邸の前から、北側に小さな小道が見えます。これが「ささやきの小道(下の禰宜道」と呼ばれる歴史あるみちです。禰宜、神職が、住居のあった高畑町から春日大社へ通った道だったことから「禰宜道(ねぎみち)」と呼ばれる。東側から「上の禰宜道」、「中の禰宜道」、「下の禰宜道」という三本あります。特に「下の禰宜道」は「ささやきの小径」という愛称で知られる散策路となっている。春日大社の二の鳥居へ続く10分ほどの静寂な道です。両側をアセビの木に囲まれ昼間でも薄暗い。アセビは毒をもち、牛馬が食うと麻痺することから「馬酔木」と書きます。シカも食べないので増えたようだ。ツツジ科に属し、3月中頃に白く美しい花を咲かせるという。

 新薬師寺(しんやくしじ)  

柳生街道に戻り新薬師寺を目指す。静かな車道が、春日大社境内の横を春日山の方向へ続いている。柳生街道を山の方向に歩いていると,右手に新薬師寺の案内が見えてくる。その案内標識に従い路地に入っていく。古い土塀が続き,やがて新薬師寺の東門(重要文化財)が現れる。しかし東門は閉鎖されているので,土塀伝いに南へ歩き南門へ周ります。
拝観受付のある南門は,鎌倉時代後期の作で切妻造の四脚門。国の重要文化財に指定されている。600円の拝観料を納めて境内へと入ります。華厳宗の寺院で、山号は日輪山。
新薬師寺は,天平19年(747)聖武天皇の病気平癒を祈願して、光明皇后によって創建されたという。しかし聖武天皇が光明皇后の眼病平癒を祈願して天平17年(745)に建立したという伝承もある。

左に見える赤い鳥居は鏡神社。藤原広嗣の霊を祀る神社です。
創建当時は東大寺とともに南都十大寺の一つに数えられ、南大門、中門、金堂、講堂、食堂、鐘楼、鼓楼、三面僧房、東西両塔を備えた大寺だったという。しかし宝亀11年(780)西塔への落雷で境内はたちまち炎に包まれ、ほとんどの堂宇が焼失してしまう。また応和2年(962年)には台風による風水害で諸堂が倒壊し、本尊も壊れてしまう。
その後鎌倉時代に,華厳宗中興の祖である明恵(みょうえ)上人によって再興がなされ、境内の再整備がなされた。現存する観音堂(元地蔵堂)、鐘楼、東門、南門は、この時に再興されたもの。いずれも鎌倉時代の建築の様相を今に伝えるものとして、それぞれ重要文化財に指定されている。

南門を潜ると、正面に本堂(国宝)が佇む。入母屋造、本瓦葺き。屋根の勾配が緩やかなのは天平建築の特徴だそうです。
(写真は、絵葉書「薬師如来と十二神将」より)本堂の内部は瓦の敷かれた土間で、その中央には漆喰で固められた直径が9m、高さが90cmの巨大な円形の土壇が設けられている。円形の土壇は珍しく我が国では最大の大きさ。土壇上には中央に本尊の薬師如来坐像(国宝)を安置し、これを囲んで十二神将立像(国宝)が外向きに立つ。天井板は張られておらず,屋根裏の垂木などの構造材をそのまま露出させている。これを「化粧屋根裏」と呼ぶそうだ。
十二神将は薬師如来を守護する眷属(けんぞく)で、十二の方角に分かれ、それぞれが七千の兵を率いて総勢八万四千の大軍団を組織し、12年周期の1年交代で総大将を決めて薬師如来を護衛する。新薬師寺の十二神将立像は日本で一番古く最も大きい。ほぼ等身大の塑像で、甲冑に身を包み武器を手にもち、皆凄まじい形相で立っている。

本堂左の小さな山門を潜ると香薬師堂がある。そこの離れの一室で、十二神将立像の解説と造像までの過程を紹介した25分のビデオ映像が流されていました。座敷に上がりこみ、寝転んで鑑賞できる。こうした試みは非常に歓迎できます。他の寺院でもやって欲しいものです。
新薬師寺も「萩の寺」としても知られています。本堂脇に萩が群生しているが、元興寺同様に花つきはよくなかった。唯一、本堂右前の小さな池の周辺だけが鮮やかでした。
この池の鯉には言い伝えがある。この池に泳いでいる鯉はどれも目か耳が悪いという。これは目や耳を病んだ人が、祈りをこめてこの池に鯉を放つと、鯉が身代わりに目や耳を患い、その人は全快するからだそうです。
新薬師寺のすぐ裏側に「奈良市写真美術館」があります。写真家・入江泰吉(1905~1992)が生涯大和路の風情や仏教美術を撮り続けた記録写真など8万点収蔵し,その中からテーマを替えて展示公開している。建物は建築家・黒川紀章が設計,日本芸術院賞を受賞。
開館:9時半~17時、休館:月曜日(祝日の場合は翌日)、入館料:400円(高・大学生200円、小中学生100円)

 白毫寺(びゃくごうじ,奈良市白毫寺町)  



新薬師寺から「萩のお寺」白毫寺(びゃくごうじ,奈良市白毫寺町)へ向かいます。白毫寺は、春日山と南に連なる高円山(たかまどやま)の西麓にある。新薬師寺からはかなり距離もあり、道も入り組んでいる。出合った住民の方に教えてもらいながら歩きました。やがて古ぼけた橋に出会う。橋には「能登川」「高砂橋」と刻まれている。この橋が一つの目印になると思います。

住宅路の中の緩やかな坂道を登って行くと、白毫寺への案内標識が現れ、左に折れるように教えてくれます。左に真っ直ぐ進むと、白毫寺の入口となる階段がある。

階段を登ると拝観受付小屋があり、拝観料500円支払う。小屋のガラス窓には、残念な萩の開花状況が掲示されていました。しかしこうした正直な情報公開には好感がもてます。元興寺、新薬師寺の萩の花がパッとしなかったのも同じ理由からなんでしょうね。地球規模の気候変動が影響しているのでしょうか?。とすれば年々花つきが悪くなる心配も。


白毫寺は花の寺としても有名で「関西花の寺二十五霊場」の第十八番札所(萩)として知られている。萩が密生して植えられているのは、受付から山門を通って境内に達する石段の両側です。両側の土塀にそってビッシリと植えられている。残念ながら開花状況は良くなく、3割程度のようです。10割になれば、どのような景観を見せてくれるんでしょうか。









石段の参道の中間に、塀がめくれた古風な山門がある。階段を数えてみました。下の受付小屋までが47段。小屋から山門までが52段。山門から上までが37段でした。合計136段の参道です。白、ピンク、赤の萩の花が咲き乱れていれば、非常に印象に残る参道の一つになんたんでしょうが・・・。

山門を潜っても、両側の土塀に沿って萩が植えられている。白毫寺の見所「萩の階段」ですが、見てのとおりの花つきです。萩の最盛期の土曜日ですが、それほど観光客は多くなかった。花つきのせいでしょうか。
なお階段を登りきったこの位置の横にも受付がある。通常の受付はここなのですが、萩の季節に限り階段の下の小屋が受付となる。仏像以上に白毫寺を有名にしている萩の花をタダで鑑賞されては困るからでしょう。
(左奥は本堂)白毫寺は「萩の寺」と呼ばれるが、椿でも有名で、境内いたる所に椿の木があります。登ってきた「萩の石段」にも植えられている。白毫寺の椿の代名詞になっている樹齢400年の「五色椿」は、本堂前のロープで囲われた中に樹がある。一本の木に、赤や白、ピンク、紅白の絞りなど色とりどりの大輪の花を咲かせる非常に珍しい椿です。見頃は3月下旬から4月上旬。東大寺の「糊こぼし」、伝香寺の「散り椿」と並んで大和の三名椿と呼ばれています。
五色椿の右奥に見えるのが「白毫寺椿」。樹齢推定500年の大椿。名前の由来は、紅い花に点々と入る白い班が見られ、これが仏の額にある白毫を思わせることからきているそうです。なお「白毫寺」の名前の由来は「仏の眉間にあり光明を放つという白く細い渦巻状の毛のこと」(パンフレットより)。

高円山の高台にある白毫寺は「南都一望の寺」として知られ、境内が奈良盆地を一望できる展望台となっています。望遠鏡までは置かれていないが、ベンチや展望図が用意されている。特に生駒山に陽が沈む夕焼けが絶景とか。

東大寺大仏殿や興福寺五重塔が見える。遠くには二上山、信貴山、生駒山などの山並みも。


★白毫寺の歴史についてWikipediaには「霊亀元年(715年)、天智天皇の第7皇子である志貴皇子の没後、天皇の勅願によって皇子の山荘跡を寺としたのに始まると伝えられる。また、かつてこの高円山付近に存在した石淵寺(いわぶちでら)の一院であったともいう。石淵寺は空海の剃髪の師であった勤操が建てたとされる寺院である。鎌倉時代になって西大寺の叡尊によって再興され、叡尊の弟子である道照が将来し経蔵に収めた宋版一切経の摺本によって、一切経寺とも呼ばれ繁栄した。室町時代に兵火で建物が焼失し衰退するが、江戸時代の寛永頃に興福寺の空慶により復興される」とあります。
この白毫寺も明治初期の廃仏毀釈で廃寺寸前まで荒廃する。少しづつ立ち直り整備されていったのは戦後になってからだ。真言律宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。


詳しくはホームページ

「ならまち」から白毫寺へ 3

2016年11月24日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年9月24日(土)「ならまち」に散在する観光名所を巡り、高畑を経て「萩の寺」白毫寺まで

 中将姫(ちゅうじょうひめ)ゆかりの4寺  


■ ■ 中将姫(ちゅうじょうひめ)伝説 ■ ■
中将姫(ちゅうじょうひめ、747~775年4)は、奈良の当麻寺に伝わる当麻曼荼羅を織ったとされる伝説上の人物。中将姫の哀話は平安時代から鎌倉時代にかけて世間に広く流布していた。室町時代には,世阿弥元清が中将姫を主人公にした謡曲「當麻」が,江戸時代には近松門左衛門などによって継母に虐げられる哀話が作られた。こうして中将姫の物語は,謡曲や歌舞伎、浄瑠璃でおおきな人気を博し庶民の中に広まっていったのです。

