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山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

聖護院から真如堂へ 1(聖護院)

2021年12月11日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2021年11月24日(水曜日)
メディアによれば京都も少しは人出が戻ってきているようです。紅葉シーズンになったので、私も京都へ行きたくなった。そこで今回は、京都で未踏の地((^^♪)、平安神宮の裏を歩くことにしました。ここには山伏の元締め・聖護院、新選組発祥の地・金戒光明寺、そして紅葉の美しさで知られる真如堂が並びます。一日のんびり歩くのに丁度良い範囲だが、それでも時間が余ったので、近くの天皇陵と吉田神社まで足をのばしました。

 聖護院(しょうごいん)  



京阪丸太町駅から地上に出ると、鴨川に架かる丸太町橋がある。この橋の上から東方向を眺めた写真。現在は京都大学医学部となっているが、かっては紅葉が錦の織物のように美しいとして有名だった「聖護院の森」でした。森の中にあった聖護院は「森御殿」と呼ばれていたという。大阪の天神の森が「曽根崎心中」の舞台だったように、この聖護院の森は人形浄瑠璃「近頃河原達引」のお俊・伝兵衛の心中事件の舞台です。

橋から東へ丸太町通りを500mほど歩き、熊野神社のある角を北へ折れる。最初の筋を東へ進むとすぐ聖護院が見えてくる。

聖護院の手前に、京都を代表する銘菓「八ツ橋」の老舗店舗が道を挟んで両側にある。
左が「本家 八ツ橋 西尾老舗」、右が「創業元禄二年 聖護院八ツ橋 総本店」
この「「創業元禄二年(1689年)」について、ライバルの老舗「井筒八ッ橋本舗」が根拠のない創業年だと訴えた。一審京都地裁は「聖護院の唱える説が全て誤りだという確実な証拠はない」と井筒屋の訴えを退けた。争いは高裁、最高裁とすすんだが、2021年9月に井筒側の上告を受理しない決定を下し、聖護院八ツ橋の勝訴が確定したのです。ちなみに井筒屋は文化二年(1805年)年創業だという。
銘菓八ツ橋だけでなく、京野菜の代表格で千枚漬けに使われることで有名な聖護院かぶらや聖護院大根もこの辺りが発祥の地と言われています。

■★~・~ 聖護院の歴史 ~・~★■
「当寺の開山は園城寺の僧・増誉である。増誉は師である円珍(814~91)の後を継いで、師が行っていた熊野での大峰修行を行うなど修験僧として名をはせ、寛治4年(1090年)、白河上皇の熊野詣の先達(案内役)を務めた。この功により増誉は初代の熊野三山検校(熊野三山霊場の統括責任者)に任じられた他、更に都の熊野神社の近くにあり、役行者(修験道の開祖とされる伝説的人物)が創建したとされる常光寺を上皇より下賜された。
増誉は、熊野三山検校として、また、本山派修験道の管領として、全国の修験者を統括した。増誉の後も、聖護院の歴代門跡が上皇の熊野御幸の先達を務めた。この間、熊野詣は徐々に隆盛となり、「伊勢へ七たび 熊野へ三たび 愛宕まいりは月まいり」といわれ、愛宕山も修験道の修行場として活況を呈した。」(Wikipediaより)
当初は「白河房」と呼ばれたが、後に天皇を護るという意味の「聖体護持」から2文字を採って「聖護院」と改名され、熊野神社を鎮守社とした。聖護院は熊野の修験組織を束ねて、最盛期に修験道の山は120余り。全国に2万5千ヵ寺の末寺を持ったという。

建仁2年(1202)、後白河上皇の第8皇子・静恵法親王が宮門跡として聖護院に入寺、第4代門主となった。これが聖護院門跡の始まりで、聖護院は明治維新までの37代門主のうち、25代は皇室より、そして12代は摂関家より門跡となられるという皇室と関係の深い門跡寺院となっていった。

聖護院は室町時代から江戸時代にかけてたびたび火災にあっている。応仁の乱(1467-1477)の兵火で焼失後、洛北・岩倉の長谷(現・京都市左京区岩倉長谷町)に移転して再興を図った。しかし、文明19年(1487年)に盗賊の放火によって焼失した。豊臣秀吉の命により洛中の烏丸今出川に移転再建するが、ここも延宝3年(1675)の大火で延焼してしまう。そして延宝4年(1676)に聖護院村に替地が与えられ旧地の現在地に戻り再興された。現在の建物はこの時のもの。

江戸時代後期の天明8年(1788)、「天明の大火」が発生し御所も延焼した。この時、光格天皇は御所再建までの約3年間聖護院を仮御所とされ、宸殿・上段の間で公務をなされた。安政元年(1854)4月の内裏炎上の時には、孝明天皇と皇子祐宮(明治天皇)が聖護院に逃れられ、一時期仮御所として使用された。国の史跡指定をうけ入口正面に「史蹟聖護院旧仮皇居」の石標が建てられています。
明治元年(1868)の神仏分離令、明治4年(1871)門跡号の廃止、明治5年(1872)修験道廃止令と続き、聖護院は天台宗寺門派へ所属させられ、多くの末寺が廃寺となった。しかし第二次世界大戦後に信教の自由が認められ、昭和21年(1946)、独立し修験宗を起こし、さらに昭和36年(1961)に本山修験宗と改め総本山となり、現在に至る。役行者1300年御遠忌を記念し、 数年かけて行われていた寺院の修理が平成12年(2000)に完成し、新しい聖護院に蘇った。

現在特別公開期間(10/1~12/5)で、宸殿と本堂が公開されています。書院は修理中のため公開されていない。

入口の山門は延宝の大火(1675)で焼失後、延宝4年(1676)に再建された。平成12年に修理を受け、しっかりした堂々たる門に新装されている。門の中央と軒瓦に菊の御紋が使われ、門跡寺院だということを印象付けています。

山門をくぐると、左にしだれ桜、正面に松があり、松の後ろに寝殿の入口となる大玄関が見える。白壁の建物が長屋門で、その先に庫裏や、宿泊・お食事ができる御殿荘があります。

山門を入ったすぐ右側に塀重門があり、9時半になると開けられ、中の庭園を無料で見学できます。特別公開の宸殿は10時受付開始なので、それまでの時間、庭園内を見学することに。
すぐ近くの金戒光明寺に、江戸末期に会津藩の京都守護職が駐屯していたので、ここ聖護院はその練兵場として使われていたのでしょうか。

塀重門を入った右脇に「日吉桜」が、左脇に「令和の梅(鹿児島紅梅)」が植えられている。日吉桜は日吉大社(滋賀県)より平成28年に寄贈された固有種だそうです。令和の梅の横には「拝観者の皆様へ」として「どうか境内では堂塔、伽藍、庭苑、環境全てが宗教的空間であることを認識頂き、清心にて御参拝頂き、よい仏縁を結んで頂くことを心から願っております」と結ばれている。不届き者でもいたのでしょうか。

左が寝殿、正面が本堂(護摩堂)です。庭園は寝殿の南庭で、白砂が敷き詰められている。庭の中央に、シートが敷かれベニヤ板が二列に敷かれています。現在、奥の書院が修理中なので、そのための通路のようです。参拝の方は左側を歩いてください、とありました。

広い白砂の庭には、奥に十三重搭、塀際に数本の松と小岩しかありません。というのも、ここは庭園ではなく護摩行などを行う修行の場とされているからです。2月3日節分会と、役行者が昇天された6月7日に、ここで採燈大護摩が行われる。庭の中央に小石を固めた一辺二尺位の方形の基壇が見えます。「この石組みは護摩壇を作る大切な場所です。上に乗らないようにお気をつけてください」と注意書きされていた。
護摩修行とは「仏の智慧を火とし、私達の中にある悪業煩悩を薪と考え、その煩悩を焼き尽くす」ことだそうです(聖護院発行小冊子より)。

よく観察すると、白砂の上に、幾つかの小動物の置物が置かれている。護摩厳修に参加するんでしょうか?。私と違い、この子たちには悪業煩悩があるようにはみえないのですが・・・。

10時になりました。宸殿入口となる大玄関での受付が始まった。といっても私一人だけなんですが。
秋の特別公開(2021年10月1日~12月5日)で、宸殿(狩野派による金碧障壁画100余面)、本堂(本尊不動明王像)が拝観できる。
公開時間:10時~16時受付終了(休止日:10月7~10日、11月29日)
拝観料は大人:800円 、中高大学生:600円、小学生以下:無料

履物を脱ぎ、下駄箱に納めて上がります。

大玄関から上がると、いきなり等身大の山伏が「ようお参り!」と迎えてくれます。門跡寺院と山伏、なんとも不思議な組み合わせだ。

聖護院は修験道(しゅげんどう))の寺として始まった。開祖・増誉やその師・円珍は熊野での大峰修行を行う修験僧だった。天皇の熊野詣を先導し認められ聖護院を賜り、日本最初の修験の本山となった。その後聖護院は熊野の修験組織を束ねて、最盛期に修験道の山は120余り。全国に2万5千ヵ寺の末寺を持ったという。現在、本山修験宗の総本山、即ち山伏の総元締めなのです。役行者(役小角)を開祖とする修験道は、「山岳崇拝の精神を基とし、厳しい山々で修行し、困苦を忍び、心身を修練し、悟りを開いて仏果を得る、という出家・在家を問わない菩薩道、即身即仏を実修する日本古来の宗教です。」(公式サイトより)
修験とは「修行得験」または「実修実験」の略語で、「修行して迷妄を払い験徳を得る 修行して その徳を驗(あら)わす」こと、これを実践する人を修験者、または山に伏して修行する姿から「山伏」と呼ばれる。鈴懸といわれる法衣をまとった山伏姿はこの時のユニフォームです。「この鈴掛は、カッパの無い時代に、少々の雨では体まで濡れない、乾くときの気化熱で体が冷えない等結構山歩きに適した服装なんですよ」(公式サイト)

これから宸殿内部に入ります。宸殿は法親王が居住する門跡寺院の正殿で、現在の建物は延宝4年(1676)に再建されたもの。京都御所の紫宸殿を模した造りなので「宸殿」と呼ばれるようです。

宸殿は五つの間からなっている。大玄関側から「孔雀の間」「太公望の間」「波の間」で廊下はなく、上の写真では左側の建物内部になります。「波の間」を出ると板廊下となり、「鶴の間」(写真中央の板戸の開いている部屋)「謁見の間」(写真右側の板戸の開いている部屋)と続く。各部屋には、狩野山雪の子・狩野永納(1631-1697)と、狩野探幽の養子・狩野益信(1625-1694)による絢爛豪華たる金碧障壁画100余面が描かれている。残念ながら、「謁見の間」以外は写真撮影禁止です。


(襖絵は聖護院発行の小冊子より)
「孔雀の間」は控えの間の一つで、狩野永納により孔雀、牡丹、松、蘇鉄が描かれている。部屋の南側には、皇族や門主が使用した輿(こし)が展示されていた。



(襖絵は聖護院発行の小冊子より)
「太公望(たいこうぼう)の間」も控えの間の一つで、狩野永納により西、北、東の襖三面に別々の中国の物語が描かれています。東面に描かれた「太公望」が部屋名になっている。写真は北面の襖で、陶淵明(東晋・宋の詩人)と彼の好む柳、菊を門前に描き、家人が出迎えている場面。

「波の間」は細長い通路のようになっている。長谷川等伯の「波濤図」を模した波の絵が狩野永納によって描かれている。

(写真は聖護院発行の小冊子より)「鶴の間」は、かって聖護院の宮様が祭礼用に使った広間だったが、明治以降に改造され板張りの仏間とされている。廊下側より外陣、内陣、須弥壇からなり、役行者像、蔵王権現像、不動明王像など多くの仏像が安置されています。

一番奥は「謁見の間」で、聖護院の宮が正式な対面所として使った部屋。この「謁見の間」は、さらに手前から三の間、二の間、一段高くなった上段の間に区切られ、狩野益信の筆による華麗な襖絵が描かれている。ここだけはカメラ撮影が許されています。

一番手前の「三の間」は、九人の仙人が描かれていることから「九老の間」とも呼ばれる。対面者はこの部屋の下手に座し、許されれば二の間手前まで進めたそうです。二の間との間の欄間中央に二か所の穴が開けられている。これは「ネズミ通し」の穴だそうです。襖をかじられたら大変だ。

次が「二の間」です。畳の目が、中央は通路として南北に、左右は侍者の席として東西に向いている。

奥の一段高くなっているのが「上段の間」。天明8年(1788)の天明大火で京都御所も延焼の被害を受けた。御所再建までの3年間、光格天皇が聖護院を仮御所として住まわれ、この上段の間で公務にあたられたという。
床の間には雄大な滝と松が、上段の間から二の間にかけて狩野益信による四季花鳥図が描かれている。正面に後水尾天皇(1596-1680)の筆による「研覃(けんたん)」の額が掲げられている。「覃」とは、鋤や鍬などの農耕機具のこと。人においては己自身のことで、自己をよく磨く(研磨)ことで豊かな人間になれ、ということです。また四隅が丸くなった額装は、他者を傷つける「角」を持たない、ということを表しているそうです。

宸殿から眺めた庭。市松模様の砂紋が美しい。山伏姿の僧侶が竹串で砂紋を描く、宸殿の廊下で皇室ゆかりの宮さまが微笑みながら眺めている・・・絵になるシーンだな。

(不動明王像は受付で頂いたパンフより)宸殿の奥から短い渡り廊下で本堂へ。江戸時代中期に建てられた本堂だが、昭和43年(1968)に、位置、規模、外観を同じままに建替えられた。
本尊の不動明王像(重要文化財)が祀られており、「不動堂」とも呼ばれる。不動明王像は、平安時代後期の作で、智証大師円珍御作と伝わる。檜の寄木造りで、聖護院創建当初から数度の火災を免れ本尊として守られてきた。役行者像、智証大師円珍像(重要文化財)も安置されています。

中庭を挟んで本堂の北側に書院がある。後水尾天皇が側室・逢春門院隆子のために御所に建てた「女院御殿」を、延宝4(1676)年に聖護院が現在地に移転した際に拝領して移築したもの。建築当初の女院御殿の有様をよく伝える事から、昭和31年に建物全体が重要文化財に指定された。

写真のとおり、書院全体が工事用シートに覆われ見学できません。平成30年(2018)9月4日に近畿地方を直撃した台風21号で大被害にあったようです。




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京都・きぬかけの路 3(仁和寺)

2021年05月23日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2021年4月10日(土曜日)
朱山七陵の次は「花まつり」開催中の仁和寺へ。宇多天皇陵などの天皇陵もいくつかあるので訪ねます。

 仁和寺1(歴史と境内図)  



竜安寺を後にし仁和寺へ向かいます。住宅街に挟まれた金閣寺~竜安寺間の道と違い、竜安寺~仁和寺の間は緑におおわれ気持ちよく歩ける。15分ほどで仁和寺の仁王門(におうもん)が目の前に現れ、その豪華さに圧倒されます。

高さ18.7m、重層、入母屋造、本瓦葺で、建築形式は平安時代の伝統である和様で統一されている、そうです。説明版に「和様=日本在来の様式。鎌倉時代(1185-1333)の大仏様・禅宗様建築に対し、奈良時代(710-794)に中国から移入された系統の建築様式」とあります。江戸初期の寛永の仁和寺再興時に、徳川家光の寄進によって建てられた。重要文化財で、知恩院、南禅寺の三門とともに「京都三大門」に数えられている。「仁王門(二王門)」の名前のとおり、左右に阿吽二王の金剛力士像を安置する。背面には、それぞれ唐獅子像も置かれています。

■■■ 仁和寺(にんなじ)の歴史 ■■■
仁和2年(886)、第58代光孝天皇が寺の建立を始めたが、翌年天皇は崩御する。子の第59代宇多天皇(867-931が引き継ぎ完成させ、仁和4年(888)に落慶供養が行われた。当初「西山御願寺」と称されたが、やがて元号をとって「仁和寺」と名付けられた。寛平9年(897)、宇多天皇は第一皇子に譲位し、第60代醍醐天皇として即位さす。昌泰2年(899)、宇多上皇は仁和寺で落髪し出家し、法皇と称した。出家した上皇を「法皇」と呼ぶ最初の例です。この時、真言宗の僧を戒師として出家したのを機に、仁和寺は真言宗の寺となる。
延喜4年(904)、宇多法皇は仁和寺境内の南西に「御室(おむろ)」と呼ばれる僧坊を建て、移り住んだ。「室」は僧坊のことで、法皇が御座する室なので「御室」といわれた。法皇は承平元年(931年)に没するまでここに住み、仁和寺は「御室御所」とも呼ばれるようになる。宇多法皇以降も法親王(天皇の子息・兄弟で、出家した男子)が仁和寺に入り住持し住職を務めた。これは「御室門跡」とも呼ばれ、門跡寺院制度の始まりです。「門跡(もんぜき)」とは、祖師の法統を継承する「一門の祖跡」の意で、皇族や公家が出家し住職を務める寺院、あるいはその住職を「門跡」と呼ぶようになったのです。後には皇室と関わりのある格式高い寺院を表す称号ともなる。この門跡寺院の制度は明治時代に廃止されるまで続いた。
平安時代の後期から鎌倉時代初めにかけて仁和寺は最盛期を迎える。新しく入った門跡は新たな御室を建て、法親王、内親王らの別院、子院などが周辺に造られ、四円寺もこの頃に建てられた。70以上の寺院が建ち並んだという。応仁の乱(1467-1477)で、西軍が陣を敷いた仁和寺は東軍の攻撃を受け、金堂、御室など多くの伽藍が焼失した。仁和寺は焼失を免れた本尊と共に、双ヶ丘の西麓にある西方寺へ移る。
江戸初期の寛永年間(1624-1644)に徳川幕府の支援を受け、旧地の現在地に再興されることになる。御所の建て替えにともない紫宸殿、清涼殿、常御殿などが仁和寺に下賜され、境内に移築、再建された。金堂、御影堂、五重塔、観音堂など現在の建物の多くは、この時の再建による。桜の木もこの頃に植えら、江戸期を通して花見が盛んに行われたようです。
慶応3年(1867)、第30世の門跡が還俗して親王に戻った。これを最後に皇室出身者が仁和寺の門跡となることはなかった。明治4年(1871)、政府は門跡制度を廃止し、門跡の称号も廃された。ここに千年続いた門跡寺院の歴史は終焉したのです。明治20年(1887)に仁和寺御殿(旧御室御所)が焼失したが、その後再建されています。

太平洋戦争末期、「太平洋戦争での日本の敗戦が濃厚となった1945年(昭和20年)1月20日以降、数度にわたり、近衛文麿が仁和寺を訪れ、昭和天皇が退位して仁和寺で出家するという計画について当時の門跡と話し合い、出家後の居所などを検討している。1月26日、近衛文麿の別荘陽明文庫において、文麿と昭和天皇の弟宮・高松宮宣仁親王との間で、昭和天皇の出家について会談がもたれた。霊明殿に掲げられている扁額「霊明殿」の文字は、文麿が仁和寺を訪れた際に揮毫した絶筆である。」(Wikipediaより)。
日本が無条件降伏を受け入れ、天皇を落飾させ仁和寺に入寺させることで天皇の戦争責任を回避しようと密議したのです。結局、GHQは天皇の戦争責任を不問にし、天皇制を存続させた。
戦後、独立し真言宗御室派と称し、その総本山となる。平成6年(1994)には「古都京都の文化財」の一つとしてユネスコ世界文化遺産に登録された。
  所在地 京都府京都市右京区御室大内33
  山号 大内山
  宗派 真言宗御室派
  本尊 阿弥陀如来

(境内図は公式サイトより)仁和寺は大きく二つの領域に分けられる。一つは門跡の住居だった「御殿」、他は金堂、五重塔などの伽藍が配置された境内の北側。

仁王門を潜ると、仁和寺の広い境内が目の前に広がる。境内に入る前に、お金を支払わなければなりません。お寺とはお金の掛かるものです。以前数回来たことがあるが、お金を払ったことはありません。境内だけなら自由に歩けまわれました。春の「御室花まつり」(3月20日(土)~5月9日(日))の期間だけ、境内も有料になっているのです。
「花まつり」だけ、即ち御室桜鑑賞と、金堂、御影堂、五重塔などの伽藍を外から見て周るだけの特別入山料が大人500円です。御殿、霊宝館とセットになった共通券もある。私は、霊宝館をゆっくり見学する時間的余裕が無いのでパスし、「花まつり・御殿」800円を購入しました。なおこの期間、通常非公開の金堂と五重塔の内部が一般公開されている。これは別の場所に受付があります。

 仁和寺2(御殿)  



まず仁王門の傍にある御殿から見学することにします。御殿への入口が写真の本坊表門。慶長年間(1596-1615)の建立で、総ケヤキ造、本瓦葺で重要文化財となっている。門脇に石柱「御室流華道総司庁」が建つ。花を愛した宇多天皇から始まり、歴代門跡が家元となった御室流華道の本部です。

表門から大玄関へ。大玄関には唐破風檜皮葺の立派な車寄が付いている。蟇股や虹梁の華やかな彫刻が目を引きます。ここで靴を脱ぎ、拝観券を提示し室内へ。
本坊とも呼ばれる「仁和寺御殿」は、かって宇多法皇の御室御所があった場所で、歴代の門跡(住職)がお住まいになった所。御殿の内部は、白書院・黒書院・宸殿・霊明殿などの建物が渡り廊下で複雑につながれ、優雅な宮廷生活の一端がうかがわれます。

大玄関の先には白書院がある。説明版に「この建物は、明治二十年(1887)に仁和寺御殿が焼失したため、仮宸殿として、明治二十三年(1890)にたてられたものである。その後、宸殿等の諸建造物が再建されると「白書院」と呼ばれるようになった。」とあります。襖絵は昭和12年(1937)に福永晴帆(1883-1961)が松を主題に四季折々の景色を描いたもの。(現在。**彫刻展と銘うって御殿各所に異様なオブジェが置かれている。白書院内には布地が展示され、非常に目障りだ。こんなクズ物を見に来たんじゃないぞ!)

白書院の縁側から眺めた南庭。砂紋がひかれた白砂が広がり、局所的に松や杉が植えられた簡素な枯山水式庭園。大屋根は仁王門で、中央奥は勅使門です。勅使門は明治20年(1887)御殿焼失で失われたが、大正2年(1913)に再建された。唐破風付き入母屋造、檜皮葺の四脚門で、天皇家ゆかりの訪問者に対してのみ開かれるという。

南庭の北側に建つ宸殿。南庭は宸殿の前庭のように見えます。

白書院の北側から回廊のような渡り廊下がのびている。右へ曲がれば宸殿へ、左へ行けば黒書院です。今にも平安装束のお方が現れそうな雰囲気が漂う。

渡り廊下を右へ曲れば宸殿の南側です。高覧付きの縁があり、その前に南庭の白砂が広がる。宸殿前に「右近の橘」(手前)「左近の桜」(奥)が植えられている。宸殿の南側は蔀戸が閉められ、室内を見ることはできません。

高覧付きの縁が宸殿の周りを廻っている。南から東側へ周ると、池を中心とした池泉式庭園の北庭が見えてきます。北庭は江戸時代中頃に作庭されたとみられるが詳細は不明。明治20年(1887)の御殿焼失からその後の再建時に、庭園も作庭家小川治兵衛(1860-1933) により整備され現在の姿になったようです。京都市名勝に指定されている。

白砂、池、石組、樹木で構成され、手前から茶室「飛濤亭」、中門、五重塔と並ぶ建物を借景としている。枯山水の南庭とは対照的です。
茶室「飛濤亭(ひとうてい))」(重要文化財、非公開)は、江戸時代末に第119代光格天皇(1771-1840)の好みで建てられたという。

宸殿の北側に周ると、戸は開けられ室内を見ることができます。宸殿内部は三部屋からなり、日本画家・原在泉(1849-1916)画伯の筆による四季の風物を描いた襖絵が見られます。
写真は一番西側の上段の間で、床の間、違棚、檜の手彫の欄間、折上格天井(おりあげごうてんじょう)など品格を感じる部屋となっています。門跡のお住まいされる部屋なのでしょうか。左の襖絵は「桜花」、奥の襖には花鳥画「孔雀と牡丹」が描かれている。

黒書院から見た宸殿の北側。宸殿は、江戸初期の寛永年間(1624-1644)に仁和寺が再興された時に京都御所の常御殿を下賜されて移築したもの。しかし明治20年(1887)に焼失したため、大正13年(1914)に亀岡末吉の設計により再建されたものです。

黒書院は「明治20年(1887)御殿の焼失復旧のため、旧安井門跡の寝殿の遺構を移して黒書院としたもので、明治42年(1909)に完成した」と説明書きがある。竹の間、柳の間など6部屋に別れている。「襖絵は、昭和6年(1931)宇多天皇一千年・弘法大師一千百年御忌の記念事業として、堂本印象画伯によって描かれたものである」(説明書き)

黒書院から渡り廊下が奥へ伸び、御殿内で一番奥にある霊明殿へつながっている。

霊明殿は、亀岡末吉の設計によって明治44年(1911)に鎌倉・室町時代の様式を取り入れ建立された仏殿です。檜皮葺の屋根上に露盤宝珠が見られる宝形造り、三間正面の前に階段を設けている。屋根下の白壁の彫刻が印象的でした。正面に掛る扁額「霊明殿」は、太平洋戦争末期に近衛文麿が昭和天皇の出家について相談するために仁和寺を訪れた時に揮毫したもので、彼の絶筆といわれている。

正面障子が少し開けら、室内を見ることができます。ここには本尊・薬師如来坐像(秘仏)と仁和寺歴代門跡の位牌が祀られている。
説明書きに「本尊は薬師如来坐像、秘仏のため実態が不明であったが、昭和63年(1988)の調査で貴重なものであることがわかり、平成元年6月に重要文化財に指定、つづいて翌年6月には国宝に指定された。全高10.7センチ、平安時代後期の円勢・長円の作である」とある。
大きな菊華紋のはいる水引幕の下の須弥壇正面に薬師如来坐像が置かれている。秘仏なので目にすることができるのはお前立の複製像です。本当に小さいので、写真を拡大しないとよく分からない。かって仁和寺の院家であった喜多(北)院の本尊だったもの。香木の白檀を用い檀像で、彩色は少なく大部分は素地仕上げとなっている。頭光に七仏薬師、光背に日光・月光菩薩立像、台座腰部に十二神将立像が浮彫りされているという。

霊明殿から撮った北庭。建物は宸殿。

 仁和寺3(境内)  



御殿を出て境内の伽藍見学に廻ります。中門まで広い参道が続く。いつもはこんなに人出は無くかなり閑散としているのだが、桜のシーズンだけは有料にも関わらずかなりの人です。お寺にとっては御室桜サマサマでしょう。背後の山は大内山。この参道は時代劇のロケ地として使われることも多い。
参道側の右方には、仁和寺所有の宝物数千点を納めた霊宝館があり、毎年、春と秋に一般に公開される。現在、公開中だが鑑賞している時間が無いのでパスします。また右側には一泊100万円で有名となった高級宿坊「松林庵」も・・・夢のまた夢。

参道奥に朱塗りの「中門」が構える。仁王門と比べると単層で小さく簡素な門ですが、それでも重要文化財指定となっている。江戸初期の寛永18年(1641)から正保2年(1645)の建立。ここで「花まつり」の拝観券の提示を求められます。

中門を潜ると、石畳の参道が正面の金堂まで続く。右側に休憩所とトイレがあり、左に御室桜の園が広がっている。

御室桜(おむろざくら)の庭園に入ってみる。通路にはスノコ板が敷かれ歩きやすい。事前のネット情報では「見頃、満開」とあったのだが、来てみると多くはは散った後で、オレンジ色に変色した葉だけが目立っていた。一週間遅かったようです。御室桜は遅咲きの桜として有名で、桜の名所の多い京都で季節の最後を飾るといわれている。例年の見頃は4月中旬となっているのだが、年々桜一般の開花が早くなっているようです。ここ3年ほど桜の満開時期を外しぱなっしだ。

所々に、こんなに綺麗に咲いている桜もみかけます。種類が違うのでしょうか?。約200本あり、「御室有明」「御車車返し」「稚児桜」「妹背」「殿桜」などの種類があるそうです。御室桜は1924年に国の名勝に指定され、「日本さくら名所100選」にも選ばれている。

御室桜の一番の特徴は樹高が低いことです。普通の桜木の半分くらいしか背丈がありません。幹の部分がほとんどなく、枝が地からそのまま伸びている感じだ。よく見ると、根元は盛土されているようです。どうして樹高が低いのか、公式サイトに次のように書かれている。「御室桜は遅咲きで、背丈の低い桜です。近年までは桜の下に硬い岩盤があるため、根を地中深くのばせないので背丈が低くなったと言われていましたが、現在の調査で岩盤ではなく粘土質の土壌であることが解りました。ただ、粘土質であっても土中に酸素や栄養分が少なく、桜が根をのばせない要因の一つにはなっているようです。あながち今までの通説が間違いと言う訳ではなさそうです。詳しくは現在も調査中です。新しい発見がありましたら、おってお知らせしたいと思います。」
「花(鼻)が低い」ことから、鼻が低いお多福にかけて「お多福桜」とも呼ばれます。京都では、背が低くて鼻が低い女性のことを「御室の桜のような」と評され、また俗謡に「わたしゃお多福、御室の桜、はなが低うても人が好く」とうたわれてもいます。

御室桜の起源については平安時代とも、鎌倉時代ともいわれ明確でない。応仁・文明の乱(1467-1477)による荒廃を経て、現在の御室桜は江戸時代初期に植樹されたようです。江戸中期には観桜の名所として知られ、「古くは江戸時代の頃から庶民の桜として親しまれ、数多くの和歌に詠われております。 また、花見の盛んな様子は江戸時代の儒学者・貝原益軒が書いた『京城勝覧』(けいじょうしょうらん)という京都の名所を巡覧できる案内書にも次の様に紹介されています。「春はこの境内の奥に八重桜多し、洛中洛外にて第一とす、吉野の山桜に対すべし、…花見る人多くして日々群衆せり…」と記され、吉野の桜に比べて優るとも劣らないと絶賛されております。そして近代大正13年に国の名勝に指定されました。」(公式サイトより)

御室桜の北側に建つのが観音堂(重要文化財)です。平安時代の928年に建立されたが、その後焼失。寛永18年(1641年)から正保2年(1645年)にかけて再建された。入母屋造、本瓦葺、5間正面に1間の向拝が付く。本尊の千手観音菩薩像、脇侍として不動明王・降三世明王、その周りに二十八部衆が安置されている。また須弥壇の背後や壁画、柱などに極彩色で仏・高僧が描かれているという。内部は非公開。

参道正面の階段を上がった先に金堂が建つ。金堂は仁和4年(888)の仁和寺創建時に建てられたが、その後焼失している。現在の金堂は、寛永年間(1624-1644)の仁和寺再建時に京都御所の紫宸殿(1613年の建立)を移築したもの。屋根を檜皮から寺院風の瓦に変えたり、内部に須弥壇を設けるなどの一部改造が行われているが、宮殿建築の様式を残す貴重な建造物として国宝指定されています。




