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山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

北野天満宮界隈ブラ歩き 1

2019年11月22日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2019年2月25日(月曜日)
二月末,梅花の季節です。関西には梅の名所は沢山あるが,京都・北野天満宮に出かけることに。25日は梅花祭が催され,近くの花街・上七軒の芸妓・舞妓さんも参加されるということが決定打になりました。周辺には平野神社,千本釈迦堂,千本ゑんま堂などもあるので,時間がある限り周ってみるつみり。

 北野天満宮へ  



京都の街中にある北野天満宮は,交通の便がよさそうでいて,やや不便な所です。京阪,阪急,JRどれを利用しても直接行けない。いろいろ考えた末,阪急で嵐山まで行き,嵐山電車を利用することに。嵐電の終点が北野白梅町駅で,北野天満宮はすぐだ。その途中にある地蔵院,大将軍八神社に寄ってから北野天満宮に入る。

北野天満宮の正面は今出川通りに面している。そこには一の鳥居が建つのだが,大鳥居が埋め尽くされんばかりに露店がひしめいている。菅原道真の誕生日と、亡くなられた日が25日であったということもあり、毎月25日は天神さんの縁日で,境内で骨董市が開かれる。特に2月25日は菅原道真の命日にあたるので盛大な骨董市となり,人々で大賑わいとなる。境内の外にまで露店があふれています。

 境内図と歴史  



(境内に掲示されている境内図)
北野天満宮は菅原道真(845-903)を神として祀る神社です。

道真の生まれた菅原家は、曽祖父の代から文筆をもって朝廷に仕え、祖父、父ともに学者の最高位である文章博士に任命されていた学者一族だった。その影響か、道真も5歳で和歌を詠み、10歳過ぎで漢詩を創作したという。23歳で文章得業生、33歳の若さで式部少輔、文章博士となり、学者としては最高の栄進を続けた。宇多天皇、醍醐天皇に重用され,昌泰2年(899年)には右大臣にまで登りつめる(55歳)。
ところが二年後の延喜元年(901) 正月25日、突如として右大臣の地位を解任され、九州の太宰府へ左遷された。ライバルであった左大臣・藤原時平によって 「菅原道真は、娘が嫁いだ醍醐天皇の弟、斎世親王を担いで天皇の廃立を企てている」と讒言されたのです。道真は太宰府で半ば軟禁状態のまま失意の日々を送り、延喜3年(903)2月25日に望郷の念を抱いたまま非業の死を遂げた(59歳)。

道真の死後、京の都では疫病がはやり、醍醐天皇の皇子が相次いで病死、道真追放を画策したとされる藤原時平以下の関係者が次々変死し、時平の縁者も若死にするという変事が続く。世間では、道真の祟りであるという噂が広がっていった。
祟りを恐れた朝廷は、延長元年(923)左遷証書を焼却し道真を右大臣に戻したり、正二位を追贈したりするが怪異は収まらない。
延長8年(930)の6月26日、清涼殿に落雷があり多くの官人が雷に撃たれて死亡した。
その後も天災,地震などが続く。これは道真の祟りだとされ、御霊信仰と結びついて恐れられた。

こうした中で北野天満宮が創建された。公式サイトに「北野天満宮の創建は、平安時代中頃の天暦元年(947)に、西ノ京に住んでいた多治比文子や近江国(滋賀県)比良宮の神主神良種、北野朝日寺の僧最珍らが当所に神殿を建て、菅原道真公をおまつりしたのが始まりとされます。」とある。
これは多治比文子らに「北野に社殿を造り自分を祀るように」との御託宣があったからだとされる。その後に藤原時平の甥・藤原師輔が自分の屋敷の建物を寄贈して、壮大な社殿に作り直された。
永延元年(987)には一条天皇から「北野天満宮天神」の神号が贈られる。道真は天神(雷神)として神格化され、全国各地に道真を祀る神社が建立されていった。
正暦4年(993)には、朝廷から菅原道真に正一位・右大臣・太政大臣の官位が贈られた。

以来,「国家の平穏を祈る神社」として皇室からの厚い信頼を受け行幸が続いた。逆に,いかに道真の怨霊を怖れていたかがわかります。

室町時代の文安元年(1444)年、戦火により炎上し一時衰退する。
その後建て直され,天正15年(1587)10月には豊臣秀吉によって「北野大茶湯」が催された。
1607(慶長12)年、秀吉の遺命により豊臣秀頼が社殿を造営する。
江戸時代には道真の御霊としての性格は薄れ、「学問の神様」として広く信仰されるようになった。
「江戸時代には、各地に読み書き算盤を教える寺子屋が普及し、その教室に天神さまがおまつりされたり、道真公のお姿を描いた「御神影」が掲げられて、学業成就や武芸上達が祈られてきました。このことがのちに「学問の神さま」、「芸能の神さま」として皆さまに広く知られるようになった所以です。現在、全国各地には道真公をおまつりした神社が、およそ1万2000社あるとも言われ、その多くは当宮から御霊分けをした神社です。」(公式サイトより)

 一の鳥居から参道へ  


高さ11.4mの大鳥居は大正10年10月に建立された。上部に掲げられた扁額「天満宮」は高さ2.7m・幅2.4m、平成26年に修復されたので新しい。
一の鳥居から楼門までの参道には二の鳥居,三の鳥居がある。





梅の名所だけあって狛犬の台座にまで梅の絵が描かれています。






楼門までの参道には骨董品を並べた露店がひしめく。参道には幾つか見所があるが,探すのに一苦労する。露店のテントが邪魔で参道脇が見通せない。見つけても店が邪魔で近づけないのです。
露店の僅かな隙間を通って参道の右側に入り込む。この右側は「右近の馬場」と呼ばれ「右近衛大将だった菅原道真公が好まれた右近衛府の馬場,俗に右近の馬場という。桜狩が行われた程の桜の名所」と説明板が立つ。
現在は「右近の車場」と化しているが。









まず,右側の参道裏に入り込みます。最初に石の玉垣で囲まれ「影向松(ようごうのまつ)」と名付けられた神木があります。菅原道真が肌身離さず持っていた仏舎利が、道真の死後に大宰府から飛来してこの松にかかったとという。そして「立冬から立春前日までに初雪が降ると天神さまが降臨され、雪見を愛でながら詩を詠まれるという伝説があり、現在でも初雪が降った日には、硯と筆と墨をお供えして「初雪祭」の神事を行っています。」(公式サイト)そうです。


豊臣秀吉が天正15年(1587)に催した「北野大茶湯」で、お水を汲んだと伝わる井戸です。「太閤井戸」と呼ばれている。近くに石碑「北野大茶湯之址」も建っています。奥に楼門が見えます。
なお参道の左側には茶室「松向軒」があり、その北側は植木市となっている。




これが三の鳥居で,その先に楼門が見える。かなり人が増え,歩きにくくなってきた。
毎月21日に開かれる東寺の“弘法市(弘法さん)が有名だが,25日の北野天満宮の“天神市(天神さん)”も人気があり,京都の二大骨董市とされ,京都の年中行事になっています。
この辺りは骨董市というより,食べ物の露店が多い。




 楼門と絵馬所  



露店で賑わう人混みの中を進むと楼門につき当たる。風格のある立派な門だ。公式サイトに「楼門の上部に掛けられた額には、「文道大祖 風月本主」の文言が刻まれています。平安時代中期の学者・慶滋 保胤(よししげ の やすたね)、大江匡衡(おおえのまさひら)が菅原道真公を讃えた言葉です。年末に奉掲するジャンボ絵馬も、京の師走の風物詩として知られています。」
「風月本主(ふうげつのほんしゃ)」は、自然界、森羅万象、あらゆるものの主であるという意味だそうです。


楼門をくぐると,すぐ左側に絵馬所がある。現在の絵馬所は元禄13年(1700)に建てられたもの。京都に現存する絵馬堂の中では最も古く,京都市指定有形文化財となっている。
絵馬所内部の天井。絵馬は、生きた馬の代わりに板などに馬の絵を描いて奉納したもの。馬以外にも色々な絵が描かれるようになった。歴史を感じさせる絵馬が掲げられています。

 宝物殿と神楽殿  



楼門を潜って真っ直ぐ進むと右手に、昭和2年(1927)開館の宝物殿がある。宝物殿周辺も梅が綺麗に咲いています。
入り口で入館料:500円支払い中へ入る。係員が「スマホ,携帯以外での撮影はできません」と。スマホで撮れて,なぜデジカメではダメなのでしょうか。最近のスマホの画質は他のカメラに劣るものではないのに。しかたなく持参のカメラでなくスマホで撮りました。

開館日 縁日(毎月25日)、観梅・紅葉シーズン、
1月1日、12月1日、4月10日~5月30日
開館時間 9時~16時
料金 一般500円、中・高校生300円、こども250円

公式サイトには「古文書、刀剣、蒔絵や屏風、茶道具といった美術的にも価値の高い工芸品を多数収蔵し、常設展のほか、季節ごとにテーマを決めた企画展も開催」とある。展示されているのはほとんどが刀剣でした。現在刀剣展の開催中なのでしょうか?。
館内の説明板を要約します。北野天満宮には現在100振の刀剣が宝刀として納められている。御祭神菅原道真は学問だけでなく、文武に優れた人だった。道真を祀る北野天満宮は皇室だけでなく、室町幕府の足利氏や豊臣氏など多くの武士たちから篤い崇敬を受けてきた。そうした流れの中で北野天満宮には、多くの刀剣が奉納されてきたという。

刀剣の中でも有名なのが「鬼切丸」(別名:髭切)。重要文化財に指定されている。鬼切丸はその後、源氏数名の手を経て新田義貞、斯波氏、最上氏へと伝わり、代々家宝として保持されてきた。最上家の衰運により北野天満宮に奉納されることになったという。

現在、京都文化博物館で「北野天満宮 信仰と名宝 ―天神さんの源流―」(2019年2月23日(土)~4月14日(日)が開催されている。なのでここの宝物殿の名宝のほとんどが京都文化博物館のほうへ出向されている。
この宝物殿の一番の見ものの国宝「北野天神縁起絵巻 承久本」もそうです。ここには無い。あっても展示されているのは複製品だろうが。(もしかして出向しているのも複製品?)
ポスターを見ると、鬼切丸はそっちへ出張中のはずなのだが・・・?。


宝物殿の北側にあるのが神楽殿。狂言や日本舞踊などが催されるのだが,毎月25日に限って神楽舞が奉納される。
雅楽人,舞人はスタンバイしているのだが,なかなか始まらない。隣の社務所で「次の上演は何時からですか?」と尋ねたら,上演時間はきまっておらず,「梅花祭野点大茶湯」を終えた方が来られたら始まる,そうです。

 中門(三光門)  



これは中門です。境内図を見れば判るのだが、楼門から中門、本殿へは真っ直ぐつながっていない。楼門を潜り、少し左へ折れ、絵馬所の前から直進するのが中門、本殿への参道となっている。これは地主神社との関係で、後で書きます。
現在の門は、慶長12年(1607)に豊臣秀吉の遺命に基づき、豊臣秀頼の寄進によって建てられたものとされている。上部に掲げられた『天満宮』の勅額は後西天皇御宸筆による。重要文化財です。
ひと際鮮やかな装飾が目をひきます。華麗な彫刻の中に、日、月、星が刻まれていることから、この中門は「三光門」とも呼ばれている。ところがいくら探しても星だけは見当たりません。公式サイトには「三光とは、日、月、星の意味で、梁の間に彫刻があることが名の由来ですが、星の彫刻だけが見られないともいわれています。その理由は、かつて朝廷があった大極殿から望むとちょうどこの門の上に北極星が輝くことから。天空と一つになって平安京を守っていた場所がこの北野の地なのです。この伝説は「星欠けの三光門」として今も当宮の七不思議に数えられています。 社殿と同じく、桃山時代の建築様式で重要文化財に指定されています。」と説明されている。天空に北極星が輝いているので、あえて彫刻として刻まなくてもよいということでしょう。


多彩な装飾の中から、日と月の彫り物を見つけるのは大変です。勅額「天満宮」の反対側に赤い太陽が、そして本殿側の梁の裏側に黄色の太陽が輝いている。
本殿側の表に月が見える。日、月とも小さいので、目を凝らさないと探すのが容易でない。
右の写真から月が判りますか?。ちょうど写真の中央で、白い動物に挟まれています。




 梅花祭(2月25日)  



三光門前に人混みができ、騒々しい。左の広場では、幔幕が張られ茶会が催されている。これは道真の命日にあたる2月25日の梅花祭に特別に催される「梅花祭野点大茶湯」。秀吉ゆかりの「北野大茶湯」にちなんだもの。
近くにある花街・上七軒の芸妓・舞妓さんからお茶を振舞われるので人気があるようです。野点拝服券(1,500円、宝物殿拝観券・おさがり引換券付)を求めて長い列ができていました。
皆さん、遠くから垣根越しに写真を撮っているが、係員がそれを制止している。何故、写真がダメなのでしょうか?。わずかなスキをみつけてパチリ・・・。

三光門の通行が制限され、やがて神官さんの列が本殿に向ってやってくる。神官さんの冠をみると、梅でなく黄色の菜種だった。何故、梅でないのだろうと思い調べると「菅原道真と梅との結びつきから、命日にあたる2月25日に行われる梅花祭では「梅花御供(ばいかのごく)」とよばれる特殊神饌が献供されている。これは明治以前に太陰暦が用いられていた時代には魂を「宥める」にあやかって菜種がささげられていたが、新暦になり、梅花祭の時期が変わったために梅の花が用いられるようになったとされている。なお、2012年現在では梅花祭における菜種は、神職が身に付け奉仕を行うという形で残されている。」(Wikipediaより)とありました。

 社殿(国宝)  



三光門の奥には拝殿、本殿などからなる国宝の社殿がひかえる。見えているのは拝殿で、檜皮葺き屋根の正面には唐破風がみえる。その奥に本殿があるが、正面からは見えません。「千年余りの歴史のなかで何度も火災にあいましたが、そのたびに朝廷や将軍家によって造営修繕がなされ、現在の本殿は豊臣秀吉公の遺命により豊臣秀頼公が慶長12年(1607)に造営されたものです。」(公式サイトより)

本殿に祀られている主祭神は菅原道真。相殿神として中将殿(道真の長子・菅原高視)、吉祥女(道真の正室)も祀られている。

社殿の前庭には、拝殿に向かって左側には梅、右側には松が植えられている。「右近の橘、左近の桜」はよく知られているが、ここは「右近の梅、左近の松」となっている。それぞれ、梅紋と松紋が描かれた提灯がぶら下がる。梅紋、松紋とも北野天満宮の神紋です。梅の木は樹齢400年以上で「御祭神菅原道真公の御心に寄り添い飛翔した各地の”飛梅伝説”の原種であることが明らかになっている」と説明されています。

菅原道真と梅との関係は有名だが、松とも縁があるという。道真が忠臣に松の種を持たせ、当地に播くように託した。後、道真の神霊が降臨された時、一夜にして多くの松が生じたそうです。

大変きらびやかな建物で、黄金色に輝く吊燈籠や装飾がまぶしい。拝殿内部を覗いてみると、ここにも黄金色の吊燈籠が並ぶ。「通常は拝殿前よりご参拝いただきますが、ご祈祷の際には拝殿に昇殿いただきます。神前での厳粛な雰囲気とともに、内部の美しい装飾にもご注目ください。」(公式サイトより)
毎月25日のライトアップ時には吊燈籠にも火がともされ、幻想的な雰囲気をかもしだすという。

楼門や三光門と同じように虹梁や蟇股(かえるまた)などに色鮮やかな彫刻が見られます。龍や鶏、孔雀などが躍動する姿が精緻に彫られている。これが桃山期の特色なのでしょうか。

彫刻の中に「天神さんの七不思議」の一つとされる牛の彫刻があります。菅原道真が牛と縁が深いことから境内には多くの牛の像や彫刻がある。それらは全て寝そべった臥牛の姿をしています。道真公の遺骸を運ぶ途中で車を引く牛が座り込んで動かなくなったため、やむなく付近に埋葬したいう故事からきている。
ところがこの拝殿の蟇股の牛は、後ろ足を立てた「立ち牛」となっている。七不思議の一つなので理由は判らないようですが、腰を上げることで躍動感がでて、蟇股にマッチしているように見えます。

(上の写真は社殿を西側から撮る、左は社殿を東側から撮ったもの)
正面から見ると拝殿しか見えないが、横に回り脇から見るとその複雑な構造がよく判る。公式サイトに「本殿と拝殿が石の間という石畳の廊下でつながり、本殿の西には脇殿を、拝殿の両脇には楽の間を備えた複雑な構造。八棟造、権現造りと称され、神社建築の歴史を伝える貴重な遺構として国宝に指定されています。」とある。
本殿、石の間、拝殿、楽の間を合わせて1棟として国宝に指定されている。

ここは本殿の背後です。御簾が垂れ下がり拝殿となっており,「裏の社」と呼ばれています。ここには「御后三柱(ごこうのみはしら)」という御神座,即ち菅原家のご先祖・天穂日命の神、道真の祖父・菅原清公卿、道真の父・菅原是善卿が神として祀られている。

社殿前の広場で天神さんのお守りなどがが販売されています。学問の神さまとして菅原道真を祀っているだけあって学業に関したお守りが多い。この鉛筆で勉学すれば,合格間違いないでしょう。鉛筆箱には「文道大祖 風月本主」の文言がみえる。これは楼門に掛けられた額と同じで,菅原道真の学才を讃えた言葉です。
また道真と牛は縁があるので,お守りは「神使い お牛さま」,絵馬には通常の馬の絵柄でなく牛が描かれている。


詳しくはホームページ

三十三間堂界隈ブラ歩き 3

2019年04月24日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2019年1月4日(金曜日)
三十三間堂界隈には見所がいっぱい。京都国立博物館を中心に、三十三間堂・法住寺・後白河法皇法住寺陵・養源院・智積院・妙法院・豊国神社が建ち並ぶ。そして豊臣家滅亡のきっかけとなった梵鐘のある方広寺もあります。最後は、妙法院・方広寺・大仏殿跡緑地・豊国神社・阿弥陀ヶ峯の豊国廟の紹介です。

 妙法院門跡(みょうほういんもんぜき)  



智積院を出て東大路通りを北へ進むと,通りを挟んで妙法院がある。正月らしく注連縄の張られた表門が建つ。門柱には「妙法院門跡」(みょうほういんもんぜき)とあります。門跡寺院とは,皇族出身の方が入寺し住んだ格式の高い寺院を指します。東山の「青蓮院」,大原の「三千院(梶井門跡)」とともに「天台三大門跡寺院」と称されている。

★妙法院の歴史
寺伝によれば,延暦年間(782-805)に比叡山西塔で最澄によって創建され,平安時代後期頃から「妙法院」と呼ばれるようになったとされる。後白河法皇(1127-1192)の時代に洛中の綾小路(現在の八坂神社の南西あたり)に移転し,後白河法皇との関係を深める。妙法院の寺伝では,後白河法皇を第15代の門主(法名は行真)とし中興の祖と位置づけています。

1227年,尊性法親王(後白河法皇の曽孫で後高倉天皇の皇子)が入寺してからは,皇族出身の法親王(皇族で出家後に親王宣下を受けた者)が門主になることが多く,門跡寺院としての地位が確立していく。
応仁・文明の乱(1467-1477)の混乱で,一時比叡山に避難したが,その後現在の場所に移転。
豊臣秀吉が天下をとり,文禄4年(1595)に方広寺大仏殿をこの辺りに建立し,秀吉は亡父母のために千僧供養を「大仏経堂」で行った。この「大仏経堂」は妙法院に所属し、千人もの僧の食事を準備した台所が、現存する妙法院庫裏(国宝)だとされている。
豊臣家が滅び徳川の時代になると,方広寺、蓮華王院(三十三間堂)、新日吉社は妙法院の管理下におかれ,妙法院門主が方広寺住職を兼ねるようになる。

明治時代に入り神仏分離令による廃仏毀釈の影響を受けて寺域は大きく減り、寺運は衰微する。方広寺と新日吉社は独立し,豊国廟は神祇官に引き継がれる。管理してきた後白河天皇陵も宮内省の移管になる。一時,門跡の称号も廃された。ただし蓮華王院(三十三間堂)は現代に至るまで妙法院の所属となっています。

門を入ると,正面に見える大きな建物が「大庫裡」,即ち厨房です。豊臣秀吉が造営した方広寺大仏殿の開眼供養のため集まった千人もの僧侶の食事を準備する台所として文禄4年(1595)に建てられた。高さ18mもある。さすが秀吉,自身の体は小さいがやることはデカイ。厨房といえど入り口の玄関は唐破風造りとなっている。桃山時代の代表的建築として国宝されています。

屋根の上に小さな小部屋が,と思ったがこれは煙り出し用の煙突だそうです。煙突まで格式ぶっている。

大庫裡の内部は非公開です。ただし玄関は開け放たれ内部を垣間見ることができる。土間と板間があり,その上は天井板をはらず太い貫や梁木などがむき出しになっている。
ここから見るだけでも豪快で,そのスケールの大きさを感じられます。

大庫裡の右横が「大玄関」(重要文化財)。大書院(重要文化財)とともに,東福門院(徳川秀忠女,第108代・後水尾天皇の中宮)の御殿を御所より移築したものとされる。大小二つの唐破風屋根の「車寄せ」で,来賓を迎える玄関として用いられているそうです。

境内の一部は自由に入り見学できる。大玄関からさらに右の境内に入りこむと,二つの建物が見える。左が明治31年(1898)に再建された宸殿(しんでん),右が普賢堂(本堂)。
左側の宸殿(しんでん)の仏間には,中世よりの天皇,皇后,中宮の位牌が安置されている。この宸殿は幕末の「「八月十八日の政変(七卿落ち)」の舞台として有名。文久3年(1963)年8月,公武合体派と対立する勤王急進派の三条実美卿一行がここ宸殿に集結,合議の末,市内戦を回避,後の維新を期して,西国へ向け出京したという「七卿落ち」。この宸殿で最後の夜を過ごし,翌日早朝雨中、久坂玄瑞らに付き添われ長州へ都落ちしたという。毎年10月には,いまも七卿をしのぶ記念法要が続けられているそうです。

右側は本堂となる普賢堂(ふげんどう)で、妙法院本尊の木造・普賢菩薩像(重要文化財)が祀られている。

 大仏殿と秀吉の死  


方広寺と豊国神社に関係するので,「大仏殿と秀吉の死」に関連した歴史を調べてみます。

<左の写真は、方広寺本堂内の掛け軸より>
◆大仏殿と大仏の造営(初代)
豊臣秀吉の全盛期,自らの権勢を天下に誇示するために奈良の大仏をもしのぐ巨大な大仏を造営することを思い立つ。その場所として,東国からの交通の要所で,かつかって後白河法皇や平清盛が栄華を極めた場所を選んだ。蓮華王院(三十三間堂)の北側一帯です。

天正14年(1586)に造営に着手,諸大名に用材の運上を命じる
天正15年(1587),聚楽第完成し,秀吉,大阪より京に移る。
天正16年(1588),地鎮祭が盛大に催され,4000人が集い笛、太鼓、踊りが続き、酒、餅が振舞われた。前田玄以を主奉行に多くの大名が動員され,数万人の人足が関わったという。この年「刀狩令」が発令され,没収された刀などは大仏殿造営に使う釘などの金具に再利用された。

天正18年(1590)小田原攻め,天下統一を完成させる
天正19年(1591)9月大仏殿立柱式行われる。大仏は当初は銅で造る予定だったが,工事の遅れにより木製(漆膠)に変更された。
文禄2年(1593)8月,本拠を伏見城に移す。秀頼が誕生。

文禄4年(1595)9月,方広寺大仏殿が完成する。重層瓦葺の大仏殿は南北90m、東西55m、高さ49mもあり,内部に安置された木造漆彩の大仏(毘魂盧遮那仏)は東大寺の大仏より大きい高さ19mもあったという(ちなみに奈良の大仏は約18メートルの高さ)。東山の斜面に西向き,即ち都の洛中を見下ろす。逆に京の街中からも大仏の顔が見え,秀吉の権勢を感じさせられた。
秀吉は亡父母のために千僧供養を大仏経堂で行なった。天台宗、真言宗、律宗、禅宗、浄土宗、日蓮宗、時宗、一向宗の僧が出仕を要請された。千人もの僧の食事を準備した台所が、現在も妙法院に残る大庫裡(国宝)です。

また秀吉は町衆が大仏殿へ参拝しやすいように道路整備も行う。伏見街道を整備し,清水寺への参拝に使われていた五條大橋を200mほど南に架け替えてしまう(だから現在の五條大橋は義経と弁慶が戦った橋でなく,現在の松原橋がそれにあたるそうです)。

◆慶長大地震で大仏大破
文禄5年(1596)7月12日、畿内を慶長大地震が襲う。大仏殿は倒壊を免れたが,大仏は大破する。秀吉は「頼りないヤツ!」と大仏を叱りついけたという。
大地震後,秀吉は信州・善光寺の本尊・阿弥陀如来の夢を見たという。夢のお告げに従い,大破した大仏に代えて善光寺如来を方広寺の本尊として迎えることを命じ,翌年に移送させ方広寺の大仏殿に安置させた。大仏殿は「善光寺如来堂」と呼ばれ,如来を一目拝もうとする人々が押し寄せたという。

◆秀吉の死
慶長3年(1598)3月に醍醐の花見を終えた秀吉は5月より病にかかり日々体調が悪化する。死が近いことを悟ったのか,遺言状を残し,徳川家康に秀頼の後見人になるように頼む。秀吉の病は信濃・善光寺から取り寄せた阿弥陀如来の祟りであるという噂が立つ。8月17日、善光寺如来はひそかに信濃の善光寺へ戻されることとなったが、翌日の18日,辞世の句
  露と置き 露と消へにし 我が身かな 浪華のことも 夢のまた夢
を残し,秀吉は63歳の生涯を伏見城で終えた。

<洛中洛外図屏風に描かれた豊国社と方広寺大仏殿(豊国神社宝物館より)
◆秀吉の埋葬と豊国廟(ほうこくびょう)
秀吉の死はしばらく秘密にされ,火葬されることなく伏見城内に安置されていた。
慶長4年(1599年)4月13日,秀吉の遺言により遺体は伏見城から東山連峰のひとつ阿弥陀ケ峰(あみだがみね)へ移送され,頂上に埋葬され祠廟が建てられた。
山麓(太閤坦、たいこうだいら)には北野神社を模した「八棟造り」の本殿をはじめとした壮麗な豊国社(とよくにのやしろ)の社殿が造営された。

後陽成天皇から「正一位」の神階と豊国大明神の神号を授けられ,神として祀られたために葬儀は行われなかった。
4月18日に遷宮の儀が行われ、その際に「豊国神社」と改称された。また豊臣秀頼の希望により大坂城内に豊国神社を建て分祀された。

これ以後,毎年8月18日の秀吉の年忌には、豊国廟や各地の豊国神社にて盛大な祭礼「豊国祭」が執り行われた。特に慶長9年(1604)の”豊臣秀吉七回忌”の豊国祭は「豊国祭図屏風」(国宝)に描かれるなどして有名である。見物人の列が三条大橋、五条大橋から連なり,人々が豊国踊り、風流歌舞を舞い、廟前に押し寄せたという。

<写真は、大仏殿跡緑地公園の説明板より>
◆大仏殿の修復と金銅製大仏の復興(二代目) 
慶長5年(1600)豊臣秀頼は大仏殿の修復と金銅製の大仏の復興をはかる。徳川家康は、豊臣家の財力を失わせるために復興を勧めたといわれている。

この頃,大仏殿のある方広寺は広大な敷地を占めていた。現在の蓮華王院(三十三間堂)も方広寺境内に取り込まれ、修理と境内整備が行われた。南大門、西大門(東寺の南大門として移築され現存している)が建てられ,土塀(太閤塀)が築かれた。

慶長7年(1602),金銅大仏の鋳造中,流し込んだ銅が漏れ出し大仏の腹中から出火した。火は大仏殿にも燃え移り、大仏もろとも焼失してしまう。

◆大仏の復興(三代目),鐘銘事件
慶長13年(1608)秀頼は家康の勧めにより再度大仏復興を企図,費用・用材の準備開始する。慶長15年(1610)6月に大仏殿地鎮祭、同年8月に立柱式が実施される。徳川家康も、諸大名に、費用の負担を命令したり、大工を派遣したり、協力していた。
慶長19年(1614),大仏殿,楼門、廻廊,金銅製の大仏(像高19.1m,三代目大仏)が完成。再建された大仏殿は東西69m、南北103mあり、秀吉の大仏殿より規模は大きかったという。

梵鐘も完成し、徳川家康の承認を得て、開眼供養の日を待つばかりとなった。大仏の建立の総奉行をしていた片桐且元は、仕上げとして梵鐘の銘文を南禅寺の文英清韓という人物に選ばせた。ここに豊臣家滅亡のきっかけとなった「鐘銘事件」が起こる。家康は梵鐘銘文に異議をとなえ大仏開眼供養の延期を命じた。

◆豊臣家滅亡,豊国神社の閉鎖
慶長19年(1614)12月、「大坂冬の陣」で徳川方と豊臣方の決戦が始まる。翌慶長20年(元和元年)(1615)5月大阪夏の陣で,追い詰められた淀殿と豊臣秀頼は自刃し,ここに豊臣家は滅亡してしまいます。

7月,勝利した家康は阿弥陀ケ峰山麓の豊国神社を閉鎖し,秀吉の霊は大仏殿後方南に建立された五輪塔に移された。この石造五輪塔は現在の豊国神社境内宝物殿裏に「御馬塚」として遺る。秀吉の遺体そのものは霊屋とともに阿弥陀ケ峰山頂に遺された。
また後水尾天皇の勅許を得て「豊国大明神」という神号を剥奪し,もはや神ではなくなった秀吉には「国泰院俊山雲龍大居士」という仏教の戒名が贈られ,仏式で祀られることになった。
阿弥陀ケ峰山麓の豊国神社は破却されるはずだったが,秀吉の正室・北政所の嘆願により社殿はそのまま残された。しかし放置され,空しく風雨にさらされ朽ち果てるままの状態にされた。参道も新日吉神社を移設して塞がれ,参拝する道さえ無くなった。
以後、300余年にわたり廟の社殿は荒廃にまかせ、訪れる人もなかったという。歴史の舞台からは完全に姿を消すことになったのです。
大仏殿のある方広寺は妙法院の付属寺院とされた。毎年の豊国祭も禁止された。

◆木造の大仏(四代目)
秀頼の再建した大仏は豊臣家滅亡後も残されたが,寛文2年(1662)の寛文地震で金銅大仏(三代目)が大破する。大破した大仏の銅は寛永通宝の原料とされたという。
寛文7年(1667)木造の大仏が完成する(四代目)。庶民の間では江戸期を通じて「大仏さん」の名で親しまれた。京のわらべ歌に「京の大仏つぁん」がある。
   京の京の大仏つぁんは
   天火で焼けてな
   三十三間堂がやけのこった
   アラ どんどんどん
   コラ どんどんどん
   うしろの正面どなた

この木造大仏も,寛政10年(1798)7月,大仏殿本堂に落雷し出火。大仏殿,楼門,大仏が焼失。以後は同様の規模のものは再建されることはなかった。

◆十分の一の木造半身大仏(五代目)
江戸時代後期の天保年間(1830 - 1844年),尾張国有志の寄進により、旧大仏を模した像高2mの木造半身の大仏が造立され,仮本堂に安置された。上半身のみで旧大仏の十分の一でしかなかったが,「京の大仏」と呼ばれて親しまれた。これも昭和48年(1973年)に焼失してしまう。

◆豊国神社の再建 
徳川幕府が倒れ,天皇親政の明治になる。徳川方によってないがしろにされてきた豊臣秀吉が見直されるようになった。
明治元年(1868),明治天皇の御沙汰書により、秀吉の社壇を再興することが命じられた。
当初、大坂城の城外に豊国神社を再興される予定だったが,京都の人々の嘆願で京都には本社、そして大阪には別社が建てられることに。明治13年(1880)、秀吉が築いた方広寺大仏殿跡に豊国神社の社殿が再建された。そのため方広寺境内の大部分は政府に収公され,現在の規模となってしまった。
明治8年(1875)には秀吉の大明神号は復されている。

◆阿弥陀ヶ峯山頂の五輪石塔
明治30年(1897)、阿弥陀ヶ峰山頂の秀吉の埋葬地に10mの巨大な石造五輪塔が建てられた。この時,土中から素焼きの大きな壷が見つかり,その中には西向き(御所の方角)に手足を組んで座る、秀吉の半ばミイラ化した遺体があったという。丁重に再埋葬された(取り出すとき,ボロボロと崩れてしまった,という説も・・・)。甲冑や刀、黄金などの豪華な副葬品も埋葬されていたはずだが,すでに盗掘されてしまっていた。

黒田家や蜂須賀家など、豊臣家ゆかりの武将の子孫たちにより、太閤坦、豊国廟が修復整備され,塞がっていた参道を開けるために、新日吉神社は参道南(現在地)へ移転される。ここに二の鳥居が建てられる。翌明治31年には、豊太閤三百年祭が大々的に挙行された。

◆戦後 
昭和48年(1973)3月、3月28日、天保年間に造られた十分の一の木造半身大仏は失火により焼失した。地震や火事、雷などで壊れてしまっては、再建してということを繰り返して、昭和48年に消失するまで、5代の大仏さんが造営されてきた。

平成12年(2000)、大仏殿跡の発掘調査が行われた。大仏殿は東西約55m、南北約90mの規模であったことが判明。また大仏が安置されていた場所からは八角の石の基壇も発掘されている。

 方広寺(ほうこうじ)  



豊国神社の大鳥居前を数十m北へ歩くと右に入る道があります。この道を入れば方広寺はすぐだ。

狭い境内には,本堂・大黒天堂と鐘楼があるだけです。写真の右が大黒尊天の木像を祀る大黒天堂。本堂は,明治11年(1878)に再建された。
右の本堂に入ります。境内は無料だが,本堂・大黒天堂は300円の拝観料が必要。拝観料を払うと,受付の黒衣のおばさんが本堂内へ案内してくれる。3部屋あり、大雑把に説明し、すぐ受付に戻ってしまわれた。一人でやっておられるので、受付をほっておけないのでしょう。「撮影禁止」の注意書きが見当たらないので、おばさんに確認すると、曖昧な返事で「どうぞごゆっくり」とおっしゃってあたふたと受付へ戻ってゆかれた。私は撮影OKと理解し,撮りまくりました。後で見つけたのだが,本堂の外には「撮影禁止」の張り紙が・・・(^_-)-☆

本堂内に「眉間籠り仏(みけんこもりぼとけ)」が安置されている。これは秀頼が造仏した三代目大仏の眉間部分に納められていた。寛文2年(1662)の寛文地震で三代目大仏が大破するが、そのときに取り出されたと思われます。

大仏殿と大仏の一部であると考えられる遺物を見ることができる。銅製風鐸、銅製蓮弁、瓦、大仏の台座の一部など、カケラですが展示されています。
右下は、左甚五郎作の龍の彫り物。

秀吉の創建した方広寺は,かって蓮華王院(三十三間堂)などを境内に取り込み広大な敷地を占めていた。しかし明治に入り,方広寺境内の大部分は政府に収公され,その敷地内に豊国神社が建てられ,現在のような小さな規模の境内になってしまった。

本堂の前に鐘楼が建つだけ。その向こうには広い敷地を占めた豊国神社が見えます。
鐘楼は1880年代に再建されたものだが,梵鐘は豊臣家滅亡のきっかけになった方広寺鐘銘事件当時のまま残され,現在も吊るされている。徳川幕府にとって豊臣家を消滅させなければならなかった証拠物件として温存してきたのでしょうか?。

慶長19年(1614),秀頼は大仏殿ならびに金銅製の大仏を復興する。この時梵鐘も完成し,大仏の開眼供養の日を待つばかりとなった。「ところが家康は同年7月26日に開眼供養の延期を命じる。上記の梵鐘の銘文(東福寺、南禅寺に住した禅僧文英清韓の作)のうち「国家安康」「君臣豊楽」の句が徳川家康の家と康を分断し豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒?するものと看做され、大坂の陣による豊臣家滅亡を招いたとされる(方広寺鐘銘事件)。なおこの事件を徳川方の言いがかりとする見方がある一方で、「姓や諱そのものに政治的な価値を求め、賜姓や偏諱が盛んに行なわれた武家社会において、銘文の文言は、徳川に対して何らの底意をもたなかったとすれば余りにも無神経。むろん意図的に用いたとすれば政局をわきまえない無謀な作文であり、必ずしも揚げ足をとってのこじつけとは言えない。片桐且元ら豊臣方の不注意をせめないわけにはいかない」とする指摘もある。また大工棟梁を勤めた中井正清から家康への注進により大仏殿の棟札にも不穏の文字があるとされた。」(Wikipediaより引用)
問題となった銘文の一部「国家安康」「君臣豊楽」は,分かりやすいように白枠で囲まれています。この鐘は昭和43年に重要文化財に指定されました。東大寺、知恩院の梵鐘と合わせ日本三大名鐘のひとつとされる。




鐘楼の中に、大仏殿の遺物が置かれている。大仏殿の柱にまかれていたという鉄製の輪、大仏殿の四隅につられていた風鐸、大仏殿に使われていた鉄製の金具などです。












 大仏殿跡緑地  



地図で見ると、大仏殿跡緑地は豊国神社の裏に位置する。豊国神社内を通って行けると思っていたが、そうではなかった。方広寺受付でおばさんに尋ねると、そこの道を入って行けばすぐです、と指差し教えてくれた。指差された先に細い路地が見える。
確かに大仏殿跡地へは方広寺境内からしか入れないようです(東大路通りからも入れそうだが未確認)

路地を通るとすぐ広場が現れる。中央部分は小高く盛り上がっており,所々に敷石らしきものが散在している。。

豊国神社東側の大仏殿跡地は,平成12年(2000)に発掘調査が行われた。大仏殿は東西約55m、南北約90mの規模であったことが判明。また大仏が安置されていた場所からは八角の石の基壇も発掘されている。
発掘調査後,保存のため埋め戻し「大仏殿跡緑地公園」として整備された。この大仏殿跡地は国の史跡に指定されています。

(現地の説明板より)

 豊国神社(とよくにじんじゃ)  


方広寺の南側,大和大路通に面し豊国神社(とよくにじんじゃ)の大鳥居が建つ。徳川幕府が倒れ,明治になると豊臣秀吉の名声が復権する。明治13年(1880),かって阿弥陀ヶ峯の麓にあった豊国神社が,場所を変えて秀吉の建てた方広寺境内を没収して建てられた。秀吉は再び神として祀られたのです。大阪城内や,秀吉の出身地・名古屋市中村区など,全国に多くの秀吉を祀る豊国神社が存在するが,ここがその総本社です。