奈良時代聖武天皇の頃。右大臣・藤原豊成という人物がいた。豊成は藤原鎌足の曾孫,
藤原不比等の孫で,藤原南家を創設した藤原武智麻呂の子です。豊成と妻の紫の前には長い間子どもができなかったが,長谷寺の観音さんにお参りし祈願すると娘を授かりました。娘が5歳のとき母親が亡くなり,豊成は照夜の前という人を後妻に迎えます。しかし娘は継母に嫌われ,折檻などの虐待を受けるようになる。
娘の名前は伝わっていないが,才能に恵まれ9歳に時に孝謙天皇から三位中将の位を授かった。そこから「中将姫」と呼ばれるようになったという(13歳の時に中将の内侍となったから,という説もある)。


継母は姫を妬み、豊成に讒言をしたり、雪の日に松の木に縛り折檻をしたりいじめます。ついには豊成の留守中に,家来に中将姫を連れ出し殺すように命じます。14歳の時です。しかし家来は,信仰厚く祈り読経を続ける姫を殺すことが出来ず、雲雀山の青蓮寺(宇陀市菟田野区)で匿い育てました。翌年、山へ狩りに来た父豊成と再会し、中将姫は家に連れ戻される。しかし姫は世の無常を悟り出家し、二上山の山麓にある当麻寺に尼となって仏門に入ることになりました。

翌年、中将姫がひたすら西方浄土に憧れ写経をしていると、観世音菩薩と阿弥陀如来が連れ立って姫の下に降臨され、姫に5色の蓮糸で曼荼羅布を織るようにと言われます。姫は蓮糸を集め、井戸で染め、一晩のうちに極楽浄土の描かれた1丈5尺四方(約4.5m平方)の曼荼羅を織り上げました。それが當麻寺に伝わる当麻曼荼羅(たいままんだら)で,日本三浄土曼荼羅の1つとして残っている。

宝亀6年(775年)29歳の春、中将姫は阿弥陀如来と25菩薩の来迎を受けて生きながら西方極楽浄土へと旅立ったと伝えられている。その様子を再現したのが,毎年當麻寺の5月14日に行われる中将姫練り供養です。
「ならまち」でもやや南の三棟町に「誕生寺(たんじょうじ)」がある。この周辺は中将姫ゆかりの土地なので、誕生したのはもちろん中将姫です。空き地の奥まった所に山門があり,入り口に「中将姫誕生霊地」の石碑が建つ。石碑の側面には「従1位右大臣藤原豊成卿旧跡地」と書かれています。この周辺は,中将姫の父・右大臣藤原豊成の邸宅があった所とされる。ここには中将姫,豊成,紫の前(生母)の御殿が並置されていたことから「三棟殿」とも呼ばれた。現在でも町名を「三棟町」という。

正式には「異香山(いこうざん)法如院誕生寺」で,浄土宗の尼寺です。「法如院」というのは中将姫が出家し尼になった法名です。本堂には、本尊の中将法如尼坐像、豊成公木坐像、中将姫作と伝える蓮糸織などが安置されている。
本堂左脇の狭い通路を抜けると裏庭が現れました。裏庭に入るとすぐ中将姫の産湯に使ったという「誕生の井戸」があります。とりたてて何も感じさせてくれない井戸らしきものが置かれている。井戸の右方の小高い所に石造の中将姫坐像もあり、庭を眺めておられます。
中将姫の伝説については異説も多い。誕生寺は中将姫とは関係なく,釈迦誕生仏を安置したからだとか,そもそもこの地に右大臣豊成の館があったという伝承自体が当てにならないなど。

誕生寺とは道を挟んで反対側に,中将姫と父・豊成の墓があるという「徳融寺(とくゆうじ、鳴川町)」がある。入口に「豊成公中将姫旧跡、御墓」の石碑が建っています。
徳融寺は右大臣・藤原豊成の邸宅跡に建つ寺院のひとつだといわれる。豊成公の娘・中将姫はこの地で育ち、少女時代継母により折檻され、虐待されたという。
境内には,中将姫が継母から雪の降る朝、割竹打ち折檻を受けた場所とされる雪責松があるという。歌舞伎や人形浄瑠璃の舞台となった場所です。探しまわったが見つからない。裏手の墓場内に案内板があり「昭和49年(1974)頃まで墓場の向こうに見える築地塀の下に松の切り株が存在していたが、現在はない」と書かれていました。中将姫が突き落とされた崖とされる「虚空塚」はついに見つけられなかった。


観音堂の裏手に、藤原豊成・中将姫父子の二基の石塔(鎌倉時代)がある。右が豊成公の、左が中将姫の宝篋印塔。この石塔は元は、井上高坊(高林寺)にあったのを延宝15年(1677)に当寺に移したものであると伝わる。
歌舞伎「中将姫雪責」などが公演される際には、役者関係者がお参りに来られるという。墓碑柱の側面には「施主片岡仁左衛門、同千代之助、嵐璃寛」の銘が書き込まれていました。

門前に「おもてなしトイレ」の札が掛かっている。「ならまち」は、おじさん・おばさんに本当に優しい。「ならまち」を散策していて、まずトイレの心配はありません。


徳融寺の北隣に安養寺(あんようじ)というお寺があります。寺伝によると、中将姫が出家して開創したと伝わるお寺だという。室町時代に建てられた本堂は、県の文化財に指定され、昔は「横佩(よこはぎ)堂」と呼ばれていたそうです。これは中将姫の父・藤原豊成卿が横佩右大臣と称されていたためとか。


「ならまち」の南域の井上町の車道脇に,これも中将姫ゆかりの高林寺(こうりんじ)がある。ここも父・豊成の邸宅跡で、中将姫はここで成人し、當麻寺に入って出家、法如尼となったと伝わる。

門前に「中将姫修道霊場 豊成卿古墳之地」と「高坊旧跡」という石碑が建つ。「高坊(たかぼう)」は安土・桃山時代の茶人。この邸で茶湯等を楽しみ、奈良まちの数寄者の一大群落、一大サロンを形成していたという。


藤原豊成は死後この地に葬られたと伝わり、本堂前には豊成の墓とされる直径約2.5メートルの円墳があります。また本堂の内陣中央須弥壇に、厨子入りの中将姫と父・藤原豊成公の坐像が安置されているという。



 十輪院(じゅうりんいん)  

十輪院は、元興寺旧境内地の南東端に位置する真言宗醍醐派の寺院。山号は「雨宝山」で、本尊は石造の地蔵菩薩。

創建についてWikipediaには「元は大寺院だった元興寺の別院とされ、寺伝によると奈良時代に右大臣・吉備真備の長男である朝野宿禰魚養(あさのすくね なかい)が、元正天皇の旧殿を拝領し創建したと伝わる。その後、弘仁年間には弘法大師が留錫したという。朝野魚養は能書(書道の名人)とされ、空海の書の師ともいうが、伝記のはっきりしない人物である。」とある。中世以降は庶民の地蔵信仰の寺として栄えた。
入口の南門は四脚門で鎌倉時代前期のもの。重要文化財に指定されている。
境内は見学自由だが,石仏龕のある本堂(国宝)内拝観は9時~16時30分で,拝観料400円。
南門を潜ると直ぐ正面に本堂(国宝、鎌倉時代前期)が佇む。本堂内には、本尊である地蔵菩薩を中心にした石仏龕(せきぶつがん、鎌倉時代、国重文)が安置されています。
公式サイトに「この建物は内部にある石仏龕を拝むための礼堂(らいどう)として建立されました。近世には灌頂堂とも呼ばれていました。正面の間口を広縁にし、蔀戸(しとみど)を用いています。軒まわりは垂木を用いず厚板で軒を支えています。また、棟、軒および床が低く、仏堂というよりは中世の住宅をしのばせる要素が随所に見られます。柱間の上にある蟇股(かえるまた)は垢抜けした優美な形状をしています。」とある。
奈良町には多くの社寺がありますが国宝に指定されている建造物は、元興寺の本堂・禅室・五重小塔と十輪院のこの本堂の4つだけです。

(写真は冊子「大和地蔵十福」より)本堂内に入ると薄暗い。本堂は、屋根続きになっている建物に置かれている石仏龕(重要文化財、平安時代~鎌倉時代)を拝する礼堂となっている。しかし石仏は大きくないので,真近で見るため礼堂の背面に廻り石仏龕の真ん前に座って拝観するのが良い。そうしていると,寺の人が横に座り解説してくださった。
龕(がん)とは仏像を納める厨子を意味します。龕中央に本尊地蔵菩薩、その左右に釈迦如来、弥勒菩薩を浮き彫りで表しています。石仏龕は間口268cm、奥行245cm、高さ242cmで,花崗岩の切石を積み上げて厨子形に整えたもの。
石仏は「龕(がん)」とともに、「彫刻」ではなく「建造物」として重要文化財に登録されている。
石仏といえば崖などに彫られているのが普通ですが、堂内に祀られているのを初めて見ました。他から持ってきたものでなく、初めからこの地にあったそうです。

御影堂の裏手には、十輪院の開基「朝野宿禰魚養(あさのすくねなかい)」の墳墓とされる「魚養塚(うおかいづか)」があります。横穴式の小さな石室がむき出しになっている。”魚養”とは珍しい名前だが、購入した小冊子に逸話が載っていました。
遣唐使・吉備真備(695~775)は唐の国で妻を娶り子供が生まれた。真備は子供が成長すれば必ず迎えに来ると約束し帰朝。待てど暮らせど迎えは来ない。ついには母は首に「遣唐使某の子」と書かれた札を付け、わが子を海に投げ込んだ。ある時、真備が難波(大阪)の浜辺を歩いていると、四才くらいの子供が大きな魚に乗って近づいてきた。抱き上げてみると、首の名札から我が子と知った。「魚養」と名付けられて大切に育てられたという。





