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山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

京都・東山 紅葉三景 1

2017年12月15日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2017年11月28日(火)
11月末、そろそろ紅葉シ-ズンも終えようとしている。定まらない天気予報が続き、お出かけ日がなかなか決まらない。やっと28日(火)が快晴のようだ。京都の嵯峨野か東山か迷ったが、京都を代表する「紅葉の永観堂」に惹かれ東山山麓に決めました。東山山麓の紅葉の名所には、清水寺、知恩院、南禅寺などもあるが、欲張るのは無理で、「ねね」の高台寺、青蓮院門跡、そして最後に永観堂へというコースにする。

 ねねの道・台所坂  



八坂神社、円山公園を経て清水寺へ続く道を歩く。この周辺は1998年に、電線を地下に埋め、石畳を敷きつめ環境美化された。そして高台寺までが、今までの「高台寺道」という名称から「ねねの道」という親しみやすい名前に改称されました。何時歩いても心落ち着く小径です。
ところで秀吉の正室を「北政所」というが、本名(幼名)は「ねね」です。天正13年(1585)、秀吉が関白に任ぜられると同時に朝廷から「北政所」の称号をもらったのです。
「ねね」については異説があるようで、Wikipediaには次のような記述があります。
「ちなみにNHKの大河ドラマにおいては高台院が初めて登場した昭和40年(1965年)の『太閤記』以降、長年「ねね」が用いられてきたが、平成8年(1996年)の『秀吉』以降は、『功名が辻』を除いて劇中では「おね」の呼称が使われている。さらに、平成28年(2016年)の『真田丸』では「ねい」(表記は「寧」)が使われた。」

高台寺へ続くこの石の階段は「台所坂」と名付けられています。階段横の「総合案内所」とある小屋は、高台寺の案内所で、お寺の人が常駐し説明や客引き(失礼!)をやっておられます。
この反対側に高台寺の塔頭寺院「圓徳院」がある。ここは秀吉死後、北政所(ねね)が秀吉との思い出深い伏見城の化粧御殿と前庭を移築して住み、高台寺造営に当たった所。北政所は19年間ここで生活し、日々前の階段(台所坂)を登り高台寺の秀吉の霊を弔ったという。そしてここで亡くなられました。
清水寺への道で、ここら辺りまでが和やかな道です。ここから先は、チャイナ語やハングルが飛び交い、修学旅行生が行列をなす雑踏の道で好きになれない。



60mほどの台所坂は、傾斜が緩く、そのうえ段差、段幅とも優しく造られている。後期高齢者(俺も!)も楽に登れます。手をつなぐご夫婦、おばあちゃんの手を引く女子大生風・・・をよく見かけ、本当に心和む坂道です。
春は青葉の、秋には紅葉のトンネルとなり、たとえ高台寺へ寄らなくても、この道順から清水寺へ進むのがベストでしょう。しつこい人力車をも避けられます。

ところで”台所坂”の名はどこからきているのでしょうか?。名前からして由来がありそうですが、調べたが見つかりませんでした。

階段の上で山門が出迎えてくれる

山門を潜ると左に高台寺の伽藍が見える。右に進むと、京都市内を一望しながら産寧坂を経て清水寺へ行けます。

 高台寺: 境内図と歴史  



正面の建物は庫裏。左側に拝観受付所があります。

高台寺の歴史についてWikipediaを引用すれば
「豊臣秀吉が病死したのは 慶長3年(1598年)であった。秀吉の正室である北政所(ねね、出家後は高台院湖月心尼)は秀吉の菩提を弔うための寺院の建立を発願し、当初は北政所の実母・朝日局が眠る康徳寺(京都の寺町にあった)をそれに充てようとしたが、手狭であったため、東山の現在地に新たな寺院を建立することになった。秀吉没後の権力者となった徳川家康は、北政所を手厚く扱い、配下の武士たちを高台寺の普請担当に任命した。中でも普請掛・堀直政の働きは大きかったようで、高台寺の開山堂には直政の木像が祀られている。高台寺の開山は慶長11年(1606年)で、当初は曹洞宗の寺院であった。寛永元年7月(1624年)、高台寺は臨済宗建仁寺派の大本山である建仁寺の三江紹益を中興開山に招聘。この時、高台寺は曹洞宗から臨済宗に改宗している。
北政所の兄・木下家定は建仁寺及び三江紹益と関係が深く、家定の七男が三江紹益のもとで出家していることも、この改宗と関連すると言われる。なお、北政所は同じ寛永元年の9月に没している。」

造営に際しては、徳川家康が豊臣家への政治的配慮から多額の財政的援助を行い、お寺の規模は壮麗雄大だったようです。しかし寛政元年(1789)2月焼失、その後も何度か火災に遭い、わずかに表門、開山堂、霊屋と茶室の傘亭・時雨亭(いずれも重文)観月台が創建時の建造物として残っているのみです。

臨済宗建仁寺派の寺院で、山号は鷲峰山(じゅぶさん)で、正式名称を「高台寿聖禅寺」という。釈迦如来を本尊とする禅宗寺院です。「高台寺」の名は、北政所の落飾(仏門に入る)後の院号である「高台院」からきている。

★拝観受付所
 拝観休止日:なし ※悪天候などによる拝観休止あり
 拝観時間:9:00~17:00(受付終了) ※夜間特別拝観期間は21:30(受付終了)
 拝観料:大人600円 中高校生250円 小学生以下無料(保護者同伴) 
  *圓徳院、掌美術館との3カ所共通拝観券900円

 高台寺: 湖月庵・遺芳庵(いほうあん)  



拝観受付所から奥に入ると、茶席・湖月庵と鬼瓦席がある。この近辺の紅葉も鮮やかで綺麗だ。

湖月庵からさらに裏に回ると田舎屋風の小さな建物が見えてくる。これが茶席・遺芳庵(いほうあん)です。
京都の豪商であった灰屋紹益(はいやしょうえき)が、夫人であった島原の芸妓・吉野太夫を偲んで上京区に建てたもの。明治41年(1908)に紹益の旧邸跡からここへ移築されました。壁一杯に開けられた丸窓が特色で、「吉野窓」と呼ばれている。

 高台寺: 方丈と波心庭  



境内の中央に位置し、一番大きな建物が「方丈」です。方丈は、伏見城から移築された建物だったが火災に遭い、現在の建物は大正元年(1912)に再建されたものです。本尊の釈迦如来坐像が祀られている。

枯山水式庭園で「波心庭」と呼ばれている。白砂が敷き詰められ、東西に並んだ二つの立砂に波紋が描かれています。正面に見えるのは、大正元年(1912)に方丈とともに再建されたも勅使門。右端に少しだけ見えるのが唐門で、この近辺に植えられている枝垂桜の見事さは春の名所となっている。

 高台寺: 開山堂と庭園  



方丈の東には、広い池泉廻遊式庭園が広がる。庭園の中央には、偃月池と臥龍池に挟まれ開山堂が建つ。庭園は、小堀遠州の作庭と伝わり、国の史跡・名勝に指定されています。

偃月池を跨ぐように屋根付の廊下が設けられている。その中ほどにある少しだけ飛び出た建物が、秀吉遺愛の「観月台」(重要文化財)。一間四方と小さく、ここだけ檜皮葺きで唐破風造りの屋根となっている。ここから北政所は亡き秀吉を偲びながら月を眺めたそうです。

中門を入り、偃月池と臥龍池に挟まれた道を進めば開山堂(重要文化財)です。慶長10年(1605)に北政所の持仏堂として建てられたが、その後、高台寺に貢献された人の木像を祀る仏堂になっている。
中央奥に高台寺第一世の住持・三江紹益像、向かって右に北政所の兄の木下家定とその妻・雲照院の像、左に徳川家康の命を受け高台寺の普請に尽力した堀直政像を安置している。

開山堂の天井には特色があるといわれるので、外から覗き撮りさせてもらいました。
左側(外陣)の天井は、秀吉が使用していた御座船の天井そのものだそうです。漆黒の格子とくすんだ金色が歴史を感じさせてくるます。右側の内陣の天井は、北政所が使っていた御所車の遺材を用いたものだそうです。






 高台寺: 臥龍廊(がりゅうろう)  



開山堂から右上の高台にある霊屋へ、屋根付き廊下が通っている。半分は階段になっており、横から見たその形状が龍の背に似ていることから「臥龍廊(がりゅうろう)」と呼ばれる。渡ることはできません。

上の霊屋から見た臥龍廊。全長約60mくらい。この臥龍廊を渡って、秀吉とねねが祀られている霊屋へ登ることができたら、また違った感慨を受けることでしょうが・・・。人が殺到し、構造上耐えられないのでしょう。



 高台寺: 霊屋(おたまや)  



開山堂東横の高台に霊屋が建ち、臥龍廊で開山堂と繋がっている。霊屋(おたまや、重要文化財)は北政所(ねね)の墓所です。内陣中央の厨子内には大随求菩薩像が安置され、その右に豊臣秀吉の坐像が、左に北政所の片膝立の木像が配されている。北政所は自らの像の約2メートル下に葬られています。
建物は慶長10年(1605)に建てられたもので、屋根上に宝珠を乗せた宝形造檜皮葺きの堂。霊屋は火災に遭わず、創建時のままといわれるが、外見は綺麗に見える。改修を受けているのでしょうか?。屋根裏、棟木などに極彩色の飾り付けがなされ、墓所とは思われないような華やかさだ。

写真には撮れないが、内部の厨子や須弥壇などの堂内装飾に壮麗な蒔絵が施され、「高台寺蒔絵」と呼ばれています。また北政所所用と伝えられている多くの調度品類にも同じ様式の蒔絵が施され、高台寺は「蒔絵の寺」とも称されている。

霊屋前からの眺め、左が方丈、右が開山堂、そして臥龍池。高台にある霊屋から眺めた紅葉が、高台寺では一番綺麗です。池とお堂がより冴えます。

 高台寺: 傘亭・時雨亭  



霊屋手前に、さらに高台へ登る石の階段がある。登ると「傘亭」と「時雨亭」という二つの茶室が並んでいます。

傘亭は厚い茅葺きの屋根をもつ茶室。茶室にしては頑丈そうに見えるのは、伏見城から移されものだからでしょうか。内部には天井がなく、屋根裏は竹が放射状に組まれており、唐傘を広げたように見えることから「傘亭」と呼ばれている。「安閑窟」が正式名称で、重要文化財指定されている。

傘亭と屋根付きの土間廊下でつながった、もう一つの茶室「時雨亭」。こちらは二階建てで、これも伏見城からの移築といわれる。傘亭同様に重要文化財。「なお廊下は移転時に付加されたもので、両茶室はもともと別々に建っていたと考えられる」そうです。

この高い位置にある茶室からは、遠く大阪市内まで見通せる。大阪城落城のとき、北政所はこの高台寺にいたという。北政所(ねね)はこの二階建ての茶室で、炎上する大阪城をどのような気持ちで眺めていたのでしょうか。そしてこの9年後に、この高台寺で息を引き取ります。

 高台寺: 竹林・雲居庵  



高台から下へ降りていく途中に竹林の道がある。華やかな紅葉を見てきた後だけに、いっそう清々しい気分にさせてくれます。

竹林の道を過ぎるとお茶席「雲居庵」。これで高台寺境内を一周したことになる。最後はこの茶席で一服。ここの庭の紅葉も素晴らしい。お茶を味わいながらこの美しい紅葉を鑑賞って最高・・・、私は鑑賞だけでしたが。

出口を出てもまだ高台寺の境内です。天満宮や販売店、お茶所が並んでいる。鐘楼の所からの眺めも良い。京都市内が見渡せます。鐘楼には慶長11年(1606)銘の入った梵鐘(重要文化財)が吊るされていたが、老朽化のため2010年に外され、今は二代目が吊られている。

次は青蓮院門跡へ。


詳しくはホームページ

鳥羽・伏見の旧跡巡り 5

2017年12月07日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2017年10月18日(水) 京都市南部の鳥羽・伏見の名所、旧跡を巡りました。

 鳥羽離宮とは  



(現在の鳥羽の地と鳥羽離宮跡 - 京都市埋蔵文化財研究所のサイトより)
鴨川と桂川の合流点附近に位置する鳥羽の地は,陸路は山陽道,水路は淀川を経て瀬戸内海へ通じる水陸交通の要所でした。運ばれてくる物資の多くは,都に最も近い鳥羽の港で陸揚げされました。鳥羽は平安京の外港としての機能を持った。

鳥羽離宮(とばりきゅう)は、12世紀から14世紀頃まで代々の上皇により使用されていた院御所。鳥羽殿(とばどの)・城南離宮(じょうなんりきゅう)とも呼ばれる。鴨川と桂川の合流点附近に位置する鳥羽の地は、京への入口として水陸の要所だった。と同時に水の豊かな風光明媚な土地として、貴族達の別邸が建ち並び狩猟や遊興の地としても知られていた。現在の京都市南区上鳥羽,伏見区竹田・中島・下鳥羽一帯です。

応徳3(1086)年11月、第72代白河天皇(1053~1129)は父・後三条天皇の遺言「次は輔仁親王(白河天皇とは異母弟)を天皇にせよ」を無視し、まだ8歳だった自分の息子・善仁親王(堀河天皇)に譲位してしまう。自分は上皇となり、実子の幼帝を後見するため自ら政務に介入するようになった。上皇は「院」とも呼ばれていたので、これが歴史上「院政」と呼ばれる政治システムの始まりです。

これと同時に鳥羽離宮の造営も開始される。院の近臣である藤原季綱が鳥羽の別邸を白河上皇に献上すると、諸国から資材が集められ、造営工事が行われた。後の南殿(現在の鳥羽離宮公園付近)です。また貴族や院近臣たちに宅地を与え、周辺に住まわせたという。「あたかも都遷(みやこうつり)の如し」のようだった、と噂されたそうです。
白河上皇は、熱心に仏教を信じ、嘉保3年(1096)の寵愛していた皇女の死を機に出家し、法名を「融観」として法皇となった。そして東殿を建設し、邸内に自らの墓所として三重塔を建立。堀河天皇崩御後は、自らの孫で5歳で即位した鳥羽天皇、更に曾孫の崇徳天皇と3代にわたって幼主を擁し、以後43年間にわたり院政を敷いた。鳥羽離宮は、ただの隠居所ではなく、院政政治の拠点ともなりました。大治4年(1129)、77歳で崩御。

鳥羽天皇(1103~56)は、保安4年(1123)に第一皇子・崇徳天皇に譲位し上皇となる。しかしまだ実権は白河上皇が握っていた。白河上皇の死後(1129)、子の崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の3代28年に渡って鳥羽上皇の院政が行われた。鳥羽上皇も鳥羽離宮の拡張に努め、継続して殿舎が増築された。東殿に安楽寿院を付設し、田中殿、泉殿をはじめとして増設が繰り返された。鳥羽上皇の代にほぼ完成し,14世紀頃まで代々院御所として使用されました。
そして鳥羽上皇も東殿(安楽寿院)に本御塔(ほんみとう)と新御塔(しんみとう)の2つの塔を造営し、本御塔を自らの墓所と定める。保元元(1156)年,鳥羽上皇が安楽寿院で亡くなると,遺言に従い本御塔に埋葬されました。

鳥羽離宮の復原イメージ(上記サイトより)
鳥羽離宮は、幾つもの御所と御堂と庭園・苑池から成り立ち、東西1.5キロ、南北1キロのその広大な敷地は約百八十町(180万平方メートル)あったそうで、京都御苑の3倍(甲子園球場約26個分)といわれる。東には鴨川(旧)が、西には桂川(旧)が流れ(現在は、流れが変更されている)、その合流地点で水の豊かな土地。
離宮西端には「鳥羽の作道」(とばのつくりみち)が通っていた。これは平安京の朱雀大路を真南に真っ直ぐ伸ばした約3キロの道で、都と鳥羽とを結んでいる。

鳥羽離宮を構成する南殿・北殿・東殿・馬場殿(城南宮を付設)・泉殿・田中殿などの御所には,それぞれ御堂が附属し,その周辺には広大な池を持つ庭園が築かれました。離宮内への各御殿には舟で往来していた。
鳥羽離宮は、院政という政治の場でしたが、同時に末法の時代を反映し多くの寺院が造営され、更には遊興の地でもあった。
その後院政は、更に後白河上皇、後鳥羽上皇まで4代150年続くが、院政の終焉とともに離宮内の建物は姿を消していき、南北朝時代の戦火によって、多くの建物が焼失し、その後急速に荒廃していった。
現在は、すぐ傍に名神高速道路京都南インターチェンジが現れ、工場や倉庫などの点在する住宅地となり、鳥羽離宮を偲ばせるものは安楽寿院、白河・鳥羽・近衛各天皇陵、城南宮、秋の山(築山)を残すのみとなっています。

 鳥羽離宮跡公園  



現在の鴨川沿いに「鳥羽離宮跡公園」があります。これは鳥羽離宮で最初に造営された南殿の跡が整備され公園とされたもの。現在、国の史跡公園に指定されています。公園といっても遊具や施設が見られず、広いグラウンドがあるだけです。グラウンドの片隅で、おじさん、おばさん達がゲートボールに興じられていた。

公園北に、樹木に覆われた土盛りがあります。鳥羽離宮では、四季の山になぞらえて四つの山が庭園内に造られた。この土盛りは、その中の一つで「秋の山」と呼ばれ、地上に明確に残るほぼ唯一の鳥羽離宮の庭園遺構だそうです。また、公園北側には「中島秋ノ山町」という町名が残っている。なお、城南宮の庭園・楽水苑内に「春の山」が新しく造られています。
最上部に石碑が建てられていたが、文字が読めず、何の碑なのか判らない。明治45年2月という建立日だけが判明。

南殿の復原図(公園内の案内板より)。現地案内板には
「昭和38年から42年にかけて調査し、建物と庭園の跡を確認したもの。南殿は鳥羽離宮で最初に造営された宮殿であり、建物跡は公園の南方にある。なお、公園内の「秋の山」は、当時の庭園の築山にあたる」
「南殿の御所は、西南から東北へと順次に雁行形に配置された和風建築である。寝殿・小寝殿・御堂・金剛院は、遺跡で確認され、池にのぞんで風雅に配置されていた。なお、大門・中門・中門廓・西対跡は、鴨川の堤防の下に埋もれている」とあります。



 鳥羽伏見戦跡  


鳥羽離宮跡公園内の土盛り「秋の山」の傍に、「鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)勃発の地 小枝橋」という解説版が設置され、その横に新政府軍(薩摩藩、長州藩、土佐藩)と幕府軍(会津藩、新撰組)の布陣図まで置かれている。解説板は、文字がかすれ読みにくいので、全文を紹介します。

「鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)勃発の地 小枝橋
小枝橋は、慶応4年(1868)正月三日、京都を目指す幕府軍とそれを阻止しようとする新政府軍が衝突し、翌年の夏まで続いた戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いが始まったところです。大政奉還し大阪城にいた徳川15代将軍慶喜は、薩摩を討つため上洛を決意します。大阪から淀川を上って竹田街道の京橋で上陸した先遣隊に続き、幕府軍本体が鳥羽街道と伏見街道に分かれて京都に進軍しようとします。これを阻止しようとする新政府軍は、竹田、伏見街道周辺に布陣し、鳥羽街道を北上する幕府軍とここ小枝橋で衝突します。
「将軍様が勅命で京に上るのだから、通せ」という幕府軍と、「勅命ありとは聞いていない、通せない」という新政府軍の押し問答が続き、幕府軍が強行突破しようとすると、薩摩藩のアームストロング砲を発射、この砲声を合図に幕府軍1万5千人と新政府軍6千人の激しい戦いが始まります。こうして始まった戊辰戦争は、翌年の函館五稜郭の戦いまで続いて新政府軍が勝利します。新しい時代「明治」は、ここ伏見から始まったといえます」


鳥羽離宮跡公園から北へ少しいった車道脇に「鳥羽伏見戦跡」の石柱が建てられている。案内板には「明治元年(1868)正月3日(太陽暦1月27日)夕方、この付近での戦が、鳥羽伏見戦の発端となった。王政復古ののち、将軍の領地返納をきめた朝廷、薩摩、長州藩らの処置を不満とした幕臣、会津、桑名軍は、正月1日挙兵、大阪から京都へ攻め入ろうとし、薩摩、長州軍はこれを迎えうった。城南宮には、薩摩の野津鎮雄らが大砲を備えて布陣し、竹田街道を北上してきた桑名軍、幕府大目付滝川具挙が、小枝橋を渡ろうとするのを阻止して、談判の後、ついて薩摩軍から発砲した。この一弾があたかも合図となって、戦端はひらかれ、鳥羽伏見両方面で激戦がつづき、正月6日幕府軍は敗退した。この一戦をきっかけに、戊辰(ぼしん)戦争が始まった。伏見区中島秋ノ山町」とあります。戦いの発端となった小枝橋がこの付近にあったのでしょうか。

 城南宮(じょうなんぐう)  


城南宮の東の入口
城南宮の創建には諸説あるが、城南宮公式サイトには「延暦13年(西暦794年)の平安京遷都に際し、都の安泰と国の守護を願い、国常立尊(くにのとこたちのみこと)を八千矛神(やちほこのかみ)と息長帯日売尊(おきながたらしひめのみこと)に合わせ祀り、城南大神と崇めたことが城南宮のご創建と伝え、城南宮とは平安城の南に鎮まるお宮の意味です。」と記載されている。息長帯日売尊とは神功皇后のことです。
平安後期に鳥羽離宮が造営されるとその一部となり、馬場殿にあった城南寺の鎮守社となる。応仁の乱などの戦乱で荒廃したが、江戸時代になって復興され、この地方の産土神として崇敬されてきた。

境内は開放されており無料で自由に拝観できる。庭園の神苑「楽水苑」だけ有料です。
参道を進むと、右側に朱鳥居、その奥に拝殿、本殿が現れる。朱鳥居の最上部には屋根が葺かれ、その下に城南宮の御神紋「三光の紋」が輝く。太陽と月と星を組み合わせた非常に珍しいもので、神功皇后の軍船の旗印にちなんだものだそうです。方除けの神徳を表し、城南宮は方除け、交通安全、旅行安全の神として信仰されている。

鳥居の横に水屋があります。この湧き水は、伏見の名水10ヶ所の一つ。傍の説明板によれば、「延命水」「菊水若水(きくすいわかみず)」とも呼ばれ、この水を飲むとあらゆる病気が治る。東大寺のお水取りの水は、若狭の国からこの「菊水若水」を通り二月堂の若狭井に達するそうです。

能舞台風の拝殿の背後に本殿がある。しかし本殿は現在、平成の御遷宮の最中で覆いが被され見ることはできません。平成30年秋を目指して修復中とのこと。
祭神は息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)・八千戈神(やちほこのかみ、大国主神)・国常立尊(くにとこたちのみこと)。
現在は、普請・造作・転居・旅行・交通安全など方除け(ほうよけ)の神社として広く信仰されてている。

「熊野詣出立の地」の立て札が立つ。それによれば、白河・鳥羽・後白河・後鳥羽上皇の熊野御行では、鳥羽離宮で方除けの精進を勤め旅の安全を祈願し、近くの鳥羽の湊から舟に乗り淀川を下って難波津より陸路熊野に向かわれた。

本殿、拝殿、神楽殿など城南宮の建物の外側を一周するように庭園「楽水苑」が設けられている。昭和の造園家・中根金作氏(1917-1995)の作庭によるもので、四季折々の草花を観賞できるようになっている。
庭園入口は拝殿の左にある。境内は自由に参観できるが、この楽水苑は入園料が必要です。大人:600円、中小学生:400円。入園時間は:9時~4時半まで。

庭園に入ると、まず「春の山」と源氏物語の世界が迎えてくれる。
鳥羽離宮では、四季の山になぞらえて四つの山が庭園内に造られた。その中の一つ「秋の山」が鳥羽離宮跡公園内に現存しています。ここ城南宮の中に「春の山」が再現されたのです。「秋の山」と同じように築山され、春には椿やしだれ梅などが彩りをそえる。またその周辺は「源氏物語の庭」と称され、紫式部、夕顔、桐など源氏物語に登場するほとんどの植物が植えられています。

境内の東側に広がるのが「平安の庭」。平安貴族の邸宅の庭に倣って造られたという。池と植栽、苔の美しい庭です。
「平安の庭」の南側に、苔むした広場があり、池から流れ出る小川が曲がりくねっている。ここが毎年4月29日(昭和の日)・11月3日(文化の日)に催される「曲水の宴(きょくすいのうたげ)」の場所です。王朝時代を偲ばせるその優雅な催しは、写真では見たことあるが実際に見てないので、城南宮公式サイトより紹介すると

「木漏れ日もやわらかな平安の庭を、ゆるやかに曲がりながら流れる一筋の遣水(やりみず、小川)の辺(ほとり)で、雅やかな曲水の宴を行っています。この曲水の宴は、奈良時代から平安時代にかけて宮中で催された歌会を再現した行事で、京都を代表する年中行事に数えられ、次のような次第で行われます。
 色とりどりの平安時代の装束を身につけた7名の歌人(男性5名は狩衣[かりぎぬ]、女性2名は小袿[こうちき]を着用)が席に着くと、1人ずつ歌題を確認します。そして歌人が遣水の傍らの座に着くと、中央の舞台で白拍子の舞がしずしずと披露されます。次いで2人の水干(すいかん)姿の童子が朱塗りの盃にお神酒を注ぎ、羽觴(うしょう、鴛鴦[おしどり]の姿を象った盃台)に載せ、川上から次々に流します。琴の音が響く中、歌人は歌題にちなんだ和歌を詠み、それぞれ短冊にしたためます。そして、和歌を書き終えた歌人は、目の前に流れて来た羽觴を取り上げ、盃のお神酒をいただくのです。全員が和歌を詠んで盃を飲み終えると童子が短冊を集め、これら7首の和歌は、平安時代さながらに節をつけて神職によって朗詠され、神様に奉納されます。
こうして、春は新緑の中、秋は紅葉が色づき始める神苑で、約1時間にわたって王朝の雅な世界が再現されます。」

午後2時よりおよそ50分間、平安の庭で斎行される。当日は、神苑楽水苑が無料公開され自由に観覧できる。ただし混雑が予想され、観覧者多数の場合は危険防止の為、入場制限を行うそうです。

楽水苑はグルッと一周しているので一度参道へ出る必要があります。参道を横切ると、次なる庭園への入口が見える。入園券なしに勝手にはいることはできません。可愛い巫女さんがチェックしています。

再入場すると、まず現れるのが「城南離宮の庭」、そして最後に広々とした池泉廻遊式庭園が現れる。「室町の庭」と「桃山の庭」です。右の刈り込みは山並みを表し、芝生の海には島が点在し、右端の松は船の形になっている。写真手前には茶席「水石亭」があり、庭園を眺めながら季節のお菓子とお抹茶を味わえるそうです。

 田中殿と西行寺跡  



新城南宮通りを渡り、200mほど行くと高速道路に突き当たり、その手前が田中殿公園です。町工場が立ち並び、すぐ横が名神京都南インターチェンジで、その近辺にラブホテルが乱立する。環境は最悪で、離宮を示すものは公園名以外に何も見られなかった。

田中殿は,鳥羽上皇が離宮内に造営した最後の御所で、皇女八条院のために建立したもの。西には寝殿、東には金剛心院などが建ち,庭園や池があり,舟つき場を備え南殿や東殿などと繋がっていた。
それらの遺構が見つかっており,現在,その跡が「田中殿公園」として整備されたものです。