大鳥居から参道を進むと,正面に豪華絢爛たる唐門(国宝)が建つ。この唐門から奥へは正月の三が日以外入ることはできません。
総欅(けやき)作りの四脚門。秀吉の造った伏見城の城門だったが,二条城へ,さらに南禅寺の塔頭・金地院へ、そして明治に入ってから豊国神社に移築されたもの。漆を塗り、彫刻や飾金具を施したその豪華絢爛な唐門は、桃山文化を代表する建築の一つとして国宝に指定されている。西本願寺,大徳寺の唐門とともに国宝三唐門と称されている。


扉の下部に「鯉の滝登り」と呼ばれる左甚五郎の彫刻が彫られている。これは中国の故事にある「登竜門」を示し、「立身出世」を意味しているという。








正面の欄間に彫られた鶴は「目無しの鶴」と呼ばれ、目が無い。出来が良すぎたので飛び去らないように目を入れなかったそうです。






境内の南側に垣根で囲まれた領域がある。この中に宝物館があります。この領域に入るには拝観券300円が必要(高・大学生200円、小・中学生100円)。横の売店で売っている。
白壁の頑丈そうな建物が大正14年に開館した宝物館。係員は誰もいてない(即ち,拝観券のチェックもない)。撮影禁止の注意書き見られないので内部を撮りました。

太閤秀吉ゆかりの品々が多数展示されています。秀吉遺品を納めた唐櫃(重文)、秀吉が使っていたといわれる獏の形の枕や、身の回りの品を納めた蒔絵の箱(蒔絵唐櫃)など。他にも甲冑や弓・太刀といった武具類、息子・秀頼が八歳の頃に書いた書作品…なども展示されている。

宝物館に入るとすぐ横に「豊国祭礼図屏風」(重要文化財)が展示されている。六曲一双の大きな屏風で桃山絵画の傑作とされている。
慶長9年(1604)8月(旧暦)、豊国神社で7日間にわたりに行われた秀吉の7回忌の祭礼の様子を、豊臣秀頼の命を受けた家臣・片桐且元が、豊臣家のお抱え絵師・狩野内膳に描かせた屏風です。当時の京都の町並みや、人々の祭りを楽しんでいる様子が、表情も豊かにとても活き活きと描かれています。
豊臣家が滅亡すると祭礼も中止された。この屏風は京都・吉田神社が引き取り保管し、徳川幕府が倒れ明治になってから豊国神社に戻された。

秀吉の歯まで展示されている。賤ヶ岳七本槍のひとり加藤嘉明に形見として贈ったもの。秀吉直筆の贈り状まで残されている。親分の貴重な歯なので、写真のような容器に入れて大切に保管されていた。
この歯のから秀吉の健康状態がわかってきた。秀吉は歯槽膿漏で歯が抜け、この歯が最後の一本だったようです。ろくにものを食べられず、衰弱していったらしい。歯医者の存在しない当時は、天下人といえ防ぎえようがなかったのでしょう。血液型はO型だった。
戦場で使われていた瓢箪の馬印もある。

豊国神社の大鳥居から車道を西へ50mほど行くと,左に小高い丘の上に五輪塔が建つ。
秀吉が朝鮮を攻めた文禄・慶長の役(1592-1598年)の時、切り取られ塩漬けにして持ち帰った朝鮮の人々の耳や鼻を埋葬したもの。その上に高さ5mほどの五輪塔が建てられた。国の史跡に指定されている。

 阿弥陀ヶ峯(あみだがみね)の豊国廟(ほうこくびょう)  


豊国神社を2時半にでる。三十三間堂界隈から少し離れているが,時間があるので阿弥陀ヶ峯(あみだがみね)山頂にある秀吉の墓所・豊国廟を訪ねてみることにした。

智積院と妙法院との間の東山七条の交差点から車道を東へ歩く。入り口には「豊国廟参道」の大きな石柱が建っています。緩やかな坂道を進むと新日吉神宮に出会い,その左脇をさらに登ると京都女子学園のキャンパスが両脇に現れる。この緩やかな坂道を「女坂」と呼ぶらしい・・女学生がゾロゾロと。残念ながら正月休み中なので一人として出会いません。
この真っ直ぐな坂道が,かって豊国廟へお参りする参道だったのです。

さらに進むと女坂の突き当たりに階段と大鳥居が見えてくる。鳥居の先に見える緑の山が東山三十六峰のひとつ阿弥陀ヶ峰(あみだがみね、196m)です。かつて阿弥陀堂があったことから山名がきているようです。
東山七条の交差点からここまで20分位でしょうか。

階段を登ると石畳がまっすぐ続き,周辺は広々とした平坦地となっている。ここが「太閤坦(たいこうだいら)」と呼ばれ,かって秀吉を祀る豊国社の社殿があった場所です。
豊国神社で頂いたパンフには「旧豊国社創建当初約三十万坪あった境内には,山腹の俗称太閤坦に,本殿の他にも舞殿・神宝殿・護摩堂・鐘櫓・太鼓櫓等の殿舎が整然と立ち並び,まさに人目を奪う美しさを誇っていた。その後元和元年(1615)豊臣氏の滅亡と共に旧豊国社・豊国廟は破壊され,墳墓に弔する人もなく,空しく風雨にさらされていた」という。現在は「本殿のあった太閤坦には二,三の礎石と慶長五年(1600)長谷川右兵衛尉守直奉納の手水鉢(石船)等が残って,わずかに昔の面影を伝えているのみであるが,拝殿・手水舎等の諸殿舎整備修復が徐々に成され,春には桜の名所として賑わいを見せている」そうです。
豊国神社から約1km離れ,現在は,山頂の豊国廟を含め豊国神社の「飛び地境内」の扱いとなっている。春の桜の季節以外は,訪れる人も無く閑散とした様子。南側はバスの待機所らしく,10台くらいのバスが止まっている。豊国廟へお参りする観光バスかと思ったが,これは京都女子学園用の「プリンセスライン京都」のバスらしい。

なぜ広々としたここ太閤坦に豊国神社を再建しなかったのでしょうか?

石畳の先に拝殿が構える。割拝殿のようで,真ん中を通り抜けるとそこから山頂に向かって長い石段が続いています。
拝殿から奥は有料です。拝殿横の豊国廟神札授興所で,百円を納めて登拝券をいただきます。授興所が閉まっている場合は拝殿奥の入り口に設置されている志納金箱へ納める。

授興所の奥には、秀吉の側室・松の丸殿と、秀頼と側室との子,即ち秀吉の孫にあたる国松の五輪塔があります。



拝殿周辺に注意書きが掲示されている。拝殿から奥の階段には灯りが無い。遅くなると真っ暗な中を降りなければならない。そのうえ,イノシシにサルとくれば・・・クマともご対面しそうだ。

拝殿を通り階段を登ります。この階段は,女坂にたいして男坂と呼ぶとか。確かに,女性や年配者にはキツイかも。俺も年配者だが,頑張った。上方を見れば折れそうになるので,下の段面だけみながら黙々と登る。階段が終わり石畳の参道が続き,その先に門が見えます。階段を振り返れば,長い急階段が続いている。イノシシが現れたら転げ落ちるしかない。この階段はロケによく使われるそうです。斬られた悪役が転げ落ちる・・・。

門は豊臣家の家紋・五七の桐が刻まれた神門。ここまでまだ階段の半分です。神門の先に後半部分の階段が続き,上部は明るくなっているので頂上部分と思われます。また俯きながら黙々と登るしかない。前半より階段幅は狭く,樹木に覆われ日中でも薄暗い。灯りが無いので日没までには降りなければならない。私以外誰もいてないので心細い。天下の秀吉のお墓といえど,好んでこの階段を登ろうとする人はいないだろう。私もこれが最初で,最後です。

この階段の段数ですが、豊国神社のパンフでは565段の石段と書かれ、登拝券裏には「正面の階段489段」とあります。私が数えたところ、神門までの前半が313段、そこから上の後半部分が172段で、合計485段です。山頂部の石の玉垣前に3段あるので、登拝券裏の489段に近い(誤差は私の数え間違えか)。さらに詳しくいえば、石の玉垣の奥の五輪塔前に7段あります。565段というのは、大鳥居前の階段を含めた数と思われます。

やっと山頂にたどり着く。それほど広くない平坦地に,石の玉垣に囲まれ大きな五輪塔が建つ。何の案内板も無く、桐の紋がなければ秀吉の墓だとは分からない。
阿弥陀ヶ峯は京都市外を見下ろせる位置にあるのだが、木々が生い茂り眺望はあまりよくない。わずかに京都の街が見えるだけ。

門が閉まっているので玉垣の中には入れないかと思いきや、右奥の柵の一部が切り取られ、入れるようになっている。
五輪塔は高さ三丈一尺(約9.4m)。明治30年(1897)、太閤坦、豊国廟修復整備の時に建てられた。

階段を降り帰途につく。大鳥居から西へ続く坂道を見下ろしながら撮った。

京阪・七条駅まで徒歩30分以上かかる。もはや歩く元気もありません。京都女子学園の校舎が見え,その傍にバス停があります。バスを利用しました。



詳しくはホームページ

三十三間堂界隈ブラ歩き 2

2019年04月02日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2019年1月4日(金曜日)
三十三間堂界隈には見所がいっぱい。京都国立博物館を中心に、三十三間堂・法住寺・後白河法皇法住寺陵・養源院・智積院・妙法院・豊国神社が建ち並ぶ。そして豊臣家滅亡のきっかけとなった梵鐘のある方広寺もあります。今回は、法住寺・後白河法皇法住寺陵・養源院・智積院の紹介です。

 法住寺(ほうじゅうじ)  



南大門を潜ると、最初に右手に出会うのが法住寺。「大根焚き」やら「身代不動尊」やら、賑やかな表門です。脇に「後白河天皇陵」「親鸞聖人そばくひ御木像」の石柱が見える。
「法住寺」という寺は、平安中期に太政大臣・藤原為光が妻と娘の菩提を弔うために建立したが焼失してしまっていた。その後、いつの頃か後白河天皇陵を守る寺が創建され、法住寺殿跡地に因み「法住寺」とされた。一時、秀吉の造った方広寺に含まれたが、徳川期になり妙法院門跡が重要視されてくると、その「院家」として扱われ、妙法院の歴代法親王(門跡)の墓所も法住寺の境内に後白河天皇陵と並んで置かれた。
法住寺はその後、後白河天皇陵と妙法院歴代法親王の墓を守る寺として存続してきたが、明治維新政府の廃仏毀釈により後白河天皇陵と法親王墓が宮内省所管に移され寺から分離される。そして法住寺は「大興徳院(大興院)」と改称する。かっての「法住寺」の名に戻されたのは昭和30年(1955)です。

賑やかな表門の手前に、もう一つ竜宮城のような門がある。「竜宮門」と呼ばれています。

竜宮門に入る道のど真ん中に「旧御陵正門」と刻まれた石柱が置かれている。後白河天皇の御陵がこの法住寺の真裏にあり、かってここが御陵への入口だったそうです。後白河天皇陵は、現在は宮内庁管理となり、法住寺とは分離されたので門だけ残された。どうしてこんな門形に・・・?

境内は狭く、本堂だけが建つ。平成になって改修されたので新しい。本尊である不動明王像が祀られています。「身代不動明王(みがわりふどうみょうおう)」と呼ばれ親しまれている。
寺のサイトには「法皇さまが法住寺殿に住まいしておられる時、法住寺合戦で木曽の義仲が院の御所に攻め入ったとき、法皇さまがあやうく命を落とされるところを当時の天台座主の明雲大僧正が敵の矢に倒れ、法皇さまが難をのがれることができましたが、この時法皇さまは、「お不動さまが明雲となって我が身代りとなってくれた」と、とめどなく涙をこぼされたという話が伝えられています」とあります。

あらゆる災厄から身代わりとなって護ってくれるありがたいお不動さんです。赤穂の大石内蔵助(1659-1703)も、潜んでいた山科から遊郭へ通う道すがらこのお不動さんに度々訪れ、討ち入り直前には参拝し大願成就を祈願したという。その縁から堂内には赤穂浪士四十七士全員の小さい木像が安置されている・・・ハズだが見つけられなかった。討ち入りのあった12月14日には「義士会法要」が行われ、討ち入りそばが振舞われるそうです。

本堂の裏は墓場です。すぐ左横が後白河天皇の御陵となっている。
漫画『サザエさん』の作者・長谷川町子さんは先代住職と親しかった縁で、この法住寺を菩提寺とされている。町子さんの遺骨の一部が分骨されているそうです。墓場を大雑把に探したが、これも見つけられなかった。





 後白河天皇法住寺陵  



法住寺の真裏に後白河天皇陵があるのだが、その入口がわかりにくい。法住寺表門のすぐ北側に細い路地が見える。ここが入口のようで、宮内庁の「お知らせ」板が掛かっているので、それが目印です。
長い間、法住寺の境内であり、法住寺が管理し守護してきた。それが明治初期、宮内省所管に移され法住寺から分離された。そして急遽、陵域を塀で囲い、細い路地を造り参道としたものと思われます。

後白河法皇が建久3年(1192)66歳で没すると、その遺命に従い法住寺の法華堂に葬られた。三十三間堂の千体千手観音が向いている方向、即ち蓮華王院(三十三間堂)のすぐ東側に位置している。

宮内庁が「後白河天皇法住寺陵(ほうじゅうじのみささぎ)」として管理し、陵形は「方形堂」としている。
中央に切妻造り本瓦葺、正面3間の法華堂が建つ。この仏堂の床下地中に石槨が埋められているという。幕末に法住寺陵が後白河天皇の御陵ではないと唱えた学者が現れたとき、当時の住持が御陵の真下を掘ったところ記録どおりに天皇の遺骨を納めた石櫃が見つかったと云われている。
堂内には僧形の「後白河天皇法体坐像」(82.7㎝)が安置されている。鎌倉中期の寄木造り,玉眼入り。

後白河天皇法住寺陵の南側に接して、即ち法住寺の墓場の一角に食い込み、フェンスで囲まれた領域が見える。いくつか宝筐印塔(五輪塔?)が並んでいます。これが妙法院の歴代門跡法親王のお墓です。法住寺は江戸時代から妙法院に属し、門跡法親王のお墓が法住寺境内に設けられた。しかし後白河天皇法住寺陵と同様に、明治初期に分離され宮内省所管に移されたのです。
法住寺陵の制札には、七人の妙法院歴代門跡法親王の名が列記されています。

 養源院(ようげんいん)  



後白河天皇法住寺陵の入口からさらに北へ進むと養源院(ようげんいん)の山門が現れる。

戦国武将・浅井長政と織田信長の妹お市との間に生まれ、戦乱の世に翻弄され数奇な運命に見舞われた三人の娘「茶々(ちゃちゃ)、初(はつ)、江(ごう)」は「浅井三姉妹」として、小説、ドラマなどでよく知られている。ここ養源院はその浅井三姉妹と縁の深いお寺です。

豊臣秀吉の側室となった長女の淀殿(幼名・茶々)は、文禄3年(1594)に父・長政の二十一回忌にあたりその菩提を弔うため秀吉に懇願して養源院を創建した。「養源院」という名は浅井長政の院号からきている。

三女のお江は秀吉の政略結婚に利用され、後の2代将軍徳川秀忠へ嫁がされる。秀吉の死後、豊臣方と徳川方の対立から淀殿とお江は敵対関係におかれてしかう。次女のお初は和解させようとに努力するがかなわず、元和元年(1615)大阪夏の陣で、家康・秀忠の大軍に攻められ大阪城は落城し、淀殿は息子・秀頼とともに自害した。翌年(1616)5月、お江はここ養源院で姉の淀殿と秀頼の菩提を弔ったのです。
元和5年(1619)、養源院は落雷による火災により焼失します。しかしお江の懇願によって元和7年(1621)に再建されました。それ以後、徳川氏の菩提所となり,徳川歴代将軍の位牌を祀っている。

本堂(重要文化財)に入ります。履物を脱いで上がり、拝観料500円支払うと住職さんが堂内へ案内してくれます。
拝観・開館時間:9:00~16:00、
拝観料:500円
休日:年末、1, 5, 9月の各21日午後

写真が撮れないので説明するのが難しい。以下の写真は当院発行の小冊子「養源院と障壁画」からお借りしたものです。

俵屋宗達筆による杉戸絵「波と麒麟図」(重要文化財)
最初に案内されるのが拝観受付奥の幅広い廊下。長さは10mほどで短い。廊下には10人位が集まっていた。私が加わると黒衣をまとったおばさん(ご住職さんの奥様でしょうか?)が説明を始めます。説明慣れをなされているのでしょう、ユーモアを交えながら分かりやすくお話される。最初に廊下の両端の杉戸に描かれている俵屋宗達の絵を説明してくださる。入口近くの杉戸に描かれている「この動物は何でしょう?。ヒントはビールです」「ハイ、キリンです」といった調子。

俵屋宗達筆による杉戸絵「白象図」(重要文化財)
奥側の2枚は「白象図」(重要文化財)。一部テープの解説に。途中、さらに拝観者がやってくるので忙しいのです。







杉戸絵の説明が終わると、次は当寺自慢の「血天井」の説明に。黒衣おばさんは、皆を一箇所に集め、立ち位置と向きを細かく指示される。窓のカーテンを閉めるが、それでも少し明るいので板戸を半分ほど閉める。2mほどの棒で天井のある部分を指し示しながら、ここが自害された鳥居元忠の頭、胴、腕、脚・・・と解説してくれる。なるほど、言われてみれば変色した血痕の跡にようにも見えなくもない。

この本堂は、焼失後の元和7年(1621)にお江によって伏見城の「中の御殿」を移築して再建されたものです。
関ヶ原の合戦の直前、慶長5年(1600)7月に「伏見城の戦い」があった。徳川家康に伏見城の死守を命じられた
鳥居元忠率いる1800人は、石田三成が率いる4万の軍勢に攻められる。10日間城に立て籠もり必死に防戦した。最後まで残った鳥居元忠以下380余名の兵士は「中の御殿」に集まって自刃し、伏見城は落城した。その亡骸は真夏の2ケ月間放置され、床板に染み付いた血痕はいくら洗っても削っても消えなかったという。家康は元忠らの菩提を弔うためその床板を「決して床に使ってはならぬ」と命じ幾つかの寺に分け与えた。養源院本堂の廊下の「血天井」もその一つです。

廊下についての説明は無い。「うぐいす張りの廊下」ってここですか?、と訪ねると「そうです」と。「血天井」の下が「うぐいす張りの廊下」ということだ。確かに、歩くと軋んで音がするような・・・気がする。俺の田舎の実家はもっと大きく鳴いてくれる・・・。
左甚五郎が作り、大泥棒・石川五右衛門が引っかかったという役者の揃った廊下なのだが、お寺は控えめです。当院発行の小冊子「養源院と障壁画」にも載ってない。

次は「牡丹の間」の中へ案内される。中央は地蔵菩薩、金雲の中に牡丹の折り枝だけを散らした奥の襖絵は狩野山楽の描いたもの。伏見城から移築されたもので、秀吉の学問所だった部屋です。

写真は、左より崇源院(お江)の位牌、浅井長政の位牌、仏壇羽目板の唐獅子図(当院発行の小冊子「養源院と障壁画」からお借りしたものです)
次は位牌のある間に案内され、10体ほどの位牌がケースに入れられ立てられている。位牌は非公開で見れないが、3枚の位牌写真が置かれていた。崇源院(お江)と秀忠の位牌には「菊」「葵」「桐」の3つの紋が彫られている。それぞれ皇室、徳川家、豊臣家を象徴する紋です。
養源院は、2代将軍徳川秀忠の正室となっていた崇源院(三女・お江)により再建され、その後徳川家の菩提所となり、2代将軍秀忠から14代将軍家茂までの位牌が安置されています。また崇源院(お江)と秀忠の子・和子が後水尾天皇の中宮として入内し、次期天皇を生んだことから皇室との縁もできる。「桐」は養源院を創建したした淀殿(幼名・茶々)の豊臣家の紋。購入した冊子を入れる紙袋には「豊臣・徳川和合の寺」と書かれていました。
仏壇下の羽目板に描かれた狩野山楽の唐獅子図3面。京都府指定の有形文化財
養源院に、浅井三姉妹の母・お市の方の供養塔があるという情報を得ていたので、本堂に入る前に境内を探し回ったが見つけられなかった。本堂の見学を終え出るとき、「お市の方の供養塔はどこですか?」と尋ねると、本堂の横を指され、「公開していないので柵で閉じられているが、見学なさっていいですよ」とおっしゃる。
本堂の横にまわると、柵で閉じられ「許可なく入らないで下さい」とある。さっき了解を得たので、柵を越えて入った。

供養塔らしきものが3基ありました。しかし梵字以外に何も目印がないので、どれがお市の方の供養塔なのか判らない。さっき玄関で「お市の方の供養塔ってわかりますか?」と尋ねたら、「判るとおもいますよ」との返事だったのだが、案内もないのでどれか判るはずもない。とりあえず3基とも写真を撮って帰りました。
帰宅後、購入した小冊子「養源院と障壁画」を見ると写真が載っていたので判明した。
 (上の写真)手前にあるのがお市の方の供養塔
 (下の写真)一番奥が崇源院(お江)石塔墓

 智積院(ちしゃくいん)  



養源院から次の智積院(ちしゃくいん)へ向う。智積院は法住寺と養源院の東側に広大な敷地をもったお寺。一度七条通りに出て、京都国立博物館に沿って東へ歩く。正面突き当たりに見えるのが智積院の総門(そうもん)です。白い幔幕に、寺の紋章である「桔梗花型」が。京都には沢山の神社仏閣があるが、総門が通りの突き当たりにあるのは八坂神社とここだけ。
智積院は天和2年(1682年)に火災に遭うが、その再建時に東福門院の旧殿の門を移築したのがこの総門。

智積院の歴史を見てみます。
真言宗の僧・覚鑁(かくばん,1095-1143、興教大師)が大治5年(1130)、大伝法院を高野山に創建する。保延6年(1140)、教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、大伝法院を紀州・根来山(ねごろさん、現在の和歌山県岩出市)に移して新義真言宗を打ち立てた(根来寺)。最盛期の戦国時代には、所領70万石、坊舎2700余り、約6000人もの学僧たちを擁し、強い勢力をもっていた。智積院は、南北朝時代にこの大伝法院の塔頭として建立された寺で、根来山内の真言教学の学問所として隆盛していた。

天正13年(1585)、根来山大伝法院の強い勢力を恐れた豊臣秀吉により攻められ、全山炎上し堂塔のほとんどが灰燼に帰してしまった。智積院住職の玄宥(げんゆう)は、秀吉の根来攻め直前に弟子達と共に高野山に逃れ、さらに京都・醍醐寺,高雄山,洛北北野の仮堂と移り智積院の再興をめざす。
秀吉は死に、関ヶ原の戦い(1600年)で徳川家康が勝利すると、秀吉を祀っていた東山の豊国神社の土地と建物の一部が玄宥に与えられ、智積院はようやくここに再興した。
なお紀州・根来寺は、その後も残った僧侶によって護持され、現在は新義真言宗の総本山となっている。

元和元年(1615)大阪城が落城し豊臣氏が滅ぶと、隣にあった豊臣家ゆかりの祥雲禅寺(しょううんぜんじ)が与えられた。祥雲寺は、秀吉が3歳で亡くなった愛児・鶴松(棄丸)の菩提を弔うため天正19年(1591)に建てた寺だった。こうして智積院は寺域をますます広げ、正式名称も紀州根来山当時のものを使い「五百佛山 根来寺 智積院」(いおぶさんねごろじちしゃくいん)とした。

江戸時代には、真言密教の学問寺として多くの寮舎が建ち、数多くの僧侶たちが集まる大規模な寺院として隆盛した。しかし明治に入り、ここ智積院も廃仏毀釈の嵐に遭い、多くの堂舎が取り壊された。規模は縮小されたが、現在、真言宗智山派三千末寺の総本山となっている。

総門前の東大路通りを南へ行くと智積院の入口です。入口すぐ横にあるのは拝観受付でなく、朱印所です。紛らわしい。
拝観受付は冠木門を潜った更に先です。冠木門(かぶきもん)とは、両柱に貫(ぬき)と呼ばれる木を通しただけで屋根を持たない門のこと。







最初に講堂、大書院、名勝庭園へ行きます。智積院の境内は無料で自由に見学でき、金堂や明王殿、大師堂なども無料で中に入り拝観できる。しかし講堂、大書院、名勝庭園、宸殿のある領域と収蔵庫だけは拝観料が必要です。

冠木門を潜り真っ直ぐ行った突き当りが金堂。その参道の中程に左に入る小道があり、その先に講堂などへ通じる門が見える。その門の手前に拝観受付があります。
 拝観受付時間: 午前9時 ~ 午後4時
 拝観料: 一般 500円 高中校生 300円 小学生 200円
   ※団体割引(それぞれ20人以上)50円引き
   ※12月29日,30日,31日はお休みとなります。

門の先にある講堂は、真言密教の重要な儀式である灌頂の道場や檀信徒の廻向道場、また各種研修会などで使用されている。焼失した旧講堂に代わり、平成4年(1992)の興教大師850年御遠忌記念事業として計画し、平成7年(1995)10月に完成したのが現在の建物。

講堂の右側に周ると名勝庭園が見えてくる。

講堂の裏を進むと大書院の玄関があり、履物を脱いで上がる。広い大書院に入ると眩いばかりの障壁画が目に飛び込んでくる。上段の間には「松に立葵の図」が、後ろの壁には「桜図」と「楓図」が描かれている。それぞれ長谷川等伯、息子の久蔵、そして等伯の作です。ただし本物は
収蔵庫に保管され、ここで目にするのは複製品。なので大書院内部は写真撮り放題です。

大書院の前に広がる庭園は、桃山時代に造られた庭園で国の名勝に指定されている。小掘遠州の作庭といわれ、
中国の廬山を模して築山を造り、その前面に「長江」をイメージにして池が造られている。池は寝殿造りの釣殿のように縁の下まで入り込んでいる。
この庭園の特色は、山の斜面に石組みと球形の植込みが配されていること。それによりより雄大な立体感を演出している。丸く球形に刈り込まれた植込みはサツキで、色鮮やかな花を咲かせる5~6月頃が見頃だそうです。

講堂の背後は、大書院、宸殿、奥書院、本坊、大玄関が廊下で繋がっている。廊下は複雑に入り組み、迷路のようで、今どこに居るのか分からなくなってきます。廊下はどこもピカピカに磨かれている。葺き掃除している若い僧侶の姿が目にうかんできます。これも修行なのでしょう。

ここは大玄関で、東大路通りに面した総門とつながっている。総門は、住職の就任時と退任時だけに使われ、通常は通ることができない。
桔梗紋が智積院の寺紋ですが、その由来は加藤清正からきているそうです。秀吉は3歳で亡くなった愛児・鶴松を弔うため祥雲禅寺の建立を加藤清正に命じた。清正は立派にその役目を果たしたので、清正の家紋だった桔梗紋が祥雲禅寺を引き継いだ智積院でも使われたという。

大書院、講堂から外に出ます。拝観受付所の横に収蔵庫が建っている。国宝の障壁画を保管展示するため昭和46年(1971)に建立された。国宝の障壁画を保管した拝観料500円の中にこの収蔵庫への見学も含まれている。講堂、大書院も同様ですが、収蔵庫に入るのに特に”もぎり”のような方はおられない。拝観者の良識を信じておられる。
入口に近づくと、自動ドアが左右に開き、履物を脱ぎ下駄箱にあずけ、さらに次のドアから入る。中は一室で、四辺に配されたガラス越しの国宝障壁画を鑑賞するようになっています。入口傍のボタンを押せば、ガイダンス音声が流れます。

収蔵庫には、桃山時代に主流だった狩野派に対抗し、独自の画風を確立した長谷川等伯(1539-1610)一門の筆による数々の国宝障壁画が保管展示されている。元は秀吉の建てた祥雲禅寺の客殿を飾っていた作品ですが智積院に引き継がれた。なかでもかって大書院にあった「楓図」「桜図」は日本の障壁画を代表するもの。
障壁画の一部に不自然な継ぎ目があるのは、客殿が天和2年(1682)に全焼した時に助け出され、残った画面を継ぎ合わせたためという。

左の写真は<真言宗智山派宗務庁発行の小冊子「私たちの真言宗智山派と総本山智積院」より>
長谷川等伯の長男・久蔵(1568-1593)の25歳の作とされる「桜図」(国宝)です。「金箔をふんだんに使った絢爛豪華(けんらんごうか)な色彩を背景に、力強い桜の大木を描き、そして絵の具を盛り上げる手法を用い、桜の花びらの一枚一枚を大胆に表現しています。まさに花びらの中から、長谷川等伯の子・久蔵の若さ溢れる情熱が眼前に迫ってくるかのようです。久蔵が二十五歳の時の作といわれています。しかし、残念なことに久蔵はこの翌年亡くなりました。」(公式サイトより)

長谷川等伯(1539-1610)の「楓図」(国宝)<拝観受付で頂けるパンフより>。
「「桜図」の完成の翌年に亡くなった息子久蔵の突然の死を悲しみ、創作意欲を失いかけましたが、息子の分まで精進しようと自分を鼓舞し、楓図を描き上げたといわれます。桜図と同様な豪華さで楓の古木が枝をいっばいに広げ、その下には様々な草花がみごとに配されています。息子の死という悲痛な思いを乗り越えた力強さと、落ち着いた秋の雅が感じられる等伯五十五歳の時の作品です。」(公式サイトより)

智積院の中心伽藍となる金堂。宝永2年(1705)に建立された金堂ですが、明治15年(1882)に焼失してしまう。
昭和50年(1975)、宗祖弘法大師のご生誕千二百年の記念事業として再建されました。毎朝の勤行、総本山としての多くの法要はここで厳修されます。
この金堂には本尊の大日如来が祀られ、正面の扉が開放されているので拝観できます。この大日如来像も昭和50年の再建時に造顕されたので金ピカに輝いている。これは金剛界大日如来で、実は地下にも部屋があり、胎蔵界大日如来が祀られているそうです。真言密教の金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅の両世界によるもの。

金堂へつづく道の両側には、智積院のシンボルの桔梗が植えられているそうです。花の咲く夏から秋にかけて、どんな景観をみせてくれるのでしょうか。

<本堂(左)と明王殿(右)>
金堂と並んで建つのが、紀州・根来寺伝来の不動明王を祀る明王殿(みょうおうでん)。不動堂とも呼ばれます。「明王殿は、昭和22年(1947)の火災により仮本堂であった方丈殿が焼失した際に、明治15年に焼失した本堂の再建のため、京都四条寺町にある浄土宗の名刹、大雲院の本堂の譲渡を受け、現在の講堂のある場所に移築した建物です。その後、平成4年(1992)に、講堂再建にともなって現在の場所に移築されております。」(公式サイトより)



金堂から北側の領域に入ります。最初に出会うのが大師堂。寛政元年(1789)の建立。真言宗開祖の弘法大師空海の尊像が安置されている。この尊像は東寺御影堂の大師像を参考にして造られたものだそうです。







これは求聞持堂(ぐもんじどう)。「文殊堂、護摩堂ともいう。嘉永4年(1844)に建立されました。本尊は虚空蔵菩薩で、お前立ちに不動明王を祀っている」と説明されている。










智積院の元になる紀州・根来寺を創り新義真言宗を打ち立てた覚鑁(かくばん,1095-1143、興教大師)の尊像を安置する密厳堂(みつごんどう)です。寛文7年(1667)の建立で、開山堂ともいわれる。







詳しくはホームページ

三十三間堂界隈ブラ歩き 1

2019年03月16日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2019年1月4日(金曜日)
正月4日、初詣のつもりではないのですが、京都・三十三間堂に行ってみたくなった。昨年末、三十三間堂を紹介するテレビ番組を見たからです。その中で、奈良の大仏にまさるとも劣らぬ大きさの大仏さんが、近くに建造されていた、ということを知りました。初めて知ったことで、非常に興味が湧いたのです。
調べてみると、三十三間堂界隈には見所がいっぱい。京都国立博物館を中心に、三十三間堂・法住寺・後白河法皇法住寺陵・養源院・智積院・妙法院・豊国神社が建ち並ぶ。そして豊臣家滅亡のきっかけとなった梵鐘のある方広寺もあります。
今年のお出かけウォーキングの1回目として、天気快晴の4日に京都へ。

 法住寺殿  



1:蓮華王院(三十三間堂)、2:法住寺>、3<後白河天皇法住寺陵、4:養源院、5:智積院、6:妙法院、
7:方広寺、8:大仏殿跡緑地、9:豊国神社
A:京阪電車・七条駅、B:京都国立博物館

(妙法院門跡発行の小冊子「国宝三十三間堂」より)
上のGooglMapに見える三十三間堂界隈は、平安時代に後白河上皇が院政御所として造営した「法住寺殿」を起源としている。
-*-*-*-*-*-*-「法住寺殿」の歴史-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
鴨川の東は,平安京としては洛外で辺鄙な地帯だった。平安中期の永延2年(988)、藤原道長の叔父太政大臣・藤原為光が妻と娘の菩提を弔うためにこの地に法住寺を建てた。しかし焼失し,その後再建されないままだった。

後白河天皇は即位の翌年,久寿2年(1155)正月,この地に行幸して大いに御感あり,譲位後の院御所とすることとされた。保元3年(1158)、後白河天皇は在位3年足らずで譲位し、上皇となると譲位後の居所としてこの地に御所の造営を図る。永暦元年(1160)新日吉,新熊野の両社を鎮守として招聘し,御所の造営を始めた。御所は、旧来の地名にちなみ「法住寺殿」と呼ばれた。永暦2年(1161年)からはここを住居とし、以後30年間,五代の天皇にわたり政治の実権をにぎり院政を行った。

法住寺殿の領域は広大で,東は阿弥陀峯山麓から西は鴨川の河原まで広がっていた。宗教施設からなる南殿は現在の智積院全域,政治施設が置かれた北殿は現在の国立博物館,豊国神社,妙法院を含む地域。

長寛2年(1164)には、御所の西側に千体千手観音像を安置する巨大な仏堂(蓮華王院,三十三間堂)が平清盛の寄進で造立された。嘉応元年(1169)には出家して法皇となる。安元2年(1176)、後白河上皇の女御・建春門院(平滋子)が亡くなると、女御の御陵として南殿に法華堂が建てられた。

後白河上皇と平家の権勢によってますます盛大を極めた法住寺殿であったが,平清盛の死去2年後の寿永2年(1183)、木曽義仲の軍勢が法住寺殿を襲い火がかけられた(法住寺合戦)。上皇は六条西洞院の長講堂に移りそこで生涯をおえる。建久3年(1192),66歳で崩御すると、焼失した法住寺殿の敷地に新たに法華堂がつくられ葬られた。それが現在の後白河天皇陵です。

現在、かっての「法住寺殿」の遺構は三十三間堂と後白河天皇陵しか残っていない。この法住寺殿のあった地には,その後秀吉の時代にかけて法住寺,養源院,智積院,妙法院,方広寺,豊国神社が建てられた。

京阪電車・七条駅を降り、地上に出ると七条通りです。西には鴨川にかかる七条大橋が見える。
七条通りを東へ向って歩く。突き当りが智積院で、その手前右側に蓮華王院(三十三間堂)が、左手に京都国立博物館が位置している。

京都国立博物館は独立行政法人国立文化財機構が運営する博物館。東京に次いで、明治30年(1897)5月にレンガ造りの旧本館(明治古都館、重要文化財)が開館し、2013年には新館(平成知新館)が建てられた。主に平安時代から江戸時代にかけての京都の文化を中心とした文化財を、収集・保管・展示するとともに、文化財に関する研究、普及活動を行っている。平常展示のほかに特別展が1年に2~4回行われている。

 三十三間堂へ入口(普門閣)  



三十三間堂への入口は、七条通りから赤十字血液センターの場所で南の道に入るとすぐです。車の出入り口でもあるので注意が必要。

塀の中は駐車場が広がっている。瓦葺白壁の建物が、駐車場と三十三間堂の境内を区切っている。この建物は「普門閣」と呼ばれ、平成になってから参拝受付・管理棟を兼ねて建立されたものです。細長い平屋の造りは三十三間堂をイメージさせます。

普門閣の中央辺りに拝観受付があり、その横から境内に入ります。9時前なのでまだ入れません。

開門時間:8時~17時(11月16日~3月は9時~16時) 年中無休、受付終了は30分前
拝観料:一般600円・高校中学400円・子供300円(25名様以上は団体割引)
電話番号: TEL (075)561-0467
公式サイト:蓮華王院 三十三間堂

 境内図と歴史  



(拝観受付で頂けるパンフより)
所在地 京都府京都市東山区三十三間堂廻(まわり)町657番地
正式名 蓮華王院(れんげおういん)、その本堂が「三十三間堂」と通称されます。
別称 三十三間堂
山号 (南叡山妙法院に所属する仏堂につき山号はなし)
宗派 天台宗
本尊 千手観音
創建年 長寛2年(1164年)
開基 後白河天皇
札所等 洛陽三十三所観音霊場第17番

蓮華王院(三十三間堂)は独立した寺院ではなく、天台三門跡の一つである妙法院の境外仏堂であり、同院が所有・管理している。

-*-*-*-*-*-*-「蓮華王院(三十三間堂)」の歴史-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
平安末期、法住寺殿で院政を行っていた後白河上皇は何度も熊野詣を行っている。この熊野参籠の折,上皇は千手観音を感応したという。ここから上皇の千手観音信仰が始まった。当時は末法の世とされ、この末法の世から救われるために多くの造寺造仏が行われていた。長寛2年(1164)、御所の西側の一画に,当時権勢を誇った平清盛に命じ千体千手観音像を安置する巨大な蓮華王院本堂(三十三間堂)を建立します。上皇の信任をとりつけ,権勢を増すため平清盛は所領備前国の資材を提供したといわれる。千体仏像も蓮華王院の落慶供養に間に合うように造られた。
嘉応元年(1169)、後白河上皇は出家し「行眞(ぎょうしん)」と名乗り法皇となる。平清盛の死去2年後の寿永2年(1183)、木曽義仲の軍勢が法住寺殿を襲い火がかけられた(法住寺合戦)。蓮華王院はかろうじて戦火をのがれたが,法皇は六条西洞院の長講堂に移り、建久3年(1192)66歳で崩御する。