 今西家書院(いまにしけしょいん,重要文化財,福智院町)   


十輪院から旧大乗院庭園へ向かう途中に「今西家書院」がある。少々分りづらいが、白壁が目印となる。扉の横のくぐり戸から中へはいります。見学時間:午前10時~午後4時(受付:午後3時30分)、休館日:月曜日。書院内へ上がるには見学料が必要です。大人:350円、※学生・シルバー(70歳以上)300円。時間がないので今回はパスしました。

この建物は、元々は興福寺大乗院に仕える福智院家の居宅であったものが,大正13(1924)年に酒屋の今西家(今西清兵衛商店)が譲り受けたもの。何度か改修を受けているが、室町時代中期の書院造りの遺稿を残している貴重な歴史的建造物として国の重要文化財に指定されています。

今西家書院と白壁でつながった古風な建物がある。これは「今西家書院」の所有者・今西清兵衛商店のお店です。
奈良の地酒として人気がある「春鹿」の醸造元。内部はお酒や関連品のショップで、「春鹿」関連の展示物も置いている。また中央にはテーブルが置かれ居酒屋風になっています。「春鹿」の試飲ができたらよいのですが。

 名勝 旧大乗院庭園の入口(きゅうだいじょういんていえん,高畑町)  


「ならまち」の東端、奈良ホテルの南側に広い庭園がある。これが「名勝 旧大乗院庭園」です。入口が分りづらい。地元の人に訊ねても??のまま。ようやく庭園の東南隅にある建物「庭園文化館」から入ることがわかりました。
その歴史は「興福寺の門跡寺院である大乗院の寛治元年(1087年)創建と同時に築造された庭園は、12世紀における平重衡による南都焼討で被災し、興福寺別院である定禅院跡地に移築されたが、ここも15世紀中期の徳政一揆で荒廃したため、復興を目的に尋尊が銀閣寺庭園を作った善阿弥父子を招いて池泉回遊式庭園を改造させた。以降、明治初頭まで南都随一の名園と称えられた。」(Wikipediaより)
しかし大乗院も明治維新の神仏分離・廃仏毀釈の嵐を受け、大乗院門跡は廃絶、そして廃寺となる。建物は除却・分散し,敷地には飛鳥小学校や奈良ホテルが建ち、庭園は荒れたままになっていた。
戦後の昭和33年(1958)、池を中心とする庭園の大部分が国の名勝に指定される。庭園は荒廃が著しかったが、財団法人日本ナショナルトラストが文化庁から管理団体に指定され、整備・発掘調査が実施された。平成8年には、名勝大乗院庭園文化館も完成。そし庭園文化館は財団法人日本ナショナルトラストが建てた建物。一階には、大乗院の復元模型や大乗院に関する資料が展示されている。また椅子が置かれ、庭園をガラス越しに眺めながら休息できる。また各種催しに利用できる茶室や会議室も備えている。
開館:9時~17時,月曜日休館(祝日の場合は翌日)
入館無料,ただし庭園に出るには100円支払う。て平成22年(2010年)、庭園の復原事業が完成したのを機に一般公開されることになった。

文化館で、庭園に出たい旨を申し込めば扉を開けてくれます。100円支払う。
前の大きな池が「東大池」。池の中の三ツ島のサルスベリが美しい。左側の松の付近には、複雑に入り組んだ小さな池があり「西小池」と呼ばれている。これは発掘調査で見つかったもの。奥(北側)には奈良ホテルが建つが、樹木で遮られ見えない。
庭園内は一周できず,左回りに紅い橋の近くまで散策できるだけ。右半分は立ち入りできない。
中島に渡る紅い反り橋が鮮やかで、ひときわ目立つ。ただし立ち入れないようロープが張られています。

 福智院(ふくちいん、福智院町)  


旧大乗院庭園を出て、広い交差点を南へ渡るとすぐ福智院です。黄色の塀が鮮やかで、すぐ見つかります。
奈良時代の天平8年(736)に聖武天皇が発願し、興福寺の僧・玄昉(げんぼう)がこの清水の地に地蔵菩薩を本尊とした清水寺(しみずでら)を創建したのが始まり。建長6年(1254)に興福寺の僧が再興して福智院に改名し、その後 叡尊(えいそん)が再建した。南都における地蔵信仰の中心地の一つ。現在もこの辺りには、上清水町・中清水町・下清水町という町名が伝わります。
ここも明治初めの廃仏毀釈運動の影響を受け、領地や什物を失い荒れ果てた。以後徐々に立ち直り、昭和30年に国の文化財保護法の適用を受けて解体修理が行われ、美しい本堂が蘇った。現在は真言律宗の総本山西大寺に所属している。
本堂に入ると大きな地蔵菩薩像に圧倒される。高さ1.6mの台座上に、右手に錫杖、左手に宝珠を持って座っておられる像の高さが2.7m。光背を含めた総高は6.7mもあります。
鎌倉時代の作で、胎内銘によれば、建仁3年(1203)に福智庄(現奈良市下狭川町付近)で造られ、建長6年(1254)に当地に遷されたと考えられている。寄木造りの上に漆を塗り重ね彩色が施されていた。口元に赤色が残っています。
台座は蓮華座ではなく、奈良時代以前に流行した古風な裳懸座で、その上に右足首を少し前に突き出した「安座」(あぐらをかく)という座り方をしているのが特色。通常の坐像は「結跏趺坐」といって坐禅時の座り方をしているのだが。
どっしりとしたふくよかな体つき、そして驚かされるのは舟型光背です。びっしりと隙間なく化仏で埋め尽くされている。560体もあり、光背内側の6地蔵と本尊とを合わせ全部で567体となる。これは釈迦滅後、56億7千万年後に下生するという弥勒信仰に符合している。地蔵菩薩でありながら、須弥壇に座り光背を背負っているのは珍しいそうです。この木造地蔵菩薩坐像も国の重要文化財に指定されています。(写真は小冊子「大和地蔵十福」より)

なおこの本堂右手奥には、宝冠を被った珍しい十一面観音像も安置されているが、こちらは秘仏で春・秋の特別日にしか開扉されません。

 「頭塔(ずとう)」  


福智院の筋を東に歩いていると「頭塔(ずとう)」の案内に出会う。格子越しではよく見えない。周辺で見える場所を探すがみあたらない。東側の広い通りに出たら、建物の間から階段ピラミッド形の塔がよく見えました。
頭塔は、一辺30m、高さ10m、7段の階段ピラミッド形に土を盛り上げた塔です。各段には石仏が配されている。大正11年(1922)に国の史跡に指定されました。頭塔は地元「史跡頭塔保存顕彰会」によって管理され、見学を希望する場合は25m離れた事務所で申し込めば頭塔に登れるようです。

「東大寺要録」の記録では、奈良時代に東大寺の僧・実忠が、師良弁の命によって「鎮護国家の為」築造したものとある。
福智院の創建者・玄昉の首塚だという怨霊伝説も伝わっている。玄昉が太宰府の観世音寺に左遷されていた時、藤原広嗣の怨霊が雷となって、玄昉を黒雲の中につかみ上げ、そして玄昉の肢体を引きちぎって奈良の都に投じたという。首は頭塔へ、肘は市南部の肘塚、眉と耳は大豆山町の眉目塚、胴は押上町の胴塚に葬られたと伝えられれている。なんとも恐ろしい話だが、この頭塔は果たして玄昉僧正の首塚なのでしょうか。
毎年6月18日には福智院で「玄昉忌」が催され本堂にて法要の後、この頭塔でも法要が行われるそうです。


詳しくはホームページ

「ならまち」から白毫寺へ 2

2016年11月19日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年9月24日(土)「ならまち」に散在する観光名所を巡り、高畑を経て「萩の寺」白毫寺まで(その2)

 御霊神社(ごりょうじんじゃ)  


「ならまち」には”呪い・祟り”を鎮めるための神社があります。御霊神社と崇道天皇社で、南都二大御霊社とされている。
元興寺五重塔跡の南西に鎮座している御霊神社は、その名のとおり、”呪い・祟り”の怨霊を鎮めるために建てられた神社です。奈良時代の末から平安時代の初期にかけて、相次いだ政変の中で、謀略・冤罪などにより非業の死を遂げた皇族や貴族たちがいた。そして天変地異や疫病の流行などは、そうした人の”呪い・祟り”だとして恐れられたのです。
ここの御霊神社には8人の犠牲者が、神としてお祀りされている。

中央の本殿には、井上(いがみ)内親王・他戸(おさべ)親王・事代主命が祀られています。
第45代聖武天皇の皇女である井上内親王は、第49代光仁天皇の皇后となる。他戸親王(おさべしんのう)は二人の間に生まれた皇子である。しかし宝亀3年(772)、山部親王(桓武天皇)を第50代の天皇にしたいと画策する藤原百川らの謀略にあい、巫女に天皇を呪詛(じゅそ)させたとして皇后、皇太子の位を廃され、大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)に幽閉される。宝亀6年(775)4月、幽閉先で二人は同日に薨去した(暗殺説も)。その後、藤原百川は悪夢に悩まされ頓死。天災地変がしきりに起こり、宮中でも変事が頻発し、疫病が流行するなど禍事が相次いだ。これは二人の祟りであるとして、怨霊を鎮めるため墓を改葬して山陵とし、皇后位を追復する。そして井上皇后に御霊大明神の官位を奉って神としてお祀りすることになった。五條市に勅命によって御霊神社が創建され、各地に同じような御霊神社が造られた。ここもその一つ。
 
★左殿 早良(さわら)親王、藤原大夫人(だいふじん)、藤原廣嗣(ひろつぐ)
★右殿 伊予(いお)親王、橘逸勢(たちばなはやなり)、文屋宮田麿(ぶんやみやだまろ)が祀られ、
これらの人も冤罪・謀略などによって非業の死を遂げた人達です。早良親王については崇道天皇社を参照。