田中殿から安楽寿院へ向う途中、住宅に挟まれた狭い空き地に西行寺跡(さいぎょうじあと)がある。「西行寺跡」と刻まれた石と、小さな祠が並んでいるだけです。ここは西行(俗名:佐藤義清)が鳥羽上皇の北面の武士であった頃の邸宅跡と伝えられています。江戸時代に西行寺が建てられ、境内には月見池・剃髪堂があった。西行寺は、明治11(1878)年観音寺(伏見区竹田西内畑町)に併合され、現在は西行寺跡を示す石碑が残されているだけです。

 白河天皇 成菩提院陵と北向不動院  



西行寺跡から、本通りに出て150mほど南へ歩くと「白河天皇 成菩提院陵(じょうぼだいいんのみささぎ)」です。ここは鳥羽離宮の泉殿内に位置し、白河上皇は自らの墓所として三重塔を建立した。大治4(1129)年、77歳で崩御すると,火葬後,遺骨は一旦香隆寺(こうりゅうじ,北区)に埋葬された。三重塔に付属して御堂成菩提院が完成すると,遺言に従って三重塔の下に改葬されました。

Wikipediaによれば「白河法皇は当初、自身の死後は土葬されることを望み、たびたび周囲の者にその意向を伝えていたが、同様に土葬された藤原師通が、生前に彼と対立していた興福寺の僧兵が報復としてその墓を暴き、遺体を辱めんと計画していたことを知り、自身も後世に同様な仕打ちを受けるのを嫌い、急遽火葬にするように命じたという。法皇の遺体を荼毘に付したとされる火葬塚は京都市北区の金閣小学校の近くに現存する。」

宮内庁の陵形名は「方丘」となっている。現在、33メートル四方の正方形の盛り土があるだけで、三重塔は失われている。発掘調査によると、元は一辺56メートルの正方形で,周囲には幅約8メートルの周濠が巡らされていたそうです。

白河天皇 成菩提院陵から車道を渡り、少し行くと北向不動院(きたむきふどういん)がある。
案内板によると,大治5(1130)年鳥羽上皇の勅願により鳥羽離宮の安楽寿院内に興教大師を開山として創建されたという。もとは天台宗延暦寺末寺でしたが,現在は単立寺院。

南の入口から入り、奥へ進むと本堂が北向きに建つ。この本堂には、興教大師が仏師康助に刻ませた本尊の不動明王(重要文化財)が祀られています。王城鎮護のため北向きに安置されたことから,鳥羽上皇から「北向不動院」の名を賜ったといわれています。
本尊の不動明王は秘仏ですが、鳥羽上皇の誕生日である毎年1月16日に行われる「御開扉特別加持祈祷」のときだけ開扉されるそうです。大護摩が修され、護摩の煙にあたると一つだけ願い事がかなうという。俗に「一願の護摩」と呼ばれている。

 安楽寿院(あんらくじゅいん)  



安楽寿院内の案内図より

鳥羽離宮内の南殿には証金剛院が、田中殿には金剛心院が、北殿には勝光明院が建てられたが、現存していない。この安楽寿院は東殿に設けられたもので、唯一現存している遺構です。
安楽寿院は保延3(1137)年,鳥羽上皇の御願によって東殿に創建された御堂で、阿弥陀三尊像が安置された。その後、三重塔(本御塔、ほんみとう、後の鳥羽上皇の墓所),九体阿弥陀堂,新御塔,不動堂も相次いで建設されました。
平安後期以降は、戦乱などで多くの伽藍を焼失し衰退していく。安土桃山期に豊臣秀吉・秀頼父子の支援のもとに復興し、規模は縮小されたものの維持されてきた。幕末の鳥羽・伏見の戦(1868年)では官軍(薩摩軍)の本営となり明治維新の一役割を担う。しかし明治の廃仏毀釈で伽藍、末寺、土地の多くを失う。戦後も災いは続き、昭和36(1961)年の第2室戸台風で大きな被害を受けている。建物の多くはその後に修理再建されたものです。
現在、真言宗智山派に属す。市指定史跡。

左太師堂、右は薬師堂と鐘楼。
大師堂は、安土・桃山時代(1596)に建立され、弘法大師像を祀っています。
薬師堂は台風による倒壊後、1959年に建立されたもの。かっては阿弥陀堂と呼ばれ、本尊の阿弥陀如来像が安置してあった。鐘楼は、江戸時代(1606年)に、豊臣秀頼による大修復の際に建立された。柱、梁にのみ当時の材を残す。

薬師三尊・釈迦三尊・阿弥陀三尊の三体からなる三尊石仏が、江戸時代に境内の西にあった成菩提院跡から出土した。平安時代の貴重な遺仏といわれる。そのうち最も保存状態のよい阿弥陀三尊像は京都国立博物館に寄託され、博物館の前庭に置かれている。残り二体がこうして小屋の中に、向かって右に釈迦三尊、左に薬師三尊が安置されています。



 近衞天皇安楽寿院南陵  



安楽寿院の諸堂とは道を挟んで反対側に、近衞天皇安楽寿院南陵(このえてんのう あんらくじゅいんみなみのみささぎ)がある。
1157年、鳥羽天皇の皇后・美福門院の葬所として新御塔(しんみとう)が建てられました。1160年美福門院は亡くなったが、その遺言に従い遺骨は高野山に葬られた。そのため、既に亡くなっていた息子の近衛天皇の遺骨を知足院(ちそくいん,北区紫野)からこの新御塔に移し改葬されたのです。

遺骨が納められた新御塔ですが、現在の多宝塔は慶長11年(1606)、豊臣秀頼によって再建されたもので、その中に骨臓器が納められている。宮内庁も「陵形:多宝塔」としている。土盛りされた丘や石塔などがほとんどの歴代天皇陵だが、こうした建物形式の陵墓は非常に珍しい。

 鳥羽天皇安楽寿院陵  



境内の道を西へ歩くと、突き当たりに石標「白河法皇・鳥羽法皇院政の地」と「冠石」が置かれている。そこを右へ曲がるとすぐ鳥羽天皇安楽寿院陵(とばてんのう あんらくじゅいんのみささぎ)です。
下々をそんなに叱りつけなくても・・・

鳥羽上皇は、白河上皇に倣って生前に自らのの墓所として安楽寿院内に三重塔(本御塔)を造られていた。保元元年(1156)7月に崩御された鳥羽上皇は,遺言に従って三重塔(本御塔)の下に埋葬されました。第一層の須弥檀上には上皇の念持仏だった阿弥陀如来坐像が安置された。
当初の本御塔は永仁4(1296)年に焼亡。現在の御陵は元治元(1864)年に造営された法華堂です。なお、宮内庁発表の公式形式は「陵形:方形堂」となっている。


詳しくはホームページ

鳥羽・伏見の旧跡巡り 4

2017年11月29日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2017年10月18日(水) 京都市南部の鳥羽・伏見の名所、旧跡を巡りました。

 御香宮神社(ごこうぐうじんじゃ)1  


「大手筋商店街」アーケードを東に抜け、京阪電車・伏見桃山駅、近鉄電車・桃山御陵前駅をやり過ごし150mほど歩けば御香宮神社の紅い大鳥居です。この道を真っ直ぐ進めば、明治天皇伏見桃山御陵へ通じています。
御香宮神社は、地元では「ごこうぐうさん」と呼ばれ、子育て、安産にご利益がある神社として古くから親しまれてきた。これは主祭神・神功皇后が、新羅から筑紫へ凱旋のとき、応神天皇を無事出産したことに由来しています。

御香宮神社の表門(重要文化財)です。元和8年(1622)水戸光圀の父・徳川頼房が伏見城の大手門を拝領して寄進したもの。門柱には堂々と「伏見城大手門」の表札が掲げられている。門の扉も頑丈に防御され、お寺の門とは思えません。

門の表側(道路側)の軒下に、四つの蟇股(かえるまた)が彫られている。これは中国の二十四孝の物語を表してしるそうです。
左から
「孟宗(もうそう)」・・・病弱の母が筍を食べたいというので、孟子は雪の中に探しに出ると、寒中にも拘らず彼の孝養に感じ筍が出てきた話
「唐夫人(とうふじん)」・・・唐夫人の曽祖母は歯が無かったので、自らの乳を飲ませて天寿を全うさせた話。
「郭巨(かっきょ)」・・・郭巨は母に孝行する為に子供を殺して埋めようとした所から黄金の釜が出土、子供を殺さず親孝行が出来た話。
「楊香(ようこう)」・・・楊香と云う名の娘が猛虎より父を救った話。

境内は自由に見学・参拝できます。
御香宮神社の創建については二説あります。社伝によれば、平安時代の貞観4年(862)、境内より香りの良い水が湧き出し、その水を飲むと病は治り、願い事がかなったという。時の第56代・清和天皇は社殿修復の勅を出し、「御香宮」と名のらせたという。この水は、現在でも「御香水(ごこうすい)」として、本殿横から湧き出している。
もう一つの説は、九州筑紫の香椎宮(かしいのみや)の神(神功皇后)を、山城国の御諸(みもろ)神社に勧請したというもの。「御香椎宮」と呼ばれていたが、後に「椎」を略して「御香宮」になったという。

その後、応仁の乱などの兵乱や天災によって荒廃していたが、豊臣秀吉の伏見城築城の際に、鬼門除けの神として城内に勧請した。それが現在、「古御香宮」として伏見丘陵の北側に残っている。
徳川家康が天下を取ると、慶長10年(1605)元の現在地に戻され本殿が造営された。これを機に徳川家とゆかりの深い神社となる。本殿西側には、徳川家康を祀った「東照宮」が建てられている。しかし、皮肉にも幕末の鳥羽・伏見の戦い(1868年)では、会津藩兵や新選組などの幕府軍がこもっていた伏見奉行所に、砲弾を打ち込んだ討幕派・薩摩藩の陣地となる。伏見奉行所から150m程の距離で、砲弾が的確に命中することから選ばれた。この砲撃で伏見奉行所は灰燼に帰したが、幸いにも御香宮神社は鳥羽・伏見の戦いでは戦災に遭わず、現在の姿が残されている。
表門を入り、参道を真っ直ぐ進むと色彩鮮やかな拝殿(重要文化財)です。この拝殿は寛永2年(1625)、紀州徳川家の初代藩主・徳川頼宣によって寄進されたもので、伏見城の車寄(くるまよせ)だったのではないかといわれている。正面中央に通路がある割拝殿で、本瓦葺屋根に、正面軒唐破風を持つ入母屋造り。
この拝殿で、何といっても目に付くのが正面軒唐破風に描かれた極彩色彫刻。平成9年(1997)、半解体修理が終り往年の鮮やかな色彩が復元された。
中央の唐破風には、徳川家の三ツ葉葵の定紋が。上部の棟瓦の真ん中にも見られます。
豊臣家の五七桐紋(現、日本国の紋で500円硬貨)や皇室の菊の御紋を脇に押しのけ、中央に燦然と輝いています。
慶長10年(1605)徳川家康の命により、、京都所司代・板倉勝重が普請奉行となり建立。檜皮葺の屋根を持つ五間社流造り。国の重要文化財です。主祭神は神功皇后で、夫の仲哀天皇、子の応神天皇ほか六神を祀っている。神功皇后の神話における伝承から、安産の神として信仰を集めています。

拝殿同様、本殿にも極彩色の彫刻が施されている。金鶏や銀鶏、孔雀、象、虎などの躍動する彫像です。平成2年(1990)からの修理によって極彩色の彫刻が塗り直され、いっそう鮮やかに蘇ってきた。

 御香宮神社 2  



本殿前の左側に、今も湧き出しているという「御香水(ごこうすい)」の水汲み場があり、柄杓が置かれています。ただし「この水は濾過されていませんので飲まないで下さい」と注意書きがぶら下がっているので、手を清めるだけのもののようです。
神社名の由来にもなった「御香水」は、明治時代に一度枯れてしまいましたが、昭和57年(1982)に再掘削し、地下150mからくみ上げ復活した。伏見の七名水に数えられ、昭和60年(1985)環境庁の「名水百選」に認定されました。

参道右側に、北野天満宮・八坂神社の絵馬堂とともに京都三大絵馬堂とされる絵馬堂がある。高床式の建物の側面に、大きな絵馬が掲げられている。絵はかすれ消えかけているので、よく判らない。
「算額」と呼ばれ、数学(和算)の問題を描いた絵馬もあるそうです。八坂神社に答えの算額があるとか。



拝殿前右横に「伏見の戦跡」と刻まれた碑があります。慶応4年(1868)正月に始まった鳥羽伏見の戦いで、この御香宮神社もその舞台となった。官軍の薩摩藩800人が駐屯し、4門の大砲で200mも離れていない新選組の駐屯地・伏見奉行所に砲弾を撃ち込んだ。砲弾は奉行所を炎上させ、激しい市街戦となる。結局、錦の御旗を掲げた官軍が有利になり、幕府軍は敗退し、御香宮神社の社殿は幸い戦火を免れている。

”世界史上まことに重大な意義”も?なのだが、なぜ佐藤栄作なのか?よくわからない。多くの犠牲者をだした世界大戦の遠因となった天皇制国家実現への一戦だった。戦犯の弟・佐藤栄作は悔悟の気持ちをこめてこの碑に対峙したのでしょうか?

表門を入った直ぐ右横に菅原道真を祀った桃山天満宮がある。その境内には、石垣だったのでしょうか、旧伏見城の残石が無造作に積み上げられている。明治天皇陵墓を築くのに邪魔だったので、近くの神社内に移し(捨てる)たのでしょう。
参道脇にも、石垣と思われる大石が転がっています。穴があいていたり、線条が見えたりと、歴史を感じさせてくるゴロ石です。

御香宮神社を出て、駅方向に歩いていると、歩道上に奇妙な建物がある。それも歩道を半分以上占拠してだ。交番?、休憩所?、観光案内所?・・・トイレでした。伏見は、おじさん、おばさんに優しい町です。





 伏見奉行所跡  



近鉄電車「桃山御陵前2」駅南側の筋を200mほど行くと、京都市営桃陵団地が建つ。その西入口の一角に伏見奉行所跡の碑が建っている。昭和43年(1968)に、京都市によって建立された碑です。現在、伏見奉行所としての遺構はほとんど残っておらず、この高さ1mほどの石碑が伏見奉行所跡を示す唯一のものです。なお、小堀遠州が手がけた奉行所の庭園の一部が、昭和32年御香宮神社に移され再現されている。

伏見城廃城後に、代わって伏見を統治する拠点になったのが伏見奉行所です。寛文6(1666)年水野石見守忠貞(1597~1670)が初代奉行となる。伏見市街と周辺8カ村を支配すると同時に、京都への入口にあたることから西国大名の監視や港の監視などの役割を持っていた。慶応3(1867)年、王政復古後に伏見奉行所は廃止され、京都町奉行所に吸収される。

慶応4(1868)年正月3日の鳥羽伏見戦では,幕府直属武士、会津藩や新選組など旧幕府軍1500人がここ伏見奉行所に立てこもって、向かいの御香宮に陣を張った薩摩藩将兵800人の官軍と対峙した。しかし新式の洋式銃と大砲を持つ薩摩藩には勝てず、砲火を浴び奉行所は焼け落ちた。翌日、旧幕府軍は伏見から撤退している。


明治期から終戦まで、跡地は陸軍伏見工兵16大隊の兵営となり、戦後は進駐軍が接収し駐屯地とした。1958年に敷地は日本に返還され、大規模団地・桃陵団地が建てられた。
伏見奉行所跡の碑の反対側には「伏見工兵第十六大隊跡」と刻まれた石碑が置かれていました。












 墨染寺(ぼくぜんじ)  


墨染寺(ぼくぜんじ)は、京阪電車・墨染駅を降り西に歩き、琵琶湖疏水に架かる橋を渡ると見えてくる。狭い車道の直ぐ脇で、住宅街の狭い場所なので見逃しやすい。
入口には「墨染桜寺」の石柱も建つ。山号は深草山という日蓮宗の寺。本尊は十界大曼荼羅。
拝観時間:午前8時~17時、境内無料

このお寺が有名なのは、地名でもあり寺名でもある「墨染桜(すみぞめざくら)」に因む。それは次のような伝説からきている。
平安時代の891年、時の太政大臣・藤原基経が亡くなり、野辺だったこの地に葬られた。それを悲しんだ平安歌人・上野岑雄(かみつけのみねお)は友の死を悼み、桜に向かい次の歌を詠んだ。
「深草の野辺の桜し心あらば 今年ばかりは墨染に咲け」(『古今和歌集』)
すると、桜の花が墨染色に染まったという。秀吉もこの話に感銘し、度々訪れ寺の復興に力添えしている。

墨染桜は狭い境内の一箇所に、柵で囲われ数本あるだけです。「三代目」とある。辞書によると「里桜の一品種。花は小さく単弁で細く白色。茎・葉ともに青く、薄墨のようである」。「墨染衣」といわれる僧の鼠色の衣の色をイメージすればよいとか。実際に見てみたいですね。

「墨染井」と刻まれた小さな手洗鉢が置かれている。「願主 中村歌右衛門」とあります。江戸時代の歌舞伎役者・二代目中村歌右衛門が、1768年に寄進したものだそうです。墨染桜のエピソードや深草少将の悲恋話が歌舞伎芝居で大当たりしたことによるものとか。







 藤森神社(ふじのもりじんじゃ)1  



京阪電車・墨染駅から北東へ10分位歩けば藤森神社です。神社の歴史についてWikipediaには
「創建年代や祭神には諸説ある。社伝では、神功皇后摂政3年(203年)、三韓征伐から凱旋した神功皇后が、山城国・深草の里の藤森に纛旗(とうき、いくさ旗)を立て、兵具を納め、塚を作り、祭祀を行ったのが当社の発祥であるとしている。当初の祭神は、現在本殿に祀られる7座であった。藤森の地は現在の伏見稲荷大社の社地であったが、その地に稲荷神が祀られることになったため当社は現在地に遷座したと言われている。そのため、伏見稲荷大社周辺の住民は現在でも当社の氏子である。なお、現在地は元は真幡寸神社(現・城南宮)の社地であり、この際に真幡寸神社も現在地に遷座した。」とある。
本殿に三つの座(中座、東座、西座)が設けられているように、周辺にあった三つの神社が統合されてできた神社。そのため多くの神が祀られている。

神社入口にある「勝運 馬の社」の朱文字がひと際目に付く。武神が多く祀られ、駆馬神事も有名なことから、馬と勝負事の神社として知られており、競馬関係者や競馬ファンの信仰を集めているそうです。

石鳥居をくぐると、幅広の砂道が150mほど本殿に向って真っ直ぐ伸びている。「人・馬」が通れる参道です。
藤森神社で名高いのは、端午の節句(菖蒲の節句)である毎年5月5日に行われる「藤森祭」(別名「深草祭」)。その藤森祭のハイライトが、この参道を駆け抜ける駆馬神事(かけうましんじ)。7種類の馬上妙技が披露されます。騎乗で伝達する「一字書き」、矢の中を駆ける「手綱潜り」、逆さになり落馬に見せかける「藤下がり」、逆立ちにより敵を嘲る「逆立ち」、前後逆に跨り敵の動静を見る「逆乗り」、矢を払い駆ける「矢払い」、馬に姿を隠す「横乗り」など曲馬(くせうま)の技が披露されるという。下賀茂神社(京都)、春日神社(奈良)の流鏑馬神事は見たことあるが、ここの駆馬神事も是非見てみたいものです。昭和58年(1983)に京都市の無形民俗文化財に指定されるた。

参道の左脇に紫陽花苑(あじさいえん)があります。今は鮮やかさは無いですが、6月の開花期には約40種類・3500株が咲き、多くの人出で賑わうという。「紫陽花苑」の公開は6月10日~7月上旬。開苑時間は9時~17時。入苑料は一般300円ほか(第1・第2紫陽花苑共通券)。期間中の土日には蹴鞠や太鼓、雅楽などの奉納行事があり、6月15日の「紫陽花祭」には、アジサイの献花、献茶、神楽・豊栄の舞の奉納などの神事が行われるそうです。本殿裏には、規模は小さいですが第2紫陽花苑がある。

馬と勝負の藤森神社だけあって絵馬舎もあります。かっては拝殿だった建物だそうです。古い絵馬もあるが、多くは現代の競走馬。内部はベンチが置かれ休憩所になっている。おじさん達が集まり競馬談義に興じていました。

左:トウカイテイオー、右:ナリタブライアン とある。





鎧兜や刀剣・鉄砲・弓矢・馬具など、多くの武具類が展示されている。鳥羽伏見の戦いで使われた薩摩藩の「先込式大砲」もあった(大砲にしては小さかったが)。また「馬の博物館」といわれるだけあって、日本、外国の馬の玩具、多数の小さな馬のミニチュア、武豊などの乗馬写真など多数展示している。
午前9時~午後5時まで、入館無料。

 藤森神社(ふじのもりじんじゃ)2  



落ち着いた割拝殿。拝殿と奥にある本殿は、正徳2(1712)年に後水尾天皇の遺勅によって宮中にあった建物を移したものです。
ちなみに、それ以前に使われていた拝殿は今は絵馬舎になっています。

本殿は外見では判らないが、東・中・西殿の三つに分かれている。

中央部の中殿には、素盞鳴命(スサノヲノミコト)を主祭神に、別雷命、日本武尊、応神天皇、仁徳天皇、神功皇后、武内宿禰の7柱が祀られています。社伝によれば「神功皇后が摂政3年(203)・三韓征伐を終え新羅から凱旋した際に、纛旗(とうき/軍で用いる大旗)を山城国深草の里・藤森の地に立て、兵具を納めて塚を作り、祭祀を行って神々をお祀りした」とし、これが藤森神社の発祥だそうです。

東殿には舎人親王が祀られている。元々は藤尾の地(現在の伏見稲荷大社がある場所)の藤尾社に祀られていた。室町時代の永享10年(1438)、将軍・足利義教は稲荷山の山頂にあった祠を、山麓の藤尾に移動させ稲荷社とした。そのため藤尾社は藤森神社へ遷されることにる。今でも、5月に行われる「藤森祭」の時には、氏子さんが神輿を担いで伏見稲荷大社の境内にある藤尾社の祠まで出向くという。

西殿には、崇道天皇(早良親王)と伊予親王、井上内親王が祀られている。いずれの方も冤罪・謀略などによって非業の死を遂げた人達です。その怨霊を鎮めるために御霊社が建てられた。元は、東山の塚本の地にあったが文明2年(1470)に藤森神社に合祀されたもの。

本殿は、正徳2年(1712)に中御門天皇より下賜された宮中内侍所(賢所、かしこどころ)の建物。屋根には皇室を示す菊の御紋が輝いている。国の重要文化財です。

本殿の東脇に、小さな社があり、注連縄の張られた「いちいの木」の古株が据えられている。「御旗塚」と呼ばれ、ここに神功皇后が新羅侵攻の際に軍旗を埋納たと伝わる。
傍の説明板には
「神功皇后が、軍中の大旗をたてた所で、当社発祥の場所である。このいちいの木は”いちのきさん”として親しまれ、ここに参拝すると腰痛が治るといわれ、幕末の近藤勇も参拝し治したと伝えられている」とある。

「伏見 名水10ケ所」の一つ「不二の水(ふじのみず)」が、苔むした岩から湧き出している。「二つとないおいしい水」という意味から「不二の水」と呼ばれる。戦国時代から勝ち運を授ける水として名高い。地元の方でしょうか、ペットボトルを持って汲みに来られている人も。


詳しくはホームページ

鳥羽・伏見の旧跡巡り 3

2017年11月22日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2017年10月18日(水) 京都市南部の鳥羽・伏見の名所、旧跡を巡りました。

 竜馬通り商店街  


寺田屋から一本東側の通り、蓬莱橋からは前に真っ直ぐな通りです。その名も「竜馬通り商店街」。他の通りとちょっと違った雰囲気をもった通りで、小ぎれいな土産物屋、お食事処が並ぶ。アーケードのある大手前筋商店街までつながっています。
この通りには、龍馬に関連するグッズ類や絵写真などの小物を置いている「龍馬館」や、黄桜の酒場や展示場、工房からなる「黄桜カッパカントリー」がある。ここの展示場には伏見十名水の一つ「伏水(ふしみず)」が湧いていた。

 西岸寺(さいがんじ)・電気鉄道発祥地  



竜馬通り商店街の中ほどで、西側の路地に入る。すぐ油懸地蔵尊で名高い西岸寺に出会う。「油懸地蔵尊」と書かれた真っ赤な幟がはためいているのですぐ分かります。町名も下油掛町。

天正18年(1590)僧・雲海(うんかい)による創建。 油の行商人が、ここの地蔵尊に油を懸け大金持ちになったということから大いに信仰を集め、油懸けして祈願する人が増えたという。
現在でも、毎週金曜日の13時から15時の間だけ油懸祈願する事が出来るそうです。通常は扉が閉められ、お地蔵さんを拝見できません。
案内板からの紹介です。油懸地蔵は高さ1.7m、幅80cmの花崗岩の表面に彫られた像高約1.27mの石仏で、お地蔵さんの立ち姿が浮き出るように彫刻され、右手に錫枝、左手に宝珠を持っている。なで肩、大きく胸の開いた彫法で縁の部分の大きな像ということから鎌倉時代の石仏と考えられています。銘文が刻まれているようですが、昔から油を掛けて祈願され、今では油が2cmも厚く積り黒光りしているので調べようがない、ということです。

西岸寺を西に行った通りの角に「我国に於ける 電気鉄道事業発祥の地」という石碑が建つ。竹田街道と油掛通の交差点北東角です。側面には「明治廿八年二月一日京都電気鉄道株式会社は京都市下京区東洞院通東塩小路踏切(旧東海道線) 南側から伏見町油掛通まで電気鉄道を我国において初めて開業した」と書かれている。昭和45年2月1日に鉄道友の会京都支部が建立、とある。

蒸気機関車の東海道線はすでにあったが、電気で走る鉄道はここが最初です。
琵琶湖疎水を利用した水力発電所が明治23年に完成。その電力を利用した電車を走らす京都電気鉄道が3年後に設立される。明治28年(1895)4月京都岡崎公園一帯で開かれる第四回内国勧業博覧会への客輸送のため、約6キロの伏見線(下京区東洞院通東塩小路~伏見町油掛通)が明治28年(1895)2月1日に開通。日本最初のチンチン電車です。その後は、京都市電に買収され、長らく京都市民に親しまれてきたが、昭和45年(1970)に廃線となりました。

石碑の建つ角は、和菓子の老舗「駿河屋」。天明元年(1781)創業のお店。電車のイラスト入りの「電車みち」というセンベイも並んでいる。

 鳥羽伏見の戦いの跡  



寺田屋に近い京橋の傍に石碑「伏見口の戦い激戦地」が建つ。江戸時代には三十石船、十石舟、高瀬舟などが行き交い、多くの船宿、旅籠で賑わっていたここ南浜周辺は、新政府軍と幕府軍が激突した幕末の鳥羽・伏見の戦い(慶応4年(1868)1月)の市街戦により街中の多くの家屋が大きな被害を受けた。寺田屋も例外ではありませんでした。

京橋から100mほど南へ歩くと、右側の車道脇に「伏見長州藩邸跡」石碑が建つ。

鳥せい本店のある通りから一筋西に入った路地の空き地に「伏見土佐藩邸跡」の石碑が建っていました。横は「月桂冠情報センター」の建物です。この筋を南へ進むとすぐ月桂冠の大倉家本宅や伏見夢百衆です。