入母屋造、本瓦葺、正面7間、側面5間、周囲に高欄付き縁が設けられている。南面する正面には向拝と階段が付く。建物の各所に菊の御紋が残っています。紫宸殿は、天皇の元服や立太子、節会などの儀式が行なわれた御所の正殿で、この金堂は現存する最古の紫宸殿の遺構とされる。





金堂西側に、金堂内部と五重塔の拝観特設受付所が設けられている。ここでも終了日の日付が変更され明日が最終日です。めったに見れないので拝観することにした。金堂西側から内部に入ります。

金堂内部は撮影禁止です。内部から外の様子を撮ってみました。
内部は板の間、赤毛氈が敷かれた外陣、一番奥に板敷の内陣がある。内陣の上には天井板がなく船底天井になっている。常駐されているガイドさんの説明では、天皇の声がよく響くように、そしてクセ者が忍び込まないように天井板をつけていない、ということだそうです。

(写真はココからお借りしました)薄暗い内陣には須弥壇が設けられ、阿弥陀如来座像を真ん中に、向かって右側の左脇侍に勢至菩薩像、右脇侍に観音菩薩像からなる「阿弥陀三尊像」(国宝) 、周辺に四天王などが安置されている。
現在の阿弥陀三尊像は徳川家光の時に運節が寛永21年(1644年)に造ったといわれている二代目です。現物である創建当時の「阿弥陀三尊像」(国宝)は霊宝館に所蔵され、現在公開展示中。ガイドさんによれば、現物はお堂に比べ小さく感じられるので、二代目は倍の大きさにされたそうです。
宇多天皇が作らせたという先帝・光孝天皇の等身大像も堂内の東隅にあったが、暗すぎてよく見えなかった。

次は内部をみることができる五重塔へ。江戸時代の寛永21年(1644)徳川三代将軍家光の寄進によって建立されたとされる。重要文化財指定で、地元では「御室の塔」と呼ばれ親しまれている。

塔身32.7m、相輪・宝珠を含めた総高は36.2m。特徴として、各層の屋根の張り出しは一般的には上に行くほど小さくなるのだが、仁和寺の五重塔は各層がそれほど差がない。これは江戸時代の五重塔の特徴だそうです。
通常は非公開だが、五重塔内部が特別公開されていました(有料)。内部公開といっても内部に入れる訳ではなく、外から覗き見るだけです。

(この五重塔内部写真もココからお借りしました)中央の心柱の周りに須弥壇が設けられ、大日如来、無量寿如来などの四方仏が安置されている。4本柱や戸壁には、極彩色の仏画や菊花文様が描かれています。
心柱の真下が見えるように1ケ所開けられ、心柱が礎石に乗っている様子が見られました。木製の柱だけで、これだけ高い搭が支えられているというのは驚きだ。

五重塔の東側に、仁和寺の伽藍を守る鎮守として九所明神(重要文化財)の社がある。現在の社殿は寛永年間(1624-1644)に再建されたもの。本殿・左殿・右殿の三棟が並び、守護神として石清水八幡宮の神などそうそうたる神々が祀られている。

金堂の西側に経典などを収蔵する経蔵(重要文化財)が建つ。本瓦葺、宝形造りで、緑色の花頭窓が印象的な禅宗様建築。

金堂の西側に廻ると鐘楼(重要文化財)がある。寛永21年(1644)の建立。真っ黒な裾袴の上に、お堂のように立派な造りの鐘楼がのる。黒と赤色の対比が鮮やかです。白壁で塞がれ梵鐘は外から見えない。鐘の音はどうやって響き渡るのだろう?。

鐘楼から奥へ進むと「不動明王」が祀られている。この石造りの不動明王は「水掛不動尊」「一願不動尊」とも呼ばれています。説明書きに「この不動明王は、以前堀川まで流れてしまいましたが、不動明王の「仁和寺に帰りたい」というお告げを聞いた人により無事に仁和寺に戻る事が出来ました。この伝承から水を掛ければ一願だけ叶うという、一願不動の信仰があります」とある。この不動明王は特に諸願成就、幼児の難病平癒に霊験あらたかであるという。
また、石不動明王が置かれている岩は「菅公腰掛石」だそうです。。平安時代の901年、菅原道真は太宰府左遷に際して、宇多法皇に最後の別れを告げに仁和寺を訪れたが、法皇は御影堂で勤行中であったため道真はこの石に腰掛けて法皇を待ったことに由来するそうです。宇多天皇は道真を引き立て重用し、二人は親密な関係にあったのです。

不動明王の西側に建つのが御影堂(重要文化財)。鎌倉時代の1211年に創建されたが、その後焼失。現在の建物は、江戸時代の寛永年間(1624-1644) に再建されたもの。公式サイトに「鐘楼の西に位置し弘法大師像、宇多法皇像、仁和寺第2世性信親王像を安置します。御影堂は、慶長年間造営の内裏 清涼殿の一部を賜り、寛永年間に再建されたもので、蔀戸の金具なども清涼殿のものを利用しています。約10m四方の小堂ですが、檜皮葺を用いた外観は、弘法大師が住まう落ち着いた仏堂といえます。」とある。

 宇多天皇大内山陵  



仁和寺の次は、仁和寺を創建した宇多天皇の陵墓へ向かいます。陵墓は仁和寺背後の大内山にあるのは分かっているのだが、そこへの道順がネットを調べてもよく分からない。宮内庁のページには「仁和寺西門から北へ0.1kmの参道入口を住吉山,東谷へ1km」と書かれている。
ここは仁和寺西門です。西門脇に「宇多天皇陵参道」の標識が立つ。西門にはこの桜の季節だけ特設受付所が設けられ拝観料をとっている。この受付のおばさん(失礼!)に「宇多天皇のお墓へはこの西門から行けますね?」と尋ねてみた。すると「そりやぁ、ケモノミチだからおすすめしないですね」と返ってきた。不安がよぎる。ケモノミチとは、狭い山道を登るかっての参道のことらしい。近年、大内山背後の原谷方面へつながる市道(千束御室線)が開通し、この市道を利用すればケモノミチを避けられるようだ。地図を頼りに市道へ出ることにする。

仁和寺の塀にそって100mほど行くと写真のような分かれ道になる。ここが宮内庁ページにある「西門から北へ0.1kmの参道入口」らしい。入口らしい左側の暗い道に入る。地図では、右に曲がっても市道に出れるが、遠回りだ。分かれ道の間に聾学校がある。

すぐ右側に階段が現れ、これを上ると聾学校の塀で、塀に沿って進む。階段でなく、左の道へ入って行くのが旧参道のケモノミチなのだろうか?。

聾学校の敷地が切れる辺りで右側を見れば、陵墓構えのような一角が見える。正面に廻ると「御室陵墓参考地」という宮内庁の立札が立つ。後で調べると、光孝天皇が候補者となっているようです。

陵墓参考地を過ぎると市道が現れる。この市道を10分ほど歩くと曲がり角に階段が見えている。標識などありません、何の階段?。地図をよく見ると、市道はこの先つづら折れの急旋回を繰り返しながら登っている。この階段はつづら折れの坂道を避ける近道に違いないと、直感した。傾斜度45度以上ある急階段で、恐怖を覚えました。


急階段を登りきると市道が現れ、私のカンはピッタリでした。そして目の前に、ネットでよく紹介されていた登り口が見えているのです。この登り口には「宇多天皇大内山陵参道」の標識が置かれています。標識の文字は天皇への敬意が足りないように感じるが・・・。



登り口から入ると、そこは赤茶けた土がむき出しのデコボコ坂道だ。これは道ではない、まるで溶岩流の痕のようです。これがいやしくも天皇陵への参道といえるのでしょうか。天皇陵の参道といえば、石畳、砂利道などお金をかけよく手入れされているものです。さっきの標識名といい、この溶岩道といい、宮内庁は宇多天皇へ何か含意をもっているのでしょうか。天皇への崇拝の念を抱かない私さえ、憤慨を覚えます。

こうし赤土の坂道が200mほど続き、そこからは平坦な普通の山道がさらに400mほど続く。平坦な道から少し下ると、薄暗い山中に突然陵墓が現れた。素晴らしく見晴らしの良い山上に築かれた一條天皇・堀河天皇の陵墓を見てきた後だけに、寂寥感漂う山中に墓が造られた宇多天皇に同情します。
仁和寺西門から25分で到着した。想定の半分で済んだのは、あの急階段のおかげです。

陵墓はさらに一段低くなった場所に造られている。
第59代宇多天皇(うだてんのう、867-931、在位:887-897)は第58代光孝天皇の第七皇子。臣籍降下(皇室から離れ臣民になること。天皇は子供を生みすぎて子孫が多い。養うのが大変になってくるので野に放ち自立さす。源氏や平氏の起こりとなる)し源姓を得て「源定省(みなもとのさだみ)」と称した。仁和3年(887)、父・光孝天皇が病に倒れる。周囲からの推挙を受け、定省は皇族に復帰して親王宣下を受け立太子した。すぐ父が崩御したので21歳で即位する(第59代宇多天皇)。仁和4年(888)には、父・光孝天皇の意を引き継ぎ仁和寺を創建する。
即位後は、実権を関白・藤原基経が握っていたので天皇は思うように政務を実行できなかった。しかし寛平3年(891)に基経が死ぬと、天皇は讃岐守として赴任中だった菅原道真を呼び戻し抜擢重用し天皇親政を始めた。藤原氏の勢力を抑えて摂関政治の弊害を改め、綱紀を粛正し、民政に努め、文運を興し、後世に「寛平(かんぴょう)の治」と称賛される。

寛平9年(897)7月に突然、13歳の皇太子敦仁親王を元服させ、即日譲位(第60代・醍醐天皇)し、太上天皇となる。31歳の時です。
昌泰2年(899)、宇多上皇は仁和寺で落髪し出家し、日本で初の法皇となった。
昌泰4年(901)正月、時平の讒言で道真は失脚し太宰府へ左遷される。宇多法皇は内裏宮門に座り込み抗議したという。
延喜4年(904)、宇多法皇は仁和寺境内の南西に「御室(おむろ)」と呼ばれる僧坊を建て、移り住んだ。そして高野山、比叡山、熊野三山にしばしば参詣し、仏道修行に明け暮れたという。
承平元年(931)7月に仁和寺御室で崩御。65歳。仁和寺裏山の大内山で火葬されたが、拾骨されないまま土を覆って陵とされた、と記録されている。その後、陵の所在地は不明になっていたが、幕末の「文久の修陵」で現在の場所を定め、陵墓が造営された。
御陵名は「宇多天皇大内山陵」(おおうちやまのみささぎ)、宮内庁の公式陵形は「方丘」。

陵の周りを細道が廻っており、一周できます。どこから眺めてもただの平坦な雑木林にしか見えない。ただ雑木林の一部を掘り込み窪地が造られている。陵形の「方丘」らしく見せるためだろうか?。







 福王子神社  



光孝天皇陵から「きぬかけの路」に戻る。といっても「きぬかけの路」の名称は仁和寺までなので、本来の車道「衣笠宇多野線」です。この車道を西へ300mほど行くと宇多野の交差点にでる。交差点の北東隅にあるのが福王子神社(ふくおうじじんじゃ)。福王子神社は仁和寺と深いつながりがある。つまりこの神社にお祭りされているのは、第58代光孝天皇の班子(はんし、833-900)皇后で、仁和寺を創建された宇多天皇の母親になる方です。
見えている石鳥居は江戸初期の1644年建立で、国の重要文化財。

狭い境内に四方吹き放し舞殿風の大きな拝殿が建つ。正面三間、奥行き二間の長方形になっているのが特徴。寛永年間(1624-1644)の建立で国の重要文化財となっている。
福王子神社の由緒書きに「この御神殿は寛永二十一年今から三百三十年前三代 将軍徳川家光公と仁和寺法王覚深親王が仁和寺 大伽藍と共に新たに御造営された社殿で、それ以前は 深川神社(本社末社共)と申上げ平安朝時代からあつた 神社で延喜式の社号がございました、が、應仁の戦乱で惜くも すっかり焼失してしまいました。現在の福王子神社はこの深川 神社の後身であり、御再建以来、仁和寺歴代親王の崇敬あつく 今日も尚お祭には奉幣の儀が行はれて居ます。」とあります。つまり、江戸時代の初期、寛永年間(1624-1644)の仁和寺再興時に一緒に造営されたようです。

中門の後ろに見えているのが一間社春日造りの本殿。寛永21年(1644)の建立で国の重要文化財です。
御祭神は「福王子大明神班子皇后」。通称”ふこっさん”と呼ばれ近隣旧六ヶ村の氏神であるとともに、仁和寺の守護神とされる。班子皇后の陵墓がこの近辺にあったことから御祭神としたようです。また「福王子」の名は、班子皇后が多くの皇子皇女を生んだ事に由来する。

本殿左側は境内社の「夫荒社(ぶこうしゃ)」。平安時代に毎夏洛北の氷室より御所宮中へ氷を献上する習わしがあり、氷を運ぶ役夫がこの辺で疲労により力つき息絶えた。その霊をまつり、人々の安全を祈願するための社、と説明されている。

 円融天皇後村上陵  




福王寺交差点で北方向への道に入る。ちょうど福王子神社と交番とに挟まれた道です。200mほど行くと、左側に陵墓が見えてくる。

第64代円融天皇(えんゆうてんのう、959-991、在位:969-984)は第62代村上天皇の第5皇子で、母は右大臣藤原師輔の娘・中宮安子。冷泉天皇の同母弟。諱は守平(もりひら)康保4年(967)、9歳で皇太子となり、安和2年(969)、兄の冷泉天皇の譲位をうけて円融天皇として即位する。天皇はまだ11歳と若かったので大伯父にあたる太政大臣藤原実頼、師尹の藤原摂関家が政治を主導した。二人が死去した後、伊尹の弟である兼通と兼家の兄弟間で摂関職を巡る内紛が起こる。これにより摂関家は次々と自分の娘を女御として入内させたが、結局皇子を生んだのは兼家の娘詮子のみであった(生まれた皇子は懐仁親王、後の第66代一条天皇)。

藤原氏の勢力争いに翻弄された円融天皇は、永観2年(984)に息子の懐仁親王の立太子を条件、兄・冷泉帝の皇子師貞親王(第65代花山天皇)に譲位し、太上天皇となる。上皇となってからは詩歌管絃の遊楽や石清水八幡宮・石山寺・南都(奈良)の諸寺への御幸を行っている。和歌を愛好し、『拾遺集』以下の勅撰集に24首入集。ほかに『円融院御集』も伝わる。
寛和元年(985)8月、出家し法名を金剛法と称し、以後勅願寺である円融寺に住む。死後「円融院」と追号される。
正暦2年(991)2月12日、仁和寺の一院である御願寺の円融寺にて崩御、宝算33歳の若さだった。

991年2月に円融寺(現在の龍安寺付近)で亡くなると、円融寺の北原で火葬されたという。現在でも、龍安寺裏の朱山に円融院火葬塚が残っている。その後、遺骨は父の眠る宇多野の村上天皇陵の麓に葬られたとされる。その後、陵の所在地は不明となり、幕末の文久の修陵でも決められなかった。明治22年(1889)、現在地に決定され、父の村上天皇陵とともに陵墓が造営された。陵名は「円融天皇後村上陵(のちのむらかみのみささぎ)」、陵形は「円丘」、所在地「京都市右京区宇多野福王子町」

 村上天皇村上陵  



次は円融天皇の父親・村上天皇のお墓です。円融天皇後村上陵からさらに山側に上って行きます。一本道なので迷うことはない。やがて右手に妙光寺が見え、そこから山中に入っていく。入口に天皇陵への案内標識が建つ。村上天皇に対してもう少し敬意を表する文字であってほしいナ。

入口からは長い石段の参道が続く。九十九折の石段で、朝から歩き続けている身にはかなりこたえます。ただよく整備された石畳の石段で、さすが金をかけた天皇陵への参道だと、感心させられました。それに対してあの宇多天皇のお墓への道は・・・。

15分ほど登るとようやく山中を抜け、南面する陵墓が現れた。山上のようだが、樹木にさえぎられ見晴らしは良くない。
第62代村上天皇(926-967、在位:946-967)は第60代醍醐天皇の第14皇子。諱は成明(なりあきら)。第61代朱雀天皇の同母弟。村上源氏の祖。 母が太政大臣藤原基経の娘だったことから重んじられ、14番目の皇子ながら誕生した年に親王宣下され、天慶7年(944)に19歳で皇太子となる。天慶9年(946)4月、継嗣がいなかった兄・朱雀天皇の譲位により即位した(21歳)。
先帝に続いて天皇の外叔父藤原忠平が関白を務めたが、天暦3年(949)に忠平が死去するとそれ以後は摂政関白を置かず、みずから政務をとって天皇親政を目指した。財政状況は悪化していたので徴税の徹底や歳出の削減に努め国家財政の健全化をめざし、天災、悪疫の流行などで乱れた社会の治安維持に務めた。この治世は後に「天暦の治」と讃えられた。しかし実際には、摂関家である藤原実頼・師輔兄弟が実権を握っており、天皇の親政は形だけのものであったとも言われている。

村上天皇は歌と女性を愛し、多くの女御(側室)を持ち、たくさんの子供をもうけた。その子供たちは皇室を離れ、武将「村上源氏」として活躍する。また詩歌、書、琵琶、笛にも精通した文化人天皇だったようです。「文治面では、天暦5年(951年)に『後撰和歌集』の編纂を下命したり、天徳4年(960年)3月に内裏歌合を催行し、歌人としても歌壇の庇護者としても後世に評価される。また『清涼記』の著者と伝えられ、琴や琵琶などの楽器にも精通し、平安文化を開花させた天皇といえる。天皇の治績は「天暦の治」として後世景仰された。しかしその反面、この時代に外戚政治の土台が一段と固められ、吏治にも公正さが失われた。また天徳4年の内裏焼亡をはじめとする数々の災難もあった。」(Wikipediaより)
康保4年(967)5月25日、譲位を行うことなく在位のまま崩御、宝算42歳でした。

967年5月25日、村上天皇は亡くなる。6月4日、山城国葛野郡田邑郷(たむらのごう)北長尾に土葬され、陵戸5烟が充てられた。陵上には樹木が植えられた、という記録が残る(『日本紀略』)。その後、中世、江戸時代には陵の所在地は不明になっていた。幕末の文久の修陵でも確定せず、明治22年(1889)6月、陵は現在地に決定された。万世一系の天皇主権を唱える大日本帝国憲法(明治憲法)が公布された年です。
所在地は「京都府京都市右京区鳴滝宇多野谷」、陵名は「村上天皇村上陵(むらかみのみささぎ)」、陵形は「円丘」。「村上」はこの場所の古い在所名で、天皇名の追号にも使われた。


「京都・きぬかけの路」完

ホームページもどうぞ

京都・きぬかけの路 2(等持院・竜安寺)

2021年05月07日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2021年4月10日(土曜日)
金閣寺の次は等持院から竜安寺へと訪ねます。また朱山七陵と呼ばれるいくつかの天皇陵があるので寄ってみる。

 等持院(とうじいん)  



二条天皇香隆寺陵から西へ300mほど行けば、室町幕府を開いた足利氏ゆかりの等持院がある。

等持院は足利幕府を築いた足利尊氏が、暦応四年(1341)に天龍寺の夢窓国師を開山に迎えて建立した等持寺が始まりです。延文3年(1358)に尊氏が亡くなり等持寺に葬られると、尊氏の法名をとって名称を「等持院」と改称し、足利将軍家歴代の菩提寺となった。その後、応仁の乱(1467-1477)の戦乱や室町幕府の衰退に伴って次第に衰微していった。
慶長11年(1606)に豊臣秀頼によって復興された。その後、文化5年(1808)の火災によって多くの建物を焼失したが、文政年間(1818 - 1831年)に復興する。明治時代になると廃仏毀釈により境内地と塔頭の多くを失い現在の規模になった。山号を「萬年山」と称し、臨済宗天龍寺派に属する。

南に面する山門から入り、参道を進むと墓地が見える。その墓地の隅に立派な銅像が建っている。足利尊氏やと思いきや、「マキノ省三先生像」と刻まれていました。
牧野省三(1878-1929)は大正10年(1921)、日活から独立し等持院境内の塔頭跡に撮影所を開設し、多くの時代劇を制作し「日本映画の父」といわれました。撮影所は昭和8年(1933)まで存続し、尾上松之助、阪東妻三郎、嵐寛寿郎などを輩出した。この銅像は1970年に太秦から移設されたもの。

総門を潜ると、禅寺に見られる庫裏が建つ。屋根の丸瓦には足利家紋の「丸に二つ引き両紋」が。
庫裏が内部への入り口で、履物を脱ぎ上がると拝観受付がある。
拝観時間:9:00~16:30(16:00受付終了)年中無休 ※12月30日~1月3日は9:00~15:00(14:30受付終了)
参拝料:大人 500円、小人 300円

出たァ、達磨大師。嵐山・天龍寺で初めて見たときはびっくりしたが、二度目なので驚きはしなかった。天龍寺の元管長で等持院の住職でもあった関牧翁(せき・ぼくおう)老師が中国禅宗の開祖である達磨大師を描いたものです。

庫裏と棟続きで本堂にあたる「方丈」がある。この建物は、もともと福島正則が元和2年(1616)に妙心寺塔頭海福院に客殿(方丈)として建立したもの。文化5年(1808)の火災で等持院の建物が焼失した後、文政元年(1818)に等持院に移築された。
襖絵は江戸時代初期の狩野興以(かのうこうい、?-1636)の作で、海福院より建物とともに移された。マキノ省三が方丈を映画ロケに使用した際にかなり破損したが、今日修復され、年一回の寺宝展で公開されている。

方丈の北側に周ると夢窓疎石(1275-1351)の作庭と伝わる池泉回遊式庭園が広がる。庭園は尊氏の墓を境にして、東庭と西庭に分かれています。正面に見える建物は書院で、書院の縁側には履物が用意され、庭へ降り庭内を回遊できるようになっています。

(左下にオレンジ色のスリッパが置かれている)書院前の西庭。蓮の花の形(芙蓉とも)をした芙蓉池(ふようち)を中心に、中島、石橋、石組、植栽が配された鑑賞用の庭園。「書院に坐して茶の香りを愛でながら眺めるこの庭を引き立てるのは、寒の頃から春先にかけ咲きはじめる有楽椿(侘助)、初夏のさつき、七月頃からのくちなしの花、初秋の芙蓉の花などで、それらが清漣亭の前庭の景色に彩りを添えている。」(パンフより)
書院は開け広げられ、敷かれた赤毛氈に座り庭園を眺めることができる。申し込めばお茶菓子もいただけます。

西庭奥の高所に建つ茶室「清漣亭(せいれんてい)」。尊氏公百年忌の長禄元年(1457年)に足利義政が建てたもの。文化5年(1805年)の火災で荒廃していたが、その後再建された。足利義政好みの茶室で、芙蓉池を中心とした庭を眺めながら茶を嗜んだという。

この清漣亭は水上勉原作による映画「雁の寺」(若尾文子)の舞台になっている。福井県生まれの水上勉は、少年期に等持院に預けられ小僧となり、寺の蔵書の小説本を無断で貪り読み文学への関心を持ったという。マキノ省三の映画撮影の手伝いもさせられている。その後、等持院から脱走、還俗し、立命館大学に入学している。

庭に降り、園内をを歩いてみます。これは西側から見た東庭で、白壁の建物は霊光殿。鑑賞用の西庭と違い、「心字池(しんじいけ)」を中心に草木が生い茂り閑静な中を散策するのに適した庭になっています。
心字池とは草書体の「心」の字をかたどって作られた池をさし、鎌倉、室町時代の庭によく見られ、西芳寺(こけ寺)、桂離宮のものが有名。実際に心字形でなくとも、池の中に中島を置き、岸辺のどこから眺めても全形が見えないような複雑な形の池をいうこともあるそうです。この東庭もいくつか中島が配され、庭の全体像がつかみにくくなっている。

東庭を南側から北方向を眺めると、樹木の間から建物が少し見えます。かって衣笠山を借景とした美しい庭園だったが、立命館大学衣笠キャンパスの学舎建設により失われてしまった。写真のように樹木を高く伸ばし校舎を隠している。また衣笠山から池に引いていた水路も絶たれ、現在は井戸水をくみ上げて循環させているそうです。
東庭には特に楓の木が多く見られ、秋の紅葉時期には池の周りが真っ赤に染まる風景が思い浮かんでくる。



東庭の北側に、高さ5mの十三重塔が建つ。室町幕府将軍十五代の供養塔で、足利歴代将軍の遺髪を納めている。
南側に周ると、東庭と西庭の境目に足利尊氏の墓が建つ。四重の基壇の上に蓮華の紋様が彫られた宝瓶がのる宝筐印塔。一番上の台座には「延文三年(1358年)四月等持院殿贈太相国一品仁山大居士」とある。江戸時代の勤王志士・高山彦九郎(1747-1793)は、尊氏の罪状を数えながらこの墓を鞭で打ったという。

方丈の東側に建つのが霊光殿。「足利尊氏公が日頃念持仏として信仰された利運地蔵尊(伝弘法大師作)を本尊として、達磨大師と夢窓国師とを左右に、足利歴代の将軍像(5代義量と14代義栄の像を除く)が、徳川家康の像と共に両側に安置されている。」(パンフより)
42才の厄除けとして造らせた家康の像は、自らの祈祷所である石清水八幡宮豊蔵坊に置かれていたが、明治の廃仏毀釈によって豊蔵坊が廃止されたためにここにに移されたもの。

幕末の文久3年(1863)2月23日未明、足利三代木像梟首事件が起こる。武士の時代を築いた鎌倉幕府、室町幕府を朝敵とみなし、尊皇派の志士が霊光殿に侵入し、足利尊氏・義詮・義満三代の木像の首を引き抜き、位牌ととも持ち去った。そして目は刳りぬかれ、首には位牌が掛けられて鴨川の三条河原にさらされ、「逆賊」の宣告文の立札が添えられていた。木像の首はすぐに寺に戻され、犯人は逮捕されたが朝廷、長州藩の介入により軽い処分で済んだという。

 竜安寺 1(石庭)  



等持院西側の住宅路を北へ上り「きぬかけの路」へ戻る。数分歩けば竜安寺の入り口が見えてくる。竜安寺は、禅宗の臨済宗妙心寺の境外塔頭寺院。

もともとこの辺りは徳大寺家の山荘だった。この山荘を足利将軍の菅領職にあった細川勝元(1438-73)が譲り受け、宝徳2年(1450)敷地内に龍安寺を建立したのが始まり。開山(初代住職)には妙心寺第5世の義天玄承を迎えた。応仁の乱(1467-77)が起こると、勝元は東軍の総大将だったため、龍安寺は西軍の攻撃を受け、応仁2年(1468)に龍安寺は焼失。勝元の死後、その子・細川政元(1466-1507)によって再興され、明応8年(1499)に方丈を建立、石庭もこの時に築造されたと伝えられる。その後、織田信長、豊臣秀吉、徳川家らが寺領を寄進するなどし、最盛期には23の塔頭をもつほどに寺運は栄えたという。。しかし、寛政9年(1797)に起こった火災で方丈、開山堂、仏殿など主要伽藍が焼失した。そのため、塔頭の西源院の方丈を移築して龍安寺の方丈とし、現在に至っている。
明治になり廃仏毀釈によって境内地は縮小し衰退したが、その後、庫裡や仏殿が再建された。昭和50年(1975)、イギリスのエリザベス女王夫妻が龍安寺を訪れ石庭を鑑賞になり大絶賛された。それを英国BBC放送が大々的に取り上げたことで、名園として世界中に知れ渡り、海外からの観光客が多数訪れるようになる。平成6年(1994)にはユネスコの世界遺産「古都京都の文化財」に登録された。

入り口を入っていくと山門が現れ、この山門脇に拝観受付がある。
拝観時間: 3月1日~11月30日  8:00a.m - 5:00p.m.
      12月1日~2月末日  8:30a.m - 4:30p.m.
拝観料: 大人・高校生 500円  小・中学生 300円

(境内図は公式サイトより)山門からは緑に覆われた参道がのびる。楓のようなので、秋には燃えるような参道になるに違いない。木立が低いので紅葉のトンネルですね。

参道の奥に階段が現れ、その上に禅宗寺院特有の三角形の屋根と白壁が印象的な庫裏が建っている。「寛政九年(1797)の火災で焼失後に再建される。本来は「寺の台所」という意味を持つ「庫裡」だが、禅宗寺院では「玄関」としている所が多い。禅宗寺院建築の特徴を捉えた木組と白壁からなる構成は簡素かつ重厚であり寺院全体と見事に調和している。紅葉時は鮮やかな色彩に映えてさらに美しさを際立たせている。」(公式サイトより)

庫裏が、伽藍・石庭拝観の玄関です。
通常非公開の茶室「蔵六庵」と、方丈の襖絵が特別公開されている。特別公開は知らなかったのだが、明日が最終日なので運がよかった。

履き物を脱いで上がった庫裏の広間。燭台の薄明りで浮かび上がる文字屏風、白壁とうっすら黒光している床板、”幽玄”の言葉が想起されるような情緒ある間となっている。竜安寺で一番印象に残った場所でした(石庭よりも)。
禅寺だが、達磨大師でなく「雲関」の衝立も良い。説明文は判読しにくいのだが、大雲山(竜安寺の山号)の玄関、という意味らしい。

庫裏の西側はすぐ方丈です。方丈の広い縁で皆一方向を見つめている。石庭です。コロナ禍以前では、廊下に人があふれ、座ることもできなかったそうです。

方丈の内部。元々の方丈は寛政9年(1797)の火災で焼失したため、塔頭の西源院の方丈(慶長11年<1606>、織田信包による建立)を移築したもの。重要文化財となっている。
この方丈には狩野派の筆による襖絵があったが、明治初期の廃仏毀釈の際に売られて外部に流出してしまった。現在目にする襖絵は、昭和28年(1953)に故皐月鶴翁(さつきかくおう)が5年かけて描いた「臥龍梅(がりゅうばい)」。龍と北朝鮮の金剛山を描いたもの。

枯山水庭園の代表格ともいえる方丈庭園「龍安寺の石庭」。国の史跡及び特別名勝になっている。幅25メートル、奥行10メートル余り、広さ約75坪の長方形の三方を塀で囲み、石傍のコケ以外一木一草も置かず、白砂と石組みだけで構成されている非常にシンプルな庭です。
庭全体に白砂を敷き詰め砂紋を描き、その上に東から5個、2個、3個、2個、3個の合わせて15個の大小の石が配置されている。この石組みから(5個+2個)=7、(3個+2個)=5、3とみて「七五三の庭」とも呼ばれます。