 崇道天皇社(すどうてんのうしゃ)  


「ならまち」でも南の端にあたる場所に崇道天皇社がある。ここには御霊神社にも祀られていた早良(さわら)親王が祀られている。「崇道天皇」というのは、早良親王の死後、その怨霊を鎮めるために天皇として追号されたものです。正式に即位していないので歴代天皇には数えられていない。

早良親王は、父・光仁天皇(四十九代)と母・高野新笠との間に生まれ、桓武天皇(五十代)は同母兄である。天応元年(781年)光仁天皇の崩御後、兄・桓武天皇の即位と同時に皇太子となり、次期天皇を約束され政治を任された。しかし兄・桓武天皇とは不仲であったという。延暦3年(784年)長岡遷都がおこなわれたが、翌年延暦4年(785年)長岡遷都の主唱者だった中納言・藤原種継が暗殺されるという事件が起こった。事件の首謀者として、大伴升良や大伴家持などが処分されたが、早良親王も連座したという疑いを受ける。皇太子の地位を廃され、乙訓寺(長岡京市)に幽閉され、淡路に配流されることに。延暦4年淡路へ移送される船中で、身の潔白を訴えるため自ら食を絶って死んだ(49歳)。その遺骸は淡路国に埋葬された。
早良親王が亡くなった後、遷都先の長岡京では天災や疫病が相次ぐ。桓武天皇や早良親王の生母・高野新笠の病死、天皇の妃の病死など、天皇の一族が相次いで没しており、宮廷関係者に立て続けに不幸が襲う。さらには疫病の流行、洪水などの天変地異も相次ぎ発生した。これらは早良親王の祟りによるものだとの噂が広まる。ついには長岡京を放棄、新しい都・平安京への遷都が行われた。それでも災いは収まらない。桓武天皇はその祟りを恐れ、親王の怨霊に対して懺悔と謝罪を度々行ったという。延暦19年(800)7月、生前に即位していないにも関わらず怨霊を鎮めるために「崇道天皇」の尊号が贈られた。御骨は淡路から大和国八島陵(奈良市八嶋町)に改葬された。そしてこの崇道天皇社も建てられ、鎮魂のため神として祀ったのです。

親王の怨念を怖れ、その御魂をしずめるため各地に崇道天皇社・崇道天王社・崇道神社などが建立された。ここもその一つらしい。2年前、近鉄・御所駅から葛城山ロープウェイ駅に行く途中に崇道神社(御所市櫛羅)という小さな社があったのを見かけました。百年後、菅原道真も同じような運命に遭い、各地に菅原神社が造られたいったのも同じような理由からです。

 ならまち観光施設  



興福寺の南に,かって元興寺が広大な寺域を有していた。その元興寺が衰退するとともに,寺域には家々が次々に建てられていき町並みが形成されていった。町家の多くは明治・大正に建てられたもの。これが現在の「ならまち」と呼ばれる地域で,昭和63年(1988)には町並保存地域に指定されました。ただし「ならまち」は歴史的町並みが残る地域の通称であって,行政地名ではない。

「ならまち」は,奈良時代からの古い歴史をもつ地域だけあって古跡,名刹が多く散在する。また同時に現在、古い町並みを残しつつ、古い家屋を利用して食事処、茶坊、小物屋などのお洒落なお店が次々できている。古く懐かしい風情とハイカラな雰囲気が混在し、独特な空間を形作っています。そんな町中、奈良市や民間人による町並み保存の努力によって,各所に観光施設が設けられています。ほとんどが無料で入れ,休憩やおトイレに利用できる。おじさん,おばさんには大変優しい町です。注文があるとすれば,細い路地が入り組んでいるので要所に案内地図が設けられていたらもっと優しいのですが・・・。

通称「ならまち大通り」に面した白壁の洒落た近代的な建物が「なら工藝館」(阿字万字町)です。奈良市が伝統工芸・文化・芸能の保存並びに発掘・発信等の事業を進める目的で設置した施設。一階には奈良の伝統的な工芸品である奈良漆器、一刀彫(奈良人形)、赤膚焼、墨、奈良筆、奈良晒、古楽面、乾漆、秋篠手織、鹿角細工などや,製作道具が展示されている。
入館無料、開館時間:10~18時(入館は17時半まで)、休館日:月曜日(祝日の場合は翌日),祝日の翌日
「ならまち大通り」から南の筋に入ると「杉岡華邨(かそん)書道美術館」と「奈良市立史料保存館」(脇戸町)が並んでいる。「杉岡華邨書道美術館」は、かな書の第一人者で文化勲章受章者の杉岡華邨氏より寄贈された作品を展示している。ここは観覧料300円(高校生以下は無料)が必要です。

奈良市立史料保存館は,奈良市史を編集する際に市が収集した古文書や絵図などの歴史資料を保管、展示する施設です。奈良町関係年表,花街の絵写真,奈良奉行所復元模型、郷里図などの近世・近代の郷土資料で,奈良時代などの古代のものはありません。古代の資料なら平城宮跡へ。開館:9時半~17時、休館:月曜日と祝日の翌日、入館無料

「奈良町からくりおもちゃ館」(陰陽町)は、寄贈された明治中頃の古い町家を利用して,江戸時代から昭和にかけて奈良に伝わる昔懐かしいビー玉、おはじき、お手玉、けん玉などのおもちゃを復元展示している。また江戸時代からのからくりおもちゃを研究してこられた鎌田道隆・奈良大学教授の研究室から寄贈された618点のからくりおもちゃも、順次入れ替えながら展示しているそうです。

奈良市の施設だが,運営はNPO法人がおこなっており,常駐されている方が説明に当たっておられる。体験コーナーでは,復原されたからくりおもちゃを説明を受けながら実際に手に取り触れて遊べます。また木・竹・紙・土などの自然素材を使いおもちゃを実際に制作体験することもできる。
9~17時、休館日:水曜日、入館無料



「奈良市音声館(おんじょうかん、鳴川町)」は元興寺小塔院跡と道を挟んで向かい合う位置にあります。平成6年(1994)奈良市が「歌声による人づくり、街づくり」を目的に設立。ならまち振興財団が管理・運営する。わらべうた教室、歌の交流、コンサート、ギャラリー展示など音楽をとおして奈良の歴史や文化に触れようとする施設。館名は東大寺大仏殿前の国宝八角灯籠の四面に描かれている音声菩薩(おんじょうぼさつ)からきているそうです。
9時~17時、月曜日と祝日の翌日が休館,入館無料なのでトイレ,休憩にどうぞ。「ならまち」にはこうした”おもてなしトイレ”が各所にあります。安心して散策できます。

「ならまち」を歩いていると、白壁と黒板張りの古い家屋を目にする。こうした古い町家を残していこうと、奈良市と民間が努力されているようです。「ならまち格子の家(元興寺町)」は、「ならまち」の江戸時代末から明治時代にかけての伝統的な町家を再現した施設。主屋、中庭、離れ、蔵など奥に細長い造りになっている。土間,格子など各所に昔ながらの暮らしの知恵がつまっている。「箱階段」(収納箱を兼ねた階段)から二階にも上がれます。二階は板張り,白壁,裸天井の異空間となっている。かっての町家はこんなんだったでしょうか?。
9時~17時,月曜定休(祝日の場合は翌平日)、入館無料。トイレはもちろん腰掛けベンチなども置かれ,休憩できるようになっている。散策マップなど各種情報も用意されています。

「ならまち格子の家」の斜め向かい側は、国の重要文化財に指定されている「藤岡家住宅」です。

元興寺の南西、「ならまち」のほぼ真ん中にあるのが「奈良町資料館」です。
館長の自宅を改造し、奈良町の保存を目的として1985年に開館。館長が収集した、江戸時代から明治・大正にかけての絵看板や生活民具などの民俗資料や、仏像や骨董品などを展示している
置かれていたパンフに「明治40年、ならまちで蚊帳を製造する南蚊帳として創業。先代が蚊帳の行商販売で日本の各地に残された古い町並みや文化財を見聞し、保存の大切さを痛感しその後自宅の一部に資料館を造り奈良町で貴重な資料、民具、絵看板を無料で、公開展示しております」とありました。

開館時間:10時~16時,休館日:年中無休,入場料は無料

奈良町資料館と同じ筋に庚申堂が見えている。説明板には 「庚申縁起によれば、文武天皇の御代(西暦700年頃)に疫病が流行し、民衆が苦しんでいた時、元興寺の高僧 護命僧正(ごみょうそうじょう)が仏様に加護を祈っていると、一月七日に至り、青面金剛が現れ「汝の至誠に感じ悪病を祓ってやる」と言って消え去ったあと、間もなく疫病が治まった。この感徳の日が「庚申の年」「庚申の月」そして「庚申の日」であったという。それ以来、人々はこの地に青面金剛を祀り、悪病を持ってくると言われる「三尸の虫(さんしのむし)」を退治して健康に暮らせることを念じて講を作り、仏様の供養をしたと、この地で伝えられている。」とあります。

奈良町資料館から北に向かうと「奈良町にぎわいの家(中新屋町)」に出会う。
大正6年(1917)建てられた町家の内部を公開している。座敷、離れ座敷、茶室、庭,蔵など。奈良市の施設だが,NPO法人が運営している。係員が常駐し親切に説明してくれます。
9時~17時、水曜日休館(祝日の場合は開館)、入館無料

広く綺麗な座敷に感銘し,近くにいた見知らぬおばさんに「こんな所に住んでみたいですネ」とささやいたら,「でも,大変ですワ」と返ってきた。生活格差をしみじみ味わされました。



元興寺の北側、「ならまち大通り」に面して奈良町情報館(中院町)がある。内部は狭く、所狭しと地域の特産品が陳列されている。民間の「地域活性局㈱」が運営し,柿・ゆず・白菜など旬の野菜、豆腐、揚げ物、みそ、しいたけなどの奈良県の特産品を展示・販売しています。観光案内も兼ね,レンタクサイクル(一日800円)もあります。10時~18時、無休,入場無料