後白河上皇や平清盛がすでに世を去り、栄華を誇った平氏も壇ノ浦で滅んだ1185年、京都一帯を襲った大地震により蓮華王院も被害を受ける。建久元年(1190)上洛した源頼朝が再建に尽力し,ほぼ再建が完了したと思われる建長元年(1249)3月,こんどは洛中をおおう大火となり,蓮華王院にも飛び火し,三十三間堂や五重塔、多くの仏像、伽藍が焼失してしまう。焔の中,本尊の御首と左手,千体仏のうち156体と二十八部衆がやっと取り出された。
文永3年(1266),後嵯峨上皇により本堂のみ再建され,これが現在の三十三間堂です。当時は朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られていたという。焼失した870体ほどの仏像はこの頃から16年かけて再興された。運慶、快慶などの名が残されているという。
室町時代も修理が続行された。「室町期・足利第六代将軍義教により本格的な修復が行なわれます。彼は仏門に入って義円と名のり,、比叡山・天台座主を勤めたが,兄義持の後を継ぐことになり還俗し,永享元年(1429)に足利第六代将軍に就いた。そして蓮華王院の大修理を敢行した。京洛の禅寺に修理の寄付勧進を命じて、修理は屋根瓦の吹き替え,内々陣須弥壇,中尊・千体仏,二十八部衆像などと5ケ年を費やし内外両面の整備を行ったのでした。」(公式サイト)
その後,応仁の乱(1467ー1477)で京都は焦土と化すが,三十三間堂は奇跡的に戦火を免れた。そして洛陽三十三箇所観音霊場として庶民の信仰を集める。

豊臣秀吉の時代になり,この地が交通の要所だったことに目を付け三十三間堂の北隣に方広寺(ほうこうじ)を建立し,奈良の大仏をもしのぐ大仏殿を造営することになった。大仏殿は天正14年(1586)着手され,文禄4年(1595)に完成し,秀吉の亡父母のために千僧供養が行われた。蓮華王院も方広寺の境内に組み込まれ,手厚い庇護を受け修理と境内整備が続けられた。秀吉の死後もその意志を継いだ秀頼の代まで続いた。千体像は慶長5年から9年まで,二十八部衆は同10年に,すべて大仏師康正が秀頼の下命により修復した。境内整備も行われ,境内の南と西に練土塀を築き,大仏殿の真南にあたる箇所には南大門を,西塀のうち七条通りには西大門を築いた。この築地塀が「太閤塀」と通称され,現在南大門から西端まで92m,高さ5.3mが残っている。
江戸時代には、3代将軍徳川家光によってさらに建造物、仏像の修理が行われた。お堂の正面中央に7間の向拝が設けられたのもこの時です。

戦前から戦後にかけても,順次修理が行われてきた。南大門の修理,千手観音一千一体の修理,太閤塀の修復,西側築地塀の構築,東側廻廊塀,東大門など。さらに鐘楼,普門閣が建てられた。
戦後も木造千手観音立像1001体全ての保存修理が行われ、45年後の平成29年(2017)12月に完了する。
翌平成30年(2018)には東京、京都、奈良の国立博物館3館に寄託されていた5体が戻され、1001体全てが勢ぞろいした。そして国宝指定されたのです。

 蓮華王院本堂(三十三間堂,国宝)  



境内に入ると、北から南に伸びる細長い建物が目に入ってくる。境内で建物らしき建物はこれしかありません。それだけに存在感は圧倒的です。その存在感を公式サイトから紹介すると「朱塗りの外装で、堂内は、花や雲文様の極彩色で飾られたといい、今もわずかにその名残を停めています。地上16メートル、奥行き22メートル、南北120メートルの長大なお堂は、和様、入母屋造り本瓦葺きで、手前からはるか彼方へ一点透視的に漸減する眺めは、胸のすく壮快さです。」

日本で一番長い木造建築です。現在の堂は文永3年(1266),後嵯峨上皇の時に再建されたもの。洛中にある建物の中では大報恩寺(千本釈迦堂)本堂に次いで古く、洛中で鎌倉時代にまで遡る建物はこの二棟のみだという。
南北に細長い本堂の東側が正面です。砂利が敷き詰められ広々とした境内には、その一部に池を配した庭園があります。池端に「此付近 法住寺殿跡」の碑が建ち、説明板が立てられている。後白河上皇が院政を行うため、鴨川の東側の広大な領域に「法住寺殿」と呼ばれる住居兼政庁を造営した。千体千手観音像を安置するために造営された三十三間堂はそのほんの一部でしかない。
南北に細長い建物は、東側から眺めると柱間は35ある。それでは「三十五間堂」では?。堂の中に入ってみるとわかるのだが、北と南の両端一間分は通路となっており、実際に仏像が安置されているのは三十三間の中なのです。ですから通称「三十三間堂」と呼ばれている。寺の正式名称は「蓮華王院(れんげおういん)」で、この建物はその本堂なのです。
正面中央に、幔幕の取り付けられた七間分の出っ張り部分がある。これは「向拝」と呼ばれ、慶安3年(1650)、3代将軍徳川家光の時の修理で設けられたもの。
35の柱間は、左右開閉式の板扉となっている。東側正面は全ての板扉が開けられ、白い障子がのぞく。黒さびた建物と白障子のコントラストがいいですね。

南側から北方向を撮る。正面奥に横たわるのが入口の普門閣。建物の南側は五間で、東側一間だけが板扉で他は連子窓となっている。お堂の周りには広縁がめぐらされている。

 蓮華王院本堂(西側)  



蓮華王院本堂(三十三間堂)の裏になる西側。本堂と西側の樹木の間は、砂利の敷かれた空き地で、ガランとしている。ここが宮本武蔵と吉岡伝七郎との「雪の蓮華王院の決闘」で有名な場所。吉川英治が描いたもので史実かどうかは不明だそうですが・・・。
吉岡一門が武蔵に渡した果し合いの出合い状
場所 蓮華王院裏地
時刻 戌の下刻(夜九時)
淡雪の積もった夜の蓮華王院裏地。吉岡伝七郎は廊下から離れた背の高い松の根元で待つ。武蔵は、待ち伏せを防ぐため寺僧に案内させ、北側の庫裏から扉を開けて三十三間堂の長い縁の端に立つ。長い縁の中程まで進み、縁上の武蔵、地上の伝七郎が睨みあう。武蔵は飛び降り、一瞬のうちにケリはついた。伝七郎の巨体は、後ろへよろめき真っ白な雪しぶきに包まれた。周辺に潜んでいた吉岡一門の連中が飛び出してくる。武蔵は相手を睨みつつ縁端に上がり北の角まで歩き、「忽然と蓮華王院の横へと影を消してしまった」という。
これが吉岡一門との最後の決戦「一乗寺下がり松の決闘」の前哨戦なのです。

北側から南方向を撮る。この場所は、武蔵以上に「通し矢」で有名。
(上は境内の案内板より。右の「通し矢」の浮世絵画像は妙法院門跡発行の小冊子「国宝三十三間堂」より)
「通し矢(とおしや)」とは、本堂西側の縁で、南の端から120m離れた北端まで軒下を弓で射通すこと。強く射なければ軒天井に当たってしまい軒下を射通すことができないので、力自慢の武芸者が競った。
桃山時代の天正年間に、今熊野の観音堂別当が射芸を好み,思いつきで「堂通し」をやってみたところ,たちまちに流行したのが始まりという。
矢数をきめて的中率を競う「百射(ひゃくい)、千射(せんい)」等があったが、江戸時代、殊に町衆に人気を博したのが「大矢数(おおやかず)」。夕刻に始め、翌日の同刻まで一昼夜、縁の北端に的を置き、射通した矢数を競い合ったもの。天下の武芸者の栄誉をかけた競争となった。尾張、紀州の二大雄藩による功名争いは、人気に拍車をかけ、京都の名物行事になったそうです。
「通し矢」は明治28年(1895)を最後に行われなくなったが、戦後間もなくの昭和26年(1951)古儀にちなむ大的大会が復興された。1月中旬の日曜日、大法要「楊枝のお加持」と同日に、お堂の西庭で「全国弓道大的大会」と銘うって行われています。ただしかってのような力比べでなく、約60m先の的を射るもの。関西では新年恒例のイベントとして、弓道をたしなむ新成人が振袖袴姿、晴れ着姿で行射する姿がテレビニュースで毎年放映されています。

 本堂(三十三間堂)内部へ  




本堂(三十三間堂)内部への入口は、普門閣から境内に入ってすぐの所にある。履物を脱いで入る。ここからは撮影禁止。以下の仏像写真は、妙法院門跡発行の小冊子「国宝三十三間堂」よりお借りしたものです。




北側から入り、西側の長い拝観通路(外陣)を通って南端へ、そこから内陣背後の通路を通って入口の場所から出る。即ち、堂内は仏像の置かれている内陣を一周する順路となっています。
堂内に入るなり、内陣に居並ぶ仏像の数に驚愕し圧倒される。千体以上の等身大仏像が階段状に居並ぶ様は、まさに壮観というか、異様というか驚くばかり。この内陣の柱間が三十三ある。だから「三十三間堂」なのです。
中央3間に本尊の千手観音坐像を置き、その左右15間に五百体ずつ千手観音立像が並ぶ。一列に50体が並び、十列が階段状に配置されている。位置、角度が計算され、全ての仏像の顔が拝めるようになっているのです。本尊の背後に1体あるので、合計1001体の千手観音立像が居並び、前を通る拝観者を見下ろしています。

さらに1000体の千手観音立像の前には二十八部衆立像が並ぶ。ありがたいのか、気味が悪いのか、異様な雰囲気をかもし出している。現在は薄暗く地味は空間だが、建立当初は彩色で覆われ極彩色の文様が描かれていたという。現代感覚で想像すれば、一種異様な世界と思われるが、当時とすればそれが救済の空間だったのでしょう。
これだけ膨大な数の等身大仏像を配置するためには120mもの長い建物を必要としたのでしょう。なお、「蓮華王院」という名は、千手観音の別称「蓮華王大悲観自在」から後白河上皇が命名したものです。

内陣の中央三間分を内々陣とし、本尊の千手観音坐像(国宝)が安置されている。丈六の坐像で,像高が3メートル余(335cm)、台座や光背を含めた全体の高さは7メートルを超える。玉眼,檜材の寄木造りで全体に漆箔が施されている。光背は舟形に雲形や宝樹形を透かし彫りし,さらに観音の「三十三変化身」を透かし彫りで配している。鎌倉期の再建時に、運慶の長男で大仏師湛慶(たんけい)が、同族の弟子を率いて完成させたものです。「42手で「千手・せんじゅ」を表わす通例の像形で、像全体の均整が保たれ、厚ぼったい感じのする一種の張りのある尊顔や、温雅な表情は湛慶の特徴的作風とされ、観音の慈徳を余すところ無く表現しています。84才で亡くなる湛慶が、その2年前に完成した鎌倉後期を飾る代表的作品です」(公式サイトより)

千一体の千手観音立像は、等身大(164~7cm)で桧材による寄木内剥造りの漆箔像。玉眼が五体,その他は彫眼です。光背は頭部を縁どる輪光,台座は八角四重の蓮華座。
「各像は、頭上に十一の顔をつけ、両脇に40手をもつ通形で、中尊同様の造像法で作られています。千体の中、124体は、お堂が創建された平安期の尊像、その他が、鎌倉期に16年かけて再興された像です。その約500体には作者名が残され、運慶、快慶で有名な慶派をはじめ、院派、円派と呼ばれる当時の造仏に携わる多くの集団が国家的規模で参加したことが伺えます」(公式サイトより)

本尊の千手観音坐像と一千一体の千手観音立像は、座っているか立っているかの違いだけで同じ千手観音です。正式名称は「十一面千手千眼観世音菩薩」といい、頭上に十一の顔をつけ、本手2本と脇手40本をもち、これで千本の手を表す。それぞれの手のひらには眼があり、衆生を救うための持ち物(数珠、錫杖、法輪など)をもつ。十一の変化面や千手は、観音菩薩の無限の救済を表し、一切衆生のあらゆる悩苦を救い願いを叶えてくれるのです。

45年間に及ん大修理が終わったのを機に全ての千手観音が平成30年(2018)に国宝指定された。今まで5体が東京、京都、奈良の国立博物館3館に寄託されていたが、この国宝指定をうけここに戻され、一千一体が勢ぞろいした。一千一体一つとして同じ表情のものはないという。「会いたい人の顔をした千手観音像」に出会える、と云われるが、俺には同じに見えてしまう(信仰心が薄いからなのでしょうか・・・)

千体の千手観音立像の最前列に二十八部衆立像が並び、その両端、北端に風神像(国宝)、南端に雷神像(国宝)が配置されている。寄木造、彩色、玉眼で、象高さ1m位と、他の群像と比べてやや小ぶり。鎌倉時代の再建時に造象された日本最古の風神・雷神像で、その後の日本での原型となったもの。建仁寺の俵屋宗達の名画「風神雷神図屏風」(国宝)のモデルになったそうです。

左が阿修羅王像(あしゅらおう、165cm)、右は婆藪仙人像(ばすせんにん、156cm)
最前列に北端から南端まで横一列に並ぶ二十八部衆立像も全て国宝です。各彫像はいずれも桧材の寄木造りで、漆を塗って彩色仕上げされ、眼は水晶がはめ込まれた玉眼となっている。像高は160cm前後の等身大。

二十八部衆は、千手観音の眷属(けんぞく、従者のこと)といわれ、そろって千手観音に供奉し、それを信仰する者を守護する神々。そのため、元々は中央の本尊・千手観音坐像の両脇を取り囲む群像として配置されていたという。昭和初期に、本尊修理のため堂の西裏の廊下に移され、保護フェンス付きの台上に一列に安置された。その後、平成4年に、緊急時の減災と拝観便宜の観点から現在のような配置になったという。

 東大門・法然塔・夜泣泉  



境内の東側は、緑色の連子窓がはめ込まれた回廊塀が南北に貫く。回廊塀の中央には、本堂向拝と対峙する形で東大門がある。単層切妻造り,本瓦葺き。桁行18m,高さ11.6mの五間三戸門。
朱塗りと白壁が鮮やかな東大門と回廊塀は昭和36年建造なのでまだ新しい。本堂(三十三間堂)と対照的です。

回廊塀の前に、極楽往生の信仰を示す「南無阿弥陀仏」の名号が刻まれている碑が建つ。これは「法然塔(名号石,みょうごうせき)」と呼ばれている。傍の説明板には「元久元年(1204)3月、時の土御門天皇が当院で後白河法皇の十三回忌を行った際、請いをうけた法然上人が音曲に秀でた僧を伴って「六時礼讃」という法要を修しました。この碑は、その遺蹟として「法然上人霊場」にも数えられ、いまも参拝する方々があります。上人は”浄土の軽文”を書写し、参集した人々にも紙を分け与えて念仏・写経を勧めたといわれています。刻まれた「六字の名号」は温雅で素朴ながらも力強く、数多の法難をのりこえて念仏に専修した上人の人柄が偲ばれるようです」とあります。

法然塔の近くに手水舎が建ち、井戸が見えます。この井戸は「夜泣泉(よなきせん)」と呼ばれている。説明板によると、お堂創建の翌年(1165)6月の7日、ひとりの堂僧が夢のお告げにより発見したという霊泉で、夜のしじまに水の湧き出す音が人の”すすり泣き”に似ていることから「「夜泣泉」と言われるようになったという。いつの頃からか傍らに地蔵尊が奉られ、その地蔵尊の前掛けを持ち帰り、子供の枕に敷けば”夜泣き”が治るとされ、現在も「夜泣き封じ」の功徳を求める参拝者が続いているそうです。

 「楊枝のお加持」  


三十三間堂は頭痛封じの寺でもあります。1月中旬の日曜日、「全国弓道大的大会通し矢」と同日に大法要「楊枝のお加持(やなぎのおかじ)」が行われる。これは「頭痛封じ」の行事で、本尊の千手観音に祈願した法水を参拝者に注ぎ、聖樹である楊枝(やなぎ)の枝を参拝者の頭上で振って頭痛や病を癒す儀式です。

三十三間堂と頭痛封じについてWikipediaは以下のように記しています。
「三十三間堂について次のような伝承がある。後白河上皇は長年頭痛に悩まされていた。熊野参詣の折にその旨を祈願すると、熊野権現から「洛陽因幡堂の薬師如来に祈れ」とお告げがあった。そこで因幡堂に参詣すると、上皇の夢に僧が現れ「上皇の前世は熊野の蓮華坊という僧侶で、仏道修行の功徳によって天皇に生まれ変わった。しかし、その蓮華坊の髑髏が岩田川の底に沈んでいて、その目穴から柳が生え、風が吹くと髑髏が動くので上皇の頭が痛むのである」と告げた。上皇が岩田川(現在の富田川)を調べさせるとお告げの通りであったので、三十三間堂の千手観音の中に髑髏を納め、柳の木を梁に使ったところ、上皇の頭痛は治ったという。「蓮華王院」という名前は前世の蓮華坊の名から取ったものであるという。この伝承により「頭痛封じの寺」として崇敬を受けるようになり、「頭痛山平癒寺」と俗称された。」


頭痛封じの御守が売られています。真中の紅い「頭痛除御守」には、「お堂の完成により上皇の頭痛が治られたので当院の千手観音様は、殊に「頭痛封じ」に霊験あらたかな仏さまとして信仰され親しまれている」と書かれている。
右側の丸いお守りは、楊枝の枝と秘呪「消伏毒害陀羅尼経」一巻が納められ、とくに効験があるそうです。その分お値段が高いが。




 南大門と太閤塀  



蓮華王院(三十三間堂)から出て東側の道路に出る。道の正面が南大門で、右に三十三間堂の紅い回廊塀が、左に養源院、法住寺が並ぶ。

南大門(みなみだいもん、重要文化財)が車道をふさぐように建ち、車も出入りしている。蓮華王院(三十三間堂)の領域外なので蓮華王院の門とも思われない。どこの門なのでしょうか?。
調べると、かって秀吉が大仏殿の方広寺を建立した時、蓮華王院(三十三間堂)を含めこの地域の広大な領域が方広寺の境内に取り込まれた。その方広寺の南門として建てられたようです。
切妻造、本瓦葺、三間一戸の八脚門。虹梁の刻銘により豊臣秀頼が慶長5年(1600)に新築したものと推測されている。秀頼は西大門も建てたが、これは明治の中頃、京都国立博物館の建設と七条通を更に東に延長さすため邪魔になったので、東寺の南大門として移築された。


南大門の西側に築地塀が見える。豊臣秀吉(太閤)によって寄進された塀で、瓦に太閤桐の文様を用いていることから「太閤塀」と呼ばれています。南大門同様に方広寺建立時のもので、方広寺の南限を区切る塀。西側にも存在していたが、残っているのは南側のここだけ。塀の長さ92m、高さ5.3m、本瓦葺で、重要文化財となっている。




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京都・小倉山 紅葉三景 3

2019年01月08日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2018年11月27日(火曜日)紅葉の季節がやってきた。昨年は京都・東山だったので、今年は京都の西、嵐山周辺に決めていた。嵐山・嵯峨野には多くの紅葉の名所があります。その中で、小倉山の山腹に並ぶように佇む常寂光寺、二尊院、祇王寺を訪れることにしました。最後は祇王寺と滝口寺です。

 祇王寺(ぎおうじ)へ  



二尊院から北に向って数分歩けば、小倉山方向へ入る脇道がある。入口に「祇王寺」の標識があるのでわかります。脇道へ入っていくと祇王寺と滝口寺への入口に達する。拝観受付はもう少し上へ行ったところです。
垣根ごしに見える紅葉がワクワク感をかきたてる。祇王寺の境内は狭いので、ここで見えるのがほぼ全ての祇王寺の紅葉といっていい。

住所:京都府京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町32
正式名:高松山往生院・祇王寺(山号は高松山、院号は往生院)
宗派:真言宗大覚寺派(尼寺)
本尊:大日如来

平安時代、法然上人の門弟だった良鎮(りょうちん)がこの辺りに「往生院」という寺を創建した。数多くの坊が建ち並び、祇王寺はその一院だったという。
往生院は、その後衰退するものの江戸末期まで浄土宗の寺として存続していた。

しかし明治時代に入り、神仏分離令後の廃仏毀釈により往生院は廃寺となってしまう。祇王たちの仏像と墓は旧地頭だった大覚寺によって保管され、跡地も大覚寺が管理した。
大覚寺門跡の楠玉諦師は往生院の復活を計る。明治28年(1895)、平家物語・祇王ゆかりの地と知った当時の京都府知事・北垣国道は嵯峨にあった自らの別荘の一棟(茶室)を寄付、これを本堂として尼寺・祇王寺として復興された。明治35年(1902)には仏像や墓が大覚寺より遷されることになった。
こうした関係から現在の祇王寺は、旧嵯峨御所大覚寺の塔頭寺院であり、真言宗大覚寺派の寺院となっている。

瀬戸内寂聴の小説『女徳』(1963年)のモデルになった高岡智照(たかおかちしょう、1887-1996)で知られる。12歳で花街に売られ花柳界に入り、幾多の変遷を経て1936年に尼僧として無住の祇王寺に入り、荒廃していた寺を再興された。政財界人にもて遊ばされ、そして見捨てられていく・・・、現代の祇王です。

 祇王寺(紅葉・苔・竹林)  



緑苔に散りモミジが美しい茅葺きの小さな山門を潜ると拝観受付です。祇王寺に相応しい情緒をもった入口となっています。

拝観料:大人300円・小人(小中高)100円
  (大覚寺・祇王寺共通拝観券:600円)
拝観時間:午前9時~午後5時(受付終了午後4時30分)

祇王寺は草庵と前庭のあるだけの小さなお寺です。受付のある山門を通り中に入ると、境内全てが見通せてしまう。格式を誇るお寺が多い京都の中では、祇王寺はそれほど由緒のあるお寺ではないのですが、美しい苔庭と紅葉、そして「平家物語」に語られる悲話によって観光名所になっています。

苔庭の片隅に、草庵の門にぴったりな山門が目に付く。つつましやかな小さな門ですが、緑の苔に覆われた藁屋根に彩りをそえる楓の散りようが、なんとも風情のある趣をかもしだしています。これが本来の入口だったのでしょうか。
庭に目をやると、苔の絨毯の上に積もった「散り紅葉」が美しい。苔の緑と紅葉の赤とのコントラストが鮮やかです。

苔庭をぐるりと囲むように小道が設けられ、一周できる。全周200mくらいでしょうか。いろいろな方向から苔と紅葉を鑑賞できます。
庭の一番奥に竹林が広がっている。垣根の奥なので竹林には入れません。苔と紅葉同様に、竹の緑と紅葉の赤との対比が心を打つ。また緑が鮮やかな新緑の時期、苔と竹林の緑の競演も見ごたえありそうです。

小道の一隅に「祇王寺の苔」コーナーが設けられている。見た目は同じように見える苔でも、沢山の種類があるようです。

 祇王寺(草庵)  



祇王寺の建物といえばこの小さな茅葺きの草庵のみです。これが本堂にあたるのでしょうか。明治28年(1895)、当時の京都府知事・北垣国道が自らの別荘を寄付したもの。
手前が仏間で、奥が控えの間。控えの間に見える大きな円窓は「吉野窓」と呼ばれています。受付のパンフには「影が虹の色に見えることから「虹の窓」とも称しています」と書かれている。

手前の仏間には五人の木像が安置されています。中央に本尊大日如来を置き、左に清盛と祇王そして母の刀自、右に妹・祇女、清盛の寵愛を失い祇王を訪ねて尼になった仏御前の木像です(写真では、左端の母刀自は見えていない)。パンフには「祗王、祇女の像は鎌倉末期の作で、作者は不詳ですが目が水晶で鎌倉時代の特徴をよく表しています」とある。
祇王にまつわる哀話は、「祇園精舎の鐘の声」の一節で始まる平家物語の第一巻「祇王」にでてくる。受付で頂くパンフにも詳しく記されています。

平家全盛期だった頃、時の権力者平清盛は白拍子(歌舞を演じる遊女)だった祇王の舞と美貌にひかれ、傍におき寵愛する。そこへ、16歳の仏御前という白拍子が現われます。清盛は、その美しさと見事な歌と舞いに瞬く間に仏御前に心を奪われてしまいました。心変わりした清盛から館を追い出された祇王は世を捨て仏門に入ることを決心します。祇王、妹の祇女、母の刀自の三人は髪を剃って尼となり、嵯峨の山里、今の祇王寺に入ったのです。祇王21歳、祇女19歳、母刀自45歳でした。小さな庵で念仏三昧の静かな日々を送ったのです。
月日が経ったある秋の夜、庵を訪ねる者がいました。剃髪した尼の姿の仏御前でした。祇王と同じ運命になることを感じ、世の無常を思い出家したのです。仏御前はこのとき17歳だった。「四人一緒に籠もって、朝夕の仏前に香華を供えて、みな往生の本懐を遂げた」(パンフより)という。


外から見た「吉野窓」。
左は、草庵の入口近くに置かれた水琴窟。かすかですが涼しげな音を奏でていました。

 祇王寺(宝筐印塔)  



祇王寺の入口と草庵との間に小さな墓域が見える。立て札が立っています。左の宝筐印塔は、祇王、祇女、母刀自の合葬墓。右の五輪塔は平清盛の供養塔。いずれも鎌倉時代に作られたものです。仏御前は郷里(現在の石川県小松市原町)で亡くなったようです。

入口には石柱「妓王妓女佛刀自之旧跡」が建つ。右側には「性如禅尼承安二年(1172年)壬辰八月十五日寂」とある。「性如禅尼」とは妓王を指します。
左には「明和八年辛卯正当六百年忌 往生院現住尼 法専建之」とあって、明和八年(1771)に没後600年忌として住職・往生院法専尼が建立したという。

 滝口寺  



祇王寺のすぐ傍に、『平家物語』の斎藤時頼(滝口入道)と建礼門院の侍女横笛の悲恋の寺として知られる滝口寺があります。この寺は祇王寺とは対照的に、男の哀話です。
祇王寺の拝観受付の手前から奥へ登ってゆく階段がある。20mほど登ると、非常に質素な滝口寺の拝観受付が現れるので、300円支払う。受付までには「写真を撮るだけの人はお断り」の張り紙がいくつか見られた。どういうう意味なのでしょう?。拝観料を払って境内に入るが、写真だけ撮って拝観しないで帰ってしまうことをさすのか、それとも拝観料を払わないで中へ入り写真をとることなのでしょうか。前者なら私も該当するのだが・・・

受付小屋のすぐ先に墓場が見える。一番奥の大きな墓石が新田義貞の首塚です。後醍醐天皇に仕えた新田義貞は、対立する足利尊氏と戦います。しかし越前国で流れ矢にあたって無念の死を。義貞の首は京都三条河原に運ばれて晒し首になったのです。その晒し首を妻の勾当内侍(こうとうのないし)が盗み出し、この場所に葬ったと伝えられています。勾当内侍は出家し、生涯この地で暮らしたという。勾当内侍の供養等もある。

浄土宗の寺院。山号は小倉山。本尊は阿弥陀如来。
旧往生院の三宝寺を起源とする。
平安時代、法然上人の門弟だった良鎮(りょうちん)がこの辺りに「往生院」という寺を創建し、数多くの坊が建ち並んだ。祇王寺と同じく三宝寺もその一院だった。往生院は、その後衰退するものの江戸末期まで浄土宗の寺として存続していた。
・往生院は明治維新の廃仏毀釈で廃寺とされる。子院だった三宝寺も祇王寺と同様に廃絶とされてしまう。明治28年(1895)祇王寺が再建されると、同時に三宝寺も再建され、滝口入道にちなみ「滝口寺」と命名された。

雑木林を切り開いて設けられた石段を登る。その途中の左側に「三寶寺歌石」と刻まれた石碑が建てられたいる。これは「横笛歌石」とも呼ばれています。
横笛は、出家した滝口入道を訪ねてこの寺へやってくる。しかし滝口は「会うは修行の妨げなり」と涙しながら帰した。追い返された横笛は落胆し、指先を斬った血で傍の石に滝口へ歌を残したそうです。
「山深み 思い入りぬる柴の戸の まことの道に我を導け」
(あなたのことを思い、こんなに山奥深くまで来てしまいました、これから私はどうしたらよいのでしょうか、どうか私を正しい道へ導いてください)

短い階段を登るきると、狭い境内にでる。茅葺屋根の民家風の建物が一家建っているだけだ。これが本堂なのでしょう。とてもお寺とは思えない雰囲気です。しかし女への未練を断ち切るために出家した男の住まいとしては相応しく思われます。
部屋は開け放たれ、出入り自由のようです。写真撮影も自由のようだ。縁側に横たわり、余情を味わうも良し。ここには常寂光寺、二尊院、祇王寺に見られたような喧騒はない。

本堂には、出家して滝口入道と称した斎藤時頼と横笛の坐像が安置されている。現世では一緒のなれなかった滝口と横笛だが、ここでは寄り添って座っている。
滝口入道と横笛の悲恋物語は「平家物語、維盛高野の巻」で語られている。これを一躍有名にしたのが高山樗牛が1894年に書いた小説『滝口入道』です。樗牛にとって処女作であり代表作であり、また唯一の小説である。読売新聞の募集に入選し、読売新聞本誌で連載されたのです。Wikipediaのあらすじを紹介します。

「時は平家全盛の時代。時の権力者平清盛は、わが世の春を謳歌していた。ある日清盛は、西八条殿で花見の宴を催した。ここに平重盛(清盛の息子)の部下で滝口武者の斎藤時頼もこれに参加していた。このとき宴の余興として、建礼門院(重盛の妹)に仕えていた横笛が舞を披露した。それを見た時頼は横笛の美しさ、舞の見事さに一目惚れしてしまった。
その夜から横笛のことが忘れられない時頼は、恋しい自分の気持ちを横笛に伝えるべく、文を送ることにした。数多の男たちから求愛される横笛であったが、無骨ながら愛情溢れる時頼の文に心奪われ、愛を受け入れることに。しかし、時頼の父はこの身分違いの恋愛を許さなかった。傷ついた時頼は、横笛には伝えずに出家することを決意した。嵯峨の往生院に入り滝口入道と名乗り、横笛への未練を断ち切るために仏道修行に入った。
これを知った横笛は、時頼を探しにあちこちの寺を尋ね歩く。ある日の夕暮れ、嵯峨の地で、時頼の念誦の声を耳にする。時頼に会いたい一心の横笛だが、時頼は「会うは修行の妨げなり」と涙しながら帰した。滝口入道は、横笛にこれからも尋ねてこられては修行の妨げとなると、女人禁制の高野山静浄院へ居を移す。それを知った横笛は、悲しみのあまり病に伏せ亡くなった。横笛の死を聞いた滝口入道は、ますます仏道修行に励み、その後高野聖となった。」

斎藤滝口時頼(滝口入道)が横笛に出会ったのは十三歳の時。そして十九歳で嵯峨往生院で出家。その後女人禁制の高野山に入り高野聖となり、高野山真言宗別格本山の大円院の8代住職にまでなったという。
一方、横笛は大和の法華寺に入り、出家し髪をおろして尼となりそこで一生を終えたと伝えられている。(悲しみのあまり大堰川に身を沈めた、という説もあるのですが・・・)

この写真は奈良・平城宮跡の東横にある法華寺(ほっけじ)にある横笛堂です(2015/5月撮る)。この寺は聖武天皇の妃・光明皇后が建立した尼寺で、赤門を入ったすぐ右横に横笛堂があります。かつて南門を出て左側の飛地境内にあったのを移築したもの。出家し尼となった横笛は、このお堂に住まい仏道修行に明け暮れたという。お堂の中には、横笛が手紙の反故(ほご)で自らの姿を作ったという「横笛像」(高さ約30センチメートル)が安置されているという。京と大和、現在はすぐ近くなのだが、当時はずいぶん遠く離れた場所です。

違い棚に下には故佐々木信綱筆による扁額「滝口寺」が置かれている。明治中期、三宝寺の再建時に故佐々木信綱が高山樗牛の小説「滝口入道」にちなみ「滝口寺」と命名したのです。

本堂前の竹林の中に静かに佇む十三重石塔がある。これは滝口入道(斉藤時頼)と平家一門の供養塔だそうです。


 祇王寺、滝口寺をあとにして  



祇王寺、滝口寺から下り、入口近くまで戻ると「ギャラリー祇王寺」とプレートの掛かる建物が見える。閉館時間を過ぎたのか、閉まっていた。受付のパンフから紹介すると「さやさやと竹の音が心地よい竹林公園「祇王の小径」。その庭園内に佇むギャラリーでは、古くから日本の文化・芸術を育んできた京都ならではの作品の展覧会が開催されています」

入口右横の竹垣の前に立て札「祇王寺祇女桜」がある。まだ植えられて間もないようです。旧祇王寺祇女桜は苔庭の左隅に、切り株として残っているという。苔を覆う「桜吹雪」「散り桜」というのも見所だと思うのだが、何故こんな場所へ移したんでしょうか?。

まだ3時半ですが、大阪へ帰ることに。阪急・嵐山駅へ向う。途中にレンタルサイクルがある。なんと1日100円。これで商売になるのでしょうか?。嵐山駅前のサイクルでは900円だったが。





野宮神社の前を通る。だいぶ若い女の子が増えてきているようです。俺は「えんむすび」に縁がないので素通り・・・(-_-;)




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京都・小倉山 紅葉三景 2

2018年12月19日 | 寺院・旧跡を訪ねて

018年11月27日(火曜日)紅葉の季節がやってきた。昨年は京都・東山だったので、今年は京都の西、嵐山周辺に決めていた。嵐山・嵯峨野には多くの紅葉の名所があります。その中で、小倉山の山腹に並ぶように佇む常寂光寺、二尊院、祇王寺を訪れることにしました。今回は二尊院です。

 総門  



常寂光寺の山門を出て、真っ直ぐ進むと広々とした空き地に出る。左の道を行けば二尊院へは300m位。空き地の奥に茅葺の屋根が覗いている。これが落柿舎です。落柿舎は、茅葺の小さな庵です。登録有形文化財(建造物)となっている。中を見学するには250円の拝観料が必要です。今回は目的から外れるので入らなかった。
この庵は、松尾芭蕉の門人で俳人の向井去来(むかいきょらい、1651-1704)が貞享3年(1686)から居を構えた閑居跡です。芭蕉も三度ほど訪れている。二度目の元禄4年(1691)初夏の訪問時、嵯峨嵐山周辺を巡り、その記録を綴ったのが「嵯峨日記」。

空き地の脇を北へ歩く。杉木立に囲まれた遊歩道が整い、嵯峨野、化野(あだしの)方面へつづいています。

すぐ二尊院の入口にあたる総門が現れる。12時半だ。この総門は、慶長18年(1613)に伏見城にあった薬医門を豪商角倉了以によって移築・寄進されたものという。ここにも秀吉の築いた伏見城の遺構が残されている。屋根瓦が新しく見えるのは、平成26年(2014)に葺き替えられたから。室町時代の建築として京都市指定文化財となっています。
「二尊院(にそんいん)」の名は、本堂に祀られている本尊の二如来像に由来する。現世から来世へと送り出す「発遣(ほっけん)の釈迦如来」、西方極楽浄土へ迎え入れる「来迎(らいごう)の阿弥陀如来」の二つの立像です。
総門をくぐると、正面に「紅葉の馬場」と呼ばれる参道がのびている。ここで写真だけ撮って引き返す人もいる。拝観受付はすぐ右横です。訊けば、再入場はOKだそうです。
料金:大人 500円,時間:9:00~16:30,但し11月は8:30~16:30

 境内図と歴史  



これは受付で頂けるパンフレットに載っている図。おおまかだが判りやすい。

・住所は京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町27
・山号は小倉山、正式名は「小倉山二尊教院華台寺」(おぐらやま にそんきょういん けだいじ)
・比叡山延暦寺に属する天台宗延暦寺派の寺院
・本尊は釈迦如来・阿弥陀如来
・創建:承和年中(834年 - 847年)
・開基:円仁、嵯峨天皇(勅願)
・公式サイト:<http://nisonin.jp/

◆承和年間(834年 - 847年)に第52代・嵯峨天皇の勅願により慈覚大師円仁(第3代天台座主)が創建したニ尊教院華台寺(かだいじ)が始まりとされている。円仁は比叡山延暦寺を建てた天台宗の開祖・最澄(さいちょう)の弟子です。
◆鎌倉時代初期、法然(1133-1212)が二尊院に住んで法を説かれ、関白九条兼実の協力により中興する。さらに法然の弟子・湛空(たんくう、1176-1253)の尽力で諸堂が整えられていきました。湛空は、第83代・土御門天皇、第88代・後嵯峨天皇の戒師(仏門に入るときに戒を授ける師僧)となる。二条家、鷹司家、三条家の菩提寺になる。
◆第四世の叡空上人も第89代・後深草天皇、第90代・亀山天皇、第91代・後宇多天皇、第92代・伏見天皇の四帝の戒師となる。二尊院は、天台、真言、律、浄土宗の四宗兼学の寺院としてますます栄えました。
◆南北朝時代(1333-1392)に焼失するが、室町第6代将軍足利義教(1394-1441)が再興した。
◆室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により堂宇伽藍は悉く焼き尽くされてしまう。
◆永正18年(1521)、第十六世恵教上人(後奈良天皇の戒師)の時に、本堂と唐門が三条西実隆父子の協力によりによって再建された。
◆近世(安土・桃山時代-江戸時代)、豊臣家、徳川家の寄進が続き寺運も栄えていった。御所の仏事を司っていたので公家との交流も深く、檀家には二条・鷹司・三条・三条西家等がある。
◆近代、1868年以降は天台宗山門派(延暦寺)に属している。

 紅葉の馬場  



総門から広く真っすぐに伸びた参道が約百メートル位続いている。この参道が「紅葉の馬場」と呼ばれ、二尊院きっての紅葉の名所となっており、絶好の撮影スポットです。
約百メートルの間にモミジとサクラの木が交互に植えられているというのだが、サクラはそんなに多くないようです。

参道脇の散りモミジの中に「西行法師庵の跡」の石碑が建つ。西行の歌「我がものと 秋の梢をおもふかな 小倉の里に 家居せしより」の木札が立っている。

”馬場”というだけあって参道は広い。両脇から被さってくる紅葉は美しい。ただ常寂光寺を観てきた後だけに若干感動は減りますが・・・、常寂光寺にはない迫力があります。
ゆるやかな坂道を進むと階段になる。この階段あたりは、両脇のカエデの枝が低く垂れ、覆いかぶさってくるので見ごたえがあります。階段を登ると築地塀の突き当たりに。

 勅使門(唐門)  



紅葉の馬場の階段を登ると築地塀の突き当たりで、参道は左右に分かれる。右へ行くと、お手洗いや八社ノ宮がある。本堂へは左へ進みます。
左に進み勅使門(唐門)を通って本堂へ向かう。勅使門の手前に黒ずんだ黒門があり、ここから入っても本堂へ行けます。