なお、伏見薩摩藩邸は大黒寺の西側で、濠川の傍にあった。寺田屋で負傷した坂本龍馬もこの伏見薩摩藩邸に救出され保護された。その後の鳥羽・伏見の戦いで、京橋から伏見へ入った会津藩の砲撃により焼失してしまう。現在何も残っておらず、跡地は月桂冠関連会社の松山酒造となっているという。碑も置かれていないようです。

鳥せい本店から北の方向(大手筋商店街のアーケードの方向)を見ると、突き当たりに寺門が見えます。ここがかっての東本願寺伏見別院で、「伏見御堂」と呼ばれた。
幕末の鳥羽・伏見の戦いでは、旧幕府軍に組する会津藩の駐屯地となった場所です。この戦いで損傷を受けたらしく山門だけが見えます。現在は伏見幼児園となっている。

 鳥せい本店  



月桂冠本社ビルの前を北へ(大手筋商店街アーケードの方向)歩く。突き当たりが伏見御堂になるのですが、その手前に伏見の観光案内に必ずでてくるお店「鳥せい本店」があります(上油掛町186)。お食事処なのですが、お店の角の湧き水で有名。「白菊水(しらぎくすい)」と呼ばれ、日本名水百選に選ばれ、そして伏見十名水の一つでもある。創業延宝5年(1677)の伏見の清酒「神聖」の酒造りに使われてきた。
「白菊水」の名前の由来は、当地・久米の里の仙人・天太玉命(あめのふとたまのみこと)翁の伝説から。白菊を育てていた翁は、日照りが続き困っていた村人に対して「この地に日照りが続き、稲が枯れるようなとき、私の愛でた白菊の露の一雫より清水が湧き出す」と言って、手に持っていた白菊を振って清水を湧き出させたといわれている。

白菊水の水汲み場には、地元の方でしょうか数人が容器をもって並んでいました。道路脇にあるので、誰でも気軽に利用できるようです。車を駐車して・・・、ということも。伏見十名水の中では一番の人気だそうです。

延宝5年(1677)創業の伏見の清酒「神聖」の酒蔵の一棟を改造したお店。手ごろなお値段の鶏料理のお食事処。お味のほうも”おてごろ”でした。また伏見の蔵元のお酒も楽しめる。まだお昼なので嗜みませんでしたが。
営業時間は、平日(11:30~23:00)、日曜・祝日(11:00~23:00)
定休日:月曜日(祝日除く)





 伏見大手筋商店街  



伏見の生活の中心、「大手筋商店街」アーケードを歩きます。名前のとおりかっての伏見城大手門に通ずる道です。現在は、アーケードの東出口に京阪電車・伏見桃山駅、近鉄電車・桃山御陵前駅があり、そこから東へ行くと明治天皇伏見桃山陵です。
約400m続くアーケードは生活感に溢れ、寺田屋周辺の雰囲気とは一変します。

大手筋商店街の中ほど、みずほ銀行の角の路地を少し北に行くと源空寺という小さなお寺がある。
目に付くのは、入って直ぐの二層からなる立派な山門。二階に紅い欄干をもつこの門は、お寺の門というイメージはありません。
この山門は伏見城廃城のときに移築されたもの。貴重な旧伏見城の遺構です。山門の階下には、寺宝の「朝日大黒天」が祀られている。この大黒天像は、元伏見城巽櫓にあった豊臣秀吉の持念仏だったそうです。

アーケードの東の出口手前に、名物のからくり時計があります。近畿労働金庫・伏見支店の二階です。通常は扉が閉まっているのですが、正午、1時、2時・・・と1時間ごとに扉が開き、からくり人形が登場します。上段から伏見にゆかりの深い人物が次々と姿を見せる。
まずゼンジー北京と?。
二番目は、森の石松と五条橋の牛若丸、伏見とどう関るのでしょうか?
三番目は、秀吉、伏見城と、淀殿(北政所?、篤姫?)
四段目は、坂本龍馬、近藤勇と酒造り職人
全員登場し、少しだけ演技し閉じられていきます。全上演時間は4分くらいです。

からくり時計のある近畿労働金庫・伏見支店の東角に「此付近伏見銀座跡」の石碑が建てられている。昭和45年石碑建立。地名も「伏見区両替町三丁目」。

関ケ原戦に勝利した徳川家康は、慶長6(1601)年5月通用銀の全国統一を図るため、伏見のこの地に初めて銀座を設け、四町にわたって会所や座人屋敷が置かれた。その後、伏見銀座は廃止となり京都へ移され、さらに江戸や大阪へと広がる。ここが全国各地の「銀座」の発祥地なのです。


詳しくはホームページ

鳥羽・伏見の旧跡巡り 2

2017年11月13日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2017年10月18日(水) 京都市南部の鳥羽・伏見の名所、旧跡を巡りました。

 寺田屋 1 (薩摩藩の寺田屋騒動)  



寺田屋は伏見の船宿。龍馬とお龍との出会いの場所としても有名で、伏見の観光名所の中心となっている。
寺田村の百姓・伊助が伏見京橋近くに出て、慶長2年(1597)に創業の船宿で、「寺田屋」の名は出身地の寺田村に由来する。幕末の二つの出来事で歴史に名を残しています。

寺田屋は鳥羽伏見の戦(慶応4年、1868年)で、この一帯は激戦地となり罹災し、焼失した。現在庭園になっている場所が、かつての建物があった所。現在の寺田屋の建物は旧家屋を模して昭和30年代に再建されたもの。一階、二階で坂本龍馬に関する多くの遺物・資料が展示されている。、現在は旅館と史跡博物館になっています。備考 宿泊6,500円(要予約)現在でも旅館として営業しています。現在でも旅館として営業しています。要予約ですが、一泊6,500円(【電話番号】075-622-0243)。
開館時間 10:00~15:40まで受付 16:00営業終了、大人400円、月曜不定休あり

入口に建つ「史蹟 寺田屋」の石柱。西面には「坂本龍馬先生遭難の趾」が、東面には「薩藩九烈士殉難の趾」が、北面には「昭和三十六年百年祭記念 第十四代当主安達清之建」と刻まれています。
Wikipediaには「大正年間に現在の寺田屋の土地・建物は幕末当時の主人である寺田家の所有ではなくなっており、のちに経営そのものも跡継ぎのなくなった寺田家から離れている。この「寺田屋」は昭和30年代に「第14代寺田屋伊助」を自称する人物が営業を始めたものであり、「第14代寺田屋伊助」自身、寺田家とは全く関係はない。」とある。

左は立て札「寺田屋騒動址」、右は庭園にある「倒幕派薩摩藩士の石碑」
寺田屋は、薩摩藩の内紛騒動と坂本龍馬襲撃の場所として歴史に名を残す。現在の観光地化された「寺田屋」は坂本龍馬襲撃一色で、薩摩藩の内紛騒動を示すものは、入口の立て札「寺田屋騒動址」と庭にある「寺田屋騒動記念碑」しか見当たりませんでした。しかし歴史的には、はるかに薩摩藩の内紛騒動の方が大きな事件です。有名な坂本龍馬を売りにして観光客を集めています。薩摩藩の内紛騒動では人が集まらないのでしょう・・・。

幕末の船宿・寺田屋は、薩摩藩の定宿でもあり、密かに倒幕の熱い談義が繰り広げられていた。そこに薩摩藩の内紛による薩摩藩志士粛正事件が起きたのです。
立て札「寺田屋騒動址」は、文字がかすれ読みにくいので内容を紹介します。
「文久2年(1862)4月、尊皇攘夷派の先峰であった薩摩藩士9名が殺傷されるという明治維新史上有名な寺田屋騒動が起こった所である。  当時、薩摩藩には藩主の父、島津久光(ひさみつ)を中心とする公武合体を奉ずる温和派と、勤王討幕を主張する急進派との二派があったが、久光は急進派の動きを押えようとして、兵千余名を率い京都へ入洛せんとした。これを知った有馬新七ら30余名の急進派同志は、文久2年(1862)4月23日、関白九条尚忠(なおただ)、所司代酒井忠義を殺害すべく、薩摩藩の船宿であった寺田屋伊助方に集まった。これを知った久光は藩士奈良原ら8名を派遣し、新七らの計画を断念さすべく説得に努めたが失敗、遂に乱闘となり新七ら7名が斬られ、2人は重傷を負い、翌日切腹した。 後の広場にある殉難碑は明治27年(1894)の建立で、有栖川宮熾仁(たるひと)親王の筆になる篆額(てんがく)を掲げる。伏見区南浜町」
wikipediaは斬り合いの生々しい様子を記述している。
「奈良原は説得を続けたが、君命に従わぬのかと激高する道島が「上意」と叫んで抜打ちで田中謙助の頭部を斬り、こうして“同志討ち”の激しい斬り合いが始まった。
斬られた田中謙助は眼球が飛び出たまま昏倒。山口も抜刀して背後から柴山愛次郎を斬り捨て、これらを見た有馬新七は激高して道島に、橋口壮介は奈良橋に斬りかかった。有馬は剣の達人であるのだが、渡り合っていて刀が折れたので、道島に掴みかかって組み合い壁に押さえつけた。近くにいた橋口吉之丞は狼狽してか加勢できずにいたので、有馬が「我がごと刺せ[1]」と命じ、橋口吉之丞はその言葉に従って有馬の背中から道島と共々貫いて両名を絶命させた。他方、橋口壮介は奮戦していたが、奈良橋に肩から胸まで斬られて倒れ、最期に水を所望して飲んだ後で息絶えた。森山新五左衛門はちょうど厠に降りてきたところにこのような斬り合いが始まり、斬られて重傷を負った。大山格之助は梯子下で待っていて、騒動を聞いて降りてきた弟子丸龍助を刺殺し、さらに降りてきた橋口伝蔵の足を払った。橋口伝蔵は立ち上がって刀を振るい、鈴木勇右衛門の耳を切り落としたが、鈴木昌之助に刺されて絶命した。そこにまた降りてきた西田直五郎を森岡が槍で突き、西田は転がり落ちたが、刀を振るって森岡と相打ちのような形で息絶えた。」

事件後薩摩藩は迷惑をかけたとして寺田屋に、家屋や家財の修復費や、藩内部の斬り合いの口止め料として多額のお金を支払ったという。この事件によって朝廷の久光に対する信望は大いに高まり、久光は公武合体政策の実現(文久の改革)のため江戸へと向かった。

騒動の後、伏見の呉服屋・井筒屋伊兵衛とその手代数名が駆けつけ、遺体を白木綿で包み700~800m北にある薩摩藩の菩提寺・大黒寺に葬ったとされています。大手筋商店街を抜け400mほど北にある大黒寺を訪ねてみました。訪れると人が集まっているので何事か、と思ったがTVロケだったようです。丁度終わった後だったので墓地に入れました。拝観時間:6時~18時 境内自由

本堂には、秘仏大黒天が金張りのお厨子の中に安置されている。江戸時代の初め、近くに薩摩藩邸が置かれた。元は「円通山長福寺」という寺名だったが、薩摩藩の守り本尊「出生大黒天」と同じ大黒天だったので、この寺を薩摩藩の祈願所とし「大黒寺」と改められた。 ”薩摩寺”とも呼ばれている。


本堂の脇を奥へ入ると墓地です。墓地に入るとすぐ寺田屋騒動で犠牲となった薩摩九烈士の墓が並んでいる。一番右端が有馬新七の墓。手前の墓碑銘(復元)は、西郷隆盛が泣きながら亡き同士たちの為に書いたものとか。






大黒寺境内には、伏見10名水の一つがある。平成13年に井戸を掘ったところ湧き出たという。酒処の伏見の伏流水と同じ水系なので、清らかな水。そこで財福の神・大黒天にちなんで「金運清水(きんうんしみず)」と命名された。

大黒寺とは道を挟んだ真向かいに、なんとも有りがたい「金札宮」という名前の神社がある。金運清水といい金札宮といい、この近辺にお住まいの人は、さぞかしお金に不自由しておられないことでしょう。説明板を読むと、金札とはお金のことでなく、「~の神を祀るように」と金文字で書かれた紙のようでした。


 寺田屋 2(坂本龍馬襲撃)  



寺田屋の1階は坂本龍馬関連の展示が中心。坂本龍馬に関係する小説や書籍が並び、写真・メモ・手紙などが展示されている。
船宿・寺田屋は坂本龍馬(1835~67)が定宿していたところでもある。慶応2年(1866)1月24日、当時32歳であった土佐藩の下級武士・坂本龍馬は、行動を共にしていた長州藩士・三吉慎蔵とのちに妻となるおりょうを待たせている寺田屋に真夜中に入った。龍馬と三吉慎蔵は飲み始め、おりゅうは1階の風呂に入ります。

坂本龍馬の動きに目を付けていた京都所司代・伏見奉行の林肥後守忠交と幕吏約30人は、午前2時頃寺田屋とその周囲を包囲します。入浴中のおりょうは物々しい足音に気づいて、窓から外を見てびっくり、裸のまま裏階段を駆け上がり2階にいた龍馬に危急を知らせた。

捕り方は「肥後守(奉行)よりの上意」であるとして迫り、踏み込まれた龍馬らは「(奉行の権限の及ばない)薩摩藩士である」との嘘を主張したが、簡単に見破られた。龍馬は高杉晋作から上海みやげに貰った拳銃で応戦
、三吉は手槍を用いて防戦して、捕り方2名を射殺、数名を殺傷させた。龍馬は手の指を負傷し装弾ができなくなる。三吉が必死に槍で応戦しながら追っ手をかわし、隣家から裏通りに逃れた。路地を500mほど走って濠川に達し、水門を経て入り込んだ屋敷裏手の材木納屋に隠れた。(おりゅうはどうなったのでしょうか?)

寺田屋の2階には、坂本龍馬が愛用していたと云われる「梅の間」を再現され、龍馬ゆかりの品々が展示されている。騒動が起こった当日の「刀傷」や龍馬が放ったとされるピストルの弾のメリ込んだ「弾痕」が残されています。刀傷は柱に残っており、弾痕も室内に数箇所あります。


寺田屋は、現在でも旅館として営業しており、龍馬愛用の「梅の間」以外の「松・竹・月・花・雲」各部屋に素泊まりできるようです。料金は6500円(朝食付きは別途500円)で、予約が必要。詳細は、TEL:(075)622-0252へ。

この庭に、焼失前の建物があった。現在、「薩摩九烈士碑」や龍馬像が建っている。何故か「坂本龍馬の碑」が寝転がっている。
寺田屋の女将・お登瀬さんは神様になられたようです。お登瀬は18歳の時に、寺田屋6代目伊助に嫁ぐ。放蕩者の夫に代わり、寺田屋を取り仕切っていた。放蕩すぎて夫・伊助は早死にしてしまう。その後は寺田屋の女将として船宿を守り、幕府から目をつけられていた尊王派の志士達を匿ったり陰から支えました。坂本龍馬もその中の一人だった。

ところで、寺田屋の建物は鳥羽伏見の戦(慶応4年、1868年)で焼失してしまい、刀痕、弾痕、お風呂など残っているはずがないのだが・・・?。
(wikipedia)「現在寺田屋を称する建物(同一敷地内)には、事件当時の「弾痕」「刀傷」と称するものや「お龍が入っていた風呂」なるものがあり、当時そのままの建物であるかのような説明がされている。しかしながら、現在の寺田屋の建物は明治38年(1905年)に登記されており、特に湯殿がある部分は明治41年(1908年。お龍はその2年前に病没)に増築登記がなされているなどの点から、専門家の間では以前から再建説が強かった。平成20年(2008年)になって複数のメディアでこの点が取り上げられ、京都市は当時の記録等を調査し、同年9月24日に幕末当時の建物は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失しており、現在の京都市伏見区南浜町263番地にある建物は後の時代に当時の敷地の西隣に建てられたものであると公式に結論した」ようです。
龍馬と三吉が遁れた材木小屋は、寺田屋の北西300mほどの位置で、濠川に架かる大手橋の脇です。現在、大手橋の西詰めに石碑が建てられています。

材木小屋に遁れた二人は、その後どうなったのでしょうか?。
Wikipedia「三吉は切腹しようとしたが龍馬に止められて、伏見薩摩藩邸に救援を求めに行くように依頼された。薩摩藩邸にいた留守居役大山彦八は藩士3名をつれて川船を出して救出に向かい、龍馬は九死に一生を得ることができた。すぐに京都の西郷隆盛のもとに報告が行き、吉井幸輔が早馬で伏見に来て事情を調べ、西郷は軍医を派遣して治療に当たらせると共に藩邸で警護させた。
翌日、薩摩藩邸は龍馬に対する伏見奉行からの引き渡し要求を受けたが、拒否した。
龍馬はその後、伏見の藩邸から京の藩邸(二本松)に移ったが、また伏見の藩邸に戻り、大阪から船で鹿児島に脱出した。そのしばらくの間は西郷隆盛の斡旋により薩摩領内に湯治などをしながら潜伏する。このお龍との旅行が、一般的には日本初の新婚旅行とされている。」
翌年、京都に戻った龍馬は河原町の近江屋で密談中に京都見廻組に急襲され、33歳の人生を終えた。「近江屋事件」です。

なお、伏見の薩摩藩邸は大黒寺の西側で、濠川の傍にあった。現在は月桂冠関連会社の松山酒造となっている。

 寺田屋浜  



寺田屋の南側の川沿いには、かって三十石船などの船着き場があった。当時は川幅も広く、多くの船が往来し、たくさんの船宿が軒を連ねて賑わっていたそうです。大倉酒造の旧本社から西側にあたる南浜の一帯は旅客でにぎわい、船宿が軒を連ねていた。旅客だけでなく米や酒、薪などの物資も往来し、浜辺では運送業者の馬借が積荷を取り扱っていた。

現在、その場所は「寺田屋浜」として復原され、小さな公園となっている。西側の京橋から眺めた寺田屋浜で、向こうの橋は蓬莱橋。川幅も小さく、浜のイメージは全くありません。観光客を乗せ十石舟が行き来しているのどかな川となっています。数人の釣り人がいるだけで、観光客はここまで降りてきません。春と秋の特定日だけ運航される観光遊覧船・三十石船の発着場所でもある。
ここ寺田屋浜が一番盛り上がるのは、毎年夏に夕方から夜にかけて行われる行事「伏見万灯流し」の時です。鳥羽伏見に戦いで亡くなった方を慰霊するために2004年から始められました。この浜から数百の灯ろうが流され、京都でも名高い夏の風物詩となっている。

この公園に「竜馬と龍、愛の旅路」と名付けられた銅像が置かれています。ご両人のこの浜からの旅立ちは「日本初の新婚旅行」とされていますが、翌年、龍馬は京都・近江屋で33年の生涯を終えます。お龍さんはその後どうなったのでしょう・・・?。



詳しくはホームページ

京都・東寺探訪 3

2017年08月20日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2017年5月20日(土)春の特別展開催中の京都・東寺を訪ねる

 灌頂院(かんじょういん)  


東寺の中心伽藍(五重塔・金堂・講堂・食堂)を見てきたので、再び南大門近くまで戻り、その他の建物を見ていきます。
五重塔とは対照の位置、東寺境内の南西隅に建つのが灌頂院(かんじょういん、重要文化財)。灌頂院は密教の重要な儀式を行う場所で、密教寺院には無くてはならないもの。伝法灌頂(密教の奥義を師匠から弟子へ伝える儀式)、後七日御修法(詳しくは「東寺境内図と歴史」の「雑記」参照)が行われるという。そういうう建物なので非公開で、一般人は中へ入れません。
掃除をされていた方に聞けば、内部には仏像などは置かれておらずガラーンとした石畳だけの空間だそうです。1月14日に特別の行事があり、この間の2時間ばかりは中へ入れるそうです。

 小子房(しょうしぼう)と蓮花門(れんげもん)  



境内西側に、灌頂院と並んで小子房と本坊がある。小子房は天皇を迎える特別な建物らしく、正面の勅使門(唐門)がいかめしい。非公開のため内部に入れないので東寺の公式サイトを引用すれば「天皇をお迎えする特別なところです。南北朝時代。足利尊氏が光厳上皇(こうごんじょうこう)を奉じて都に入ったおり、上皇は、洛中の戦いが治まるまでの間、小子房を御所としました。現在の小子房は、昭和9年(1934年)、弘法大師空海の千百年御遠忌(ごおんき)にあたり再建されました。総木曾檜造で、昭和を代表する建築物のひとつとされ、襖絵や壁画は堂本印象、庭園の「澄心苑(ちょうしんえん)」は七代目小川治兵衛の作です。」

小子房の中には庭園に面して国宝の蓮花門(れんげもん)があるというが、小子房の中には入ることができない。御影堂脇の西門から外の壬生通りに出て、写真を撮る。
三間一戸の八脚門で、切妻造り本瓦葺き。この蓮花門は、鎌倉時代初期文覚上人による東寺再興時に再建され、東寺6門のうち最古の門。そのためか唯一国宝指定で、他の門は重要文化財です。東寺には6つの門があるが、東門(慶賀門)と蓮花門は「不開門」で閉められている。

「蓮花門」の名には伝説がある。空海が晩年の天長9年(832)11月、東寺を弟子に譲り高野山に隠棲するためこの門から去ろうとした時、西院不動堂に祀られていた不動明王が門前まで見送りのために現れ、涙を流して別れを惜しんだという。そして空海の歩いた足元に蓮(ハス)の花が咲いたことから、「蓮花門」と呼ばれるようになったそうです。
全国各地に弘法大師にまつわる奇蹟的な伝説は多数残されているが、ここ東寺だけに真実味があります・・・。

 御影堂〈みえどう、大師堂、国宝〉  



小子房、本坊から築地塀にそって北へ進むと、同じ塀内に南から毘沙門堂、御影堂、大日堂と並んでいる。東寺境内の北西隅になる。
御影堂の山門を潜り塀内に入ると、そこは金堂、講堂、五重塔のある東寺の中心部とは違った雰囲気をもった場所です。難しい密教などという空気感はなく、一般庶民の素朴な信仰の場所となっている。
残念ながら御影堂(大師堂、国宝〉は、現在修理中(平成32年12月まで)で大きな覆屋で隠されていて、内部だけでなく外観さえも見ることができない。

御影堂(大師堂とも)が成立するのは鎌倉時代になってから。現在の御影堂のある区画はかって「西院」と呼ばれ、空海が住房とし東寺造営工事の指揮を執った場所。延応2年(1240)、西院の不動堂に安置されていた弘法大師坐像が、不動堂北側の堂に移される。そして東寺再興に大きな功績を残された宣陽門院(せんようもんいん、1181-1252、後白河法皇の皇女)の働きかけで、それまで灌頂院で行われていた弘法大師空海に報恩感謝する法要・「御影供(みえく)」が、この弘法大師坐像が安置されている堂で行われるようになった。これが御影堂の成立です。3年後の寛元元年(1243)、宣陽門院は弘法大坐師像に生前同様に食事などの給仕をする「生身供(しょうじんく)」も始めています。
御影堂の成立をきっかけに、平安時代後期になると寺運が衰退していた東寺が、御影堂を中心に弘法大師信仰が高まり、「お大師様の寺」として皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになっていく。
当初の堂は康暦元年(1379)に火災に遭い焼失、翌年に後堂部分が再建された。10年後の明徳元年(1390年)、弘法大師像を安置するために北側に前堂、その西側に中門が増築された。これが現在の御影堂です。

御影堂正面になる北側から、覆いの隙間から修理中の内部を覗き撮り。わずかながら御影堂の一部を垣間見ることができました。御影堂を目にすることができないので、東寺サイトを引用すれば「後堂(うしろどう)、前堂(まえどう)、中門(ちゅうもん)の3つの建物で構成され、軒まわりは簡素な垂木(たるき)、屋根は檜皮葺(ひわだぶき)。建具は蔀戸(しとみど)や妻戸(つまど)、縁には高欄(こうらん)を巡らす、落ち着きのある建物です。」となる。
後堂(南側)には、空海の念持仏だった不動明王坐像(国宝、9世紀〉が安置されている。平安時代末期、東寺長者・寛信師が像の光背を修理したところ、直後に空海が入寂したことから、以来現在まで一切御開帳されず秘仏とされている。前堂(北側)の弘法大師座像(国宝〉は、修理期間中は大日堂に移されています。

 生身供(しょうじんく)、御影供(みえいく)と弘法市(こうぼういち)  


★生身供(しょうじんく)~*~*~*~*~*~
この御影堂には早朝6時からお参りできる。弘法大師空海が今も生きているがごとく、毎朝食事を捧げる儀式である「生身供(しょうじんく)」が毎日朝6時から行われるからです。これも東寺サイトから引用すれば「お舎利さん、として親しまれる生身供。弘法大師空海の住房だった御影堂で、毎朝6時から、一の膳、二の膳、お茶をお供えする、生身供がはじまります。ご参拝の方は、午前5時50分ごろまでに御影堂の唐門、または西門前にお越しください。10回の鐘の音の後、門が開きます。そのあとは、毎日お参りに来ている方々にならい御影堂の外陣(げじん)へ。 法要の最後には、弘法大師空海が持ち帰った仏舎利を頭と両手にお授けします。お舎利さん(仏舎利)のお授けは、午前6時20分頃と午前7時20分頃の2回です。」
宣陽門院が始めた生身供は、今日現在まで絶えることなく続けられているそうです。高野山でも同様です。

★御影供(みえいく)と弘法市(こうぼういち) ~*~*~*~*~*~
空海命日に当たる21日には、毎月午前10時から、弘法大師空海に報恩感謝する「御影供(みえいく)」という法要が御影堂で行われる。これは鎌倉時代に後白河法皇の第六皇女宣陽門院が始めたものです。江戸時代に入り、弘法大師信仰の高まりと共に御影供に参加するため多くの人々がお参りにやってくる。それを目当てに、お茶を提供したり、日用雑貨品を並べたりする商売人も集まってくる。こうして毎月21日、東寺境内全域で露店が建ち並ぶ市が開かれるようになった。これが「弘法市」「弘法さん」として親しまれ、京都を代表する縁日の始まりです。
現在でも、早朝5時から夕方4時まで日用品、古着、古本、骨董品、陶器、植木盆栽などの1000店を越す露店が並び10~20万人の人で賑わいます。年初の1月21日は「初弘法」、師走の12月21日は「終い弘法」と呼ばれ、ひと際盛大に催され全国から大勢の人々が詰めかけます。今や京都の代表的な風物詩となっている。

私も数十年前の青春時代、新聞記事を見て初弘法へ訪れました。お堂や仏像など全く興味が無く、東寺が有名な寺など知らなかった。だからお堂や五重塔など全く見ていない。賑わう骨董市の中を歩き回った印象しか残っていません。

 大日堂  


御影堂の正面、即ち北側にあるのが大日堂です。
「御影堂の前にあるお堂が大日堂。御影堂と向かい合う、祈りの大日堂。
大日堂は、東寺のなかで、一番新しいお堂で、もともとは、江戸時代、御影堂の礼拝所でした。その後、桓武天皇、嵯峨天皇をはじめ足利尊氏などの位牌を納める尊牌堂(そんぱいどう)となり、さらに大日如来を本尊としたことで、大日堂となりました。いまは、先祖供養などの回向所(えこうじょ)となっています」(東寺サイトより)
ここには役小角の作と伝えられる胎蔵界大日如来像(平安時代)が本尊として祀られている。また現在御影堂が修理中なので、御影堂前堂(北側)の国宝・弘法大師座像はここ大日堂に移されています。