「ならまち」の中心を北から南へ貫いているアーケード街が「餅飯殿(もちいどの)センター街」です。近鉄・奈良駅から近いこともあって、このセンター街を通って「ならまち」に入る人が多く、いつも賑わっています。
この商店街の北出口にあるのが高速餅つきで有名な「中谷餅屋」。奈良へ来た帰り際、ここで1個130円のつきたての餅を頬張ることにしています。それにしても見事なつきっぷり、人垣が絶えません。

詳しくはホームページ

「ならまち」から白毫寺へ 1

2016年11月10日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年9月24日(土)「ならまち」に散在する観光名所を巡り、高畑を経て「萩の寺」白毫寺まで(その1)

 行基広場  


奈良市の白毫寺は「萩のお寺」として有名で、ちょうど萩の花の最盛期。空模様は怪しかったが、この期を逃しては来年になってしまうと思い、出かけることにした。一日ウォーキングも兼ねるので、「ならまち」と高畑を散策しながら白毫寺へ向かいます。

地下の近鉄・奈良駅から地上に出ると、小さな広場となっており、丸い噴水池の中に行基菩薩像が立っている。
行基(ぎょうき、668~749年)は奈良だけでなく全国的に功績を残された僧侶です。奈良の玄関口の一つ近鉄・奈良駅前に肖像が建てられているのは、東大寺大仏さんとの関連でしょうか。大仏さんのほうを向いておられるという。いつ来ても仏花が供えられています。
今では待ち合わせの場所となり「行基広場」と呼ばれている。托鉢僧がいたり、大道芸、音楽演奏などのイベントが行われ楽しい広場になっている。

 漢國神社(かんごうじんじゃ、林神社)  


近鉄・奈良駅から、大宮通り(国道369号線)を西へ100mほど行くと南へ流れる通りとの交差点となる。この南への道は「やすらぎの道」と名付けられているが、ちっとも「やすらぎ」を覚えない。「やすらぎの道」の右側を100mほど南下すると、道脇に朱塗りの鳥居が現れ、数十m先に境内が見える。鳥居の傍には、右に「縣社 漢國神社」、左に「饅頭の祖神 林神社」との石標が建てられている。

創建について公式サイトに「漢國(かんごう)神社は、推古天皇の元年(593)、勅命により大神君白堤(おおみわのきみしらつつみ)が大物主命(おおものぬしのみこと)を、その後、養老元年(717)には藤原不比等公が大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)を合祀。古くは春日率川坂岡社(かすがいさがわさかおかしゃ)と称す。本殿は三間社流造・桧皮葺で桃山時代の建造物で奈良県指定文化財。」とある。平安末期以降は衰退して、春日大社の末社として興福寺の支配を受けた。

本殿の御祭神は、園神(そのかみ)として大物主命、韓神(からかみ)として大己貴命・少彦名命の三座。”韓神”ということは大陸から招かれた神、ということなのでしょうか?。社名の「漢國神社」は、韓神の“韓”が“漢”に、園神の“園”が“國”に転じて付けられた名前ようです。
大物主命と大己貴命は同じ神様だと、どこかで読んだことがあるのだが・・・?

漢國神社の境内には“饅頭の社”と呼ばれる林神社(りんじんじゃ)がある。むしろこちらの方が有名かも。林神社は昭和24年(1749)に当時の漢国神社の宮司が、菓子業者の協力を得て建てたもの。

公式サイトには「「林神社」(漢國神社内)御祭神   林浄因命(りんじょういんのみこと)
林神社は我が国で唯一の饅頭(まんじゅう)の社。林浄因命は中国淅江省の人で、詩人・林和靖(りんなせい)の末裔。貞和5(1349)年に来朝し漢國神社の社頭に住まれ、わが国最初の饅頭(まんじゅう)をお作りになり好評を博しました。その後、足利将軍家を経てついには宮中に献上するに至りました。現在、4月19日には菓祖神(かそじん)・林浄因命(りんじょういんのみこと)の偉業を讃えるとともに、菓業界の繁栄を祈願する「饅頭まつり」が執り行なわれ、全国からたくさんの饅頭が献上される。春の「饅頭まつり」に対して、秋には「節用集まつり」が執り行われる。林浄因から七代目の林宗二(りんそうじ)は初期の字引きである「饅頭屋本節用集」を刊行し、印刷・出版の祖神としてその信仰を集めている。」とあります。

中国の饅頭(肉まん)は肉や背脂が入っている。それでは不殺生戒を戒律としている仏様へのお供え物に使えない。そこで林浄因は、小豆を煮詰めて味付けしたあんを包んで蒸し、日本で最初にあんこの入った「奈良饅頭」を作った。これが評判になり御村上天皇にまで献上するまでになる。現在なお、林家のご子孫のお菓子屋さんが宮内庁ご用達となっておられるそうです。

林浄因の命日の4月19日には、全国から菓子業者が集まり「饅頭まつり」が行われる。雛壇に全国からの銘菓が並べられ、一般参拝者にも饅頭が配られる。丁度桜の季節なので、花と団子の両方を味わえれるそうです。両脇に捧げられた饅頭がひときわ異彩を放つ。

 開化天皇陵((かいかてんのう)  


漢國神社をでて、やすらぎの道を200mほど南下すると三条通り(春日大社への参拝道)と交差する。その角に「奈良市観光センター」がある。その角を西へ少し歩くと開化天皇陵への入口が見えます。参道はビルに挟まれ窮屈そう。100mほどの参道を進むと正面拝所です。宮内庁の正式名は「春日率川坂上陵(かすがのいざかわのさかのえのみささぎ)」で、陵形は前方後円。第9代開化天皇の陵墓に治定されている。
第9代開化天皇については、「日本書紀」「古事記」とも紀元前208年に生まれ、父・孝元天皇の崩御を受け即位し宮を春日率川宮に遷し、115歳で崩御(「古事記」では63歳)ということぐらいしか書かれておらず、事績に関する記載がない。そこから現在では「実在しない天皇」とするのが一般的です(いわゆる「欠史八代」)。

「実在しない」はずなのだが、幕末の尊皇イズムの高まりから陵墓としての体裁が整えられていった。もともと古墳ではあったが、東隣の念仏寺によって墳丘は削ら墓地に利用されていた。そこに幕末の全国的な天皇陵の再構築(文久の大修陵、1863)が起こり、墓地を移転させ天皇陵に相応しい前方後円墳の形に整えら現在にいたっている。
古墳の考古学名は「念仏寺山古墳(ねんぶつじやまこふん)、弘法山古墳(高坊山古墳)」と呼ばれる。
現在の墳丘の規模は、後円部径48メートル、高さ10メートルで、前方部の最大幅は54メートル、高さ6メートルで、墳丘全長は105メートル。墳丘の周囲には幅8メートルの楯形をした周濠がある。出土した円筒埴輪片等から、5世紀前半(古墳時代中期)の築造と推定されている。宮内庁管轄の聖地のため、これ以上の科学的なメスは入れられないでいる。

それにしても正面拝所のさらに前方に、柵と門が設けられているのは珍しい。正面拝所に近づけないようにしているのには、何か訳でもあるのでしょうか?。

 率川神社(いさがわじんじゃ)  


やすらぎの道に戻り、南へ100mほど歩くと西側に率川神社の鳥居が現れる。
大神神社の境外摂社で、正式名称を「率川坐大神御子(いさがわにいますおおみわのみこ)神社」といい、また子守明神とも呼ばれる

社伝によれば、漢國神社と同じ推古天皇元年(593)、大三輪君白堤(おおみわのきみしらつつみ)が勅令によって創祀した奈良市最古の神社という。
その後は「治承4年(1180年)12月、平重衡の乱によって社殿が消失。中世以降は春日若宮神官により管理され、興福寺とのつながりが大きかった。近世には春日大社の大宮外院11社の中にあったが、明治10年(1877年)3月、内務省達により大神神社摂社率川坐大神御子神社と定められた」(Wikipediaより)そうです。
率川神社の所属をめぐり、春日大社と大神神社の間で争が生じたようだが、最終的に大神神社に属するようになり、同時に長らく途絶えていた三枝祭も復活されたという。

本殿は三棟並んでいる。御祭神は中殿に祀られている媛踏鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと、御子神)。初代神武天皇の皇后で、皇后を主祭神とした神社は珍しい。御子神を挟み、左殿に父神の狭井大神(さいのおおかみ)、右殿に母神の玉櫛姫命(たまくしひめのみこと)が祀られている。子を両親が両脇よりお守りするように鎮座されることから、古くより「子守明神」とたたえられ、安産、育児、生育安全、家庭円満の神様として篤い信仰を集めているという。現在この地の町名も「本子守町」となっている。
神社の説明では、狭井大神は「大神神社の大物主大神、また出雲の大国主神と御同神であります」。そこから大神神社摂社とされたのでしょう。

こんな神聖な場所にもモンスターは出現するんでしょうか?