公式サイトに石庭にまつわる「四つの謎」がのっている。
★その1)「刻印の謎」・・・石庭の作庭者は誰か?。塀ぎわの細長い石の裏に「小太郎・□二郎」の刻印が残っているが、これを作者と判定できず、作者は依然として謎のまま、だそうです。受付で頂いたパンフには「室町末期(1500年ごろ)、特芳禅傑などの優れた禅僧によって作庭されたと伝えられています」とあるのだが。
★その2)「作庭の謎」・・・「一般には「虎の子渡しの庭」「七五三の庭」と呼ばれる。あるいは、大海や雲海に浮かぶ島々や高峰、「心」の字の配石、また中国の五岳や禅の五山の象徴とも。もとより作者の意図は今や不明。禅の公案にも見えるが、ただ鑑賞者の自由な解釈と連想にゆだねるしかない。」
「虎の子渡しの庭」は、あたかも渓流を虎が子を連れて渡っているように見えることからくるという。
特に意味は無いのではないか。意味のないところに意味を見出そうとするのが人間の性なのです。ただジィーと見つめているだけでいいのです。心に響くなら見とれればよい、眠たくなったら眠ればいい、退屈ならば去ればいい。

★その3)「遠近の謎」・・・「一見水平に見える石庭だが、東南角(方丈から見て左奥)に向かって低くすることで、排水を考慮した工夫が施されている。また、西側(方丈から見て右)にある塀は、手前から奥に向かって低くなるように作られている。ここにもまた、鑑賞者の錯覚を利用した心憎いばかりの演出が見られる。視覚的に奥行きを感じさせるために土塀の高さを計算し、遠近法を利用した高度な設計手法といえる」

★その4)「土塀の謎」・・・「高さ1メートル80センチの土塀。油土塀と称するこれもまた、石庭を傑作とならしめる重要な構成要素である。この油土塀とは、菜種油を混ぜ入れ練り合わせた土で作られており、白砂からの照り返し防止や、長い風雪、環境変化に耐えぬく、非常に堅牢な作りに仕上がっている。ちなみに石庭面は、外側の地面から80センチほど高い場所に位置する。これも強固さを保つための工法上の工夫によるという。」

これは謎ではないのだが、どの場所から眺めても必ずどこかの1つの石が見えないという。意図的なものなのか、偶然なのか。
東洋では「15夜満月」と言われるように、「15」は完全を表す数。完全な神や仏は全て見えるが、不完全な人間には全ては見えない、心の目で見よ、という教えだそうです。

「石庭」といえば龍安寺が想起されるように有名で、写真が教科書にも載っていた記憶がある。しかしこれほど注目されるようになったのは戦後で、かっては鏡容池を中心とした庭園のほうが注目されていたという。
昭和50年(1975)5月10日、イギリスのエリザベス二世女王とフィリップ殿下が龍安寺を訪れ石庭を鑑賞になり大絶賛された。それを英国放送協会(BBC)が大々的に取り上げたことで、名園として世界中に知れ渡り、海外からの観光客が多数訪れるようになる。バッキンガム宮殿の壮大で豪華な庭園のもとでお暮しになっている女王夫妻は、白砂と石だけのこうした簡素な庭に心打たれたのでしょう。私は逆に、欧州の宮殿庭園のすごさに心打たれるのですが・・・。

 竜安寺 2(茶室と鏡容池)  



方丈の縁側は、石庭のある南側から西側、北側へと続いており周ることができる。これは方丈北側の廊下。「知足の蹲踞(つくばい)」が置かれている。ただしこれは実物大の複製だ。本物は茶室脇にあり通常非公開なのだが、今回は特別公開されています。

方丈の裏側で、竜安寺垣と秀吉が称賛したと伝えられる佗助椿(わびすけつばき)を見ることができる。
「竜安寺垣(りゅうあんじがき)」は、背の低い透かし垣で、透かしの部分に割竹を菱形に張り、化粧縄で結んでいる。こうした路地と庭の境に用いられることの多い竹垣には、「金閣寺垣」同様に寺院名をつけて呼ばれることが多い。
千利休と同時代の茶人・佗助が文禄(1592)・慶長の役(1597)の時に朝鮮から持ち帰ったことから「佗助椿」と呼ばれ、茶道の挿し花として用いられてきた。立札には「日本最古」とあります。

次は、今回特別公開された茶室「蔵六庵」と「芭蕉図」を見に行きます。庫裏と方丈の間に設けられた拝観受付で400円支払うと、そのまま庫裏の裏(北側)の広間に案内される。そこに襖絵「芭蕉図」が展示されている。頂いた紙片には「「芭蕉図」は、桃山時代の狩野派か海北派の筆によるものとされ、かって竜安寺方丈(本堂)の内部を飾っていた襖絵。明治期の廃仏毀釈の影響により手放されて以来、123年ぶりとなる2018年に、竜安寺に帰還した。緑の芭蕉のみを単独で描いた襖絵は珍しく、金地に柴垣を背にした雄大な芭蕉という、斬新な構図が見所である」と書かれています。

広間の廊下から竜安寺の名物「知足の蹲踞」の実物を見ることができる。そもそも「蹲踞(つくばい)」って何でしょう?。辞書を引くと「
茶庭の手水鉢のこと。石の手水鉢を低く据えてあって、手を洗うのに茶客がつくばう(うずくまる、しゃがむ)ことからくる」とある。それでは竜安寺のものを「知足の蹲踞」と呼ぶのは?。公式サイトに「中央の水穴を「口」の字に見立て、周りの四文字と共用し「吾唯足知」(ワレタダタルコトヲシル)と読む。これは釈迦が説いた「知足のものは、貧しといえども富めり、不知足のものは、富めりといえども貧し」という「知足(ちそく)」の心を図案化した仏教の真髄であり、また茶道の精神にも通じる。また、徳川光圀の寄進とされる。」と説明されている。なるほど、中央の水溜口を漢字部首の「口」と見たてるのですね。

廊下の先に、通常は非公開の茶室「蔵六庵(ぞうろくあん)」がある。もとは塔頭・西源院にあったが明治中頃に移築された。四畳一間で、中板が敷かれ炉が切られている。「蔵六とは亀の別名であり、頭・尾・四肢を甲羅に隠すことからこのように言われているが、仏教的には蔵六は「六根を清浄におさめる」の意となる。」(公式サイト)

次は鏡容池の周りを歩いてみます。庫裏を出て階段を降り西へ進むと池の回遊路は南へ曲がるのだが、その角に階段が見える。階段の上に見えるのが涅槃堂(納骨堂)で、その脇にパゴダ(ビルマ方面軍自動車廠戦没者の慰霊塔、1970年(昭和45年)8月建立)が建つ。

納骨堂の南側一帯が桜苑、梅林となっている。桜の最盛期は過ぎているので、散り残りの桜が彩をそえ、迎えてくれました。



境内の南側には大きな鏡容池があり、その周りを一周できる散策路が設けられている。楓の木が多く見られるので、紅葉の秋には多くの観光客で賑わうのではないでしょうか。

公式サイトには「平安時代、竜安寺一円が徳大寺家の別荘であった頃、お公卿さんがこの池に竜頭の船を浮かべて歌舞音曲を楽しんでいたことが文献に残っている。また、昔時は石庭よりも有名で、おしどりの名所であった。今は、カモやサギが池のほとりで羽根を休める姿が見られ、年間を通して四季それぞれの美しい草花が楽しめる」とあります。

鏡容池一周散策路は、拝観受付のあった山門脇に出る。以上で竜安寺は終わり、次に竜安寺の裏山にある天皇陵へ向かいます。

 朱山七陵(しゅやましちりょう)1  



龍安寺の裏山には幾人かの天皇墓があります。山門から100mほど参道を進むと写真のような三叉路に出会う。石庭へは左へ、車椅子やベビーカーは右へ、との案内標識だある。庫裏前には大きな階段があるので、それを避けれるのが右への道です。
天皇陵へ行くにもこの右の道に入る。天皇陵への案内標識などありません。

50mほど入ると、写真のような警告表示が現れる。山登り、ハイキング、ウォーキング、散歩などであっても「入るな!」という宮内庁の厳しい警告だ。私は「御陵関係者」ではないが「皇陵墳墓の参拝」として入ることにした。
一つ疑問がある。山門を通るので、陵墓参拝だけであっても龍安寺の拝観料を払わなければならないのか?。受付で”石庭は見ないよ”と言えばスルーできるのでしょうか。しかし地図を見て気づいた。東側の竜安寺駐車場からこの道につながっているので、山門を通らなくてもよい(これが宮内庁の案内する陵墓参道となっている)。ということは鏡容池を中心とし庭園だけなら無料で見学できる。庫裏に入るには拝観券を提示しなければならないのですが。

龍安寺の真裏なので、すぐ陵墓が見えてきました。
龍安寺背後の山は「朱山」(標高248m)で、後朱雀天皇・後冷泉天皇・後三条天皇・一条天皇・堀河天皇・後朱雀天皇皇后禎子内親王の6陵墓と、円融天皇火葬塚がある。これらを総称して「朱山七陵(しゅやましちりょう)」または「龍安寺七陵」と呼ばれています。

まず最初に見えてくるのが「後朱雀天皇皇后禎子内親王圓成寺東陵」(えんじょうじのひがしのみささぎ)
「内親王」とは、天皇の皇女という高貴な身分をさします。禎子内親王(ていしないしんのう)は、第67代三条天皇の第三皇女として生まれ、第69代後朱雀天皇の皇后となり、第71代後三条天皇の母となった方です。寛治8年(1094)1月疱瘡(ほうそう)を患い崩御、82歳でした。陵形は円丘という。

禎子内親王圓成寺東陵とは道を挟んで反対側の、少し小高くなった山裾に三天皇の陵墓が並んで造営されている。禎子内親王にとって後朱雀天皇は夫で、後三条天皇は息子です。最愛の二人を見守るように西面して、即ち天皇陵のほうを見守りながら禎子内親王の墓が建っている。

同域に三天皇陵が並ぶ。右が父親の後朱雀天皇圓成寺陵、中央に長男の後冷泉天皇圓教寺陵、左に次男の後三條天皇圓宗寺陵の順に並んでいます。陵名にそれぞれ天皇に縁の深い寺名が付いています。

円融寺と、陵名となっている円乗寺、円教寺、円宗寺をあわせて「四円寺(しえんじ)」と総称されています。平安時代中期に各天皇の発願により仁和寺の子院として造営され、近くに陵を造築、墓守としての性格をもつ寺でもあった。しかし、応安2年(1369)、大風で円宗寺が全壊したのを最後に、四円寺は再建されることもなくいずれの寺院も廃絶となって正確な所在地が不明となっている。また、四円寺のそれぞれの寺域を確定する絵図などは残っておらず、わずかに文献史料に散見できるだけです。推定地についても、現在は多くの家が建ち並ぶ住宅地になっているところがほとんどです。

右の地図は(財)京都市埋蔵文化財研究所の作成(1995年10月)による(ココを参照)。1980年代の調査と文献史料から作成、推定されたものだそうです。

円乗寺・円教寺・円宗寺は、現在の仁和寺の南側に有ったと推定されている。だから竜安寺裏の現在の三陵墓の場所は全く根拠がありません。天皇陵を確定さす必要に迫られた幕末に便宜的に決めたものと思われます。円融天皇が築いた円融寺だけは竜安寺の場所に当てはまる。平安時代の終わりに、衰退していた円融寺の土地を藤原氏が手に入れ徳大寺を創建した。それを室町時代の細川勝元が龍安寺として再建したのです。

■第69代後朱雀天皇(ごすざくてんのう、1009-1045、在位:1036-1045)
第66代一条天皇の第三皇子で、母は藤原道長の娘・上東門院彰子。名は敦良(あつなが)。9歳で同母兄・第68代後一条天皇の皇太弟になる。寛仁5年(1021)道長の六女で叔母にあたる嬉子を妻とし、第一皇子親仁(第70代後冷泉天皇)が生まれるが、嬉子は出産後に急逝した。その後道長の外孫で従姉妹の禎子内親王が入内し第二皇子尊仁(第71代後三条天皇)を生む。長元9年(1036)、同母兄・後一条天皇の死により28歳で即位。当時は藤原氏の摂関政治の最盛期にあたり在位中は藤原頼通が関白として威勢を振るい、天皇の意のままにはならなかった。
寛徳2年(1045)、病に伏した天皇は、藤原家の意向どおり道長の孫にあたる第一皇子の親仁親王(第70代後冷泉天皇)に譲位、同時に皇后禎子内親王との間に生まれた尊仁親王(第71代後三条天皇)を新帝の皇太子と定めた。その2日後に剃髪し出家したが同日崩御。享年37歳だった。火葬され、遺骨は仁和寺内の円教寺に納められた。10年後(1055年)、円教寺内に新堂として円乗寺が創建され陵とされた。円乗寺はその後焼失し、再興されることなく「焼堂」と呼ばれ、所在不明となっていた。
幕末の文久の修陵で現在地が陵墓とされ、元治元年(1864)三陵合わせて修陵された。陵名は「後朱雀天皇圓乘寺陵(えんじょうじのみささぎ)」、宮内庁の公式陵形は「円丘」となっている。

■第70代後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう、1025-1068、在位: 1045-1068)
後朱雀天皇の第一皇子、母は藤原道長の長女・藤原嬉子で、名は親仁(ちかひと)。乳母は紫式部の娘大弐三位。長暦元年(1037)皇太子となる。寛徳2年(1045)父の死に伴い21歳で即位した。末法思想が広がり、各地で寺院が建立された時代です。母の兄・藤原頼通が関白をつとめ威勢を振るった。頼通は一人娘・寛子を天皇の皇后とし、皇子誕生の望みをかけたが、遂に皇子は生まれなかった。天皇には他に、章子内親王(後一条天皇第一皇女)、藤原歓子(関白藤原教通三女)の妃がおり、同時に三人の后妃が並立した史上唯一の例となっている。しかしいずれも後継ぎとなる皇子にはめぐまれなかった。
治暦4年(1068)4月19日、在位のまま崩御。在位24年、宝算44歳だった。藤原氏を直接の外戚としない異母弟の後三条天皇が即位することになる。宇多天皇以来170年ぶりに藤原氏を外戚としない天皇が出現し、栄華を極めた藤原氏の没落がはじまり、摂関政治は弱体していった。
船岡の西野で火葬され、遺骨は仁和寺内の円教寺に納骨された。その後、仁和寺山(朱山)に葬られた、との記録が残る。しかし、中世(鎌倉時代-室町時代)には陵地は不明になる。幕末の文久の修陵で現陵が造営された。陵名は「後冷泉天皇圓教寺陵(えんきょうじのみささぎ)」、宮内庁公式陵形は「円丘」。

■第71代後三条天皇(ごさんじょうてんのう、1034-1073、在位:1068-1072)
後朱雀天皇の第二皇子で、母は禎子内親王。名は尊仁(たかひと)。治暦4年(1068)後継がなかった異母兄の後冷泉天皇の死により35歳で即位。
学を好み、才能卓抜、資性剛健で、母が藤原氏の出でなかったため摂関家にはばかることなく、また藤原氏の内紛に乗じて摂関の専権を押さえて、さらに大江匡房らを重用して積極的に親政を行った。延久元年(1069)に延久の荘園整理令を発布し、違法な手続によって立荘された荘園を整理・停止し、新規設置の取り締まりをおこないました。収公された荘園の多くは後三条天皇領となり、皇室経済基盤の強化が図られた。一方で有力貴族の経済基盤には大打撃となりました。こうした後三条天皇の親政は「延久の善政」と称えられたという。延久2年(1070)、御願により円宗寺を創建。延久4年(1072)、即位後4年で第一皇子貞仁親王(白河天皇)に譲位して院政を開こうと図ったが、翌年には病に倒れ、40歳で崩御した。

延久5年(1073)5月7日に崩御。神楽岡南の原で火葬にされ、遺骨は禅林寺(永観堂)内の旧房に安置された。その後、仁和寺の寺地内にあった円宗寺に移されたという。円宗寺は荒廃し廃絶され、所在も不明になってしまっていた。幕末の文久の修陵で現陵が造営された。陵名は「後三条天皇圓宗寺陵(えんそうじのみささぎ)」、宮内庁公式陵形は「円丘」。

 朱山七陵(しゅやましちりょう)2  



一条天皇と堀河天皇の陵墓は朱山を登った上にあります。禎子内親王墓と三天皇墓の間の道を奥へ進み、山中に入っていく。ここからは緩やかなつづら折れの登り道ですが、天皇墓への参拝道だけあって、よく整備された石畳の階段となっている。

10分ほどで明るくなり、綺麗に手入れされた植え込みが見えてくる。正面に回ると、植栽に挟まれた階段の上に陵墓の鳥居が少しずつ大きく見えてくる。伏見にある明治天皇の陵墓を思い出します。天皇崇拝者にとっては胸キュンとなる瞬間でしょう。

二天皇だが、拝所は一つしかない?。幕末の文久の修陵(1862-1864)で現在地に決められ陵墓が造営された時は、一条天皇、堀河天皇それぞれに拝所が設けられていたという。それが明治45年(1912)に二陵共用の拝所に変えられたようです。何故に?。見えないのだが、もちろん墓とされる円丘は別々です。右側が「一條天皇圓融寺北陵」、左側が「堀河天皇後圓教寺陵」となっているようです。
宮内庁のページには現在地<京都府京都市右京区龍安寺朱山 龍安寺内>となっているのですが、ここまで龍安寺の境内はひろがっているのだろうか?。

■第66代一条天皇(いちじょう てんのう、980-1011、在位:986-1011)
第64代円融天皇の第一皇子、母は藤原詮子(藤原兼家の娘、道長の姉)で、名は懐仁(やすひと)。兄弟姉妹はいない。永観2年(984)、5歳で従兄・第65代花山天皇の皇太子になる。寛和2年(986)6月22日、19歳の花山天皇は内裏を抜け出し剃髪して仏門に入り退位した。この突然の出家は、藤原兼家が孫の懐仁親王(一条天皇)を早期即位させるための陰謀だったと伝わる(寛和の変)。7歳の懐仁親王は第66代一条天皇として即位する。皇太子には冷泉天皇の皇子居貞親王(三条天皇)を立て、摂政に藤原兼家が就任し若い天皇の後見にあたった。兼家はさらに関白、太政大臣となって権力を独占するが、4年後(990年)に病死。兼家死後は長男の道隆が摂関の地位を引き続ぎ、娘・定子(ていし)を一条天皇の中宮に入れる。この定子に仕えた女房のひとりが清少納言です。
道隆の死後、その弟・道兼が継ぐ。道兼が就任数日で亡くなると、末弟・道長が政治の実権をにぎった。道長は娘・彰子(しょうし)を一条天皇の皇后として中宮に入れ、敦成親王(第68代後一条天皇)、敦良親王(第69代後朱雀天皇)をもうけている。彰子の侍女として仕えたのが紫式部、和泉式部でした。宮廷女流文学の最盛期であり、定子に仕えた清少納言、彰子に仕えた紫式部らが互いに競ったという。一条天皇自らも文芸に深い関心を示し、教養に富み温厚であったと伝えられ、権勢を握る道長とときに意見の対立をみながらも、相和して政治をおこなったという。寛弘8年(1011)5月末頃には病が重くなり、皇太子居貞親王(第67代三条天皇)に譲位し出家する。その3日後に崩御、32歳だった。

寛弘8年(1011)6月22日、一条天皇は一条院(上京区)で亡くなる。7月8日夜、火葬の後、遺骨は円城寺(円成寺)に安置された。生前に天皇は、父・円融天皇の陵の傍らに土葬することを遺詔していた。後に道長はそのことを思い出し、没後9年後の寛仁4年(1020)に遺骨は円融寺北方の円融天皇火葬所の傍らに蔵骨されたという。その後、陵所は不明になる。幕末の文久の修陵(1862-1864)で現在地に決められ、堀河天皇陵とともに陵が造営された。陵名は「一條天皇圓融寺北陵(えんゆうじのきたのみささぎ)」、陵形は円丘。火葬塚は(一条天皇・三条天皇火葬場(北区衣笠鏡石町2-14))となっている。

■第73代堀河天皇(ほりかわてんのう、1079-1107、在位:1086-1107)
第72代白河天皇の第二皇子、母は藤原師実の養女・中宮賢子で、名は善仁(たるひと)。応徳3年(1086)立太子と同日に8歳で父・白河天皇から譲位され即位した。外祖父にあたる関白・藤原師実、次の藤原師通が関白となり実権を握ったが、堀河天皇も提携し親政を行い「末代の賢王」とまで評されたという。しかし承徳3年(1099)に師通が死去すると、天皇はしだいに白河法皇に相談するようになり、白河法皇の院政が強まっていった。その結果、堀河天皇の在位はかたちばかりのものになり、天皇は文芸、和歌、笙笛にいそしむようになり、政治から離れていった。堀河天皇は人望も厚く才知にも長けていたとされるが、生来病弱だったのが災いして、嘉承2年(1107)に在位のまま29歳で崩御した。

嘉承2年(1107)7月19日、堀河院で亡くなり7月24日、香隆寺南西の野の山作所で火葬にされた。遺骨は、香隆寺の僧坊に安置されたが、その6年後に仁和寺の円融院に移されたという。別の記録では「後円教寺」とあるので、これが現在の陵名になっています。いずれの寺も中世(鎌倉時代-室町時代)に廃絶し不明になってしまっている。陵の所在地は不明のままだったが、幕末の文久の修陵で一条天皇陵とともに、現在地が堀河天皇陵として修陵された。陵名は「堀河天皇後圓教寺陵(のちのえんきょうじのみささぎ)」、陵形は円丘。

後ろを振り返ると、京の街が一望に見渡せる素晴らしい絶景が広がっています。数多くの天皇陵を見てきたが、眺望の良さではここが一番でしょう。
朱山をさらに登ると山頂に「円融天皇火葬塚」があるのだが、そこまで行っておられないので下山し、次の仁和寺へ向かいます。


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京都・きぬかけの路 1(金閣寺)

2021年04月22日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2021年4月10日(土曜日)
桜の季節は終わったが、遅咲きの桜として有名な仁和寺の「御室桜」は今が盛り。これを機に仁和寺周辺を歩いてみよう。仁和寺から竜安寺をへて金閣寺まで徒歩30分ほどだ(10年ほど前に一度歩いたことがある)。この三つの世界遺産を結ぶ約3キロ弱の観光道路は「きぬかけの路」と呼ばれ、京都でも有数の観光スポットとなっている。「きぬかけ」の名称は、第59代宇多天皇が真夏に雪景色が見たいと、山の峰、麓に白絹をかけさせたという。それ以来、「絹掛け山」「衣笠山」と呼ばれるようになった、という伝承による。
金閣寺は3年ほど前に訪れた。大変な混雑で、人波に流され出口に押し出され、こんな所、もう二度と来るか、と思ったものです。でも現在は違います。自撮棒連も修学旅行生もいませんので、今がチャンスなのだ。とはいえ人気の金閣寺、観光客の少ない早朝の開門一番に訪れることにした。金閣寺をスタートに、きぬかけの路周辺の見所をおさえながら、竜安寺、そして仁和寺へと歩きます。
またこの周辺には天皇陵が多く散在していてマニアとしては見逃すことのできない地域です。時間が許す限り訪れてみたい。

 金閣寺 1(金閣まで)  



JR京都駅前から市バスで35分、金閣寺道バス停に着く。バス停から北へ歩き、金閣寺入り口に向かいます。金閣寺境内への入り口「黒門」。門といっても二本の柱が左右に建っているだけ。何か意味があるのでしょうか?。右の柱には「鹿苑寺 通称 金閣寺」と書かれています。この時期、新緑が美しく爽やかさを感じる早朝の金閣寺です。

真っすぐな参道が総門まで続き、両側は苔と新緑の美しい庭が広がる。さすが世界遺産だけあって手入れは行き届いています。9時前なので総門はまだ閉まっているので、周辺をブラ歩き。

(参道の境内図より)
★☆★>>>>>鹿苑寺(金閣寺)の歴史>>>>>★☆★
北山のこの地は鎌倉時代に権勢を誇った西園寺家の所領となり、氏寺・西園寺や山荘「北山第(きたやまだい)」が造営されていた。しかし鎌倉幕府が倒れると、西園寺家は所領と資産を没収され衰退し、北山第もしだいに荒廃していった。

室町時代に入り、室町幕府第3代将軍足利義満(1358~1408)の時に足利政権の最盛期を迎える。義満は、応安4年(1371)室町北小路に「花の御所」と呼ばれた室町第を造営し、ここに幕府を移し政治の中心地とした。応永元年(1394年)、義満は将軍職を嫡男で僅か9歳の義持に譲り、翌年には出家する。出家したとはいえ、政治の実験は握り続けた。
応永4年(1397)、義満は荒廃していた西園寺家の北山第を譲り受け、ここを改修し自らの住居として北御所、夫人・日野康子の南御所、舎利殿(金閣)、天鏡閣、泉殿などを造った(この年が金閣寺の創建年とされている)。ここは「北山殿(きたやまでん)」(または北山第)と呼ばれ、義満は亡くなるまで10年間住み、出家していたとはいえ実権を握り続け政務を執っていた。

(最高格式を示す5筋が入った「筋塀(すじべい)」→→)
応永15年(1408)、義満は死去し、遺体は足利家菩提寺だった等持院に移され荼毘に付された。北山殿は義満の妻である日野康子の居所となっていたが、康子も応永26年(1419)に亡くなる。
義満に反感を抱いていた第4代将軍足利義持(1386-1428)は北山殿の破却を行った。建物は南禅寺、建仁寺、等持寺などに寄進・移築されたが、釈迦の骨が納められた舎利殿だけは破却できず残された。翌年の応永27年(1420)、義持は義満の遺言にしたがい、残った舎利殿(金閣)を中心に禅寺「「北山鹿苑寺」とした。開基は義満、名目上の開山として臨済宗の禅僧・夢窓疎石を勧請した。寺名は義満の法号「鹿苑院殿」からくる(鹿苑の名は、釈迦が初めて説法した地名鹿野苑に因む)。本山は義満自身が創建した臨済宗・相国寺である。

(総門前に馬繋が→→)
応仁・文明の乱(1467-1477)が起こると西軍の陣地となった鹿苑寺は多くの建物が焼失し、寺は荒廃を余儀なくされた。幸い舎利殿(金閣)、石不動堂は焼失を免れた。
江戸時代に入り、相国寺の禅僧・西笑承兌(さいしょうしょうたい、1548-1607)が独住の第一世住職として寺の復興に務める。「江戸時代、徳川家康の命により鹿苑寺住職となったのが西笑承兌でした。西笑和尚は豊臣秀吉、徳川家康の二人に政治顧問として重用され「黒衣の宰相」といわれた人です。西笑承兌によって鹿苑寺はその経済的基盤を固め、以後、西笑の法系によって受け継がれてきました」(公式サイトより)。方丈、庫裏、茶室・夕佳亭の建立、大書院、小書院、鐘楼などが再建され現在の伽藍配置になっていった。

(放火事件以前の金閣寺、京都TV「京都浪漫 金閣・鹿苑寺」(2017/1/9放映)より。→→)
明治維新後の廃仏毀釈により寺地の大半を失い苦境に陥ったが、観光寺院として庭園及び金閣を一般公開し拝観料を徴収することで立て直していった。
・明治30年(1897)、舎利殿(金閣)が古社寺保存法に基づきに「特別保護建造物」に指定される。
・大正14年(1925)、庭園が史蹟名勝天然紀念物保存法によりに史跡・名勝に指定される。
・昭和4年(1929)、舎利殿(金閣)は国宝保存法施行に伴い(旧)国宝に指定される。

ところが戦後まもなく金閣寺最大の悲劇が発生した。昭和25年(1950)7月2日未明、若き学僧の放火によって応仁・文明の乱の難をも逃れてきた国宝の舎利殿(金閣)、足利義満の木像(国宝)など焼失してしまったのです。このショッキングな放火事件は、三島由紀夫の「金閣寺」、水上勉の「五番町夕霧楼」「金閣炎上」の小説の題材になった。

(総門前の世界遺産碑→→)
その後、焼失以前に計画されていた解体修理の設計図をもとに昭和27年(1952)に再建に着工、昭和30年(1955)竣工、同年10月10日に落慶法要が営まれ、舎利殿(金閣)は創建当時の姿に復元され蘇った。
そして平成6年(1994)には「古都京都の文化財」の一つとしてユネスコ世界文化遺産に登録されたのです。

総門はまだ開かない。金閣寺は舎利殿(金閣)が注目されるので一般的に「金閣寺」と呼ばれるが、正式名称は「北山鹿苑禪寺」。禅宗の臨済宗相国寺派に属し、大本山相国寺の寺外塔頭寺院(銀閣寺も同じ)。なので相国寺の僧侶が任期制で金閣寺や銀閣寺の住職を務めている。

総門の丸瓦に豊臣秀吉の家紋として有名な「五七桐」が使われている。桐は鳳凰が止まる木として神聖視され、「五七桐」は皇室の家紋として使用されてきた。そして天皇家に功績のあった臣下に下賜されることがあり、足利尊氏も後醍醐天皇から五七桐紋を下賜されたのです。しかし足利家には家紋「足利二つ引き」があったので、「五七桐」は室町幕府の紋として使ったという。金閣寺の寺紋も「五七桐」となっている。

9時、総門が開き、私を含め5人ほど入った。正面に唐門が見えます。この唐門の脇に拝観受付がある。
  拝観時間:9:00~17:00 、拝観日:無休
  拝観料 大人(高校生以上): 400円 | 小・中学生: 300円
拝観券をもらって驚いた。写真のように「金閣舎利殿 御守護」と書かれた御札になっているのです。裏面は白紙、日付も入っていない。ということは後日再利用できる・・・?