黒門の先に唐門様の勅使門が建つ。門を潜った正面が本堂だ。「勅使門」の名のとおり、かっては天皇の使い「勅使」だけが通れた門です。現在は常に開いており、誰でも勅使になった気分で通れます。
勅使門は応仁の乱で焼失するが、永正18年(1521)に三条西実隆によって再建された。現在の門は、さらに昭和63年に再建されたものです。

勅使門を潜り、振り返って門を見上げると「小倉山」と書かれたの勅額が掛かっている。この額は永正18年(1521)の再建時に後柏原天皇が二尊院に下賜されたものだそうです。



 本堂  



勅使門(唐門)を通ると、京都御所の紫宸殿を模したといわれる大きな本堂と対面する。入母屋造り、銅板葺き屋根で、間口の広い建物です。
勅使門(唐門)と同じく、室町時代の応仁の乱(1467-1477)の兵火で全焼するが、永正18年(1521)に三条西実隆が諸国に寄付を求めて再建する。現在の本堂は平成28年(2016)に大改修されたもの。京都市指定文化財となっている。

本堂左端に上がり口があり、履物をビニール袋に入れ持参しながら本堂に入ります。本堂横が広く開けられ、内陣を見通せるようになっている。二尊院は「撮影禁止」の表示が見当たらないので、本堂内部であろうと自由に撮ってようようだ。こうした本格的な寺院で撮影フリーなのは珍しい。
横から撮った本堂内。正面中央の祭壇には、本尊である二尊像が安置されている。

祭壇の二尊像を撮るが、よくわからないので堂内に置かれていた写真を載せます。傍の説明書きに
「釈迦如来は、人が誕生し、人生の旅路に出発する時送り出してくれる「発遣(ほっけん)の釈迦」といい、弥陀如来は、その人が寿命をまっとうした時、極楽浄土よりお迎えくださる、これを「来迎(らいごう)の弥陀」という。この二尊が祀られていることから「二尊院」という名称が付けられた。共に鎌倉時代の春日仏師の作(重要文化財)である。この思想は唐の時代、中国の善導大師が広め、やがて日本に伝わり法然上人に受け継がれたのである。」とあります。

共に像高78.8センチの木造、寄木造、漆箔、玉眼。右の釈迦如来は右手を上げ掌を見せ、左手を下に向けた施無畏印(せむいいん)を組む。これは現世から来世へと送り出す際に、恐れを取り除き安心させることを意味している。左の阿弥陀如来は左手を上に、その親指と他の指で輪をつくる来迎印(らいごういん)を組んでいる。これは極楽浄土から迎えに来る姿を表わしているそうです。

縁から手が届きそうな所に「法然上人足曳の御影」(重要文化財)が置かれている。レプリカでしょうか?。

傍らに説明版がある。法然上人を崇敬する関白藤原兼実が、法然の姿を写し描こうとした。しかし法然は謙遜して許さなかったので、兼実は絵師・宅磨法眼に法然の湯上り姿を簾中よりひそかに描かせたという。後日、法然がその絵を見ると裾より片足が出て不作法な姿をしていたので恥じた。そして南無阿弥陀仏と念じると、不思議にも片足が引き込み正座している姿になった。そこから「法然上人足曳の御影」と云われる。
配流(1207年)前の法然を描いたもので、現存する法然上人の御影の中で最も古い肖像画だそうです。

角倉与一翁像も置かれていた。また縁側から見上げると扁額「二尊院」が掲げれれている。これは永正18年(1521)の再建時、後奈良天皇から下賜されたもの。


 本堂裏と茶室・御園亭  





本堂の周りは縁廊下で囲まれ、一周できる。本堂裏手の庭は「六道六地蔵の庭」と呼ばれている。小倉山の斜面に、小さく可愛いい6個の地蔵さんが散らばっている。「六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)に苦しむすべての衆生を救済する六地蔵菩薩さん」と説明されています。

本堂横の庭園をはさんで茶室「御園亭」(みそのてい)が建つ。本堂から廊下をつたって行けます。二尊院の公式サイトから紹介すると
「皇女の御化粧之間でお茶を味わう。
本堂の隣にある書院の奥に、春と秋の一時期だけご利用いただける茶室があります。ここは、後水尾天皇の第六皇女である賀子内親王の御化粧之間であったものが二条家に与えられ、その後、二尊院に移築されました。皇女が使われていたお部屋とあって、繊細な欄間など上質な趣が漂います。「御園」とは御所の庭を意味しており、茶室から覗く美しい庭を眺めながら、ゆったりとした時の流れに身を任せてください。」

赤毛せんの敷かれた縁先でお庭を拝見。皇室の方が使用されたお部屋なので、つい正座してしまう。お部屋の床の間の違棚の上にある棚(「天袋」というそうだ))に、4枚の小さな絵が描かれている。これは狩野永徳の筆によるものだそうです。
この茶室は、春と秋の期間限定で特別公開されている。


 本堂前庭  



本堂前の広場は、枯山水風の庭になっている。その昔この地に龍女が住み、正信上人によって解脱昇天した故事をもとに「龍神遊行の庭」と呼ばれているそうです。
本堂の縁に座って、正面の勅使門(唐門)や紅葉を眺めているのが二尊院で一番寛げる。

庭の中央に円形の低い「二尊院垣」に囲まれ、「軒場の松」が植えられている。藤原定家(1162-1241)が詠んだ「しのばれむ ものともなしに小倉山 軒場の松になれて久しき」の歌にちなんだものです。できるなら、もう少し”軒場”に植えてもらいたいものです。

これが「二尊院普賢象桜」だ。傍の説明板に「鷹司家より下賜 開花 四月中旬より下旬
花びらが百五~六十枚ある。長く屈曲した雄しべが普賢菩薩が乗る象の鼻に似ていることから、この名がある」と書かれている。受付で頂いたパンフには「白象の牙」とあるのですが・・・。
淡紅色の上品な花を咲かせる八重咲きの桜で、四月半ば過ぎから咲き始め、五月の連休まで咲いている日本で一番遅咲きの桜だそうです。

内から見た黒門。築地塀脇の散りモミジが美しい。黒門周辺も紅葉のお奨めスポットです。



築地塀に沿って北に(本堂前から右方に)歩くと、本堂前とは雰囲気の異なる庭園となる。その中に「小倉餡発祥之地」の碑が建っている。その由来については、碑の裏面に詳しく記されているが読みにくい。809年頃、空海が小豆の種を中国から持ち帰り小倉山で栽培した。この辺りに住む菓子職人の和三郎という人が、その小豆と御所から下賜された砂糖を加え煮詰めで餡(あん)を作り、820年から毎年御所に献上したのが「小倉餡」の始まりだという。



さらに築地塀に沿って北へ進むと、突き当たりに「八社ノ宮」がある。公式HPに「境内の東北に位置し、表鬼門としてつくられた社です。その名の通り、伊勢神宮・松尾大社・愛宕神社・石清水八幡宮・熱田神宮・日吉神社・八坂神社・北野天満宮の八社を祀っています。室町時代末期の建築として京都市指定文化財に指定されています。」と説明されている。
著名な八社を一度に参拝できてしまう大変ありがたいお宮さんです。建物はみすぼらしいですが・・・。

 九頭竜弁財天堂・鐘楼(しあわせの鐘)  



弁天堂(九頭竜弁財天堂)は本堂の右脇に建つ。前ではためく幟には「九頭竜弁財尊天」と書かれている。
公式HPに
「弁天堂 弁財天の化身である九頭龍大神・宇賀神を祀るお堂。
弁財天を祀る由来は、当院の『二尊院縁起』に見られます。第三世湛空上人の時代に、四あし門(現在の勅使門)に当院寺名の額があり、その額を夜々に門前の池(竜女池)より靈蛇が出て、字形や彩色が消えるほどに舐めてしまい、これを防ぐため、湛空上人は靈蛇に自らの戒法を授けるため血脈を書いて池に沈めました。すると竜女成仏の証拠として千葉の蓮華一本が咲いたといいます。弁財天の他に大日如来、不動明王、毘沙門天等を安置しております。」とあります。

近くには角倉了以像も建つ。角倉了以(すみのくら りょうい、1554-1614)は朱印船貿易で儲けた江戸初期京都の豪商で、保津峡を開削し、「保津川下り」の基を作った方。お墓はこの寺の上方にあります。


お寺のパンフレットにまで載っている「坂東妻三郎の墓」。探すがなかなか見つからない。「田村家累代墓」があり、後ろの卒塔婆に「田村正和」の名を見つける。俳優じゃん・・・というわけで、よく見ると横の板に坂妻の名を見つけました。この累代墓に眠っているのですね。

坂妻の墓あたりから撮った本堂。

弁天堂近くまで引き返す。弁天堂の横に鐘楼がある。鐘楼は慶長年間(1596~1615年)の建立で、梵鐘は慶長9年(1604)の鋳造。現在の鐘は、平成4年(1992)に開基嵯峨天皇千二百年御遠忌法要記念として再鋳されたもの。鐘楼内に置かれている小ぶりの鐘が、それまでの旧い鐘です。
新しい鐘は「しあわせの鐘」と名付けら、誰でも自由に撞いてよい。幸せを願い3回撞くそうです。「自分が生かされているしあわせを祈願」「自分のまわりの生きとし生けるものに感謝」「世界人類のしあわせのために」と、それぞれに祈願しながら3回撞く。

 墓所 1(二条家、伊藤仁斎)  



鐘楼の脇に長い階段が見える。数えたら113段あった。ここから上は小倉山中腹に広がる広大な墓場だ。といっても我々庶民が目にするような通常の墓場とは違います。
二尊院は、南北朝の頃より明治維新まで京都御所の御内仏殿をお守りする任をおっていた。その縁から鷹司家・二条家・三条家・三条西家・嵯峨家など公家の菩提寺となっている。

50段ほど登った階段中ほど、右側に墓所が奥の方へ伸びている。**院、公爵、男爵、従一位とか刻まれた墓石がほとんどで、一般人のそれらしきものは見かけない。ここは特に二条家が多い。

二条斉敬(左、1816-1878年)と二条厚基(右、1883-1927年)の墓。二条家は、藤原氏北家に属し、五摂家の一つ。初代の二条良実(1216-1271)が京都二条の邸に住んでいたので二条殿と称した。以後代々ほかの摂家と交代して摂政,関白に任じられてきた。左の二条斉敬は最後の関白となった人。右の二条基弘は、明治維新後に公爵に叙せられた。

奥の方へ進むと、半円形の奇妙なモニュメント(?)が現れる。正面を見ると「男爵二条家之墓」と刻まれている。
天皇陵にならって円墳にしたのでしょうか。伏見にある明治天皇陵は、さざれ石が葺かれた巨大な円墳墓です。二条家の円墳はそこまでの大きさはないが、さざれ石で覆われているのだろうか?。

階段をさらに35段登ると、また右側に墓地がひろがる。境内図をみれば、ここの奥のほうに四条家の墓地があるようだ。四条家も藤原北家の流れをくみ、初代の藤原隆季(権大納言、1127年 - 1185年)の邸が四条大宮にあったことから四条家と称した。
階段脇に「伊藤仁斎・伊藤東涯の墓→」の案内が立つ。

伊藤家の墓が集まっている。伊藤仁斎(いとう じんさい、1627-1705)は京都の商家の出身で江戸前期に活躍した儒学者。京都堀川に古義堂(堀川学校)ちう塾を開き、門弟三千余人を有したといわれる。朱子学への批判を通して古義学派を創始。日常生活のなかからあるべき倫理と人間像を探求した。著作に「論語古義」「孟子古義」「童子問」などがある。近くに長男の伊藤東涯(いとう とうがい、1670-1735)の墓もある。

 湛空上人廟・時雨亭跡  



また階段を登る。登りきった正面が湛空上人廟です。慶長5年(1253)に中国の石工によって彫られた湛空上人の碑を収めたお堂で、京都市指定文化になっている。湛空(たんくう、1176-1253)は法然の弟子で、二尊院の諸堂の整備に尽力され、二尊院中興の祖といわれる。
また、湛空の師である法然上人の遺骨も分骨されて納められているといわれます。お堂横には「法然上人廟」の立札が立っている。

湛空上人廟の前から左右に道が分かれたいる。右(北)へ進めば墓所で、左(南)へ行けば時雨亭跡と伝わる場所がある。まず時雨亭跡に行ってみます。
100mほど平坦な山道を歩くと、杉木立に囲まれた小さな広場に着く。

広場には石積みの基壇が置かれ、ここが「小倉百人一首」を撰定した藤原定家の時雨亭跡だという。
なお常寂光寺にも、小倉山の中腹に藤原定家の時雨亭跡とされる石碑が置かれていました。

ここは小倉山の中腹にあたり、京都嵯峨野の街並みが一望できます。景色を眺めながらゆっくり休息してくださいとベンチも置かれている。

 墓所 2(三条西家、鷹司家、角倉了以、三帝塔)  



湛空上人廟に戻り、今度は右の墓所へ入ってみます。まず「三条西家」の墓が目に付く。
三条西家は、藤原氏北家の流れをくむ大臣家の家格を持つ公家。南北朝時代後期、権大納言・公時(きんとき)を祖とする。三条北の西朱雀に屋敷があったことから「三条西」または「西三条」と呼ばれた。内大臣、右大臣などをだし、明治になって伯爵となる。和歌のほか香道も家業とする。明治天皇の和歌師範としても有名である。

室町時代から安土桃山時代の4代実隆、5代公条、6代実枝の墓が並んでいる。三条西実隆は内大臣を務め、歌人、書家としても有名。また三条西家の家業となる「香道(御家流)」の祖でもあります。

この辺り、従一位、内大臣、左大臣、**公などと刻まれた墓石が並ぶ。鷹司家の墓所が現れる。鷹司家(たかつかさけ)も藤原氏北家の流れをくむ五摂家の一つ。鎌倉時代,近衛家3代当主・近衛家実の四男・兼平(1228-1294年)を初代とする。その邸が鷹司室町にあったので鷹司を家名とした。代々摂政,関白となる者が多く,明治に入ると華族となり公爵を授けられた。

さらに奥へ行くと角倉了以の墓がある。角倉了以(すみのくら りょうい、1554-1614、本名:吉田光邦)は京都に生まれ、1603-1613年ごろ御朱印船貿易によるアジア諸国との交易で巨万の富を得る。豊臣秀吉の命により、大堰川開削工事により保津峡に船を渡し、亀岡と京都間の木材輸送を拓く。これが現在の「保津川下り」のもとになった。その後、富士川、高瀬川などの開疏も手がけた。ここ二尊院の道空に師事し仏道を極めたという。

さらに奥へ進むと行き停まりになり左右の道に分かれる。右側の坂道を下っていけば、八社ノ宮の脇にでる。左側は緩やかな階段だ。これを登って行けば、すぐ「三帝塔」と呼ばれる墓所に突き当たる。

後土御門天皇(1196-1231)、後嵯峨天皇(1220-1272)、亀山天皇(1249-1305)の御分骨が収められているという。十三重塔、五重塔、宝篋印塔と、三人三様の墓形をしています。明治維新までは御所から勅使の参拝があったそうです。

おエライ方のお墓は環境も良い。小倉山の中腹で、ゆったりとした空間の中で京都の街を見下ろしながらお眠りになっていらっしゃる。二尊院からさらに奥へ行ったところにある化野念仏寺とはエライ違いだ。密集する無数の無縁仏・・・、この寺の石仏と紅葉は必見!


詳しくはホームページ

京都・小倉山 紅葉三景 1

2018年12月05日 | 寺院・旧跡を訪ねて

■2018年11月27日(火曜日)
紅葉の季節がやってきた。昨年は京都・東山だったので、今年は京都の西、嵐山周辺に決めていた。嵐山・嵯峨野には多くの紅葉の名所があります。その中で、小倉山の山腹に並ぶように佇む常寂光寺、二尊院、祇王寺を訪れることにしました。小倉山は、桂川(保津川)を挟んで嵐山と向かい合い、古より紅葉の名所として親しまれ、皇族や貴族が別荘を構えた所です。
嵐山・嵯峨野は平安の昔より景勝地として知られていた。それは現代でも変わりはない。多くの人が訪れます。特に週末や祭日は人、人・・・で溢れかえる。週末は避けました。今回は常寂光寺です。

 常寂光寺(じょうじゃっこうじ)へ  



9時15分、阪急・嵐山駅に到着。渡月橋の架かる桂川(保津川)へ向う。観光スポットの渡月橋。午後になると人波でごった返す。正面に見えるお椀型の山が小倉山で、左が嵐山。その間を桂川(保津川)が流れる。トロッコ嵯峨駅からトロッコ列車に乗り亀岡まで行き、保津川下りの小舟でここまで帰ってくるのがお奨め。この紅葉シーズンが最高です。
渡月橋を渡ると、嵐山・嵯峨野のメインストリート。そこを抜け左に入れば、これも嵐山名物の竹林地帯へ。人力車が急に増えくる。竹林と人力車はよく似合うのだが、人が多くなってくると邪魔でしょうがない。最近、人力車が増えたような気がする。紅葉シーズンだからなのかな。
竹林の中に佇む野宮神社。縁結びの神さんなので、若い女性に人気だ。

嵐山の観光案内図を撮る。阪急・嵐山駅からここまで20分くらいでしょうか。

踏み切りを渡り、広い空き地が現れ、奥に落柿舎が見えてきた。常寂光寺はすぐ近くだ。空き地から西へ進めば、突き当りが常寂光寺の山門だ。常寂光寺は嵐山・嵯峨野を代表する紅葉の名所ですが、まだ10時前なのでそれほど混雑していない。
山門は、江戸中期までは両袖に土堀をめぐらした薬医門だったが、江戸後期に墨色の門に改築されたもの。豪華さは無いが、山門らしい落ち着いた雰囲気をもった門です。
寺院は塀で囲まれているのが普通だが、この常寂光寺には塀は無く、小倉山と一体となって溶け込んだお寺さんです。

寺名「常寂光寺」の由来ですが、「常寂光土」という仏教の理想郷を表す言葉からきているという。天台宗で言われる四土(しど)で一番最高の世界、仏の悟りである真理そのものが具現されている寂光浄土の世界を表す。
開創者の日禛は隠栖地として、静寂で風情豊かな小倉山の山麓に「常寂光土」を求めたのでしょうか。
藤原定家(1162-1241)の「忍ばれむ物ともなしに小倉山軒端の松ぞなれてひさしき」の歌に因んで、「軒端(のきば)寺」とも呼ばれたそうです。

山門をくぐり少し歩くと受付があるので、ここで拝観料:500円を支払います。この受付の手前までは自由に入れるので、ここから写真を撮って引き返す人もいる。毎年のように訪れる私も今までそうでした。拝観料を支払い中へ入るのは初めてです。無休、9時開門~17時閉門(16:30受付終了)



 境内図と歴史  



山門脇に掲示されている境内図。受付で頂けるパンフレットに載っている図と同じ内容だ。
・京都府京都市右京区嵯峨小倉山小倉町3
・山号は小倉山。旧本山は、大本山本圀寺(六条門流)
・正式名:常寂光寺
・宗派:日蓮宗,本尊:十界大曼荼羅

常寂光寺は日禛(日禎、にっしん、1561-1617)上人によって開創された。日禎は,幼いころに日蓮宗の大本山である本圀寺(ほんこくじ)に入り、わずか18歳で第16世住持(住職のこと)となったといいます。
「文禄四年 (1595)、豊臣秀吉が建立した東山方広寺大仏殿の千僧供養への出仕・不出仕をめぐって、京都の本山が二派に分裂したとき、上人は、不受不施の宗制を守って、出仕に応ぜず、やがて本圀寺を出て小倉山の地に隠栖し、常寂光寺を開創した。当地を隠栖地にえらんだのは、古くから歌枕の名勝として名高く、俊成、定家、西行などのゆかりの地であったからと思われる。当時、小倉山一帯の土地は、高瀬川開削で名高い角倉一族の所有であった。日禛上人は角倉了以の従兄である栄可から寺の敷地の寄進を受けている。」(受付でもらったパンフより)
日禛は、藤原定家の山荘「時雨亭」跡に草庵を結び、寺に改めたという。宗学(教義について研究する学問)や歌道に造詣が深く、加藤清正、小早川秀秋、瑞竜院日秀尼(豊臣秀吉の姉)をはじめ多くの帰依者がおり、それらから寄進を受け堂塔伽藍が整備されていった。

 仁王門  



受付から仁王門までの50mほどの参道も紅葉の見所。今日あたりが、紅葉が一番華やいで、美しく輝いているようです。赤色から淡黄色までのグラデーションがなんともいえない。

仁王門といえば仁王像が睨みをきかし、豪壮でいかつい建物が多い。ここ常寂光寺の仁王門にはそうした雰囲気はありません。単層で茅葺の屋根、小ぶりで質素な佇まいは周囲の風情によくマッチしている。
この仁王門は、本圀寺客殿の南門(貞和年間の建立)を元和2年(1616)に移築したもの。境内伽藍の中で最も古い建物だという。

紅く染まった紅葉の下で、両脇の仁王さんも色づいている。身の丈七尺の仁王像は、若狭の小浜の日蓮宗寺院・長源寺から移されたものとされる。寺伝では、平安時代に活躍した仏師・運慶の作と伝えられているというが、実際の作者は不明なようです。
仁王像の前にたくさんの草鞋が吊るされている。仁王像は目と足腰の病にご利益があるとされ、近在の檀信徒がわらじを奉納して病気平癒を祈願したものだそうです。



仁王門から入口の山門側を振り返る。人出もだいぶ増えてきたようだ。写真を撮るのに困るのは人の顔。なるべく写らないように、場所を選びタイミングを探るのだが、これだけ人が増えると避けるのは困難になる。

写ってしまった人、ゴメンナサイ!。










仁王門を通して見上げれば、本堂へ通じる階段が。



仁王門を潜り、背後からみた風景。白壁に苔むす茅葺の屋根、とても仁王門とは思えない山門風の佇まいです。

 本堂への階段  





仁王門を潜ると50段くらいの石段だ。登りきると本堂の正面です。この階段周辺が常寂光寺一番の絶景スポット。見上げて撮る、振り返って撮る、を繰り返しているうちに登りきってしまう。この景観をもっと大規模にしたものが奈良の談山神社の階段です。談山神社の紅葉もすごかったが、コンパクトにまとまったここも見ごたえがある。



見上げて感動する紅葉だが、横を見てもこれまた感動もの。苔に覆われた階段横の斜面に降り散った真っ赤なモミジ葉。緑の苔の上に舞い散った深紅の落ち葉、自然に演出された美しいまだら模様を創りだしている。「散りもみじ」「敷きもみじ」と呼ばれているが、こんなに目をひく散りもみじは初めてだ。

右の写真は、階段左側の「散りもみじ」。

仁王門横から撮った写真。階段は登り専用とされているが、ハッキリ明示されていないので降りる人もいる。右の坂道がお帰りコースとなっている。この坂道は「末吉坂」と呼ばれ、上ると「女の碑」、休憩所・トイレへ行けます。階段が苦痛な人は、少し遠回りだが末吉坂を登っても本堂へ行けます。緩やかな坂道で、こちらも紅葉を堪能できるよ。

階段を登りきって撮る。京都有数の紅葉寺。境内には200余本のカエデが植えられているそうです。

 本堂  


常寂光寺公式サイトに「本堂は、第二世通明院日韶上人(日野大納言輝資の息男)代に小早川秀秋の助力を得て、桃山城客殿を移築して本堂としたもの。江戸期の文献、資料に図示された本堂の屋根は、本瓦葺きの二層屋根となっている。現在の平瓦葺きの屋根は、昭和七年の大修理の時に改修されました。建立の年代は、慶長年間。」とあります。秀吉が建て、家康が再築し、その後廃城となった伏見桃山城からは、多くの建造物が各所にばら撒かれている。ここもその一つなのでしょう。「御祈祷処」の扁額は伏見常照院宮のもの。
本堂内には本尊の十界大曼荼羅と釈迦如来像が安置されています。

妙見堂前から撮った本堂。

本堂の裏は庭園になっている。縁側に座ってしばし休憩するのによい。豪華な庭園ではないが、小倉山の苔むす斜面に紅葉が被さる。手前に小さな池が配されているが、散りもみじに覆われ「枯れ山水」ならぬ「紅山水」となっている。

 鐘楼・女の碑  



本堂の斜め前に、紅葉に覆われ鐘楼が佇む。寛永18年(1642)に建立されたものだが、梵鐘は第二次世界大戦中の金属供出により失われた。現在の鐘は、戦後の昭和48年(1973)に新しく鋳造されたもの。毎日、正午と夕方五時に撞かれているそうです。

鐘楼の先が下山路となっている。その途中に「女の碑」が置かれている。碑には「女ひとり生きここに平和を希う」と刻まれています。この碑の趣旨は、横の説明板を読んでいただくとして、尼寺に設置されたほうが相応しいと思うのだが・・・。
結婚式の最中に召集令状が、という話を聞いたことがある。戦争の影はこういうところにもあったのですね。

女の碑からの坂道は仁王門へ下り、仁王門横を通って出口へ至る。この坂道も、階段に劣らず紅葉と「敷きもみじ」が冴えます。

 妙見堂  



本堂左側に妙見堂が建つ。妙見菩薩とは北極星または北斗七星を神格化した菩薩で、平安時代から京都の各所に祀られて人々の信仰を集めていた。
「當山の妙見菩薩は、慶長年間 (1596~1610) 保津川洪水の際、上流から流れついた妙見菩薩御像をふもとの角倉町の一船頭が拾い、久しく同町の集会所にお祭りされていたのを、享和年間 (1801~1803)、當山第二十二世日報上人の時に、當山境内に遷座されました。 爾来、御所から西の方角に当たることから「酉の妙見菩薩」となり、江戸時代末期から昭和初期にかけては、京都市内だけでなく関西一円から開運、厄除けの御利益を願う参拝者で大賑わいしました」(拝殿前の「妙見菩薩縁起」より)

特に「妙見」が「麗妙なる容姿」とされ、役者や花街、水商売関係の信仰を集めたという。

 多宝塔  



本堂と妙見堂の間を登る坂道が、多宝塔、歌仙祠、時雨亭跡への道になります。この道は紅葉に覆われ、すぐ横は竹林です。竹の緑ともみじの紅のコントラストが本当に美しい。苔の緑とはまた違った雰囲気をだしています。「散りもみじ」「敷きもみじ」も楽しめる。

見上げても、見下げても、そして横を見ても風情を堪能できる。

燃え上がる紅葉の間から多宝塔が見えてきました。

多宝塔は元和6年(1620)、京都町衆の辻藤兵衛尉直信の寄進により建立されたといわれる。内部の須弥壇に釈迦如来、多宝如来の二仏を安置する。そこから「並尊閣(へいそんかく)」とも呼ばれるそうです。正面に、第112代・霊元天皇の勅額「並尊閣」が掲げられている。内部は常時非公開で見ることはできません。

方三間、重層、宝形造、檜皮葺,総高約12m余、屋根の上に長い相輪が伸びる。
初層の屋根上に、雪が積もったような白い部分が見える。これを「亀腹 (かめばら)」というそうです。亀の腹のようにふっくらとしているからでしょうか。亀腹上に縁高欄をめぐらした円塔が建つ。この細い円塔の上に大きく傘を拡げたように広い屋根がのっている。不安定に見えるが、全体を見ればバランスがとれ、均整のとれた美しい姿をしています。国の重要文化財。

多宝塔は境内でも最も高所に位置するため、見晴らしは良い。遠く嵯峨野一帯が見渡せます。


多宝塔の右方に開祖を祀る開山堂が建つ。これは平成16年(2004)、明石本立寺(日蓮宗の寺)野口僧正とその夫人によって建立されたもの。江戸時代作の日禛上人坐像を安置している。






 歌仙祠と時雨亭跡  



多宝塔の右方に佇むのが「歌仙祠(謌僊祠 かせんし)」と呼ばれる建物。藤原定家、藤原家隆そして徳川家康の木像が祀られれています。一般には非公開。
公式サイトに「定家山荘の場所については、諸説ありますが、常寂光寺の仁王門北側から二尊院の南側に有ったと伝へられています。 この場所には、室町時代頃から定家卿の御神像を祀る祠が有りましたが、常寂光寺を創建する時に、定家卿の祠よりも上に寺の庫裏を建てるのは恐れ多いと現在の場所に遷座されました。 明治時代までは、小さな祠でしたが、明治23年に現在の大きさの建物に改築され、歌遷祠と呼ばれるようになりました。 歌遷祠の扁額は、富岡鐡齋の作。南隣に位置する時雨亭跡は、戦前までは庵室が建っていましたが、台風により倒壊してしまい、その後再建出来ず現在に至ります。 この庵室は、いつごろ建てられたか不明ですが、当山の古文書「双樹院日勝聖人傅」(1728年)の境内図には、この位置に庵が描かれています。又、「都名所図会」(1780年発行)にも庵が図示されていることから、江戸時代中期には建てられていたことが分かります。」とある。

小さな祠だったが、明治23年(1890)に定家卿没後650年を記念して現在のような建物に改築されました。そして、富岡鉄斎(文人画家、儒学者、1836-1924)が「謌僊祠(かせんし)」と名付け、彼による扁額が掲げられた。現在の建物は、平成6年(1994)の再改築によるものです。

歌仙祠のすぐ南隣に「時雨亭跡」と刻まれた石碑が置かれています。戦前までは、藤原定家が小倉百人一首を編纂した小倉山の山荘を意味する庵室「時雨亭」が建っていた。その後、台風のために倒壊し再建されないまま石碑のみになっている。

歌仙祠の横に上に登る坂道がある。数分上るとすぐ展望台です。絶景というほどではないが、ここから一番よく嵯峨野一帯が眺められる。

常寂光寺は、お寺にしてはそれ程広い境内ではない。1時間もあれば周れるが、この時期、紅葉を鑑賞しながら写真を撮るとなると1時間半ほどみておけば十分かな。
展望台から下り多宝塔、本堂を経て出口に向います。紅葉シーズンなので臨時出口が設けられているようです。この出口は御朱印所となっています。


詳しくはホームページ

古市古墳群みてやろう 4

2018年10月19日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2018年9月6日(水曜日)、藤井寺市から羽曳野市にわたる古市古墳群を巡りました。古市古墳群は堺市の百舌鳥古墳群とともに世界遺産への登録を目指しています。永年の夢かなって、昨年7月国の文化審議会で世界文化遺産登録への国内推薦が決まり、今年1月の閣議により正式に決定し、国連教育科学文化機関(ユネスコ)に推薦書を提出しました。そして今月、ユネスコ職員による現地調査が入る予定になっている。
そこでユネスコの調査に先立ち、私も現地を査察することに致しました・・・(*^_^*)。
最後は、辛國神社・葛井寺から河内大塚山古墳まで。

 辛國神社(からくにじんじゃ)  



辛國神社(からくにじんじゃ)は、岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)と近鉄・藤井寺駅とのちょうど中間にあります。神社は東向きに建つので、当然入口も東側となる。両側の大きな灯籠の間に鳥居が見えてくる。いかにも格式ありそうな雰囲気を漂わせています。
入口の由緒書きには「当社は、五世紀後期 第二十一代雄略天皇の御代に創建された式内社であります。(一部略)藤井寺の地に物部目大連が、その祖神・饒速日命(にぎはやひのみこと)を奉斎したのが当社の始まりです。この後、六世紀後半物部氏宗家の守屋大連の没後、一族の物部辛國連(もののべのからくにのむらじ)が、氏神として祭祀したことにより、辛國神社と称するようになりました」とあります。

室町時代、河内の守護職だった畠山基国は社領200石を寄進し社頭を整備し、奈良・春日大社より春日の神(天児屋根命)を勧請し合祀した。そこから江戸時代後期まで「春日大明神」「春日社」と称せられていたという。明治にはいり復古主義の影響を受け、元の「辛國神社」に戻したそうです。
開門:6時、閉門:午後5時

入口から西に向って真っ直ぐな参道が伸び、正面突き当たりに拝殿、本殿が鎮座する。参道入口には木造の鳥居が立つ。鳥居の両足に奇妙な下駄がはかされている。こうした様式を「両部鳥居(りょうぶとりい)」というようです。Wikipediaは「両部鳥居(りょうぶとりい)は、本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)があり、その笠木の上に屋根がある鳥居。名称にある両部とは密教の金胎両部(金剛・胎蔵)をいい、神仏習合を示す名残。四脚鳥居、稚児柱鳥居、権現鳥居、枠指鳥居などの別名がある。派生したものとしては伊香式鳥居がある。」と説明してくれる。 宮島の厳島神社が代表例。

社殿まで続く参道は青深く森厳な雰囲気を漂わしています。この参道は1989年に「大阪みどりの百選」に選ばれている。

境内正面に拝殿(入母屋造・千鳥破風唐破風向拝付・銅板葺)が、その奥、白壁に囲まれた神域内に本殿(三間社流造・銅板葺)が建つ。
祭神は
   饒速日命(ニギハヤヒノミコト)・・・物部氏の祖神
   天児屋根命(アメノコヤネノミコト)・・・奈良・春日大社の祭神、藤原氏の祖神
   素盞鳴命(スサノオノミコト)・・・天照大神の弟神、合祀した長野神社の祭神

 葛井寺(ふじいでら)  



葛井寺(ふじいでら)は辛國神社前から東へ細路に入ればすぐだ。すぐ赤色の南大門が現れる。葛井寺は南向きに建ち、この楼門造りの南大門が参拝の入口になる。南大門は江戸後期の再建だが国の重要文化財に指定されています。真言宗御室派に属し、藤井寺、剛琳寺とも呼ばれる。
西国三十三所巡礼の第五番札所だけあって参拝者は多く、境内は賑わっています。参拝時間:08:00 ~ 17:00

境内に「沿革」板が掲げられているので要約します。

6,7世紀、百済王族王仁一族の子孫である渡来人・葛井氏(ふじいし)の氏寺として建立された。神亀2年(725年)、聖武天皇が十一面千手千眼観世音菩薩を奉納され、行基が導師となって開眼法要が行われた。
平安時代に入り、平城天皇の皇子・阿保親王が寺を再興し、また阿保親王の皇子である在原業平が奥の院諸堂を造営したと伝わる。
永長元年(1096)、大和国軽里の住人・藤井安基が葛井寺の伽藍の荒廃を嘆き復興に尽力したことから、「藤井寺」ともいわれ、また地名に「藤井寺」が残る。当寺の境内は金堂、講堂、東西両塔を備えた薬師寺式伽藍配置で、大いに栄えたといわれる。平安時代後期から観音霊場として知られるようになり、西国三十三所観音霊場の第五番札所として、多くの庶民の信仰を集めるようになった。
しかし室町時代には戦火や地震による焼失、倒壊で全ての諸堂を失う。その後、多くの信者の復興勧進や、豊臣秀頼および徳川家代々の外護を受け再建復興され、現在に至るという。そのため現存する建物は近世以降の再建です。

南大門を入るとすぐ右手に「ヴィクリディタサマデ・キリク」と銘うった休憩処兼お茶屋さんがあります。全面ガラス張りで、弁天池、その奥にお手洗いが見える。お手洗いは「烏枢沙摩閣(うすさまかく)」となっている。梵語なのでしょうか。葛井寺公式サイトには「葛井寺のお手洗いは仏さまがいらっしゃる一つのお堂です。不浄を清す烏枢沙摩明王は炎の功徳により身も心も清浄にします。 手を合わせてお入りください。」とあります。


テレビで知ったのだが、現在、草創1300年記念として西国三十三所観音霊場の各寺は「スイーツ巡礼」と銘うってご当地お勧めのお菓子を販売している。ここ葛井寺は本吉野の葛を使った「葛井もち(くずもち)」です。きな粉をまぶし、ほどよい甘さで疲れが癒される。それ以上にお茶が美味しかった。



境内正面に佇むのが、安永5年(1776)に再建された本堂。大きな瓦屋根が目を引く。国の重要文化財に指定されています。
本堂前の右手に見える松は「旗掛の松(三鈷の松)」と呼ばれている。その由来は説明板にまかすとして、三葉というのが、落ち葉をみたり、写真を拡大したりしたが確認できなかった。京都東山の紅葉の名所・永観堂にも
「三鈷の松」があり、その時も3本だというのがもうひとつハッキリしなかった。

(写真はヴィクリディタサマデ・キリクのポスターより)
本堂には本尊の十一面千手千眼観世音菩薩坐像(じゅういちめんせんじゅせんがんかんぜおんぼさつ)が祀られている。国宝です。
この観音さまが特筆なのは、実際に千本の手を持っていること。千手観音像は40本の手で「千手」を代表させるのが通例だが、実際に千手もつのはきわめて珍しいという。
葛井寺公式サイトより紹介します。
「葛井寺の千手観音像は、文字通り゛千の手”と”千の目”を持つ千手観音像である。頭上に十一面をいただき、そして正面で手を合わせる合掌手、宝鉢や宝輪、数珠などをもつ40本の大手に、クジャクのようにひらく1001本の小手、合わせて1043本の手を持つ。 さらに、掌にはそれぞれ眼が描かれており、まさに千手千眼である。
日本では、千手観音は四十二手とされるのが一般的で、実際に千手をあらわすのは我国では唯一と言える遺例のひとつである。 端正な顔つきに、のびやかな肢体、そして千手という超人的な姿を自然な調和をもってあらわした像容は天平彫刻の粋を集めた観音像である。」

脱活乾漆(だっかつかんしつ、麻布を漆で貼り重ねて像の形をつくる)造りで像高は130cm。8世紀半ばごろの作で、日本に現存する千手観音像としては最古のものの一つ。平常は秘仏のため厨子の扉は閉められているが、縁日の毎月18日観音会と8月9日の千日まいりの日にだけ特別に開帳される。

この寺に津堂城山古墳で見つかった石室の天井石が忠魂碑として使われ残っている。境内を探すが見つからない。掃き掃除をされていた方に尋ねると案内してくださった。弘法大師堂の裏手で、隠れるように置かれていた。碑の左下には「陸軍大将一戸兵衛書」の添え字が、側面には「昭和三年十一月 帝國在郷軍人会藤井寺町分会」と刻まれている。天皇陵の石室天井石と知ってか、知らずか・・・。

 津堂城山古墳(つどうしろやま)  



近鉄・藤井寺駅を北に越え、さらに1キロほど北進すると津堂城山古墳(つどうしろやま)が見えてくる。大和川はすぐ近くだ。着いた所は後円部の西角だった。これから右方向回りに、南西側面→前方部→北東側面→後円部→墳丘内部へと周ってみます。
ここは中世に城郭が築かれた「城山」だった。地区名の「津堂」を付け「津堂城山古墳」と呼ばれる。