本物の弘法大師像は見れないが、大日堂の西横に仮御影堂が設けられ、江戸時代作の弘法大師坐像が置かれ参拝できるようになっている。
御影堂の前堂に安置されていた弘法大師坐像(国宝)は、天福元年(1233)に運慶の四男康勝(こうしょう)が、空海の身近にいた真如が描いた空海の肖像画を基に制作したもの。左手に数珠、右手に五鈷杵を持ち、弘法大師空海42歳の姿を刻んだものといわれています。これは最古の大師像といわれ、他の大師像の模範となっている。
非公開だが、毎朝6時の生身供でご開帳され、また毎月21日御影供で内陣扉が開いている時に拝観できるそうです。

御影堂の南側には毘沙門堂が建ち、その西側の築地塀に沿って、幾つかの宝塔や石碑が並べられている。写真左側の亀の上に建つ石碑は「尊勝陀羅尼の碑」と呼ばれ、北野天満宮にあったものが幕末の神仏分離令によってここに移されたもの。この周囲を回りながら亀の頭や手足を撫で、その手で自分の患部をさすると、万病に効くという。患部を擦るための「万病ぬぐい」の布も置かれている(売られている?)そうです。

右側の低い石柵に囲まれた石は「天降石(てんこうせき)」と呼ばれている。“天から降ってきた石”、大日如来さんからの贈り物なのでしょう・・・。この石も撫でると万病に効くという。お大師さんにお参りされた多くの人々が触って帰られる。ところが、逆に病を人から人へ蔓延させるという理由から、明治の一時期にはお触り禁止になったこともあるそうです。
こうした「撫でもの」は、多くの神社・寺院で見かけます。お賽銭箱も置かれている。お賽銭あげないと効果が得られない気になってしまいますネ。

 宝物館と北大門  



御影堂の門の脇にある灰色の建物が宝物館。東寺は我が国トップクラスの国宝・重文を有し、ことに密教美術の宝庫として知られている。その多くの寺宝は公開されていなかった。しかし昭和40年(1965)にこの宝物館を開館し、春秋の一時期に限定して一般公開されるようになった。今は、春の特別展(3月20日~5月25日)の最中です。
仏像、彫刻、工芸品、絵画、古文書など多くの寺宝の中から一部を選別し展示しています。今年は「後七日御修法」(ごしちにちのみしほ:正月の8日から14日までの間に、天皇の安泰を祈願する儀式)に関係するものが中心に展示されていた。

正面受付を入ると書籍、写真などの展示販売所がある。その奥が展示ルームで、主に後七日御修法関連の古文書や用具が並ぶ。足利尊氏が寄進したという梵鐘もあった。二階展示室には、空海自身が唐から持ち帰った儀式用の密教法具セット(金銅製の金剛盤・五鈷杵・五鈷鈴、写真左)が注目される。国宝ですが、現在でも後七日御修法で使われているそうです。

二階ホールがメインの展示所。地蔵菩薩立像、五大尊像など多くの仏像が並ぶが、注目されるのは二つ。国宝の兜跋毘沙門天立像(とばつびしゃもんてん、写真右)は、平安京の入口だった羅城門の楼上に置かれ都を監視していたものだが、羅城門倒壊後に東寺に移された。中国唐代の木彫像といわれ、中央アジア風の鎧や兜で武装し、地天女と二鬼(右が尼藍婆:にらんば、左が毘藍婆:びらんば)を踏みながら睨みつけている勇ましい形相をしている。”兜跋”の名の由来は、チベットの戸蕃国(とばん)と関係があるのではとされるが、多くは不明だそうです。
もう一つは、高さ約6メートルもの千手観音菩薩立像。もとは食堂の本尊だったが、昭和5年(1930)食堂の火災で焼損したが、平安初期の仏像様式を忠実に守り昭和40年から修理され甦り、宝物館に収蔵されることになった。被災前は国宝だったが、補修が入っているため現在は重要文化財指定です。なお食堂には、この千手観音菩薩さんを四方から守護していた四天王像(持国天・増長天・広目天・多聞天)が、焼け爛れた姿のままの姿で立っている。こちらも見逃すべきでない。

またこのホールの壁には、真言密教の教えを視覚化した胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅の二つの曼荼羅(「両界曼荼羅図」という)が掲げられている。数mもの巨大なもので、大日如来を中心に多数の仏さんが描かれているのがよく解かる。もちろん複製です。本物は5年おきに公開されるそうです。2年前なので、次回は3年後の2020年の春と秋になる。


宝物館の東隣が、東寺北側の出入り口の北大門。南大門と比べると、規模も風格も格段に小さい。しかし重要文化財です。






 塔頭・観智院(かんちいん)  



北大門を出、川(堀?)に架かる石橋を渡る。すぐ右側に見える塀越しの屋根が、東寺の塔頭寺院・観智院(かんちいん)です。塔頭寺院であるが、別格本山となっている。
観智院は通常は公開されていないが、以下の期間に限り特別公開されている。
春期特別公開: 3月20日~5月25日
秋期特別公開: 9月20日~11月25日

拝観料は必要でが、私は五重塔初層・宝物館・観智院を含め全てを拝観できる共通券(1300円)を利用したので、観智院だけという料金はよくわからない。

客殿(国宝)と庭園(観智院受付で頂いたパンフの写真)。客殿(国宝)は慶長10年(1605)建立で、入母屋造、銅板葺き。桃山時代の典型的な書院造りの建造物として国宝に指定されています。
客殿の上段の間の床の間には、宮本武蔵筆の「鷲の図」と「竹林の図」が描かれています。
剣豪・宮本武蔵は21歳で一乗寺下(さが)り松の決闘において吉岡一門を倒した後、その仕返しを避けるために、吉岡一門が手を出せない東寺の塔頭であるこの観智院に約3年間隠れ住んだ。「鷲の図」「竹林の図」は、その時に宮本武蔵が描いたものと伝えられています。

客殿前の枯山水様式の庭園は「五大の庭」と呼ばれ、五大虚空蔵菩薩像を表す五つ石が配され、弘法大師空海が唐の長安から帰国した際の様子を表現しているといわれます。受付のパンフには「枯山水様式の庭は涅槃禄の庭と称し、白川砂利の広がりの中に隠岐島の赤松、杉苔、吉野石、守山石等を巧みに配し、真言密教の無限の宇宙観と涅槃寂静の境地を表している」と書かれている。

観智院の前の道、即ち北大門から北総門(重要文化財)までの真っ直ぐな参道は「櫛笥小路(くしげこうじ)」と呼ばれ、平安時代以来そのままの幅で残っている京都市内ただひとつの小路だそうです。この道の東側に観智院と、これも塔頭寺院の宝菩提院が並ぶ。西側は、宗門校の洛南高校と附属中学となっている。ちょうど土曜日の昼過ぎだったので、下校中の生徒さんが多かった。
なお、空海は日本最初の私立学校「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を造り、貴賎貧富の区別なく入学させたという。

 六孫王神社(ろくそんのう)  


1時15分、東寺の北総門を出ると東西に走る八条通りに突き当たる。八条通りを左へ歩き、壬生通りと交差する北西角に「六孫王神社(ろくそんのう)」があります。大きな石柱と看板が掲げられているのですぐ判ります。
看板に「清和源氏発祥の宮」と書かれているように、清和源氏の祖と仰がれる源経基を祀っている神社です。「六孫王」と名付けられたのは、経基が清和天皇の第六皇子貞純親王の子で、天皇の孫だったから。経基の死後、その子の源満仲が経基の屋敷に応和2年(962)社殿を建立し経基の霊を祀ったのが始まりとされる。
反り橋を渡り本殿へ向かいます。源満仲の子達は、畿内を中心に各地に分散し武士団を形成し武門として土着していった。平安時代中期の寛仁4年(1020)、源満仲の三男・頼信が河内国壺井(現在の大阪府羽曳野市と太子町の境界辺り)に本拠を置いた。これが河内源氏の始まりで、頼信-頼義-義家(八幡太郎義家)と三代に渡り武門の棟梁として活躍しました。

源義家の死後,河内源氏は衰退し,ついには平清盛に滅亡寸前まで追い詰められる。しかし義家の4代の孫である源頼朝と弟・義経らの活躍で起死回生し,ついには平家を滅ぼし、鎌倉幕府を開き日本の支配権をも朝廷から奪いました。鎌倉の鶴岡八幡宮は、河内源氏の氏神だった壺井の八幡宮を分祀したものです。
この河内源氏の系統からは、源頼朝・足利尊氏・新田義貞・木曾義仲・武田信玄・今川義元・明智光秀・徳川家康など名だたる名将が輩出している。
源氏といっても二十一の流派(嵯峨源氏、宇多源氏、文徳源氏など)があるといわれるが、平氏を倒し鎌倉幕府を開くなど歴史的に有名で最も力が強かったので、一般に”源氏”といえば清和源氏を指します。

 京都鉄道博物館  



六孫王神社をでてJRの高架線沿いに歩き、地下道を潜り梅小路公園の大宮南入口にたどり着く。

梅小路公園は、かって平清盛をはじめ平家一門の邸宅があった跡地に造られたという。この公園の下には、かって栄華をほこった平氏の遺構が盛土して保存されているそうです。
広い公園内には、森が繁りお花が咲き、チンチン電車が走り、河原遊びもできます。イベントの開催中らしく、芝生広場の先に見える京都水族館から時おり大歓声が聞こえてきます。子供とファミリーが一日楽しめる大空間になっている。そこに昨年春、日本最大の鉄道博物館がオープンしました。

細長い梅小路公園をつき抜け、ようやく京都鉄道博物館に着く。西日本旅客鉄道(JR西日本)が運営する面積・展示車両数で日本最大の鉄道博物館で、2016年4月29日にオープン。
営業時間 10:00~17:30(入館は17:00まで)、水曜休館
入館料は、一般:1200円、大高校生 1000円、中小学生 500円、幼児 200円

本館1階メインスペース。この博物館には蒸気機関車から新幹線まで、53両の車両が収蔵、展示されている。本館1階に入ると、新幹線などの車両が並び、いまにも走ってきそう・・・。そのスケールには圧倒されます。

2階から1階メインスペースを眺める。
館のテーマは「見る、さわる、体験する」で、ここには鉄道の歴史、仕組み、車両・構造の全てが凝縮されています。1階には、鉄道の歴史と変遷を紹介する「鉄道のあゆみ」コーナー、線路・踏切・信号などの設備やトンネル・橋などの施設、衝突を防ぐシステムなどを紹介する「鉄道の施設」コーナー、京都駅の引込み線につながり現役で運行している車両を見学できる「車両工場」コーナーがあります。

本館2階には、幅約30m・奥行約10mで、日本最大級を誇る鉄道ジオラマがある。実物車両の1/80の大きさの鉄道模型が走る。JRのみならず、近鉄、阪急などの関西私鉄の車両も走るそうです。
ここだけは見たかったのだが、タイムスケジュールがあり、また満員のため入れなかった。入れないため外から覗き撮り。
また2階には、在来線用が6台・新幹線用が2台の運転シミュレータが置かれ、運転士を体験できます。制服や帽子も借りれば最高!。人気があるのか、抽選によって整理券を配っていました。

2階の外へ出ると、扇形車庫が見下ろせます。現存する日本最古の鉄筋コンクリート造りの扇形車庫。20両の蒸気機関車が保存・展示されている。中央の運転台って動くんでしょうね?

2階にはセルフ形式のレストランがあります。高僧建物の無い京都では、2階でも周辺を遠くまで見渡せる。京都駅を出た新幹線を東寺五重塔が見送っている。


童心にかえって楽しむつもりだったが、そのスケールに圧倒され童心も吹っ飛んでしまった。ただただ館内をそぞろ歩きしただけでした。鉄道マニアならずとも、弁当持参で朝から来たくなるような施設です。
京都駅に向かって歩いていると、公園横を子供達を乗せた本物の蒸気機関車が走っている。これは「SLスチーム号」といい、京都鉄道博物館から京都駅手前まで往復約1kmの蒸気機関車の旅を楽しませてくれます。料金は300円(中学生以下は100円)


詳しくはホームページ

京都・東寺探訪 2

2017年08月09日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2017年5月20日(土)弘法大師信仰の原点、春の特別展開催中の京都・東寺を訪ねる

 五重塔(国宝)  



拝観入口を入るとまず目に止まるのが、五重塔をバックに羽を広げたように立つ桜の大木。現在修繕中なのか、補強材で支えられ、作業員の姿が見られる。

「不二桜 八重紅枝垂れ桜」の説明板が立つ。それによると、樹齢 120年で、元は岩手県盛岡市の旧家で育てられていたものが、鈴鹿市の農園を経て、平成18年に東寺に寄贈されたものだそうです。弘法大師の「不二のおしえ」から「不二桜」と命名された。4月中旬に、色の濃い八重咲きの華麗な花を咲かせるという。満開時のここからの風景は、素晴らしい絵になりそうですね。

五重塔(国宝)は境内の東南隅に位置し、高さ約55mで木造の建造物としては日本一の高さを誇る。建物に高さ規制のある京都ではひと際目立つ存在で、まさに仏の都・京都のランドマークタワーとなっています。

五重塔は、仏陀の遺骨を安置する古代インドの「ストゥーパ」が起源とされ、東寺の五重塔には、弘法大師空海が唐より持ち帰った仏舎利(お釈迦様の遺骨)が納められている。
空海が天長3年(826)に建造を始めたが、完成したのは空海没後50年近く経った元慶7年(883)の頃です。
その後、落雷に寄って4度焼失し、そのつど再建されてきた。
・天喜3年(1055)落雷により焼失(1度目)、応徳3年(1086)再建
・文永7年(1270)落雷により焼失(2度目)、永仁元年(1293)再建
・永禄6年(1563)落雷により焼失(3度目)、文禄3年(1594)豊臣秀吉、五重塔を再建
・寛永12年(1635)落雷により焼失(4度目)、生保元年(1644)徳川家光の寄進により再建、これが現在の五重塔で五代目にあたる。

これだけ高い塔なのに、地震や台風によって倒壊という記録が無いのが不思議ですね。それだけしっかりした工法で建てられていたからなのでしょう。京都って戦乱などの人災は多いが、地震、台風、氾濫などの自然災害の話はあまり聴かない。ただ菅原道真の祟りなのか?、雷には弱かったようです。この度重なる焼失から、現在は塔の先端に避雷針が設置されています。
初層内部(冊子「東寺の仏たち」より) 。五重塔内部は、通常は公開されていないが、特別期間だけ初層内部が公開される。今回は春の特別期間(3/20~5/25)にあたり初層に入れました。
薄暗く地味な空間に仏像が置かれている通常のお寺と違い、この初層内部は、柱、壁や天井など一面にやや色褪せているいるとはいえ鮮やかな彩色の空間が展開します。スケールこそ違うが、高野山の根本大塔内部とよく似ている。これも空海が構想した密教の立体曼荼羅の世界なのでしょうか。
内部中央には各層を貫いている中央心柱(しんばしら)の角柱がある。この心柱の基部には、空海が唐から持ち帰った仏舎利が納められているそうです。この心柱を大日如来に見立て、それを囲むように四面の須弥壇上に金剛界四仏坐像が配置される。その四仏坐像には、それぞれ左右に脇侍菩薩が二体置かれた三尊形式をとる。いずれも檜の寄木造りの漆箔仕上げで、目には玉眼が嵌め込まれているという。
須弥壇四隅の四柱には金剛界曼荼羅諸尊が、四周の側柱には八大竜王図が、壁には真言八祖像が描かれている。これらの仏像や図も江戸初期の再建時に造られたもので、江戸時代初期の作風を伝えているという。
昨年9月に奈良・興福寺の五重塔の初層内部を見学したが、同じように中央心柱を囲むように四尊像が置かれていた。しかしその空間は全く異質のものでした。

五重塔の北側は、池を中心にした池泉回遊式の庭園になっている。桜の季節には、特に美しい五重塔が浮かび上がるそうです。その形から「瓢箪池(ひょうたんいけ)」と呼ばれるが、この池にはある伝説が残る。
江戸時代に強風が吹き、五重塔が南に傾いてしまった。なんとか元に戻す方法はないものかと思案した結果、反対側の地面に穴を掘ってみた。すると傾いた五重塔が元に戻ったという。そしてその穴に雨水が溜まり、現在の瓢箪池になったそうです。

瓢箪池の東側に、扉の閉められたままの「東大門」がある。現在の門は建久9年(1198)に文覚上人によって再建されたもので、重要文化財に指定されている。傍の案内板によると、別名「不開門(あかずのもん)」とも呼ばれているそうです。
南北朝時代の建文3年(1336)、東寺に陣を張る足利尊氏を新田義貞が攻めたてた。尊氏は門を固く閉ざし危うく難を逃れたといわれます。それ以来、東大門は閉ざされたままだそうです。

 金堂(国宝)  



南大門を入ってすぐ正面に佇む重厚な建物が金堂(国宝)です。延暦15年(796)東寺創建時に最初に造営されたのが金堂で、東寺の中心伽藍であり本尊としてと薬師如来が祀られた。空海が入り、真言密教の寺となった以降もその役割は変わりない。

創建時の金堂は、文明18年(1486)の土一揆で焼失してしまう。桃山時代の慶長8年(1603)、豊臣秀頼が発願し、片桐且元を奉行として再建されたものが現在の金堂です。位置、大きさ、礎石や基壇は創建当時のままを踏襲されたといわれている。

東寺では最も大きい建物で、入母屋造りの本瓦葺き。外見は二重の建物に見えるが、下の屋根は裳階(もこし)と呼ばれる形容の屋根で、内部的には単層の建物。正面の裳階の一部が切り上がり、その下に両開きの扉が設けられている。法会供養の時に扉が開けられ、散華されたそうです。この裳階の切り上げは、東大寺大仏殿や宇治・平等院鳳凰堂にも見られます。

以前は金堂内部は非公開で、中の薬師三尊像は秘仏とされ拝観することができなかった。しかし昭和40年(1965)から一般公開されるようになり、東寺のご本尊を拝することができるようになった。金堂内部は通年で拝観できます。金堂内部へは、東側の入口から入ります。写真の奥は講堂 和服と金堂はよく似合います・・・

内部と仏像(写真は、受付でのパンフ「東寺」より)
薄暗い金堂内部は一室だけで、北側台上に薬師三尊像が並び、その前が東西につながる通路兼拝所となっている。東寺は、空海が入って以降真言密教化されたが、この金堂だけは本尊・薬師如来を祀る東寺の本堂として創建時の姿を今に伝えているという。

中央には東寺本尊の「薬師如来座像」が鎮座する。檜による寄木造り漆箔仕上げ、像高さ2.9m。台座と光背を含めた総高は10mにもなる。薬壺(やくこ)を持たない古い様式の仏像で、光背に7体の化仏を掘り出していることから「七仏(しちぶつ)薬師」ともいわれる。台座の懸裳の下には、薬師如来を守護する眷属である十二神将像が配されている。各神将像は、頭部に十二支の動物を付けている。
本尊に対面して右側に「日光菩薩」、左側に「月光菩薩」の脇侍像が配される。この両脇侍像も、檜による寄木造り漆箔仕上げとなっている。これら薬師三尊像は慶長8年(1603)金堂再建時に、仏師康正(こうせい)によって焼失前の姿を模して復刻された。桃山時代における佳作とされ、薬師三尊像、十二神将像の全てが重要文化財に指定されています。

 講堂(重要文化財)   



東寺といえば、五重塔と講堂の立体曼荼羅の諸仏像が想起される。その講堂は、広い境内のほぼ中央に位置し、金堂の背後(北)に佇む。単層入母屋造りの本瓦葺きで、白壁と濃茶色の柱が目を引きます。

講堂は、空海が東寺に入った後の天長2年(825)造営が始まり、完成したのは承和2年(835)頃とされる。講堂内の諸仏像が出来上がり、立体曼荼羅の開眼供養が営まれたのは空海没後4年を経た承和6年(839)6月15日のことだった。
文明18年(1486)に起こった文明の土一揆で金堂、講堂、廻廊や南大門など主要堂塔のほとんどを焼失してしまう。しかし金堂や南大門が100年以上経ってから再建されたのに対し、講堂の再建は最優先され、延徳3年(1491)に創建当初の基壇・礎石の上に再建されたのが現存する講堂です。
以前は講堂内部は非公開で、中の仏像は、東側の格子扉から除き見るしかなかったという。しかし昭和40年(1965)から一般公開され、通年で拝観できるようになった。

空海が真言密教の根本道場として精力を傾けたのがこの講堂の建設だった。大日如来を中心に諸尊像を配置し、密教の教えを表す密巌浄土の世界を表現しようとした。これが「立体曼荼羅(羯磨曼荼羅 かつままんだら)」と呼ばれているものです。
密教とは何か。Wikipediaを見てもよく解からない。手持ちの電子辞書(シャープ:Brain)には「仏教の流派の一つ。凡夫にうかがいえない秘密の教え」とある。なるほど、凡夫中の凡夫の俺に解かるはずがない。
正木晃著「密教の世界」(河出書房新社)の冒頭に
「密蔵は深玄にして翰墨に載せ難し。更に図画を仮りて悟らざるに開示す」(空海「御請来目録」)(著者の意訳:密教の教えは深く神秘的なゆえに、文字では伝えがたい。ゆえに視覚表現をもちいて、理解できない者の眼を開くのだ。)と載っている。

講堂内部の立体曼荼羅(受付で頂いた冊子「東寺」より)
密教特有の「曼荼羅」として、布、板、壁などに描かれたものをよく目にする。大日如来を中心にして、その周囲に沢山の仏さんが描かれたものです。「曼荼羅(まんだら)」とは、サンスクリット語のマンダラ(円、本質)が音写されたもので、密教の最高神大日如来が人々を救済するために様々な姿に変身することを体系的に表したもの、とされる。この曼荼羅は、密教の深い真理を感得するための視覚表現だったのです。空海は東寺の講堂で、この曼荼羅を絵図ではなく、実物の仏像を配置することで実現しようとした。だから”立体”曼荼羅なのです。

ここ講堂内部には、幅24メートル・奥行6.8メートル・高さ0.9メートルの須弥壇上に、二十一躰の諸仏像が整然と配置されている。須弥壇の前は、金堂と同じように通路兼拝所となっています。心落ち着かせ、じっと眺めてみるが、何も感得できない。雑念多き現代人(俺だけか?)には無理なようです。空と海しか見えない洞窟にでもこもって修業しなければ会得できないものかもしれない。しかし真言密教の深い教えは感得できなくても、主な仏像が一同に列されているこの講堂は、仏像の学習にはこの上ない場所です。仏像を紹介する書籍、メディアなどでは必ずと言っていいほど東寺の講堂が取り上げられている。

須弥壇中央に配置され、立体曼荼羅の中核をなすのが大日如来を中心にした五体の如来像。「五智如来(ごちにょらい、五仏)」と呼ばれている。五智とは大日如来が具える五つの智恵のことで、それぞれの智恵を五仏に象徴させたもので、全てが大日如来の化身とされる。
「如来」像は、修業を経て悟りを開いた釈迦をモデルにしている。そのため持物は持たず、服装は質素な衣一枚をまとった簡素な姿で、開いた蓮の花の上に結跏趺座(けっかふざ、左右の足の甲を反対の足のももの上に乗せて組む)し、手は膝の上に置かれている。しかし真言密教の教主である大日如来だけは、菩薩のように宝冠(ほうかん)を被り、首飾りを着け着飾っています。そして手は、最高の悟りの境地を表す智拳印(ちけんいん、胸の前で左手の人差し指を立て右手で握る)という印を結んでいます。
残念ながら当初の如来像五仏は文明18年(1486)の土一揆によって焼失してしまう。大日如来坐像は室町時代の明応6年(1497)東寺大仏師であった康珍による再興像で、他は江戸時代の再興像。そのため国宝ではなく、「木造大日如来坐像 附 金剛界四仏坐像」として重要文化財指定。全て寄木造りの漆箔仕上げ。

如来像の東側(右)には、金剛波羅密多菩薩を中心として五体の菩薩像が配置される。菩薩は出家前の釈迦の姿を表し、如来の衆生救済の補佐をする。悟りを求めて修行しながら、苦しむ人々を救う仏さま。つまり、仏の教えを実践しながら、人々の苦しみや願いをすべて救うため、様々な法力や功徳を持つ。出家前の釈迦の姿なので、如来さんよりやや身を飾り、宝冠を被っています。少しうつ伏せ気味に眼を伏せ、慈悲にみちた柔和なお姿をされている。金剛波羅蜜多菩薩は文明18年の土一揆によって焼失、江戸時代の再興像。それ以外は焼失を免れ創建当初のままの姿を保ち、「木造五大菩薩坐像 4躯」として国宝に指定されている。金剛波羅蜜多像は国宝の附(つけたり)指定です。すべて檜の一木造り、漆箔仕上げ。

如来像の西側(左)には、不動明王を中心とした五大明王が配置されている。明王は大日如来の怒りの化身で、仏敵を追い払い、教えに従わない者たちを懲らしめ仏教に帰依さす。衆生教科のために大日如来が忿怒の姿になって現れたものです。東側の慈悲にみちた菩薩像とは対照的に荒々しい姿をしている。慈悲をもって人々を導く菩薩像に対して、明王は威をもって導く。髪を怒りで逆立て武器を持ち、眼が飛び出しそうになるくらい睨みつけてくる。煩悩を焼き尽くすため燃え盛る真っ赤な火焔の光背を背負い、多くの顔と手をもつ(多面多臂)。
すべて檜の一木造り、彩色仕上げ。五体とも創建当初の像で、明王像としては日本最古のものといわれ国宝となっている。

須弥壇の東西両端には、四天王、梵天、帝釈天が配されています。「天」はインド古代神が仏教に取り入れられ、仏教世界の四方を守護する護法神とされたもの。「超人的な力を持つ神」を意味するサンスクリット語の「デーヴァ」が中国で「天」と訳された。
如来・菩薩・明王の十五尊を両端から守護しています。東西南北の四隅に配置された四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天(毘沙門天とも))は、兜を冠り甲冑を身につけ武器を持つ武装した姿で、邪鬼を踏みしめ眼を吊り上げ他を威嚇する忿怒の表情をしています。四天王の間に配された梵天、帝釈天は、対照的に眼を閉じ柔和な顔立ちをされている。同じ「天」でも役割が違うようです。六体とも檜の一木造り、彩色仕上げ。みな創建当初からの像で、国宝指定されている。

 食堂(じきどう)  



南西から見た食堂(じきどう)。講堂の北側、拝観受付の傍にあるのが食堂(じきどう)。食堂は、僧侶達が斎時に集って食事をした所という。
食堂には拝観券が無くても自由に入れる。現在、堂内右半分で草場一壽「陶彩画展」が開催されていました。ツルツルした陶器の表面に描かれた色鮮やかな絵画には驚いた。また堂内では写経の場も設けられ、ひたむきに筆をとっていらっしゃる方の姿が見えます。「写経は、国宝・五重塔に永らく奉納させていただきます」とのことです。

北西から見た食堂の背後。食堂の歴史は「初代の食堂は空海没後の9世紀末から10世紀初め頃にかけて完成したと推定されるが、文禄5年(1596年)の地震で倒壊。2世紀以上後の寛政12年(1800年)にようやく再建工事が始められた。この江戸時代再建の食堂は昭和5年(1930年)に火災で焼失し、現在の建物はその後の再建で、昭和9年(1934年)に完成したものである」(Wikipediaより)
足利尊氏が東寺に本陣を置き、この食堂に居住していたこともあったそうです。