総門をくぐったすぐ左に鐘楼が建つ。鎌倉時代鋳造の梵鐘は西園寺家に由来し、西園寺家の家紋である巴紋が入っている、というが近寄れないようになっていた。唐門の左前にそそり立つ大樹が「櫟樫(イチイガシ)」。説明版によれば、江戸時代初期か、それ以前からあったもので、京都周辺ではあまり見られない常緑高木の一つ。そのため京都市指定天然記念物に指定されているそうです。

唐門の右方に目をやれば、禅寺特有の三角形の白壁に黒茶色の木組みが印象的な「庫裏(くり)」が建つ。もともとお寺の台所だったので、屋根には煙出し櫓が見られます。現在は事務所と写経場として利用されているようです。内部は非公開。

唐門前から左へ行けば入り口かあり、それを潜ればそこはもう鹿苑寺(金閣寺)庭園だ。境内のほぼ8割が庭園になっており、衣笠山、左大文字山を借景にした壮大で美しい池泉回遊式庭園です。戦前(大正14年)に史跡・名勝に指定され、戦後の昭和31年(1956)に特別史跡・特別名勝に格上げされた。






 金閣寺 2(金閣と鏡湖池)  



庭園に入るといきなり目の前に黄金色に輝くお堂が飛び込んでくる。衣笠山を背景に、鏡湖池に浮かぶように南面して建つ三層の楼閣。周りに余分な建物がないだけに、ひときわその存在感が引き立つ。観光都市・京都において、修学旅行・観光客の人気スポットとして清水寺とともに人気を二分しているのも頷けます。
金箔が貼られひかり輝くのでいつしか「金閣寺」と呼ばれるようになったが、正式には「舎利殿(しゃりでん)」で、釈迦の遺骨を納めたお堂のこと。

初層(一階)は平安時代の寝殿造風で「法水院(ほすいん/ ほっすいいん)」と呼ばれ、遊芸、舟遊びの出来る釣殿でもあった。義満は池に舟を浮かべ、四季の風景を楽しんでいたという。正面に高欄付きの広縁があり、奥の室には須弥壇が設けられ中央に宝冠釈迦如来坐像、向かって左に天台僧の法服をまとった足利義満坐像が安置されている。金閣寺は禅宗なのだが、なぜ天台僧の法服を?。義満は天台僧であり、華厳僧、禅僧でもあり、政治のみならず、仏教世界でも支配者であり続けることを望んだ、からだそうです。舎利殿(金閣)の内部は非公開だが、初層の蔀戸は上に吊り上げられており内部を池越しに見ることができます(左の写真)。

上の初層内部写真は京都TV「京都浪漫 金閣・鹿苑寺」(2017/1/9放映)より。

初層の西側には池に張り出した釣殿のような吹き放しの小さな小亭が付属する。「漱清(そうせい)」と呼ばれ、足利義政がここで手水を使って上がったという。

二層目、三層目は初層とは全く異なり金箔で輝いている。創建当初は、三層のみに金箔が貼られていたという。現在の金箔は、昭和62年(1987)に漆の塗り替えと金箔の張替えが行われたもの。金箔約20万枚(総重量約20kg)が二重に貼られている。後方に突き出た樋までも黄金に輝いています。
初層と二層は通し柱を用いて構造的には同形同大の造りとなっている。そのためか間には屋根もない。

(写真は京都TV「京都浪漫 金閣・鹿苑寺」(2017/1/9放映)より)
二層目は鎌倉時代の武家造の仏間風で「潮音洞(ちょうおんどう)」と呼ばれている。室内には、須弥壇が設けられ観音菩薩坐像(岩屋観音)を安置し、その周囲には四天王像が立つ。天井には飛天像が描かれ、黒漆塗の壁と床面に反射し仏像と天井絵が写し出されるような工夫がなされているそうです。

下層よりひとまわり小さく造られた三層目は中国風の禅宗仏殿造の様式で「究竟頂(くっきょうちょう)」と呼ばれている。「究竟頂」の扁額は北朝第6代、歴代第100代の後小松天皇の宸筆です。禅宗様の花頭窓が印象的だ。
三層内部は、黒漆塗りの板敷床を除き天井と壁は金箔貼りとなっており、中央に釈迦の骨を納めた仏舎利が安置されている。花頭窓の内側に明かり障子がはめられ、外光によって黄金色は黒塗りの床に反射し室内は輝いている。(内部写真は京都TV「京都浪漫 金閣・鹿苑寺」より)

宝形造りの屋根の露盤上には羽根を広げた鳳凰が南をむいている。鳳凰は中国の伝説上の鳥で、聖徳の天子の兆しとして出現すると伝えられ、宇治平等院の鳳凰堂が有名だが、金閣寺の金ピカの鳳凰も素晴らしい。現在目にするのは昭和61年(1986)に取り付けられた二代目。室町時代の創建時に造られた初代は、明治期の修理の際に尾が破損したため、取り外され保管されていた。このため、昭和25年(1950)の金閣炎上でも難を逃れ現存しています。

鏡湖池の水面に映る「逆さ金閣」が人気です。ほとんど風はないのだが、どうもうまく撮れない・・・。

雪化粧の金閣も風情があるそうです。これは園路に貼ってあった写真の写真です。

東側からみた金閣。一層は公家を、二層は武家を象徴し、一番上の三層に禅宗の寺院がのっかっている。これはすでに出家し僧侶になっていた義満が貴族や武士の上に立っていることを暗示しています。当時、池の南側には樹木がなく平安京が見渡せた。さらに池の中には日本列島を模した葦原島も造らせている。義満は最上階の窮竟頂から京の都を、さらには日本を見下ろし、満足に浸っていたと思われます。

背後から見た金閣
美、調和、雅やか、風雅、豪華・・・、金閣を見つめているといろいろな感慨がわいてくる。建物を見つめているだけで人々の心に何かを訴える、これを「伽藍説法」と呼ぶそうです。この金閣は伽藍説法の代表かもしれない。これは放火事件という悲劇も起こしたのだが。

鹿苑寺庭園の中心が、金閣の前面に広がる鏡湖池(きょうこち)。この池があってこそ金閣が浮かび上がる。鏡のように金閣を映し出すことから「鏡湖池」と名付けられたのです。浄土曼荼羅に描かれた七宝池を表すともいわれている。
池には大小さまざまな奇岩名石が配され、それぞれ名前が付けられている。

<1>葦原島(あしはらじま)
<2>淡路島
<3>入亀島
<4>出亀島
<5>畠山石
<6>赤松石
<7>出島
<8>亀島
<9>鶴島
<10>九山八海石(くせんはっかいせき)
<11>夜泊石(よどまりいし)

金閣の正面にあり鏡湖池では一番大きな葦原島(あしはらじま)。「葦原瑞穂の国」と呼ばれるように。「葦原(あしはら)」とは日本国をさします。義満は楼閣に上り葦原瑞穂の国を眺めていたのでしょうか。島の中に三尊石(A)と細川頼之の寄進による細川石(B)がある。細川頼之(1329-1392)は四国を平定し、室町幕府の菅領となり幼少の義満の補佐役となった人物です。

左端の石が「九山八海石(くせんはっかいせき)」。九山八海とは、須弥山の周りに九つの山と八つの海があるという仏教の世界観。この世界観を表す石を、義満は明の太湖から遣明船によって運ばせ、ここに配置したという。
その右側の松の生えているのが鶴島(左)と亀島(右)。写真右側に見える三角形の石が畠山石。将軍の補佐役を務めた畠山家が奉納したもので、二つの石を重ねて富士山を表しているそうです。畠山石と亀島の間に見えるのが、室町幕府四職の一家だった播磨の赤松氏の奉納による赤松石。

金閣の東隣に一列に配置された四つの小石は「夜泊石(よどまりいし)」と呼ばれる。舟屋の礎石をそのまま、夜に停泊している舟に見立てたという。実際に、この間に舟を留め置いたともみられている。



 金閣寺 3 (出口まで)  



園路をはさみ鏡湖池の東側に、本堂にあたる方丈(右端)と書院(中央)があり、その間に「陸舟の松」と呼ばれる名木がある。書院は伊藤若冲の障壁画50面で知られている(現在は保存上の問題から承天閣美術館に移されている)。方丈の南側には、絵師であった相阿弥(そうあみ)が作庭したとされる「方丈庭園」(非公開)が広がる。
発掘調査によって、この辺りが義満が造った北山殿の中心部分だったことがわかってきた。

方丈と書院の間には、舟の形をした盆栽松があり「陸舟(りくしゅう)の松」と呼ばれています。説明版には「おかふねの松」ともなっている。「足利義満公遺愛の盆栽を移し帆掛け舟の形に仕立てたと伝えられる五葉の松」(説明版)で、樹齢約600年という。その帆先は西を向き、西方浄土に向かっているそうです。京都市指定天然記念物で、宝泉院、善峯寺の松と合わせて「京都三松」とされています。

鏡湖池、金閣と別れ、庭園の奥に入っていきます。さすが実入りの多い金閣寺だけあって、よく整備され手入れの行き届いた園路が設けられている。ただし出口まで一本道で、脇に入ることはできません。
御守り所の裏にあるのが、金閣寺鎮守の春日明神を祀った「榊雲(しんうん)」。










次に現れるのが、義満がお茶の水に使ったと伝えられる「銀河泉(ぎんがせん)」。水に濡れると美しく緑色になる緑色片岩が使われている。













さらに進むと、義満公が手洗いに用いたといわれている「巌下水(がんかすい)」が見える。

10時、静かで落ち着いた金閣寺です。3年前に来た時は、午後だったのだが大混雑しており、人波みに流され出口へ、出口へと追い出されました。お堂も庭園も、ゆっくり鑑賞するならコロナ禍の今が一番良いかもしれない。ソーシャルディスタンスもしっかりとれます。
緑樹に浮かぶ金閣、どこから見ても金閣は映えます。

左側に階段が現れ、両側に背の低い竹垣が設けられている。この竹垣は「金閣寺垣」と呼ばれ、格調高く気品に満ちていることから、通路と庭の境目や小さな庭の装飾として用いられている。細い丸竹を縦に並べ、上部に三本の半割竹の玉縁(たまぶち)を渡し、下方を太い半割竹で挟みこんだもの。

落下する滝の水滴の下に、滝に打たれまさに跳ね上がらんとする「鯉魚石(りぎょせき)」が置かれている。龍門の滝を鯉が登り天に昇りきると龍に進化するといわれる中国の龍門瀑の故事「登龍門」に由来し、立身出世のたとえ「鯉の滝登り」を表しています。
これらの滝組は鎌倉時代の西園寺家北山第の池泉の遺構とされる。

鏡湖池の水源となっている「安民沢(あんみんたく)」という池です。ここは鎌倉時代の西園寺家の遺構で、池の中の小島には、西園寺家の守り神・白蛇を祀った五輪の石塔「白蛇の塚」が残っている。

境内で最も高所に建つのが、江戸時代の初め後水尾天皇を迎えるために茶道家・金森宗和に造らせたという茶室「夕佳亭(せっかてい)」 です。ここから見る夕日に映える金閣が特に佳いということから「夕佳亭」と名付けられた。。明治初年(1868に焼失したが、明治7年(1874)に再建された。
数寄屋造りの茅葺。三畳敷の茶室と、上段の間として二畳敷の茶室「鳳棲楼」からなる。中央床柱には「難を転じる」という縁起のよい南天の古木が用いられている。また三角形の棚は「萩の違い棚」として知られ、「萩の木の根の方と枝花とを交互に組合わせて中央に鶯宿梅を配す」(説明版)という。かつて「即休亭」とも称されたので扁額「即休」が掛かっています。

夕佳亭の前には、足利八代将軍義政が愛用したという富士形の手水鉢と石燈籠が、また室町幕府より移された高貴な人が座る腰掛石「貴人榻(きじんとう)」がある。

園路の出口に近づくと、安土桃山時代に宇喜多秀家が再建した不動堂が現れる。本尊として弘法大師作と伝わる等身大の石造「不動明王立像」が安置されている。この石不動は、金閣寺創建以前の西園寺家の北山第に祀られていたもの。首から上の病気、特に眼病に霊験あらたかということで江戸時代から庶民に広く信仰されてきた。秘仏だが節分と大文字送り火(8月16日)に開扉法要が営まれ本尊を拝むことができます。
(写真の石像は京都TV「京都浪漫 金閣・鹿苑寺」(2017/1/9放映)より)

出口の山門から長い階段を降りると、すぐ脇に広い休憩所があります。拝観料を払って境内に入る前に、この休憩所でお手洗いを済ませておくこと。入ってしまうと、出口近くまでトイレはありませんゾ。
現在、土曜日の朝10時半だが、この寂しさはかっての金閣寺では考えられない。京都の観光名所をゆっくり拝観するにはコロナ禍の今がチャンスかもしれない。自撮棒連も修学旅行生もいないのがいい。金閣寺の広い広い駐車場も、かっては大型バスで満杯だったが、現在はガラガラでした。

 第67代三条天皇北山陵  



金閣寺を出て、近くにある三条天皇北山陵へ向かいます。金閣寺前の道路「きぬかけの路」を北方面に10分ほど歩く。ちょうど五山送り火の「大」の字の右山裾あたり。

「きぬかけの路」に接しているのですぐわかる。左の山が「大」の字がある北大文字山。住宅街の中とはいえ、山裾の落ち着いた環境の中に陵墓は築かれている。陵域は低い生垣で囲まれ整然とし、手入れも行き届いています。どこの天皇陵も感心するほど整然としており、宮内庁の天皇家への大いなる忖度を感じさせられます。

第67代三条天皇(さんじょうてんのう、976- 1017、在位:1011- 1016)は冷泉天皇の第二皇子。母は摂政太政大臣藤原兼家の長女・藤原超子。花山天皇の異母弟で、「居貞(おきさだ)」親王と呼ばれた。
寛和2年(986)年、従弟の第66代・一条天皇の即位により元服し、立太子になる。居貞親王の方が年長のため、「さかさ儲けの君」と呼ばれた。
寛弘8年(1011)一条天皇の譲位により36歳で即位する。
天皇の在位中は藤原道長の全盛期だったが、三条天皇は藤原兼家の外孫であるため道長とは不和であった。天皇は道長をはばかり、その娘・妍子(けんし)を皇后にする。

三条天皇の眼病による皇位継承問題がおこる。道長は娘・彰子の産んだ外孫・敦成親王(第68代・後一条天皇)の即位を望み、天皇の眼病を理由に譲位を迫った。「長和3年(1014年)三条天皇は眼病を患う。仙丹の服用直後に視力を失ったといわれる。道長は天皇の眼病を理由にしきりに譲位を迫った。更にこの年と翌年、内裏が相次いで焼失。病状の悪化もあり、同5年(1016年)三条天皇は皇后?子の子敦明親王の立太子を条件に、道長の勧めに従い第二皇子の後一条天皇に譲位し、太上天皇となる。翌寛仁元年(1017年)4月に出家し、程なく42歳で崩御した。」(Wikipediaより)

陵墓名は「三條天皇北山陵(きたやまのみささぎ)」で、宮内庁の公式陵形は「円丘」となっている。鳥居は木製。なおここから北へ500mほどの所に一条天皇・三条天皇の火葬塚(北区衣笠鏡石町2-14)があるが、そこまで行っておられない。

記録によれば、寛仁元年(1017)に三条院で崩御、船岡山の西石陰(いわかげ)で火葬にされ、北山の小寺中に埋納された、とある。その後、墓所は不明になり、幕末の文久の修陵でも確定されなかった。
明治22年(1889)6月、尊上院のあった現在地(北区衣笠西尊上院町)に決められ、陵墓として造営された。尊上院(そんじょういん)は三条院の転訛だから、という理由で。この年は大日本帝国憲法(明治憲法)が公布された年でもあるので、万世一系の天皇制のためにも陵墓治定が急がれたのでしょう。

 敷地神社(わら天神)  



きぬかけの路から外れるが、金閣寺の南に「わら天神」があるので寄ってみる。金閣寺から15分くらいでしょうか。西大路通りに面しており、立派な石鳥居が立っているのですぐわかる。所在地は京都府京都市北区衣笠天神森町10

正しくは「敷地神社(しきちじんじゃ)」だが、「わら天神」と呼ばれるのはなぜでしょうか?。案内板に「古来より稲わらで編んだ籠に神饌を入れて神様に捧げており、やがて抜け落ちたわらを、安産を願う妊婦さんが持ち帰るようになりました。後にそのわらを切り取り、安産の御守として妊婦さんに授与するようになったのです。そのわらの御守の珍しさから「わら天神宮」の名称が広まり定着しました。」そうです。
鳥居の額は通称名の「わら天神宮」となっている。

境内の奥に本殿、拝殿からなる社殿が、その前に立派な舞殿が建っている。近くの平野神社では同じ構造の拝殿が、平成30(2018)年の台風第21号で全壊しています(ココを参照)。平野神社の拝殿屋根は檜皮葺だったが、ここの舞殿の屋根はより重そうな瓦屋根を6本の柱で支えているだけなので心配です。

敷地神社の歴史について境内の案内板によれば、元々当地には山を神格化した北山の神が祀られていたが「天長8(831)年、この地に氷室が設けられることになり、加賀国の人々が夫役として指定されました。彼らは移住にあたり崇敬していた菅生石部神社の分霊を勧請し、その御母、木花開耶姫命を御祭神として北山の神とともに祀り、代々崇敬してきました。応永4(1397)年、足利三代将軍義満による北山第(後の鹿苑寺(金閣寺))の造営にあたり参拝に不便となったことから、両者を合祀して現在地へ遷座、社号を菅生石部神社の通称である敷地神社としました。」とあります。「敷地」とは菅生石部神社の神主さんの名字らしい。

これは拝殿で、奥の本殿は見えない。本殿に祀られている主祭神は「木花開耶姫命(このはなのさくやびめ)」。一夜にして懐妊し、次々と3人の子を出産したという逸話から、安産・子授け・縁結びにご利益がある神様とされている。

この神社の安産祈願のお守りには藁(わら)が入っていることで有名。そのわらに節があれば男児を、節がなければ女児を授かると伝えられている。特に戌の日は安産祈願をする参拝者で混雑するという。戌(犬)が多産でかつお産が軽いということにあやかって戌の日が選ばれるのです。拝殿に奉げられた白い布は赤ちゃんの「よだれかけ」。無事出産を終えた人がお礼にメッセージを書き込み奉納したのです。

本殿右側が摂社の六勝神社(ろくしょうじんじゃ)。傍の説明版によると、伊勢、石清水、賀茂、松尾、稲荷、春日の六柱神を祀り、平安遷都の際に平野神社の地主神として勧請され、その後西園寺家の鎮守となっていた。古くから、必勝、成功、開運及び商売繁盛の守護神として崇敬を集めてきた。明治6年(1873)に敷地神社境内に遷座された時、「必勝」の意によって「六勝神社」と改められた、という。
最近、「六(む)つかしい事に勝つ」という語呂合わせから大学受験、各種資格試験などの守護神として人気を得ているそうです。

境内本殿西側に綾杉明神(あやすぎみょうじん)がある。樹齢千数百年におよぶ神木綾杉の巨木が立っていたが、明治29年(1896)8月の台風で倒壊し、2mほどの幹を残すのみとなっていた。清原元輔(清少納言の父)が詠った「生ひ繁れ平野の原のあや杉よ、濃き紫に立ちかさぬべく」が「捨遣和歌集」に撰録されているように、古くから崇敬をあつめてきた木です。そこで残った幹に素屋根をかけ「綾杉明神」として祀るようになった、という。


 第78代二条天皇香隆寺陵  



敷地神社(わら天神)の近くには「花山天皇紙屋川上陵」もあるのだが、2年前に訪れているのでパスし(ココを参照)、「二条天皇香隆寺陵」を目指す。
いったん「きぬかけの路」に戻り西へ歩く。この辺り普通の住宅街の車道で車の往来も多い。「きぬかけの路」というさわやかな名前からくるイメージにはほど遠い。

「きぬかけの路」から馬代通りに入り、南へ歩く。小松原児童公園の南東にあるのだが、正面拝所がわからず、結局一周してしまった。閑静な住宅街の中にあり、拝所は南側にある。玉砂利と松並木の真っすぐな参道が印象的な陵墓です。東に300mほど行けば平野神社です。

第78代二条天皇(にじょうてんのう、1143-1165、在位:1158-1165)は後白河天皇の第一皇子で守仁(もりひと)親王という。生母が出産直後に急死したことで、祖父である鳥羽法皇に引き取られ、その后の美福門院に養育された。皇位継承がないと思われたので、僧侶になるため9才で仁和寺に入る。
久寿2年(1155)、近衛天皇が崩御すると父が第77代後白河天皇として即位。守仁親王も仁和寺から戻され、還俗して皇太子となった。
保元3年(1158) 父・後白河天皇の譲位によって第78代二条天皇として即位。これは守仁親王を可愛がっていた美福門院と当時の権力者藤原通憲(信西)との話し合いによるもので「仏と仏の評定」といわれた。

平治元年(1159)12月平治の乱が起こる。平清盛一族が熊野詣での旅に出たすきに、源義朝、藤原信頼が挙兵し御所を襲って火を放ち、後白河上皇を幽閉し内裏を制圧、二条天皇をも黒戸御所に軟禁した。当時の権力者だった信西は都を逃げ出したが、追っ手に迫られ山中で自害。しかし平清盛一族は急遽都に引き返し反撃に転じた。二条天皇は潜かに脱出して平清盛の六波羅邸に入った。天皇はこのとき女装して牛車に乗って御所から脱出したといわれています。平清盛軍は信頼・義朝追討の勅宣を得て意気上がり、内裏に攻撃をかけた。この戦いで勝利した平家は実権を握り我が世の春を謳歌するのです。

退位したとはいえ後白河上皇は強い力をもち、その後5代34年にわたり院政をひく。真面目で実直な二条天皇は実父・後白河上皇とは冷え切った関係にあり対立した。院政を否定して天皇中心の政治を行おうとした二条天皇の親政派と後白河上皇の院政派の二つの勢力が主導権を争ってことごとに批判・反目しあい、互いに相手の近臣の解官・流罪をくり返した。二条天皇は平清盛を重用し、その軍事力を後ろ盾に本格的な天皇親政を始めようとしました。しかし、その矢先の永万元年(1165)、病に冒され,わずか2歳の皇子・順仁親王(六条天皇)に譲位する。譲位一ヶ月後に崩御、在位8年でまだ23歳だった。

二条天皇は音楽を好み、琵琶に精通され、和歌に秀でられた。Wikipediaによれば「優れた人物で「末の世の賢王におはします」と賞賛され、愚昧とされた父・後白河上皇とは対照的だった。一方で、上皇との対立は生涯に亘って解消されることはなく、「孝道には大に背けり」という世評もあった。」という

「二条天皇香隆寺陵(こうりゅうじのみささぎ)」と呼ばれ、宮内庁の公式陵形は「円丘」、住所は:京都市北区平野八丁柳町。
永万元年(1165年)7月28日に崩御、8月7日に香隆寺の東北の野で火葬、遺骨を一時香隆寺本堂に安置していたが、その後香隆寺境内に天皇の旧殿を移して三昧堂を造り、ここに遺骨を移納した。その後香隆寺、三昧堂とも所在は不明になり、元禄年間(1688-1704)の幕府の諸陵探索でも発見できなかった。さらに幕末の修陵の際にも決めることができなかった。
明治22年(1889)、三條天皇北山陵と同様に万世一系の天皇主権を唱える大日本帝国憲法(明治憲法)が公布されるのを機に天皇陵の確定が急がれた。陵墓を見つけることはできないが、平安時代の公家・藤原宗忠の日記「中右記」の記載から推定し現在地(大北山村字宇多川)の小高い茶畑を陵としたのです。そして間口70m、奥行き50mの陵域を確保し、その南側に遙拝所を設け、その後方に直径17mほどの低い円丘が造営された。
遙拝所正面中央に細い一本松が突き出ている。何らかの意思で残されたのだと思う。位牌か、卒塔婆か・・・、5本だけ枝葉が残されているので五輪塔かも。宮内庁の繊細な芸術感覚が表されています((^_-))


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嵯峨・嵐山 散歩 2

2020年12月18日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2020年11月25日(水曜日)
司馬遼太郎「街道をゆく」のなかに「嵯峨散歩」というのがある。水尾、天竜寺、保津川と渡月橋、大悲閣、法輪寺、松尾大社、車折神社について述べています。これを読み、私も久しぶりに嵐山へ行ってみたくなった。年に2、3度は行っていたのだが、このコロナ騒動で昨年春以来訪れていない。外国人観光客のいなくなった嵐山ってどんなんだろう、と興味あります。
今回は、大悲閣(千光寺)と嵐山モンキーパークいわたやま

 大悲閣(千光寺)への道  



次は角倉了以ゆかりの大悲閣(千光寺)へ。大悲閣へは渡月橋南詰からさらに渡月小橋を渡った突き当たりを右折する。ちょうど法輪寺の裏口がある場所だ。そこから大堰川(保津川)右岸(南岸)を上流へ約1.2キロ、徒歩20位かかります。
まだ午前中なので渡月橋周辺は人通りが少ない。それともコロナの影響か?。

大堰川(保津川)の左岸(北岸)は、今まで何度も歩いたことがあるのだが、この右岸は初めてです。左岸から川越しに右岸を眺めていて、人通りの少なさから興味が無かったのです。竹林の小径、野宮神社など観光名所が多く観光客で混み合う北側に比べ、南側の川沿いには大悲閣を除いてこれといった観光名所がなく、ウォーキング、ヒッチハイクの人か、アベックさんしか歩いていない。喧騒の観光名所に興味がなく静かに嵐山を感じたい人には、隠れた穴場の散策路かもしれない。別に隠れてもいないのだが、観光雑誌などにはほとんど触れられていないのです。

対岸に小倉山、亀山が見える。司馬遼太郎は「亀の背のような亀山も、この右岸から、水景を前提にしてながめるべきものだということも、このとき知った」と書いています。この右岸でしか亀山の全体が見渡せないのだ。川の北側では近すぎて、亀なのか馬なのかわかりません。

渡月橋がだんだん遠くになってきた。「歩きつつ、ふりかえると、そのつど景観がかわる。渡月橋を中景にしたその景色は、右岸のこの小径からみるのが、もっとも大観といえる」(司馬遼太郎)。納得です。

だんだんと川幅が狭まり、山が迫ってくる。

樹木と川の自然しか見るものがない道だが、この紅葉の時期は退屈しません。
保津川くだりの舟も見えてきた。

大堰川(保津川)に沿って道は続く。道中の所々に大悲閣(千光寺)の案内が置かれています。これぞ素人の手作りという案内板で、親しみを感じます。ただし、周辺の景観とはマッチしていません。英語も混じっているのは、海外観光客が多いいことの表れなのでしょうか。「GREAT VIEW」が待っているようです。

この辺りから北岸の道はなくなっている。保津川の渓谷美を味わうにはこちらの南岸を歩くしかありません。川幅が狭まり白い岩肌が目に付くようになり、川面も青から緑色に変わってきた。
幌付き小舟が保津川下りの舟に接近し食べ物や飲料水を販売している。

道も狭くなり、そろそろ大悲閣に近づいてきたようです。

 大悲閣(千光寺)(だいひかくせんこうじ)  


道はある建物に突き当たる。星野リゾートの旅館「星のや 京都」らしい。塀のようなもので囲まれ入口も見えず、営業しているような様子はない。コロナのせいでしょうか。すぐ横に階段があり、「大悲閣道」と刻まれた石柱が立ち、「大悲閣 千光寺」への入り口となっている。

千光寺はもともと、後嵯峨天皇の祈願所として清涼寺の近くの嵯峨中院にあったが、長らく荒廃してしまっていた。保津川開削に成功した嵯峨の土倉業、角倉了以(すみのくらりょうい、1554-1614))が開削工事で亡くなった人々を弔うために、慶長19年(1614)に千光寺をこの地に移し「大悲閣」とした。自らの念持仏だった千手観音を祀り、晩年にはこの大悲閣で過ごしたという。
了以は天台宗を奉じていましたが、子孫の角倉玄寧が文化五年(1808)に再興したとき、寺は禅宗の黄檗宗となった。公式サイトに「寺は明治維新の際、大悲閣を除き、境内、山林、什宝等多くを失いましたが、明治になって寺地を拡張し、漸次諸堂を整備しました。」とある。

正式名は「嵐山大悲閣千光寺」だが、通常「大悲閣」と呼ばれている。「悲」は”悲しみ”の意味でなく、仏の”慈悲”を指します。
大悲閣は嵐山の中腹、標高100mほどの場所にあるので階段を登らなければ」ならない。登り口には杖も用意されていたが、必要とするほどの険しさではありません。約200段ある石段はつづら折れになっている。要所にはテスリが、また休憩用の椅子まで置かれています。

登り始めて10分位で簡素な山門が見えてきた。山門の奥に梵鐘がのぞく。3回まで自由に撞くことができ、撞くと鐘の音が山峡に響き、爽快な気分になります。

鐘楼の脇を上るとすぐ境内だ。ほんとに小さい境内で、どこか農家の庭先のようです。置かれている赤毛せんの腰掛だけが農家でないことを教えてくれる。
ここで拝観料400円払うと、大悲閣の案内が書かれた手作り印刷の紙切れ1枚くれます。これが拝観券になるのでしょう。どこまでも手作り風のお寺です。拝観時間は<10:00~16:00>

鐘楼のすぐ上に舞台造り風の橋桁で支えられたお堂がある。元は仏堂(客殿とも)だったが、現在は展望所となっており、絶景を売りにするだけに「大悲閣」とはこの建物を指すようだ。
履物を脱いで上がる室内には小さな机が所狭しと並べられ、紙片がのっている。まるで写経の場のようです。これら紙片はお寺や禅宗を解説・紹介した手作り印刷紙で、自由の持ち帰れます。

北側は開け放たれ、額縁にはめ込まれたような保津峡の絶景を眺めることができる。室外に縁側が設けられており、立ってもよし、座ってもよし、ここを訪れる人は少ないので好きなように鑑賞できる。
京都市街から比叡山まで一望できます。

下に目をやれば保津川が見え、ゴツゴツした岩場の間に深緑色の川面が曲がりくねり、時々「保津川下り」の舟が通っていく。
この時期は色鮮やかに染まり、派手で明るい保津峡を見せてくれる。桜の頃、青葉の頃はまた違った顔の保津峡が見られることと思う。冬の嵯峨野が一番いい、と瀬戸内寂聴さんがなにかに書かれていたのを思い出した。薄っすらと白く染まった山峡もまた味わい深いだろうな、と思います。渡月橋や竹林の小径あたりをうろつく観光客が大部分だが、嵐山にもこうした”秘境”があるのを知ってほしい。いや知ってほしくないか・・・。

横から縁側を見ると、狭くて怖そうだ。崖の上に突き出した舞台の造りは大丈夫でしょうね?。ご自由に覗いてください、と双眼鏡まで用意されている。住職の暖かい心遣い、いや必死さが伝わってくる。

一隅に三重塔の模型が置かれている。角倉一族(外祖父)で、わが国最初の算術書「塵劫記」を残した吉田光由(1598-1672)も晩年にはこの大悲閣千光寺の近くで過ごしたと伝わり、そこから「そろばん上達の寺」「そろばん寺」と呼ばれた。この三重塔は、京都のそろばん業者が寄贈したもので、全てそろばんで造られているのです。高さ約1.1m、約1万玉あまりのそろばん玉を使い一乗寺(兵庫県加西市)の国宝を表現したもの。最上部の屋根上に乗せた「相輪」なども玉で細かに表現され、壁などもそろばんそのものが使われているそうです。

右の写真のように立派な本堂が建っていました。ところが昭和34年(1959)9月の伊勢湾台風により甚大な被害を受け、この本堂は1978年に解体され、現在の仮本堂となっている。写真は、伊勢湾台風後の、取り壊し寸前の本堂です(展望所に置かれていた紙片より)。舞台造りの大悲閣も金属ワイヤーで支えられていたが、2012年に正式な改修工事が行われ、大悲閣は元の姿を取り戻したという。