後円部のここに説明板が設置されています。古市古墳群の中では最も北側に位置する古墳で、墳丘長210m、後円部(直径128m、高さ16.9m)、前方部(幅122m、高さ12.6m)の前方後円墳。埋葬施設や埴輪などから4世紀後半の築造と推定され、古市古墳群の中でも初期の古墳と考えられている。
空中写真で判るように、墳丘部は大きく削り取られ変形している。これは中世に城郭として利用されたため。南北朝時代は楠方の指揮所、室町から戦国時代にかけ畠山一族の安見氏、その後三好氏の小山城が墳丘上に造られ、墳丘の一部が掘削され崩された。また周濠部分の多くは農地や溜池として利用され周辺住民の生活の場となっていた。
こうした事情から明治末まで、ただの小山と見られ古墳であることを認識されていなかった。当然、明治初めの天皇陵の治定でも候補にさえ入らず、注目されなかった。ところが後述するように、明治45年(1912)の発見で大きく変わる。

前方部の南西角です。現在、古墳全体が国の史跡に指定され、「史跡城山古墳」の石柱が建てられている。古墳の周囲は柵で囲まれている。しかし天皇陵のような高くて頑丈な鉄柵でなく、市民に優しそうな柵だ。柵の外側には、よく整備された遊歩道が設けられ、古墳を一周できます。そして陵墓と違い、自由に出入りできる入口も何箇所も開いています。
調査の結果、津堂城山古墳は二重の周濠が墳丘を囲んでいたことが分かりました。二重の周濠を具えた古墳としては最古のものだそうです。外側の周濠部分まで含めると、全長は400m以上になり古市古墳群のなかでは三番目の大きさとなる。
現在、外側の周濠は埋められ宅地化されて見る影もありません(これも”埋没保存”?)。内濠は埋められた状態で残されているが、わずかに湿地が見られる他は濠の痕跡はない。桜の木が植えられ、シーズンには賑わうそうですが。

前方部の東側角から撮ったもの。放置されたままの西側と違い、東側の内濠跡は市によって整備され花園となっている。手前は「花しょうぶ園」で、墳丘近くには梅林もみられます。
花しょうぶ園の先に、少し高まった緑の草地が見えます。ここが3体の水鳥形埴輪が見つかった島状遺構と思われる。昭和58年(1983)の調査で濠の一部から17m四方の島状の施設が見つかり、そこから1mを越える大きな水鳥形埴輪が3点出土した。国の重要文化財に指定され、実物は現在アイセルシュラホール(藤寺市立生涯学習センター)二階に展示されている。複製ですが「まほらしろやま」にも展示されています。島状の施設は、目立つように盛り土により一段高くされ、ユキヤナギが植えられている。

北東側面です。こちら側には何箇所も入口がある。いろいろ草花が植えられ市民の憩いの場となっているようです。

後円部の北東角が周濠跡地を利用した草花園です。オレンジ色の綺麗な花が群生していました。よく見かける花だが、何の花?。花名を知らせてくれたら、もっと親しめるのに。

後円部の北東角には、史跡城山古墳ガイダンス棟「まほらしろやま」があり、展示や写真などによって津堂城山古墳についていろいろと知ることができるようになっている。午前10時~午後5時まで、入館無料ですが、残念ながら今日は火曜日の休館日でした・・・アホラシやら。でもトイレは休み無く使えるそうで、施設の柵扉は開けられたままになっていた。屋根の両端には金のシャチホコならぬ水鳥埴輪が。

施設の前庭に注目です。大きなベタ石が並べられ、「津堂城山古墳後円部竪穴式石槨の天井石(竜山石)」と説明されている。明治末、古墳の墳頂から石室を覆う7枚の天井石が偶然に見つかったが、その後2枚は津堂八幡神社の記念碑とその基礎石に使われ、1枚は民家の庭石にされていた。その3枚が回収され、保存処理された上でここに展示されている。
残り4枚は、2枚が埋め戻された他、葛井寺の忠魂碑、小山善光寺の敷石、専念寺の庭石に現在でも使われている(計8枚?)。


こちらは天井石の下からでてきた長持型石棺の実物大のレプリカです。長さ348cm、幅168cm、高さ188cmの大きさで、わが国で出土した最大級の石棺だそうです。実物と同じ竜山石(たつやまいし、兵庫県高砂市産出)を使い、平成29年(2017)に作製された。なお実物は調査後に元に位置に埋め戻されています。

後円部にはこの地域の氏神・津堂八幡神社が鎮座している。ところが先日の台風21号のせいで無惨な姿に成り果てています。神社境内から古墳内部へ入る予定だったが、倒木のため中へは入れません。

草花園の横から墳丘内部に入り、まず後円部に登ってみた。そこは柵で囲われ宮内庁の「立ち入り禁止」の札がかかっている。明治末、ここから石室が見つかり、津堂城山古墳として一躍注目を集めた場所です。石室発見の様子が藤井寺市公式サイトに「城山古墳物語」としてドキュメント風に判りやすい表現で再現されている。かなり長いので要約してみます。

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津堂八幡神社は、亨保5年(1720年)に津堂村の氏神として創られた。ところが明治政府の方針で神社合祀の勅令が出され、八幡神社も明治42年(1909年)に近くの産土神社に合祀され廃社されることになった。地元の津堂村は、城山(津堂城山古墳のこと)のふもとに村社があったという証を、記念碑という形で残そうと村役総会で一致したのです。その記念碑に使う石を、以前から知られていた城山のてっぺんに一部顔を出している石を使おうということになった。
明治45年(1912)、城山のてっぺんで村人によって大石の掘り上げ作業が行われた。その2日目、長さ3メートル、幅1メートル、厚さ30センチの大石を滑車でつり上げると、村人たちは驚きの声をあげた。大石の下は空間になっていて、暗やみの中から鮮やかな朱色が目に飛び込んできたのです。空間は扁平な石を積み重ねて壁を作った部屋のようになっていた。部屋の中央には、かまぼこのような形をした大石があり、その表面は何やら奇怪な紋様が彫り込まれてた。そして壁石も中の大石もすべて赤く塗られており、一種異様な雰囲気を醸し出していたのです。この城山での出来事の一部始終はすぐ村役に報告され、内部を調べることになった。
翌日、再び作業にかかる。まず赤い部屋の天井になっている7枚の大石を動かす。平均的に長辺3メートル、短辺1.8メートル、厚み30センチ程度と推測される7枚の大石は、長辺を接して一列に並べられ、すき間なくぴったり引っつくように丁寧に加工されていました。
天井石を移動さすと部屋の内部がより明らかになってきた。部屋は、少なくとも幅2.5メートル、長さ6メートル以上の大きさがありそうです。しかし内部はかなりの土砂が流れ込んでおり、それを取り除く作業が必要です。土砂を取り除いていくと、部屋の中央に置かれている大きなかまぼこ石がしだいにはっきりしてきた。長さ3.5メートル弱、幅1.5メートル強の大きさで、ふっくらした上面には亀の甲羅を連想させるような彫り込み細工が施されていました。また各辺に2つずつ、合計8つの作りつけの突起までついていた。どうもこれは板石を6枚組み合わせた、巨大な石の棺に違いないと思うようになった。
河内における大石棺発見のニュースは、新聞社を通じて考古学者の耳に入りました。当時、学界の第一線で活躍していた多くの研究者が、城山古墳を次々と訪れました。
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こうして後円部の墳丘から石板を掘り出したことがきっかけで竪穴式石室と巨大で精巧な長持形石棺が発見され、勾玉・鏡・刀剣など多くの副葬品が多数出土した。単なる城山でなく、大王クラスの人物が眠る巨大な前方後円墳とみなされるようになったのです。
その後宮内庁は、後円部の一部を允恭天皇を被葬候補者に想定した「藤井寺陵墓参考地」に指定している。宮内庁管理地と国史跡がダブル珍しい例となっています。

後円部から前方部を撮る

墳丘の西側に下りてみました。ここは内濠だったように見えるが、そうではない。墳丘が削り取られ平地になってしまっている。空中写真を見ればそれがよくわかる。北端には津堂八幡神社の石柵が見えます。ここにも倒木が・・・。

前方部方向を撮ったもの。内濠は、右端に見える樹木のさらに右側なのです。

 小山善光寺(ぜんこうじ)  



津堂城山古墳近くの「小山善光寺」(ぜんこうじ)を訪ねる。この寺に興味を抱いたのは、信濃善光寺との関係、津堂城山古墳の石室天井石が残されていること、という二つの理由からです。密集する民家の中を探し回るが見つからないので、あるお家で訪ねたら「隣です」と。それほど小さなお寺でした。

御本尊は信濃善光寺と同じ一光三尊仏阿弥陀如来。これについて「本田善光の伝説」がある。
推古天皇の御代、信濃の国の本田善光という人が難波の堀江にさしかかりました。すると、「善光、善光」という声がし、池の中から尊像が現れた。驚いた善光は歓喜し拾い上げ、その仏像を背負って信濃に持って帰る途中に藤井寺の隆聖法師の庵に宿泊した。法師はその仏像を祀りたいので譲ってほしいと所望した。しかし一体しかないので、二人で三日三晩にわたり念仏を唱えたところ仏像が二体になった。隆聖法師が一体を本尊として藤井寺に善光寺を建立した。もう1体は本田善行が信濃に持って帰り信濃善光寺を建立した。

本田善光が「難波の堀江」から拾ったという仏像とは。これは日本に伝来した最初の仏像だったのです。
欽明天皇13年(552)、百済の聖明王が使者を通して金銅の釈迦仏一体(日本初渡来の仏像)を朝廷に献上し、仏教を崇拝するように薦めた。この教えを信じてよいか決めかねた欽明天皇は臣下に一人づつ意見を求めた。蘇我稲目は賛成したが、物部尾輿と中臣鎌子は「日本古来の天つ神・国つ神があるのに、異国の神を礼拝すると国の神の怒りをかうでしょう」と反対。そこで天皇は蘇我稲目に仏像を預け、試しに礼拝するようにと仰せられた。蘇我稲目は小墾田(おわりだ)の向原(むくはら)にあった自宅を清め寺に改造して仏像を祀ったという。これが我が国仏教寺院の最初である向原寺です。
ところが、その後疫病が流行して沢山の死者が出た。排仏派の物部尾輿は、外来の蕃神である仏を信奉したため災いを招いた、として訴え天皇の許しを得て向原寺を襲う。仏像を難波の堀江に投げ捨て、寺に火を放ち焼き払ってしまった。
その後、蘇我稲目の子・馬子は父の志を継ぎ篤く仏法を信仰し、これに反対する物部尾輿の子・守屋を攻め滅ぼす。そして日本初の女帝・推古天皇が向原寺のあった地を豊浦宮として即位します。初めて飛鳥の地に宮が造られ、飛鳥時代の幕開けとなった場所です。

数年前、豊浦宮となった向原寺のあった場所を訪れたことがあります(ここを参照)。明日香の甘樫丘の北側、山田道から豊浦集落の路地を南へ少し入った所で、現在も浄土真宗本願寺派「向原寺」という小さなお寺が建っていました。飛鳥時代の幕開けとなった場所とは想像もできない小さなひっそりとしたお寺です。その入口に、豊浦寺跡(豊浦宮跡)として案内板が掲示されていた。
「603年推古天皇が豊浦宮から小墾田宮に移った後に、豊浦寺を建立したとされている。近年の発掘調査で、寺院の遺構に先行する建物跡がみつかり、これを裏付けている。552年(欽明天皇13年)百済の聖明王が朝廷に献上した金銅の釈迦佛(日本初渡来の仏像)を蘇我稲目がたまわり、向原の家を浄めて寺としたのが始まりで日本初の寺とされている。しかし、その後疫病が流行した時、災害は仏教崇拝によるという理由で、物部氏により仏像は難波の堀江に捨てられ、寺は焼却されたという。」と。
本田善光が拾ったという「難波の堀江」はどこか?。現在の向原寺のすぐ傍に、中央に祠を安置しただけの小さな池がある。それがこの池だそうです。ただし、現在の大阪市西区の堀江だという異説もあります。

藤井寺の善光寺は、最初は津堂城山古墳の後円部外側に位置していたが、天正年間織田信長の河内攻めにより焼失し廃寺となる。その後、江戸時代初めの慶長年間に現在地に移転再建されたという。地名を付け「小山善光寺」といい、「元善光寺」「日本最初の善光寺」「信濃善光寺の元祖」と主張されている。本尊の一光三尊仏阿弥陀如来は秘仏で、毎年4月24日にご開帳されるそうです。一方、信濃善光寺のほうは日本最古の仏像として国宝に指定されているのですが・・・。

津堂城山古墳から発掘された石室の7枚の天井石のうち、1枚がここ小山善光寺の敷石に使われているという。山門から本堂前まで真っ直ぐな石畳が敷かれています。よく観察したが判らなかった。大きさが均一なので、裁断されて使われているからでしょうか?。

 雄略天皇陵(島泉丸山古墳・島泉平塚古墳) 



津堂城山古墳から南西500mほどの所に雄略天皇陵とされる古墳があります。田畑が広がる北側から回り込み、住宅を抜けると広い濠が見えてきた。この位置は島泉丸山古墳という円墳の北側にあたる。この広い濠は「御陵池」と呼ばれている。御陵池と呼ばれるように皇室財産で魚釣りできません。

島泉丸山古墳(しまいずみまるやま、高鷲丸山古墳)は直径75m、高さ8mの二段筑成の円墳。古市古墳群では最大の円墳です。幅20mの周濠をめぐらすが、北側だけ幅広に拡張されている。埋葬施設および副葬品は明らかでないが、出土埴輪より古墳時代中期の5世紀後半頃の築造と推定されている。
以前は円墳のこの島泉丸山古墳だけが雄略天皇陵とみなされていた。
北側だけ車道が傍を通り、島泉丸山古墳の墳丘と濠を近くに見ることができます。ここ以外の場所では見ることができない。車道を少し東側へ周ると、島泉丸山古墳の濠を挟んで左側(東側)になだらかな小山が見えてくる。これが島泉平塚古墳(しまいずみひらづか、高鷲平塚古墳)といわれている。現在宮内庁は、両古墳を合わせて雄略天皇陵に治定しています。拝所は島泉平塚古墳の東側、上の写真では左端になる。

江戸時代には島泉丸山古墳だけが雄略天皇陵とされていた。雄略天皇陵について、古事記には「御陵は河内の多冶比高鷲に在る」、日本書紀には「丹比高鷲原陵に葬る」と書かれているので、高鷲に在った島泉丸山古墳を当てたのです。それ以外に大きな古墳が存在しなかった。
ところが幕末になり尊王思想が高まると、各地の天皇陵を荘厳化する試みが行われていった。雄略天皇陵については、その当時の天皇陵に共通する前方後円墳でなく、タダの円墳にすぎない島泉丸山古墳を御陵とすることに忍びなかったと思われる。そこで隣にある小高い田畑だった場所を買収し形を整え雄略天皇陵の前陵としたのです。明治18年(1885)には平塚古墳の西側を盛土して拡張整形し、丸山古墳と合わせて全体を前方後円墳らしくしたのです。同年、宮内省は島泉丸山古墳と島泉平塚古墳を合わせて「雄略天皇陵」として治定する。明治23年(1890)には丸山古墳付近にあった拝所を平塚古墳側に移動する。
現在も、宮内庁は2基の古墳を合わせて雄略天皇の「丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)」に治定している。宮内庁は公式HPで陵形を「円丘」としているのだが・・・。
しかし空中写真を見れば分かるように、おかしな前方後円墳です。後円部(島泉丸山古墳)と前方部(島泉平塚古墳)とが切り離され、その間は水を漂わす濠となっているのです。

現在、前方部は一辺50m、高さ8mの方墳「島泉平塚古墳(しまいずみひらづか、高鷲平塚古墳)」とされているが、これまでに古墳であることを示す遺構・出土品は確認されておらず古墳とすること自体に疑いをもたれている。ともかく可笑しな、不可思議な雄略天皇陵です。

車道を島泉平塚古墳の東側に周ると拝所が現れる。ここは島泉平塚古墳の東側に当たる場所。いわゆる前方後円墳の前方部ということなのでしょう。どこの天皇陵を訪ねても同じような拝所構えで、感動がない。コンクリ製の鳥居でした。

第21代雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)は19代允恭天皇の第5皇子として生まれる。20代安康天皇は同母兄。諱は「大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)」(日本書紀)。
日本書紀などに、気性の激しい残虐非道な暴君として記されている。天皇に就くため兄や従兄弟など親族を容赦なく殺害し天皇に即位する。天皇になってからも敵対者を悉く誅伐し殺害していった。その独断専行の残虐ぶりは「大悪天皇(はなはだ悪しくまします天皇なり)」と誹謗されたという。
そうした強権ぶりは、各地の豪族を鎮圧するなどしてヤマト王権の力を拡大させ、その支配権を日本各地にまで広めた。稲荷山古墳(埼玉県行田市)や江田船山古墳(熊本県玉名郡和水町)から出土した鉄剣の銘文「獲加多支鹵大王」は「ワカタケル大王」だと解され、その支配権が北から南に及んでいたことが示される。
中国の歴史書「宋書」「梁書」に記される「倭の五王」の中の「武」も雄略天皇だとされている。在位23年、62歳で崩御する。
ここを雄略天皇陵とするのには無理があるようです。河内大塚古墳または岡ミサンザイ古墳(現・仲哀陵)を当てる考え方が有力になってきている。宮内庁も河内大塚古墳を雄略天皇の陵墓かもしれないとして、「大塚陵墓参考地」として押さえています。


島泉平塚古墳がよく見える場所が見つからない。南側に回り、グランドの金網越しにやっと眺めることができました。







南側に回ると大きな施設があります。「羽曳野市立陵南の森」です。公民館、老人福祉センター、図書館を含む。
市民の、特に高齢者の憩いの場所となっているようです。








一階の一部が「歴史資料館」で、羽曳野市で発掘されたものが展示されている。ただあまりスペースは広くない。
次は、最後の河内大塚山古墳を目指します。




 河内大塚山古墳(かわちおおつかやま)  



「陵南の森」の前の府道12号線を西へ西へと進む。雄略天皇陵から約1キロほどあります。近鉄南大阪線を越えるとすぐ見えてくる。
古墳は東西を二分するように、松原市西大塚と羽曳野市恵我ノ荘にまたがる。大塚山古墳は全国に同じような名の古墳がいくつもあるので地名をつけて「河内大塚山古墳」と呼ばれてる。
着いた場所は北東隅、つまり北向きの前方部東側。柵越しに広い々濠が見える。

これは前方部を東側から見たもの。北側と西側、つまり前方部と西側面には濠に沿って半周する道があり、墳丘や濠を近くでよく見ることができます。逆に東側、南側は建物に遮られ見れません。

今度は、前方部西角から前方部を撮ったもの。墳丘長335m、後円部(直径185m、高さ20m)、前方部(幅230m、高さ4.5m)の前方後円墳で、全国でも5番目の大きさを誇る。満々と水をたたえた広い濠は、この古墳をより一層雄大に見せてくれます。
造出しや葺石は見つからず、埴輪も見つかっていない。宮内庁管理の聖域なので学術的発掘調査が行われず、被葬者も不明のまま。総合的な判断から、6世紀中頃以降、古市古墳群では最後に造られた前方後円墳と推定されている。この築造時期からすると雄略天皇とは合致しないのだが。
古市古墳群から少し離れており、百舌鳥古墳群と古市古墳群との間に位置する。そのため日本でも有数の前方後円墳ながら、世界文化遺産候補のリストには含まれておらず「謎の」「悲しい」前方後円墳です。

前方部の近くの濠の中に、一本の細い土手が墳丘までつながっている。墳丘内へ渡るためのものでしょうか。反対側にもあります。南北朝時代に、北朝方の丹下氏がこの古墳内に丹下城を築いていた。天正3年(1575)の織田信長による河内国城郭破却令によって城郭は壊され廃城となる。その後、墳丘内の前方部に大塚村という集落が形成され、後円部には氏神の天満宮が祀られていたという。前方部の東西に残る渡り堤は、その当時に墳丘に渡るために造られたものなのでしょうか。

幕末から明治にかけて、各地の天皇陵は聖域化され荘厳なものに改修されてきた。そうした中で、雄略天皇陵とされていた円墳の島泉丸山古墳に、隣の小山をくっつけ前方後円墳らしく造り直した。それでも天皇陵としては貧弱さは免れられない。そこで近くに存在し、今だ陵墓指定されていない巨大な前方後円墳である河内大塚山古墳に目をつけた。大正10年(1921)に史跡指定され、大正14年(1925)には雄略天皇を被葬候補者に想定して「大塚陵墓参考地」に指定したのです。その結果、それまで墳丘内で暮らしていた数十戸の民家は濠外に強制立ち退きさせられ、大塚村の土地収用が進められた。こうして現在まで宮内庁管理の聖域となっています。

渡り堤の入口は頑丈な鉄柵で閉じられている。門の脇に「大塚陵墓参考地 宮内省」の石柱が建ち、側面には「堤ニ入ルベカラズ」と、ベカラズなのは人間様だけのようで、土手上に白鳥らしき鳥が佇んでいました。動かないのでモニュメントかと思ったが、飛んでいっちゃいました。
ブクぶク奇妙な音がするので下を見ると亀さんが寄ってきた。人の気配を感じるとエサをもらえると、お腹空いているんですね。人を寄せ付けない聖域ですが、鳥さんや亀さんには住みやすそうな環境です。

ここは後円部です。濠には水は無く、雑草地となっている。この古墳は「大阪みどりの100選」に選ばれているそうですが、大阪には素敵な緑が少ないのでしょうか。遠くから眺めるだけの緑なんて・・・。謎の広大なこの土地を、古代の歴史遺跡として前方後円墳の形状保存したまま、市民公園とし市民に開放すれば、文化遺産としてより人々に親しまれるのではないでしょうか。

古墳の東側面は住宅が建て込み見ることができない。ただし住宅間の庭、ガレージなどに強引に入り込み覗き見ることはできます。

ここにも白鳥がいたぞ。羽を曳きながら濠を越え東の方へ飛んで行った。行く先は日本武尊白鳥陵だろうか・・・。





詳しくはホームページ

古市古墳群みてやろう 3

2018年10月11日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2018年9月6日(水曜日)、藤井寺市から羽曳野市にわたる古市古墳群を巡りました。古市古墳群は堺市の百舌鳥古墳群とともに世界遺産への登録を目指しています。永年の夢かなって、昨年7月国の文化審議会で世界文化遺産登録への国内推薦が決まり、今年1月の閣議により正式に決定し、国連教育科学文化機関(ユネスコ)に推薦書を提出しました。そして今月、ユネスコ職員による現地調査が入る予定になっている。
そこでユネスコの調査に先立ち、私も現地を査察することに致しました・・・(*^_^*)。
今回は、前の山古墳(日本武尊白鳥陵)から岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)まで。

 前の山古墳(日本武尊白鳥陵)  



高屋八幡山古墳から国道170号線を古市駅ほ方向へ進む。すぐ左手に前の山古墳が見えているのだが、間に近鉄長野線の軌道が縦断しており横へ渡ることができない。
駅手前100mほどの所に左手にカラー舗装の遊歩道が見える。入口に「日本武尊御陵表参道」の石柱が建てられています。このよく整備された遊歩道も竹内街道の一部になっているので、すでに歩いた道です。路面には「ウォーキング・トレイル」と彫り込まれています。

やがて鉄柵と満々と水を貯えた濠が現れ,陵墓の厳かな森が姿を見せました。墳丘の形といい濠の美しさといい、そしてカラー舗装の遊歩道といい、ここまで見てきた古市古墳群の中では最も感動的な古墳です。別名「白鳥陵古墳」ともいわれ、名称まで美しく響きます。鉄柵にまで白鳥が羽ばたいている。

美しいカラー舗装の道を前方部の北角まで行く。右岸の住宅の中ほどに拝所の鳥居が見えます。竹内街道となっているこの北側だけが前の山古墳(日本武尊白鳥陵)を鑑賞できる場所です。前方部だけでなく、南側の側面から後円部にかけても建物に占められ近づくことはできません。

前方部の北角から撮った側面。真ん中あたりに造出しのふくらみが見られる。
前の山古墳は「軽里大塚古墳(かるさとおおつかこふん)」、「日本武尊白鳥陵古墳(やまとたけるのみことはくちょうりょうこふん)」などと呼ばれている。墳丘長190m、後円部の径106m、前方部の幅165mの前方後円墳で、幅40~80mの周濠に囲まれている。古市古墳群では7番目の大きさ。古墳時代の後期にあたる5世紀末から6世紀初頭に築造されたものと推測されてる。

拝所のある前方部は西側ですが、前方部には濠に沿ったような道はない。濠傍まで住宅が密集しているのです。しかしどこかに拝所への入口があるはず。住宅街の中の車道を進むと、空き地に「←白鳥陵 20m」の小さな目印がありました。矢印に従い入っていくとすぐ拝所です。

住宅に囲まれ窮屈そうな拝所となっている。宮内庁は、記紀に記された日本武尊白鳥伝説にもとづき第12代景行天皇皇子の陵墓に治定し、「日本武尊白鳥陵(やまとたけるのしらとりのみささぎ)」として管理している。
よく知られているように日本武尊の陵墓は三ケ所あります。伊勢の国の能褒野(のぼの、亀山市)で病に倒れその地に埋葬された。そこから一羽の白鳥が空へ舞い上がり大和の琴弾原(ことひきのはら,御所市)に舞い降りた。ここが二つ目の陵墓です。さらにそこから舞い上がり河内の旧市邑(ふるいちのむら)に飛来したといわれています。それがこの前の山古墳(日本武尊白鳥陵)です。さらに羽を曳きながら野を越え西の方へ飛んで行ったという。「羽曳野市」の名称の由来です。日本武尊の三つの墓は「白鳥三陵」と呼ばれ、宮内庁が厳重に管理している。「白鳥伝説」と云われているのですが・・・(実際には、能褒野墓が日本武尊の墓で、琴弾原とここの白鳥陵はそれの付属物というのが宮内庁の見解のようだ)。この伝説の陵墓も世界遺産を目指しています。この墳丘と濠を「白鳥公園」として市民に開放したらどんなに素晴らしいことか。

琴弾原の陵墓は訪ねたことがある(ここを参照

 白髪山古墳(しらがやま、清寧天皇陵)  



前の山古墳から住宅の中を西側に出ると、外環状線の広い車道越しに白髪山古墳(しらがやま、清寧天皇陵)が現れる。こちらは後円部で、前方部は西側を向く。二段築成の前方後円墳で、墳丘長115m、後円部(直径63m、高さ10.5m)、前方部(幅128m、高さ11m)。前方部の幅が後円部の2倍あるのが特徴。埋葬施設や副葬品は不明だが、埴輪の年代から6世紀前半の築造と推定されている。

横断歩道を渡ると後円部で、ここからは古墳の全景がよく見える。広い濠をもち、水を貯めています。

西側の車道に出て南へ進むと、車道脇に拝所が現れる。第22代・清寧(せいねい)天皇「河内坂門原陵(こうちのさかどのはらのみささぎ)」に治定されている。雄略天皇の皇子だった清寧天皇は生まれつき白毛だったことから「白髪皇子」とも呼ばれた。古墳名もこれからくる。


白髪山古墳(清寧天皇陵)には傍を歩けるような道は設けられていない。建物と建物の間に入り込み覗き見するしかない。今度は、前方部の南角から覗いて見る。前方部の脇に渡り土堤が見られる。これは江戸時代に墳丘を田畑などに使うため渡した堤と思われる。
おお、白鳥がいてるゾ!



 峯ケ塚古墳(みねがづか)  



白髪山古墳(清寧天皇陵)の拝所前の車道を北上します。400mほどで府道31号線に突き当たるので左折するとすぐ峰塚公園。公園前の道は「白鳥通り」となっている。峰塚公園も竹内街道を歩いた時に立ち寄っているので二度目です。竹内街道は公園前を北へ進み、野中寺前から左へ歩くコースとなっている。
公園入口に綺麗なトイレがあります。

公園に入ると目の前に峯ケ塚古墳(みねがづか)が横たわっている。写真の左(東方向)が後円部、右(西方向)が前方部。二段築成の前方後円墳で、墳丘長96m、後円部(直径56m、高さ8m)、前方部(幅75m、高さ10.5m)。西向きの前方部のほうが高い。

前方部の写真。墳丘には埴輪列と葺石が見つかり、5世紀末から6世紀初頭の築造と推定されている。昭和62年からの復元整備に伴う発掘調査により、二重の濠をもっていることが分かりました。前方部と南側の側面だけ濠が残され水が溜まっている。

説明板によれば、平成3年の発掘調査で、後円部中央に石室が見つかった。その中に、1.2mの大刀が15本も入っていた。さらに三千点を超える副葬品(武器、武具、馬具、金銀ガラス玉などの装飾品)が見つかり、大王クラスの古墳であったことが想定されている。国の史跡に指定され、世界文化遺産候補に含まれています。

峯ケ塚古墳を含む峰塚公園はかなり広く、よく整備されている。公園の西に小高い丘が見える。この上に小口山古墳があります。
階段があるので登ってみました。休息所、展望所となっており、古墳らしさはない。説明板が置かれているので小口山古墳のものか、と思ったら峯ケ塚古墳のものでした。小口山古墳については痕跡も説明もありません。

ここからの眺望はすばらしい。白鳥陵古墳、二上山が一望できる。丘上の展望所から眺めた峰塚公園と峯ケ塚古墳。右遠方には前の山古墳(日本武尊白鳥陵)が見え、その遠方に二上山が。左端は誉田山古墳(応神天皇陵)と思われます。

 塚穴古墳(来目皇子墓)  



次は塚穴古墳(来目皇子墓)です。小口山古墳のある丘から西側に降り、住宅街を抜ければすぐなのですが、自転車を置いたままなので公園入口に引き返す。そこから「白鳥通り」を西へ行き、最初の信号を左折し200mほど行った所にある。「縄文の杜 ふれあい館」が目印です。
塚穴古墳(つかあな)は一辺48mの方墳で、空堀が周っている。7世紀前半の築造と推定されている。

細路を入るとすぐ南向きの拝所だ。塚穴古墳は宮内庁により「「来目皇子埴生崗上墓」(くるめみこはにゅうのおかのうえのはか)」に治定されている。皇子なので「陵」でなく「墓」です。日本武尊は皇子だったが「白鳥陵」とされたのは異例です。
来目皇子は第31代用明天皇の第二皇子で、聖徳太子の弟にあたる。日本書紀によれば、新羅攻め将軍に任命されたが、推古11年(603)筑紫で病のため死去する。周芳(すおう、山口県)でモガリをし、その後河内埴生(はにゅう)山岡上に葬られたとされる。埴生とはこの辺りをさす。
明治に入って陵墓指定をうけ修陵が行われ、現在の形になったが、それまでは横穴式石室と思われる穴が開いていた小山だった。そこから「塚穴」という名称が。

 ボケ山古墳(仁賢天皇陵)(にんけん)  



[A]は野々上埴輪窯跡、[B]は野々上古墳

峰塚公園から北へ300mほどでボケ山古墳(仁賢天皇陵)が見えてきます。見えているのは南西向きの前方部。地名をつけて「野中ボケ山古墳」と呼ばれことも多い。拝所が見えているので行ってみます。


車道右側に拝所への入口が見え、「仁賢天皇埴生坂本陵」の石柱が建っています。ゆるい坂道の参道を下ればすぐだ。第24代・仁賢天皇「埴生坂本陵」(はにゅうのさかもとのみささぎ)に治定されている。鳥居はコンクリ製。

どのような理由でこの古墳が仁賢天皇陵とされたのだろうか?。ネットで調べたがよく判らない。江戸時代中頃の河内の学僧・覚峰が、ボケ山の「ボケ」を「オケ(億計)」の訛ったものと考証し、仁賢天皇陵だとした。仁賢天皇は「億計王」と呼ばれていたのです。それが幕末の天皇陵治定作業で採用され、樹木を植え替え、周濠を整え、拝所構えが造られた。ということくらいしか載っていない。
「ボケ山」と呼ばれる山があった。訛りを理由に「ボケ」を「オケ」に読み替え、「オケ」王の墓だ、なんて牽強付会もいいところではないでしょうか。考古学的な検証など何一つ行われていないのです。そして現在においても科学的な考証を行おうとしない、それどころか拒否しているのです。
近づくと大きな池に遮られる。上田池(かみのたいけ)だ。池の北側の道から土手に上るとまた大きな池がある。下田池(しものたいけ)だ。これらの池は、昔よりため池として水田の灌漑用水として利用されてきた。また池の一部は、古代に造られていた運河の「古市大溝」の一部分でもあった。
二つの大きな池の周囲は整備された遊歩道が設けられている。この遊歩道からは、少し遠くにボケ山古墳を眺めることができます。

後円部から南側の側面を撮る。中ほどに造出しと思われるふくらみが見られます。それほど幅広ではないが周濠がめぐり水を貯えている。
二段築成の前方後円墳で、墳丘長122m、後円部(直径65m、高さ11.5m)、前方部(幅107m、高さ13m)。前方部が後円部と比べて高く、かなり広いのが特徴。埋葬施設や副葬品は不明だが、出土した円筒埴輪などの特徴から6世紀前半の築造と推定されています。

おお、ここにも白鳥がいるゾ!。

こちらは後円部から北側の側面を撮ったもの。南側に比べ濠は少し狭まっている。
なお、近づいて濠を見れる場所はこの後円部の所しかありません。なお、説明板がどこかに立てられているはずだが、見つけられなかった。

 野々上埴輪窯跡・野々上古墳・青山古墳  



ボケ山古墳の前方部北西角の石垣の前に「野々上埴輪窯跡」(ののうえはにわかまあと)の説明板が設置されている。この辺りから埴輪を焼いた窯跡が見つかっている。説明板のみで跡地は残されていない。埋没保存されたのでしょう。

埴輪窯跡の説明板から北西50m位の所に野々上古墳(ののうえ)がある。小さなハゲ盛りで、宮内庁により仁賢天皇陵の陪塚に指定されているのでフェンスで防御されています。
一辺20m、高さ2mの方墳で、付近から採集された埴輪によると4世紀後半の築造と推定される。ならば6世紀前半の築造とされる仁賢天皇陵の陪塚というのは不合理なのだが・・・。



ボケ山古墳(仁賢天皇陵)の東に外環状線を挟んで青山古墳(あおやまこふん)がある。青山病院の裏手だ。ただし病院側からは入れないのでスーパー・イズミヤの方から大回りして行く。
南側に藤井寺市立青山児童公園があり、そこに案内板が置かれていた。南側の濠は埋められた状態に。




濠をめぐらしているが、写真の西側だけに水が溜まっていました。二段築成の円墳で、墳丘長72m、直径62m、高さ10m。墳丘の南西部分には、低く短い方形の造出しと呼ばれる、幅25m、長さ17mの方形の突出をもっています。濠の調査で円筒埴輪のほか、家・きぬがさ・盾・ゆぎ・馬・人物形などの形象埴輪が出土。埴輪から5世紀中頃の築造と推定されている。
国の史跡であり、世界文化遺産候補に入っている古墳でもあります。

 岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)  



ここからは二日目(9月11日火曜日)です。
ボケ山古墳(仁賢天皇陵)から北へ700mほどの位置に岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)があります。古墳名の「岡」は地名で、「ミサンザイ」は「ミササギ(陵)」の転訛したもの。
南側の東角に到着する。古墳の前方部東角にあたり、ここは古墳周回路の東の入口で、案内板が設置されています。写真で、右の細路に入れば墳丘東側を望め、左の道を進めば前方部の拝所に行ける。

まず、右側の道に入ってみる。高く、ぶ厚いコンクリの柵に阻まれ写真撮るのも容易でない。狭い隙間にレンズを差込み撮るしかない。
これは前方部で、対岸に拝所が見えます。濠水の水面は穏やかで、墳丘を美しく写している。
墳丘の東側面を撮りたかったのだが、頑丈な柵が高く、カメラを掲げ上げても撮れない。道がぬかるみ歩きにくいので引き返す。

入口に戻り、前方部の道に入る。前方部は東側と違い非常に防御が甘い。一応ロープが張られているが、低く簡単に跨げる。どこの天皇陵にも掲げられている「釣りをするな!、魚を獲るな!」などの高圧的な警告も見られない。宮内庁は、ここ仲哀天皇陵に限ってはたいへん国民に寛容で優しいようです。世界遺産を目指すならこれくらいでなくてはならないと思う。堤上の植松も美しく、天皇陵らしい景観を見せてくれている。

失礼ながら堤に入らせていただきました。宮内庁様、ゴメンナサイ。ここからは墳丘の東側面が撮れます。濠が広く、美しい。
(案内板より)三段築成の前方後円墳で、墳丘長245m、後円部(直径150m、高さ20m)、前方部(幅180m、高さ16m)、古市古墳群では3番目、全国では16番目の規模をもつ古墳。周囲に最長幅50mの広い盾形の濠をもつ。堤の盛り土が高いのは昔、城として利用された際に盛り土されたからだという。東側に造出しがある。埋葬施設・副葬品は不明だが、円筒埴輪、形象埴輪が出土しており、それから5世紀後半の築造と推定される。

おお、ここにも白鳥が飛んでいるゾ!。

松並木の参道を西に進めば拝所です。拝所前は住宅が迫り、非常に窮屈そうだ。拝所の鳥居はコンクリ製のようです。

第14代・仲哀天皇(ちゅうあい)「惠我長野西陵」(えがのながののにしのみささぎ)に治定されている。仲哀天皇は、父が日本武尊で神功皇后を妻とする。そして応神天皇は子にあたる。この三人の名はよく知られているが、仲哀天皇は影が薄い。
知名度は低いながらこれだけ立派な前方後円墳が割り当てられているのは、知名度の高い父・皇后・子のおかげだろうか。しかし岡ミサンザイ古墳を仲哀天皇陵とするのに疑問が多い。考古学的に岡ミサンザイ古墳は5世紀後半の築造とされ、子の応神天皇陵(誉田山古墳)が5世紀前半の築造と推定されている。子の墓より新しいとは・・・。そこから489年に亡くなった第21代雄略天皇とする説が有力。

拝所からさらに西側に、前方部西角まで道は続いている。ここが前方部西角で西からの入口になる。この角からさらに墳丘の西側面に回る道が設けられ、岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)は濠に沿ってほぼ一周できるようだ。他の天皇陵と違い、下々に優しいようで、”仲哀”でなく”仲愛”と変えてやりたいくらいです。