食堂はかって「観音堂」「千手堂」とも呼ばれ、仏像が安置されていた。檜の一木造り漆箔で、像高約5.8mの千手観音菩薩と、それを取り囲む四天王像です。平安中期の造像と考えられている。ところがこれらの仏像は、昭和5年(1930年)食堂の火災で焼損してしまう。損傷が比較的軽微だった千手観音菩薩は、平安初期の仏像様式を忠実に守り修理され、現在宝物館に収蔵され見ることができます。被災前は国宝だったが、現在は重要文化財指定です。現在の食堂には、昭和8年(1933)造像の像高約1.8mの十一面観音像が代わりに安置されている。

千手観音菩薩を四方から守護していた四天王像(持国天・増長天・広目天・多聞天)は損傷が激しく、補修もされないままの姿で置かれています。面貌や体形はわかるが、腕を失い体の表面は焼けただれ黒く炭化した状態の痛ましい姿です。この3mをこす焼けただれた四体の巨像が、今回の東寺訪問で一番印象に残った仏像でした。






 宝蔵と慶賀門(東門)  


食堂の東側に、広場を挟み校倉造りの宝蔵(ほうぞう、重要文化財)があります。平安後期の創建当初は南北に二棟あり、弘法大師空海が唐の国師、恵果から授かり、現在、国宝となっている密教法具や両界曼荼羅、袈裟、仏舎利、五大尊など数多くの寺宝を納められていた。
宝蔵は長保2年(1000)と大治1年(1126)に二度焼失したが、建久9年(1198)、文覚(もんがく)上人によりに再建され、「文覚の校倉」とも呼ばれたという。ただし傍の説明板には「解体修理の結果、東寺創建に近い頃の建立と考えられる」とあり、文覚再建説は間違いで、東寺で最も古い建物ということになる。

多くの寺宝が納められているので、火事による延焼を防ぐため掘割で囲まれた中に建つ。掘割には蓮の花の若葉が、初夏の開花を待っています。掘割に架かる石橋の袂に一本の柳が立つ。「伝 小野道風ゆかりの柳」との説明板が。

宝蔵の直ぐ北側に慶賀門(けいがもん、東門、重要文化財)がある。JR京都駅から最寄の門で、大宮通りのバス停に近いことから、この門から訪れる人も多い。
鎌倉時代前期の建造とされる切妻造・本瓦葺きの門。基壇は平安時代後期のもの。
なお、東寺の開いている四門はどれも段差があり、車椅子は通りにくい。ここ慶賀門(東門)の横が駐車場で、そのまま境内に入れます。これを利用すれば車椅子でも段差を気にせず入れます。


詳しくはホームページ

京都・東寺探訪 1

2017年07月30日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2017年5月20日(土)
高野山と並び真言密教の聖地、京都・東寺を訪ねました。弘法大師信仰の原点でもあります。東寺には*十年前の青春時代に来たことがある。その時は、1月21日の「初弘法」と呼ばれる縁日目当てで、広い境内に所狭しと並ぶ露店を見て周っただけです。当時お寺や仏像に興味がなく、また東寺がどのようなお寺なのか知らなかったし、知ろうともしなかった。だから東寺をお寺として見るのは今回が初めてとなる。
これまで高野山をはじめ、醍醐寺、神護寺(高雄山寺)、泉涌寺、奈良・長谷寺、室生寺など著名な寺を周ってきたが、これらのお寺はどれも真言密教と深い関わりがあるのを知った。それなら東寺も訪れない訳にはいかないと・・・。

東寺を訪れる前に、まず羅城門跡と西寺跡に寄ってみる。平安京造成時、南の玄関として羅城門が置かれ、門の東西に都の守護寺として二つの官寺、東寺、西寺が建てられた。羅城門と西寺は、現在その姿を見ることはできず、石碑が建つだけです。

 羅城門跡(らじょうもん)  



東寺の南大門から九条通を西に500m程歩くと、市バス停「羅城門」があり、右に少し入り込んだ所に小さな公園が見えます。「唐橋羅城門公園」とある。どこにでもある小さな児童公園なので見逃しやすい。入口には、「羅城門跡」と書かれた小さな石柱が建てられているが。入っていくと、滑り台の横に「羅城門遺址」の碑と、説明板が立っているだけ。平安時代の面影を示すものは何一つありません。この碑は明治28年(1895)3月に設置されたもの。

平安京の都には、朱雀門を起点にし、中央を南北に貫通する大通り「朱雀大路(すざくおおじ、現在の千本通)」があり、その東側を左京、西側を右京と呼んでいた(大内裏から朱雀大路を南向きで見ての左右)。その朱雀大路の南端、九条大路と交わる位置に、平安京の南の玄関として羅城門が築かれた。正面約32m、奥行き約8m、高さ約20mの二層の楼閣で瓦葺。
楼上に王城鎮護の「兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)」が安置されていた。羅城門が倒壊した時、瓦礫の中から見つけ出され東寺へ運ばれます。現在、国宝として東寺宝物館に収蔵展示されている。

しかし平安京の表玄関だった羅城門は、平安中頃から右京の衰退や社会の混乱によって次第に荒れ果てていく。
死体が転がり、盗人、下人などの巣となってる有様。芥川龍之介の小説『羅生門』の世界です。小説では、行く当てのない下人が門の上の楼へ上がると、死骸ばかりが転がっている中で、一人の痩せこけ猿のような老婆が死人から髪の毛を一本ずつ抜き取っていた。老婆は、飢え死にしたくないので髪の毛で鬘をつくるのだという。下人は”俺も飢え死にしたくないのだ”といって、老婆の着物を剥ぎ取り逃げてゆく。
?十年前の青春時代に黒澤明の映画「羅生門」を観たが、暗いイメージしか残っていない。当時の羅城門はそれほど荒廃してしまっていたようです。
弘仁7年(816)8月に大風で倒壊、その後再建されたが天元元年(978)7月に台風で倒壊した後は再建されることもなく、歴史から消えていった。羅城門推定地での発掘調査は今まで4回行っているが、その痕跡は一切確認されていないという。

なお「羅城門(らじょうもん)」より「羅生門(らしょうもん)」のほうがよく知られている。芥川龍之介の小説や映画、能などのせいでしょうか。歴史用語としては「羅城門」が正しく、「羅生門」は創作だと思っていた。ところがWikipediaによると、中世頃からは「らしょう」の読みが一般化し、当字で「羅生門」とも表記されるようになった、とあります。一概に「羅生門」は後世の創作だとは言えないのですね。

羅城門跡の石碑がある公園への入口に、九条通に面して地蔵堂がある。右肩に矢傷の跡を残す地蔵尊が祀られている。空海の身代わりとなり矢を受けた地蔵さんと伝わり、「矢負の地蔵」と呼ばれていたが、いつの頃からか「矢取の地蔵」と呼ばれるようになったという。





 西寺跡(さいじ)  




西寺(さいじ)跡は、羅城門跡の北西500m位の場所にある。唐橋小学校のすぐ北側なので、唐橋小学校を探して行けばすぐ分かる。現在「唐橋西寺公園」として整備されています。町名も「唐橋西寺町」。

国家鎮護を目的とし、東寺と対をなす官寺として建てられた。創建の詳細は不明だが、東寺と同様に弘仁11年(820)頃までには完成したといわれる。東西250m、南北510mの広大な寺域をもち、東寺とほぼ同規模だったという。東寺と同じように、南から南大門、中門、金堂、講堂、食堂の順に伽藍が並び、伽藍の間は回廊で繋がれていた。境内南西には五重塔も建てられていたという。
記録では弘仁14年(823)、嵯峨天皇が東寺の管理を空海に、西寺を守敏(しゅびん)に委ねたとある。
東寺は民間に下賜され真言密教の根本道場となるが、西寺は最後まで国家鎮護の役割をもつ官寺として国家管理のもとにおかれていた。当初、西寺は東寺より格上だったのです。

正暦元年(990)、落雷による火災によって多くの伽藍を焼失したが再建され、平安末期頃までは官寺として機能していた。しかし次第に衰退し、鎌倉時代の天福元年(1233)に再び焼失し西寺は廃寺となり、以後再興されることはなかった。官寺として国家に依存してきたことが逆目にでたようです。平安中頃から官庫の財政が苦しくなり、朝廷の支援を受けらなくなる。西寺だけでなく、全国にある多くの官寺は廃寺に追い込まれたという。
逆に東寺は、空海が真言密教という教えを広く世に広め、民衆だけでなく時の権力者の帰依を受け、そのあと押しによって生き延び発展してきた。

大正10年(1921)、国の史跡「西寺跡」に指定され、「史蹟西寺址」の碑が建てられた。公園中央に高さ2mほどの土盛りがある。これは、戦前に松尾大社の御旅所として神輿を練り上げるため土盛りされたもの。その土盛りの上、中央に「史蹟西寺址」の碑がたち、碑の周辺に数個の礎石が散らばっている。ここはかっての講堂があった場所で、この礎石は講堂のもの。
昭和34年からの発掘調査により、講堂、金堂・廻廊・僧坊・食堂院・南大門などの遺構が確認され、昭和41年(1966)に唐橋小学校敷地、公園の北側などが追加で史跡指定された。

西寺にかつて安置されていたという「地蔵菩薩立像」は、現在、東寺の宝物殿に保管展示されている。平安時代初期の木像で、重要文化財です。

 東寺・南大門  



東寺はJR京都駅の南西6~700mの位置。JR京都駅からでも歩いて行けるが、最寄の駅は近鉄京都線の東寺駅。
南側が正面になり、お濠を挟んで九条通りに面している。その正面中央に建つのが南大門(重要文化財)。

慶長9年(1604)に豊臣秀頼によって復興された南大門は、明治元年(1868)に焼失し、東寺には正門が無い状態だった。ところが明治の中頃、京都国立博物館の建設と七条通を更に東に延長さすためには、三十三間堂(蓮華王院)の西門が邪魔だった。そこで東寺がもらい受け、移築した。明治28年(1895)のことです。東寺にとっては新しい門なのですが、三十三間堂の西門は慶長6年(1601)に建てられたもので、桃山建築の特色を残す。そのため重要文化財となっている。なお三十三間堂の時は、俗に「大仏崩門」とも呼ばれていたとか。南大門に仁王像が見られないのは、こうした経過によるものでしょうか。

南大門を通して境内を見ると金堂が見える。その金堂の裏には、講堂・食堂が南から北へと一直線に並ぶ。この伽藍配置は平安時代の原初からそのまま維持されている。
南大門は、幅約18m、高さ約13m、切妻造本瓦葺、三間一戸の八脚門。貰いものとはいえ、古風で威厳にみち、東寺の正門に相応しい姿をしている。

 東寺の境内図  



東寺境内は南北約515m、東西約255mあり、その中央に南から北へ南大門・金堂・講堂・食堂・北大門が一直線に配置されている。建物は戦乱や火災などで創建当時のものは残っていない。しかしこの伽藍配置や、建物の位置、姿は創建時のものを踏襲されてきた。平安京の遺構で、現在目にすることのできるのは、ここ東寺だけとなっている。

境内図で、金堂・講堂・五重塔の領域は直線で囲われている。即ち、柵で囲われ入れないようになっている。この区画に入るには、中央の「拝観受付」となっている所で拝観料を支払い、その脇の入口から入ることになる。
それ以外の境内は自由に見学できます(開門時間:午前5時 開門、午後5時 閉門)。
なお、五重塔の初層内部、宝物館、観智院は通常非公開だが、特別期間だけ有料公開されている(今回はその特別期間中)。

 東寺の歴史  


記録によれば、東寺は平安京遷都後まもない延暦15年(796)、王城鎮護のため桓武天皇の発願によって創建されたとされる。同時に、羅城門を挟んだ西には西寺も建立された。共に官寺で、仏教寺院が政治に介入した平城京の反省からこれ以外の寺の造営は許可されなかったという。
その後西寺は衰退し廃寺となり、今や存在しない。ところが東寺は、空海という人物が入ったことで大きく飛躍し、現在までその姿をとどめています。

空海は、延暦23年(804)遣唐使の留学僧として唐に渡り、長安の青龍寺で密教の最高僧・恵果に会う。空海に会った恵果は、彼の才能を見抜き、密教の秘法をことごとく伝えたという。そして出合ってわずかしかたたない空海を自分の後継者に指名したのです。2年後の大同元年(806)に密教の経典・仏具・曼荼羅などの多くの資料を持って帰国し、高雄山寺(現在の神護寺)に入り活動を開始します。
異国の香りを含んだ密教という新しい教えは、朝廷内の人々の間に広まり、最大の関心事となりました。空海は仏教の新しい教えである密教の第一人者として信望を得、朝廷からも信任を得る。特に嵯峨天皇の信任を得て親交を深めていきます。弘仁7年(816)、空海は自らの入定の地並びに修禅の道場として高野山を選び、朝廷の許可を得て開山に着手します。
そうしたなか弘仁14年(823)、嵯峨天皇は官寺だった東寺の造営と運営を、高く評価していた空海に託します。その時、空海は条件を出したという。「東寺を真言密教の根本道場としたい。そのため東寺においては他宗との雑住を禁じていただきたい」と、他宗派の排除を求めた。天皇はそれを認め、翌年(824年)空海は造東寺所別当に任じられ東寺の経営にあたることになった。空海50歳の時で、その時の空海の心情が「歓喜にたえず、秘密道場となす」と残されている。空海は唐より請来した経典類・仏具類・曼荼羅などを納め、東寺は真言密教の寺院としての歴史を開始する。空海が東寺に入ったときは金堂と僧房しかなかったが、空海は真言密教の根本道場とするため講堂(825年)、五重塔(826年)など諸堂の造営にに着手する。
東寺の御詠歌に「身は高野(たかの)、心は東寺に納めおく、大師の誓いあらたなりけり」とあるが、空海は東寺に住房を構え、東寺を密教の根本道場とするための造営事業と、高野山を修禅道場とするための壮大な伽藍建設という二つの造営を平行して進めていった。
832年11月、東寺の別当として長く暮らしてきた西院御影堂を離れ高野山に隠棲。3年後の承和2年(835)3月21日、空海は高野山で62歳で亡くなる。しかし空海は「入定(にゅうじょう)」したとされている。即ち亡くなったのではなく、永遠の禅定(坐禅瞑想)に入り、苦しむ人々を救済するため祈り続けているのだと。
晩年は東寺、高野山の造営に力を注いでいたが、講堂の諸像が完成し立体曼荼羅の開眼供養が営まれたのは承和6年(839)、五重塔が完成したのは元慶7年(883)で、空海亡き後です。

平安時代後期になると、武士の台頭から朝廷の支援も細っていく。そのため東寺は経済的に困窮し、伽藍も荒廃していった。このころの東寺は「諸堂は傾き、供物も絶え、大土塀は崩れ落ち、行き交う人の道となっていた」の状態だったそうです。
鎌倉時代に入り1190年代、文覚上人が源頼朝の支援を受けて堂塔と諸像の修復を行い、東寺の再興に力を注いだ。しかし「お大師様の寺」として広く信仰を集めるようになるのは、弘法大師像が造られ、その像を祀る御影堂が成立してからです(延応2年(1240))。後白河法皇の皇女・宣陽門院(1181-1252)は、弘法大師空海に報恩感謝する法要「御影供(みえく)」を、空海の命日に当たる毎月21日に御影堂で始める。さらに弘法大坐師像に生前同様に食事などの給仕をする「生身供(しょうじんく)」も始めています。これらを契機に御影堂に多くの人々が参拝するようになってくる。こうして御影堂を中心に弘法大師信仰が高まり、皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになっていった。
中世以後の東寺は後宇多天皇・後醍醐天皇・足利尊氏など、多くの貴顕や為政者の援助を受けて栄えた。
ところが文明18年(1486)の文明の土一揆で金堂、講堂、廻廊(かいろう)や南大門など主な堂塔のほとんどを焼失するという、東寺創建以来のもっとも大きな痛手を受ける。しかし弘法大師空海への信仰は大きく、皇室・公家をはじめ織田信長、豊臣秀吉・秀頼、徳川家康・家光といった時の権力者の庇護を受け、東寺は少しずつ復興をとげていった。

・延徳3年(1491) 講堂再建、明応6年(1497)講堂の大日如来像が再興される。
・文禄3年(1594)豊臣秀吉、五重塔を再建
・慶長8年(1603) 豊臣秀頼、金堂を再建
・慶長9年(1604) 豊臣秀頼、南大門を再建
・寛永21年(1644) 徳川家光、1635年に焼失した五重塔を再建

現在東寺には創建時の建物は残っていないが、何度も支援を受けながら再建復興した南大門・金堂・講堂・食堂・五重塔などが、創建時の位置に当時の姿を残し現存しているのです。

明治時代には、高野山とともに古義真言宗の総本山とされたが、戦後に独立宗派となり東寺真言宗の総本山となっている。昭和9年(1934)国の史跡に指定される。昭和40年(1965)には、千年以上も秘仏とされ非公開だった金堂・講堂の扉が開かれ一般公開されることになった。初めて立体曼荼羅を目にすることができたのです。
平成6年(1994)12月、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録された。

この寺には「東寺」および「教王護国寺(きょうおうごこくじ)」という2つの名称があります。宗教法人としての登録名は「教王護国寺」。ですから国宝・重要文化財指定は「教王護国寺五重塔」のように「教王護国寺」が使われている。この名称は、嵯峨天皇より東寺を下賜された空海が、王を教化し国家鎮護するための密教寺院という意味で「教王護国寺」の名称に改めたことによる。しかし「教王護国寺」はほとんど使われず、平安時代以降近世までの公式の文書・記録等には「東寺」という表記が用いられてきた。創建時から使用されてきた歴史的名称「東寺」が主に使われてきたし、現在もそうです。境内を歩いていても「教王護国寺」という表記を目にすることはありません。唯一、南大門前の石柱「史蹟 教王護国寺境内」だけです。

 雑記<空海と弘法大師>  


東寺は二つの顔をもっている。
一つは「教王護国寺」で表される官の顔。官寺として創建され、その後も皇室から支援され国家鎮護の密教寺院としての側面です。宮中では元旦から七日まで神式の新年祈願が行われていた。その後の七日間、つまり後七日は大極殿で仏教諸派による祈祷会が営まれていた。空海は唐から持ち帰った密教の儀式を、その後七日に宮中の真言院で営みたいことを申し出て許可された。天皇自ら参加し、東寺の長者から直接体に加持されていたのです。
この「後七日御修法(ごしちにちのみしほ)」の儀式は現代まで途絶えることなく続けられてきた。明治維新で廃止となったが明治16年(1883)復活され、現在でも東寺・灌頂院で後七日御修法の儀式が、正月の8日~14日に厳かに行われている。天皇の安泰と国家鎮護、皇室繁栄、五穀豊穣を祈願するための真言密教最高の儀式です。現在では天皇出席ということはないが、皇室から勅使が遣わされ天皇の身代わりとなる御衣に加持されるという。灌頂院はそうした建物なので非公開で、一般人は中へ入れません。

そして弘法大師信仰という民の顔。
弘法大師は”お大師さま””弘法さん”と呼ばれ、広く庶民に親しまれ信仰されてきた。そして日本各地に弘法大師にまつわる多くの奇蹟的な伝説が残されている。空海という人物でなく、神格化され偶像化された”弘法大師”への信仰です。この弘法大師信仰というのはどのようにして生じたのでしょうか?。
その因の一つに「入定(にゅうじょう)」というのがあります。即ち弘法大師空海は入滅したのではなく、永遠の禅定(坐禅瞑想)に入り、苦しむ人々を救済するため祈り続けているのだと。

空海入滅後八十七年目の延喜21年(921)、醍醐天皇は空海に「弘法大師」という称号を贈る。観賢(853~925)がその勅書と醍醐天皇の賜衣を奉じるため高野山奥の院の廟所の扉を開けたところ、大師の顔色は生前のままだった。そして長く伸びていた髪をそり、すでに朽ちていた衣を賜衣に改めたという。ここから空海は蘇り、「弘法大師」として生きながら永遠の冥想に入っておられるのだ、とうい入定信仰が生まれてきた。
弘法大師ゆかりの四国八十八ヵ所霊場を巡るお遍路さんは、「同行二人(どうぎょうににん)」と呼ばれる。「あなうれし、行くも帰るもとどまるも、我は大師と二人連れなり」と詠われているように、巡礼中はお大師さまが絶えずお傍におられ見守ってくださっていると信じたのです。
「空海」は死して後「弘法大師」として蘇り庶民の信仰の対象となっていった。さらに発展し、お大師さまは各地を廻り、人々を救って下さると信じるようになってくる。東寺の御影堂では、弘法大師が今も生きているがごとく、毎日朝6時に食事を捧げる儀式である「生身供(しょうじんく)」が行われているのです。高野山でも同様です。

 拝観受付へ  


南大門を潜り境内に入り、正面に金堂を見ながら北へ歩く。新緑の樹木の間から黒褐色の堂宇が覗く。右に金堂、講堂、食堂が、左側には灌頂院、小子房、本坊、御影堂が並ぶ。この広い空き地で、弘法大師空海の命日にあたる毎月21日に「弘法市」が行われている。柵で囲われ、こちら側からは入れません。

講堂の北側に回ると食堂があり、傍に拝観受付所がある。この北側から眺めると、東寺の主な伽藍が一望できます。手前から食堂、講堂、金堂が並び、左に五重塔がそびえる。これらの建物は、焼失、再建を繰り返してきたが、その位置と配置は東寺創建時のままという。現在、平安京の姿、形を示すものはことごとく無くなってしまっているが、この東寺の姿だけが唯一残された平安京の遺構だそうです。
食堂と講堂の間に、拝観受付があり、ここからだけ中に入れる。
現在、春期特別公開中(2017年3月20日(月)~5月25日(木))で、拝観料が少々ややこしい。詳しくは東寺の公式サイトを。

春期特別公開とは、通常非公開の五重塔初層・宝物館・観智院が拝観できるもの。金堂・講堂を含め全てを拝観できる共通券が 1300円。金堂・講堂だけ、宝物館だけ、観智院だけというのもあるようだ。
拝観時間
 金堂、講堂は、午前8時~午後5時(午後4時30分 受付終了)
 宝物館、観智院は、午前9時~午後5時(午後4時30分 受付終了)
金堂・講堂・五重塔は、通年で公開しています(有料)。


詳しくはホームページ

春の宇治平等院とその周辺 3

2017年06月04日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2017年4月5日(水)桜の季節、宇治平等院とその周辺を散策

 宇治神社と早蕨(さわらび)古蹟 


興聖寺を後にし、朝霧橋の袂まで戻る。宇治神社の一の鳥居を潜り石畳の参道を進む。参道右脇には桐原水の手洗所が置かれている。階段を上ると正面に、「桐原殿」の扁額がかる黒ずんだ建物が建つ。これは拝殿だそうです。
宇治神社の歴史・祭神については宇治上神社を参照。元々同じ神社だったので創建などは同じです。

拝殿の背後にある二の鳥居を潜り階段を上ればすぐ本殿です。本殿は赤色の廻廊に囲まれ、正面には拝殿風の門が控える。本殿は、桧皮葺きの三間社流れ造り。鎌倉時代初期の建造で、国の重要文化財にも指定されている。殿内中央には平安中期の彩色木像「菟道稚郎子命坐像」(重要文化財)が安置されている。

神社によれば、木々に囲まれた境内の奥は「パワースポット」の地で、自然と古の時代の力が感じられる場所だそうです。その一隅に白いウサギ像が置かれ、「みかえり兎」の案内板が立つ。見返りながら祭神の莵道稚郎子命をこの地まで導いたという。宇治神社(宇治上神社でも)では、兎は神様のお使いなのです。見返らないで寝そべっている「寝そべり兎」の横には「伊勢神宮遥拝所」の立て札が。







宇治神社の脇には「さわらびの道」と名付けられた遊歩道が設けられ、宇治上神社、源氏物語ミュージアムへと続いている。さわらびの道を少し歩くと、満開の桜越しに宇治上神社の赤い鳥居が見えてきます。










宇治上神社の鳥居までの中ほど右手に、「早蕨之古蹟」の石碑が置かれている。「さわらびの道」の名はこの古蹟があることからきている。
「早蕨(さわらび)」とは、芽を出したばかりのワラビのことですが、源氏物語の宇治十帖(第四帖)「早蕨」の中で
”この春はたれにか見せむ亡き人の かたみにつめる峰の早蕨”
と歌われた。この辺りにワラビが沢山芽を出していたのでしょうか、宇治十帖「早蕨」の地とされたようです。

 宇治上神社(世界遺産)  


宇治上神社の赤い鳥居から、真っ直ぐな参道が拝殿まで続く。世界遺産のせいか宇治神社と比べ、やや厳粛な雰囲気が漂う。広くない境内ですが、中は自由に歩けます。

創建について『日本書紀』は、以下のように記している。第15代応神天皇は莵道稚郎子(うじのわきらいつこ)を皇太子とし、皇位を継がせようとした。しかし博士王仁(わに)から儒教の思想を受けられ、長男相続説をとっておられた莵道稚郎子は、父・応神天皇が崩御すると異母兄・大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、後の仁徳天皇)に皇位に即かれるよう薦める。しかし兄も辞退し、互いに皇位の譲り合いが続き、三年間の皇位空白期間が生じた。菟道稚郎子は、父の離宮(桐原日桁宮:きりはらひけたのみや)でもあったこの宇治川沿いの地を宮居とし隠棲します。最後は「自分は兄の志を変えられないことを知った。長生きをして天下を煩わすのは忍びない」と入水して自害し、皇位を兄に継がせた(『古事記』では単に夭折となっている)。仁徳天皇の誕生です。皇位を継承した仁徳天皇は、父・応神天皇の離宮跡であり菟道稚郎子の宮居跡だったこの地に菟道稚郎子の霊を祀った。これが宇治上神社の始まりという。

その後、永承7年(1052)藤原頼通が「平等院」を創建するとその鎮守社となる。治暦3年(1067)には後冷泉天皇の平等院行幸に際し「離宮明神」の神位を授かる。だから明治維新前までは、宇治神社と宇治上神社は二社一体の「宇治離宮明神(八幡宮)」と呼ばれ、現在の宇治上神社は「離宮上社」、宇治神社は「離宮下社」と称されていた。ところが明治16年(1883)、上社は「宇治上神社」下社は「宇治神社」に分離され、それぞれ独立した。(その理由を探したが・・・??)