司馬遼太郎はここ大悲閣千光寺を訪れたのだが、山上は修理中のため登ってはいけないとあり、石段の途中で引き返すはめになった、と書いている。司馬遼太郎が訪れ年はいつか判らないが、多分この台風被害の後だったのでしょう。

これが現在の本堂で、角倉了以の念持仏の千手観音菩薩が本尊として祀られている。まるで民家風で、解体され40年以上経つのだが、いまだに再建されず仮本堂のままのようです。日本を代表する観光地・嵯峨嵐山にあって、その辺鄙さゆえに訪れる人も少なく、僅かな拝観料だけでは現状を維持するのが精一杯だろうと伺えられます。ここへの道すがら、お寺の必死さを感じさせられました。
遺命により作られた角倉了以木像も祀られている。ここは司馬遼太郎に語ってもらおう。「丸坊主に道服を着,工事用のすきを手にし,片ひざを立て,巻いたロープをざぶとんがわりにしてすわっている。木槌(きづち)頭で,前頭部が思いきって発達し,数理や計画の能力に富んでいたろうことが想像できる。両眼はかっと見ひらき,唇は文字どおり「へ」の字にまがり,自分の構想に人がついて来ぬことにかんしゃくでもおこしているような顔つきである。下あごは異常に発達している。顔面を上へ持ちあげ,石でも噛みくだきそうなほどに頑丈で,意思のつよさを思わせる。」(司馬は途中で引き返しているのだが、「写真で周知である」と書いているので、写真を見ての観想だと思う)
保津川を見下ろしている様子で、現在では保津川下りの舟の安全を祈っているのでしょう。

仮本堂の向かいにある御朱印所です。犬の置物か、と思ったら動き出しました。
境内には林羅山の撰文による了以の顕彰碑、夢窓国師の座禅石もあるようだが、探していません。

大悲閣千光寺からの帰り道。遊覧船では和服姿のお嬢さんが、大声で山峡に向って歌っていました。この環境の中で、大声を出し踊りたくなるのもわかります。声からして韓国系のようでした。落っこちないようにね。

 嵐山モンキーパークいわたやま  



保津峡の絶景の次はサルです。渡月橋の入口まで戻ると、階段があり、櫟谷宗像神社と「嵐山モンキーパークいわたやま」の案内がでている。

階段を上がり鳥居を潜ると、そこは櫟谷宗像神社の境内だ。櫟谷宗像神社(いちたにむなかた)は松尾大社の摂社で、松尾三社の一つとなっている。松尾大社の公式サイトに「櫟谷神社と宗像神社の二社同殿で御鎮座されており御祭神は、櫟谷神社が奥津島姫命、宗像神社が市杵島姫命になっている。この二神は異名同神(紀の一書)と見られていますが、天智天皇の七年(668)筑紫の宗像から勧請されたものと伝えられています。両社とも大堰川(桂川)の水運の安全を祈って祀られたものと思われ、明治十年に当松尾大社の摂社となりました。」とあります。

境内の一隅、階段を登った左脇に「嵐山モンキーパークいわたやま」の受付がある。入園券を購入し中へ入る。

公式サイトより)
新型コロナウイルスの影響により当面、下記の営業時間になります。
開園時間9:00~16:00(山頂は16:30)
※但し、大雨や大雪など著しい悪天候の場合は閉園
※おサルが山に帰った場合早く閉園になります。
休園日:不定期
入園料:大人(高校生以上)550円 ,こども(4歳~中学生)250円

京都大学のサル研究所があり公開されている、というのは知っていたが、訪れるのは初めてだ。現在でも京都大学の施設なのでしょうか?。最初に130段の階段がある。階段が苦手の人のために、スロープの坂道も用意されています。途中にいくつか注意書きが掲げられているので、しっかり読んでおこう。

階段を登りきると、あとはよく整備された山道です。なだらかな上り坂で、休憩用のベンチも置かれているが、私のような年配者でも必要としません。所々に「オサルクイズ」が置かれ、退屈を紛らわしてくれます。英語版も用意されている。聞けば、ここ嵐山モンキーパークは国内よりは海外観光客の方に人気があるそうです。

コロナに関係なく、おサルさんとはしっかりソーシャルディスタンスをとる必要があるようです。クイズあり、注意書きあり、おサル豆知識ありで、道中は退屈しません。

山下の入口から20分位で、簡素な遊園地らしき広場にでる。長い滑り台やターザンロープなどの遊具が設置されている。『長~~いすべり台』が人気です♪、とか。

遊具のある広場から階段を登れば、素晴らしい視界がひらけ、そこはおサルの自由な世界だ。おサルが主、人が従の空間です。ここは嵐山のなかの一つ、標高160mの岩田山の頂上です。
「ニホンザルは雑食ですが、他の動物を捕まえて食べることはしません。主に食べるのは、木の実や葉で夏になると昆虫類も食べます。園内にはシカをはじめいろいろな野生動物が生息していますがみんな仲良くくらしています」(坂道の説明板)そうです。

おサルを見学する前に、まず展望所へ。標高160mからは嵯峨野はもちろん、京都市内を一望できます。このこたちは毎日この風景を見ながら暮らしているのですね。

この嵐山モンキーパークは、昭和29年(1954)に京都大学が研究のために、嵐山でくらしていた野生のニホンザルを餌付けしたのが始まりです。昭和32年(1957)から一般にも公開されるようになった。口コミ、現在ではSNSで広がり、外国観光客に人気があるようです。奈良の鹿同様に、動物と人とが自然に触れ合うのが珍しいのでしょうか。

現在 約120頭 のニホンザルが野生の状態で暮らしている。全てのニホンザルに、個々に名前がついており、家族関係がわかるようになっているそうです。識別名の記入された首輪とか腕輪があるのかとみるが、それらしきものは付けていない。係りの人に尋ねると、顔と体つきで覚えているそうです。学校の先生が生徒を覚えるのと一緒で、性格もわかります、と笑っておられた。すごいですね、120頭のサルですヨ。一緒に生活していると覚えられるものでしょうか?。

広場にある建物はこの休憩所だけ。この広場で、1日3回(10時30分、12時30分、14時30分)のエサやりタイムがあり、パーク内のほとんどのサルが集まって、おサルの饗宴を見学できるという。12時過ぎに到着したので少し待てば見れると思ったら、今日は1時になるという。そこまで待っていられないので諦めました。

休憩所は、見学者のサルへのエサやり場も兼ねている。この建物内からでしかエサをやることはできず、エサの持ち込みも、広場でのエサやりも禁止されています。
窓は金網がはられており、手前の板棚にエサを置いてやると、金網の間から手を差込み取ります。エサは休憩所で1袋100円で討っている。バナナ、りんご、落花生などだが、一番の好物はバナナとか。

屋根の上も憩いの場のようです。どこから上がるのだろうか。エサ場の金網かな?。

屋根の上で毛づくろい(グルーミング)しています。親子、夫婦、親分・子分・・・気持ち良さそうだナァ。
説明板によれば、ニホンザルの出産期は4月から7月で、その頃はかわいい赤ちゃんを間近で観察することができる。妊娠期間は約6ヶ月で双子はほとんど生まれない。大人になるまで10年かかり、寿命はだいたい30年だそうです。

おサルさんたちが京の町を見下ろしている。毎日見ているこの風景、でもなんの感慨も浮かばないだろうナ。

下山途中で渡月橋をみると、かなり人出が増えてきたようです。


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嵯峨・嵐山 散歩 1

2020年12月13日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2020年11月25日(水曜日)
司馬遼太郎「街道をゆく」のなかに「嵯峨散歩」というのがある。水尾、天竜寺、保津川と渡月橋、大悲閣、法輪寺、松尾大社、車折神社について述べています。これを読み、私も久しぶりに嵐山へ行ってみたくなった。年に2、3度は行っていたのだが、このコロナ騒動で昨年春以来訪れていない。外国人観光客のいなくなった嵐山ってどんなんだろう、と興味あります。

ところで、関西に住んでいるのだが「嵯峨」といってもピンとこない。「サガへ行ってきた」といっても「九州へか?」というのがオチである。ところが「アラシヤマ」なら通じるのです。正確には、川を挟んで南が「嵐山」で、北側が嵯峨(嵯峨野)だろうが、渡月橋を挟んだ周辺の観光地一帯を「嵐山」と呼んでいるのが一般的だ。そこでタイトルを「嵯峨・嵐山 散歩」にしました。水尾についてだが、愛宕山の麓で余りにも遠い。一日で歩いて周れる範囲内ではありません。水尾は省きました。その代わりに、嵐山モンキーパークいわたやま、亀山公園、野宮神社、長慶天皇陵を加えました。
今回は松尾大社と法輪寺です。

 松尾大社へ  



大阪から嵐山へは、阪急・京都線の桂駅で嵐山線に乗り換えます。終点の嵐山駅の一つ手前が松尾大社駅で、駅のホームから、すぐ傍に松尾大社の赤鳥居が見えている。

駅の西口をでると、すぐ目の前に赤い大鳥居が構えている。鳥居前の車道は、京都のど真ん中を東西に貫いている四条通で、西の端はこの鳥居で塞がれている。四条通の東の端が八坂神社だ。京の町は、東西の二つの神社によって見守られているのです。東の八坂神社は観光客が多くいつも騒々しい。西の松尾大社は閑散としており、静かで神々しい雰囲気を保っている。

一の鳥居を入ると、左手に二つの石碑が建つ。手前の石碑には「義民市原清兵衛君之碑」とある。奥の石碑には「洛西用水竣功記念碑」とあり、上古には秦氏によって、近世には角倉了以により大堰川の改修が行われた。このたび農民の要望により桂川両岸一帯の用水排水溝を整備し昭和42年完竣したことの記念碑だ、というような意味のことが刻まれている。

松尾山を背にして二の鳥居が見えてきた。「七五三」の幟がはためく参道を進む。
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■ 松尾大社の歴史                             ┃
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◆◇◆~秦氏による創建~◆◇◆
松尾大社の背後は松尾山(標高223m)だ。その山頂にある巨石は、神の降臨する磐座(いわくら)として古くから住民たちによって尊崇され祭祀が行われていた。
5世紀頃,大陸から渡来してきた秦(はた)氏一族がこの地方に定住し、河川を治め農産林業を興した。大宝元年(701)、一族の長・秦忌寸都理(はたのいみきとり)が山頂の磐座の神霊を勧請し、山麓の現在地に社殿を造営し秦氏の総氏神としたのが松尾大社の起りと伝えられている。
秦忌寸都理の女の知満留女(ちまるめ)が斎女として奉仕し、さらにその子の都駕布(つがふ)が初めて祝(神職)を務めた。以後この子孫が明治初年まで松尾大社の幹部神職を勤めた秦氏(東・南とも称した)です。(1871年に祠職の秦氏世襲(33家)が廃止された)

◆◇◆~平安時代以降~◆◇◆
平安京遷都後は、玉城鎮護の神として朝廷の崇敬を受け、東の賀茂神社(賀茂別雷神社・賀茂御祖神社)とともに「東の厳神、西の猛霊」と並び称された。天皇の行幸も数十回行われたとされ、貞観8年(866)には正一位の神階が与えられたといわれている。
多くの寄進を受け、室町時代末期までには全国で数十ヶ所もの荘園を有した。また中世以降は醸造の神として人々の信仰を集めている。
江戸時代には江戸幕府から1200石の朱印地が安堵され、また嵐山一帯の山林一千余町歩を持っていた。また幕末には、勅使を派遣される勅祭社に擬せられたこともあったという。

◆◇◆~社名について~◆◇◆
社名は古くから「松尾神社」だったが、「終戦後は、国家管理の廃止により、官幣大社の称号も用いないことになったことから、同名神社との混同を避けるために昭和25年(1950)に松尾大社と改称し現在に至っております。」(公式サイトより)
また「松尾」の読み方について「公式には「まつのお」であるが、一般には「まつお」とも称されている。文献では『延喜式』金剛寺本、『枕草子』、『太平記』建武2年(1335年)正月16日合戦事条、『御湯殿上日記』明応8年(1499年)条等においていずれも「まつのお/まつのを」と訓が振られており、「の」を入れるのが古くからの読みとされる。」(Wikipediaより)

二の鳥居には、有栖川宮幟仁親王の筆になる額「松尾大神」が掲げられている。両柱間に張られた注連縄に榊(サカキ)の小枝が12束(閏年は13束)垂れ下っている。これは「脇勧請(わきかんじょう)」と呼ばれ、サカキの枯れ方により、月々の農作物の出来具合を占った太古の慣習で、サカキが完全に枯れると豊作という。鳥居の原始形式を示すものだそうです。

 松尾大社(社殿)  




二の鳥居を潜ると境内だ。まず正面に現れるのが楼門です。寛文7年(1667)の建造。正面が三間一戸で、屋根は入母屋造檜皮葺。高さ約11mもあり、質素ながらどっしりしている。
司馬遼太郎は「楼門は縦材と横材の組みあわせがいかにも力学的で、そのくせ重くるしさがなく、軽やかに安定している。シックイ壁の白さと、露出した茶黒い構造との色合いもよく、京都で完成された二本建築の一つのゆきついたかたちともいえる」とベタ褒めしています。
楼門の左右に閉じ込められているのは、仁王さんでなく「随神(ずいしん)」とよばれる人。「随神とは、平安時代、貴族の外出時に護衛のために随従した近衛府の官人で、神社においては、神を守る者として安置される随身姿の像のこと」と説明書きされている。



楼門から階段を上がった広場の中央に、能舞台のような独立した建物がある。これが拝殿です。檜皮葺きの入母屋造り、江戸時代初期の建造といわれている。
今、来年の干支の巨大絵馬を飾る作業の真っ最中でした。






1時間後にみたら枠組みが出来上がっていたのだが、絵馬が飾られるまで待っていられない。はて、来年の干支ってナンだっけ?

本殿は屋根が少し見えるだけなので、Wikipediaの説明してもらおう「本殿は、弘安8年(1285年)の焼失を受けて室町時代初期の応永4年(1397年)に再建されたのち、天文11年(1542年)に大改修されたものになる。部材のほとんどは天文11年のものであるため、現在の文化財に関する公式資料では天文11年の造営とされている。形式は桁行三間・梁間四間、一重、檜皮葺。屋根は側面から見ると前後同じ長さに流れており、この形式は「両流造」とも「松尾造」とも称される独特のものである。本殿は東面しており、彫刻や文様など随所には室町時代の特色が表れている。天文の大改修後は嘉永4年(1851年)、大正13年(1924年)に大修理が加えられ、昭和46年(1971年)に屋根葺き替え等の修理が行われた。この本殿は国の重要文化財に指定されている。」
「両流造(りょうながれづくり、松尾造)」は、松尾大社以外に宗像神社、厳島神社にみられるだけという。

本殿に祀られている御祭神は次の二柱。
●「大山咋神(おおやまぐいのかみ)」で「山の上部(末)に鎮座されて、山及び山麓一帯を支配される(大主)神」(公式サイトより)。
●「市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)」別名「中津島姫命(なかつしまひめのみこと)」で、「福岡県の宗像大社に祀られる三女神の一神として古くから海上守護の霊徳を仰がれた神です。おそらく外来民族である秦氏が朝鮮半島との交易する関係から、航海の安全を祈って古くから当社に勧請されたと伝えられております。」(公式サイトより)

本殿の正面に唐破風形の立派な門が構える。これが中門だろうか?。この中門から両側に回廊が延び本殿を囲んでいる。また中門と本殿は釣殿(つりどの)という建物で接続している。回廊は板敷で、釣殿・回廊・門の屋根はいずれも檜皮葺である。これらはいずれも江戸時代初期の建築という。
門の中央上部には菊の紋が輝き、その上に松尾大社神紋の「双葉葵」の紋が見られる。上賀茂神社、下鴨神社と同じです。

なお、通常非公開の本殿(重要文化財)の特別参拝の案内がでていた。
○参 拝 料 1名に付き、1,000円(幼稚園児以下は無料)
○所要時間 神職による説明とお祓いの儀式を含めて約20分程
○参拝受付 午前10時、午前11時30分、午後1時30分、午後2時30分

 松尾大社(庭園)  



これから庭園の見学に。庭園は有料で、本殿前の広場右端(北側)の社務所で受け付けている。
受付の横のほうに庭園入口がある。「曲水の庭」「上古の庭」「蓬莱の庭」の三庭園を総称して「松風苑」とよんでいます。松尾山山頂の磐座への登拝もここから。回廊から続いている廊下の下を潜っていく。
なお、「蓬莱の庭」だけはこの入口でなく、楼門の手前に入口がある。
  拝観時間:平日・土 9時~16時 日・祝 9時~16時30分
  庭園・神像館拝観料:大人500円 学生400円 子供300円


廊下の下を潜ると案内図がある。図のとおり、階段を上り真っ直ぐ行けば「亀の井」「霊亀の滝」へ、階段手前で右へ折れれば庭園と神像館へ行けます。

階段を上ったすぐ右に見えるのが「亀の井(かめのい)」、別名「よみがえりの水」。松尾山からの湧水で神聖な水と云われる。この霊水は延命長寿によいとされるが、酒に混ぜると腐敗しないということで有名です。そのため中世以降、醸造の神様として、全国の酒造家などから信仰を集めてきた。背後の建物は葵殿。

「亀の井」から少し登ってゆくと、「滝御前」の額がかかった赤鳥居があり、その奥に小さな滝が見える。松尾山からの渓流が流れ落ちるもので、「霊亀(れいき)の滝」と呼ばれています。

稲荷神社の狐、天満宮の牛、春日神社の鹿など、神社と動物はよく縁付けられる。松尾大社では亀が神使とされています。神社文書によれば、松尾の神が大堰川を遡り丹波地方を開拓するにあたって急流では鯉に乗り、緩流では亀に乗ったといい、この伝承により鯉と亀が神使とされた。

これから庭園を廻ります。「亀の井」手前の階段前を右に折れると葵殿へ渡る廊下があり、その下を潜ると「曲水の庭」が現れる。
松風苑(しょうふうえん)の説明板があり「当社の松風三庭は、現代庭園学の泰斗・重森三玲氏(明治29年~昭和50年)が長年にわたる庭園研究の奥義を結集し、この地上に残す最高の芸術作品として、全身全霊を傾けて造られたものです。総工費一億円、三庭に用いられた四国吉野川産の青石(緑泥片岩)は二百余個、丸一ヶ年の工期を経て去る昭和五十年に完成した、昭和を代表する現代庭園です」とあります。

(後ろの建物は葵殿)「曲水の庭(きょくすいのにわ)」は、「王朝文化華やかなりし平安貴族の人々が、慣れ親しんだ雅遊の場を表現したもの・・・あでやかな中にも気高い当時の面影を内に秘めて、しかもきわめて現代風に作庭され、四方どちらか見ても美しい八方美の姿が本庭の特色です」(説明板)、だそうです。
奥に築山と石組みを配し、その前に小石を敷き詰めて洲浜を表し、その中を御手洗川から引き入れた清流が曲水となって流れている。王朝風の優雅さと、立石による荒々しさが調合されているのが現代風なのでしょう。

「曲水」といえば鳥羽・城南宮の「曲水の宴」が想起される。苔むした「平安の庭」に曲がりくねって流れる小川を舞台に雅な王朝の宴が催されるのです。白拍子の舞が披露されるなか、川沿いに座った平安装束の歌人が和歌を詠み短冊にしたため、曲水を流れくる盃のお神酒をいただくのです。
城南宮ほど雅でないが、ここでも春には雛流しが行われるという。

次に神像館への渡り廊下の下を潜ると「上古の庭」が現れる。
神像館の入口もここになる。神像館に入ると、係りの人が解説用のテープを流してくれます。目玉は館内中央に展示されている男神像二体と女神像一体。松尾大社の祭神を表したもので、老年像が大山咋神、女神像が市杵島姫命、壮年像をその御子神として表わしたものという。平安時代初期の作で、等身大坐像・一木造り、我が国の神像彫刻中、最古最優品として重要文化財に指定されています。その他、摂社・末社に祀られていた神像18体も展示されている。
お寺に仏像は普通だが、神社で姿の見えない神を具現化するのは珍しい。これは神仏習合の影響で、境内に神宮寺が置かれ、そこに神像が安置されていたものです。近代、1868年の神仏分離令後の廃仏毀釈により、京都国立博物館に遷され、1994年に返還された。

「上古(じょうこ)の庭」は「磐座の庭」ともいわれ、松尾大社が創建される以前を表したもの。神の領域は結界の石によって立ち入れない聖域とされている。
感得できない自分が悲しい・・・。

「上古の庭」から塀の外に出て、庭園や神像館、葵殿の周囲を一周できるようになっている。その裏道の中ほどに、簡易鳥居が建ち「磐座登拝口」となっている。ただし「入山禁止」のロープが張られています。手続きすれば入山できるのでしょうか?。公式サイトに「この度の平成30年9月の台風21号通過による倒木・山崩れ等の影響により、磐座登拝道の修復が不可能となり、今後一斉の"磐座登拝"を廃止致します。」とあったのだが。

磐座信仰で有名なのが奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)だ。大神神社には拝殿しかなく、本殿は背後の三輪山(みわやま、467m)そのものです。この三輪山に2013年5月登りました。入山受付所で入山者カードに氏名、住所、電話番号を書き、三百円支払うと「三輪山参拝証書」と書かれた白いタスクをくれます。山中では、飲食、写真撮影が禁止され、タスキを外すことも禁止されている。さらに下山しても山中での情報を他人に話してはならない、とされどこまでも神秘で厳粛な山です。首に掛けたタスキの鈴がチリンチリンと鳴り、なにかお遍路さんのような気分でした。
ここ松尾山はどうなんでしょう?。


「蓬莱(ほうらい)の庭」は少し離れた所にあります。楼門の外に出て、北側を見ると入口がある。

現代の作庭家・重森三玲(1896-1975)の最晩年(1975年)の作庭で、絶作でもある。三玲氏が池の形を指示し、その後、長男・完途氏がその遺志を継いで完成させたもので、最初で最後の親子合作の庭園だそうです。
「伝統を重んじながらも、現代的な表現を目指した重森三玲の終生の目標であった「永遠のモダン」の、まさに最終表現の庭園が展開している」(受付で頂いたパンフより)
ぐるっと一周でき、いろいろな角度から鑑賞できる。重森三玲の庭園を見るたびに、庭園とは難しいものだ、というのが率直な感想です。

 松尾大社(その他)  



第二の赤鳥居をくぐった左手に三艘の舟が積み置かれている。
松尾祭の「神幸祭」(4月20日以降最初の日曜日)で、松尾大社から出発した神輿六基と唐櫃は各氏子地域を巡幸した後、桂川に架かる桂大橋上流付近の桂離宮東側で舟渡御(川渡り)を行う。この舟渡御で使用される「駕輿丁船(かよちょうぶね)」とよばれる舟です。

同じく赤鳥居をくぐった左手にお酒の資料館があります。松尾大社の祭神・大山咋神は酒の神様として崇敬され「日本第一酒造之神」の石柱が建つ。酒だけでなく醸造祖神として、全国の味噌、醤油、酢等の製造及び販売業の方からも崇敬を受けているという。開館は午前9時~午後4時、入館無料。朝8時半前だったが開いていて入れました。


松尾大社と酒の関わり、酒の歴史と祈り、酒の文化、酒造りの工程のコーナーに分かれ、展示と解説がされている。古くからの酒造用具や手法なども展示されている。

拝殿の左(南側)に「神輿庫」という建物がある。名前からしてお祭りの神輿が収められているものと思われます。
軒下に積み上げられた酒樽がすごい。全国の酒造家から奉納されたものです。私が知っているのは「日本盛」くらい。酒好きの人は、これを見ているだけでほろ酔い気分になるのでは。

神輿庫の前に「樽うらない」がある。樽の中の黒い部分に当たれば「大吉」、赤い所なら「当り」、樽の中に当たらなかったら「あまり福」。樽をハズしてもハズレはないので、お守りがもらえます。。

本殿前左手の覆屋の中に、大〆縄を幹に巻かれた古木が残されている。これは雌雄根を同じくし「相生(あいおい)の松」と呼ばれていたが、昭和31・32の両年にそれぞれ350年の天寿を全うした。こうして保存され、夫婦和合、恋愛成就の象徴として信仰されている。

右の写真は生存時の様子(案内板より)

亀と鯉は松尾大社の神使いです。相生の松の背後に「幸運の撫で亀」がある。撫でると“寿命長久・家庭円満”のご利益があるといわれるが、写真のようにカバーで隠されている。コロナの影響です。
本殿正面を挟んで反対側には「幸運の双鯉(そうり)」がある。撫でると“恋愛成就・夫婦円満・立身出世”のご利益があるのだが、こちらも隠されています。


「撫で亀」はもう一箇所あります。拝殿前の階段右脇ですが、触られないように頭巾で覆われ隠されている。賽銭箱はしっかり開いていますが。








 法輪寺(ほうりんじ)  



次は法輪寺(ほうりんじ)です。松尾大社から渡月橋に向って20分位歩けば左に法輪寺の入口が見えてくる。渡月橋の手前200m位でしょうか。
所在地は「京都府京都市西京区嵐山虚空蔵山町68」、寺名は「智福山法輪寺」、宗派は「真言宗五智教団」

車道脇の入口を少し登ると山門があり、その奥に階段が見える。

◆◇◆~法輪寺の歴史~◆◇◆
寺伝によれば、和銅6年(713年)、行基が元明天皇の勅願により、国家安穏、五穀豊穣、産業の興隆を祈願する勅願所として「葛井寺(かづのいでら)」を建立したとされる。これが法輪寺の起源で、開基は行基となる。
西暦800年頃、弘法大師の高弟・道昌僧正(どうしょうそうしょう)が大堰川を修築し、橋を架けた。この橋がのちに「法輪寺橋」と呼ばれ、さらに「渡月橋」となる。道昌は空海の指示により葛井寺を再興し、虚空蔵菩薩像を安置した。そして貞観10年(868)、寺号を「法輪寺」に改めたのです。

天慶年間(938~947)には空也上人が入寺して伽藍を整えた。吉田兼好の『徒然草』や清少納言の『枕草子』の中に登場するなど、文化人にも親しまれていた。
応仁の乱(1467~1477)によって災禍を受け、衰退していく。江戸時代の慶長11年(1607)に後陽成天皇と加賀前田家によって再建されたが、元治元年(1864)七月の蛤御門の変で建物はことごとく灰燼に帰してしまう。
その後、本堂が明治17年(1884)に再建され、客殿、玄関、庫裏、山門など大正3年(1914)までに順次整えられ、現在の寺観になった。

山門を入ったすぐ右側に、お寺には不似合いな「電電塔」という顕彰台が設けられている。なんと電気のトーマス・エジソンと電波のルドルフ・ヘルツの胸像がはめ込まれているのです。


参道階段60段目の左脇に赤鳥居の「電電宮(でんでんぐう)」が鎮座している。
公式サイトに「道昌僧都が百日間の求聞持法を修し、満願の日に井戸で水を汲んでいると明星が天空より降りそそいで、虚空蔵菩薩が来迎したと伝えられています。本尊の顕現としての明星天子を本地として『電電明神』を主神とする『明星社(みょうじょうしゃ)』が鎮守社のひとつとして奉祀されました。」とあります。
元治元年(1864)の蛤御門の変で焼失したが、昭和44年(1969)に社殿が再建され、「電電宮」と改称された。同時に電電宮並びに電電塔奉賛会(電電宮護持会)が発足した。
電電宮の手前にあるのが「獣魂供養塔」。毎年4月中旬に京都市食肉協同組合による畜肉の獣魂を慰霊する法要が行なわれるそうです。

電電宮護持会の会員名には、関西のみならず全国の電気・電力・IT・通信・放送に関わる有力企業の名前がずらりと並んでいます。毎年5月23日を電電宮大祭日と定めている。

法輪寺では、SDカード(容量は2GB)と変換アダプターがセットになったマイクロSDカードのお守りを販売しているそうです。カードには本尊・虚空蔵菩薩の画像ファイルが入っているようだが、気になるのはお値段・・・。

階段を登りきると、正面に本堂がたたずむ。明治17年(1884)の再建で、本尊の虚空蔵菩薩が祀られています。奥州会津柳津の円蔵寺、伊勢の朝熊山の金剛證寺とともに「日本三大虚空蔵」の一つで、「嵯峨の虚空蔵さん」と呼ばれ親しまれている。
本堂前の両脇には、虚空蔵菩薩が丑寅年生れということから右手に寅、左手に牛の石像が置かれている。寅年と丑年生まれの方は特に御利益があるようです。

登りきった階段の上から振り返った写真。階段は全部で92段ありました。広くて優しい階段で、登りやすかった。

境内左手には多宝塔が、その横に針供養塔が。2月8日と12月8日は針供養の日です。コンニャクに使用済みの針を刺して供養し、さらなる針仕事の技術上達を祈願する。これは硬いものを通していた針を柔らかいコンニャクに刺し休ませる、という意味だそうです。現在でも毎年12月8の針供養の際には、皇室で使用された針を供養し宝塔に納めているという。平安時代、清和天皇によって針供養の堂が建立されたことが由緒とされる。

階段を登りきった境内右脇に羊の像が置かれている。羊は虚空蔵菩薩が姿を変えたものだとされ、羊の頭に触れると智恵を授かれるといわれている。

羊の横には「うるしの碑」があります。碑文によると、文徳天皇の第一皇子・惟喬親王(これたかしんのう、844-897年)が当寺に参籠され、本尊虚空蔵菩薩より「うるしの製法」と「漆塗りの技法」を伝授され、それを全国に広めたという。その参籠満願が11月13日だったので、その日を「うるしの日」と定め、漆業の発展を毎年祈願しているそうです。

境内北側には、境内と同じくらい広い見晴台がある。欄干で囲われ、「舞台」と呼ばれるのもうなずけます。

真下に渡月橋を望むことができ、嵯峨、嵯峨野の景観が広がる。

京都市内から比叡山、東山の山々まで見渡すことができます。 あいにく今日は曇り空なのですが・・・。

見晴台から眺めた法輪寺境内。階段の除いて、これが法輪寺の全てです。

渡月橋を南に渡りきった所に法輪寺への裏参道があり、渡月橋からは最短で登れます。「十三まいり」の文字が掲げられた簡易な門が微笑ましい。私は登ってないのだが、狭くて急な階段が想像されます。

法輪寺は「十三まいり」の寺として有名です。4月13日の前後1ヶ月の間に、干支が一巡する数え年十三歳になった子供が、晴れ着で正装し法輪寺にお参りし、智恵を授けていただけるようにご本尊の虚空蔵菩薩に祈願するのです。平安時代の初め、幼くして帝位についた清和天皇が13歳の頃に通過儀礼として行なったのが始まりとされる。天皇家や貴族などの限られた人々だけの儀礼だったが、江戸時代中頃から近畿地方を中心に一般の人々にも広まっていった。
法輪寺でお参りをした後、渡月橋を渡って帰路につく。このとき、渡月橋を渡りきるまで後ろを振り返ってはならないとされる。途中で振り返ると、授かった知恵が全部戻ってしまう、という言い伝えがあるからです。