平成8年の宮内庁による発掘調査で、墳丘は戦国期に三好方が織田信長に対抗する城郭として利用され、後円部に本丸、前方部に櫓台、裾部から墳丘部に向けて竪堀等が掘り込まれ、古墳全域が城郭化されていた。そのため大規模な改変を受けており、古墳本来の姿を大きく失っているそうです。

 鉢塚古墳・アイセルシュラホール(藤井寺市立生涯学習センター)  



鉢塚古墳(はちづか)は岡ミサンザイ古墳後円部の北100m位にある。やや見つけにくいが、市立藤井寺西幼稚園の裏なので、幼稚園を目印に探せばよい。古墳へ入れる入口は南側で、ここだけが古墳の全景を見通せます。西に前方部を向けた前方後円墳です。柵で囲まれているが宮内庁管理でありません。柵の一部が開けられ入れる。説明板が立っている。
墳丘上まで土嚢が並べられている。遠くから見ると古墳の葺石のように見えます。二列に並べられ階段の役目をしているのです。これが踏み心地が良く大変登りやすい。費用がかからず、土砂流出も防げる。良いアイデアなので他の古墳でも取り入れてもらいたい。
墳丘周囲には周濠が認められたが、住宅や幼稚園などが建ち埋没してしまっている。いや”埋没保存”です。



墳丘上の前方部から後円部を撮る。墳丘長60m、後円部(直径38m、高さ6.5m)、前方部(幅40m、高さ4m)の前方後円墳。築造年代は5世紀後半と推定されている。






古墳の北側に回ると市立藤井寺西幼稚園だ。このご時世、頑丈な柵扉が閉じられ、「警察官パトロール拠点」「防犯カメラ設置園」「知らない人に声をかけられたら?、ワァ~ 大きな声を」のプレートが。おじさんがウロウロするのも気がひけるので、写真を撮って素早く立ち去る。この古墳も世界遺産登録候補の一つです。

ボケ山古墳(仁賢天皇陵)の後円部の東側に「アイセルシュラホール」という奇妙で巨大な建物がある。正式名は「藤井寺市立生涯学習センター」。周辺は住宅、学校が建ち、田圃が広がる地帯。周辺環境に不似合いな建造物だ。あの広い峰塚公園のほうが似合いそうだが。

4階まであるが、この最上階がすごい。一面に人工芝を敷きつめたゲートボール場となっており、雨天でも利用できるよう電動開閉式ドームになっているそうです。
この奇妙な外観は、近くの岡古墳(消滅)から見つかった巨大な船形埴輪と、三ツ塚古墳で出土した修羅(巨石運搬用ソリ)をモチーフに設計されているという。「アイセルシュラ」の「シュラ」は修羅だが、「アイセル」とは?。和英辞典などみるが???。パンフに「愛せる」の文字が・・・これかな?。

二階が歴史展示ゾーンで、藤井寺市内の遺跡で見つかった旧石器時代から奈良時代までの遺物を展示している。感心したのは、映像鑑賞できる個室が4つも設置されていたことです。


津堂城山古墳から出土した水鳥形埴輪三体、実物で、重要文化財となっています。




詳しくはホームページ

古市古墳群みてやろう 2

2018年10月02日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2018年9月6日(水曜日)、藤井寺市から羽曳野市にわたる古市古墳群を巡りました。古市古墳群は堺市の百舌鳥古墳群とともに世界遺産への登録を目指しています。永年の夢かなって、昨年7月国の文化審議会で世界文化遺産登録への国内推薦が決まり、今年1月の閣議により正式に決定し、国連教育科学文化機関(ユネスコ)に推薦書を提出しました。そして今月、ユネスコ職員による現地調査が入る予定になっている。
そこでユネスコの調査に先立ち、私も現地を査察することに致しました・・・(*^_^*)。
巡回コースは近鉄南大阪線・土師ノ里駅を出発点に、市野山古墳(允恭天皇陵)→仲津山古墳(仲姫命陵)→誉田山古墳(応神天皇陵)→高屋築山古墳(安閑天皇陵)と南下し、今度は逆に前の山古墳(日本武尊白鳥陵古墳)→ボケ山古墳(仁賢天皇陵)→岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)→津堂城山古墳→雄略天皇陵へと北上します。

 誉田山古墳(こんだやま、応神天皇陵)  


ここは大鳥塚古墳から道路を挟んだ南側で、すぐ前に誉田山古墳(こんだやま、応神天皇陵)の正面拝所への入口がある。入口左に見えている小山は応神天皇陵の陪塚に指定されている「丸山古墳」(丸山古墳の名称は各地に多く存在するので、地名を付けて「誉田丸山古墳」と呼ばれることも)。直径50m、高さ10mの円墳で、濠を回らせていた。丸山古墳から、嘉永元年(1848)にきらびやかな馬具(金銅製透彫鞍金具)が出土した。日本でも最古級、最優秀の鞍で、馬具は一括して国宝指定されている。現在、誉田八幡宮の宝物館に保存されている。
参道脇の建物は宮内庁書陵部「古市陵墓監区事務所」。
参道は100mくらい。仁徳天皇陵ほどの壮大さはない。「応神天皇惠我藻伏崗陵」(えがのもふしのおかのみささぎ)に治定されている。「恵我」というのは、現在の藤井寺市、羽曳野市から西の松原市東部辺りまでを指す古代の地名のようです。
第15代・応神天皇(おうじんてんのう)は仲哀天皇と神功皇后との間に生まれ、仁徳天皇の父。身籠った神功皇后は出産を遅らせながら三韓征伐にいき、その帰途に筑紫で生まれたとされる。母の神功皇后の胎内にあったときから皇位に就く宿命にあったので、「胎中天皇」とも称された。71歳で即位し、111歳で崩御(古事記では130歳)。河内王朝の創始者だとの説も。実在を否定される学者もおられるのだが・・・。なお、堺市の百舌鳥古墳群内の御廟山古墳も、宮内庁は応神天皇を被葬者に想定して墳丘部分を「百舌鳥陵墓参考地」に指定し管理している。
天皇陵の鳥居は石(コンクリ)製と思っていたが、拡大してみると木製のようです。何故、腐食に強い石の鳥居にしないのでしょうか?

拝所から誉田山古墳の東側を周るが、密集する住宅に阻まれ古墳の傍まで近寄れない。家屋の屋根上にかすかにのぞく森の一部を垣間見るだけです。
グランドが現れ、この位置からが一番よく見えた。手前の森が位置的に応神天皇陵の陪塚に指定されている二ツ塚古墳なのだろうか。住宅の間の道を誉田山古墳に少しでも近づこうとするが、どうしても住宅に阻まれ行き止まりです。

右往左往しているうちにいつの間にか誉田八幡宮の境内に入っていた。古墳の後円部にあたります。ここから古墳の濠に沿って歩道が設けられているという西側に周ります。進むと広い空き地が見えてきた。説明板によれば、古墳の外濠跡のようです。外濠と外堤が築造されたのは西側だけのようで、天皇陵にしてはいびつな造りになっている。東側には造営前から二ツ塚古墳が存在しており、それを避けるため歪んでいるそうだ。この西側の外濠と外堤は宮内庁の天皇陵指定から外れているようで、昭和53年(1978)に「応神天皇陵古墳外濠外堤」として国の史跡に指定された。ただ整備半ばといった状態に見えます。

国の史跡となっている西側の外濠と外堤です。すぐ横は国道170号線だ。誉田山古墳(応神天皇陵)を鑑賞(感傷)できるのはこの場所しかない。といっても、見えているのは内堤の樹木だけ。墳丘や内濠は樹木に遮られ見えません。
ここに案内板が設置されている。三段築成の前方後円墳で墳丘長425m、後円部(直径250m、高さ35m)、前方部(幅300m、高さ36m)、全国第二位の規模、容積では大仙陵古墳(仁徳天皇陵)をしのぐという。埋葬施設などは、発掘調査できないため詳しいことは不明という。出土した円筒埴輪、形象埴輪などから5世紀前半の築造と推定されている。
古墳名は「誉田山古墳(こんだやま)」、または「誉田御廟山古墳(こんだごびょうやま)」と呼ばれている。応神天皇は、日本書記では「誉田別尊(ほむたわけのみこと)」、古事記では「品陀和氣」となっている。そこから地名や神社名に「誉田」が使われた。「ほむた」と読むべきだが、なまって「こんだ」となったようです。

説明板の写真や、GoogleEarthでしか広い内濠を見ることができない。それを見ると、前方部と東側面しか水を貯えていないようで、それ以外は草の生えた湿地帯となっているようだ。

平成23年(2011)2月、応神天皇陵に初めて学術調査が入るということで注目を集め、上空には何機ものヘリコプターまで飛来したという。どこを調査したか?。内濠の外の堤だという。幅50m、総延長2.2kmを各学会の選抜され先生方が3時間ほど歩き回っただけだそうです。これだけでメディアが取り上げ、世間が注目する。神聖化された天皇陵は、今なお深い々深淵の中におわします。これで世界文化遺産に相応しいといえるのでしょうか?

江戸時代の図絵です。誉田八幡宮から後円部墳頂まで続く階段が目を引く。明治以前は自由に墳丘内に出入りできていたようです。後円部の頂上には誉田八幡宮の奧の院(六角形の仏堂)があり、一般の人も濠を渡り石段を登って参拝していたという。即ち、こちら側が応神天皇陵の拝所だったのです。
ところが他の陵墓と同じように、幕末の文久(1861年~1863年)の修陵によって一変する。尊皇思想の高まりの影響を受け天皇陵の治定作業が行われ、陵墓とされた古墳を聖域化・神域化していった。全ての人の立ち入りを禁止し、拝所を前方部中央の濠外に造る。砂利敷きの広場を設け、石造の玉垣で囲い、鳥居、灯籠などが新たに造営された。鳥居が建ったので、古墳の内部は神の領域となり、人々の世界と隔絶されたのです。こうした陵墓の神聖化は明治に入っても引き継がれ、天皇中心の皇国日本のシンボルとなる。拝所だけでなく、陵墓墳丘の景観も大きく変わる。それまで雑草、雑木が茂っていた墳丘は松や檜などの常緑樹に植え替えられ、現在目にするような青々とし荘厳な陵墓景観となっていった。

ここ誉田山古墳でも、墳頂の仏堂や石段は撤去され、入ることを禁止され、拝所は神社とは反対側の前方部に新たに造られたのです。

 誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)  



誉田山古墳(応神天皇陵)の南、即ち後円部の真後ろに古墳に接するように誉田八幡宮が鎮座する。石の鳥居から真っ直ぐ伸びた参道の奥に拝殿が見える。拝殿は割拝殿形式で、奥に主祭神の応神天皇が祀られている本殿が見える。隅々までよく手入れされ、神社らしい雰囲気が漂います。
石鳥居、社殿は東を向き、すぐ東側には東高野街道が南北に走っています。

境内の案内板に「欽明天皇(第14代)の勅定によって応神天皇の陵の前に営まれた社殿を、後冷泉天皇(第70代)の頃(1045-68)になって、南へ1町(約109メートル)離れた現在の場所に造り替えたことが伝えられています」とある。ということは、元は応神天皇陵の後円部内にあったということなのだろうか。応神天皇を御祀りし祭祀を行う神社として始まったようです。
八幡神(はちまんしん)は応神天皇(誉田別命)の神霊とみなされ、八幡神を守護神としていた武家の尊崇をあつめた。特に源氏は、近くの河内国壷井(大阪府羽曳野市壷井)が発祥の地で、壺井八幡宮を河内源氏の氏神としていた。源頼朝は建久7年社殿、伽藍を修復し、国宝の神輿や、神馬、重要文化財の鳶松皮菱螺鈿鞍・同鉄蛭巻薙刀などを寄進し、室町幕府六代将軍足利義教は、重要文化財「誉田宗廟縁起」、同「神功皇后縁起」を奉納した。
南北朝時代から戦国時代にかけては、戦乱により再三再四その激戦場となり、そのために社殿および伽藍が戦災を受けて荒廃した。その後、織田信長が河内を支配すると誉田八幡宮の寺領を没収してしまう。
信長の死後、天下統一を果たした豊臣秀吉により社領二百石を寄進され復興するかに見えましたが、天正14年(1586)に社殿、伽藍が焼失した。豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行に任命して社殿再建を行ったが、拝殿の建造中に大坂夏の陣・豊臣氏滅亡があり、建物の内部が未完成のままとなっている。徳川幕府は、誉田八幡宮に引き続き社領二百石を扶持し、また数次にわたって社殿の造営、修復を行っています。今の社殿は江戸時代のはじめに建てられたもの。
明治に入ると天皇陵の聖域化が進められ、墳頂の仏堂や階段は撤去され、陵内に入ることも禁止され、拝所は神社とは反対側の前方部に新たに造られたのです。また神社内に神宮寺として存在していた長野山護国寺は廃仏毀釈の影響を受け破壊されてしまう。

参道中ほどの左手に四脚門の南大門(なんだいもん)が名前の通り南向きに建つ。神社に寺門とは??ですね。
奈良時代、境内に神宮寺として長野山護国寺が行基により建立され、多くの伽藍が並んだという。しかし明治初年の神仏分離令により寺は取り壊され、唯一この南大門が残された。神仏習合の名残です。
拝殿と同じく豊臣秀頼による再建だが、豊臣家滅亡後に徳川家に引き継がれ完成したもの。

拝殿前を右に折れて進むと石造の放生橋(ほうじょうばし)に突き当たる。橋の先はすぐ誉田山古墳(応神天皇陵)の後円部です。年に一度、9月15日の秋季大祭りの夜、応神天皇の神霊を乗せた神輿を担ぎ、この橋を渡って御陵へ入る「神輿渡御神事」が行われる。といっても古くからある太鼓橋のほうでなく、隣の平らな仮設橋を使ってです。放生橋の太鼓状はかなりの急で、多人数で神輿を担いで渡るのは無理なように見えます。
宮内庁は永年の慣例から年に一度だけ、特別に陵内に神輿が入ることを許可している。「永く応神陵を守護してきた歴史的経緯もあり、堤の上までの渡御を認めている」というのが宮内庁陵墓課の説明です。といっても後円部の墳丘に入れるわけはない。見えているのは内濠の外堤で、そこまでのようです。
源頼朝が寄進した神輿(国宝)。幕末までは、周濠を渡り後円部の上に建つ誉田八幡宮の奧の院(六角形の仏堂)まで階段を登り参拝していた。源頼朝寄進の神輿は近年まで使われていた、と書かれているが、神輿を担いで仏堂まで登ったのでしょうか?。しかし幕末から明治にかけて尊皇思想が高まるとともに、仏堂、階段は取り壊され陵内への立ち入りも禁止されてしまう。

参道の右手に「誉田林古戦場址(こんだばやしこせんじょうあと)」の碑が建つ。
誉田八幡宮周辺は、東高野街道、竹内街道、奈良街道など通り交通の要衝にあたる。京都、大和方面から敵を防御する戦略上の拠点でもあった。そのため南北朝期から戦国期にかけて多くの戦が繰り広げられ古戦場の舞台となったという。

 狭山古墳・宮山古墳・野中古墳  



誉田山古墳(応神天皇陵)傍の東山古墳から西へ200mほどの位置に狭山古墳(はさみやま)がある。前方部が東向きとなっている。車道から少し入ると前方部の南角にでる。古墳の大きさに似合わず広い濠が特色で、緑色に染まった水が美しい、というか異様です。空中写真で見ると、後円部の濠には水が無い。そこは埋め立てられ水田に利用され、そのため濠の形が和鋏に似ていることから古くから「はさみ山」と呼ばれていたそうです。
三段築成の前方後円墳で墳丘長103m、後円部(直径60m、高さ9.5m)、前方部(幅66m、高さ9.1m)。5世紀前半の築造と推定。


狭山古墳から車道を挟んで南側に位置するのが野中宮山古墳。前方部を西方向に向けた前方後円墳です。北側に濠水が見られたが、それ以外は埋め立てられている。前方部の濠は埋め立てられ、前方部の一部を削って藤井寺市立の幼稚園となっています。




墳丘上には自由に登れる。階段やスロープも設けられています。前方部から東方向の後円部を見れば、石の鳥居と階段が見えます。4mほど高い後円部の上に野中神社が鎮座しているからだ。ここは桜の名所で「藤井寺八景」の一つとなっているそうです。

古墳の南側は濠が埋め立てられ「野中宮山児童分園」となっている。
児童分園に設置されていた案内板から紹介します。三段築成の前方後円墳で墳丘長154m、後円部(直径100m、高さ14.1m)、前方部(幅90m、高さ10.1m)。5世紀前半の築造と推定されている。

羽曳野警察署と市役所の間を西へ入っていくとすぐ左手の駐車場の奥に野中古墳が見えている。国史跡に指定され、この古墳も世界文化遺産候補に含まれています。
奥へ入っていくと入口と説明板があります。こちらから見ると丸裸の墳丘で、形状がよくわかる。一辺37m、高さ5m、二段築成の方墳で幅2mの濠がめぐらされていた。5世紀中頃から後半の築造と推定されている。
昭和39年(1964)、墳頂から5列の木箱が見つかり、その中に甲冑11組、鉄製刀剣170が入っていた。1古墳で出土した甲冑の数としては黒姫山古墳(堺市)に次ぐもので注目された。



墳丘に登ってみました。南の方向に、民家越しに見えるのは墓山古墳。







 墓山古墳とその周辺  



羽曳野市役所裏の墓山古墳(はかやま)へ向う。市役所南側の車道を入るとすぐ墓山古墳の後円部に突き当たる。突き当たりの左側手前にある小山が向墓山古墳(むこうはかやまこふん)。東辺68m、西辺62m、南北62m、高さ10mのややいびつな形の二段築成の方墳。応神天皇陵の陪塚として宮内庁が管理し、フェンスで囲まれている。墓山古墳の陪塚なら考えられるのだが・・・。向墓山古墳も世界文化遺産候補に含まれる。

墓山古墳の後円部には濠に沿って歩道があり、墳丘と濠を眺められます。説明板も設置されている。

後円部の歩道を北周りに歩いてみます。後円部北角から北側の側面を撮ったもの。緑色の濠水が印象的です。ただし濠水が見られるのは、南側面の一部とこの後円部だけのようです。
墓山古墳は三段築成の前方後円墳で、墳丘長225m、後円部(直径135m、高さ20.7m)、前方部(幅153m、高さ19.3m)。古市古墳群では5番目の大きさ。葺石と埴輪が確認され、5世紀前半の築造と推定される。応神天皇陵の陪塚に指定され、墳丘のみ宮内庁が管理している。周濠をもち、これだけ大きな前方後円墳が陪塚とは考えられないのだが。ただし古墳全体が昭和50年(1975)に国の史跡となっており、重複指定されている珍しい例です。

今度は南回りに歩いてみる。すぐ墓場です。古墳に沿った細長い墓場で、奥は通り抜けできず、引き返さなければなりません。古墳の堤や周濠の一部を、地元の人々は墓地として利用し続けてきた。墓山古墳と呼ばれるのもうなずけます。






墓山古墳の前方部に周るため、墓場を出て住宅街に入る。これがまた迷路のような住宅街で、どこを通っているのか分からなくなってきた。ようやく迷路を脱し、前方部に達する。前方部の一部も墓地に利用され「野中共同墓地」とある。

墓山古墳の前方部です。濠には水は無く雑草が生えている。先日の台風によるものか倒木も見られ、濠内で数人が雑草刈りや倒木整理にあたられていた。

墓場への入口手前左手の盛り上がりが浄元寺山古墳(じょうがんじやま)。一辺67m、高さ7mで、二段築成の方墳。円筒埴輪と朝顔形埴輪が出土し、5世紀中頃の築造と推定される。
浄元寺山古墳も国史跡で、世界文化遺産候補に含まれる。




 誉田白鳥埴輪製作遺跡・翠鳥園遺跡公園  



地図によれば、羽曳野市役所の近くに「誉田白鳥埴輪製作遺跡(こんだはくちょうはにわせいさくいせき)」がある。探し回ったが見つからない。市役所に入って尋ねても要領を得ない。たまたま年配の市民の方が居合わせ、俺が詳しいと案内してくださいました。
市役所から100mほど南の路地横に駐車場があり、おじさんはそこを指し「ここら辺りが埴輪製作の跡地だったが、幹線道路が造られるなどしてほとんどなくなってしまった」と教えてくれました。それとなく案内板が置かれている。

案内板の赤枠線内が跡地です。現在地の右横が駐車場で、幹線道路を越えた先にも跡地がある。写真では、駐車場から真っ直ぐ右奥の樹のの茂っているところ。現在そこだけが跡地として整備され残されている。

信号を渡った先の道路脇にある小さな小さな埴輪製作の跡地で、「誉田白鳥埴輪製作遺跡公園」となっている。小さすぎてすぐ近くの市役所の職員も気づかなかったのでしょう。国の史跡に指定されているのですが。


墓山古墳南方にスーパーのイズミヤがある。前の道路を東へ400mほど行けば近鉄・古市駅だ。このイズミヤの裏が広い駐車場になっている。駐車場の先に、卵を輪切りにしたような奇妙なモニュメントが見える。そこが
翠鳥園遺跡公園(すいちょうえんいせき)です。

翠鳥園遺跡公園のシンボルがこの大きな卵型モニュメントです。
休憩所に置かれていたパンフレットには「石器を作るために打ち割ったサヌカイトを表した大きなモニュメント。中に入ればサヌカイトの不思議なサウンドが響き、足元には鋭くとがった石器が浮かび上がってきます。」とあったが、音も聴こえず足元にも気づかなかった。
右は休憩所を兼ねた学習解説施設。遺跡の発掘調査の模様、石器の作り方、旧石器時代の人々のくらしなどを解説したビデオが設置されています。

平成4年(1992)春、発掘調査で二万年前の石の破片が約2万点見つかった。二上山で産出されるサヌカイト石を細工した石器やその破片で、粘土層に覆われ保護されていたのです。また30か所以上の石器づくりの跡も見つかっている。旧石器時代の石器造りの様子がうかがえる貴重な遺跡です。この遺跡は平成10年(1998)に遺跡公園として整備された。



公園にはベンチが置かれ、トイレもあり休憩にお勧め。また公園内の芝生の広場には、旧石器時代の石器作りの跡がアトリエ(作業場)として写真で再現されています。








 白鳥神社古墳  



近鉄・古市駅へ行き、駅横の踏切を渡り駅裏へ回る。駅裏の森の中に白鳥神社があります。最近できた観光案内所の前には「竹内街道」のプレートがかかっている。竹内街道は数年前に歩き、この場所も通り、白鳥神社にも寄りました(ここを参照)。

神社は駅とは反対側の東方向を向いている。この丘は、全長120m、後円部径65m、前方部幅70mの前方後円墳で、「白鳥神社古墳」と呼ばれている。現在はその面影は全くありません。前方部は近鉄によって削り取られてしまっているようです。
鳥居を潜り階段を登れば正面に拝殿が見える。元々は、現在の前の山古墳(日本武尊白鳥陵)の上にあり「伊岐宮(いきのみや)」と呼ばれていたようです。戦火、地震などのいくつかの転変を経て寛永年間(1624~43)末期に古市の氏神として現在地に移されたという(Wikipediaには天明4年(1784)となっている・・・)。

 高屋城山古墳(安閑天皇陵)・高屋八幡山古墳  



天皇陵のちょうど東側、後円部の中央に出る。高い鉄柵で防御されています。濠を覗くと、後円部の真ん中を境に向こう側は水が溜まり、手前は草地となっていた。
後円部に案内板が設置されている。墳丘長122m、後円部(直径78m、高さ13m)、前方部(幅100m、高さ12.5m)の前方後円墳。埋葬施設や副葬品は不明だが、各種埴輪や須恵器が出土し、それから6世紀前半の築造と推定されている。

高屋城山古墳の南側は東高野街道となっている。その東高野街道を南西に進むと国道170線に突き当たる。そこを100mほど北へ行くと西を向いた拝所があります。第27代「安閑天皇古市高屋丘陵」(あんかんてんのうふるちのたかやのおかのみささぎ)に治定されている。
「安閑天皇古市高屋丘陵 継体天皇皇女神前皇女墓」と掲げられている。安閑天皇と継体天皇皇女が合葬されているようだ。第27代安閑天皇(あんかんてんのう)は継体天皇の長子で、66 歳で即位したが、わずか 4 年で崩御した。合葬されている神前(かんさき)皇女は継体天皇の娘で、安閑天皇の異母妹にあたる。

前方部の北角から拝所を撮る。
城山古墳と呼ばれるように、中世には守護大名の畠山氏の居城・高屋城の本丸として利用されていた。当時の平山城としては全国最大規模だったという。そのためか墳丘はかなり改変されているそうです。高屋城は天正3年(1575)、織田信長に攻められ焼き討ちされて滅亡する。この本丸の南に高屋丘陵を利用した二の丸、三の丸があったが、現在は宅地開発で破壊され痕跡は無い。

高屋城山古墳から国道170線を200mほど南下すると左手に「安閑天皇皇后春日山田皇女御陵」の石柱が建っている。目立たないので見逃しやすい。細い路地を入っていく。貧弱な参道なのは皇女なのだからでしょうか。

古墳名は「高屋八幡山古墳」(たかやはちまんやま)。現状は一辺40m位の方墳に見えるが、住宅建設などの事前発掘調査で、墳丘長85m、幅10mの盾形の周掘をもつ前方後円墳であることがわかった。北側の後円部は住宅になってしまって残っていない。残された前方部の一部だけが宮内庁によって仁賢天皇皇女の「春日山田皇女古市高屋陵」(かすがのやまだのひめみこのふるちのたかやのみささぎ)に治定されている。日本書紀には、春日山田皇女は安閑天皇の御陵に合葬されたとなっているのだが・・・?。
ここの鳥居はコンクリのようです。


詳しくはホームページ

古市古墳群みてやろう 1

2018年09月25日 | 寺院・旧跡を訪ねて

関西地方に甚大な被害をもたらした台風21号が去った二日後、藤井寺市から羽曳野市にわたる古市古墳群を巡りました。古市古墳群は堺市の百舌鳥古墳群とともに世界遺産への登録を目指しています。永年の夢かなって、昨年7月国の文化審議会で世界文化遺産登録への国内推薦が決まり、今年1月の閣議により正式に決定し、国連教育科学文化機関(ユネスコ)に推薦書を提出しました。そして今月、ユネスコ職員による現地調査が入る予定になっている。
そこでユネスコの調査に先立ち、私も現地を査察することに致しました・・・(*^_^*)。広い古市古墳群は徒歩では無理なので、電動アシスト自転車でスイスイと・・・、とはいかなかった(-_-;)。
巡回コースは近鉄南大阪線・土師ノ里駅を出発点に、市野山古墳(允恭天皇陵)→仲津山古墳(仲姫命陵)→誉田山古墳(応神天皇陵)→高屋築山古墳(安閑天皇陵)と南下し、今度は逆に前の山古墳(日本武尊白鳥陵古墳)→ボケ山古墳(仁賢天皇陵)→岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)→津堂城山古墳→雄略天皇陵へと北上します。

住宅が密集し迷路のような路地に惑わされ、古墳の傍になかなか近づけない、小規模な古墳は見つけられない、など苦労する。そのため無駄な時間を労し、一日では周りきれなかった。世界文化遺産を目指す古墳群は、私にとってかなり距離のある存在でした。岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)からは5日後の9月11日(火曜日)に再訪した。

 市野山(いちのやま)古墳(允恭(いんぎょう)天皇陵)  



7時、近鉄南大阪線・土師ノ里駅に着く。手持ちのパンフによれば、駅前にレンタルサイクルがあり利用料金は自転車が250円、電動自転車が500円とあります。古市古墳群の全てを徒歩で一日で周ろうとするのは無理なので自転車のお世話に。それも電動アシスト自転車に初挑戦することにしました。土師ノ里駅前にある鍋塚古墳の上から北東方向を撮った写真。右が駅、左端ビルの一階にレンタルサイクルがある。市野山古墳が駅のすぐ傍に位置しているように見えますが、それでも駅から1~200mはあります。

国道170号線を駅から300mほど北上すると、右手に允恭天皇陵の正面拝所への入口が見えてくる。拝所のある前方部は北側に、後円部は南側で駅に近い方向です。前方部は濠近くまで住宅が建てこんでいるが、拝所まで真っ直ぐな参道が設けられています。入口はここしかなく、拝所の正面は住宅で遮られ入口はない。
前方部北西角からの眺め。広い濠には水は無く、草が生えている。市野山古墳の大きさは、墳丘長230m、後円部(直径140m、高さ22.3m)、前方部(幅160m、高さ23.3m)、三段築成の前方後円墳。古市古墳群の中では4番目、全国でも19番目の大きさの前方後円墳です。
住宅が迫っているので、窮屈そうな拝所です。明治時代の初めに「允恭天皇惠我長野北陵」(えがのながののきたのみささぎ)に治定された。
第19代允恭天皇(いんぎょうてんのう)は、中国の歴史書に記される倭の五王中の倭王「済」ではないかとされている。系譜上では、仁徳天皇の第四皇子で、履中天皇、反正天皇の同母弟。母は葛城襲津彦の女・磐之媛命(いわのひめのみこと)。安康天皇、雄略天皇の父。都を「遠飛鳥宮(とおつあすかのみや)」に定め、飛鳥の地に宮を設けた最初の天皇だそうです。

市野山古墳(允恭天皇陵)の周囲はフェンスで囲まれているので、フェンス越しに撮りました。左の写真は後円部、右は後円部から前方部を撮ったもの(古墳の西側)。天皇陵に見られる満々とした濠水が全く見られない。草ボウボウとしています。水はけが良すぎるのでしょうか。
市野山古墳で墳丘を見通せるのは、前方部の拝所までの参道と、後円部のこの位置しかありません。

市野山古墳(允恭天皇陵)の北側300mくらいの所に古社・志貴県主神社(しきあがたぬし)があります。正面に朱色の鳥居が立ち、その脇に「惣社宮」「式内志貴県主神社」「河内国府址」の碑が立っている。
この辺りの肥沃な水田地帯は「志貴(磯城)の県」という朝廷の直轄地で、神八井耳命(かむやいみみのみこと、神武天皇の子)を祖とする志貴県主(しきのあがたぬし)と、その同族の志貴首(しきのおびと)が管理していた。その氏神として創建された神社という。また河内国府が設置され、その総社(惣社)ともなった。
その後、南北朝の頃には楠木正成の祈願所として栄えたが、楠木氏の衰亡とともに衰微し、大坂夏の陣などの兵火により社殿焼失、江戸期に再建されるが勢いは取り戻せず。明治5年(1872)村社に指定され、本殿・拝殿を再建して現在に至る。この周辺の町名は「惣社」。
志貴県主神社の前から右の道に入り、200mほど行くと広い空き地にでます。ここが国指定史跡となっている「国府遺跡(こういせき)」。一面に緑の芝生が広がっているだけで、遺跡らしい痕跡は見られない。まだ未整備のようです。
大正時代の発掘調査で、手足を折り曲げて埋葬された3体の縄紋時代の人骨と、縄紋土器や弥生土器が確認された。その後の調査によってさらに縄文時代から弥生時代の90体を超える人骨が確認されるとともに、人骨頭部両側からケツ状耳飾りが出土した。学術的にも貴重な遺跡として昭和49年(1974)に国指定史跡に指定されました。

 道明寺と道明寺天満宮  


土師ノ里駅から国道170号線を400mほど南下し、少し東へ入ると道明寺(どうみょうじ)がある。真言宗御室派の尼寺。山号は蓮土山。
7世紀中頃に古墳造営にあたった土師氏の氏寺として、現在の道明寺天満宮の南側参道付近に建立された「土師寺」を起源とする。その後、戦国時代の戦火や江戸時代の石川の洪水による荒廃が原因で道明寺天満宮の境内地に移り、さらに明治時代の神仏分離令(明治5年、1872)に よって現在地に移った。菅原道真は土師氏の末裔で、道真死後の天暦元年(947)に道真の号である「道明」から「道明寺」と改められた。
本堂には本尊の国宝:木造十一面観音立像が祀られている。毎月18日と25日に拝観することができる。

道明寺の東側に道明寺天満宮(どうみょうじてんまんぐう)がある。こちらは道明寺と違って境内は広い。宝物館、絵馬堂、土師社などあるが周りきれない。

檜皮葺きの本殿。本殿・幣殿・拝殿の3つの構造からなる権現造り。ご祭神は土師氏の祖神・天穂日命、菅原道真公、道真のおばにあたる覚寿尼公です。
左の建物は能楽殿で、文化12年(1815)築とされ大阪府で一番古い能楽堂だそうです。舞台上で植木鉢が舞っていました。

昭和53年4月に近くの三ツ塚古墳から大小2基の修羅(運搬用のソリ)が発掘された。実物は、大が大阪府近つ飛鳥博物館に、小は藤井寺市立図書館に保存展示されている。この修羅は西岡常一ら宮大工の手で復元され、同年9月に朝日新聞社や考古学などの専門家によって、市内の大和川河川敷で巨石を乗せて牽引する実証実験に使われたもの。修羅保存庫とあるので、厳重にカギのかけられた倉庫をイメージしていたが、ただの屋根をかけただけのものでした。復刻製なのでこんなものか。

 鍋塚古墳と三ツ塚古墳、土師の里埴輪窯跡群  



土師の里駅改札口を出ると、道路の向かいに丸裸の土盛りが見える。これが国史跡に指定されている鍋塚古墳。背後の山は仲津山古墳(仲姫命陵)です。鍋塚古墳は世界文化遺産候補の登録古墳に含まれている。
この駅周辺には多くの中小古墳が存在していたというが、戦後の道路建設や宅地開発などで失われ、現在残っているのがこの鍋塚古墳だけ。

一辺70m、高さ7mの古市古墳群でも最大級の方墳。仲津山古墳(仲姫命陵)に近いことからその陪塚と考えられるが、宮内庁による指定はされていない。そのため階段が設けられ、墳頂まで登ることができる。丸裸の墳頂には何もありません。ただし四方の見晴らしは良く、北に市野山古墳が、南に仲津山古墳(仲姫命陵)が望まれます。

現地説明板より(上が北です)。仲津山古墳の南東に、東から順に八島塚古墳(やしまづか)、中山塚古墳、助太山古墳(すけたやま)という3基の方墳がならんでいる。この三つの古墳は墳丘の南辺を一直線に揃え、周濠を共有していることから、一体的なものと考えられ「三ツ塚古墳」と総称されています。この3古墳とも世界文化遺産の登録候補に入っています。

左が八島塚古墳、右が中山塚古墳で、共に仲津山古墳の陪塚として宮内庁が管理している。昭和53年(1978)3月、その間の濠の部分に共同住宅の建設計画がもちあがり、事前調査が行われた。その調査で大小2基の修羅(運搬用の木ソリ)と附属のテコ棒が出土し話題になった。

これは藤井寺市立図書1階に展示されている小修羅(2.8m、幅0.7m)で実物だ。大小修羅、テコ棒は平成18年に重要文化財に指定された。
大修羅(全長8.8m/幅1.9m)の実物は大阪府近つ飛鳥博物館(大阪府南河内郡河南町の大阪府立近つ飛鳥風土記の丘に)に展示されている。大修羅の複製は近くの道明寺天満宮でも見られます。

藤井寺市立図書1階中央の大ケースに納められている古墳造営の模型。大小修羅の利用法が見てわかる。この辺りに土師の里遺跡があり、古墳造りに関わった土師氏の道具と考えられます。

南側の団地駐車場から見た一番西側の助太山古墳(すけたやまこふん)です。西側に階段が設けられているが、階段を利用するほどでもなく、どこからでも這い登れます。奥に見える小高い森は仲津山古墳。
一辺36m、高さ6mの方墳で、墳丘のみが国の史跡に指定されている。何故、助太山古墳だけ陪塚から外れたのでしょうか?