1994年(平成6年)12月、宇治上神社は平等院とともに「古都京都の文化財」として世界文化遺産に登録された。宇治上神社だけとなったのは、本殿が現存する日本最古の神社建築だからということらしい。

境内に入ると、まず正面に拝殿に対する。切妻造りの屋根に、正面に向拝をもつ。中央に扉をもち、その左右に蔀戸を用い、高欄をもった縁をめぐらした寝殿造風の造り。鎌倉時代前期の建物で、国宝に指定されています。

拝殿前の正面左右に円錐型の「清め砂」が盛られている。説明板によれば、八朔祭(9月1日)に氏子さんによって奉納され、境内のお清め用の砂として1年間盛られ続けられる。お正月、祭礼など大切な日に、境内に撒き散らしお清めするという。自宅のお清め用に欲しい方は、授与所で分けていただける。
拝殿裏手の階段上に本殿(国宝)がある。見たところ、普通の神社本殿の外形とはやや異なっている。本殿は、一間社流造りの三殿が並ぶ。その三棟の内殿を一つの覆い屋で覆っている。そのため本殿自体を目にすることができない。本殿は平安時代後期の1060年頃の建立で、現存する日本最古の神社建築。覆い屋の正面には「正一位離宮大神」の扁額が掲げられている。
祭神は、応神天皇とその皇子・菟道稚郎子、兄の仁徳天皇の三神(宇治神社も同じ)。

境内には、宇治七名水の中で現在でもただ一つ湧き続けているという「桐原水」の井戸がある。注連縄が張られた覆い屋で覆われ、一段下がった所に湧き水がでている。ただし「飲用しないで下さい」の注意書きが貼られています。なお「桐原」というのは、このあたりの地名だそうです。
傍にケヤキの大樹が。高さ27m、推定樹齢300年、宇治市名木百選に選ばれているが、かなり痛々しい。

 総角古蹟と大吉山(仏徳山)展望台  



宇治上神社を出て、さわらびの道に戻る。この辺り、神社の古い板塀、緑に囲まれた静かな環境、何となく「源氏物語」の空気をちょっぴり味わわせてくれる(といっても、源氏物語をよく知らないのだが・・・)。
宇治上神社から100mほど歩くと与謝野晶子の歌碑が置かれている。歌碑の横には椿の木が植樹されている。その名も「ヒカルゲンジ(光源氏)」。
与謝野晶子歌碑の背後に、大吉山(仏徳山)展望台へ登る坂道がある。その登り口に「総角之古蹟」の石碑が置かれています。
「総角(あげまき)」は、源氏物語宇治十帖の第三帖にあたる。その中で、光源氏の子・薫君が八宮の一周忌法要に事寄せて大君への想いを詠んだ「総角に 長き契りを結びこめ おなじ所に よりもあはなむ」の和歌からきている。
「総角(あげまき)結び」とは古代の髪型の一種で、伸びた髪を左右二つに分け耳の上で結ぶやり方。なので歌の意味は「あなたが縒り結んでいる総角結びのように、あなたと私が長く寄り添えるようになりたいものだ」そうです。
源氏物語に登場する八宮の山荘は平等院の向い岸ということなので、この辺りが想定され昭和45年に石碑が建てられた。

これから大吉山(仏徳山)展望台へ登り、宇治市内を展望してみます。さわらびの道の与謝野晶子歌碑の後ろに登り口がある。標識が立っているので間違うことはない。

ゆるやかな坂道が続く。山道といえ道幅は広く、車一台は通れるほどあります。展望台は仏徳山(1318m)の中腹にあるのでそれ程高くないのだが、やたら折れ曲がっている。数えたら九曲がりありました。そのため道は傾斜が緩く、山登りというほどではない。その分、距離は長くなる。約20分ほどで展望台に到着。

展望台に着くと、数人の女子高生が楽器演奏で歓迎(?)してくれました。宇治市内を見下ろしながら思い切り音を出せるので、練習には良い場所ですね。楽器を抱えて登ってくるのは大変でしょうが。
ここは展望台となっているが、仏徳山(1318m)へ登る途中の休憩所として設置されたものです。

宇治市内が一望でき、平等院、宇治公園も見下ろせる。

 宇治市源氏物語ミュージアム  



大吉山(仏徳山)展望台を降り、さわらびの道へ。与謝野晶子歌碑とは反対側へ100mほどで宇治市源氏物語ミュージアムの建物が見えてきます。
  開館時間:9時~17時(入館は16時30分まで)
  入館料:大人500円 / 小・中学生250円
  休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始
源氏物語に関する多くの文献、史料、小説などのが収集・保管・展示されている。宇治特産のお茶を味わえる喫茶コーナーなども。また館外の源氏の小径や中庭には、源氏物語にちなむ四季折々の草花が植えられている。
館内は、企画展示室と映像室以外は写真撮影できます。館内に入ると、まずパネルで宇治市の歴史・環境などを紹介し、源氏物語や宇治十帖の解説がなされている。丁寧に読んでいたらいくら時間があっても足りない。源氏物語や王朝文化に特に興味があれば別なのだが・・・。

「~千年の時空を超えて~源氏物語の世界を実体験 」をモチーフに、平成10年(1998)「源氏物語 宇治十帖」ゆかりの地である宇治に開館。常設展示室には、源氏物語の世界を実体験できるように、光源氏の住まいで寝殿造の「六条院」原寸大模型が設置されている。牛車なども展示され、王朝文化の一端に触れることができます。

最後は映像室で、「浮舟」を題材にした20分ほどの映画を見て帰りました。映画は、正直退屈でした(スミマセン)。途中退場できず、終わるのが待ち遠しかった(スミマセン)。ある程度「源氏物語 宇治十帖」のストーリーを知っていれば理解できたでしょうが、少しも無いので・・・。源氏物語と宇治十帖についての、素人向け超易しい解説を期待していたのですが。なにやら宇治川を連想さす薄暗い幻想的な世界の中で、王朝貴族の男女の織り成す愛憎を主としたイメージ映像でした。映像を見る前に、館内でじっくり源氏物語の世界を勉強すればよかったのですが、なにぶん先を急いでいたもので・・・。ただ、製作監督は私でも知っていた有名な方でした。そして原作は瀬戸内寂聴と。

 橋寺放生院(はしでらほうじょういん)  


源氏物語ミュージアムを出て、来た道とは逆方向の坂道を下る。広い大通りに出ると、前方に宇治橋と京阪宇治駅が見えてくる。宇治橋の袂を左に入ると、左側に「橋寺放生院」の石柱が建ち山門が現れる。山門は通れないが、脇の戸口から入れます。境内の見学は自由にできる。
橋寺放生院(ほうじょういん)は、聖徳太子の発願で推古12年(604)に秦河勝(はたのかわかつ)が創建したと伝えられている。宇治橋の守り寺で、宇治橋を管理してきたことから「橋寺」と呼ばれてきた。弘安9年(1286)、西大寺の僧・叡尊によって宇治橋が再建された時、中州に十三重石塔を建てるとともにこの寺で大放生会を営んだ。そこから「放生院」とも呼ばれるようになる。
真言律宗の寺で、本尊は鎌倉中期の木造地蔵菩薩立像(本堂内、重要文化財)。本堂拝観は300円。

この寺が有名なのは「宇治橋断碑」(うじばしだんぴ、重要文化財)という石碑が残されていること。これは宇治橋架橋の由来を記した石碑で、宇治橋は元興寺の僧道登によって大化2年(646年)に架けられたと刻まれている。
寛政3年(1791)に橋寺放生院の境内で発見されたのは石碑の上部三分の一だけ。残りの碑身は見つからなかったが、『帝王編年記』(14世紀後半)に碑の全文が収録されており、それに基づいて補刻し欠損部を復元し寛政5年(1793年)に完成したもの。
「宇治橋断碑」は、階段を登った直ぐ左に、鍵のかけられたお堂の中に納められている。本堂前でベルを押し、見学を申し込む。”写真撮れますか?”と聞いたら”国の重要文化財なのでダメです”の返事。それならお堂を開けてもらうまでもないので断った。お堂正面の僅かな隙間から見えたので、覗き撮り。

 菟道稚郎子命墓と浮舟宮跡  


宇治上神社と宇治神社の祭神:菟道稚郎子命の墓が近くにある。京阪宇治駅の後方、むしろ一つ手前の三室戸駅に近い宇治川沿いです。歩いても行けるので、宇治駅の横を通り三室戸駅の方へ進むと、古墳風のこんもりした森が現れる。近くまで一戸建て住宅が迫っています。

松並木の整然とした参道が設けられ、れっきとした宮内庁管理の墓です。参道突き当たりの柵の先に見える石碑が源氏物語の「浮舟宮跡」。その先はすぐ宇治川です。

「応神天皇皇子 菟道稚郎子尊宇治墓」の石柱が立つ。

これだけ立派な莵道稚郎子墓は何時造られたのでしょうか?。明治時代の中頃なのです。
菟道稚郎子は、父・応神天皇から次の天皇にと約束されていたが、異母兄・大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、後の仁徳天皇)に後を継がすため自害する(宇治上神社の項を参照)。仁徳天皇の誕生です。『日本書紀』は、莵道稚郎子は「莵道の山の上」に葬られた、と記す。この記述だけが唯一の拠り所。
そこで江戸時代の享保18年(1733)儒学者・並河五一郎が、宇治川東岸の興聖寺の背後にある朝日山の山頂(標高124m)に「莵道稚郎皇子之墓」の墓碑を建てたのです。高さ1mほどの墓碑が今でも残されているそうです。

ところが明治22年(1889)、当時の宮内省はここ宇治川河畔にあった小さな円丘を菟道稚郎子の墓に治定する。「莵道の山の上」という日本書紀の記述とは相反した川岸だが、どうしてこの場所に治定したのか根拠不明のまま。周辺一帯を買収し土を盛り樹木を植え、長さ80mの前方後円墳に整形し現在の形にしたのです。以後現在まで宮内庁の管理下となっている。
菟道稚郎子の生きていた時代は、前方後円墳の全盛期。兄・仁徳天皇陵(堺市の大仙陵古墳、墳丘全長:486m)は、我が国の前方後円墳で最大規模。父・応神天皇陵(大阪府羽曳野市の誉田御廟山古墳、墳丘長425m)は二番目の大きさです。父や兄とは比べようのない大きさの前方後円墳だが、鳥居、垣根、植込みなどからなる正面拝所は天皇陵にも勝るとも劣らない立派な構えをしている。しかしこれは「陵墓」でなく、単なる「墓」です。「陵」は天皇だけに使われる。莵道稚郎子は天皇にならなかった(成れなかった?)。
菟道稚郎子の墓は、明治になって新しく造成された前方後円墳です。菟道稚郎子墓に限らず、全国にある多くの
天皇陵は、天皇制国家を目指す明治政府によって大修復され、何人も立ち入れぬ聖域となってしまった。世界遺産登録を目指す仁徳天皇陵とて例外ではない。(ココを参照)


「源氏物語・宇治十帖」にちなみ、古来より「宇治十帖の古跡」が設けられてきた。その中の一つ「浮舟古跡」は現在、宇治川とはかなり離れた山腹の三室戸寺境内とされている。そこに至る経緯は複雑なようだ。

莵道稚郎子墓の横に陪塚がある。その辺りにかって「浮舟宮」と呼ばれた古社があった。榎の大木が茂り「浮舟の森」とも呼ばれ、「宇治十帖」の悲劇のヒロイン浮舟を祀った社として、里人に親しまれていたという。しかし江戸時代中頃、「浮舟宮」は廃絶する。寛永年間 (1741-1744)に、その跡地に三室戸寺によって「浮舟之古蹟之碑」が建てられた。そして浮舟宮のご本尊「浮舟観音」は三室戸寺に移され、現在も浮舟念持仏として伝えられているという。明治になり、「浮舟宮」の跡地は莵道稚郎子墓造成のため宮内省により買収され、石碑も近年の開発で居り場が無くなり三室戸寺に移設され、現在にいたっている。

宇治十帖「浮舟」の由来は、浮舟が匂宮に連れだされ、小舟に乗って宇治川の対岸に渡るときに詠んだ歌、
「橘の小島の色はかはらじをこのうき舟ぞゆくへ知られぬ」
に因む。宇治川河畔こそ「浮舟」に相応しい場所です。
平成27年(2015)有志によって、莵道稚郎子墓正面拝所脇に高さ約3.5mの「浮舟宮跡」の石碑が建立された。横には記念の枝垂れ桜も植えられた。これはあくまで浮舟宮のあった跡ということで、「浮舟古跡」ではありません。しかし何時の日か、この場所が実質「浮舟古跡」として人々に親しまれることになる思います。


詳しくはホームページ

春の宇治平等院とその周辺 2

2017年05月29日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2017年4月5日(水)桜の季節、宇治平等院とその周辺を散策

 宇治公園(橘橋・橘島)  



11時、平等院を出てすぐ横の宇治川堤に。これから宇治川を中心とした宇治公園巡りに入ります。宇治公園は桜の名所として知られている。5年ほど前に来た時は、ちょうど「桜祭り」開催中だったのか、満開の桜の下に大勢の人と露天で大混雑していました。その時の強烈なイメージが残っていたので、今日は少し寂しく感じました。満開までには少し早すぎたようです。
橘橋を渡り、宇治川の中洲へ入る。

橘橋から宇治川上流を眺める。宇治川の中洲には「橘島」と「塔の島」という二つの島が連なっている。二つの島を総称して「中の島」と呼んでいます。手前に見えているのが橘島。
この周辺は山、川と美しい自然に囲まれた風光明媚な地。平安の昔より皇族・貴族に愛され別荘などが置かれた。川の両岸には、平等院を初めとした名勝・史跡が多く残されている。現在でも公園として整備され、多くの観光客や市民の憩いの場として親しまれています。ここは、京都府内で唯一つ「重要文化的景観」に指定されている土地なのです。

喜撰橋をこえた辺りから幅も広くなり、左側には桜の木も残されている。島の真ん中に、竹垣で囲われた「宇治川しだれ桜」が綺麗に咲いていた。公園内ではこれが一番目立つ桜でした。

 宇治公園(塔の島)  



橘島から、短い中の島橋を渡り塔の島へ入る。中の島橋の袂に鵜飼小屋がある。小屋の中には7~8頭の鵜が休息していました。関西では嵐山での鵜飼が知られているが、ここ宇治川の鵜飼も有名です。二名の女性の鵜匠さんがおり、女性の鵜匠は珍しいということで、時々テレビに出演されている。

平安時代から行われていたようですが、平安時代後期になると仏教の影響から殺生が戒められるようになり、太政官符によって宇治川の鵜飼も全面的に禁止された。この島に建つ十三重石塔も、その時に魚霊を供養したものだそうです。現在の鵜飼は大正15年に再興された。6月中旬から9月下旬にかけて行われ夏の風物詩となっている。5、6年前の春に来た時は「桜祭り」だったせいか、特別に鵜飼をやっており、川岸からすぐ近くでで見れました。風折烏帽子(かざおれえぼし、かがり火の火の粉を防ぐ)にワラの腰みの姿(水しぶきを防ぐ)の伝統的な装束を身にまとった女鵜匠さんが巧みに鵜を操り、小魚をくわえて浮き上がる鵜に、両岸の見物客から大きな拍手がおこっていたものです。

鵜飼小屋から南へ進むと、赤い喜撰橋近くに十三重石塔が建っている。
「塔の島にそびえる、高さ15メートルの石塔。これは、石塔としてはわが国最大で、重要文化財に指定されています。1286年に西大寺の僧・叡尊によって建立されましたが、そのいきさつが現代に伝わっています。叡尊は、まず朝廷の命により宇治橋の修復をおこないました。同時に、そのころ宇治川一帯でおこなわれていた網代漁を禁止するとともに、上流の中州に網代の木具や漁具を埋め、その上にこの石塔を建立して、魚霊の供養と宇治橋の安全を祈ります。その後、石塔は、洪水や地震でたびたび倒壊。現在のものは明治時代末期に発掘され、修造されたものです。」(京都府<宇治公園>のページより)
鎌倉時代後期の弘安9年(1286)に西大寺の僧・叡尊律師が宇治橋新規架け替えの際、「宇治橋が水害に弱いのは、乱獲された魚類の祟りから」と考え、魚供養の為に建立されたと伝えられている。

現在、公園周辺の宇治川では多くの重機が投入され、改修工事の真っ最中。
京都府<宇治公園>のページには「「国土交通省においては、塔の島付近の宇治川は、琵琶湖から淀川につながる治水上重要な区間であり、当地区の流下能力を増大することは緊急かつ重要な課題です。
塔の島地区は優れた景観が形成されていることを踏まえ、安全に洪水を流下させるとともに、景観、自然環境の保全などにも配慮した河川改修が進められています」とある。増水対策のために川底の掘り下げを行っているようです。この地域の特殊性から、高い堤防を築くということはできない。二つの世界遺産があり、景観が損なわれてしまうのです。ならば河底を深くするしかないか・・・。

 宇治公園(喜撰橋と「あじろぎの道」)  



十三重石塔の傍に、塔の島から平等院のある宇治川西岸へ渡る喜撰橋(きせんばし)がある。中の島(橘島と塔の島)と宇治川西岸とは橘橋と喜撰橋の二つの橋で回遊することができる。
喜撰橋上から下流を眺める。島と宇治川西岸との間の川は「塔の川」と呼ばれているようです。本流と比べて流れも弱く穏やかで、乗合の屋形舟が行き来しています。夏の鵜飼もこの辺りで行われるのでしょうか。
喜撰橋畔からでている乗合屋形舟は(600円、20分位)の遊覧だそうです。

この喜撰橋を渡って宇治川西岸へ。川岸に沿って桜と松の並ぶ散策路が設けられている。平等院傍まで続き「あじろぎの道」と名付けられている。お茶屋、料理屋さんが並んでいます。
「あじろぎの道」の中ほどに宇治市観光センターがあります。やや厳めしい建物で、周辺と違和感を感じさせている。和風造りなら周囲の景観とマッチしただろうにと思います。内部は広くゆったりとしている。周辺や宇治市の観光案内パンフも豊富に置かれている。宇治茶の無料サービスもあるので休憩するのに丁度良い。もちろんトイレもあります。

市営茶室「対鳳庵(たいほうあん)」が併設されている。「対鳳庵」の名称は、平等院の鳳凰堂に相対していることからきている。500円で、鳳凰堂を眺めながら本格的な宇治抹茶と季節のお菓子をいただけるそうです。開席時間は10時~16時まで。

観光センター前から橘島を眺める、桜は8分咲きか

観光センター前から上流側を眺める。赤い橋は、左が中の島橋で右が喜撰橋

 朝霧橋から恵心院へ  



塔の島、橘島へと戻り朝霧橋で、宇治上神社のある宇治川東岸へ渡ります。こちらは宇治川の本流で、流れが速く波打っている。
宇治川の源流は琵琶湖で、滋賀県では瀬田川と呼ばれ、京都府に入る辺りから宇治川と名を変えます。そして宇治川は木津川や桂川とも合流し淀川の大河となって大阪湾へと注ぐ。緑の山々と川の織り成す美しい風景ですが、時には川の氾濫で度々被害をもたらしてきた。現在、それを防ぐための宇治川改修工事が行われています。またここから上流側すぐの所に洪水調整のための天ヶ瀬ダム(高さ73m、長さ254m)が造られている。そのダム湖は鳥が羽を広げたような形をしていることから「鳳凰湖(ほうおうこ)」と呼ばれているとか(こじつけ?)。美しいドーム型アーチ式の天ヶ瀬ダム、鳳凰湖、天ヶ瀬吊り橋まで足を伸ばしたかったが、時間の関係で今回は断念。



朝霧橋を降り、上流側へ向かう右の道を進むと恵心院・興聖寺へ行ける。左の道は橋寺放生院から宇治駅へ。橋を降り正面の赤鳥居を潜って上って行けばすぐ宇治神社・宇治上神社です。





朝霧橋のたもとに、橋を背にして置かれているのが「宇治十帖モニュメント」。源氏物語「宇治十帖」の中で、ヒロインの浮舟(うきふね)と匂宮(におうのみや)が寄り添い小舟で宇治川に漕ぎ出す有名な情景をモチーフとしているそうです(といっても、私は源氏物語をよく知らないのですが・・・)。
ここはちょっとして休憩場所にもなっています。

朝霧橋のたもとから50mほど歩けば恵心院(えしんいん)の案内がある。緩やかな坂道を登って行けばすぐ山門が見えてきます。

由緒について寺伝は次のように伝えている。弘仁12年(821)、弘法大師(空海)により開創され、唐の青龍寺に似ているところから龍泉寺と称したという。その後平安時代中期の寛弘年間に、比叡山の横川(よかわ)にある恵心院という道場で学んでいた源信によって説法道場として再興された。そこから「朝日山恵心院」と改名された。また源信も「横川僧都」とも「恵心僧都」とも呼ばれたそうです。源氏物語「宇治十帖」の中で、宇治川に入水した浮舟を助けた「横川の僧都」は源信がモデルとか。

その後、藤原氏さらには豊臣秀吉、徳川家康の庇護を受け、伽藍の整備が行われた。近世後期、境内には本堂、客殿、庫裏、薬師堂、鐘楼、中門、表門などがあったというが、度々の戦火などで現在は、表門、本堂、庫裏が残るのみ。
境内拝観無料、広くない境内ですがあちこちに多様な花が植えられている。住職の手植えだそうで、その素人っぽさが親しみを抱かせます。今は桜が目立ちますが、四季折々のお花が楽しめる「花の寺」だそうです。まだ知名度が低いのか、私以外に誰もいてないのでゆっくり鑑賞できるが、ちょっと心細い・・・。

 興聖寺(こうしょうじ)  



恵心院から元の宇治側沿いの道に戻る。上流側へ150mほど歩くと、また赤い橋が現れる。「観流橋」です。観流橋の左奥には宇治発電所がある。琵琶湖の水を、瀬田川を経ずに導水路で直接水を引き、発電所へ引いている。観流橋は、発電所の水を宇治川へ流し込む水路に架かる橋です。
観流橋下を見れば、現在水量も少なく穏やかだが、発電所からの放水時には増水し、大変危険なようです。警告の立て札が立てられていました。

観流橋を渡るとすぐ興聖寺の総門が現れる。総門脇には「曹洞宗高祖道元禅師初開之道場」と刻んだ石柱が建てられている。
曹洞宗の宗祖・道元が宋から帰国し建仁寺に身を寄せていたが、その後天福元年(1233年)京都深草に興聖寺を開創する。しかし深草の興聖寺は、比叡山延暦寺の弾圧を受け、道元は越前に下向し永平寺を創建する。その後興聖寺は数代続くが、結局応仁の乱など兵火を受け廃絶してしまう。
慶安元年(1648)、道元開創の興聖寺の廃絶を惜しみ、淀城主であった永井尚政が宇治七名園の一つの朝日茶園であった現在の場所に再興したのが今ある興聖寺です。伏見桃山城の遺構を移築して諸堂を整備し、また尚政は茶人でもあったので閑寂な境内をつくり三つの茶亭をつくったと伝えられています。

総門を潜ると、緩やかな坂道が続く。この坂道の参道が「琴坂」と呼ばれ、興聖寺を代表する観光スポットになっている。坂の両側にある小さな水路の水音が琴の音に似ていることから「琴坂(ことざか)」と呼ばれるようになった。琴坂はもみじの名所としても知られ、宇治十二景の一つにも数えられています。
琴坂を登りきると、お寺には珍しい門に達する。龍宮造りの門にお堂が乗っかっている様で、興聖寺境内図には「山門(竜宮門)」となっています。

竜宮門の奥から琴坂を眺めます。秋の紅葉時には、約200mの参道が鮮やかな紅葉のトンネルになるそうです。想像するだけですが、真っ赤に染まったトンネルは、まさに絶景といえそうですね。

曹洞宗永平寺派のお寺で、日本曹洞五箇禅林の一つ。本尊は釈迦三尊像。
伏見桃山城の遺構を移築した法堂(はっとう:本堂)には、鴬張りの廊下と、天井には伏見城が落城した際の血染めの板を使った天井が張られているという。
本堂拝観には300円の志納金が必要でが、境内の見学は自由になっている。本堂前の庭園には、宇治川中州の塔の島に建つ十三重石塔再建時に、破損のため使用されなかった旧相輪と九重目の笠石が置かれているそうです(どれかナ?)