この裏参道は、「十三まいり」で渡月橋へ行くために設けられた道でしょうか。あるいは単に渡月橋からの近道としてのもの?。


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紀三井寺から和歌の浦へ 3

2020年07月20日 | 寺院・旧跡を訪ねて

新和歌浦から高津子山へ

 紀州東照宮(きしゅうとうしょうぐう)  



玉津島神社を出て、天神山の山裾を目指して歩きます。川に沿ってよく整備された歩道が設けられている。欄干に擬宝珠、這い松のような背の低い格好いい青松が等間隔に植えられ、その間には和歌と墨絵の描かれたパネルが配される。景観保存の試みが窺えます。かってこの辺りは海辺だったでしょうが、現在は埋め立てられ住宅地となっていて、昔の面影は全くありません。

西へ15分ほど歩けば紀州東照宮の紅い大鳥居が見えてくる。玉津島神社から20分ほどでしょうか。とつぜん徳川の家紋・三つ葉葵が目に飛び込んでくる。

紀州東照宮は、徳川家康の十男である紀州徳川家初代藩主・頼宣(1602~71)が、元和7年(1621)に父・家康の霊を祀り南海道の総鎮護として創建したもの。現在は頼宣も合祀されている。その華麗で豪華な権現造りの社殿は「関西の日光」とも呼ばれています。

三つの鳥居を潜ると小石の敷き詰められた参道です。参道の両側には、徳川家の家臣達が寄進した石灯籠が並ぶ。400年の歴史を刻むだけに、今にも崩れそうだ。

神社らしく鬱蒼とした樹木の覆われた参道を進み、一度左に曲がると正面に階段が見えてくる。煩悩の数と言われる108段の石段で「侍坂(さむらいざか)」と呼ばれている。かなりの階段に見えるが、紀三井寺の結縁坂の階段の半分以下です。紀三井寺で厄払いし、ここで煩悩落としします。

階段左横には「ゆるやか坂」がある。遠回りになるが、ゆるい階段と坂道で権現さんまで行けます。ただし、煩悩は落ちないでしょうが。奠供山にあったような昇降器はどうだろう、ここならエスカレーターか。



煩悩を落としながら登りつめた先はきらびやかな朱塗りの楼門です。楼門とその両脇の東西廻廊は国の重要文化財となっている。



楼門の左右に仁王像が・・・よく見たら武将の絵姿でした。もちろん徳川家康でしょうね、牢に閉じ込められた・・・。反対側は頼宣でしょうか。



境内奥の一段と高くなった所に豪華な唐門が構え、唐門の両側から伸びた瑞垣(みずがき)がコの字形に社殿を囲んでいる。社殿は、拝殿・石の間・本殿を一つの建物にまとめた権現造りとなっている。桃山時代の遺風をうけた江戸初期の代表的な建造物といわれ、拝殿・石の間・本殿、唐門、東西瑞垣、楼門、東西回廊が重要文化財に指定されています。本殿に祀られているのは東照大権現(徳川家康)と南龍大神(紀州藩初代藩主徳川頼宣)。
よくみると、足場用の鉄パイプが社殿を囲んでおり、台風被害により修復中のようです。唐門から中へ入り、社殿をぐるっと一周したが、足場のパイプが目立ち、神々しい厳かさは感じられなかった。
社殿見学は、午前9:00~午後5:00、大 人:300円、小中高生:100円

社殿にある左甚五郎作と伝わる彩り鮮やかな彫刻と狩野探幽の豪華な襖絵が有名です。実物を目にすることができなかったのですが、社務所に写真が掲示されていた。






境内東の「神輿舎(みこしや)」。正面扉には和歌祭の様子を撮った写真が貼り付けられています。名前からして和歌祭で使われる神輿が置かれているのでしょう。
和歌祭は、頼宣が元和7年(1621)に紀州東照宮を創建し、その翌年から始めた例大祭。家康の命日である5月17日に近い日曜日に行われる。108段の侍坂を勇壮に下る神輿がみものとか。

楼門を通して和歌浦湾を撮る。

 和歌浦天満宮(わかうらてんまんぐう)  



紀州東照宮の前に御手洗池公園がある。紅欄の橋とぼんぼり、そして開花中の桜に彩られた美しい公園です。

御手洗池公園の北側に和歌浦天満宮が見えている。また階段だ!。
大鳥居傍の由緒書きには
「醍醐天皇延喜元年春(901)右大臣菅原道真公は筑前大宰府に左遷せられ赴任の時、海上風波を避難せられ暫時、此の和歌浦の地に立寄り地元漁民達がこれをお迎え申し上げ綱を巻き、円座を作りここに休まれました。世に綱引天神とも申されます。風波静まり、御船で御任地に向かわれる時、
  ”老を積む身は浮船に誘はれて、遠ざかり行く和歌の浦波”
  ”見ざりつる古しべまでも悔しきは 和歌吹上の浦の曙”
二首の御歌を詠じられ、遠く太宰府へ旅立たれました。
その後、人皇六十三代村上天皇の康保年間(964~968)に至って、参議橘直幹が太宰府より帰京の途中御船を停め、菅公を追慕し、此地に神籬を立て道真公の神霊を勧請してお祀りし、宝殿を営築したのが当社の始まりです。」と書かれている。(綱引天神については、神戸市須磨区の綱敷天満宮の説もあり)

和歌浦天満宮は標高約93mの和歌浦天神山の中腹に位置する。そのため紀三井寺、紀州東照宮同様にきつい石段を登らなければならない。段数を数えたら50段だったので少しはましですが、その代わり踏み石が不整形でデコボコしていてかなり上り辛い。その分、中央に手摺は用意されています。
階段手前には狛犬が・・・いや木彫りの狛牛でした。

階段左側にゆるやかな石段が設けられている。「女坂」と呼ぶそうですが、正面のゴツゴツした階段はさしずめ「男坂」でしょうね。距離は三倍ほどありそうだが、石灯篭が並ぶ女坂のほうが雰囲気ありそうです。

階段を登りきると、紀州東照宮と同じように楼門(重要文化財)とその両脇の廻廊が構える。
楼門(重要文化財)の案内板に「この楼門は四本の太い丸柱をもち、一間一戸、入母屋造、本瓦葺の建物である。墨書によって慶長十(一六〇五)年に再建されたことがわかる。一階の柱間には厚い板扉が釣込まれている。二階は三間二間の建物としているが、このような類例は非常に少ない。軒は二軒扇垂木であるが、軒の反りがのびやかで全体として秀麗な印象を与える建物である。桃山時代の建築様式を示す美しい楼門であるが、全体に禅宗様式が取り入れられている。」とあります。

境内正面に唐門があり、その奥に本殿が控える。和歌浦天満宮は、天正13年(1585)の豊臣秀吉による紀州攻めによって焼き打ちにあい、社殿、宝物、古記録など焼失してしまう。慶長11年(1606)紀伊藩主浅野幸長が天神山の中腹を開墾して社地を造成し、本殿、唐門、拝殿、楼門、東西廻廊などを再建した。これが現在の社殿です。

本殿(重要文化財)は桁行五間・梁間二間の入母屋造、檜皮葺き。蟇股などに極彩色で飾られた豪華な彫刻が見られます。本殿や楼門などの建築や彫刻には、紀州根来出身の大工棟梁の平内吉政・政信親子が関わったといわれる。政信は後に江戸幕府の作事方大棟梁になった当代屈指の工匠という。
祭神は学問の神様である菅原道真。大宰府天満宮、北野天満宮とともに日本の三菅廟といわれています。


どこの天満宮でも合格祈願の絵馬が溢れているが、ここでも同様です。学問といえば文殊菩薩か、菅原道真。
北野天満宮の絵馬は牛の絵柄だったが、ここでは菅原道真その人です。大宰府天満宮は?。

楼門を境内側から撮る。門を額縁として、御手洗池公園から和歌浦湾への美しい景観を眺めることができます。



「和歌の浦・急峻三社巡り」の幟がゆらぐ。三社を巡ってきたのだが、興味ないので御朱印はもらっていない。
観光名所の紀三井寺・和歌の浦巡りだが、”急峻”の名に相応しく健脚の人でないと苦労するでしょう。一番辛かったのは30mほどの奠供山でした。これから最後の高津子山登りが待っている。

 新和歌浦 



明治になっても、玉津島神社、東照宮や妹背山、片男波の砂洲がある和歌の浦は別荘地・行楽地として賑わった。明治42年(1909)に路面電車(南海電鉄和歌山軌道線)が和歌浦まで開通し、多くの人々が気軽に訪れることができるようにもなった。さらに観光客を呼びこもうと、奠供山エレベーター開設(1910年)にみられるように開発の気運が高まる。しかしさらなる開発を阻止し自然景観を守ろうとする開発反対の動きも起きてきた。

そこで開発推進派が目をつけたのが、和歌浦に隣接して、当時はほとんど観光客が訪れることがなかった、新和歌浦です。
Wikipediaは次のように記します「大正6年(1917)に伊都郡の資産家森田庄兵衛が開発会社新和歌浦土地を設立し、和歌浦は転機を迎えた。庄兵衛は和歌浦港より西側の海岸線を買い占め、道路を開いて本格旅館を相次いでオープンさせた。庄兵衛の死後も新和歌浦のリゾート開発は継続され、1932年には年間100万人を誘致する観光地となった。その一方で、旧来の和歌浦は老舗旅館が相次いで廃業・移転し、片男波と歌われた海岸は工業用地として開発されるなど、行楽地としてのポジションは新和歌浦側に移ってしまった。」
大正中頃から和歌の浦西方の海岸に沿い、山を削り、トンネルを通して、大旅館や遊園地を建設し、一大観光スポット「新和歌浦」として開発されていった。観光の中心は和歌の浦から新和歌浦へ移っていった。

昭和から戦後も大規模な開発が続けられます。「1950年に、毎日新聞による「新日本観光地百選」の海岸の部にて1位を獲得すると、その美しさが全国的に知られるようになり、加えて縁結び信仰が強かった玉津島神社の存在意義も相俟って、全国随一の新婚旅行スポットとなり、観光客は一段と増加した。さらにその後は瀬戸内海国立公園への編入も決定したことで、年間宿泊者350万人を数える一大観光地に成長した。 高津子山(たこずしやま、章魚頭姿山とも)にはソメイヨシノが植樹され、春先になる絢爛と花を咲かせることから、「西の嵐山」などと称された。ほかに、新和歌浦ロープウェイ(和歌の浦温泉 萬波 前の高津子山に存在した)の敷設や和歌浦遊覧船の周航開始など、次々に観光開発が進行し、うらぶれた漁村であった一帯は大きな変化を遂げることになった。」(Wikipediaより)

しかし戦後日本の高度成長が終わろうとする1960年代末頃から様相が一変する。旅行が多様化してくると、海岸と宿泊施設だけでは旅行客を呼び込めなくなってきた。また新婚旅行は宮崎など九州地方に流れ、国内温泉ブームは白浜や勝浦へ人々を向わせ、新和歌浦への宿泊客は大幅に減少していった。1971年には旅館寿司由楼火災で16人死亡、南海和歌山軌道線が廃止、和歌浦遊覧船周航も廃止、遊園地やロープウエイの閉鎖、さらに著名な大型ホテルや著名旅館が経営に行き詰まって倒産するなど、暗い話題ばかりが和歌浦を包み込んでしまった。

Wikipediaはさらに書きます「上記の廃業ホテル、旅館は手付かずのまま放置されていた。それ故、2002年頃に廃墟ブームが勃発すると、巨大な廃墟物件を抱えていた和歌浦は「廃墟の聖地」と揶揄されるまでになっていた。「宇宙回転温泉」と称する回転型の浴用施設(温泉と名乗っているが温泉ではない)を設けていた廃業旅館や、火災で大量の死者を出し、ボウリング場を併設して再起を図るも心霊現象が起こるなどの風評もあり、汚名を返上できず廃業したホテルなどは、その巨大さと豪華さと荒れ具合ゆえに当時多くの話題を生んでいる。特に高度経済成長期に闇雲な建て増しを行い、建物内部が迷路のような構造となっていた廃業旅館は、サバイバルゲーム愛好者や廃墟マニアにとって屈指の人気スポットであった。」

日本屈指の観光スポットから廃墟スポットへ、これからその光と陰の跡を訪ねてみます。

和歌浦天満宮から車道を西へ15分ほど歩けば和歌浦漁港が見えてくる。ここには平成24年11月に開設された新鮮な魚介類や水産加工品を販売する交流施設「おっとっと広場」がある。販売だけでなく、おいしい魚料理が食べられるようですが、残念ながら土日祝祭日のみのようです。


和歌浦漁港を左下に見下ろしながら車道脇の歩道を歩く。よく見ると、歩道の手摺は欄干風で擬宝珠まで付いている。かっての観光遊歩道の名残りでしょうか。その行き先にトンネルが二つ見える。右のトンネルは現在も車が通っている。左のトンネルは赤錆びたレンガに蔦が覆っている。新和歌浦の開発が始まった大正時代に掘られたトンネルです。このトンネルの横に歩道が見える。しかし古いトンネルも歩道も立入禁止になっています。
観光パンフレットにのっている「新和歌浦・観光遊歩道路」の入口がこの辺りになっているが、立入禁止になっている歩道がそれなのでしょうか?。パンフレットを見れば、観光遊歩道路は新和歌浦の海岸に沿って設けられており新和歌浦観光のメインストリートのようなもの。


トンネルの手前に漁港へ降りる階段があるので、とりあえず下へ降りてみた。そこは和歌浦漁港の西の端で、高架道路の橋脚らしき残骸が残っている。かっての観光遊歩道路の名残でしょうか?。

高架道路らしき残骸の海側に階段があり、そこから歩道が通っている。どうやら海岸道路、即ち観光遊歩道路らしい。ところが「工事中につき通行止」となっている。残念!、引き返すか、と考えたが、せっかく来たのだから行ける所まで行ってやろう、と通行止のロープを跨ぐ。歩道に上がると小さな灯台が立っている。現役の様子はないので、これも過去の遺物なのでしょうか。
灯台もとで作業服姿の人に出会う。尋ねると「この先で遊歩道の補修工事をやっているので通れませんヨ」とのこと。どうするか、行ける所まで行くことに。

灯台を過ぎると観光遊歩道路は砂浜となる。新和歌浦が華やかし頃、浴衣姿に下駄履きで、カランコロンと、いやジャリジャリと多くの観光客が砂を踏みしめ歩いたことでしょう。
中央の白い建物の脇で重機が見える。そこで道路の補修工事をやっているようだ。砂浜の手前に上に登る細い坂道があったので、ここで観光遊歩道路とは別れる。

車道まで登ると、そこはさっきのトンネルの出口でした。現役のトンネルには「新和歌浦隧道・1971年6月」と表示されている。旧トンネルの上部に文字が刻まれているが読めません。内部を覗くとゴミ捨て場となっていた。

車道を高津子山の登り口目指して歩きます。右側の建物には「国民宿舎・新和歌浦ロッジ・天然紀州温泉元気の湯」の看板が。その先のハイカラな白いたてものは「エビカリス」となっている。営業しているのでしょうか?。全く人を見かけません。車も停まっていない。車道もほとんど車は通らない。私一人がカメラをぶら下げ歩いているだけ。ゴーストタウンのようです。

さらに歩くとオレンジ色の建物です。ホテル「萬波」とあり、現在でも営業しているとか。しかし人の気配は全くありません。このホテルの前に高津子山への登り口があるのです。

ホテル「萬波」の手前に写真のような案内を見ました。この坂道を降りると観光遊歩道へ降りれるようです。半分諦めた観光遊歩道だが、工事現場は通り過ぎているので再度挑戦することに。

坂道を少し降りると、ここにもトンネルを見つけました。新和歌浦開発期の二番目のトンネルだ。ちょうどホテル「萬波」前広場の下辺りになる。30mほどの長さで、出口の先には道は無く、崖っぷちとなっている。この廃道は、かっての栄華を示す印として残されているのでしょうか。

廃トンネルの手前に坂道があり、傍に「遊歩道、ビーチ、夢の鐘」の標識が立つ。ところがここにも「立入禁止」のロープが張られている。ここも強行突破、ロープを跨ぎます。ちょうどホテル「萬波」の横を降りていく。

坂道を降りるとホテルと砂浜の間にでる。工事箇所は砂浜の向こう側です。砂浜の先には、親和歌浦の観光スポットの一つだった「蓬莱岩(ほうらいいわ)」が見える。浜辺から突き出た奇妙な形の岩で、一箇所穴が開いている。長年の波風の浸食によってこんな形状になったのでしょう。中国の不老不死の地とされる霊山・蓬莱山にかこつけた名前だが、「双子岩」でよかったのでは・・・。

観光遊歩道は、砂浜を通りホテル「萬波」の裏側から田野浦漁港へ続いている。ところが写真のように「キケン!立入厳禁」となっている。ここまで立入禁止を無視してきたが、ここでは表現がかなりキツイ。制止ロープの先を見れば、ホテルの裏側が土砂崩れし道をふさいでいます。どうすべきか?。
ここまで山部赤人が来たとは思えないのだが、側壁には彼の歌が刻まれ旅情を誘う。キケンを無視して、ここでもロープを跨ぎました。

崩れたガレキが道を10mほど覆っている。気を付けながら歩けばそれほど危険ではないのだが、ホテル丸ごと倒れてくるのではないかという恐怖感を覚えました。後でネットで調べると
「平成30/4/16 和歌浦観光遊歩道路における崖崩れについて
和歌浦観光遊歩道路(萬波リゾート東側付近)において、崖崩れが発生し、観光遊歩道上にコンクリート片や土砂等が流入しました。現在、遊歩道上の危険箇所を閉鎖し、立入禁止の措置を行っていますので、お知らせいたします。」という和歌山県観光課の発表が載っていた。2年前の出来事だが、そのまま放置されている。県からも見捨てられた和歌浦観光遊歩道路です。

キケン箇所を無事に過ぎると、今では古さびたコンクリートの観光遊歩道が続く。遊歩道は三つ目の砂浜に出会います。砂浜を歩いていると右側の岩壁に、あばら骨だけになった建物の遺物が残されている。これは何の廃墟なのでしょうか。撤去されず無惨な姿をさらしたままなのは、現在の新和歌浦の姿を象徴しています。
かって観光地として栄えた新和歌浦には、廃業旅館などが廃墟として多く残されたままだったが、「それにより不法侵入が絶えず、また心ない破壊活動、放火未遂などにより、環境面や防犯面で周辺住民や一般宿泊者、関係者から苦情が絶えなかった。それに加え、廃業旅館は建て増しによる耐震性の不備が指摘され、その巨大さもあって南海大地震が起これば崩落して周辺に多大な被害をもたらすことが予想された。そのため、2005年10月にこれらを含めた廃墟物件は軒並み撤去されることになり、一連の騒動は終止符を打った。」(Wikipediaより)

砂浜が終りコンクリート歩道が始まる所に、赤レンガ造りの小さな塔が建ち、鐘が吊るされている。「夢の鐘」と呼ばれ、昭和60年頃に和歌の浦観光旅館組合が建てたものらしい。傍の説明板は擦れて判読しがたいのですが「この夢の鐘は山部赤人が歌ったように数羽の?が大空に舞い上がっているイメージを?のカーブとステンレスで形どられた鶴で表現しました。ミラータイルに映る青い空と???夢の音色を奏てます。ここを訪れる人のおもいおもいの幸せを祈ってこの鐘をついて下さい」とあります。
今や「悪夢の鐘」に。

新和歌浦観光ホテルに添って歩道を歩く。パンフレットには観光遊歩道となっているのだが、ここまで観光客どころか地元の人とも全く出会っていない。道が寸断され、過去の痕跡が傷ついたまま残存されているこの道を、今なお和歌山県の観光パンフレットに推奨コース「観光遊歩道路」と案内するのは疑問に感じます。

ホテルの裏へ回ると田野浦漁港が見えてきた。観光遊歩道は漁港の先から浪早ビーチ、浪早崎、雑賀崎へと続いているのだが、これ以上は無理です。朝から石段の上がり降り、そしてかなりの距離を歩いてきたので足にかなりの疲労を感じる。これから高津子山へも登らなければならない。新和歌浦観光遊歩道とはここでお別れします。田野浦の家々の間を曲がりくねりながら坂道を登り、車道に出る。

車道を歩くとホテル「萬波」が見えてきました。田野浦漁港から10分くらいです。ホテルの下には誰も通らない観光遊歩道が見え、ホテルが気のせいか傾いているように見える。こうしてみるとさらに恐怖感が増してきた。また赤レンガの廃トンネルの出口がみえます。現在の車道が開通するまではこのトンネルを通行していたのですね。

 高津子山(たこずしやま、たかづしやま、章魚頭姿山とも)  



これから最終地・高津子山(たこずしやま)に登ります。高津子山へは二つのコースがある。一つは紀州東照宮の東側にある市立和歌浦小学校の横から歩くコース。これはかなりの距離がありそうだ。もう一つはこれから登るホテル萬波の前からのコースで、約20分と案内されている。

観光パンフレットの地図には登り口の近くに展望台があると記されている。上を見上げると展望台が見えており、そちらに通じる細い脇道が見える。近道ならとその脇道に入りしばらく登るとロープが張られていた。立入禁止、危険などの表示は何もなく、ただ道をふさぐようにロープが張られているだけです。これで今日5度目の制止ロープだ。ここでも突破する。
少し行くとコンクリートの道に割れ目が入り、今にも崩落しそうだ。俺の重みで一気に・・・なんて想像すると足がすくむ。恐る恐る踏み越えた。

展望台となっている場所はコンクリート敷きの広い広場だ。新和歌浦が観光客で賑わっていた頃、新和歌浦遊園があり頂上までロープウェイで結ばれていたという。ここはロープウェイの出発駅・新和歌浦駅の跡ではないだろうか。新和歌浦の観光業が行き詰まり、1997年に廃止、撤去されている。
ここからの和歌の浦方面の眺めが素晴らしい。紀三井寺の白い新仏殿もはっきり見える。海に浮かぶ奠供山も想像できます。

後ろを振り返れば高津子山頂上の展望台が見えている。あそこまでロープウェイがひかれ、ゴンドラが行き来している情景が浮かんできます。


広場の横に細い階段が上っており、「展望台→」の標識が立つ。この辺り、かっての遊園の面影が残っています。


階段を上がると、すぐまた展望所兼休憩所がある。すぐ下にさっきの広場を見下ろせる。こうして上から見ると、
ロープウェイ駅の跡だというのがよくわかります。ここも新和歌浦の残滓の一つなのだ。こんなに美しい景観が広がっているのに、放置されているのはどうしてでしょうか?。和歌山県はもう新和歌浦を見捨てたのでしょうか。

頂上を目指して歩く。ゆったりとした坂道で、登るというより歩くという感じです。道幅も広く、横の樹木もまばらなため景観も楽しめ、快適に歩けます。ただ、少々足にきているが・・・。
桜の満開期なのだが誰一人として出会いません。皆さん、自粛、ホームステイを忠実に守られているのでしょうか。

頂上に到着です。頂上は、小さな広場と展望台があるだけ。周りには展望をよくするためか、樹木はほとんどありません。ここにはかって360℃見渡せる回転展望台が設置されていたそうですが、1999年に撤去され、代わりに現在の木製の展望台が造られたという。事業主・南海電気鉄道とあります。それにしても桜スポットの最盛期にもかかわらず人が全くいません。「三密」とははるかに程遠いのだが。

三角点があり、136.6mとある。「章魚頭姿山」(たこずしやま)の表記も見える。なんとも読み難い漢字なので、「高津子山」の当て字を使ったのだろうか?。調べてみると、たこ(蛸)は「章魚」とも書くようで、”タコの頭の姿をした山”ということです。海辺の漁村からは、そのように見えたんでしょうね。傍には「和歌山県朝日夕陽百選」の碑が建つ。ここからの夕陽はさぞ絶景だろうと想像できます。

展望台に上がる。360度遮るものがなく見渡せます。東の方向です。手前の和歌浦漁港から遠く名草山まで俯瞰できる。紀三井寺のお堂も見えている。ここから見ていると、海に浮かぶ片男波の砂洲、奠供山、鏡山などの島々、奈良・平安の頃の風景が浮かんできます。

南側の真下にはホテル萬波と観光スポットの蓬莱岩が。

西側の雑賀崎と番所庭園の方向。沖合いに微かに見えるのは淡路島?、四国?。

北側の和歌山港。手前に見えるのが養翠園。紀州徳川家十代藩主・徳川治宝(はるとみ)により造営された大名庭園で、海水をとり入れた汐入式の池が珍しいそうです。庭園と建物は国指定名勝の指定を受けている。

北東方向。山肌にそいソメイヨシノが植えられている。新吉野と呼ばれた時もあったそうですが、その可能性を秘めている。桜スポットとしてはまだ物足りないが、360度見渡せるこの展望と桜をコラボすれば吉野山に匹敵するかも・・・。近鉄の吉野山に対抗して、南海電鉄はここの再開発を再考すべきです。和歌山県も見捨てないで欲しい。

それにしても人がいない。桜満開の高津子山で出会ったのは三人だけでした。三密の大阪へ帰ります。


詳しくはホームページ
>

紀三井寺から和歌の浦へ 2

2020年06月27日 | 寺院・旧跡を訪ねて

 和歌の浦へ  



「和歌の浦」とは、和歌山市南西部に位置する和歌浦湾をとり巻く景勝地の総称。古くから風光明媚な地として「万葉集」に詠われてきた。古き時代は「若の浦」、「弱浜(わかのはま)」、あるいは「明光浦(あかのうら)」と呼ばれていました。平安初期に衣通姫が和歌の神様として玉津島神社に祀られてからは、皇族や貴族、歌人たちが度々訪れ和歌奉納が行われてきた。この頃から「和歌の浦」と呼ばれるようになったようです。

奈良・平安の頃には、「玉津島山」と総称される船頭山、妙見山、霊蓋山、奠供山、鏡山、妹背山の六つの小島がこの周辺にあった。潮の満ち引きで陸続きとなったり、離れて浮島となったり、その多彩な変化を現した。その神聖さから稚日女尊、息長足姫尊(神功皇后)らを勧請し、玉津島神社が設けられ、和歌の浦の中心になった。
この和歌浦は都に近いことから多くの文人、貴族らに愛されてきたが、とりわけ聖武天皇はこの和歌浦を気に入り、何度も行幸している。玉のように美しく島々が連なる眺望に感動して詔を発し、玉津島の神と明光浦霊を祀り、この風景を末永く守るように命じた。この時天皇に随行した歌人山部赤人が詠んだ歌
  「若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺をさして 鶴(たづ)鳴き渡る」
は有名です。その後、称徳天皇(765年)、桓武天皇(804年)も玉津島に行幸している。
平安初期、和歌の神として衣通姫が玉津嶋神社に祀られると、和歌の聖地として天皇や貴族、歌人たちに崇拝され参詣や和歌奉納が行われてきた。この頃から「和歌の浦」と呼ばれるようになる。

平安中頃から西国巡礼や高野山、熊野への参詣が盛んになると、その行き帰りに和歌の浦を訪れる人々も増えてきた。菅原道真に因む和歌浦天満宮が創建されたのもこのころである。
天正13年(1585)、紀州攻めを行った豊臣秀吉は和歌の浦を遊覧したのち、その北方に城を築き「和歌山城」と名付けた。これが現在の県名の由来となる。

江戸時代になると、御三家である紀州初代藩主・徳川頼宣(家康の10男)によって和歌の浦の景観の保全整備が行われた。父家康の御霊を祀る紀州東照宮を雑賀山に建立し、また母・養珠院の菩提を弔うため妹背山に三断橋をかけ多宝塔を建てた。その後の歴代の紀州藩主も和歌の浦の景観保護に尽くし、観海閣や不老橋などが造られた。

明治になると別荘地・行楽地の性格が増し、1909年に路面電車が和歌浦まで開通し、観光客増加に一役買った。夏目漱石が訪れたのもこの頃だ。しかし大正中頃から開発、観光客誘致の中心は西方の新和歌浦に移っていった。
現在の和歌の浦は、近代化とかっての景勝地との調和に悩んでいるようです。しかし時代の流れには逆らえず、景勝地としての性格は失われ、単に古跡、旧社の残る観光スポットとなってしまっているようだ。

紀三井寺から西に行くと広い大通りに出る。大通りを渡り、車道に沿って西へ歩くと旭橋という大きな橋です。橋を渡りきった所で左下の湾岸道に下ります(写真の白いビルの手前)。湾岸道は奠供山の近くまで真っ直ぐ続いている。歩くごとに和歌の浦の風景が迫ってきます。

 芭蕉句碑・芦辺屋跡  



和歌の浦に近づいてきました。右端の山が奠供山(てんぐやま)で、玉津島神社の赤鳥居が見えます。正面が鏡山、三断橋を渡って左端に少し見えるのが妹背山。妹背手前の家屋が旧「あしべ屋別荘」です。

鏡山と三断橋との間。交通量が多く、景観に見とれていると大変危険な場所だ。横断歩道も信号もありません。和歌にその絶景が詠われた奈良・平安の頃は、奠供山や鏡山は海に浮かぶ小島で波が打ち寄せ、時には潮の干満によって陸続きになったりと多彩な風景が人々を魅了してきた。現在は、その面影は全くありません。

車道を挟んで三断橋の反対側に芭蕉句碑が建つ。天保4年(1833)の建立。芭蕉句碑は紀三井寺にもあったが、芭蕉は元禄元年(1688)、吉野・高野山そしてここ和歌の浦を訪れている。句碑には「行春を わかの浦にて 追付たり」と書かれている。

芭蕉句碑があるこの辺りの平地には、かって「芦辺屋(あしべや)」という旅館があった。紀州藩初代藩主徳川頼宣が造らせた御茶屋が始まりで、明治時代には和歌浦でもっとも格式高い旅館として多くの著名人が利用している。大正11年には、皇太子時代の昭和天皇も宿泊された。しかしその後(大正14年?)に経営不振のため廃業し、建物は取り壊された。三断橋を渡った妹背山の脇には別館が今なお残されています。


絵図は「明治26年(1893)」、写真は「昭和10年代」とある。










 三断橋と観海閣  



この三断橋(さんだんきょう)は、徳川頼宣が妹背山に母の供養のために海禅院多宝塔を建てた時に造られた石橋で、三つのアーチ状の小橋をつないだ美しい橋です。ここから「三断橋」の名前がきます。
ところが、これが現在の三断橋です。橋の両側には打ち波から防御するためでしょうか、石嚢のようなもので守られています。昨年、関西を襲った大型台風のせいでしょう。和歌山は、関西にとって台風の表玄関なのです。