(藤井寺市立図書1階の展示図)
三ツ塚古墳の北側、仲津山古墳南側の堤の傾斜を利用し埴輪を焼く窯の跡が10基以上見つかっている。これらの窯は、出土した埴輪の特徴から5世紀中頃を中心に使用されたものと考えられています。このあたり一帯は「土師の里」と呼ばれ、古墳造営や葬送儀礼に関わった土師氏の居住集落のあった場所。土師氏の氏寺・土師寺は道明寺の前身です。「土師の里埴輪窯跡群(はにわがまあとぐん)」と名付けられていますが、その跡地には住宅が建て込み痕跡は残っていない(見つけられなかった?)。さらに南300mほどの所に「土師の里南埴輪窯跡群」も見つかっている。

 仲津山古墳(なかつやま、仲姫命陵)  



三ツ塚古墳から西へ住宅街を抜けると低いハゲ山が見えてくる。これは仲津山古墳の前方部と対面している古室山古墳です。進むと突然、右側の住宅の間から仲津山古墳の拝所が現れた。前方部は南西を向いている。

仲津山古墳(なかつやま)は宮内庁によって応神天皇皇后の仲姫命陵に治定されている。仁徳天皇のお母さんです。「応神天皇皇后 仲姫命仲津山陵」(なかつひめのみことなかつやまのみささぎ)の石柱が建つ。
宮内庁が定める他の陵墓同様に、仲姫命陵とすることに異説も多い。見つかった円筒埴輪の特徴から、先に亡くなった夫・応神天皇の陵墓(誉田山古墳)より古いという。仲哀天皇陵ではないかという説も。

古墳の北側側面。後円部から前方部方向を撮ったもの。周濠はそれ程広くなく、市野山古墳と同じように空濠だ。一面に雑草が生え水は溜まっていない。溜まらない土質でしょうか。古墳時代からこんな状況だったのでしょうか?。

前方部北角から前方部を撮ったもの。右の住宅街の中央に拝所が見えます。やはり水が見られない。濠に水が満ちていたら仲津山古墳の雰囲気もまた違っていただろうに、残念です。

古墳の前方部北角。こちらが正式な入口らしく説明板が設置されている。休息用の大きな平石も置かれていた。
三段築成の前方後円墳で墳丘長290m、後円部(直径170m、高さ26.2m)、前方部(幅193m、高さ23.2m)、古市古墳群で誉田御廟山古墳(応神天皇陵)に次ぐ2番目、全国9番目の大きさ。葺き石は確認されているが埋葬施設や副葬品は不明。
ここの横に古室八幡神社があり、境内の横に仲津山古墳周回路への入口が見えている。前方部拝所から少しいった所に神社への入口階段があります。

 古室山古墳(こむろやま)  



北側より見た後円部。左側が前方部です。どこからでも自由に登れます。後円部上から藤井寺市内が一望できる。大鳥塚古墳や誉田山古墳(応神天皇陵)も望める。
古室山古墳(こむろやま)は三段築成で墳丘長150m、後円部(直径96m、高さ15.3m)、前方部(幅100m、高さ9.3m)の前方後円墳。後円部の発掘調査は行われていないので埋葬施設や副葬品は不明。周囲に周濠と堤をめぐらしていたというが、その形状がはっきりしない。

前方部から右側の後円部を撮る。前方部には倒木が多く見られる。それも太い幹の真ん中から真っ二つという惨状です。小高い丘の上で遮るものがないので、まともに暴風にさらされたものと思われます。ここも世界文化遺産を目指す古墳なのだが。


西名阪自動車道の高架近く、古墳の南側の写真。左が後円部。右遠方に見える森は仲津山古墳。昭和31年(1956)、国の史跡に指定され整備が進められているようです。シーズンには桜や紅葉が楽しめるという。
ここは後円部背後にあたり、説明板が設置されていた。葺石、円筒埴輪、形象埴輪が出土、それらから古墳時代中期の4世紀末~5世紀初めにかけて築造されたものと推定されている。古市古墳群では初期にあたります。



 赤面山古墳・大鳥塚古墳・道明寺盾塚古墳公園  



古室山古墳に接する西名阪自動車道の高架下に土盛りが見える。これが赤面山古墳(せきめんやま)で、一辺15m、高さ2mの方墳。案内板などないが、昭和31年に国史跡に指定されている。
古墳を破壊しないようにとの配慮からでしょう、この部分だけ橋脚間が長くとられ、特殊な構造になっている。
側道も古墳を避けて急カーブしています。古代の古墳と、現代の巨大建造物との対比が印象的。周辺の多くの古墳を近代化の中で破壊・消滅させてきたなかで、こうして保存されているのは赤面山古墳がそれだけ価値があるためだろうか?。それとも古墳破壊への慰め、慰霊碑・・・?。

西名阪自動車道の高架下の赤面山古墳がある位置から大鳥塚古墳(おおとりづか)の後円部が見えている。横の細道を行くと南を向いている前方部に出れます。昭和31年(1956)に国史跡に。この古墳も世界文化遺産の登録古墳に含まれる。
南側の前方部にでると、東角に説明板が設置されている。前方後円墳で墳丘長110m、後円部(直径73m、高さ12.3m)、前方部(幅50m、高さ6.1m)。葺石、円筒埴輪、形象埴輪が出土、それから5世紀前半の築造と推定。
誉田山古墳(応神天皇陵)に近いが陪塚にも陵墓参考地にもなっていないので自由に入れるが、「スズメバチ注意」の張り紙を見て止めました。道を挟んだすぐ目の前が誉田山古墳(応神天皇陵)の正面拝所です。

赤面山古墳から西名阪自動車道の高架に沿って200mほど東へ行くと、四階建ての集合住宅が見えてくる。これが大阪府営藤井寺道明寺住宅で、その中央にふっくらと盛り上がった芝生公園がある。「道明寺盾塚(たてづか)古墳公園」です。
ここ道明寺住宅の場所には、墳丘長73m、後円部(直径49m)、前方部(幅25m)の帆立貝形古墳があった。5世紀前半から中頃の築造と推定されている。後円部の、割竹形木棺が納められていた粘土槨の上に11枚の赤と黒の漆塗りの盾が覆っていた。そこから「盾塚古墳」と呼ばれた。府営住宅の建設は進められ、古墳は消滅した。鎮魂のためか、府営住宅敷地の真ん中に古墳をイメージした芝生公園を造ったのです。円形で少し盛り上がり、その周りを周濠をイメージしたコンクリートの歩道が囲んでいる。


詳しくはホームページ

近江・桜二景 2(三井寺)

2018年07月25日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2018年4月3日(火) 近江(滋賀県)の桜スポット、石山寺と三井寺を訪れる

 琵琶湖疏水に沿って  


京阪石山・坂本線を使い、石山寺駅から大津市内を横切り20分ほどで三井寺駅に到着。1時半です。駅の西側を出ると、三井寺への案内標識が掲げられ、車道の脇にしゃれた歩道が設けられている。川に沿って真っ直ぐ伸び、桜風景が開ける。桜最盛期、人がゾロゾロ歩いているので、この歩道を進んでいけば三井寺に行けるはずです。
歩道に沿うように川が流れているが、「琵琶湖疏水」の案内板が立てられている。琵琶湖から取水した湖水は、人工的に造られた水路を流れ京都市内へ流れ込む。よく京都・南禅寺に行くので、その周辺の疏水路はよく眼にします。特に南禅寺境内の水路閣や、桜の名所で知られる蹴上のレール坂(蹴上インクライン)は有名だ。入口にあたる滋賀県側を見るのは初めてです。
水門が見えます。「大津閘門(おおつこうもん)」と呼ばれ、門扉を開閉し水位を調整する。傍に開閉用のハンドルらしきものも見えます。

疏水路の出口にあたる南禅寺、岡崎周辺は桜の名所で大勢の人出で賑わうが、入口のここも水路に沿って桜並木がつづき大変綺麗で桜の名所となっている。夜間のライトアップ用でしょうか、照明機材が等間隔に置かれています。
正面のトンネル上方に三井寺観音堂がある。大津市と京都間は長等山で遮られているので、トンネルが必要です。3つのトンネルがあるという。見えてきたのは1番目の「長等山トンネル」で、一番長く全長は2.4キロもある。明治時代なので相当の難工事で、国家的な事業だったらしい。
三井寺は長等山の山腹に位置している。だからトンネルは三井寺の下を通っている。ちょうど三井寺観音堂の真下です。三井寺は「地下水脈が枯れる恐れがある」などと訴え裁判沙汰になったという(5年ほど前に和解成立)。この琵琶湖からの水は現在でも、京都の生活用水、お寺などの庭園への遣水など使用され、京都にとっては必須。当然ながら、京都市は滋賀県にお水代を渡している。

 境内図と歴史  



一般には「三井寺(みいでら)」として知られるが、正式には「長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)」といい、天台寺門宗の総本山です。山号は「長等山」。

三井寺の起源について次のような伝承がある。
「大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子の大友皇子(弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没している。大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱で大友皇子と敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。」(Wikipediaより)

大友村主与多王(すぐりよたのおおきみ)家の氏寺だった園城寺(三井寺)を大寺に飛躍させたのが智証大師・円珍(814~891)。讃岐国那珂郡(香川県善通寺市)に生まれ、母は弘法大師空海の妹(もしくは姪)にあたる。比叡山で修行後、唐へ留学修行し、多くの経巻、図像、法具を携えて日本へ帰国した。帰国翌年の貞観元年(859年)、園城寺初代長吏(管長のこと)に就任。大友氏の氏寺であった園城寺に「唐院」を設置し延暦寺の別院とする。伽藍を整備して密教修行の道場とすると共に、唐から請来した経典や法具を唐院に収蔵した。貞観10年(868年)、円珍は天台宗最高の地位である天台座主に就任。以後、没するまでの24年間その地位にあった。天台寺門宗では智証大師・円珍を開祖としている。

円珍の没後、比叡山・延暦寺は円珍の弟子達と慈覚大師円仁の弟子達に分裂、対立するようのなる。両派の対立は激化し武力衝突にまで発展し、ついに正暦4年(993)円珍派は比叡山を下りて三井寺に移った。これをきっかけに天台宗は、延暦寺を「山門」、三井寺を「寺門」と呼ぶようになり、二分されることになる。
それ以後三井寺は、比叡山の宗徒によって何度も焼き討ちに遭っている。しかし朝廷や貴族の尊崇を集め、その都度再興されてきた。
中世に入ると、源頼義が前九年の役(永承6年、1051)出陣にあたり三井寺に戦勝祈願したことから源氏との繋がりを深める。源頼政が平家打倒の挙兵をした時は、三井寺は平家軍により全山焼き払われたという(1180年)。源頼朝が平家を滅ぼすと、源氏の保護の下に焼失した伽藍も次第に再建されていった。続く南北朝の内乱時でも北朝・足利氏を支持したことから、室町幕府の保護を受け発展していく。
文禄4年(1595)11月豊臣秀吉は突然、「寺領取り上げ諸堂取壊」という三井寺の闕所(寺領の没収、事実上の廃寺)を命じた。理由は定かでない。この結果、三井寺の本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も取り壊し、強制的に移築され廃寺同然となった。当時の三井寺金堂は比叡山に移され、比叡山西塔の転法輪堂(釈迦堂)として現存している。ところが秀吉は死の直前、北政所に三井寺再建の遺言を残して没した。そして慶長年間に徳川家康、毛利輝元などの支援の下に、金堂・唐院、仁王門、三重塔、鐘楼などが再建され、現在の三井寺の寺観となったようです。

正式には「園城寺(おんじょうじ)」だが、「三井寺」と通称される。これは井戸「閼伽井屋」の霊泉が天智・天武・持統の三代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われ、それが転じて「三井寺」と呼ばれるようになったという。

 大門(仁王門、重要文化財)・釈迦堂  


桜の美しい琵琶湖疏水路に沿って歩いて行くと突き当たりになる。真上には三井寺観音堂が位置しているのだが、ここからは入れません。突き当りを右折し、更に大門(仁王門)まで10分位歩きます。途中に、長等神社があり、三井寺の総門もある。西国三十三箇所観音霊場の第十四番礼所となっている観音堂に参拝するにはこの総門から入るのが近道だが、観音信仰を持たない私は大門を目指します。


総門があるが、現在三井寺の表門は大門です。それだけの風格を備えた重層の楼門です。この楼門は移転を繰り返してきた。室町時代の宝徳4年(1452)に近江の常楽寺(滋賀県湖南市)に建立され、後に秀吉によって伏見城に奪われる。秀吉死後、徳川家によって伏見城取り壊しが行われ、慶長6年(1601)にここに移築された。変転を経たせいか、少々傷みが見られます。

大門の内側では、運慶作といわれる仁王像が両側で睨みをきかせている。そこから「仁王門」とも呼ばれている。

大門の外から見た境内。正面の階段を登ると金堂です。
大門を潜ると左側に拝観受付がある。年中無休、午前8時~午後5時。拝観料:600円。私は「西国三十三所草創1300年記念 特別拝観券」1000円を購入。これには、観音堂特別公開と文化財収蔵庫の拝観が含まれます。

受付の反対側、大門(仁王門)を入ってすぐ右手に、釈迦堂(食堂、重要文化財)がある。室町時代の建物で、御所の清涼殿を食堂として移築したものと伝わる。そのせいか落ち着きと風格を感じる。正面の唐破風の向拝は江戸時代に付け足されたもの。
案内板に「本尊の釈迦如来像は、「三国伝来の釈迦」として信仰を集めてきた京都・嵯峨野・清涼寺ご本尊の模刻像で、釈尊のお姿をそのまま写したとされ、その独特の尊容から「清涼寺式」と呼ばれています」とあります。

参道を奥へ進むと階段があり、その上に金堂(本堂)が建つ。ただし見えているのは金堂の正面ではなく右側(東面)。この辺りも桜が綺麗。

 金堂(本堂、国宝)  



金堂は三井寺の総本堂で一番大きな建物。正面七間 側面七間 一重 入母屋造、向拝一間 桧皮葺。「桃山時代を代表する壮大華麗な名建築」として知られ、国宝に指定されている。
金堂も、比叡山・延暦寺との争い、源平の争い、南北朝の動乱などで焼失、再建を繰り返してきた。文禄4年(1595)11月には豊臣秀吉により廃寺命令が出され、当時の金堂は織田信長の焼き討ちで壊滅した比叡山の復興のために延暦寺西塔に移築され、釈迦堂として現存している。現在の金堂は秀吉没後の慶長4年(1599)、正室北政所によって再建されたもの。
正面の階段を上がり内部に入る。内部は外陣、内陣、後陣に分けられている。内陣は一段低い位置で土間になっており、それを取り囲むように板敷きの外陣、後陣があり、堂内を一周することができる。

写真は金堂の背後。内陣には三井寺の本尊・弥勒菩薩像が厨子の中に祀られている。この弥勒仏は唐から百済を経て日本に渡来し、天智天皇の念持仏となり、三井寺創建時に本尊として祀られた。「いまだかってこの仏さまを拝したひとは誰もいません。御像を納める厨子の扉を開ける方法もわからない、まったくの秘仏なのです。三井寺は史上記録に残るだけでも十数度にわたる焼き討ちにあい、金堂をはじめ堂塔伽藍が一挙に焼失するようなことが幾度もありました。こうした幾度の法難をくぐりぬけ創建以来のご本尊をいまに守ってこれたことは奇跡にちかいことです」(三井寺発行の小冊子「三井寺」p47より)。誰も見てない、それならあるのか無いのかもわからないのでは?。弁慶が比叡山に持ち去った・・・。


金堂のテラス(?)より正面を眺める。この参道を真っ直ぐ進むと観音堂へ行ける。金堂前の灯籠下には、天智天皇の左薬指が埋められているそうです。


三井寺境内には、所々に「映画**がこの場所で撮影されました」というポスターが掲示されています。金堂前のこの広場では、市川海老蔵さんの映画「利休にたずねよ」のロケが行われたそうです。






 鐘楼(三井の晩鐘)と閼伽井屋(あかいや)  



金堂前の広場の右側(東側)の隅に、近江八景の一つ「三井の晩鐘」として知られる梵鐘を吊るした鐘楼があります。写真の右隅の建物です。
この梵鐘は桃山時代の慶長七年(1602)、「弁慶の引摺り鐘」の跡継ぎとしての鋳造された。姿の平等院鐘、銘の神護寺鐘と共に、音の三井寺鐘として日本三名鐘に数えられている。また環境庁の「日本の音風景百選」にも選ばれている。
傍の受付で申し込めば、冥加料として一突き300円で鐘を突き、音色を聴くことができます。日本三名鐘の一つを突けれるので、私も突いてみました。残念ながら、凡人にはその音色の良さが分かりません。

なお、重要文化財指定は建物の鐘楼のみで、梵鐘は滋賀県の文化財指定です。
金堂の左側(西側)に周ると、金堂と接するようにして「閼伽井屋(あかいや)」と呼ばれる重要文化財の建物がある。正面三間 側面二間の小さな建物だが、桧皮葺の向唐破風造りの屋根に特色がある。正面の格子戸から覗くと、注連縄の張られた岩を中心に幾つかの石が置かれ、水が静止している。ゴボッ、ゴボッと水音がするので、今でも湧き出ているのでしょう。
現在でも湧き出ているというこの井戸は、「三井寺」の名称の元になった。ここから湧き出す霊泉が天智・天武・持統の三代の天皇の産湯として使われたことから「御井(みい)の寺」と称された。その後、三井寺の開祖・智証大師円珍が、この霊泉を天台密教の三部潅頂の法水に用いたことから「三井寺」と呼ばれるようになったという。
建物は慶長5年(1600)、金堂と同じく北政所によって再建されたもの。



正面上部の軒下には左甚五郎作とされる龍神の彫刻がある。この龍は、夜な夜な琵琶湖にでて暴れるので、甚五郎が自ら龍の目玉に釘を打ち込み鎮めたという伝説が残る。

目玉に五寸釘が打たれている、ということだが写真を拡大してもよく分かりません。





 霊鐘堂と一切経蔵  



(向こうが本堂、手前が霊鐘堂)金堂西方の一段高い所に霊鐘堂がある。入口には「弁慶鐘」と大きく書かれています。
梵鐘は無銘だが、奈良時代に遡る日本でも有数の古鐘で、重要文化財に指定されている。伝承では、平将門の乱で功績をあげた俵藤太(藤原秀郷)が三上山(近江富士)のムカデ退治のお礼に琵琶湖の龍神から貰い受け、その後三井寺に寄進した鐘だと伝えられている。

比叡山との争乱時に「弁慶の引摺り鐘」と呼ばれるようになる伝説を残している(説明板参照)。鐘の表面をよく見ると、確かに引き摺り傷のような痕が見られます。「歴史的には、この鐘は文永元年(1264年)の比叡山による三井寺焼き討ちの際に強奪され、後に返還されたというのが史実のようである。」(Wikipediaより)
この鐘は「霊鐘」とも呼ばれるように、数々の話が伝わっています。三井寺に良くないことがある時は、鐘は汗をかき撞いても鳴らず、良いことがある時は自然に鳴る、という。また建武の争乱時、略奪を恐れて鐘を地中に埋めたところ、自ら鳴り響き足利尊氏軍を勝利に導いたともいわれる。

「弁慶の引摺り鐘」の横に古錆びた大鍋が置かれている。説明板によると、口径166cm、深さ93cm、鎌倉時代のもの。「弁慶の汁鍋」と名付けら「寺伝によると、武蔵坊弁慶が所持していた大鍋で、三井寺の大鐘を奪い取ったときに残していったものと伝えられています」とあります。

霊鐘堂の先に一切経蔵(重要文化財)が建つ。山口市内にあった禅宗寺院・国清寺(現在の洞春寺)の経蔵を、慶長七年(1602)に毛利輝元によって寄進、移築されたものです。室町時代初期の建物で、宝形造・桧皮葺で裳階(もこし)付き。そのため二層に見えるが、内部的には一層の建物。
内部に入ると、中央に巨大な八角形の輪蔵が置かれています。各面は上部に千鳥破風模様をもち、書架のような扉が多数あります。この中に一切経(高麗版)が納められているという。
「一切経」は仏教のあらゆる法門の経典を集めたもので、一回転さすと「一切経」をすべて読誦したのと同じ功徳があると言われている。以前、信貴山・長護孫子寺の経蔵堂を訪れた時、拝観者が功徳を得ようと一生懸命に回し過ぎたので壊れてしまい、修復中のため閉まったままでした。ここの八角輪蔵も廻してよいのでしょうか?。床下が覗けます。昔の芝居小屋にみられる廻り舞台の仕組みと同じで、中心軸で回転できるようです。

 唐院(大師堂 ・潅頂堂 ・三重塔)  



一切経蔵の向こうに小橋があり、その先に三重塔と唐院の建物が見えます。この辺りも桜の綺麗な所。
映画「武士の献立」「るろうに剣心」の撮影場所だ、との案内がみえます。


この三重塔(重要文化財)も変遷を繰り返す。奈良県の比蘇寺(現在の世尊寺)から、慶長2年(1597)秀吉が伏見城へ、そして慶長6年(1601)家康が三井寺へと。時の権力者の恣意であっちへこっちへと。
一層目の須弥壇には、木造・釈迦三尊像が安置されています。

三重塔の先に唐院の建物が見えます。唐院というのはこの区域の総称で、智証大師円珍が唐から持ち帰られた経巻法具などを納めたところからそう呼ばれる。手前に見える灌頂堂、その奥の長日護摩堂、そしてこれらの建物の背後になり見えない大師堂からなっている。智証大師の廟所であり、三井寺で最も神聖な場所とされており、唐院内部へは柵で囲われ立ち入ることができない。

大師堂(重要文化財)は開祖・智証大師円珍の廟所で唐院の中心。二体の智証大師坐像(ともに国宝)が祀られている。
灌頂堂(かんじょうどう、重要文化財)は、伝法潅頂などの密教の最高儀式を行う場所。また大師堂の拝殿としての役割をも備えているという。
灌頂堂と渡り廊下でつながる長日護摩堂は、「鎮護国家の為め長日に亙り護摩供を修する道場」だそうです。
灌頂堂の正面に、唐院の表門となる四脚門(重要文化財)がある。四脚門を出て階段を降りると石垣で囲まれた石畳参道が伸び、金堂前からの三井寺中心参道につながっている。この石畳参道から四脚門を潜り、唐院に至るのが本来の順路だが、私は裏から入り表へ抜けたというわけだ。
唐院・四脚門へと続く石畳は『石榴坂の仇討ち』のロケ地だったそうです。

 中央参道  



唐院を降りると、三井寺の中央参道です。左(北)側は金堂正面に通じている。

右(南)側は、村雲橋を渡り勧学院の石垣に沿って歩くと、突き当りが微妙寺です。そこを左に折れて進むと観音堂へ至ります。この中央参道も桜満開で、ちょうど見頃でした。派手さはないが、広々とした空間に爽やかな春を感じさせてくれます。ピンクの枝垂桜が被さる村雲橋辺りは撮影スポットのようです。
この村雲橋にはある伝説が残る。傍の説明板では分かりにくいので、寺発行の小冊子「三井寺」から引用すると「むかし、智証大師がこの橋を渡ろうとされた時、ふと西の空をご覧になって大変驚かされました。大師が入唐の際、学ばれた長安の青竜寺が焼けていることを感知されたのです。早速、真言を唱え橋上から閼伽水をおまきになると、橋の下から一条の雲が湧き起こり、西に飛び去りました。のちに青竜寺からは火災を鎮めていただいた礼状が送られてきたといい、以来、この橋をムラカリタツクモの橋、村雲橋と呼ぶようになったと伝えています」

村雲橋を渡ると、突き当りが微妙寺です。その途中に、石垣が切れ、右に入っていく道があります。そこを入ると国宝の勧学院客殿の表門です。
勧学院(国宝)は学問所として、延応元年(1239)に創建された。 その後、火災や秀吉の破却にあいますが、慶長五年(1600)秀頼の命を受けた毛利輝元により再建され現在に至ります。桃山時代の初期書院造の代表作とされ、狩野光信の華麗な障壁画が部屋を飾っているそうです。現在、この障壁画は文化財収蔵庫に保管展示されている。残念ながら、門中央には、入るな!、の制止札が。


微妙寺は三井寺の五別所の一つで、正暦5年(994)の創建。本尊は十一面観音立像(重要文化財、平安時代初期)、現在は文化財収蔵庫に保管展示されている。





微妙寺の真向かいに、白壁のまぶしい真新しい平屋の建物がある。智証大師生誕1200年慶讃記念事業として平成26年(2014)10月に開館した「三井寺文化財収蔵庫」です。入館には別途300円必要ですが、私は「特別拝観券(1000円)」なので、別途料金無しに入れる。
仏像は、ガラスケースに閉じ込められているより、薄暗いお堂の隅に置かれているほうが似合います。狩野光信の障壁画も同じで、黒錆びた柱に囲まれ畳越しに鑑賞するほうが。


 観音堂へ向う  



微妙寺の前を左折し数分歩くと、紅くしゃれた小さなお堂に出くわす。毘沙門堂(重要文化財)です。
元和2年(1616)、園城寺五別所のひとつ尾蔵寺の南勝坊境内に建立されたもの。戦後、解体修理の上、現在地に移された。
毘沙門堂周辺は桜吹雪に見舞われ、まるで雪景色のようです。

観音堂へ上る石段の脇に小さな祠が建つ。伽藍を守護する十八明神を祀る。しかし「ねずみの宮さん」として親しまれている。「白川院の時、当寺の頼豪阿闍梨という高僧に皇子降誕を祈誓するよう勅命が下りました。 まもなく祈祷の験あって皇子が誕生し、その賞として当寺念願の戒壇道場建立の勅許を得ました。ところが、比叡山の横暴な強訴により勅許が取り消されてしまい、 これを怒った頼豪は、二十一日間の護摩をたき壇上に果ててしまいました。 その強念が八万四千のねずみとなって比叡山へ押し寄せ、堂塔や仏像経巻を喰い荒らしたと 「太平記」は伝えています。この社は、この時のねずみの霊を祀っているために北の比叡山の方向を向いて建っているとも 伝えられています。」(三井寺発行の小冊子「三井寺」から)









十八明神のすぐ横が長い階段で、これを登った上に西国三十三箇所観音霊場の第十四番礼所の観音堂がある。巡礼者にとってはかなり辛いお参りとなる。休み々しながら後ろを振り返ると、満開の桜の間から大津の市街や琵琶湖が垣間見えます。




階段を登りきると、すぐ左手にあるのが百体観音堂と観月舞台。
手前の百体観音堂は、中央に如意輪観音像を安置し、その左右に西国三十三所、坂東三十三所、秩父三十四所の各霊場の本尊、合わせて百体の観音像を安置することから「百体堂」と呼ばれています。宝暦3年(1753)の建物で、県指定文化財。

月を愛でるための「観月舞台」ですが、現在は「観桜舞台」でしょうか。ただし入ることはできません。建物と背景の桜が絶妙のバランスで見とれてしまいます。高台にあるため大津市街から琵琶湖の眺めも良い。
崖にはみ出て建つため、舞台造り(懸造り)そのもの。嘉永3年(1849)の建物で、県の有形文化財。

 観音堂  



瓦葺の大きな建物が観音堂。西国三十三箇所観音霊場の第十四番礼所として、多くの人々が訪れます。本尊は如意輪観音、脇侍の毘沙門天と愛染明王。本尊の如意輪観音坐像は秘仏で、33年に一度開扉されるという。次は25年後のご開帳なので、俺は・・・。
仏像を祀る正堂、合の間、礼堂からなる。
後三条天皇の病気平癒を祈願して延久4年(1072)に創建はされたと伝えられている。次のような伝説が。
「観音堂はもとは聖願寺とも正法寺とも呼ばれ、 現在地よりもはるか山上の華の谷というところにありました。 この華の谷に登るには道が険しく、また女人結界のため婦人方は参詣ができず、 観音さまの御利益を願う人々からは残念に思われていました。ところが、文明九年三月のある夜、寺中の僧たちが一様に寂しげな様子の老僧が夢の中に現われ、自分は華の谷に住まう者だが、いまの場所では大悲無辺の誓願を達成できないので、 これからは山を下り人々の参詣しやすい地に移り、衆生を利益したいと告げられる夢をみるということがありました。僧たちは協議して観音堂を山下に移すことにし、ついに文明十三年(1481)に現在の地に移されたといいます。」(寺発行の小冊子「三井寺」p50)
貞享3年(1686)に火災にあい、元禄2年(1689)に再建されたのが現在の観音堂です。 県指定文化財
観音堂の右側、階段を挟んで百体観音堂の反対側に鐘楼(県指定文化財)が建つ。鐘は「童子因縁之鐘」と呼ばれています。それは「この鐘を鋳造するに際し、当時の僧たちは大津の町々を托鉢行脚しました。 そして、とある富豪の家に立ち寄り勧進を願ったところ、その家の主は「うちには金など一文もない。 子供が沢山いるので子供なら何人でも寄進しよう」との返事で、しかたなくそのまま帰ってくるということがありました。ところが梵鐘が出来上がると不思議にもその鐘には三人の子供の遊ぶ姿が浮かび上がっており、 その日にかの富豪の子供三人が行方不明になったという伝説が伝わっています。」(寺発行の小冊子「三井寺」p51)
袴腰の正面が開いており、中へ自由に入れる。内部は二階建てになっており、二階にも上がれます。「童子因縁之鐘」は、残念ながら第二次世界大戦で供出の憂き目にあい残っていない。現在のは、二代目でしょうか?。
広場の東端に、観音堂と対面して建つのが絵馬堂。絵馬が掲げられるなずの軒下や屋根裏には絵馬は見当たりません。今は、長椅子が置かれ、休憩所となっています。傍には売店もあり眺望もよく、休息するのに良い場所です。
観月舞台にしても、この絵馬堂にしても、大きな屋根を数本の柱だけで支えている。高台にあり、しかも吹き抜け状態。台風などの強風によく持ち堪えているな、と感心します。

観音堂の広場も高台にあり、見晴らしが良いのでが、ここよりさらに一段高い所にも展望所があります。絵馬堂や売店の横から登っていく階段が見える。それほど高くはありません。
広場に出る。何もありません、ただ広いだけ。照明機材が置かれているので、夜間のライトアップがおこなわれるのでしょうか。

観音堂まえの広場が俯瞰できます。大津の街並みや琵琶湖もよく見える。

 弘文天皇長等山前陵(ながらのやまさきのみささぎ)  


園城寺(三井寺)の創建に関係する大友皇子の墓が近くにあるというので立ち寄ってみることに。現在は「弘文天皇陵」として宮内庁管理の陵墓です。

大門(仁王門)の前を北上し、突き当りを右に曲がると広い車道に出る。車道のすぐ横を京阪石山坂本線が走っている。歩くこと十数分、大津市役所を過ぎると、写真のような標識が設置されていた。
地図をみると、この周辺には皇子山球場、皇子山総合運動場、皇子山駅、皇子が丘公園など「皇子」の付く施設が幾つもある。「皇子」とは大友皇子を指すのでしょうね。それだけ大友皇子はこの地域にとって重要な人物だったのでしょうか。
標識の場所を左に入る。数十m入った先でさらに左に入り込み、大津市役所の背後に回りこむ位置に陵墓はある。写真に見えるビルが市役所です。
大友皇子の墓は、「弘文天皇長等山前陵(ながらのやまさきのみささぎ)」として宮内庁が陵墓管理している。
歴史上、弘文天皇というより大友皇子のほうがよく知られている。大津宮を造営した天智天皇死後、古代史最大の争乱といわれる壬申の乱(672年)が勃発する。天智天皇の第一皇子だった大友皇子と、叔父にあたる大海人皇子(後の天武天皇)との皇位継承をめぐる争いだ。結果、大友皇子は負け、首を吊って自害する。享年わずか25歳で、悲劇の皇子です。
問題は、天智天皇死後天武天皇即位までの間に天皇不在だったか、大友皇子が天皇としての役割を担っていたか、ということです。日本古代史の正史とされた日本書紀では、大友皇子の即位の記事がないということで天皇としてみなされていなかった。しかし日本書紀は壬申の乱で勝利した天武天皇が編纂させた歴史書なので、話がややこしくなる。江戸時代より大友皇子を天皇として認めるべきかどうかの論争が繰り返されてきた。
明治3年(1870)、明治政府は「第39代弘文天皇」(在位:672年1月9日 - 672年8月21日)として追号し、初めて天皇として認めることにしたのです。

天皇として認められると、次はお墓は何処か、という問題が発生します。天皇の「静安と尊厳」を維持するためにも何処かに決めなければならない。それが宮内庁(省)の形式主義です。日本書紀は、”「山前」(やまさき)という場所で自害した”と伝えるだけです。「山前」とは何処か?。沢山の候補地から、長等山麓にあった「亀丘」と呼ばれる古墳が採用された。遺跡名は「園城寺亀丘古墳」。そしてどこの天皇陵にも見られる形式的な陵墓構えが造られた。しかしこの古墳は大友皇子の年代と全く合わないとされる。発掘すれば、トンデモナイものがでてくるかも。それを防ぐために、宮内庁は一切の発掘調査を、いや立ち入りさえ拒んでいるのです。形式主義を守るために。


詳しくはホームページ

近江・桜二景 1  (石山寺)

2018年06月19日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2018年4月3日(火)
4月に入り、関西は桜の最盛期を迎えました。ネットの開花情報を見ながら、どこにしようか思案。今まで探訪したことの無かった滋賀県に決める。その中でも代表的な観光スポットで、1日で周れる石山寺と三井寺に決めました。歩くのが目的なので、石山寺から三井寺まで歩こうかと考えたが、さすがにこの距離は無理なので京阪電鉄・石山坂本線を利用する。

 石山寺駅から表参道を  



滋賀県まで行くのにかなり不便です。私の場合、地下鉄・北浜から京阪電車に乗り換え、三条駅で京都地下鉄東西線の「浜大津」行きに乗り換える。浜大津で京阪電鉄・石山坂本線 に乗り換え、住宅地の中をまるで路面電車のようにのんびる走り、20分位で終点・石山寺駅に着く。家から2時間近くかかります。

石山寺駅からお寺まで約15分位歩かなければならない。瀬田川に沿って幅広い「石山寺境内参道」が設けられている。川沿いや参道脇は桜並木となっており、石山寺まで続いています。この時期、瀬田川の美しい景観と、満開の桜並木を堪能しながら気持ち良く石山寺まで散策できます。

石山寺前の河畔遊歩道から上流方向を撮る。日本書紀にも登場し、日本の道100選や日本三古橋の一つにも指定されている「瀬田の唐橋(せたのからはし)」は、近くなのですが新幹線の緑の鉄橋に遮られ見えない。川沿いには遊覧専用の船着場も設けられている。
石山寺前の広場に建つ石碑には「瀬田石山の静流」と刻まれていました。瀬田川の清流があってこそ、石山寺もひと際引き立つようです。

 境内図と由緒  



石山寺(いしやまでら)は、滋賀県大津市石山寺1丁目にある東寺真言宗の寺院。山号を石光山、寺号は石山寺。西国三十三所観音霊場第13番札所です。

石山寺の起源についてWikipediaには次のように記されている。
「『石山寺縁起絵巻』によれば、聖武天皇の発願により、天平19年(747年)、良弁(東大寺開山・別当)が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのがはじまりとされている。聖武天皇は東大寺大仏の造立にあたり、像の表面に鍍金(金メッキ)を施すために大量の黄金を必要としていた。そこで良弁に命じて、黄金が得られるよう、吉野の金峰山に祈らせた。金峯山はその名の通り、「金の山」と信じられていたようである。そうしたところ、良弁の夢に吉野の金剛蔵王(蔵王権現)が現われ、こう告げた。「金峯山の黄金は、(56億7千万年後に)弥勒菩薩がこの世に現われた時に地を黄金で覆うために用いるものである(だから大仏鍍金のために使うことはできない)。近江国志賀郡の湖水の南に観音菩薩の現われたまう土地がある。そこへ行って祈るがよい」。夢のお告げにしたがって石山の地を訪れた良弁は、比良明神(≒白鬚明神)の化身である老人に導かれ、巨大な岩の上に聖徳太子念持仏の6寸の金銅如意輪観音像を安置し、草庵を建てた。そして程なく(実際にはその2年後に)陸奥国から黄金が産出され、元号を天平勝宝と改めた。こうして良弁の修法は霊験あらたかなること立証できたわけだが、如意輪観音像がどうしたことか岩山から離れなくなってしまった。やむなく、如意輪観音像を覆うように堂を建てたのが石山寺の草創という。」

その後、堂宇の拡張、伽藍の整備が行われ、平安後期までには現在の寺観が整ったという。石山寺は奈良時代から観音の霊地とされ、平安時代になって観音信仰が盛んになると、庶民だけでなく貴族や皇族の間でも信仰されるようになる。宮廷の女人たちの間では、都から近い景勝地として知られた石山寺の観音堂に参籠し、読経しながら一夜を過ごす「石山詣」が流行り、紫式部、清少納言、和泉式部などの日記や随筆に石山寺が登場している。
西国三十三所観音霊場第13番札所として、現在までその観音信仰は続いているようです。また石山寺は京の都から離れていたため戦火に遭うことなく、建造物、仏像、経典など貴重な文化財が今日まで遺されている。

 東大門(ひがしだいもん、仁王門、重要文化財)  




8時50分、東大門に到着。瀬田川に東面しているので「東大門」と呼ばれるのでしょう。それほど雄大ではないが、入母屋造、瓦葺き、三間一戸の八脚門で均整がとれ風格を感じます。建久元年(1190)、源頼朝の寄進によって建立されたが、その後安土桃山時代の慶長年間(1596-1615)に、豊臣秀吉の側室・淀殿によって大規模な修理改造が行われています。それが現在の門です。明治40年(1907)に重要文化財指定。

門の左右には仁王像が睨みをきかせている。そのため「仁王門」とも呼ばれる。東大寺・南大門の金剛力士像を彫り上げた、鎌倉時代を代表する仏師・運慶とその息子・湛慶の作。南大門ほどの巨大さは無いが、身近に見れるだけに肋骨や両腕のリアル感、睨みの顔相などに凄みを感じます。
吽形(左)の像の背後に大きなワラジがぶら下げられています。巡礼者を歓迎しているのでしょうか?。

 境内参道  




東大門を潜り中へ入ると、真っ直ぐな参道が200mほど伸び、両側には、法輪院・法性院・白耳亭・大黒堂などが並ぶ。桜のトンネルというほどではないが、頭上を覆うピンクの桜が、風に揺られ桜吹雪となって歓迎してくれます。またこの参道にはキリシマツツジが植えられており、1ケ月後には綺麗な花を咲かせるという。
この参道の奥が受付なので、そこまでは無料で散策できる。といっても、地元の人だけでしょうが・・・。
桜と青葉の美しい境内参道の突き当たりに拝観受付所があります。ここで拝観料600円支払い、中へ入る。
拝観受付所を通ると、すぐ右手にゴツゴツした岩場が見える。子供達が岩場の穴を潜って楽しんでいます。「くぐり岩」の案内があり、天平時代からのものだそうです。
穴を潜ると願い事が叶うということなので、私も潜ってみました。2mくらいで、中腰になり頭上を注意しながら潜り抜ける。あまり気持ちのよいものではありません。

くぐり岩の対面に明王院があります。この明王院の門前に、注連縄と御幣に飾ら、竹菰で覆われた石が置かれている。傍の案内板に「比良明神影向石(ひらみょうじんようごうせき)」とある。聖武天皇より東大寺大仏建立に必要な黄金の調達を命じられた良弁僧正が、ここの岩の上で吊をしていた近江の地主・比良明神に出会い、目的を達したという。



 観音堂・毘沙門堂  





明王院の向かいにかなり高い石段が見えます。この石段の上に石山寺の中心伽藍、本堂や蓮如堂、御影堂、多宝塔などがある。なので高齢者といえどこの石段を避けるわけにはいかない。お寺には階段はつきものです。数えてみたら66段ありました。

白装束の巡礼さん達が登っています。西国三十三所観音霊場の中でも著名なお寺だけある。さすがに菅笠に草鞋履きという姿でなく、白帽子に運動靴でした。

石段を登りきると広場です。まず右手に2棟のお堂が並ぶ。手前が観音堂で奥が毘沙門堂。
観音堂内部を覗くと、沢山の小さな観音像が並べられている。これは石山寺の本尊・如意輪観音を中心に、西国三十三所観音霊場の観音さんが勢ぞろいしている。この観音堂にお参りすれば、西国三十三所観音霊場巡りしたことになるのでしょうか。
宝形造りの屋根をもつ毘沙門堂には兜跋毘沙門天(平安時代、重要文化財)が祀られている。兜跋毘沙門天を信仰していた紀州の藤原正勝が安永2年(1773)に建立したもの。

 御影堂・第一梅園「薫の苑(においのその)」  



毘沙門堂の奥に、これも宝形造りの御影堂(重要文化財)が建つ。弘法大師空海と石山寺第三代座主・淳祐内供の像が安置されている。淳祐内供は菅原道真の孫にあたり、石山寺の経典や聖教の整備を行い多くの著作を残された座主。扉の格子越に撮ってみました。弘法大師の像らしい。
左に見えるのが、天然記念物となっている「硅灰石(けいかいせき)」の岩場。


御影堂の右脇を進むと第一梅園への入口となっている。石山寺の境内には3つの梅園があります。その中で、この第一梅園が一番広く最も整備され、「薫の苑(においのその)」と名付けられている。