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春の宇治平等院とその周辺 1

2017年05月21日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2017年4月5日(水)
京都と奈良の間に位置する宇治の地は、風光明媚な地として知られ、平安時代から皇族・貴族の別荘地だった。宇治といえばお茶と平等院を思い浮かべるが、平等院のある宇治川周辺は桜の名所として知られている。5年ほど前に一度訪れたことがある。宇治川の中に浮かぶ宇治公園中の島を中心に、沢山の露店が並び大勢の見物客で賑わっていました。それを期待して訪れたのでしたが・・・。
源氏物語で有名な地域ですが、何といっても観光の中心は宇治平等院。中に入るのは今回が初めて。平等院をじっくり見学し、時間があるだけ周辺の観光スポットを廻るつもりです。中の島、平等院を含む周辺は、抹茶を味わい茶味ソフトクリームを舐めながら、一日ゆっくりと散策するのに丁度良い範囲。特に春の桜、秋の紅葉シーズンが最適。
今回はタイミングを少し外し、桜の満開には少し早すぎたようです。宇治の桜は京都より少し遅めだとか。

 宇治橋と紫式部像  


京阪電車の中書島駅で京阪宇治線に乗り換え、約15分程で終点の宇治駅に着く。8時半です。駅舎を出るとすぐ横が宇治川で、目の前に宇治橋が飛び込んでくる。まず宇治川を渡り、平等院を目指します。

この宇治川に架かる宇治橋の始まりについて、橋の東詰にある橋寺放生院の「宇治橋断碑」に刻まれている。それによると、千三百年以上昔の大化2年(646)、奈良元興寺の僧道登(どうと)によって初めて架けられたと記されている。わが国最古級の橋で、「瀬田の唐橋」と「山崎橋」と共に日本三古橋の一つに数えられる。
古今和歌集や源氏物語などの文学作品に、絵画や工芸品といった美術作品に描かれ、古くから景勝の地・宇治の象徴として親しまれてきた。その長い歴史のなかで洪水や地震などの被害、さらに戦乱に巻き込まれてきたが、そのつど架け直されてきた。現在の橋は1996年3月に架け替えられたもので、長さは155.4m、幅25m。

橋の中ほどを過ぎた辺りに、上流側に出っ張った場所が設けられている。まるで宇治川、中の島、平等院などを見渡す観望所のようだ。実際は、橋の守り神である橋姫を祀る「三の間」と呼ばれる所だそうです。豊臣秀吉が茶の湯に使う水をここで汲ませたとい逸話があり、現在でも「宇治の茶まつり」で「名水汲み上げの儀」が行われる場所です。
宇治橋を渡りきった西詰に小さな広場が設けられ、巻物を手にする紫式部像と幾つかの石碑が置かれている。「夢の浮橋広場」と呼ばれ、平成16年2月に整備されたもの。
紫式部が書き上げた「源氏物語」は全五十四帖(巻)から成るが、最後の十帖がここ宇治を舞台にしている。「橋姫」ではじまり「夢浮橋」で終わり、「宇治十帖(うじじゅうじょう)」とも呼ばれている。十帖には「橋姫、椎本、総角、早蕨、宿木、東屋、浮舟、蜻蛉、手習、夢浮橋」の名が付けられ、宇治川周辺のそれぞれの舞台だと推定される箇所に石碑が建てられている。ここは最終章「夢浮橋」の推定地で、「夢浮橋之古蹟」の石柱が建つ。宇治川と宇治橋を背にしたこの場所こそ「宇治十帖」を象徴する場所に相応しいのかもしれない。

「宇治十帖」は「源氏物語」の中でもやや異質なので紫式部とは別の作者によるもの、という見解もあるようですが・・・。

 橋姫神社(はしひめじんじゃ)と県(あがた)神社  


夢の浮橋広場から二本の道が分岐している。一本は平等院へ続く参道で、石鳥居のあるもう一本が「あがた通り」と呼ばれる県神社への参道です。
「あがた通り」を150mほど歩けば左側にひっそりと佇む小さな神社が見える。幟がなびいていなければ通り過ぎるところだった。民家の庭のような所に、鳥居と小さな祠が置かれているだけです。
Wikipediaには「646年(大化2年)宇治橋を架けられた際に、上流の櫻谷(桜谷)と呼ばれた地に祀られていた瀬織津媛を祀ったのが始まりとある。当初は橋の守護と管理を任されていた放生院常光寺(通称「橋寺」)敷地内で橋の中ほどに張り出して造営された「三の間」に祀られたが、その後宇治橋の西詰に祀られていた。1870年(明治3年)の洪水による流出後、1906年(明治39年)10月現在の場所に移された」と記されている。
宇治橋の守り神として瀬織津比咩(せおりつひめ)を祀ったのに始まり、いつの頃か橋姫とされたようです。

「あがた通り」の参道を300mほど進むと三叉路に突き当たる。その左角が県(あがた)神社です。
創建の詳しいことは不明のようですが、説明板によれば、古く大和政権の時代に統治領域として「県(あがた)」が置かれ、その鎮守の神社として始まったという。平安時代後期に藤原頼道が平等院を建立する時、その鎮守神としたとされる。江戸時代末までは神仏混交により三井寺(園城寺、大津市)の支配を受けたが、明治維新の神仏分離によって独立した。
1936年に建てられた拝殿。その奥に江戸時代に再建された本殿が鎮座する。
本殿に祀られている祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。縁結び、安産の神としてよく知られている。拝殿脇に華麗な枝垂れ桜が垂れている。名称は「木の花桜」だそうです。そして神社の社紋は”桜”とか。

県神社で有名なのは、宇治を代表する祭りで「暗夜の奇祭」といわれる「県祭り」。私は見たことないのでWikipediaの文を引用すると「宇治の平等院の南門から100mくらいのところにある県(あがた)神社の祭礼で、6月5日の深夜、明かりのない暗闇の中で、梵天(ぼんてん)渡御と呼ばれる儀式があり、町内の男集が、梵天と呼ばれる神輿を担ぐ。この神輿の通過する間は、家々も明かりを落として、それを迎えるため「暗闇の奇祭」と呼ばれている。かつては旧暦5月15日におこなわれ、沿道の家では男女雑魚寝してお渡りを待つので性的行事の祭りとして名高く「種貰い祭」ともいった。」
梵天渡御は本来、宇治神社御旅所→県神社(神移し)→宇治神社へ渡御→県神社(還幸祭)のルートで行われていたが、近年は宇治神社と県神社で別々に分裂開催されているそうだ。宇治神社と県神社の対立があるとWikipediaは記している。

 平等院表参道  



県神社を後にし、元の夢浮橋広場へ引き返す。今度は平等院表参道へ入る。早朝なのか、まだ人通りは少なく静かな参道です。参道の両側には室町期より続く「宇治茶」の老舗が軒を並べている。体験工房やお茶を使ったスイーツのお店も並ぶ。
中ほどには、創業天正年間・将軍家御用御茶師という歴史と伝統を持つ老舗の「三星園上林三入本店」がある。なぜかスターバックスの店までも、場違いな感がします。
平等院表参道を150mほど歩くと、分岐道になる。左へ進むと桜並木の宇治川沿いの土手に出る。右の道を進むと平等院正門へ。

 平等院:阿弥陀堂(鳳凰堂)の内部拝観  


表門があり、横に拝観受付所があります。ここで拝観料を支払い、中に入る。
拝観料金:庭園 +鳳翔館 (平等院ミュージアム) 大人 600円 / 中高生 400円 / 小学生 300円
年中無休,開門 午前8:30 閉門 午後5:30 ※受付終了 午後5:15

阿弥陀堂(鳳凰堂)の内部拝観をしたい場合、この拝観受付所でその方法を教えてくれます。
平等院についてWikipediaに、次のように書かれている。
「京都南郊の宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる左大臣で嵯峨源氏の源融が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。道長は万寿4年(1027年)に没し、その子の関白・藤原頼通は永承7年(1052年)、宇治殿を寺院に改めた。これが平等院の始まりである。開山(初代執印)は小野道風の孫にあたり、園城寺長吏を務めた明尊である。創建時の本堂は、鳳凰堂の北方、宇治川の岸辺近くにあり大日如来を本尊としていた。翌天喜元年(1053年)には、西方極楽浄土をこの世に出現させたような阿弥陀堂(現・鳳凰堂)が建立された。」

平等院創建時の平安時代後期は、末法思想が広がり始める。疫病や天災が続き人々の不安は深まり「末法の世」として悲観された。この不安から逃れるための厭世的な考え方から現世での救済から来世での救済を求めていった。そして極楽往生を願う浄土信仰が社会の各層に広く流行する。皇族・貴族とて例外でなく、藤原頼通も阿弥陀如来を本尊とし西方極楽浄土を想定した仏堂を創った。
創建期には、阿弥陀堂の他に金堂、講堂、法華堂、宝蔵などの多く堂塔が建ち並んでいたという。ただ、その後の戦乱・度重なる災害により堂塔は廃絶した。特に南北朝期の戦いで楠正成が平等院に火を放ち、多くの堂宇が喪失してしまう。そうしたなか、阿弥陀堂と阿弥陀如来像のみが奇跡的に災害をまぬがれて存続しているという。
現在、平等院は特定の宗派に属さない単立の仏教寺院で、平等院塔頭として浄土宗の浄土院と天台宗系の最勝院があり、両寺が共同で管理するという珍しい方式をとっている。これは江戸時代に寺社奉行が取り決めたものだそうです。現在、「古都京都の文化財」として世界文化遺産に登録されいます。

表門を入ると目の前に阿弥陀堂(鳳凰堂)の建物が飛び込んでくる。ただし東向きの阿弥陀堂に対して北側の位置なので北翼廊が見えるだけ。
写真右脇にある建物が内部拝観の受付で、ここで別途料金300円を支払えば、○時○分と書かれた内部拝観券をくれる。即ち予約券です。阿弥陀堂内部は狭いので人数制限が必要です。そのため20分間隔で50名ほどを入れているようです。私の券は「10時10分」とある。現在9時半前なので、50分待ち。境内を一通り見学してくるのに丁度よい時間です。
内部拝観の受付は、通年 受付:9:10~16:10(9:30より拝観開始、以後20分毎に1回50名様)
時期や時間帯によっては数時間待ちもあるようです。一度平等院の外へ出ても、この内部拝観券を持っていれば指定時間までは再入場できるそうだ。


予約時間になると、係員に先導されて反橋を渡り、北翼廊の下で履物を脱ぎ堂内へ入ります。阿弥陀堂内部を自由に動き回ることはできません。内部は一室だけで狭く、阿弥陀如来像の前に整列して係員の説明を聴きます。

入口上部の格子壁に丸窓が開いている。これは、池越しに阿弥陀堂を見たとき、丸窓から阿弥陀如来像の顔が拝めるようにとのこと。以前は、池の対岸(東岸)に鳳凰堂の阿弥陀如来像を礼拝するための「小御所」という建物が存在していたという。
(内部は撮影禁止なので、拝観受付所で頂いたパンフの写真を使いました)
女性の係員が、マイクを使わず大きな声でわかり易く説明されているのが印象的でした。
堂内中央の須弥壇上には、金色の丈六阿弥陀如来坐像が端坐している。平等院の本尊で、国宝です。平安時代最高の仏師・定朝の造仏の多くは戦乱などで失われたが、この阿弥陀如来坐像は定朝のものとして確証できる唯一の遺作と云われる。像高約2.5m、寄木造りで漆箔。両手で定印(じょういん)を結び伏目がちなのは、人々が救われるのを念じているのか、「世は末なり」と嘆かれているのか・・・。

長押(なげし)上の白壁には、雲に乗った小さな菩薩像が掛けられている。ヒノキの一木彫で40~80cmほどの大きさ。それらはいろいろな楽器(琴、琵琶、鼓、笛)を演奏したり舞を舞ったり、あるいは持物(蓮台、宝珠、天蓋)をとったり、合掌したり、印を結んだり、多種多様な姿をしている。極楽浄土の華やかな雰囲気をだすためでしょうか?。全部で52体あり、「雲中供養菩薩像」として全て国宝に指定されています。ここに掛けられている半分は実物だが、残り半数の26体はレプリカで、実物はミュージアム鳳翔館のほうに陳列されている。

阿弥陀如来像の頭上に吊られた天蓋(てんがい)も像とは別個に国宝に指定されている。四角形の天蓋と、その内部の円蓋の二つの天蓋を持つのは非常に珍しいそうです。木造で、精巧な透かし彫りと螺鈿で豪華に装飾されている。
内部の板壁や扉には九品来迎図が描かれ、これも国宝。ただし剥落や変色が著しく、よく分からない。

 平等院:阿弥陀堂(鳳凰堂)の外観  


阿弥陀堂は、阿字池(あじいけ)の中島に東を正面として建ち、中堂、北翼廊、南翼廊、尾廊(中堂背後の渡り廊)の4棟からなる。建物全体が鳥が羽を広げた形に似ていることから、さらに中堂屋根に一対の鳳凰が取り付けられていることから、江戸時代の初め頃から「鳳凰堂」とも呼ばれるようになった。
中堂は二層のように見えるが、裳階(もこし)を付けた単層の建物。正面14.2m、側面11.8mで、本瓦葺きの入母屋造り。屋根の出が非常に大きい。その重みを軽減するため、創建時は本瓦でなく木の瓦だったという。

均整のとれた美しい姿を水面にも映し、人々に極楽浄土の世界を想像さすのに十分です。平成24年(2012年)からの屋根の葺き替え・柱などの塗り直し修理も終え、より鮮やかに美しく蘇っています。

中堂の屋根両端に一対の金銅製の鳳凰像が取り付けられている。時期は阿弥陀堂の創建と同時期であると考えられている。「頭部・胴部・翼・脚部の各部は別々に鋳造され、銅板製の風切羽と共に鋲で留められ組み立てられている。一部に鍍金が残されているが、現在は全体が銅錆で覆われている。円盤状の台座に立つ鳳凰像で、頭部には鶏冠・冠毛・肉垂が表現され、太い眉と鋭い嘴をもつ。首から胴体には魚鱗紋が表現され、頚部には宝珠の付いた首輪がはめられている。風切羽は多くが後補であるが、鋤彫により波並が表現されている」(Wikipediaより)。現在目にするのはレプリカで、実物(国宝)は平等院ミュージアム鳳翔館に展示されています。

美しい鳳凰堂の建物は、昭和26年(1951)より十円硬貨表面のデザインに使用され、よく知られている。そして
左側の鳳凰像は、平成16年(2004)11月1日より発行された壱万円札の裏面に使われている。壱万円札の鳳凰像は、今回調べて初めて知りました。このお札にあまり縁が無いのかナ!(-_-;)
北側より眺める。中堂の左右から回廊が伸び、北翼廊(右)、南翼廊(左)へつながっている。この両翼廊は二階建てだが、実用的な意味は無く全体的なバランスをとる単なる飾りだそうです。内部は何も無いそうです。
南側より眺める。鳳凰堂の前は阿字池(あじいけ)を中心とした庭園となっている。浄土式庭園と呼ばれ、大正11年(1922年)に史跡・名勝に指定されています。平成2年(1990年)からの発掘調査にもとづき、小石が敷き詰められた洲浜(すはま)が復原され、北翼廊へ渡る平橋や反橋や小島も整備された。
庭園といえ華美になりすぎず、あくまでメインの鳳凰堂を引き立たせるよう慎ましやかな構成となっています。
北翼廊の背後から眺める

 平等院(鳳翔館・観音堂・最勝院・浄土院など)  


阿字池南側の高台に梵鐘が吊るされている。平安時代を代表する梵鐘の1つで、全面に天人、獅子、唐草文様などの繊細な浮き彫りを施した他に例を見ない鐘。「姿、形の平等院」と謳われ、「音の三井寺」、「銘の神護寺」と共に「天下の三銘鐘」に数えられている。吊るされているのは複製で、実物(国宝)はミュージアム鳳翔館に展示されています。

梵鐘の吊るされた建物の奥に、一階建ての近代的な建物が見える。これが平等院ミュージアム鳳翔館。平成13年(2001年)にそれまでの「宝物館」に代わり新しく建てられた。梵鐘、鳳凰一対、雲中供養菩薩像(半分26体)の実物が展示されている。いずれも国宝です。平等院を訪れたら、鳳凰堂(中堂)内部とこの鳳翔館だけは外すことはできません。
入口は、浄土院前の階段を登っていく。そこは鳳翔館の地下1階で、主要なものは地下1階に展示されている。二階(実際は地上1階部分)に上がれば出口で、梵鐘堂に出る。
開館 9:00~閉館 17:00(16:45受付終了)。拝観料に含まれているので、別途入館料は必要ありません。

表門を入ったすぐ左にある建物が観音堂(重要文化財)。それまで本堂のあった跡に、本尊十一面観音立像を祀る観音堂が鎌倉時代の初めに建てられた。現在、十一面観音立像(重要文化財)は鳳翔館に移されている。
手前は、長く垂れ下がっていることから「砂ずり藤」と呼ばれる藤棚です。
平等院には塔頭寺院が二つあり、共同で平等院を管理している。その一つが天台宗のこの最勝院。本尊は不動明王。承応3年(1654)京都東洞院六角勝仙院(住心院)の僧が平等院に移り、その住庵を最勝院と呼んだことに始まるという。

最勝院境内の奥まった所に源頼政の墓があります。
源頼政は保元・平治の乱で武勲をあげ、平清盛から信頼され従三位の公卿にまで登りつめた。しかし平清盛と対立していた後白河法皇の第三皇子の以仁王(もちひとおう)が、奢る平家打倒の令旨を発すると源頼政も参画する。治承4年(1180)5月頼政は自邸を焼くと一族を率いて近江の園城寺(三井寺)に入り、以仁王と合流し挙兵する。園城寺から南都興福寺へ向かう途中、宇治平等院で休息していたところに平知盛軍の追撃を受ける。宇治橋の橋板を落として抵抗するが、平氏軍に宇治川を強行渡河されてしまう。頼政は平等院境内に籠って抵抗するが、最後は軍扇をひろげて辞世の句を詠み、西に向かい「南無阿弥陀仏」と唱え、そして腹を切って自害した。齢76歳。
観音堂の北側に、源頼政が軍扇をひろげ辞世の句を詠み自害したという場所がある。「扇の芝」と名付けられ、辞世の句 「埋もれ木の 花咲くこともなかりしに 身のなる果てぞ 悲しかりける」の碑が建っている。毎年5月26日には「頼政忌」の法要が営まれるそうです。

もう一つの塔頭・浄土院は最勝院の南隣です。平等院修復のために明応年間(1492年 - 1501年)に開創された浄土宗の寺。
本堂に小さな観音さんが置かれている。案内板に寄れば、「江戸時代以来、現在の鳳翔館南西角あたりに旅の安全と無事を祈願し、浄土院子院として観音堂が建立されていました。本尊は、波型の台座に船に乗る俗に言う「救世船乗観音」」。旅、航海だけでなく、人生の長い旅路にも大変効験あらたかだそうです。


詳しくはホームページ

信貴山・長護孫子寺 3

2017年04月27日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月29日(火)国宝「信貴山縁起絵巻」で有名な信貴山・長護孫子寺を訪れる

 多宝塔・鐘楼堂  


本堂から山の方へ少し登ると紅い塔が現れる。多宝塔です。中には入れないが,平安中期の僧・恵心僧都(えしんそうず)の作とされる大日如来が祀られているそうです。元禄2年(1689)の建立,明治15年(1882)に修復された。
多宝塔左の道(空鉢護法堂への参道)を入っていくと行者堂に突き当たる。7~8世紀に活躍した修験道の開祖とされる役行者(役小角)が祀られています。信貴山も修験道の霊場として関係深いことから祀られたものと思われます。

色鮮やかな多宝塔の前に,対照的に黒さびた鐘楼堂が建っている。一丈四方の袴腰の上に鐘を吊るした堂がある。梵鐘には“信貴四郎”の鐘銘が刻まれ,「鐘名信貴四郎は天下に第四番の名鐘なり」と謳われていたそうです。貞享4年(1687)の再建。

これから奥之院へ向かいます。多宝塔を挟み左と右に道が分かれている。左の道は,行者堂を経て信貴山の山頂にある空鉢護法堂への参道です。右の道が奥之院への参道で,入り口に「奥之院毘沙門天王道」の石碑が建つ。

 奥之院  



奥之院は情報では,多宝塔から約2キロ,30~40分かかるという。参道というより,なだらかな山道といった風です。15分位で大谷池が現れ,何人か釣りをされている。池を過ぎると緩やかな下り道になる。車一台通れるほどの道幅。やがて広い車道が見えてきた。
地図を見れば「フラワーロード」とある。それほど車は走っていないが,この広い車道に遭遇すれば”奥之院”という神秘的なイメージが壊れてしまいます。
「奥之院」といえば,高野山,室生寺を想起します。いずれも神秘的で厳粛な世界に入っていく,又は登っていくという雰囲気に満ちていた。ここの奥之院はどうだろう。広い車道を横切り,民家のある下界に下っていくのです。お寺から下山する感じです。道脇に何ヶ所か置かれていた丁石が,唯一参道らしい趣を感じさせてくれました。

午後1時半、40分かかり奥之院に着きました。寂れたお寺といった風。
山門を潜ると左側に瓦葺の本堂がある。石鳥居や石灯篭が・・・ここは神社か?。この地はわが国で最初に毘沙門天王が出現した霊地され,本堂に御本尊として祀られている。ただしここの毘沙門天さんは「汗かき毘沙門天王」と呼ばれれています。「聖徳太子が守屋討伐の時、毘沙門天王が阪部大臣に化現して先鋒を振われ、御尊像が汗をかかれていたと伝えられております。よって当山は聖徳太子開基の信貴山奥之院、毘沙門天出現最初の地とされ、ご本尊は「汗かきの毘沙門天王」と呼ばれ、御霊験きわめてあらたかです。」と説明されている。

本堂から奥へ進むと空き地があり,その中に「やけごめ」の石碑が建つ。ここの地中から焼き米が湧出するそうだ。その焼き米は,聖徳太子の物部守屋討伐時の兵糧米だとおっしゃっている。毘沙門天王に帰依しこの焼米を頂けばどんな病気も治るそうです。

この奥之院と朝護孫子寺とはどういう関係なのだろう?。朝護孫子寺の境内図には載っているが,朝護孫子寺発行のパンフ「毘沙門天王の総本山 信貴山朝護孫子寺」(p40)には一言も載っていない。山門脇の説明版には「当院は信貴山塔頭なりしも今は奥之院と称す」と意味深な表現をしている。信貴山朝護孫子寺傘下の一寺院なのか,独立寺院なのか判然としない。建物の修理・再建のための寄付金を募集していることから独立しているようにみえるが・・・。

フラワーロードからの眺め。奈良盆地が一望できます。

 信貴山の山頂へ(信貴山城址)  



奥之院から多宝塔まで引き返し、今度は左の道に入り信貴山の山頂にある信貴山城址と空鉢護法堂を目指します。
約700mの山頂への参道は、かなりの勾配の九十九折りの道だが階段状によく整備されている。参道には多数の朱塗りの千本鳥居が続く。一願成就の願いを込めてか,成就かなっての千本鳥居か。それぞれに献納者の住所・氏名が書き込まれている。所々に丁石も置かれています。

午後3時、約20分ほどで山頂近くの広場に着く。「信貴山城」の白い幟がはためいている。
信貴山(しぎさん)は、雄岳と呼ばれる北峰(437m)と雌岳と呼ばれる南峰(400m)の二峰からなっている。城跡や空鉢護法堂があるのは雄岳。県境に位置し、西側が大阪府で東側が奈良県。金剛生駒国定公園に属しています。かの昔、聖徳太子が河内側(大阪)の物部守屋を攻めた時、この山で毘沙門天が現れ、その御加護で太子は勝利した。太子が信ずべし、貴ぶべしといったことから「信貴山」と名付けられたと伝わる。

この広場の山頂寄りに「信貴山城址」の碑が建っています。ここには戦国時代に山城「信貴山城」が建ち、大和地方をを睥睨していた。この碑の辺りに二の丸が、少し横の山頂に本丸が建っていたという。
標高437mの信貴山は大和と河内の間にある要衝の地。戦国時代の天文5年(1536)に,畠山氏の家臣・木沢長政により山城が築かれた。長政戦死の後,三好長慶の被官・松永久秀が入り修復・改修し,南北700m、東西550mに及ぶ本格的な城郭に仕上げた(永禄2年1559年)。永禄11年(1568年)筒井順慶と三好三人衆に攻められ窮地に陥るが,織田信長によって助けられる。織田信長に臣従したが,天正5年(1577)信長に謀反を起こし総攻撃を受け50日間籠城の末,落城し久秀は自殺する。この戦で長護孫子寺も焼失してしまいます。

 空鉢護法堂(くうはつごほうどう)  




信貴山城址碑の横の参道脇に、八体の石仏像が並んでいます。それぞれの仏像には「破軍星」「明星」などの名が付けれ、「星祭り本尊」と呼ばれている。さぞかし星空が美しく見えることでしょう。
星祭り本尊の前は、赤色の千本鳥居が並び、それを抜けると休憩所の様な建物の中を通って空鉢護法堂のある境内に着く。

「空鉢護法(くうはつごほう)」とは,「信貴山縁起絵巻」の「飛倉之巻(とびくらのまき)」からきている。信貴山中興の祖・命蓮上人が法力(飛鉢の法)で貪欲な山崎長者の倉を空鉢に乗せ信貴山まで飛ばしてしまうという逸話です。空鉢には毘沙門天王の侍従神にして八大龍神の最上首・難陀竜王(なんだりゅうおう)の力が備わっていた。
空鉢護法堂には,空鉢護法の神・難陀竜王が祀られている。難陀竜王は龍神即ち蛇の姿をしていおり,一願成就の神様だそうです。拝殿前にはとぐろを巻いた石造の蛇が置かれている。この蛇をなでると一つだけ願いを叶えてくれるそうです。

山頂だけあって空鉢護法堂前からの眺望も素晴らしい。大和平野が一望でき,南には二上山、葛城山の山々の連なりを遠望することができます。


山頂から西の方を見れば山の頂が見える。あれが高安山だろうか?。予定では,信貴山の山頂から尾根伝いに高安山へ登り,そこからロープウェイで大阪側へ降り帰ることにしていた。現在4時前,高安山までの距離も時間も定かでない。その上天候も曇り。高安山は断念した。仁王門近くの信貴大橋バス停まで引き返し、3時50分のバスに乗る。

詳しくはホームページ

信貴山・長護孫子寺 2

2017年04月18日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月29日(火)国宝「信貴山縁起絵巻」で有名な信貴山・長護孫子寺を訪れる

 塔頭の成福院、玉蔵院  


本坊を過ぎると、小池に架かる小さな石橋があり、その先に屋上に塔をもった朱色のお堂が構えている。これが
朝護孫子寺の塔頭寺院「成福院(じょうふくいん)」です。
その由緒は「塔頭たる成福院の建立時期は不明なものの、後嵯峨天皇とのご縁から1200年代以降と思われ、1577年(天正5年)松永久秀の乱により焼失後、1790年(寛政2年)に再興され現在に至っています」(成福院公式サイトより)
朱色のお堂は、成福院の中心建物の「融通殿(ゆうずうでん)」で、後嵯峨天皇(1220~1272)が御念持仏とされていた「如意宝珠(如意融通宝生尊)」を下賜され祀られている。如意宝珠は、毘沙門天王が左手にもつ宝塔の内に納められているもの。開運・金運・勝運・良縁・子宝・息災延命等々どんな願いも叶えてくださる「融通さん」として信仰を集めています。

融通殿前に、編笠姿の人物と虎の像が置かれている。賽銭壷も。「寅大師」と書かれ「昔よりお金の事を「おあし」とか「寅の子」と言います。虎の足にさわって念じると・・・」と説明されています。賽銭無しでタップリ触っておきました。
成福院手前の小さな石橋は「宝寿橋」と呼ばれている。この周辺は、池、灯籠、植栽、紅葉などにより庭園風になっており、長護孫子寺では一番景観が豊かな場所です。
成福院融通殿前を左に行き建物の下を潜ると、信貴山の宿坊として親しまれている塔頭「玉蔵院(ぎょくぞういん)」がある。玉蔵院の本尊・毘沙門天王が祀られている浴油堂の前を通り階段を登っていくと、高台の上に赤色鮮やかな三重塔と巨大な白い地蔵菩薩像がひと際目につく。色鮮やかな三重塔様式の仏殿には阿悶如来が祀られ、地蔵菩薩像は高さ15mあり「日本一大地蔵尊」と称している。
それらの脇に建つ渋いお堂が玉蔵院融通堂。鎌倉時代に毘沙門天王様より授けられた如意宝珠の玉が祀られているそうです。「如意融通尊」と呼ばれ、「福徳円満・財宝就・如意円満の仏様で、熱心に信仰されますと、どんな願い事でも叶えていただけます」とある。アリガタヤ、アリガタヤ・・・。
玉蔵院融通堂へ向かう階段途中に億円札をくわえた寅の像が置かれています。
「この寅は聖徳太子様にお仕えした満願の寅です。全ての願い事を叶えて頂けるとの由来がございます。本堂に向かって一礼し、寅の足をさすり御真言を三辺お唱え下さい。有難い寅です。
御真言 オン ベイシラマンダヤ ソワカ」と説明されている。
笑ってしまいますネ。この寺で「聖徳太子 = お金」というのがだんだん理解できるようになってきた。
また融通堂の横には「金集弁財天」さまがお祀りされている祠がある。究極のアリガタヤ、”金が集まり融通も効く”弁財天さまだそうです。さすがにお参りする気にはならなかった。
玉蔵院融通堂前からの展望、本堂をはじめ境内が一望できます。

 本堂へ向かう  



成福院へ戻り、石畳の参道を本堂方向へ進む。途中に三宝堂や飛倉館があり、この辺りが広い朝護孫子寺境内の中心部になるでしょうか。イノシシも時々参上するようです。寅とイノシシ、相性が合うのだろうか。


石畳のよく整備された道を本堂の方へ進む。道の両側には朝護孫子寺のご本尊「毘沙門天王」の赤い幟で埋め尽くされている。

イノシシだけでなくスリさんもお参りするようです。金運・勝運祈願で訪れたついでにお仕事されるんでしょうか。おじいちゃん、おばあちゃんが狙われるのでしょう。

本堂が見えてきました。本堂階段の左側には虚空蔵堂、霊宝館、経蔵堂があります。
虚空蔵堂は、石鳥居を潜った先の水屋の脇を登った位置にあるお堂。徳川5代将軍綱吉の生母・桂昌院の寄進により元禄14年(1701)の建立され、虚空蔵菩薩が祀られている。
経蔵堂は現在閉められ、中へ入れない。回転さすことのできる「一切経」を納めた経厨子があるが、熱心な信者さんが功徳を得ようと一生懸命に回されたので壊れてしまったそうです。
一番奥が国宝「信貴山縁起絵巻」を展示した霊宝館。ここだけは拝観料:大人 300円(小人 200円)が必要。ただし見れるのは複製で、実物は奈良国立博物館に委託されている。毎年秋には実物の一部が里帰りし、公開されるそうです。「源氏物語絵巻」「鳥獣人物戯画」と並ぶ日本三大絵巻の一つ「信貴山縁起絵巻」は全三巻からなり平安時代後期(12世紀後半)の作と考えられているが、作者は不詳。信貴山で毘沙門天王を崇めながら修行し、不思議な法力で寺を中興した命蓮(みょうれん)上人の事績を物語風に描いた絵巻。
霊宝館にはその他、国指定重要文化財の楠木正成の兜、鎧袖、後醍醐天皇の皇子・護良親王の喉輪などの寺宝が展示されている。こちらはホンマ物です。

 本堂  


紅葉に彩られた本堂への登り階段。
本堂は,天正5年(1577)に松永久秀の信貴山城落城の際、焼失する。その後「本堂は文禄年中(1592)豊臣秀吉の再建、または慶長7年(1602)秀頼の再建とする説があり、定かではありません。後に修復を加え、延享3年(1746)に完成しました。然るに、昭和26年(1951)不慮の火災で焼失し、同33年(1958)に再建、現在に至っております。」(公式サイトより)

階段を登り正面に周ると、懸け造り(舞台造り)の上に張り出された礼拝所となっている。朱の欄干で囲まれ広々としている。ここからの展望が素晴らしい。
毘沙門天王像(中央)と吉祥天像(右)、善膩師童子像(左) (長護孫子寺発行「毘沙門天王の総本山・信貴山長護孫子寺」より)
毘沙門天は、仏法を守護する四天王および十二天の一尊で、北方を守護する武神。また仏様の言葉も衆生の言葉も等しく聞き届けてくれることから「多聞天」とも呼ばれている。
毘沙門天王がわが国で最初に降り立った地がここ信貴山で,聖徳太子に勝利をもたらした。朝護孫子寺の本尊とされ本堂に祀られている。毘沙門天王を中心に,向かって右に妃とされる吉祥天像,左に子とされる善膩師童子像(ぜんにしどうじ)の三尊で配されている。毘沙門天王像は頭に冑を被り,鎧で身を固めた軍神の姿をしている。そして右手に宝塔をささげ、左の手には如意宝珠の宝棒を持ち、足下に悪鬼邪鬼を踏み付けている。
ただし実際に目にすることができるのはお前立ちで,その奥に中秘仏そして奥秘仏が納められ,特別な行事や時期にはしかご開帳されない。奥秘仏は,聖徳太子が自ら彫刻されたという毘沙門天像で,12年に一度、寅年にご開帳されるそうです。
説明板には「毘沙門天王は七福神のなかでも、商売繁盛、金運如意、開運招福、心願成就の徳を最も厚く授けてくださる福の神です。信貴山毘沙門天王の、ご尊体に鎧兜を召されておられるのは、世の中のあらゆる、邪魔者を退散してやるというお姿で、見るからに恐ろしそうな尊顔は、心を強く持って、どんな苦しい困難に出会っても、がまん強い精神で何事も行なえということを教えておられるのです。また、右手に如意宝珠の棒を持っておられるのは、心ある者には、金銭財宝を意のままに授けて、商売繁盛させてやるぞとの思し召し、左手の宝塔は、この中に充満する福を、信ずる者の願いに任せて与えてやるとの福徳の御印です」と解説されています。
(?? 写真は左手に棒を持つが、説明板では右手に・・・??)