率川神社の南側に伝香寺あります。伝香寺が有名なのは、花びらが一枚づつ散ってゆくところから散り椿と呼ばれる椿です。東大寺開山堂の「糊こぼし」、白毫寺の「五色椿」と並び「奈良三名椿」に数えられる。
閉められた門から中を覗くと、正面に佇んでいる建物は本堂ならぬ幼稚園でした。

伝香寺については、経営する「いさがわ幼稚園」のサイトに「伝香寺は、戦国時代の大名 筒井順慶(じゅんけい、1549~1584年)の香華院(菩提所)として建立されました。伝香寺開創の願主となった芳秀尼が、堂前に供えた椿が存続(三代目)しています。この椿は色まだ盛んなとき、桜の花びらの如く散る椿で、その潔さが若くして没した順慶法印になぞらえ「武士(もののふ)椿」の名を得たといわれています。江戸時代末期に、唐招提寺長老と伝香寺住職を兼ねた宝静(ほうじょう)長老は椿の愛好家で、奈良三名椿(伝香寺散り椿、東大寺糊こぼし椿、百豪寺五色椿)を好んだと云われています」とあります。

 元興寺(がんごうじ)  



「奈良町(ならまち)」の中心部に位置する元興寺の入口は東側です。入り組んだ「ならまち」の町家の中を歩きながら入口を探すのは大変です。しかし猿沢池の東側の広い道を真っ直ぐ南へ進むとわかり易い。
入口には世界遺産登録の碑が建ち、正面の東門の脇に拝観受付所があります。拝観料500円払い、東門から境内に入る。この時、詳しい「元興寺略史」と彩色の「元興寺極楽坊縁起絵巻」のパンフレットを頂ける。
なお東門は、東大寺西南院にあった門を室町時代の応永18年(1411)に移築し、極楽坊正門としたもの。鎌倉時代の四脚門で重要文化財に指定されています。

元興寺は、わが国最初の本格的仏教寺院として蘇我馬子が飛鳥に建立した法興寺(現在の飛鳥寺)が前身です。和銅3年(710年)の平城京遷都に伴って、飛鳥にあった薬師寺、厩坂寺(のちの興福寺)、大官大寺(のちの大安寺)などは新都へ移転した。法興寺も養老2年(718年)、新都へ移転し「元興寺」と称した。しかし飛鳥の法興寺も中金堂や本尊(止利仏師が造った飛鳥大仏)などを残し、「本(もと)元興寺」と呼ばれるようになった。飛鳥の「本元興寺」は、平安時代に焼失するが、「飛鳥寺(あすかでら)」として再建され今日に至っている。
平城京に移転した元興寺やその東南一帯は「平城(なら)の飛鳥」と呼ばれるようになった。近くにあった川も「飛鳥川」と呼ばれ、今日でも「飛鳥小学校」の名が残っています。

奈良時代の元興寺は近隣の東大寺、興福寺と並ぶ大寺院で、今日「奈良町(ならまち)」と通称される地区の大部分が元は元興寺の境内であったという。
(パンフレットより)「奈良時代の元興寺伽藍は、南から北に向かって南大門、中門、金堂(本尊は弥勒仏)、講堂、鐘堂、食堂(じきどう)が一直線に並んでいた。中門左右から伸びた回廊が金堂を囲み、講堂の左右に達していた。回廊の外側、東には五重塔を中心とする東塔院、西には小塔院があった。これらの建物はすべて焼失して現存していない。講堂の背後に、長屋のように細長い僧房(僧の居住する建物)がいくつか並んでいる。このうち東側手前の東室南階大房(赤色の部分)という僧房が鎌倉時代に改造され、現存する本堂(極楽堂)と禅室です。」
中世以降は次第に衰退し、伽藍は荒廃していった。藤原氏を後ろ盾に持つ興福寺の隆盛にともない、興福寺の勢力下に収められていった。

この元興寺には、奈良時代に「東室南階大房」という僧坊に居住していた学僧・智光法師が画工に描かせた阿弥陀如来浄土変相図(智光曼荼羅)が残されていた。平安末期の災害や騒乱からくる末法思想の流行により、阿弥陀信仰や極楽浄土への願望が高まってくる。こうした風潮のなかで浄土曼荼羅が信仰を集め、智光曼陀羅を祀る堂は「極楽坊」と呼ばれ、奈良に於ける庶民の浄土信仰の中心となっていった。
室町時代の宝徳3年(1451年)、土一揆のあおりで元興寺は炎上し、五重塔などはかろうじて残ったが、金堂など主要堂宇や智光曼荼羅の原本は焼けてしまった。この頃を境に、寺は智光曼荼羅を祀る「極楽院」、五重塔を中心とする「元興寺観音堂」、それに「小塔院」の三つの寺院に分裂。極楽院は奈良西大寺の末寺となって真言律宗寺院となり、智光曼荼羅、弘法大師などの民間信仰の寺院として栄えた。これが現在の通称「元興寺極楽坊」です。
明治に入ると廃仏毀釈の大嵐に遭う。公式サイトには次のような年表が載っている。
明治元 1868 廃仏毀釈の嵐を受ける
明治三 1870 寺領(朱印地)が没収される
明治五 1872 極楽院に学校ができる(極楽院学校→研精舎→鵲小学校)

こうして明治以降、「お化け寺」と呼ばれるくらい荒れ果て、「無住で、西大寺住職兼務預寺となり、堂舎は小学校(市立飛鳥小学校前身研精舎)や私立女学校(浄土真宗東本願寺経営の裁縫学校)などに使用されている」(公式サイトより)。元興寺は寂れ荒廃し、域内に民家が建ち並び宅地化が進み、現在の「ならまち」が形成されていった。
境内の整備や建物の修理など行われていったのは戦後になってから。昭和30年(1955)に「元興寺極楽坊」と改称、さらに昭和52年(1977)に「元興寺」と改称されている。
境内地は昭和40年に国史跡に指定され、平成10年(1998)12月、ユネスコの世界文化遺産「古都奈良の文化財」のひとつとして登録された。現在なお西大寺の末寺で、宗派は真言律宗に属し、本尊は智光曼荼羅。

極楽坊本堂は、かっての僧房(東室南階大房)を鎌倉時代の寛元2年(1244)に東向きに改造したもの。
「極楽坊本堂または極楽堂とも。寄棟造、瓦葺で、東を正面として建つ(東を正面とするのは阿弥陀堂建築の特色)。この建物は寄棟造の妻側(屋根の形が台形でなく三角形に見える側)を正面とする点、正面柱間を偶数の6間とし、中央に柱が来ている点が珍しい(仏教の堂塔は正面柱間を3間、5間などの奇数とし、正面中央に柱が来ないようにするのが普通)」(wikipediaより)

極楽坊本堂の内部は、中央に3間四方の板敷き内陣があり、特別公開の「軸装智光曼荼羅」が祀られていた。
智光曼荼羅とは奈良時代の僧・智光が夢で見た極楽浄土の様子を描かせた阿弥陀浄土図で、楼閣と池の間に阿弥陀如来と観音、勢至菩薩・十八聖衆・舞楽菩薩・比丘尼を描いた変相図。当麻曼荼羅、清海曼荼羅と共に浄土三曼荼羅と呼ばれている。
奈良時代の元の智光曼荼羅は、室町時代の宝徳3年(1451)の土一揆により焼失してしまったが、転写本とされる「板絵本」「厨子入本」「軸装本」の三図が同寺に残されていた。
たまたま私が訪れた時は秋の彼岸に合わせた特別公開日(9月17日~25日)で、3点の智光曼荼羅が初めて同時公開されていた。この極楽坊本堂の内陣には「軸装智光曼荼羅」(県指定文化財)が掲げられ拝観できる。これは縦約2メートル、横約1・5メートルの絹本着色図で、室町時代の成立とされ、極楽往生を願う仏事「往生講」の際、お堂の四方に掛けて浄土を演出したという。この日は、沢山の人が正座拝観し、お寺の方の説明に耳を傾けられていました。なお「板絵本」「厨子入本」は、隣の法輪館(収蔵庫)で特別公開されていました。

極楽坊本堂と法輪館の間から奥へかけて沢山の小さな石仏が並べられている。説明版によればこの石仏群を「浮図田(ふとでん)」と呼ぶそうです。寺域や周辺地域から集められた2500基ばかりの石塔、石佛類(総称して「浮図」)を田圃の稲のように並べたことからくるようです。中世から江戸時代にかてのものが多いという。その正面には日本スリランカ友好協会の記念としてスリランカ型佛足石が祀られている。

毎年8月23日・24日には、この浮図田で地蔵会万灯供養が行われる。夕刻より灯明皿に灯りが点けられ幻想的な供養が行われる。「ならまち」の夏のおわりを象徴するお祭りだそうです。

元興寺も「萩の寺」として知られています。極楽坊本堂(写真の左)や禅室(右)を取り囲むように萩が植えられている。時期的に最盛期なのですが、花着きが良くないのかそれほど鮮やかではありませんでした。
写真に見える本堂の裏側(禅室側)の屋根には、一部に飛鳥・奈良時代の古瓦が現在なお現役で使用されているという。「ここに使われている古瓦は上部が細くすぼまり、下部が幅広い独特の形をしており、この瓦を重ねる葺き方を行基葺(ぎょうきぶき)という。」(wikipediaより)。色が褐色をしているそうだが、どれだろう?。一週間前までは、この本堂と禅室の間に足場が組まれ、古代瓦見学会が催されていたそうです。

 元興寺塔跡(五重塔跡)と小塔院跡  


「ならまち」の中心部で、現在の元興寺の南側にはかっての大寺院・元興寺の金堂や講堂、五重塔、南大門がそびえ立っていた。それらは全て焼失し残っていない。五重塔には僅かにその痕跡が残っている。
元興寺と御霊神社との間に石碑「史蹟 元興寺塔址」が立っている。参道らしき小路を奥へ入ってゆきます。
「元興寺」と書かれた扁額の山門を入ると直ぐ境内らしい広場に出る。周辺を民家に挟まれ窮屈そうな境内には小堂や石塔・供養塔などが乱雑に配置されている。本堂らしき?建物も。

境内の一部に柵がなされ、基壇と礎石が残されている。これがかっての五重塔の跡のようだ。五重塔は総高は24丈(約72メートル)との記録があり、東寺五重塔より高かったことになる。実際には19丈程度(約57メートル)であったとされるが、それでも東寺の五重塔(54.8メートル)より高い。残念ながら安政6年(1859)、近隣火災の類焼で観音堂などとともに焼失してしまう。塔跡から出土した元興寺塔跡土壇出土品と、薬師如来立像(国宝)は、奈良国立博物館に寄託されています。
元興寺の法輪館にある五重小塔(国宝)は、この五重塔の設計モデルではなかったかといわれている。