写真のとおりの橋の惨状だ。ロープが張られ、「通行止め」となっている。立ち入り禁止のようだが、せっかくなのでロープをまたぎました。

傍の説明板に「妹背山は、周間250m程の小島で、西側に砂岩製高覧付きの三断橋が架けられている。この橋は和歌山県内最古の石橋で、紀州藩初代藩主徳川頼宣が妹背山を整備した慶安4年(1651)頃までに建設された。中国の景勝地である杭州西湖の六橋の面影があるといわれ、独特の??・構造を持つ欄干、敷石、橋桁、橋脚は何度か補修されているが、橋の原形は崩れることなく今日まで継承されている。正面右側の「経王堂」と呼ばれる小堂の中には、梵字で書かれた題目碑がある。南側の磯辺の道をたどると東端の水辺に観海閣が建っており、西の方向へ石段を登ると多宝塔の前に出る。」とあります。

三断橋を渡り妹背山の小島へ入り、反対側に周ると海上に突き出た観海閣(かんかいかく)があります。入母屋造り、瓦葺の立派な屋根をのせているが、下は四方に柱を配しただけのただの展望所です。観海閣前の小磯は、亀の姿に似ていることから亀石と呼ばれている。潮の満ち引きで多様に変化するのでしょうね。

この観海閣は慶安年間(1648~1652)に、初代藩主徳川頼宣が木造の水上楼閣として建立したもの。何度か台風で損壊している。現在の建物は、昭和36年の第二室戸台風で流出した後にコンクリートで再建されたものです。

内部からは四方を眺めることができる。特に南側では片男波の砂州を一望でき、現在でも往時の絶景を偲ぶことができます。ここでござを広げ宴でも催されたことでしょう。現在なら、バーベキューに最適の場所ですが。

東側を展望すれば、対岸に名草山を望め、紀三井寺の伽藍が見えます。歴代の紀州徳川家の藩主は、ここから紀三井寺を遥拝したそうです。また民衆にも開放され、多くの人々が多宝塔に詣で、紀三井寺をここから拝観したという。

観海閣の北側には芦辺屋別荘が残されている。本館は無くなっているが、ここの別館は個人に譲渡され現在でも使われているとか。建物の南側は、足場が組まれ数人の作業員の方が修繕中でした。これも台風によるものでしょうか。






 妹背山と多宝塔  



観海閣の脇に階段があり、上に塔が見える。これが海禅院多宝塔(かいぜんいんたほうとう)です。
紀州藩初代藩主・徳川頼宣の生母・養珠院(お万の方)が、慶安2年(1649)に夫・家康の33回忌に多数の小石に法華経題目を書写した経石を石室(東西210cm、南北164cm)に埋納した。その上に小堂が建てられた。経石は、養珠院に賛同した上皇から庶民まで、全国から総数20万個が集められたという。
その後、養珠院が亡くなると頼宣は承応2年(1653)、母の菩提を弔うため小堂を二層の多宝塔に改築し拝殿と唐門を建立した。これが「海禅院」です。同時に、頼宣は渡るための三断橋をかけ、観海閣を造るなどして妹背山を整備した。江戸時代は紀州徳川家の庇護を受けたが、明治維新以後は庇護するものも無く荒廃し、多宝塔を残すのみとなった。多宝塔は高さ13mの総ケヤキ造り、本瓦葺き。

階段横の民家風の建物は?。洗濯物が吊るされ、犬がさかんに吠えてくれる。住宅としたら、こんな景勝地の高台に住めるなんて羨ましい。でも台風が怖いな・・・。

多宝塔の横に上へ登る道がある。すぐ妹背山(いもせやま)の頂上です。ここからは和歌浦の海がよく望まれ、片男波の出っ張りがきれいに見えます。まるで天橋立のようだ。

背後を見れば、真下の三断橋から鏡山、奠供山を見通せます。奈良・平安の頃には、「玉津島山」と総称される船頭山、妙見山、霊蓋山、奠供山、鏡山、妹背山の六つの小島がこの周辺にあった。潮の満ち引きで陸続きとなったり、離れて浮島となったり、その多彩な変化は多くの人を魅了し和歌などに詠まれてきた。現在は埋め立てられ、小島として残っているのはここ妹背山だけです。
平成20年(2008)、三断橋と共に妹背山が、和歌山県指定文化財名勝・史跡和歌の浦として指定された。

 不老橋と片男波公園  


妹背山の小島を離れ、西に進むとあじべ橋があり、その西側にアーチ型の石橋「不老橋(ふろうばし)」が架かる。片男波の砂洲に渡る橋で、和歌の浦のシンボルにもなっている。
片男波松原にあった紀州東照宮御旅所の移築に際して、第10代紀州藩主徳川治宝の命によって架けられた。第13代藩主徳川慶福の治世の嘉永3年(1850年)に着工し、翌4年(1851年)に完成。紀州東照宮の祭礼である和歌祭の際に、徳川家や東照宮関係の人々が御旅所に向かうために通行した「御成道」に架けられたものです。
石材は和泉砂岩を使用し、敷石やアーチ部分の内輪石には直方体状の石材が使用されている。橋台のアーチ部分は肥後熊本の石工集団の施工だそうです。

雲を文様化した勾欄部分の彫刻が優れている。この勾欄部分は、湯浅の石工石屋忠兵衛が造ったという。

(橋を渡り、後ろを振り返った写真)この橋を渡った先には、片男波公園や片男波海水浴場があります。ただし現在は不老橋は使われず、隣の車道橋のあしべ橋が利用されている。というか、不老橋を渡るのはやや危険な感じがします。和歌の浦のお飾りでしょう。

「不老橋」の名前の由来は、住吉神社の神主・津守国基(1023-1102年)が玉津島神社の祭神・衣通姫を詠った
”年ふれど老いもせずして和歌の浦に幾代になりぬ玉津島姫”
という歌からきているようです。

不老橋を渡り片男波公園に入ります。天橋立のような狭長の砂州半島は、和歌浦湾に注ぐ和歌川の河口部に沿うように延長千数百メートルにも及ぶ。万葉集に「潟をなみ(片男波)」と呼ばれ、その風光美が詠まれていました。現在、景勝地としての歴史的景観を考慮しつつ、市民が手軽に楽しめる文化・レクレエーション・スポーツの場として公園整備されています。
私のウォーキング地は人情味溢れすぎた新世界、天王寺公園だが、こうした自然味豊かな場所でウォーキングできるなんて羨ましい。

名草山の山腹にある紀三井寺から、和歌浦湾やここ片男波半島を眺めた景観が大変素晴らしかった。今度は逆に、ここ片男波から名草山を眺めます。かすかに紀三井寺の伽藍が、特に新仏堂のお堂がよく見える。

公園内にある唯一の建物が見えてきた。1階が健康館、2階が万葉館となっています。

万葉集の中には和歌山を旅した歌が107首あり、”和歌”は県名にもなっている。万葉館には、万葉集に関する資料や書籍が展示され、万葉シアターでは映像と音響・照明効果など使った多彩な演出で万葉の世界を体感できるようになっている。
■ 開館時間 9:00~17:00(入館は16:30まで)
■ 休館日 年末年始(12月29日~1月3日)及び設備機器等の点検日
■ 入場料 【 無 料 】

健康館は、気軽に健康運動ができるアリーナをはじめ、トレーニング室、多目的室、シャワー、ロッカーを備えたコミュニティ体育館です。レンタル自転車も置いていたので公園内を全周してみたかったが、時間の関係で断念。

西側は海水浴場「片男波ビーチ」で、ビーチの総延長は1200mもあるそうです。シーズンには大阪方面から多くの海水浴客が訪れ賑わうという。環境省選定「快水浴場百選」海の部に選定されている(2006年)。

ただし人工的に造られた海岸で、波打つ天然の砂洲とは大きく様変わりし、かっての景勝地「片男波」ではなくなっている。

 塩竃神社と鏡山  



片男波公園を後にし不老橋を渡ると、正面が塩竃神社(しおがまじんじゃ)だ。鏡山の岩盤にへばりつくように、いや食い込んで存在しています。海風に削がれ、波に洗われ、鏡山の岩盤がむき出しになっている。この辺りの奇岩の岩山に波が打ち寄せる様は、和歌浦十景の一つとされたそうです。
神社横の岩盤上に山部赤人の歌碑が干潟を眺めるように建っています。

ここはもともと玉津島神社の祓い所で、神輿が玉津島へ渡御する「浜降り神事」の際、神輿を収めて清め祓いした岩穴だった。そこから「輿の窟(こしのいわや)」と呼ばれた。大正6年(1917)に、祓所から神社になったが、今でも玉津島神社が管理されている。
拝所となっている「輿の窟」と呼ばれる洞窟の内部へ入ってみます。途中で左に曲がり、その奥の岩石のくぼみに御神体がお祀りされている。
祀られているのは「鹽槌翁尊(しおづちのおじのみこと)」。この神様は、山幸彦と豊玉姫の縁を結び、安産によって子供を授けられたことから、地元では安産・子授けの神様として信仰され、「しおがまさん」の愛称で親しまれている。またこの周辺では紀州藩の塩田があり製塩が行われてきたことから、塩づくりの神でもあった。そこから神社名がきているようです。

塩竃神社から車道を西へ100mほど行くと玉津島神社への西参道口がある。参道を入るとすぐ玉津島神社の正面だが、その反対側に階段が見えます。ここが鏡山への登り口です。
途切れ途切れに52段の階段となっており、すぐ頂上についてしまう。頂上は小さな空き地で、周囲を遮るものが無く、見晴らし抜群だ。

上は和歌浦湾と片男波の風景、下は名草山方面。

 玉津島神社(たまつしまじんじゃ、玉津嶋神社とも書く)  


玉津島神社は歴史的景勝地・和歌の浦の中心で、江戸時代以前までは玉津島神社の歴史が和歌の浦の歴史だった。。
玉津島神社の由緒について公式サイトに「玉津島社の創立は上古(じょうこ)ときわめて古く、社伝には「玉津島の神は『上つ世(かみつよ)』から鎮まり坐(ませ)る」とあります。玉津島一帯は玉出島(たまでしま)ともいわれ、いにしえ、満潮時には6つの島山(玉津島山)があたかも玉のように海中に点在していたとされます。そして山部赤人の玉津島讃歌に「神代より然ぞ貴き玉津島山」と詠まれた如く、風光明媚な神のおわすところとして崇められてきました。」とある。
社伝によれば、仲哀天皇の皇后息長足姫(神功皇后)が紀伊半島に進軍した際、玉津島神(稚日女尊)の加護を受けたことから、その分霊を祀ったのに始まるという。その後、息長足姫自身も合祀されることとなった。
神亀元年(724)、23歳で即位した聖武天皇は、その年に和歌の浦に行幸してその景観に感動、この地の風致を守るため守戸を置き、玉津嶋と明光浦の霊を祀ることを命じた詔を発する。そして景観に感動し「この地の弱浜(わかのはま)という名を改めて、明光浦(あかのうら)とせよと命じられた。玉津島と明光浦の霊が祀られたが、特に社殿があったわけでもなく、島自体が神としてあがめられててきた。「玉津嶋には社一(ひとつ)もなし。鳥居もなし。只満々たる海のはた(側)に古松一本横たはれり」との記録もある。

その後、称徳天皇(765年)、桓武天皇(804年)も玉津島に行幸している。第58代光孝(こうこう、830-887)天皇により和歌の道に秀でた衣通姫尊(そとおりひめのみこと、第十九代允恭天皇の妃)が和歌の神として合祀された。これは天皇の御夢枕に衣通姫が現れて、『立ちかえり またもこの世に跡垂たれむ その名うれしき 和歌の浦波』と詠じられたからだという。このことにより玉津島神社は、住吉大社(摂津)、柿本神社(明石)とともに『和歌三神』の一つに数えられ、和歌の神様を祀る神社として天皇や貴族、歌人たちに崇拝され参詣や和歌奉納が行われてきた。またこの頃から、「若の浦」から「和歌の浦」と呼ばれるようになる。

その後についてWikipediaは「天正13年(1585年)に紀州を平定した豊臣秀吉も早々に玉津嶋に詣でている。この後、紀州に入部した浅野幸長により社殿の再興が図られ(1605年)、初代紀州藩主・徳川頼宣により本殿などの本格的な整備がなされた。寛文4年(1664年)には、春秋2期の祭祀が復活している。現在、境内には頼宣が承応4年(1655年)に寄進した灯篭が残されている。近世に整備された玉津嶋神社は、和歌の浦の名所として巡礼をはじめ大勢の人々が詣でるところとなり」と記す。

鏡山の階段を降りると、すぐ正面が玉津島神社です。鳥居前に「日本一社・玉津島神社」の石柱が立っている。これは国内に同名の神社が多くあるが、「玉津島神社」というのはここしかない、ということです。

鳥居の左側の塀には「小野小町袖掛の塀」と案内されている。小野小町が和歌の上達を願って当神社に参詣した時、この塀に袖を掛けて和歌を詠んだと伝わることから。
鳥居右前には「衣通姫」と名付けられた桜の木があります。和歌の神様として祀られている衣通姫は、絶世の美人として知られ、その色香が「衣を通して光り輝いた」そうです。小野小町、藤原道綱母と並び「本朝三美人」の一人とも。
拝殿です。二基の石灯籠は、徳川頼宣が承応4年(1655)寄進した石灯籠の復元もの。実物は本殿前にある。名のある神社にしては境内は広くない。数分もあれば全て見てまわれます。海に浮かぶ小島だったからでしょう。

拝殿背後の一段高くなったところに本殿が建つ。樹木に遮られよく見えないのだが、「蝋色(ろいろ)施工の漆塗りが優美な春日造りで、内陣外壁3面には名勝和歌の浦の風景、根上り松などの絵が描かれている」そうです。見えている石灯籠が徳川頼宣が寄進した実物です。

御祭神は以下の四神。
・稚日女尊(わかひるめのみこと)・・・伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)の御子であり、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の妹神で、玉津島の神でもある。
・息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・・・神功皇后です。
・衣通姫尊(そとおりひめのみこと)・・・第19代允恭天皇の后で、和歌の道に秀でた絶世の美女でその麗しさは「衣を通して光り輝いた」と伝えられている。第58代光孝(830-887)天皇により和歌の神として合祀されました。
・明光浦霊(あかのうらのみたま)・・・当地に行幸された聖武天皇は、美しい景観に感動され「明光浦(あかのうら)」と名付け、その霊を祀られた。

拝殿の左に回ると天然記念物の「根上り松(名称鶴松)」がある。人工的なオブジェのようで、松とは見えない。砂や雨風によって松の根元が浮き上がり、このような有様になったのです。大正10年に和歌山市高松より移転保存されたもの。

右奥に見えるのが山部赤人の万葉歌碑。聖武天皇に随行した宮廷歌人山部赤人が詠んだ玉津島讃歌を、万葉学者・犬養孝氏(大阪大学名誉教授)が平成6年(1994)に揮毫建立したもの。

 奠供山(てんぐやま)  



境内の右奥側に周ると階段が見えてきた。30mほどの山だし、それほど傾斜も急でないので簡単に登れそうだが、そうでもなかった。足場が悪いのです。不整形の石を階段状にただ漠然と置いているだけなので、足元を見つめ気をつけながら踏みあげてゆく。足が疲れるわ、気分は滅入るわ、で散々でした。紀三井寺の230段の石段のほうがはるかに楽だった。
大正初期にはエレベーターが設置されていたようだが、残しておいてほしかった・・・。

やっとの体で山頂まで登りきる。そこに広がる眺望は疲れた体を一気に癒してくれました。
奈良時代の初め、聖武天皇が山部赤人らを引き連れここまで登ってこられた。ここから眺めた風光明美な景色にひどく心打たれた天皇は、「山に登りて海を望むにこの間最も好し。遠行を労せずして以て遊覧するに足る。故に≪弱浜・わかのはま≫の名を改めて≪明光浦・あかのうら≫と為せ。宜しく守戸を置きて荒穢すせしめることなかれ」と命じられたという。
聖武天皇もあの石段を・・・そんなはずない、当時は草ボウボウの粗道だったはず。当時、天皇は23歳、俺とはは雲泥の差でもあります。


頂上は小さな広場になっており、片隅に「望海楼遺址碑」が建つ。碑文は腐食が激しく詠むことはできません。望海楼とは765年に称徳天皇が和歌の浦の眺望を楽しむために造営された楼閣風の建物。望海楼もこの碑も、元は山麓にあったのだが、明治天皇が艦上から眺められるように山頂に移したという。なんでや、という気がします。

片男波方面の眺望。遠くに見えるのは下津の石油工場?、和歌山マリーナシティ?。かって「万葉集」などに詠まれた景観だが、当時の風景とは全く別のものに。頭と目を空にして、古の風景をイメージするしかありません。

こちらは新和歌浦方面。背後の山が桜の名所・高津子山で、今日の最終地です。

後ろを振り返れば、これから訪れる紀州東照宮や和歌浦天満宮が見えています。

これは現地の案内板にのっていた写真。左の写真に注目です。エレベーターが写っている。建物は「望海楼本店全景」と書かれている(望海楼といっても、称徳天皇が休んだという楼とは同名でも全く別物)。
明治43年(1910)、日本初となる高さ30mの昇降機(屋外型エレベーター)が旅館望海楼によって建設された。東洋一のエレベーター「明光台」として大々的に宣伝されたそうです。

夏目漱石は明治44年に関西地方への講演旅行の際に和歌の浦を訪れこのエレベーターで奠供山に登った。この時の体験が小説「行人」(大正元年12月6日~大正2年11月まで朝日新聞連載)に使われている。
主人公とその兄は泊まっていた旅館で早朝「手摺の所へ来て、隣に見える東洋第一エレヴェーターと云う看板を眺めていた。この昇降器は普通のように、家の下層から上層に通じているのと違って、地面から岩山の頂まで物数奇な人間を引き上る仕掛であった。所にも似ず無風流な装置に違ないが、浅草にもまだない新しさが、昨日から自分の注意を惹いていた。果たして早起きの客が二人三人ぼつぼつもう乗り始めた」。面白そうだと、二人は浴衣掛けで宿を出た。「すぐ昇降器へ乗った。箱は一間四方位のもので、中に五六人這入ると戸を閉めて、すぐ引き上げられた。兄と自分は顔さえ出す事の出来ない鉄の棒の間から外を見た。そうして非常に鬱陶しい感じを起こした。”牢屋みたいだな”と兄が低い声で私語いた。・・・牢屋に似た箱の上り詰めた頂点は、小さな石山の天辺であった。その処々に背の低い松がかじりつくように青味を添えて・・・そして僅かな平地に掛茶屋があって、猿が一匹飼ってあった」。その後、二人は紀州東照宮へ向う。

歩いても10分程度で登れる奠供山だが、物珍しさもあって当初は大人気だったようです。しかしだんだん飽きられ乗降客が減っていき、また環境保全の反対運動もあり、大正5年に撤去された。旅館望海楼も新天地「新和歌浦」へ移転する。

南側から撮った写真で、かって海に浮かぶ小島であった様子がうかがえる。東洋第一エレベーターと望海楼本店が彷彿としてきます。


詳しくはホームページ

紀三井寺から和歌の浦へ 1

2020年06月07日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2020年4月3日(金曜日)
4月になって春うらら。行楽シーズンになったが、世の中真っ暗。いつも出かける道頓堀、黒門市場、通天閣界隈は人影まばらで生気を失ってしまった。長年大阪ミナミに住んでいるが、こんなの初めてだ。人混みで歩くのも困難だった黒門市場は自転車でスイスイ通れる。通天閣下のビリケンさんもマスクをはめられ、人影の無くなった串かつ通りを見つめている。唯一有難いのは異邦人が消えたことだ。やっと日本語が耳に達するようになった。建設ラッシュだったホテルは、オープン早々「当面の間は休業」の張り紙が。雨後の竹の子のように増殖したドラッグストアも相次いで閉店していく。

そうだ気分を晴らそう!、どっかへ出かけよう!。高野山は別にして、紀州和歌山への出歩きは初めてだ。紀三井寺を訪れ、その後に万葉の歌に詠まれた和歌の浦へ周ることにした。世は、盛んに「不要不急」の外出自粛を呼びかけている。この時期、マズイんじゃないかナ、と自問自答します。
健康のためのウォーキングは認められている。県境を越えるのだが、一日ウォーキングは私の健康保持と気分転換に必要不可欠なのです。不急じゃないのか?。今回の出歩きは桜の名所で名高い紀三井寺と高津子山が目的だ。桜の寿命は短く、あっという間に散ってしまう。この時を逃してはならず「急」を要するのです。とかなんとか自分を納得させ出かけることに。唯一心配なのは往復の電車内、最新の注意を払います。コロナに打ち勝つ健康つくりのために、いざ和歌の浦へ・・・。
(4月8日、緊急事態宣言が天下る。紀三井寺の特別拝観も停止された。和歌の浦の神社仏閣も同様だろう。急を要して、かろうじて目的を達成することができました)

 紀三井寺(きみいでら)へ  



大阪・JR天王寺駅から特急で和歌山駅へ、そこから普通に乗換え紀三井寺駅に到着。9時前です。駅を出ると目の前に名草山が横たわり、桜色に染まる中腹に寺の甍が覗いています。薄雲が広がり、快晴とまではいきません。

駅前広場を横切り、山沿いの細い車道を南へ歩くこと10分位で紀三井寺の正面で、そこは門前町です。何軒か土産物屋さんが並ぶが、まだ開いていません。

★★~紀三井寺の歴史~★★
紀三井寺の始まりについて寺伝では「紀三井寺は、今から1240年近く昔(宝亀元年、770年)、唐僧・為光(いこう)上人によって開基されました。為光上人は、伝教の志篤く、身の危険もいとわず、波荒き東シナ海を渡って唐より到来されました。そして諸国を巡り、たまたまこの名草山の麓に一宿した折、山の頂上付近が白く光っているのを不思議に思って上がって来られると、金色に輝く千手観音様と出会われました。この地が、ご仏縁深き霊場と悟られた上人は、自ら一刀三礼のもとに十一面観音様の尊像を彫られて、これを草庵に安置し、この紀三井寺を開創されました。」(寺から頂いたパンフレットより)

中世の紀三井寺については「合せて四十九町中世以後寺領とす。天正十三年豊臣太閤征伐の時、皆没収せらる。此ノ時寺に伝ふる所の綸旨院宣種々の文書等皆散失す」(「紀伊続風土記」)。秀吉の紀州攻めによって寺領は没収され、寺の史料など皆散失したため詳しいことは分からないという。

この辺りは紀州街道沿いになり、京からはるばる熊野詣する途中の中継寺院として栄えてきた。法皇、上皇や貴族達が熊野詣の行き帰りに立ち寄っているのです。紀三井寺のご詠歌は「ふるさとを はるばるここに 紀三井寺 花の都も近くなるらん」。これは西国三十三所観音霊場の中興の祖といわれている花山法皇が、熊野からの帰りに立ち寄り、京の都に近づいたな、という感慨を詠ったものです。
江戸時代になれば紀州徳川家歴代藩主の庇護を受けたようです。

 楼門  


境内入口はこの紅い楼門です。紀三井寺への巡拝はまず階段から始まります。紀三井寺は名草山(なくさやま、標高228.7m)の西側中腹(標高50m辺り)に位置するので、そこまで登らなければならない。きつい階段です。ここから100mほど北へ回ると裏門があり(境内MAPを参照)、まわり道になりますが緩やかな坂道を使って登ることができます。階段が苦手の方にはお奨めです。駐車場も近い。

楼門は室町時代の永正6年(1509)の建立で、三間一戸・入母屋造・本瓦葺き。正面左右には仁王像を安置している。永禄2年(1559年)に加修。下階中央間は開放で扉がない。欄間には牡丹と蓮の鮮やかな彫刻が施されています。国の指定重要文化財。




楼門の左脇に閻魔大王像が置かれている。ここ紀三井寺は西国三十三所観音霊場の二番目札所。三十三所観音霊場巡りは、病死して冥土の入口にやってきた徳道上人に閻魔大王が、三十三所を巡り地獄に落ちる人々の罪を軽くしなさいと、上人を現世に送り返したことから始まったという。そういうご縁で閻魔大王さまがお座りになっているのでしょう。脇の小像は徳道上人でしょうか?。




 清浄水(しょうじょうすい)  



楼門の先には、気の遠くなるような階段が待ち構えている。「紀三井寺」の名称は、「清浄水」「楊柳水」「吉祥水」の3つの湧き水に由来します。このうち「清浄水」「楊柳水」の2つがこの階段の途中にあるので、先にこの井戸を紹介します。

三井水(さんせいすい:吉祥水・清浄水・楊柳水)は、水槽の刻銘により、紀州初代藩主徳川頼宣によって慶安3年(1650)に整備されたことが知られている。昭和60年(1985)には環境庁の「名水百選」に選定された。
石段を60段ほど登ると、右手にチョロチョロと滴り落ちる小滝があります。これが三井水の一つ「清浄水(しょうじょうすい)」です。伝説では、寺の開祖・為光上人の前に竜宮の乙姫が現れ、上人に竜宮での説法を乞うて清浄水に身を投じて龍に化身したという。
公式サイトに「大正十一年、昭和天皇陛下が皇太子殿下のみぎり、当地に行啓された時、紀三井寺の清浄水が非常に良いということで、わざわざ和歌浦の御宿舎までこの水を運んで調理その他の用水に供されたことは、当時の人々の誇りとして、今尚諸人の記憶に新たなる所です。」とあります。

清浄水の小滝を見つめるように取り囲んで後代紀州の俳人達の句碑が置かれている。一番手前には松尾芭蕉の句碑「見上ぐれば 桜しもうて 紀三井寺」(建立文化年間(1804年~)もあります。芭蕉は桜見に来たのだが、既に散始めていたのを残念がって詠ったものだそうです。

 楊柳水(ようりゅうすい)  



清浄水の所からさらに数段登れば右手に小道がある。この小道を100mほど進めば突き当たりに瓦葺の小屋が現れる。ここが「楊柳水(ようりゅうすい)」の場所だ。

公式サイトに「この水を飲む人々を病から救って下さるというありがたい水として喜ばれてきた南の滝・楊柳水ですが以前は、木々の間に埋もれ、覆屋の白壁は落ち、井戸は泥で濁って、見るも無惨な有様でした。一足先に復興された吉祥水や紀三井寺の三井水が、環境庁より日本の名水百選に認定されたのを期に、楊柳水の整備の気運が高まり、かねてより護持の意向を示しておられた、市内和歌浦・木下建設株式会社の木下治郎社長の手により昭和六十年に短期間の内に整備工事が進められ、復興されました。」とあります。

楊柳水への小道からの眺め。和歌の浦や高津子山が見えてきました。

小道とは反対側に、和歌山市指定文化財になっている「応同樹(おうどうじゅ)」がある。開祖・為光上人が竜宮から持ち帰った七種の宝の内の一つと伝えられておる霊木で、和名はクスノキ科のタブノキ(イヌグス)。
現在の樹は樹齢推定約150年とされ、「創建の頃の応同樹株から種子が落ち、自然に発芽成長して今日に及んだもの」(「側の説明板より)だそうです。



 厄除け石段「結縁坂(けちえんざか)」  



この急な階段を登らなければ紀三井寺に参拝できない。「地上より231段」とあるのは楼門前にある20段位を含んだ数です。

ここは「結縁坂(けちえんざか)」と呼ばれ、公式サイトに「江戸時代の豪商・紀ノ国屋文左衛門は、若い頃にはここ紀州に住む、貧しいけれど孝心篤い青年でした。ある日、母を背負って紀三井寺の表坂を登り、観音様にお詣りしておりましたところ、草履の鼻緒が切れてしまいました。困っていた文左衛門を見かけて、鼻緒をすげ替えてくれたのが、和歌浦湾、紀三井寺の真向かいにある玉津島神社の宮司の娘「おかよ」でした。これがきっかけとなって、文左衛門とおかよの間に恋が芽生え、二人は結ばれました。後に、文左衛門は宮司の出資金によって船を仕立て、蜜柑と材木を江戸へ送って大もうけをしたのでした。紀ノ国屋文左衛門の結婚と出世のきっかけとなった紀三井寺の表坂は、それ以来「結縁坂」と呼ばれるようになりました。」 とあります。
二人で登ると縁が結ばれるといわれる結縁坂だが、現在は縁結びよりは厄除けを強調されているようです。鼻緒の時代ではないですからね。踏み外して転ぶ・・・というのはありか。これより上の登段最速記録は21.9秒(元100m日本記録保持者 青戸慎司選手)とある。平地50mの俺の記録と同じだ。


70段ほど登ると楊柳水への脇道がある場所になる。ここで一区切りされ、次の「女厄除坂(33段)」が始まります。女性の大厄が33歳であることからくるんでしょう。

右側には災厄を代りて受くてくださる「身代り大師」を祀っているお堂松樹院があるので、ついでにお参りを。

次は「男厄除坂(42段)」、さらにその上は「還暦厄坂(61段)」と続きます。階段は厄ごとに一区切りされているので、そこで一服。そして歯を喰いしばり石段踏み越え厄払い。といっても俺はとっくに厄を越えてしまているのだが。結縁を望むには枯れすぎたし・・・。

階段の高さや幅は丁度良いくらいなので登り易い。そのうえテスリも設けられている。とはいってもかなりの段数があるので大変です。そういう時は一服し後ろを振り返るのです。満開の桜の先に美しい和歌浦湾がだんだんと見えてくるようになります。石段を踏み外さないように注意を・・・今時の娘さんは見向きもしない。

 六角堂・鐘楼  



階段を登りきると、正面に見えてくるのが六角堂。江戸時代の寛延年間(1750年頃)に建てられたお堂で、西国三十三カ所の御本尊が祀られている。六角堂にお参りすれば西国三十三箇所巡礼をしたのと同様の功徳が得られるようです。
鐘楼は宝亀2年(771)に建立


六角堂の横に建つのが鐘楼。黒ずんだ縦板の袴腰の上に、梵鐘を納めた紅い上層部がのっている。渋い黒とカラフルな赤色の上下対照的な鐘楼は珍しい。
鐘楼は宝亀2年(771)建立とされるが、天正13年(1585)秀吉の紀州攻めの後の天正16年(1588)に再建されたのが現在の鐘楼。旧鐘は文禄・慶長の役の折に没収されて筑後に移されたが現存しないという。
細部の様式も安土桃山時代の特徴をよく示している秀作で、明治41年に国の重要文化財に指定された。






鐘楼の先に建つのが弘法大師像を祀っている大師堂。



階段を上がりきった左手突き当りが本堂です。そこまでの参道右手に、六角堂、鐘楼、大師堂が並ぶ。紀三井寺は山腹に位置するので、境内はそれほど広くはない。

 本堂と特別拝観  



参道の正面が本堂です。入母屋造本瓦葺き、正面に唐破風の向拝を付け、総欅(ケヤキ)造りの建物。江戸時代、宝暦9年(1759)の建立とされる。和歌山県指定有形文化財。
正面軒下に額「救世殿」が掛かる。この本堂の名前なのでしょうか。