毘沙門天は「寅年の寅日の寅の刻」に現れるということから「寅」と縁が深い。境内どこへ行っても張子の寅を目にする。「百足(ムカデ)」も毘沙門天のお使いとされ崇められている。毘沙門天は金運・財運の神でもあるので,おあし(お金)が沢山あるということから百足(むかで)と結び付けられたようです。
扁額には、百足(ムカデ)の装飾があしらわれ,本堂の欄間のにも百足の模様が刻まれています。

本堂の下をぐるりとまわる「戒壇(かいだん)めぐり」でも知られている。「戒壇めぐり」について公式サイトに次のように説明されています。
「約800年の昔、後に紀州の国根来寺を創建されました覚鑁上人(新義真言宗の開祖)が、当山に籠って修行されました折、毘沙門天王のお告げにより、宝の珠「如意宝珠」を納められたと云われております。
この「戒壇巡り」は、心願成就を祈る修行の道場で、本堂真下の暗闇の回廊です。長さ九間四面三十六間、暗い部分で約60メートル、約5分間でお詣りができます。階段を下りたら、右手を右の壁に当てながら廻り、二番目の角を曲がってください。すると見えてくる灯明の場所には、皆様方の十二支生まれ年の守本尊、即ち千手観音や阿弥陀如来など八体の仏像がお祀りしてあります。ここで、ご自分の守本尊に身体健全、家内安全をお祈りください。次にまた、右手を右の壁に当てながら進んでください。次の角を曲って少し行きますと、又木の格子が手に当たります。その胸の高さに大きな鉄の錠前が掛っております。この錠前に触れますと如意宝珠に触れたと同じ功徳が与えられると言い伝えられ一願成就のご利益が授かります」

本堂右手に「戒壇巡り」の入り口があります。100円支払うと係りの人が親切に巡り方の説明をして下さいます。入り口をカメラで撮ったら,あわてて静止されたが・・・(撮った後でした)。階段を下り本堂地下回廊へ。角を曲がると真っ暗闇,一寸先も見えない。壁の手すりをさすりながらソロリソロリと進んでいく。暗闇は体験できるが,真っ暗な空間を進むというのはそう体験できるものではない。私以外に誰もいていない。不気味さと神秘感とが混ざり不思議な体験が得られる。手に鍵が当たる。格子の奥を見ると,ぼんやりした灯明の中に何か置かれている。こんな所から早く解放されたいという気持ちから,よく見ないで出口へ急ぐ。とりあえず錠前に触れたので,如意宝珠に触れたことになり心願成就のご利益が預かれる。

京都・鞍馬寺の本堂地下にも,似たような真っ暗な地下通路があり,中央辺りの薄明かりの中に壷が置かれていた。鞍馬寺も毘沙門天王をご本尊として祀る寺です。

特に本堂からの眺めは素晴らしく、斑鳩方面の山や町並を一望することができます

本堂横の階段上より境内を眺める。紅葉に染まった境内も綺麗だった。

詳しくはホームページ

信貴山・長護孫子寺 1

2017年04月09日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月29日(火)
久しぶりに山登りをと、近くにある低山の信貴山(しぎさん)を選びました。調べてみると、信貴山と長護孫子寺(ちょうごそんしじ)とは一体になっているようだ。そこで長護孫子寺のお寺参りに変更。長護孫子寺は「毘沙門天」さんで知られ、また国宝「信貴山縁起絵巻」で有名なお寺で、一度訪れてみたいと思っていた。
長護孫子寺は桜の綺麗なことで知られていますが、紅葉もまずまずという。紅葉シーズンも終りに近づいているが、まだ楽しめるだろうと思い、天気も良いので出かけました。

 近鉄・信貴山下駅から開運橋まで  


近鉄・生駒駅で近鉄生駒線に乗り換え、信貴山下駅で下車。8時半です。朝護孫子寺まで歩くか、バスを利用するか思案する。駅前の広い車道を山の方へ登っていけばお寺へ行ける。地図から想定すれば40分くらいか。駅前の路線バスの時刻表を見れば、9時30分発まで1時間待たなければならない。歩こうかと思ったが、奥之院や信貴山まで登るには体力を温存しておかなければならない。結局、バスを使うことに。
10分位で信貴山バス停に着き、そこで下車する。そこから朝護孫子寺の入口・仁王門までかなり歩かされました。仁王門近くの信貴大橋バス停まで乗るべきでした。

朝護孫子寺の入口にあたる仁王門が見えてきました。門手前の右側斜面には、赤い前掛けをつけた沢山の小さな地蔵さんが整列して出迎えてくれます。「千体地蔵」と呼ばれている。室町時代中期から江戸時代にかけてのお地蔵さんとか。
仁王門について公式サイトによれば「信貴山の山門である仁王門です。宝暦10年(1760)に大阪宝栄講が再建、明治14年(1881)に大修理、大正11年(1922)に成福院鈴木恵照師の代にこの場所に移転されました」そうです。

仁王門から真っ直ぐ進めば、寺の中心部へ入れるのだが、左下の大門池の方へ降りてみる。大門池は大門ダムによってできたダム湖です。信貴大橋という紅い橋が架かり、橋を渡るとホテルやお食事、お土産などのある門前町へ行ける。
橋のたもとに、羽ばたいているように見える巨大なモニュメントが置かれている。「西方守護神白虎」とあります。信貴山のある場所は奈良県の西方に当たります。そこで平城遷都1300年祭の際に、キトラ古墳の壁画でも有名になった中国の伝説上の神獣である西方守護神・白虎を設置したようです。また虎(寅)は、毘沙門天王の由来から朝護孫子寺のシンボルでもある。

「信貴山観光iセンター」は、観光案内所兼お土産品の販売所として平成21年(2009)12月に開設された。地域の特産品が並べられ、喫茶・軽食もできる。ここでも張子の寅が目立ちます。
信貴山観光iセンターの横に見える紅い橋が「開運橋(かいうんきょう)」。大門池に架かり、門前町と長護孫子寺とを結ぶ参道でもある。鉄骨を組み合わせたトレッスル橋脚を用いた上路カンチレバー橋で、非常にめずらしい造りのため、平成19年(2007)に土木史上の文化財的価値が認められ、国の登録有形文化財に登録された。

 境内図と歴史  



信貴山観光iセンター前に掲示されている境内図です。信貴山・朝護孫子寺の創起について公式サイトに以下のように記されている。

「今から1400余年前、聖徳太子は、物部守屋を討伐せんと河内稲村城へ向かう途中、この山に至りました。太子が戦勝の祈願をするや、天空遥かに毘沙門天王が出現され、必勝の秘法を授かりました。その日は奇しくも寅年、寅日、寅の刻でありました。太子はその御加護で勝利し、自ら天王の御尊像を刻み伽藍を創建、信ずべし貴ぶべき山『信貴山』と名付けました。以来、信貴山の毘沙門天王は寅に縁のある神として信仰されています。
醍醐天皇の御病気のため、勅命により命蓮上人(みょうれんしょうにん)が毘沙門天王に病気平癒の祈願をいたしました。加持感応空なしからず天皇の御病気は、たちまちにして癒えました。よって天皇、朝廟安穏・守護国土・子孫長久の祈願所として「朝護孫子寺」の勅号を賜ることとなりました。また、朝護孫子寺は、「信貴山寺」とも呼ばれ、多くの方に親しまれています。」

聖徳太子の話は用明2年(587)、醍醐天皇の「朝廷を子々孫々まで守護する」という勅号により寺名「朝護孫子寺」と名付けられたは延喜2年(902)とされる。
平安時代以降は武人の信仰を集めた。戦国時代には、松永久秀が山上に信貴山城を築いたが、織田信長の攻撃を受け落城、朝護孫子寺も兵火で全焼した。その後、豊臣秀頼の手によって再興される。江戸時代に入ると七福神の一人として、「福の神」として多くの民衆から信仰を集めた。

現在の正式名称は「信貴山歓喜院朝護孫子寺(しぎさん かんぎいん ちょうごそんしじ)」。1951年に高野山真言宗から独立し、信貴山真言宗の総本山となっている。大和七福神(信貴山朝護孫子寺、久米寺、子嶋寺、おふさ観音、談山神社、當麻寺中之坊、安倍文殊院)の一つに数えられ、「信貴山の毘沙門さん」、「信貴山寺」などと呼ばれ、”商売繁盛”、”必勝祈願”、”金運招福”、”合格祈願”など民間信仰の場として広く親しまれています。

 絵馬堂・張子の大寅  


信貴山観光iセンターから奥へ進むと絵馬堂がある。安政年間(1854~)に大阪堂島の木綿屋梅蔵によって寄進された建物で、軒下壁面や内部の天井には多くの絵馬が飾られています。現在は、椅子などが置かれ休憩所となったいるようです。奥にはトイレもあります。

絵馬堂前を進み石鳥居を潜ると、本格的な長護孫子寺の境内に入っていく。鳥居奥に本堂の建物と、その手前に黄色い寅の姿が見える。石鳥居、本堂、寅の張りぼて・・・なにか違和感を感じます。

本堂を見上げる絶好の位置に張子の大寅が設置されている。聖徳太子の前に毘沙門天王が出現したのが寅の年、寅の日、寅の刻であったとされ、寅は毘沙門天王の御使いとして朝護孫子寺のシンボルになっている。高さ3m,長さ6mほどあり、世界一大きな張子の寅だそうです。後で知ったのだが、首が電導し掛けで上下左右に動くそうだ。
阪神タイガースの選手が、毎年必勝祈願に訪れる寺としても有名。昔年のユニホームとソックリで、オールドファンには懐かしいが、やっぱり違和感が。

 劔鎧護法堂・開山堂


 絵馬堂の並びに石鳥居と赤鳥居が建っている。鳥居をくぐり,杉林の立ち並ぶ薄暗い坂道を谷間へ降りていく。まもなく紅い旗が揺らめくなかに劔鎧護法堂(けんがいごほうどう)が現れる。

剱鎧童子(けんがいどうじ,護法童子)は毘沙門天さんのお供で,人間の災厄を守護する役目を持つ。国宝「信貴山縁起」の「延喜加持の巻」で、命蓮上人が法力で剣の護法童子を宮中に遣わして醍醐天皇の病を治したという逸話からきている。重い病にかかられた醍醐天皇の枕元に出現すると,天皇の病も治ったということから病気平癒、無病息災の守り本尊として人々の信仰を集め,祀られるようになった。
開山堂へは大寅手前左側にある階段を登って行く。開山堂は本堂と同じ高さになるように小高い丘の上に建てられているため,かなり急な階段を登ることになる。105段あるそうです。

開山堂は享保17年(1722)の建立。お堂へ入ると中央に四角い大柱のようなものがあり、一周できる。正面に信貴山開祖・聖徳太子が、右側面に歓算上人、背面に宗祖・弘法大師、左側面に中興開山・命蓮上人 が祀られています。、さらに堂内には四国八十八ヶ所のご本尊さまもお祀りされている。
開山堂の裏に,一段高く土盛りをされた上に命蓮上人の墓と伝えられる命蓮塚(みょうれんつか)が置かれている。命蓮上人は平安時代中頃,長護孫子寺を中興した高僧です。

開山堂から本堂を眺める

 塔頭・千手院、聖徳太子像とかやの木稲荷  


開山堂の丘を降り,大寅の横を奥へ進むと赤門です。赤門を通ると二手に分かれる。右へ下っていけば塔頭の千手院へ,左へ行けば聖徳太子像,かやの木稲荷,本坊の方へ行ける。

右手に見える朝護孫子寺の塔頭寺院「千手院(せんじゅいん)」は「毘沙門護摩」で知られる。千手院本堂にあたる護摩堂では,真言宗の秘法である護摩祈祷が命蓮上人の開壇以来1100年間毎日欠かさず行われている。「毘沙門護摩」は毘沙門天王を本尊とした護摩であり、信貴山だけに伝わる秘法だそうです。
千手院の左側の小阪を上がっていくと,総本山長谷寺の十一面観世音菩薩の分身を祀った観音堂と銭亀堂がある。
銭亀堂には,金運招福をもたらす銭亀善神が祀られている。ホームページに「授与所で”金運招福銭亀御守”と”壱億円札”が入った銭亀御守を授かり、このセットと財布を石臼にのせて「南無銭亀善神」と念じながら、石臼を右に廻します。 すると金運のまわりが良くなって、大変なご利益があります。毎年一度、4月の第2日曜日に銭亀善神の大祭が催され、金運招福のご利益にあずかれます。」と書かれている。
非常に心動かされる御利益だが,銭亀堂の前にある「三寅の胎内くぐり」のアトラクション?の方に足が向いてしまった。

大寅が入って来いと大口を開けている。三寅とは,毘沙門天出現の寅の年・寅の日・寅の刻を表し,また毘沙門三尊(毘沙門天・吉祥天女・禅貳師)にならい父寅・母寅・子寅を意味しているという。この寅の胎内を潜ると「三寅の福」が得られるそうです。特に入胎料がかかる訳でもないので,何度でも出入りできます。人気無いのか誰も通っていない。入ってみたが,薄暗い10mほどのトンネルの両壁に名言が書き込まれた紙が何枚も貼り付けられているだけでした。
千手院の入り口に戻り,左手の道に入る。塀のように石灯籠がぴったり並ぶ中を進むと聖徳太子像とかやの木稲荷の紅い鳥居が見えてくる。
馬に乗り笛を吹く聖徳太子像が建つ。長崎市平和記念公園の「平和祈念像」で知られる彫刻家・北村西望の造形したもの。この山で毘沙門天王を感得し排仏派の物部氏に勝利し仏教興隆のもとを築いた聖徳太子は、信貴山のシンボルです。
聖徳太子像と並んで大きな榧(かや)の木がそびえる。赤い鳥居で祀られ「かやの木稲荷」と呼ばれている。
「樹齢1500年の榧の木です。蘇我一族と物部一族が政治の実権を握るため争っていた大和朝廷の時代に、一粒の榧の実が萌芽して以来、有為転変する世相を鳥瞰してきた御神木です。この御神木を敬い稲荷社を建立しました」(公式サイト)そうです。 


詳しくはホームページ

鞍馬から貴船へ   (岩倉編)

2017年02月06日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月18日(金)叡山電車で鞍馬へ、義経ゆかりの場所を巡って紅葉の貴船神社へ。時間があったので、帰りに岩倉駅に途中下車し、紅葉で名高い実相院と史蹟・岩倉具視幽棲旧宅に寄りました。

 叡山電鉄・貴船口駅へ  


本宮の方に向かって来た道を引き返します。13時半過ぎ、まだまだ時間はたっぷりあるのでのんびり景色を楽しみながら歩く。
本宮の横を通り過ぎ、鞍馬山へ登る西門を横目に見ながら少し行くとバス停が見えてきた。叡山電鉄・貴船口駅まで、あるいは出町柳駅まで路線バスを利用してもよいのだが、まだ2時前で時間は十分ある。この景色、この天候なので貴船口駅まで歩くことにした。大体、1時間くらいでしょうか。

この道は「貴船道」と呼ぶそうです。車は時々通るくらいで多くなく、気を使うこともない。平日のせいでしょうか、あるいは谷間の狭い土地なので駐車場が少ないためでしょうか。

やがて紅い橋が見えてきた。「梅ノ宮橋」とある。近くの小高くなった所に「梅宮社」という小さな社が建っている、というより置かれているといった様子。梅宮社は貴船神社の末社で、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祀っている。中宮の御祭神・磐長姫命の妹ですが、姉よりあまりにも美しかったためか貴船神社から冷遇されているように見えます。こんな辺鄙な場所に建てられた、吹けば飛ぶような小さな社です。

「貴船道」は「恋の道」とも呼ぶそうだ。「恋の道」から貴船川にせり出すように大きな岩があり、「蛍岩(蛍の名所)」の案内板が立つ。平安の昔、宮廷の女流歌人・和泉式部が貴船神社に詣でた時に通った道で、川沿いに飛ぶ蛍を見て、せつない心情を歌に託している。
 「物おもへば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂たまかとぞみる」
現在も6月中頃に蛍が乱舞するのが見られるそうです。おじさん一人「恋の道」を行く・・・。

紅葉の美しい叡山電鉄・貴船口駅に着きました。

帰りも「もみじのトンネル」区間を撮ってみました。速度を落として運転してくれるので、車内からでも撮れる。ライトアップされる夜間も見てみたいが。

 岩倉・実相院(じっそういん)  



予定より早く鞍馬・貴船を訪ね終え、時間があったので「岩倉実相院」に立ち寄ってみることに。岩倉は叡山電鉄鞍馬線の丁度中ほどになり、岩倉にある「岩倉実相院」は京都の紅葉を紹介する場合必ずでてくる人気の紅葉スポット。
実相院目指して川沿いを歩く。京都市内とは思えないほど、のどかな里風景が広がる。向かいの山は比叡山。柿木が秋を感じさせてくれます。

駅から30分ほどかかり、やっと実相院の門が見えてきた。門前の駐車所には数台の観光バスが停まっている。やはり紅葉の名所だけある。門前に実相院の案内板が建てられているので、要約すれば。
実相院は、鎌倉時代の寛喜元年(1229年)、静基(じょうき)僧正により創建されたとされる。当初は現在の京都市北区紫野にあったが、その後、京都御所の近くに移り、さらに応仁の乱の戦火を逃れるため現在地に移転。その後、兵乱により焼失、衰微していたが、江戸時代初期に足利義昭の孫・義尊(ぎそん)が入寺し再興する。母が後陽成天皇の後宮となった関係で皇室と将軍徳川家光より援助を受けて実相院を再建。その後、天皇家の皇子や皇族が相次いで門主として入られ、門跡寺院として皇室から支援を受け、「岩倉門跡」「岩倉御殿」とも呼ばれていた。
明治に入ると、門跡は廃止され、上知により寺領の多くを失なったという。現在、実相院は元天台宗寺門派の単立寺院。本尊は不動明王(鎌倉時代作の木造立像)

拝観時間 9:00-17:00
拝観料 大人500円、小中学生250円

実相院の見所は、紅葉に彩られた庭園です。その庭園に囲まれているのが客殿(本堂)で、縁側でぐるりと一周できる。まず、客殿(本堂)の東が枯山水式庭園。遠くに比叡の山並みを借景とし、白砂と石、植栽が配された石庭です。2013年-2014年小川勝章氏監修のもと大改修が行われた。説明では「日本国を表現した石組みと苔。こころのお庭」と、わかるかな?(ワカリマセン)

縁側を通って北側に回る。”見頃”時期にまだ早いのかどうかわからないが、まだ緑葉も見られる。紅一色よりも、こうしたグラデーションの紅葉のほうが爽やかさを感じ、好きだな。
突っかい棒が痛々しい。この客殿(本堂)も、1721年に大宮御所の「承秋門院の旧宮殿」からもらったもの。それまで第113代東山天皇の中宮・承秋門院(じょうしゅうもんいん)幸子女王(1680-1720)さまが住んでおられたが、亡くなられたので下賜されたそうです。現存する数少ない女院御所。かなり古いですね。

さらに西側に周ると、客殿(本堂)と歴代の門跡が居住されていた書院に挟まれて、紅葉の綺麗な庭園が現れる。
裏山を借景とした池泉回遊式庭園で、小さいがコンパクトによくまとまっている。青苔、植栽、池、それを被うカラフルな紅葉が調和し美しい。中の池は、その形からか「ひょうたん池」と呼ばれている。日本では数少なくなったモリアオガエルが生息しているそうですが、見かけなかった。この時期、観光客が多く引っ込んでいるのでしょう。

庭園にもまして実相院を有名にしているのが「床もみじ」。
実相院の玄関を上がったすぐの所に「滝の間」がある。客殿(本堂)の一部かな?。ここは板の間で、襖の一部が開放され外の庭園が見える(仕掛けになっている)。黒っぽい床板はピカピカに磨き上げられ、鏡のように庭の紅葉を映し出している。「床もみじ」と呼ばれています。春夏の新緑の時期には「床みどり」となり、冬は「雪化床(ゆきげしょう)」だそうです。「床もみじ」は晴天の時が、「床みどり」は曇空の時が美しく見えるそうです。

1枚撮った後で、撮影禁止なのを知りました・・・(*^^)v。後で写真をよく見ると、右側柱に「撮影禁止」のステッカーが、上の欄間には監視カメラが光っています。時々、”写真撮影はできませんよ!”ってマイクが呼びかけていたのは、このカメラで見てたんだ。この日は、緑も残っており、「床みどり」と「床もみじ」の両方を鑑賞できたようです。

何故、撮影禁止にするんだろう?。フラッシュたかなければ物理的な影響は無いはず。多分、この場所に集中し混雑するからでしょう。京都を代表する紅葉スポット、東福寺の通天橋も今年から撮影禁止になった。幸い、私は前年訪れ、撮りまくったが。確かに、通天橋の上の混雑振りは異常で、お寺が危険を感じるのはわかる。しかし、写真に残し思い出にする、多くの人が望んでいることです。何か別のやり方はないものでしょうか。写真撮れないなら、もう訪れる気がしない。

 岩倉具視幽棲旧宅(いわくらともみゆうせいきゅうたく)  



15時45分、実相院を出て岩倉駅に向かう。帰りは、来た道順を変え横道に入る。実相院から三百メートルほど所で紅葉の綺麗な邸を見かけた。「史蹟 岩倉具視幽棲旧宅」の石柱が建っている。通用門が開いているので寄ってみることに。

岩倉具視(いわくらともみ、1825-1883)は公武合体派として和宮降嫁を推進したが、倒幕急進派の弾劾を受け失脚する。そして文久2年(1862)9月~慶応3年(1867)まで5年間、岩倉の地に隠棲していた。その後復権し明治新政府では要職をつとめた。受付で頂いたパンフには「明治維新の五傑 岩倉具視 再生の地」と書かれている。

開館時間:9:00~17:00(入場は16:30まで)
入場料:一般 300円、中学・高校生および高等専門学校生 200円、小学生 100円
休館日:月曜日(祝日の場合は開館、翌平日休館)、年末年始(12月29日~1月3日)

写真の右奥が入口で、左が主屋の「燐雲軒」。正面に見える紅葉とアカマツに覆われた慰霊碑は、岩倉具視の遺髪を埋葬した塚だそうです。遺髪碑の左(北)側には、具視の子息の具定、具経の碑も建っている。

受付で頂いたパンフによると、岩倉村に隠棲(実相院とか?)した2年後の元治元年(1864)に「大工藤吉の居宅であった現在の付属屋部分を、岩倉具視が購入し、主屋と繋屋を増築して住居とした」とあります。当初は、現在の敷地の半分ほどだったが、少しずつ拡張整備されていった。庭園には、造園家・小川治兵衛の手が加わっているそうです。
昭和7年(1932)に国の史跡に指定される。財団法人岩倉公旧蹟保存会が長年この史跡を守ってきたが、平成25年(2013)に京都市に寄付する。現在、京都市は指定管理者(植彌加藤造園株式会社)にゆだね、一般公開している。

主屋の「燐雲軒(りんうんけん)」は茅葺きの落ち着いた建物。建物の左側(西側)が入口と玄関で、6畳の二室からなり、両側(南北)には縁側が設けられている。質素ながら、どこか気品がある。失脚し隠棲していた邸といえ、並の人物でなかったことをうかがわせる。ここに坂本竜馬や大久保利通が訪れ、相談を重ねていたそうです。

庭園と向き合っている南側の縁側には、座布団が置かれていました。傍に説明書らしきものがあるので、岩倉具視や坂本竜馬などが座った座布団を展示しているのかな、と思ったら見学者用のものでした。

主屋「燐雲軒」(左)と附属屋(右)との間の中庭。
右の附属屋には炊事場、台所、居室がある。正面の廊下は「繋屋」と称され、板戸の奥に浴室と便所が設けられています。

中庭から主屋「燐雲軒」の内部を撮る。障子戸の間は開放され、外の庭園が鑑賞できます。左右の障子戸も内部が大きくくり貫かれ(ガラスがはめられ?)、庭園が見える仕掛けになっている。畳、障子戸そして庭園の紅葉と青葉、美しい空間を作り出している。岩倉具視が住んでいた頃はこうでなく、その後の補修で造作されたものでしょうが、一風の絵になっています。実相院の「床もみじ」よりはるかに勝る。まだ知名度が低いのか、誰もいてません。いつの日か、この「畳もみじ」に見学者が殺到し、撮影禁止にならんことを・・・・。

さあ、大阪へ帰ろう。叡山電鉄・岩倉駅と比叡山






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