シーズンを過ぎた梅園を訪れる人は誰もいてません。花期を終えた梅の木は、青葉をつけるでもなくむき出しの枝を広げるだけで、どこか物寂しさを感じさせます。
梅園の向こうに見えるオレンジ色の屋根は月見亭です。早春には”梅見亭”となるんでしょうね。

 石山寺硅灰石(けいかいせき、天然記念物)  



階段を登った本堂前の広場に戻る。

広場の正面に見える灰色の巨岩の壁が、ひと際目に付きます。これが「石山寺」の名前の由来ともなった「硅灰石(けいかいせき)」の岩盤。岩盤の上に多宝塔が見える。石山寺そのものがこの硅灰石の岩盤の上に建っているそうです。

「硅灰石は石灰岩が地中から突出した花崗岩と接触し、その熱作用のために変質したものです。この作用によって通常は大理石となりますが、この石山寺のように雄大な硅灰石となっているのは珍しいものです」と書かれている。大正11年3月に国の天然記念物に指定された。また日本の地質百選にも選定されています。

 蓮如堂(重要文化財)・本堂(国宝)  



広場の左手には、蓮如堂と本堂が前後して建つ。手前の蓮如堂は、右上方の岩盤上に建つ三十八所権現社の拝殿として、慶長7年(1602)に建てられた。明治以降に、蓮如上人6歳の御影や遺品を祀ったことから蓮如堂と呼ばれるそうです。受付で頂いたパンフには「蓮如上人の母が石山観音の化身だといわれるので、その形見と伝える蓮如鹿の子の小袖を安置している」と書かれています。

蓮如堂の横から階段を登り本堂へ。階段を登ると、正面に紫の幔幕で飾られた小部屋がある。「源氏の間」と呼ばれ、筆をとる紫式部像と映像を写すモニターが置かれています。
紫式部は、高貴の人しか使用できないこの部屋に籠もり、中秋の名月を眺めながら「源氏物語」の構想を練ったという。ボタンを押すと映像が流れ説明してくれます。

本堂と呼ばれる建物は、三つの建物からなる複合建築。右側の、奥行き柱間四間分が「正堂(しょうどう)」と呼ばれ、本来の本堂に当たる部分。その内陣には本尊の如意輪観世音菩薩が祀られている。
紫の幕の垂れた一間部分が「合の間」。合の間の東の一部が「源氏の間」となっている。左側の奥行き四間部分が「礼堂(らいどう)」。礼堂には自由に入れるが、右側の内陣に入るには拝観料300円が別途必要です。この礼堂は、山の傾斜地に後から付け足されたので清水寺、長谷寺などと同じように懸造(かけづくり、舞台造り)となっています。廻廊がめぐらされているので、そこに立てば樹木の茂る境内を見下ろすことができます。

現在の正堂は、承暦2年(1078)の火災焼失後、永長元年(1096)に再建されたもので、滋賀県下最古の木造建築物だそうです。合の間と礼堂は淀殿の寄進で慶長7年(1602)に増築されたもの。

 三十八所権現社・経蔵・鐘楼  



本堂の右上、天然記念物に指定されている硅灰石の岩盤上に建つのが「三十八所権現社本殿」(重要文化財)。切妻造りの檜皮葺きの屋根は、前面が幅広く反りが美しい。これを「流造り」というそうです。天智天皇までの歴代天皇を祀る石山寺の鎮守として慶長7年(1602)に建立されました。

三十八所権現社の裏に階段があり、その上に校倉(あぜくら)造りで高床式の「経蔵」(重要文化財)が建つ。桃山時代の16世紀後期に建立され、かって石山寺の貴重な経典類を収納してきた建物です。
高床式の床下に座布団が敷かれた岩が見えます。「安産の腰掛石」とあり、「昔からこの岩に座ると安産すると言い伝えられています」と案内されている。

経蔵から右へ行き、少し下がると重要文化財の鐘楼が見える。鐘楼は源頼朝の寄進で建立されたと伝わっているが、説明板には「様式や木材の風触から、鎌倉時代後期のものと考えられています」とあります。現在の鐘楼は、昭和28年(1953)からの解体修理で復元されたもの。
白漆喰壁の袴腰が美しく、その上に鐘(これも重要文化財)が吊るされた上層がのる。下層から撞木を引いて鐘を突くのは珍しいそうです。



 多宝塔(国宝)  



経蔵の後ろに細長い階段が見え、その真上に美しい塔が建つ。これが国宝の多宝塔。鎌倉時代初頭の建久5年(1194)に、源頼朝の寄進により建立されたとされる。日本で最も古い木造多宝塔だそうです。
ここには鎌倉時代の仏師・快慶による大日如来坐像(重要文化財)が安置されている。正面の金網の隙間から覗き撮りしてみました。像高102cmの寄木造りで、表面に漆を塗り、眼には玉眼がはめられているそうです。

屋根の反りが美しく、均整のとれた塔です。説明板には「多宝塔は、下層が方形、上層が円形の平面に宝形造の屋根をのせた二重の塔です。石山寺多宝塔は建久5年(1194年)に建立されたもので、多宝塔の中でも、最も優れて美しい姿をしており、上下左右の広がりがきわめて美しく洗練され、均斉のよくとれた建築です。
また、内部の柱や天井の廻りなどの壁面には仏像や草花などの極彩色の絵が描かれています。昭和26年に国宝に指定されました。」とあります。

多宝塔前から見下ろした本堂前の広場と硅灰石の岩場。

多宝塔の左側に、桜とミツバツツジに覆われた二基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建つ。右が源頼朝、左が亀谷禅尼の供養塔と伝わっている。亀谷禅尼は、源頼朝の第二の姫の乳母で、剃髪後石山寺に入り「石山の尼」と呼ばれ、石山寺の再興に大きな役割を果たした。亀谷禅尼の請により、源頼朝は多宝塔、東大門、鐘楼などを寄進しています。

 月見亭・芭蕉庵  



多宝塔から右(東)方向へ進むと、細長い平屋建ての建物に出会う。これは「芭蕉庵」と呼ばれる茶室。俳人・松尾芭蕉は元禄年間(1688~1704)に、度々石山寺を訪れ滞在し数多くの句を残しています。

芭蕉庵とつながった形で突き出た枡形の建物が「月見亭」。平安時代後期、後白河天皇が行幸の際に建立したのが始まりと言われています。歴代天皇が観月のためお座りになる場所なので、中へは入れません。現在の建物は江戸時代に建てられたもの。
この時期は「桜見亭」といったところ。ここからの桜風景が、石山寺では一番美しい。

琵琶湖までは望めれないが、この高台から瀬田川の清流を見下ろしながら美しい桜風景を鑑賞することができます。「月見亭」の名のとおり、「近江八景 石山の秋月」として知られ、観月の場所として有名です。中秋の名月に当たる9月15日には観月イベント「秋月祭」が行われ、夜間の特別拝観もできるようです。
紫式部もここで名月を眺めながら「源氏物語」を書き下ろしていったのでしょうか。

月見亭のある高台から坂道を下っていけば第一梅園「薫の苑」です。梅、桜に月と、石山寺で一番安らぐ場所となっています。

 第二梅園・豊浄殿・光堂、牡丹園  



月見亭からさらに緩やかな坂道を登って行くと第二梅園「東風の苑」がある。梅と縁の深い菅原道真の孫が石山寺三代目座主を務めたことから、菅原道真の詠んだ和歌の中に出てくる「東風(こち)」の名前がつけられたそうです。

第二梅園の前、多宝塔の後ろに建つ紅いお堂が「心経堂」。第二梅園と心経堂との間の道を西へ歩く。左側には鮮やかな紫色の花をつけたミツバツツジが鮮やかで、右上に並ぶ薄ピンク色の桜と対照的です。高台のその桜の脇に建つのが豊浄殿。
石山寺の最も高いところにある宝物館(豊浄殿)。現在、「石山寺と紫式部展」が開かれ、石山寺に伝わる宝物や紫式部・源氏物語に関連した展示が行われている。毎年、春(3/18-6/30)と秋(9/1-11/30)に開催されるそうです。有料です。また豊浄殿の西隣に白い建物の「源氏文庫」がある。名前からして、源氏物語にまつわる資料を保管する倉庫でしょうか?。

豊浄殿から西へ歩く。周辺は散策路が整備され公園風になっており、お寺の境内とは感じられない。この辺りに第三梅園があるはずだが、どこだろう?。

やがて木造瓦葺のお堂が現れる。本堂と同じ懸造(かけづくり、舞台造り)で廻廊がめぐらされている。近くに寄ってみると東レ株式会社の慰霊塔が設置されていた。石山寺のサイトに「平成21年(2009)、石山を発祥の地とする東レ株式会社様によって寄進された堂宇です。鎌倉時代に存在したという「光堂」を復興したもの」とあります。


光堂の前の斜面一帯は樹木、草花が植えられ公園風に整備されている。境内図には「牡丹園」となっている。この時期は桜と薄赤色のツツジが目立ちます。
牡丹園の隅に紫式部の銅像が設置されている。

光堂のある高台から下へ降りていく。道の両側には桜、ツツジが咲き、そしてこの辺りには白い花をつけたユキヤナギが群生している。とてもお寺の境内の中とは思われません。
パンフには「紫式部ゆかりの花の寺」とあります。梅・桜・ツツジ・牡丹・花菖蒲・紅葉などが四季折々の花で、訪れる人を楽しませてくれます。
どこのお寺も、仏様よりお花で訪問客を増やそうとしているようです。かく言う私も、桜目当てに参ったのですが・・・。

 無憂園・西国三十三所観音 巡拝道  



谷底に降りると紅い鳥居の「八大龍王社」があり、その下方は広い庭園になっている。「菖蒲園」の木札が立つが、境内図では「無憂園」となっています。
公園はよく整備され、四季折々の草花が楽しめるようです。休憩所で、美しい庭園を眺めながら一服するのもよい。

境内図を見ると、公園「無憂園」の西側山腹に「西国三十三所観音霊場 巡拝道」が設けられている。巡拝してみることに。「無憂園」南端の紅い小橋が入口です。傍に「補陀洛山」と刻まれた石碑が置かれています。補陀洛山(ふだらくせん)は、南インドにあると伝説的に信じられている観世音菩薩の霊場。




巡拝道の両側に数m間隔で石仏が点々と置かれています。石仏には一番~三十三番まで順番に番号がふられている。この道を歩けば西国三十三所の観音霊場を巡ったことになるのでしょうか。

巡礼とはワラジに脚絆、菅笠に杖の姿を思い出すが、ここにはそんなイメージは全く無い。平坦な道で、ミツバツツジと青葉が爽やかで、宗教心の無い私には、巡拝しているとうより散策気分です。300mほど歩けば、八大龍王社近くの出口です。



石山寺の広い境内をほぼ一周した。無憂園を後にし、出口の東大門へ向います。
そ途中に、注連縄で飾られた岩があり「天智天皇の石切場」との案内板が立つ。それによると、石山寺の創建以前からこの周辺は石切り場として利用されていた。近年の調査で採石跡が見つかっている。そして天智天皇が建立した奈良・明日香村の川原寺中金堂の礎石に使用されていたという。近江から、瀬田川・淀川・大和川の水運を利用して運んだと想定されている。

 門前へ  



12時50分、東大門から外に出る。お土産物屋の並ぶ門前を瀬田川の方に行くと右側に整備された広い通りがある。お土産物屋も片側に並んでいます。入ってすぐ弘法大師ゆかりの「三鈷の松」が立っている。
通りを行くと、奇妙なモニュメントに出会う。「石山縄文しじみ貝塚碑」とあります。なるほど、シジミの貝殻をイメージしたもののようだ。

その横の道端に「史跡 石山貝塚」の石碑が建つ。説明板によると、この通り一帯の東西約20m、南北約50mの範囲で縄文時代前期(約6000~7000年前)の貝塚が見つかった。セタシジミ、ナガタニシなど20数種類の淡水産貝や、縄文式土器、石斧・石鏃などの石器類、人骨が出土している。
近くに石山観光会館があります。ここに出土した縄文式土器などが展示され、解説もされている。

石山貝塚の石碑から数十m歩くと、「松尾芭蕉句碑」が置かれている。松尾芭蕉は石山寺に度々寄寓し、多くの句を残したという。


詳しくはホームページ

京都・東山 紅葉三景 3

2017年12月29日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2017年11月28日(火)「ねね」の高台寺、青蓮院門跡、そして最後に永観堂へと紅葉鑑賞へ。最後は「モミジの永観堂」です。

 永観堂:総門・中門へ  



南禅寺から哲学の道へ続く道は「鹿ヶ谷通り」と呼ばれている。桜の季節と紅葉の時期は、人々で大変混雑する道となっています。永観堂の白壁が見えてくると紅色の風景が増してくる。こちらの気分もいやが上にも紅葉(高揚)してきます。入口にあたる総門に着くと、人々でごった返している。

総門から拝観受付のある中門までの参道の紅葉も素晴らしい。長さ100m位の広い参道ですが、人、人、人で溢れかえっている。中門までは拝観料無しで自由に歩ける。背伸びして塀越しに境内の庭園の一部をものぞき鑑賞できます。境内に入らなくても、南禅寺を訪れたついでにちょっと寄ってみる価値はあります。

この中門で拝観料を払う。この時期は「特別拝観 秋の寺宝展」(2017年11月7日~12月6日)開催中で、拝観料は大人1000円(通常は600円)。拝観時間は:9:00~17:00(受付終了は16:00)となっています。

数年前、ここを訪れたが拝観料:千円を見て引き返したのを思い出した。今回は、例え五千円であろうと入る覚悟で来ました。

 永観堂:歴史と境内図  



仁寿3年(853)、弘法大師空海の弟子・真紹僧都(しんじょう 797-873)が都における真言密教の道場の建立を志し、歌人・文人であった故・藤原関雄の故居を買い取って寺院建立の敷地に当てたことが始まり。10年後の貞観5年(863)に清和天皇から寺院建立の勅許を得、同時に「禅林寺」の寺名を賜る。

その後、禅林寺中興の祖とされる第七世永観律師(ようかんりっし、1033-1111)の時に寺は大きく発展する。浄土の教えに感動した永観はやがて熱烈な阿弥陀信者となり、人々に念仏を勧め自らも日課一万遍の念仏を欠かさなかった。そして境内に薬王院という施療院を建て、窮乏の人達を救いその薬食の一助にと梅林を育てて「悲田梅」と名づけて果実を施す等、慈善事業を行いました。そうした偉業のため、禅林寺はいつしか「永観堂(えいかんどう)」と呼ばれるようになり、現代まで続いている。
鎌倉時代に禅林寺12世住職となった静遍僧都(じょうへんそうず、1166年-1224年)は、浄土宗の開祖・法然上人の教えに感銘し、禅林寺を浄土宗の寺とします。
応仁の乱の戦火で伽藍のほとんどを焼失するが、安土桃山時代以降少しずつ復興していく。

現在、正式名は「無量寿院禅林寺」で、浄土宗西山禅林寺派総本山。秋になると「もみじの永観堂」として人々に思い出されるお寺です。皆「永観堂」と呼んでいるが、寺名でもなく、永観堂というお堂があるわけでもありません。正式な寺名は「禅林寺」。いつの頃か”永観堂”と親しまれてきたのが、今では正式名の如くまかり通っている。お寺さんも「永観堂禅林寺」と称するようになっています。

 永観堂:紅葉の境内へ  



永観堂の境内は、大きく分けて二つの部分に分かれています。山側(東側)に諸堂宇が配置され、反対側(西側)には放生池を中心としたお庭が広がる。その間に、二つの領域を分けるように写真の小径が通る。石畳の小径で、左右には紅の絨毯が敷き詰められています。

”ワー、凄い!”という声が飛び交っている。あまり感動することのない俺も、ついつぶやいてしまった。寺院の多い京都には紅葉の名所と云われる箇所が沢山あります。しかし「秋はモミジの永観堂」と云われるだけあって、ここは”ワー、凄い!”。

永観堂は、金閣寺・銀閣寺のようにトコロテン式に押し出される拝観コースが決まっているわけではない。何処を歩こうが自由なのです。しかし漠然と散策するだけでは意味が無いので、拝観順序を決めます。まず多宝塔へ寄り、次に廊下で繋がっている諸堂宇を見て周る。最後に、放生池周辺のお庭を楽しむということにしました。

 永観堂:多宝塔  



「多宝塔入口」の矢印に従って横道に入ると、すぐ渡り廊下が見えてくる。こうした廊下で諸堂宇が結ばれているのです。多宝塔へは、廊下の下を潜って石階段を登って行く。

廊下の下を潜ると、すぐ岩壁が迫っている。その急斜面にへばりつくようにカエデの木が伸びている。これが平安時代の古今和歌集に「おく山の岩がき紅葉散りぬべし照る日の光 見る時なくて」と詠まれ、永観堂七不思議に数えられている「岩垣もみじ」なのでしょうか。
この岩壁に添って、多宝塔への石階段が設けられている。

石階段はかなり急ですが、手すりが設けられているので年配者でも大丈夫でしょう。
多宝塔は昭和3年(1928)建立の比較的新しい建物で、上が円形、下が方形の二重の塔となっている。

多宝塔内部は公開されておらず入ることはできない。なのに何故ここまで登ってくるのか?。それはこの景観です。若王寺山の中腹に位置し、永観堂で最も高い場所にあるので、紅く燃え上がる永観堂全体を俯瞰でき、その先に京都の街並みを一望することができるのです。永観堂きっての絶景スポットといっていいでしょう。

 永観堂:大玄関から古方丈・釈迦堂・唐門  



多宝塔から降り、大玄関に向う。大玄関を入口にして諸堂は渡り廊下で結ばれている。大玄関で履物を脱ぎビニール袋に入れ持参し、各お堂を廻ります。大玄関には受付があり、御朱印の受付もここでやっています。
なお大玄関から各お堂を巡るのに特別な料金はかかりません。自由に何度でも出入りできます。

大玄関を入ると、古方丈、瑞紫殿(ずいしでん)、釈迦堂に囲まれた中庭を眺めることができる。池を中心にした美しい築山泉水庭園で、この時期紅と緑のコラボレーションが見事で、いつまでも見入っていたいがそうもいかない。

永観堂の方丈にあたる釈迦堂は、本格的な書院造として寛永4年(1627)に建立された。六つの間があり、正面中央の間に釈迦如来像が祀られている。
釈迦堂西側の前庭に唐門(勅使門)が見える。名前のとおり天皇とその勅使を迎える門で、文化8年(1811)に再建されたもの(表の説明板では文政13年(1830)再建、となっている)。現在は住職が逝去した時のみ使われるという。門を入った所に、白砂を小判形に盛って市松模様をあしらった盛砂(もりずな)がある。傍の説明板には「清めの砂で勅使の方がこの門を入られ、砂の上を歩いて身を清められた。又昔は夜の月明かりをこの盛砂にうけて、あかり取り、として利用されたという」とあります。

 永観堂:御影堂  



釈迦堂から阿弥陀堂まで、曲がりくねっているが一本の渡り廊下でつながれている。特別に規制は無く、自由に行き来してよいのだが、この時期、人の流れは大玄関・釈迦堂→御影堂→阿弥陀堂へと流れているので、その流れに逆らってバックすることはなかなかできない。流されてゆくままです。流されていても、何処からでも紅葉を鑑賞できる。そこが永観堂のすごいところだ。

御影堂正面の庭。御影堂は、大正元年(1912)建立の総ケヤキ造の仏堂。永観堂で一番大きなお堂で、浄土宗の開祖・法然上人を祀っている。

御影堂南側より、一段高所にある阿弥陀堂を見上げる。どこもかしこみ紅色に染まっている。これだけ紅葉を見てきたので、そろそろ飽きそうですが、そうはならない。まだまだ続きます。

上の写真の廊下から、逆に見下ろした景観。右が御影堂です。

 臥龍廊(がりゅうろう)・三鈷(さんこ)の松・水琴窟  



御影堂から階段廊下を上り阿弥陀堂へ向う。木製階段は短く、変化に富んでいるので楽しい。階段前に見える一本松が、永観堂七不思議の一つに数えられている「三鈷(さんこ)の松」と呼ばれるもの。
通常の松葉は2本ですが、この松の葉先は3本に分かれており珍しいそうです。法具に、「智慧・慈悲・まごころ」を表す法具の「三鈷杵(さんこしょ)」というのがあり、「三鈷の松」の名はそれに由来しているようです。

後日知ったのだが、「三鈷の松」を持っているとお金が貯まるそうです。そして中門隣の売店でタダで貰えるとか。大いに悔やみました。なお写真を拡大してみたが、3本だというのがもうひとつハッキリしなかった。



階段途中で、廊下は左右に分かれる。左側は、開山堂へ続く「臥龍廊(がりゅうろう)」と呼ばれる階段廊下です。廊下のうねりが龍に似ていることから名付けられた。現在、立入禁止になっている。午前に訪れた高台寺にも同じような「臥龍廊」があり、そこも通行不可にされていた。

分岐廊下を右へ曲がるとすぐ「水琴窟」と案内された井戸がある。耳を近づけたが何も聴こえなかった。後で永観堂サイトをみると
「みかえり阿弥陀さまにご参拝の折に静かに水を注いで水滴が奏でる澄んだ音をお楽しみください。
 下の「水琴窟の音」をクリックすると音色をお楽しみいただけます。
  ・水琴窟の音1(Sound of Suikinkutsu 1) (約1分 MP3 サイズ204KB)
  ・水琴窟の音2(Sound of Suikinkutsu 2) (約1分 MP3 サイズ189KB)」
とある。竹網の間から水滴を落さなければ音は出ないのですネ。クリックして音1、音2 を聴いてみました。音量を小さくし音2 を聴くと雰囲気は出ています。音1 は鐘の音のよう・・・。

水琴窟の前にエレベータがみえる。御影堂脇からわずかな高さだが、階段を避けこの場所まで運んでくれる。神社仏閣でエレベータを初めて見ました。場所柄、不似合いな設置物だと思われるが、年老いた方・体の不自由な方なども阿弥陀さまを拝みたいという人は沢山おられます。こうした投資は賞賛に値すると思う(明日は我が身・・・(-.-))。

 永観堂:阿弥陀堂  


渡り廊下終端の阿弥陀堂は、多宝塔を除き一番高い場所にあるので、ここからの紅葉も見ごたえがあります。この阿弥陀堂には、有名な「みかえり阿弥陀」が祀られているが、残念ながら堂内は写真撮影できません。その分、外の景色で・・・。

阿弥陀堂に祀られている本尊の阿弥陀如来像(国重要文化財)は平安時代末期の作で、像高77.6cmと小さな仏さま。この仏様は、左肩越しに後ろを振り向いている独特の姿していることから「みかえり阿弥陀」として有名です。ですから正面から拝するよりは、須弥檀の右側に回ると厨子の右側が開けられており、振り向かれたお顔を拝することができる。
「みかえり阿弥陀」の由来は次のような伝承によるそうです。
永保2年(1082)、永観堂の中興の祖・永観律師50歳の頃、念仏を唱えながらひたすら阿弥陀像の周りを歩く厳しい修行をしていると、目の前の須弥檀からなんと阿弥陀さんが降り立ったといいます。驚き立ち止まった永観律師の方を振り返り「永観、おそし」と声をかけたそうです。そして見返った姿のまま檀へと戻り、今なおその姿勢をとどめ続けていると伝えられている。そいしていつしか「みかえり阿弥陀」と呼ばれるようになった。

阿弥陀堂の正面です。阿弥陀堂は禅林寺(永観堂)の本尊が祀られているので、阿弥陀堂が本堂にあたる。入母屋造り本瓦葺きのこの阿弥陀堂は、慶長2年(1597)に大坂の四天王寺に建立された曼荼羅堂を、豊臣秀頼により慶長12年(1607)に移築されたもの。虹梁と柱には美しい彩色が施され、堂内も色鮮やかで天井には「百花」が描かれている。
阿弥陀堂の正面の階段を降り、ビニール袋から取り出した靴を履く。ここが永観堂の諸堂巡拝の出口になる。

阿弥陀堂前の石の階段を降り、放生池を中心とした庭へ。この石段も、色鮮やかな紅葉のトンネルとなっており、撮影ポイントの一つです。

 永観堂:放生池上の参道  



境内中央を横切る石畳参道に戻ります。永観堂にはイロハモミジを中心に約三千本もの紅葉があり、人々を楽しませてくれる。関西のみならず全国から多くの観光客やって来るそうです。土日祭日は大混雑になるという。写真を撮るのに苦労するのが、いかに顔が入らないようにするか。しかし次から次へと入ってくるので、顔無しで撮るのは無理のようです。

紅く染まるのは樹木だけではありません。足元の地面にも、鮮やかに色づいた落ち葉が広がり、真っ赤な絨毯を敷き詰めたようになっている。上も下も紅色に染め上げられた永観堂の境内です。平安時代から紅葉の名所として知られていたようですが、ここまで完成するには多くの庭師さん達の努力があったものと思われます。

 永観堂:放生池(ほうじょういけ)  



永観堂の西半分は、放生池を中心とした庭園となっている。今、写真を撮っているこの庭園に入る橋を「極楽橋」といいます。この小さな橋も撮影スポットの一つで、場所を確保するのに一苦労する。ここからの景観は、まさに極楽往生の世界のようです。
放生池の中の弁天島に弁天社の祠が建っている。江戸時代の女流歌人で尼僧の大田垣蓮月(おおたがきれんげつ)の寄進により、1866年に建立されたものという。錦雲橋という太鼓橋でつながっているが、通行止めになっていました。

放生池の水面に映し出される「逆さもみじ」も風情がある。楓の木が水紋にゆがみ、これもまた味わいがあります。雨の日はどう変化するのか興味あります。



庭園から見上げる多宝塔も見もの。特に放生池越しの多宝塔の姿は撮影ポイントの一つになっている。紅い花に囲まれた祭壇上の仏様のように見えます。





















 永観堂:お茶屋・幼稚園・楓橋から出口へ  



放生池の傍にお茶屋さんがある。その名も「みかえり茶屋」とか。赤毛せんのまかれた長床机が沢山並べられている。ほぼ満席状態です。永観堂の境内で、ゆっくり休憩できるのはここだけです。今まで休み無しに歩いてきたので、この茶屋で一服することに。空きを探して座っていると、可愛いお茶子さんが注文をとりに来ます。ぜんざいを頂きながら多宝塔を拝観、と思ったが松が邪魔してよく見えなかった。でもこうして座って、紅葉に包まれた池やお堂の屋根を眺めているだけでも幸せを感じます。

放生池の南の端、幼稚園周辺も紅葉が美しい。園児が羨ましいですね。見飽きたって・・・。

お茶屋さんの裏にあるのが楓橋。放生池から小川が流れている。小川と小橋、紅葉と落ち葉、この周辺も風情のある場所です。
この辺りにはプロ風のカメラマンが多い。私を含め素人は、堂とか池とか具象的なものを撮りたがるが、プロは光とか影とか色を求めているようです。
右の建物は、境内図には図書館となっている。僧侶の?、園児の?、僧侶と園児が席を並べているのを想像すると微笑ましいですね。
放生池の横に、なんの説明も無くポツンと与謝野晶子の歌碑が建っています。明治33年秋、晶子は与謝野鉄幹と恋のライバル・山川登美子と三人でここ永観堂を訪れている。翌年には鉄幹と二人だけで再訪した。晶子は恋のライバルに勝ったのです。

出口の中門を出たところ。4時前、昼の部の入場受付終了の時間が近づいている。それでも多くの人が列をなしています。5時にいったん人を出して閉門し、5時半に夜の部(ライトアップショー)の開演。劇場の昼夜入替制と同じ。
私は基本的にライトアップなるものが嫌いです。自然なものは自然な環境で見るもので、人工的に加工された美を見ても感動しない。ところが最近やたらライトアップが増えている。する側にとってはオイシイのでしょうか。

最後に私の少ない体験の中から紅葉ベスト5を。
1位:京都・嵯峨野の化野念仏寺(無数の無縁仏を被うあの紅葉は忘れられない)
2位:ここ
3位:奈良・桜井の談山神社
4位:京都・高雄の神護寺
5位:京都・大原・三千院


詳しくはホームページ

京都・東山 紅葉三景 2

2017年12月22日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2017年11月28日(火)「ねね」の高台寺、青蓮院門跡、そして最後に永観堂へと紅葉鑑賞へ。今回は青蓮院門跡の紹介です。

 青蓮院:境内図と歴史  



青蓮院門跡の由緒について、青蓮院の公式サイトは次のように記している。
「日本天台宗の祖最澄(伝教大師)が比叡山延暦寺を開くにあたって、山頂に僧侶の住坊を幾つも作りましたが、その一つの「青蓮坊」が青蓮院の起源であると云われています。伝教大師から円仁(えんにん、慈覚大師)、安恵(あんね)、相応等、延暦寺の法燈を継いだ著名な僧侶の住居となり、東塔の主流をなす坊でした。
平安時代末期に、青蓮坊の第十二代行玄大僧正(藤原師実の子)に鳥羽法皇が御帰依になって第七王子をその弟子とされ、院の御所に準じて京都に殿舎を造営して、青蓮院と改称せしめられたのが門跡寺院としての青蓮院の始まりであり、行玄が第一世の門主であります。その後明治に至るまで、門主は殆ど皇族であるか、五摂家の子弟に限られていました。」

名称「青蓮」は、最初に比叡山東塔南谷(現在の大講堂南の崖下付近)に作られた住坊が、その近くに青蓮池があったことから「青蓮坊」と呼ばれたことに由来する。山下へ移転した当初は現在地のやや北西にあたる三条白川の地にあったが、河川の氾濫を避けて鎌倉時代に高台の現在地へ移ったという。
名著「愚管抄」で有名な慈円(関白藤原忠通の子)が第3代門主に、室町時代には第3代将軍・足利義満の子・義教が義円と称して門主を務めた(後に還俗し第6代将軍に就く)。近代までの門主の内訳は、皇子は12人、皇族は13人、摂関家子弟は13人、足利家は1人。
天明の大火(1788年)で内裏が焼失した時には、女帝・後桜町上皇(第117代)が青蓮院に一時的に避難され、地名から「粟田御所」とも呼ばれた。このため現在、青蓮院旧仮御所(仙洞御所)として境内全域が国の史跡に指定されています。

門跡寺院といえど明治の廃仏毀釈によって大きな打撃を受ける。境内は五分の一に減らされ、さらに明治26年(1893)の火災で建物のほとんどを焼失した。現在の建物はそれ以後に再建されたものです。
戦後では平成4年(1993)、茶室「好文亭」が過激派(中核派)によって放火されるという事件まで遭遇している。

天台宗の寺院で、山号はなく、本尊は熾盛光如来(しじょうこうにょらい)。「青蓮院(しょうれんいん)」とも「青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)」とも呼ばています。門標、拝観券、公式サイトとも後者の表記となっている。

 クスノキの大樹  



円山公園、知恩院前を通りすぎ、平安神宮へと続く道です。人通りも、車も少なく、京都でも大変気に入っている道の一つ。歩いていると右手土手堤に大楠木が現れる。枝を大きく広げ道に被さり、日陰をつくってくれる。大クスノキの後方にあるのが「御幸門(四脚門)」で、江戸時代初めに御所の旧殿の門を移築したものです。明治26年の火災をまぬがれている。

この大クスノキこそ青蓮院のシンボルです。車道沿いの土手に2本、表門へ向う右手に2本、境内の宸殿前庭に1本、と5本あります。いずれも大枝を四方に伸ばした姿は圧巻です。青蓮院が現地に移された頃に植えられたそうで、樹齢は800年を越えている。京都市天然記念物に指定されています。

車道から入口の表門へ。右土手上に「長屋門」があり、門の両側に2本の大クスノキがそびえる。「長屋門」も、「御幸門(四脚門)」同様に江戸時代初めに御所の旧殿の門が移築されたもの。

 植髪堂  



表門を潜り、右へ曲がると青蓮院の主要伽藍へ、左へ進めば植髪堂です。植髪堂へは何時でも自由にお参りできる。

養和元年(1181)、9歳の親鸞は青蓮院第3代門主・慈円のもとで得度(出家し仏門に入る)した。その時切り落とした髪が、親鸞の親族によって保管され、親鸞聖人の童形像の頭上に植えつけられていた。その後、その像が青蓮院に移されとという。
「童形像」が安置されている植髪堂は、1759年に建立され、1880年現在地に移転。蓮如も青蓮院で得度を受け、「本願寺の法王は明治までは当院で得度しなければ公に認められず、また当院の脇門跡として門跡を号することが許された」(青蓮院受付で頂いたパンフより)という。
現在でも青蓮院は、浄土真宗との関係は深く、大クスノキの下には「親鸞聖人得度聖地」と刻まれた大きな石碑が建てられています。

 玄関から華頂殿・小御所・宸殿へ  



ここら辺りまでは自由に散策できる。正面が事務所で、玄関で履物を脱ぎビニール袋に入れ持参する。玄関を上がり拝観受付をする。
拝観時間 9:00 - 17:00
拝観料 大人500円(ライトアップ拝観料金 大人800円)

玄関から奥へ進むと客殿の華頂殿です。大変綺麗なお部屋で、この建物だけは内部を撮影できる。蓮の描かれた襖絵は絵師・木村英輝氏が描いたもの。また三十六歌仙の額絵が掲げられている。廊下に座って、室町時代に相阿弥によって造られたと言われる美しい庭園を眺めるのも良い。(写真は、高台にある好文亭から撮った華頂殿)

渡り廊下から見た小御所(左)と宸殿(右)。華頂殿から始まり、各建物は渡り廊下でつながれているので、まず建物内部を見てまわる。といっても建物内部は撮影不可なので紹介できませんが・・・。そして華頂殿の脇から降りて履物を履き庭園に入る、というのが拝観コースになっている。

小御所は、天皇が一時的に仮御所として使用された建物。明治26年(1893)に焼失したが、その後復興された。

小御所への渡り廊下の脇に、横に長い大きな手水鉢が置かれています。これは太閤豊臣秀吉の寄進により聚楽第より移されたもので、「一文字手水鉢」と呼ばれている。








渡り廊下を通り宸殿へ。宸殿入口にトレイレがあります。
Wikipediaから引用します。「小御所の西側に建つ、寺内で最も大きな建物。東福門院の御所が寄進されたもの。入母屋造、桟瓦葺きで、明治26年(1893年)の焼失後の復興である。「宸」は皇帝の意で、有縁の天皇の位牌を祀る堂である。障壁画浜松図(襖12面、戸襖4面、壁3面の17面)が重要文化財に指定されている。なお、1962年に襖のうち1枚が心ない拝観者により切り取られ行方不明となっている。」
またこの宸殿には「おみくじ」が置かれ、日本のおみくじの元祖だそうです。

 相阿弥の庭園  



廊下から地に降り靴を履き、トンネル(?)を抜けるとそこは美しい庭園だった。

小御所から華頂殿前までの庭園は「相阿弥の庭」と呼ばれている。室町時代に相阿弥(そうあみ)によって造られたと伝わる美しい築山泉水庭園。相阿弥は能阿弥の孫で水墨画家として名高いが、作庭家でもあった。粟田山の山裾を借景にして、龍心池を中心に巨石や石組みを配し、築山や滝をバランスよく置いている。この時期、鮮やかな紅葉と築山の緑が対照的で、見飽きません。



龍心池は小御所の高欄の下にまで入り込むようにのび、そこでは鯉が戯れていました。










 霧島の庭  



「相阿弥の庭」の小径を、華頂殿前を抜けて北へ行くと、そこは紅葉の美しい「霧島の庭」です。

江戸時代の小堀遠州作と伝えられる庭で、山裾斜面一面に霧島つつじが植えられていることから「霧島の庭」と呼ばれている。5月初旬にはこの一帯を真っ赤に染めるあげるという。秋の紅葉も見事で、青蓮院の紅葉ではここが一番でしょう。

 茶室・好文亭  



霧島の庭から少し高所へ上ると茶室・好文亭がある。近づくと、いきなり奥から和服の超綺麗なお嬢さんが現れたのでビックリした。「お茶をどうですか」と。上がるべきかどうか悩むが、お茶を嗜むような柄でもないので止めました。
この建物は、1772年に学問所として建立されたもの。天明8年(1788)に後桜町上皇が青蓮院を仮御所として一時避難された際には、上皇の御学問所として使われた。明治以降は茶室として利用されていたようです。

この好文亭は、平成5年(1993)4月に過激派(中核派)の放火により焼失するという不幸な事件に遭います。何故、中核派が狙ったのでしょうか?。2年後に再建されている。
青蓮院門跡のサイトは「焼失前の図面と、本院所蔵の創建当初の平面図「御学問所」を基に、江戸時代の本格的数奇造りを忠実に再建しました。木材等の材質も全く同じで、完全復元されましたた。内部は四畳半の茶室三部屋と六畳の仏間、水屋等からなります。障壁画十三画は、日本画の大家、上村淳之画伯の御奉納による花鳥図です」と紹介している。

好文亭は、毎年春と秋の特別拝観期間にだけ茶室が一般公開されています。

 本堂(不動堂と熾盛光堂)  



高台の好文亭から降りると、本堂の裏に出る。本堂は二つの部分からなっている。青不動明王を祀る不動堂、そして熾盛光堂(しじょうこうどう)です。

不動堂の扉が開いていて、青不動明王(レプリカ?)らしきものが垣間見えます。この不動堂には国宝の「青不動明王」(絹本著色「不動明王二童子像」)が祀られていたが、平成26年(2014)からは、青蓮院裏側の山頂に新しく建てられた将軍塚の青龍殿の方に移された。「日本三不動」(他に三井寺の黄不動、高野山明王院の赤不動)の一つに数えら、「青不動」と呼ばれている。


本堂を裏手から西側に回りこむと、熾盛光堂(しじょうこうどう)の正面に出る。方三間の小さなお堂ですが、ここに青蓮院の本尊である熾盛光如来の曼荼羅が安置されている。豊臣秀吉により寄進され、安土・桃山時代の文禄5年(1596)に絵師・狩野左京により描かれた絹本著色「熾盛光如来」(200.1㎝×143㎝)の掛け軸です。通常は非公開。



 宸殿の前庭  



本堂から宸殿の前庭を通って出口に向う。この宸殿の前庭が、青々と苔むし、緑に囲まれ美しい。今まで艶やかな紅葉を見てきた後だけに新鮮に感じられます。宸殿前には右近の橘、左近の桜も植えられ、皇室と縁の深い寺であることを示している。

宸殿側から撮ったもの。こうした庭には和服が似合います。元々は白砂の広がる庭だったようですが、スギゴケの庭に替えられたそうです。またこの庭には青蓮院五大クスノキの一本もそびえています。

軒唐破風、こけら葺きの「大玄関(車寄せ)」を右手に見ながら出口へ。

「モミジの永観堂」へ向います。


詳しくはホームページ