「ならまち」の西側、奈良市音声館の前に小塔院跡への入口がある。「真言律宗 小塔院」の門標が見える。細い小径を入って行きます。
小径の奥に小さな広場が現れる。落ち葉が散らかり、雑草が生え、寺院の面影は全くありません。朽ち果てそうな木製ベンチが置かれ、その下から野良猫が眼を光らせている。どこが跡なのかの目印もない。
ここにはかって小塔堂を中心とする元興寺の小塔院があった場所とされています。昭和40年(1965)国の史跡に指定されています。



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奈良・室生寺の秋と春 3

2016年10月08日 | 寺院・旧跡を訪ねて

 国宝・灌頂堂(かんじょうどう、本堂、鎌倉時代)


金堂左手からさらに石段を登ると、やや広い平地となり、池と正面に灌頂堂(かんじょうどう、本堂)が佇む。この周辺も、秋は紅葉に染まり、春には石楠花の花が彩りをそえてくれます。

灌頂堂は五間四方の堂で、単層の入母屋造り、檜皮(ひわだ)葺きの屋根。鎌倉時代後期、延慶元年(1308)の建立。金堂と区別するため「本堂」と呼ばれているが、真言密教で最も大切な法儀である灌頂を行う堂です。灌頂とは頭頂に智水を灌(そそ)ぐ儀式のことで、これを受けることで仏の弟子となり真言の法を授かることができるという。暗闇な中で灌頂を行うため、周囲は板壁で囲われ、正面二間しか開けられない。それも蔀戸(しとみど)をおろす構造になっている。

内陣中央の厨子には如意輪観音像(平安時代中期()が安置され、その手前左右の板壁には両界曼荼羅(金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅)が掲げられている。曼荼羅の前には、灌頂の儀式を行うための大檀が設けられている。
如意輪観音像は桧の一木造りで像高78.7cm。観心寺(大阪)、甲山神呪寺(かぶとやまかんのうじ、兵庫県西宮)とともに日本三大如意輪観音といわれている。
春の灌頂堂(2016/4/26、火)

 国宝・五重塔  


灌頂堂(本堂)左横に少し長い石段があり、その上に五重塔が建っている。金堂とともに室生寺を代表する建物です。
平安初期の800年頃の創建とされる(室生寺公式サイトには「奈良時代後期」とある)。わが国の屋外にある木造五重塔としては、法隆寺五重塔に次いで古い。

石楠花と五重塔(春:2016/4/26日) 
奈良の興福寺五重塔を見慣れた者として、鮮やかすぎ、そして小さい。高さ16.1mで、日本国内に現存する屋外の木造五重塔としては最も小さいという。興福寺の3分の1ほどだそうです。日本で一番高い五重塔は、京都の東寺で高さ55mあります。
この小ささが周囲の景観にマッチし、石段とも釣り合っている。あのデッカク黒い興福寺五重塔のようだったら、室生寺のイメージをぶち壊してしまいます。

通常の五重塔に比べ屋根が非常に目立つ。ヒノキの皮を何層にも重ねた檜皮葺の屋根は、厚みがあり塔芯に比べ大きく張り出している。そしてこの五重塔の特徴として、一重目から五重目への屋根の大きさがあまり変わらないことがあげられている。普通は上部にゆくほど小さくなっていくのだが、室生寺の五重塔はそれほど小さくなっていない。

朱塗りの柱・屋根と白壁が鮮やかだ。この鮮やかさは平成12年(2000)の大修理によるもの。というのも平成10年(1998)9月22日の台風7号の直撃により五重塔は半倒壊する。傍の大杉が強風で倒れかかり、五層と四層の屋根は崩壊、塔の上の九輪は大破した。しかし、心柱を含め塔の根幹部は大丈夫だった。翌年(平成13年、1999)から2年かけて復旧工事が行われ、五層と四層は全て解体修理し、それ以外は破損部分だけの修理ですんだ。かろうじて国宝指定を外されることを免れたようです。 
 

 奥の院  


三十二石仏(2016/4/26日 撮)
五重塔の左横に三十二石仏が並んでいます。その石仏達に見送られながら、奥へ続く道に入っていく。これが奥の院への道で、鬱蒼とした杉木立に囲まれ薄暗い山道は、いかにも奥の院へ入っていくのだという気分にさせてくれます。

五重塔から奥の院へ行く途中の右手の山の斜面一帯は、国指定の天然記念物「室生山暖地性シダ群落」地帯となっている。イヨクジャク,イワヤシダ,ハカタシダ,オオバハチジョウシダなどの暖地性シダの群生が見られるという。中に入ってはいけません。といっても「マムシでるゾ」の注意書きもあったが・・・。

長い石段と、紅い無明橋が現れる。橋の下は無明谷と呼ばれ、降雨時は川となって室生川に注ぐ。石の階段は連続しており390段あるそうです。傾斜もかなりキツく、年配者には苦になりそうだ。ただ距離はそれ程でもないので、休み休み登れば誰でも登れると思う。

高野山の「奥の院」への道も、非常に印象的だったが、ここの奥の院への道も刺激的です。やはり”奥”と名の付く限り、それなりの舞台装置が必要なようです。

そびえ立つ杉の大木の間を登りきると、建物を支えるため井桁に組まれた木組が見えてくる。懸造り(舞台造り)の「位牌堂(常燈堂)」です。その名の通り、たくさんの位牌を安置した堂で、仏像があるわけではない。
位牌堂の背後と両横は廻廊となっており、グルリと一周できる。
登りきると狭い平地に位牌堂、御影堂、社務所がある。写真の御影堂(みえどう、国重要文化財)は、宗祖の弘法大師空海をお祀りしているお堂で、内陣には弘法大師四十二歳像という木像が安置されている。毎月21日に開扉されお像を拝観することができるそうです。

鎌倉時代後期に建立され、屋根に特色がある。瓦棒付の厚い流板による二段葺きで、頂上に石造りの露盤を置く。これを「宝形造り(ほうぎょうつくり)」と呼ぶそうです。
お堂四方に縁が設けられているが、写真のように板が覆いかぶさっている。これは屋根の出が小さいため、縁に雨が掛かるのを防ぐため斜め板で覆っているという。

高所にある奥の院ですが、見晴らしとか眺望はきかない。位牌堂の背後と両横に設けられている廻廊は、方向的には室生の里が一望できるはずですが、樹木にはばまれ、木立の隙間からかすかに覗き見えるだけです。
西側の廻廊には休憩用の木製のベンチがおかれています。眼前に広がる紅葉の景色を眺めながら、390段の石段を登ってきた疲れを癒すのにちょうど良い。

 室生龍穴神社  


14時15分、室生寺を出て龍穴神社へ向かいます。門前町の一角に案内板が掲示されていた。龍穴神社へは約800m、徒歩10分とあります。
門前町を外れた辺りに、紅い欄干の「戎橋」が室生川に架かっている。この辺りを「爪出ケ淵」(つめでケふち)といい、室生に伝わる龍神伝説「九穴八海」の一つになっている。弘法大師が地蔵菩薩を彫っていると、龍王がこの水面から爪を出して彫るのを助けたという伝説が残されている。

室生川に沿って車道が通っている。この車道を室生川上流に向かって歩きます。

やがて左手に、杉の大木に囲まれた神社が現れる。室生龍穴神社です。
この辺りは淀川・木津川水系の水源地にあたり、雨の多い地帯。古くから水神、龍神への信仰があり雨乞いの行事なども行われてきた。奈良時代から平安時代にかけては、朝廷から勅使が来て雨乞いの神事が営まれたそうです。
一歩境内に入ると杉の巨樹に覆われ薄暗い。森閑とした霊気を感じ、”龍穴”の名にふさわしい雰囲気が漂う。境内は広くない。石鳥居と拝殿があり、その裏に紅い本殿が鎮座している。主祭神は雨ごいの神・「高?神(たかおかみのかみ)」。この本殿は寛文11年(1671)の建立と伝えら、奈良県の文化財に指定されています。
この本殿の裏を入っていくと、龍神が住んでいたという「龍穴」があるはずです。その穴を是非見てみたいと入口を探したが、奥へは立ち入り禁止になっていた。「龍穴」への道順を聞こうにも、ここまで訪れる人はいないようで、誰も見かけない。

境内に「室生龍穴神社案内図」が掲示されていた。「龍穴(奥宮)への道順」とあるが、絵入りの図で親切なようだが、あまりに大雑把で判りにくい。ともかく神社の前の道を奥へ歩いてみることにした。




 龍穴  



室生川に沿って10分ほど歩くと、左手に「吉祥龍穴 ←800m」の標識が現れた。
標識に従い林道に入って行きます。舗装され、車一台かろうじて通れるだけの道です。車も通らなければ、人も見かけない。落ち葉を踏みしめながら、緩やかな坂道を登って行く。気分爽快とゆきたいのだが、”龍穴”のイメージが浮かび少々心寂しい。







「天の岩戸」と案内されている奇妙な巨石を通り過ぎ、数分歩くと左手に吉祥龍穴への降り口が見えてきた。午後 3時です。小さな鳥居が建ち、案内があるのですぐ分る。

鳥居を潜り、細い道を下りていく。狭くかなり急坂だが、距離は短い。木立に囲まれ薄暗く、清流の流れる岩場が連なる谷底は、いかにも龍が出てきそうな気配を感じ不気味だ。一人で降りて行くのは、やや心細い。
途中に簡単な礼拝小屋があり、お供え物が置かれている。丁度、龍穴の真ん前で、ここから「龍穴」を拝するのでしょう。

清流を挟んで真正面に、大きな岩にぽっかりと洞穴が開き、しめ縄が架けられている。礼拝小屋は土足厳禁で、スリッパが用意されている。神聖で厳粛な場所なのです。不気味な穴を見つめていると、一時も早くここから逃げ出したい気分になります。

サァ、早く帰ろう!。室生寺バス停まで歩き、15時50分発のバスで近鉄・室生口大野駅へ。16時14分発の急行で大阪・上本町へ。錦秋の室生寺でした。




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奈良・室生寺の秋と春 2

2016年09月28日 | 寺院・旧跡を訪ねて

 太鼓橋  


室生川に架かる紅い太鼓橋が見えてきました。この室生川は、流れ流れての果て、大河・淀川の一滴となり大阪湾に注いでいる。澄みきった清流も、時を経て曲がりくねった山間にもまれ、一寸底も見えない泥川へと成長(?)していく。
この辺りは”蛍”スポットとして有名で、室生川沿いに走る県道28号線は"蛍街道”とも呼ばれているとか。淀川沿いに蛍がいてる場所ってあるんだろうか?。
車一台かろうじて通れる門前町の通りを歩いていると、左側に朱塗りの反り橋が見える。これが室生川に架かる「太鼓橋」で、室生寺境内へ通じる入口にあたる。
太鼓橋は昭和34年(1959)の伊勢湾台風によって流されてしまい、現在の橋はその後再建されたもの。そのせいか新しく頑丈に見えます。

太鼓橋の手前右側の建物が、明治四年創業の老舗旅館「橋本屋」(左側にも「橋本屋」の看板が?)。宿泊だけではなく、山菜料理の食事をいただける。五木寛之や写真家・土門拳が宿泊したことで有名。特に土門拳はここを常宿として四季の室生寺を撮り続けたという。
春の太鼓橋(2016/4/26日)。新緑を背景に紅い橋がひときわ冴えます。

 表門から受付へ、そして石楠花の小径  


太鼓橋を渡りきった正面に室生寺の「表門」が構える。門の脇に「女人高野 室生寺」と刻まれた石柱が建っている。真言密教の本山・高野山は女人禁制となっていたが、同じ真言宗だが室生寺は女性の入山・参詣が許された。そのため「女人禁制の高野山」に対して「女人高野」と呼ばれるようになった。
室生寺はもともと創建の理由から、法相宗の奈良・興福寺の影響下にあった。ところが江戸時代になり徳川綱吉の生母・桂昌院(けいしょういん)の助力によって興福寺から分離独立し、真言宗の寺院となった。「女人高野」も桂昌院の考え方によるものでしょうか?。
石柱の上部に家紋が彫られている。これは桂昌院の実家本庄家の家紋「九目結紋(ここのつめゆいもん)」だそうです。
「表門」は木柵で閉ざされ通行できない。「表門」の前で右折し100mほど歩くと参拝受付所があります。そこが境内への入口になる。

ここで拝観料を払い、パンフレットをいただき中へ入ります。
拝観時間
  4月1日~11月30日 8:30~17:00
  12月1日~3月31日 9:00~16:00
拝観料 大人600円・子供400円
  【団体(30名以上)】 大人500円 子供300円

拝観受付所を入り右へ曲がると、仁王門、鎧坂から金堂、五重塔へと続く室生寺の主参詣道です。左へも入れます。こちらは寺の本坊・庫裏にあたる表書院・奥書院、一番奥にイベントや写経・説法などが行われる慶雲殿があります。
この慶雲殿方面はお参りする場所でもなく、また紅葉の楽しめる所もありません。通常はスッポかす領域です。しかし驚いたことに、拝観受付所から慶雲殿へいたる小路の両側に石楠花(しゃくなげ)の樹木が群生しているのです。室生寺は「石楠花の寺」としても有名で、この石楠花の群生を見た時ぜひ最盛期に訪れたいと思った。そして翌春(2016/4/26日)再訪したわけです。最盛期なのか、過ぎているのか分りませんが、石楠花が百花乱舞していた。淡い紅色の石楠花は「女人高野」にふさわしい花だと思います。

「毎年4月中頃ともなると、境内の石楠花が濃い紅色のつぼみを開きはじめます。花の色は、濃く鮮やかな紅色から薄桃色になり、白に近い色になってやがて散ります。海抜400メートルに位置する室生寺の湿気と適度な寒さが、高山植物の石楠花に適し、毎年見事な花を咲かせてくれます。」(室生寺公式サイト
室生寺の石楠花は、野生の花を100年ほど前に移植したもので、現在その株数は寺全体で三千株とも五千株ともいわれている。

 仁王門  


拝観受付所から右へ進むと、朱塗りの柱に白壁の仁王門が待ち構えている。
門の両脇には仁王像が睨みをきかす。左手が口を閉ざした青色の吽形(うんぎょう)像、右手が口を開けた赤色の阿形(あぎょう)像です。この仁王門は元禄時代に焼失した後、長い間姿を消していたが、昭和40年(1965)11月に再建された。仁王像の色彩の鮮やかさもそのせいでしょう。

なお、仁王門手前左側に休憩所とお手洗いが設けられている。私が見てきた多くの社寺の中では、1,2位を争う清潔で広く快適なトイレでした。仁王門を潜った先にはお手洗いはありません。ここのトイレを体験することをお勧めします。
仁王門をくぐると、ここから先が真の室生寺の世界です。仁王門周辺もカエデの紅葉が美しい。左側に小さな池が見え、「?字池」の木札が立っている。”?”は梵字で「バン」と読むらしく、「ばんじ池」となる。「バン」は真言密教の教主・大日如来を表しているそうです。



 鎧坂(よろいざか)  


錦秋の鎧坂。バンジ池の先に石段が現れる。これが五重塔と並び、室生寺を代表する撮影スポットの「鎧坂(よろいざか)」。
自然石を積み上げた石段の様子が、重ね編んだ鎧に似ていることから名付けられた。大和三名段の一つです(あとの二つは談山神社と佛隆寺)。春は青葉と石楠花、秋はカエデの紅葉が室生寺を訪れる人々を迎い入れてくれる。室生寺の序章に相応しい舞台装置となっています。その幅広い石段を一歩一歩踏みしめながら登っていくと、正面に金堂がセリ舞台で上がってくるように、柿葺の屋根から少しずつ見えてきます。
青葉に覆われた春の鎧坂も魅力的(2016/4/26日)。室生寺は、室生山の山麓から中腹にかけて堂塔が散在する山岳寺院です。境内の堂宇は山の斜面に沿い上へ上へと建てられている。それを結ぶのが階段です。そのため階段が多い。一番上の奥の院まで、合計700段もの階段が続くそうです。奥の院への390段の急な石段は、さすがに女性や高齢者にはキツイかもしれないが、それ以外の階段は優しく造られている。この鎧坂には高齢者用に手すりが?、上り下りを分けるためカナ。なお、仁王門手前の社務所で杖を貸してくれます。

 金堂(国宝、平安時代前期)  


鎧坂を登りきると、単層寄棟造りの国宝・金堂が迎えてくれる。本瓦葺と違い、椹(さわら)や杉の皮を使った柿葺き(こけらぶき)の屋根が、森閑とした山腹に佇む堂宇に落ち着きと品格を与えている。この中に国宝仏像二体、重文仏像四体があるとは信じられません。
正面から見える五間は礼堂(らいどう)と呼ばれ、江戸時代の寛文12年(1672)に増築されたもの。礼堂の前には高欄付きの回縁がめぐらされている。礼堂と回廊は山腹の斜面に張り出して増設したため、床下を床柱で支える「懸造(かけづくり)」で建てられている。金堂内に入るには、左手の石段を上り左横の入口から入ることになる。礼堂の奥が、平安時代前期に建てられた正堂(しょうどう、内陣)。平安時代初期の仏堂で、現在まで残っているものとして貴重な建物となっている。この中に国宝などの仏像が安置されています。
金堂内陣の仏像達(室生寺公式サイトのトップページから)。
堂内須弥壇上に、向かって左から十一面観音立像(国宝)、文殊菩薩立像(重文)、本尊釈迦如来立像(国宝)、薬師如来立像(重文)、地蔵菩薩立像(重文)の五体が横一列に並び、これらの像の手前には十二神将立像(重文)が立つ。狭い堂内に、窮屈そうに密着して五尊像が立っておられる。
Wikipediaに「須弥壇上には前述のように5体の仏像を横一列に安置するが、須弥壇部分の柱間が3間であることから、当初の安置仏像は3体であったと推定される。造立年代は釈迦如来像と十一面観音像が9世紀、他の3体が10世紀頃とみられる。」と書かれている。もともと釈迦如来、地蔵菩薩、十一面観音菩薩の三体だったのが、興福寺の影響下で藤原氏の氏寺・春日社の本地仏の五尊像に変更され、文殊菩薩と薬師如来が追加されたのではないかとされる。
普段はお堂の中へ入れないが、春と秋の特別拝観期間中は、お堂の中に入って礼堂から間近に拝観できます。丁度、春は石楠花、秋は紅葉の時期に当たり、運が良ければ若い僧侶の解説も聴けます。

金堂の右方向を見れば、紅い拝殿とその奥に小さな本殿が覗く。これが天神社で、龍神を祀った龍穴神社の神宮寺だったともいわれている。毎年10月15日の室生龍穴神社の祭礼では,先ずこの社前で拝礼や奉納の儀式があってからお渡りが龍穴神社に向かう。この天神社と室生龍穴神社は深い関係にあるようです。

拝殿の左に見える苔むした岩には軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)の像が彫られている。軍荼利明王は、外敵から人間を守り、さまざまな災いを取り除いてくれる仏さんで、庚申祭の本尊。通常は腕が8本だが、ここの軍荼利明王は10本となっている。享保12年(1841)に彫られたもの。

 弥勒堂(みろくどう、重文)  



金堂左手には、弥勒堂(みろくどう)が東向きに佇む。単層入母屋造、三間四方のこの堂は、鎌倉時代の建築だが江戸初期に大幅に改造されている。屋根はヒノキやサワラの木を薄く割って重ねた柿葺き(こけらぶき)。周囲には縁をめぐらせている。もとは伝法院と呼ばれ、興福寺の僧・修円が興福寺伝法院を移したとも伝えられている。柿葺きの素朴な佇まいは、山寺らしい気品を漂わせています。
内陣には、国宝「釈迦如来坐像」と重文「弥勒菩薩立像」とが祀られている。どちらも平安時代初期の作。
春の弥勒堂(2016/4/26日)
秋の金堂(左)と弥勒堂(2015/11/28、土)
春の金堂(左)と弥勒堂(2016/4/26、火)


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