外陣には扉は無く巡拝者に開放されている。ここは名だたる西国三十三所観音霊場の第二番札所なのです。

特別拝観のため本堂内に入ります。本堂右手に回りこみ履物を脱ぎ、本堂入口で特別開帳拝観料:千円(大人)を払う。本堂内を一周するように反対側(西側)に回り込む。そこが大光明殿の入口になっている。

今まで本堂内に秘仏として安置されていた本尊の十一面観音像と千手観音像は火災や震災などに備えて、本堂の裏手に棟続きに建てられた大光明殿(昭和58年、1983年 完成)に移された。二体の秘仏は50年に一度御開帳されるが、今年がその年に当たる。また紀三井寺開創1250年目でもあります。通常、大光明殿は扉が閉められたままで非公開だが、今回は特別に開かれることになった。
大光明殿内部は狭く、薄暗い。10人も入れば「三蜜」になりそうだ。込み合うと入場制限されるようです。朝早かったのでまだ5人ほどで、ゆっくり拝観できました。
(コロナ緊急事態宣言により4月8日から特別拝観は停止されました。宣言解除されたので5月30日(土)より再開されました)

大光明殿内の仏様は、写真が撮れないので置いてあったパンフレットで紹介します。といっても、写真のように肝心の中央秘仏二体はパンフレットでも「秘」扱いで、かすかに透けてみえるだけ。

中央の秘仏の右側は千手観世音菩薩立像。樟の一木造り、素地仕上げ。通計の42手の他に多数の小手を配した真数千手観音。10世紀後半から11世紀の作風。左の秘仏は本尊の十一面観世音菩薩立像。樟の一木造り、素地仕上げ。10世紀初期の作風。どちらも「伝開山・為光上人御手彫」(パンフ)とされているのだが・・・。一番右端は十一面観世音菩薩立像で、秘仏本尊のお前立ちだったと思われる。その他は、右から梵天立像・帝釈天立像・ 毘沙門天立像。毘沙門以外の五体は国の重要文化財です。

本堂外陣から境内を撮ったもの。
本堂前の向って左側の桜の木は、開花宣言の目安となる和歌山地方気象台季節観測用の「ソメイヨシの標本木」です。この木に5輪の桜が花開けば桜の開花宣言となる。近畿地方では最も早く開花することから「近畿地方に春を呼ぶ寺」としても知られています。

 霊宝堂(大願洞)  



本堂を出た左側(西側)に「霊宝堂 大願洞」の入口が見える。本堂にくっついて建てられている。午前8時半~午後4時半の間に入堂でき、無料です。




まず階段を降り、地下の大願洞に入る。「洞」とあるだけに、やや薄暗く不気味感が漂う。周囲には西国三十三所観音の仏画(?)が並べられ、壁一面に願掛けした杓子が張り付けられている。やっと「大願洞」の意味がわかりました。仏画の前にさい銭箱が置かれているので、さい銭を投げ入れながら三十三所の巡礼ができるようになっているのですね。
最奥には金ピカの仏像がお迎えして下さる。昭和28年に製作された、一体型の陶像としては日本最大の救世観音像だ、と注釈されている。大きく不思議な円筒もよく見れば願掛け杓子を束ねたものでした。この杓子は、本堂前で願い事を書き奉納されたもののようです。

階段を登ると、そこは明るい展示室になっている。壁一面に西国三十三所観音霊場の版画が掲げられ、これを見れば楽しみながら西国三十三所の霊験を巡観できるという。江戸時代の著名な浮世絵師、文章家の手になる版画だそうです。
反対側のショーケースにはいろいろな寺宝が展示公開されている。一休さんの書、第十代紀州藩主徳川治宝筆の「雲龍図」など。

 多宝塔・開山堂  



本堂前の広場。右側の名草山を少し上ったところに見える鮮やかな朱色の建物が多宝塔。本堂横に上り階段があるので、多宝塔と開山堂へ行ってみます。

現在の多宝塔は宝徳元年(1449)に再建されたものだが、紀三井寺に現存する建物では最古のものらしい。各種の絵様、彫刻、須弥壇に室町中期の建築様式を示しているという。
高さは約15mで、方形の下層内の須弥壇には五智如来坐像が安置されている。

多宝塔の南側の一段と高い所に小さな祠が見える。これは「春子稲荷」と呼ばれ、織田信長、羽柴秀吉の軍勢から紀三井寺を救った春子という女性を祀っている。傍の説明板には「凡そ四百年の昔、天正三年織田信長、羽柴秀吉による紀州征伐六万の大軍は根来寺、粉河寺を焼き討ちにし、紀三井寺に迫った。丁度その頃当山観音堂に仕えていた春子という二十才位の美女が突然須弥壇のなかから白狐の姿となり身をひるがえして敵の軍営に赴き霊力をもって武将を威嚇し先鋒の将羽柴秀長から焼打ち禁制の書状を得て紀三井寺及び在所を戦火から救った」とある。


多宝塔の北側に静かに佇むのが開山堂。名前からして紀三井寺の開祖・為光上人を祀っているのでしょう。

この場所は本堂のある境内からさらに一段と高い場所にあるので見晴らしがすこぶる良い。やはり紀三井寺は桜のこの季節が良いようです。

 本堂前の広場  



本堂前の広場は休憩所と展望所となっている。名草山の西側中腹の標高50m位辺りに位置しているので展望がよい。桜を額縁にして、和歌の浦湾から高津子山、雑賀埼まで見通せます。

休憩所の中央に大きなくすの樹が立つ。樹齢約400年と推定され、和歌山市指定文化財となっている。


 新仏殿  



本堂とは反対側の参道突き当たりに、朱色と白壁の新しいお堂が建つ。その名も「新仏殿」。平成14年(2002)に竣工した鉄筋コンクリート造りで、高さ25m、3階建の建物。中に入るといきなり金ピカの巨大な仏様が、よくいらっしゃいました、と合掌印で迎えてくれる。木造の立像仏としては日本最大で高さ12mの総漆金箔「大千手十一面観世音菩薩像」です。京の仏師松本明慶師の京の工房で制作した寄木造の像をここで組み上げ、平成20年(2008)5月入仏落慶供養が行われた。薄暗い宝庫のなかで、50年に一度御開帳の秘仏を見てきた後だけに、拝観というよりは好奇心で見上げるだけでした。

新仏殿の目的は、三階の展望回廊です。金ピカ仏像の脇に置かれた小箱に展望料百円を入れ、小戸を押し開け中に入り、階段で三階へ。
この展望所からは、南、西、北方面が遮るものなく見渡せる。南の和歌山マリーナシティから、和歌浦湾、片男波、高津子山、雑賀埼方面、さらに北側に回ると和歌山市内まで眺望できます。

これから訪れる和歌の浦をアップで撮ってみました。今でこそ家々が建ち、人工物が造られ昔の面影は無くなっているが、かっては風光明媚な景勝地として都にまで知られた。潮の干満によって干潟が現れては消え、小島となったり陸続きになったり、その多彩な風景は奈良の時代から皇室、貴族に愛され多くの和歌に詠われてきた。ここからその地形を見つめていると、かってのイメージが浮き上がってきます。

飛び出た山地の最上部が桜の名所・高津子山。今日の一日ウォーキングの最終地だ。あそこまで歩かなければならない。

桜に染まる境内を見下ろしたもの。一番奥に本堂の大屋根が見える。左上は和歌山市内だ。
紀三井寺の境内には約500本の桜の木が植えら、桜の名所としても名高く「日本さくら名所百選」にも選ばれている。
寺伝では、開祖・為光上人が龍神の招きで竜宮城に行った帰りに七つの宝物をもらった。その一つが桜の苗木で、それが今日の紀三井寺の桜の元になったという。

 吉祥水(きっしょうすい)  


最後に、三井水の残りの一つ「吉祥水(きっしょうすい)」を訪ねます。吉祥水は、紀三井寺境内から北にかなり離れた少々判り辛い場所にある。目印は紀三井寺の裏門です。
本堂前の広場の北西に、下へ降りる階段がある。降りていくと左に分岐する道があるが、これは例の結縁坂へ通じているので、右の道を選んで降りてゆく。下まで降りるとそこに裏門があります。近くに駐車場があるので、この裏門から坂道を使ってお参りされる人も多いようです。250段の結縁坂を避けれるので、階段の苦手な方はこちらを選ばれると良い。裏門の前に駐車料金所があり、係りの方が常駐されているので吉祥水の場所を尋ねてみても。

裏門の前から北へ向って細い車道が通っている。この車道を北へ300mほど歩きます。一本道なので迷うことはない。すると広い駐車場が見えてくる。この駐車場の北東隅をよく見ると、「吉祥水」と書かれた白い板が見え、その脇が階段になっている。

細い階段を登ってゆく。数えたら93段ありました。
公式サイトに「「吉祥水」は昭和初期、附近に土砂崩壊が起り、その後も相次ぐ崩壊により水筋も変り、水桶等施設も理没して荒廃し、境界も定かならぬ有様となりました。その後幾度となく復旧の話も出て種々努力もなされましたが、機縁熟さず、立ち消えとなりました。しかし近年地元三葛地区の人々を始め有志により、先祖以来子供の頃から「瀧のぼりの清水」として親しまれてきた吉祥水を後世に残そうと保存会が設立され、環境整備が進み吉祥天女石像も造られて、後に落慶法要を迎える運びとなりました。」とあります。



詳しくはホームページ

神武天皇陵から今井町へ 2

2020年05月15日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2020年2月11日(火曜日)
古代から江戸時代にタイムスリップ!、国の重要文化財として保存されている江戸時代の古民家を見てまわります。

 今井町とは  



神武天皇陵、綏靖天皇陵から北へ10分ほど歩けば今井町だ。入口には観光案内所「今井まちなみ交流センター・華甍」がある。まずこの案内所から出発します。
戦国時代に、自衛上武力を養い、周囲に環濠土居を築き城塞都市として大きくなった今井町は、織田信長に屈してからは商業都市として発展した。堺同様に自治的特権が認められ自治都市だった。肥料商、木綿産業、酒造業、塩屋などで栄え、独自の紙幣「今井札」の発行が許可されると両替商が発展し大名貸しする豪商も現れた。「大和の金は今井に七分」、「海の堺 陸の今井」などと称され、海の商都・堺と比肩されるほどだった。

そうして江戸時代に栄えた今井町の町家や町並みが大切に保存され現存している。東西約600m、南北約310m、面積にして約17.4haの地区内には、全建物戸数約760戸のうち、約500件の伝統的建造物が存在しており、これは地区内の数としては日本一を誇ります。また、国の重要文化財9件、奈良県指定有形文化財3件、橿原市指定文化財5件の文化財が存在してる。平成5年には、国の「重要伝統的建造物群保存地区」の選定を受けた。
文化財となっている町屋には、現在でも住居として生活されている所もあり、内部が非公開のもの、事前予約が必要なものがあります。事前にネット、または「今井まちなみ交流センター・華甍」(TEL:0744-24-8719)などで調べて出かけるのがよい。

■■~今井町の歴史~■■

★★~環濠城塞都市~★★ 
高市郡今井庄は16世紀までは興福寺の寺領だった。戦国時代の天文年間(1532~55)一向宗本願寺の今井兵部が、布教のための一向宗道場(後に称念寺となる)を建設し、農民などを門徒化し、各地から商人、浪人等を集めて町割りを施し、周囲に濠をめぐらして寺内町を形成した。
この頃、天下統一を狙っていた織田信長と一向宗は敵対しており、各地で一向一揆が起こっていた。元亀元年(1570)9月、大阪石山本願寺は信長軍に対して攻撃を始める(石山合戦)。今井も本願寺に呼応して信長に反旗を翻した。濠を深くし土居を巡らせ、見通しを妨げる筋違いの道路などを築き環濠城塞都市への構えを整え、称念寺を中心として織田信長軍と対峙した。
★★~織田信長に降伏~★★
*(右の写真は「織田信長今井郷惣中宛赦免状」<称念寺蔵、複製品>、今井まちなみ交流センター・華甍の展示より)
天正3年(1575)、戦いに不利となった本願寺の顕如が信長に和睦を申し入れた。今井と交流の深かった堺の豪商・天王寺屋津田宗及が明智光秀に懇願し、今井に入り郷民を説得し信長に降伏することになった。郷民自ら濠を埋め、土居構えを崩し、武装を解いた。ここに寺内町としての今井は幕を閉じる。同年11月9日付けで、信長の赦免の朱印状が下付された。同年冬に信長は、今西家南側に本陣を構え、武装放棄を条件に「萬事大坂同前」として、今井町に大坂と同じように検断権(自治権)を認めた。他の一向宗寺内町とは異なる寛大な扱いだった。
★★~江戸時代~★★
信長に降伏したといえ、経済的特権は保証され、商工業も自由に営むことができた。
江戸時代に入っても、自治権をもつ自由商業都市として栄えた。堺と並び自治的特権が認められ、今西家、尾崎家、上田家の三人の惣年寄を頂点に町年寄・町代を置き、警察権・司法権・行政権が与えられた。肥料商、木綿産業、酒造業、塩屋などの株仲間もでき、大阪、堺とも交流が盛んに行われるようになる。寛永11年(1634)には独自の紙幣として銀札(今井札)発行を許され、両替商が発展し大名貸しする者も現れた。「大和の金は今井に七分」、「海の堺 陸の今井」などと称され、海の商都・堺と比肩するほどだった。経済的に豊かになった町民は、茶道・華道・能楽・俳諧・画・書道・三弦などの文化・文芸に従事し、大阪・堺・奈良などとの文化交流も盛ん行われた。延宝7年(1679)、4代将軍徳川家綱によって今井は天領に組み入れられる。この頃が今井の最盛期で、人口4400人、家数1082軒を数えた。この頃、金融業を営み大名貸しする者が多くなる。

そのような今井町の繁栄も、18世紀に入ると徐々に下降していきます。今井町の財力に対して重税が課されるようになり、町民困窮し、この頃から戸口減少し町内に空き地が目立ち始める。また諸大名や武士への貸金が無効となって大打撃を被り、富豪が消滅。栄華を誇った今井町は急速に衰退していくこととなります。
★★~近代以降~★★
明治以降、急速な近代化が進むなか、今井町はその波に乗らず、商業都市としての姿は失われていったものの昔ながらの町並みは残されていった。鉄道駅建設計画が一時持ち上がったが、市中取締役の任にあった今西逸郎らが反対し、これにより乱開発が阻止されことになった。時代に取り残されたような今井町だが、むしろこうして訪れた平穏さが、この町の保持に貢献したとも言えます。
★★~戦後~★★
戦後、民家建築が文化財として着目されるようになり、今井町でも昭和30年(1955)東京大学による町家調査が行われた。その結果、昭和32年(1957)に今西家が国の重要文化財に指定された。これを契機に町並み保存運動が動き出し、昭和47年(1972)には旧米谷家・高木家・音村家・中橋家・豊田家・上田家が国の重要文化財に指定される。平成5年(1993)12月、今井町が全国で37番目の国の「重要伝統的建造物郡保存地区」に選定された。さらに平成29年(2017)4月には日本遺産に認定されたのです。
現在、国の重要文化財9件12棟、奈良県指定有形文化財3件11棟、橿原市指定文化財5件6棟。平成14年(2002)には称念寺本堂が国の重要文化財に指定された。

 今井まちなみ交流センター「華甍(はないらか)」  



神武天皇陵から北へ進み、車の多い大通りを越えて進むと、左側に古風でモダンな建物が見えてくる。これが今井まちなみ交流センター「華甍(はないらか)」です。今井町の総合案内所となっており、ここで大まかな知識を得ておけば、この後町並みを見て歩く時に役立つ。
大正天皇御成婚の折に、神武天皇陵を参拝され御下賜金を頂いた。そのお金で明治36年(1903)に高市郡教育博物館として建設された建物。奈良県下では数少ない明治建築の一つという。県指定有形文化財

履物のまま上がれる。右へ行くと3室あり、今井町の歴史資料や図、書籍まどが展示されている。左に行くと突き当たりの部屋が展示室。今井町のジオラマ模型、民家のミニモデルが置かれている。また、町内の各施設を案内するパンフレットや、飲食店を紹介するチラシなども手に入る。
  ・休館日:月曜日(祝日の場合翌日)年末年始(12月25日~1月5日)
  ・開館時間 午前9時~午後5時まで(最終入館は4時30分まで)
  ・入館料:無料

 高木家住宅(昭和47年5月15日指定重要文化財)  



「華甍」から北へ歩くと、今井町の内部への最初の筋である南尊坊通りの入口で、南尊坊門跡がある。南尊坊門跡からさらに北へ100mほど行けば中尊坊門跡の場所で、中尊坊通りの入口です。まずこの筋から入り高木家へ向う。

中尊坊通りを100mほど入れば、右手に高木家がある。入口の案内板には「中尊坊通りの東端にあり、屋号を「大東の四条屋」といい、本家の酒造業を助け、後、醤油業も併せて営んでいました。主家は発達した二階建てで、19世紀初期頃の建設ですが、二階部分はやや遅れて整備されたようです。」とある。江戸時代末期(文政~天保頃)の建物で、国の重要文化財(1972年・昭和47年指定)。
事前の調査では、内部見学できるかどうかは不定期で、見学可能時には玄関に内部公開中の札を掲げます、ということだった。入口に「予約なしで見学できます」と張り紙され、戸口は開いていた。見学料は300円。先客がおられ家人のオバサンが案内されていたので、案内説明はお断りし、写真だけ撮ることに。

通りぬけの土間があり、やや小ぶりの「かまど」が置かれている。土間部分には二階部屋がなく、高い天井裏が丸見えになっているのが印象的でした。

座敷に上がって見学できます。違い棚のある床の間や箱階段があり、展示室となっている部屋では、矢立、ローソク入れ、こうがいなどの生活用具や火縄銃なども展示され、江戸時代の生活様式を窺うことができます。


 河合家住宅(昭和51年5月20日指定重要文化財)  


高木家住宅からすぐの所に国指定の重要文化財・河合家住宅があります(昭和51年5月20日指定)。重厚でしっかりとした二階建ての建物で、二階部分の白壁が印象的です。これは「白漆喰塗籠」で、また丸窓は「むしこ窓」と呼ばれている。また屋根の最上部に見える小さな屋根は「煙出し」。
16世紀末期頃、上品寺村(橿原市上品寺町)の上田家より分家し移住そてきたと伝えられ、「上品寺屋(じょうぼんじや)」の屋号で酒造業を営んできた。現在も造り酒屋を営業されており、玄関には杉玉が吊るされています。
入口は開いたままで、自由に入れる(無料、見学は1階のみ)。ただし午前9時30分~午後4時30分(但し、12時00分~1時00分は休み)の間だけ開放されている。入口を入るとすぐ右側には販売用のお酒が陳列されている。代表銘柄は縁起の良い「出世男」。


通り土間には「花嫁駕籠」が陳列されている。この駕籠は、昭和四年に祖母が当家に嫁いだ時に使用したものだそうです。
奥の土間にはかまどがあり、上を見上げれば「煙出し」の明かりが見える。

 中橋家住宅(昭和47年5月15日指定重要文化財)  



河合家の先で筋違い道となり、左に曲がってさらに角を曲がると、そこからは御堂筋と呼ばれ、今井町の西端まで直進している。

御堂筋の左側に立て札のある町家がある。立て札には
「豊太閤本陣跡 御茶屋敷
豊太閤吉野遊覧の時、本陣と定められ御茶屋と?せり。其後文禄四年に代官松村弥右衛門の陣屋となりし跡なり」と記されている。

御堂筋の中程北側に中橋家住宅がある。国の重要文化財(昭和47年(1972)指定)だが、内部は非公開。

 称念寺  



中橋家住宅から西へ歩くと、左側にお寺の門が現れる。自衛都市・今井町の起源となった称念寺だ。
今井庄は16世紀まで興福寺の荘園だったが、戦国時代の天文年間(1532~55)に一向宗本願寺の僧侶・今井兵部が布教のための道場を開く。これが称念寺の発祥です。農民などを門徒化し、ここを拠点に一向宗の布教を進め、さらに諸国の浪人や商人が集められた。町割りを施し周囲に環濠・土居をめぐらして、称念寺を中心に武装宗教都市「寺内町」が形成されたいった。称念寺は宗教活動だけでなく町政全般の拠点として今井町の発展に尽くしてきた。浄土真宗本願寺派。境内見学無料。

境内に入ると入母屋造本瓦葺の大きな屋根がみえます。江戸時代初期の建立で、国の重要文化財に指定(平成14年、2002年)されている本堂だ。現在、大修理中で外観の一部しか目にできない。脇にある寛永14年(1637)建立の鐘楼堂は完全に覆屋で囲われています。令和4年(2022)春に完了の予定。

これは客殿でしょうか。門前には「明治天皇今井行在所」の大きな石柱が立てられている。「行在所(あんざいしょ)」とは、天皇が外出した時の仮の御所をさす。明治10年(1877)2月10日~11日、明治天皇が畝傍御陵行幸の際に投宿された所です。この投宿中に、西南戦争勃発の知らせを受けたという。

 南町生活広場(旧南口門)から環濠跡へ  



称念寺の先で南向きの筋に入る。まもなく今井町の南端で、出口に門が見えます。これは「旧南口門」で、城塞都市今井町の周囲にあった九つの門の一つ。夜は4つの門のみを開け、外来者が町中にみだりに入ることを拒んでいたという。
古絵図その他資料を元に、切妻造り本瓦葺の一間薬医門として復元整備されたもの。周りには環濠や土居も復元され、全体が「南町生活広場」として憩いの場となっている。

南町生活広場から西側を見ると、水を貯えた環濠が復元されている。環濠の右側に見えるのは春日神社(旧常福寺)。旧常福寺の表門と観音堂は市指定文化財となっています。

環濠に沿って歩いていくと、環濠は今井町の西側に回りこんでいる。
かつて今井町は、周囲をぐるりと環濠と土居(土を盛った堤)によって囲まれた寺内町だった。排水や消化水としての利用など水利機能もあったが、主な目的は外敵の侵攻を防ぐ防御・自衛的機能だった。城郭のお堀のような役目です。濠は幅が5メートルから7メートル、深さは2メートルほどもあったという。こうした防衛機能があったため、長年にわたり自治都市として存続しえたものと思われます。
写真では分かりづらいが、右上部の春日神社の外側にも細い濠があり、二重の環濠が復元されている。

北側から南方を撮ったもの。左上の樹木の下に細い濠があります。この辺りは、昭和50年(1975)からの発掘調査を終え、調査結果をふまえ環濠と土居を復元し「今井西環濠広場」として整備された。

春日神社側の土居。ここに「伝 織田信長公本陣跡」の木札が立つ。
天正3年(1575)、今井町は信長に降伏し武装解除された。Wikipediaに「同年冬に信長は、今西家南側に本陣を構え、武装放棄を条件に「萬事大坂同前」として、この町に大坂と同じように検断権(自治権)を認めた。それ以降、今西家の土間をお白州に見立ててお裁きが行われた。その折に信長は褒美として様々な物品を下賜し、今西家を眺め「やつむね」と唱えて本陣を後にしたことが旧今井町役場の資料に残っている」とあります。

 今西家住宅(昭和32年6月18日指定重要文化財)  


今井児童公園の北側から東側にかけて国の重要文化財(昭和32年指定)となっている今西家住宅がある。この辺りにはかって「西口門」があり、今井町の西の要塞だった。西側から見ると、入母屋造りの屋根を複雑に組み合わせ、まるで城郭のような構えにしている。こうした複雑な屋根構えは神社などで「八ツ棟造り」と呼ばれている(八坂神社、北野天満宮など)。織田信長は、この今西家を眺め「やつむね」と唱えて本陣を後にしたという。現在の建物は慶安3年(1650)に建て替えられたものですが、今井町では最古の建物だそうです。戦国時代の構造様式を残す建造物で、日本建築史上貴重な建物の1つとして国の重要文化財に(昭和32年(1957)6月18日指定)。
今西家住宅の入口のある北側は本町筋だが、写真のように住宅が道路側に出っ張り、本町筋の道路は見通しが遮られている。これも防御のため。二階の白壁に、川の字を井桁枠で囲んだ定紋が見える。これは、今西家の先祖が「川井」氏を名乗っていたことによる。

この写真は東側の角。こちらには菱形を三段に重ねた紋があるが、これは今西家の旗印だそうです。縦格子の窓は本町筋を真っ直ぐ見通す位置にあり、見張り用の窓となっている。

豪族十市(といち)氏が筒井順慶に攻められ落城すると、永禄9(1566年)2月、十市氏一族だった河合権兵衛尉清長は十市衆の一族郎党を引き連れて今井に移住してきた。町の防御を固め織田信長と対峙したが、天正3年(1575)に負け、武装解除された。しかし今井町は信長から赦免され自治権を認められ、裁判権も与えられた。河合清長(注:見学時に頂いたパンフレットには「川井」となっている)の三代後、大坂夏の陣の際に功をなし、元和7年(1621)郡山城主松平忠明にすすめられ、今井町の西口にあることから「今西家」に改姓した。今西家は町の惣年寄の筆頭を務め、裁判権を持ち治安や行政に大きな力を持っていた。

今西家住宅の内部を見学するには、10時~16時の間に十市県主今西家保存会[0744-25-3388]に電話し予約する必要がある。
見学料金:大人500円・中学生以下250円・団体(10名以上)400円
見学時間: 午前10時00分~午後5時00分(12時~13時は閉館、最終入館は午後4時30分)
休館日:毎週月曜日(祝日の場合次の平日)
昼前に電話をし、1時半ごろ訪ねるという予約を入れる。1時半過ぎ、入口横のインターホンを押し来訪を告げる。中では、今西家保存会の方でしょうか(それとも家人?)、説明してくださいます。

内に入ると広い土間があり、東側は二列六間の座敷部屋となっている。この土間を白州に見立て裁きが行われていた。右の段上の広敷に調べを行う主人が座り、左の土間に罪人が座らされたという。広敷の板戸には松竹梅の絵が描かれている。黒ずみハッキリしないが、近づきよく見ると確かに竹や松の文様が見て取れます。白壁の二階部分の両端に扉がある。左が男を入れる仕置き部屋。右が女用。これは「いぶし牢」と呼ばれ、下からかまどの煙を流し込み蒸すようになっていた、と説明された。土間の左に板戸があるが、その奥に牢屋もあったが、昭和2年の北丹後地震で倒壊し無くなったそうです。

 紙半豊田記念館   


今西家南側の御堂筋に入ると「紙半豊田記念館」があります。入口にある大きな青々とした樹木が目印です。これは橿原市景観重要樹木に指定されている「カイヅカイブキ(貝塚いぶき)」で、樹高11.5m、幹周り2.2m、樹齢250年以上だそうです。
ここは大和綿などを商い、両替商としても財をなした豊田本家の歴代当主が収集、愛用した4000余点の展示品を収蔵する資料館です。平成24年に、現在の12代当主によって設立された。
開館時間:10時半~16時半(入館は16時まで)
入館料:大人300円、高校生150円、中学生以下と身障者は無料

記念館は扉が開いたままで、内部では係りの人が先客を案内中だった。300円の見学料を払い、案内に同伴させてもらう。記念館内部は一室だけで、それほど広くないが、びっしりと展示されている。内部撮影は1枚だけ許される。あまりパチパチ撮らないでくださいとのことでした。
案内のおばさんが丁寧に詳しく解説して下さる。ケースに入っていないものは手で触ってもよい。案内の途中だが、向いにある豊田家住宅の方へ向う。
(実は、紙半豊田記念館の向かいにある豊田家を今井町の案内などにある重要文化財の豊田家住宅と錯覚していた。重要文化財のほうは、ここから東へ50mほどの所にある。)
これは豊田本家住宅で、門標には「本豊田」となっている。主は代々「紙屋半三郎」を襲名し、「紙半(かみはん)」の屋号で知られた(ただし、紙は取り扱ったことはないそうです)。江戸時代中期から後期にかけ、肥料、綿、油、木綿を生業とし財を成し、六代目は両替商を営み大名貸しで豪商の基盤を築いたという。現在は12代目が継承しているそうです。

おばさんは記念館で説明中なので、300円払っていることだし勝手に中へ入る。写真を撮っていいのかどうか分からないが撮りまくる。こちらは第二展示館となっているようで、座敷には所狭しと江戸時代の生活用品が展示されている。

 豊田家住宅(旧牧村家)(昭和47年5月15日指定重要文化財)  


重要文化財指定の豊田家住宅は、本豊田家から東へ50mくらいの場所にあったのだが、本豊田家と混同したため訪れていない。そこで、今井まちなみ交流センター「華甍」に展示されていた復原模型を紹介します。

「国の重要文化財。屋号を「紙八」といい、江戸末期から明治初年にこの家に移り住んだ。元々は材木商で金融業を営む豪商牧村家の所有で「西の木屋」と呼ばれた。福井藩藩主松平春嶽に貸し付けを行い藩の蔵元を務め、高取藩に融資し重臣の待遇まで受けていた。しかし、明治維新後の廃藩置県によって大名貸の貸付金が凍結し、債権が放棄され今井町を離れざるを得なかった。住宅は1662年(寛文2年)の建築で今井町では、今西家に次いで古い。事前予約必要。1972年(昭和47年)5月15日重文指定。」(Wikipediaより)。
裏庭に今井宗久ゆかりの茶室が昭和10(1935)年頃まであったが、現在は堺市の大仙公園内に茶室「黄梅庵」という名で移築されている。

明治になってから豊田本家「紙半」から分家し、牧村家住宅を買い取り住むようになったということでしょうか?。また屋号「紙八」ということは、豊田本家の八代目?。豊田家住宅というより「旧牧村家住宅」といったほうが相応しいのではないでしょうか。。
ボランティアガイド同伴時のみ見学可能(ボランティアガイドについては、橿原市観光協会0744-20-1123に、見学希望日の3日前までに申し込んでください)。入館料は一人300円。

 上田家・音村家  



次は上田家住宅へ向います。本町筋の真ん中を少し過ぎたあたりを北へ入り、中町筋を越えて行くと突き当りです。その角に上田家がある。内部見学には事前に電話予約が必要(TEL:0744-23-5457 一般200円)。ここは見学しないことにした。
(Wikipediaより)「国の重要文化財。 屋号を「壺屋」といい、先祖は、葛下郡片岡城主・片岡新助藤原春利で片岡城落城後、上田新七郎之長が1571年(元亀2年)当地に移住した。1679年(延宝7年)より今西家・尾崎家と並び惣年寄を務めていた。当家には、惣年寄の旗が残っている。1744年(延享元年)の祈祷札がありこの頃の建築とみられる。入母屋造りで、大壁造の妻をみせた外観は重厚な感じを与え、入口が西に構えているのは珍しい。事前予約必要。1972年(昭和47年)5月15日重文指定。」

中町筋に戻り、東へ行くと音村家住宅がある。インターフォンを押すが応答が無かった。表の板戸には「山崎音楽教室」の札が架かっている。見学時間:午前10時00分~午後5時00分、見学料:300円
中町筋北側に面し、切妻造、本瓦葺、平入りで、正面のみ「つし2階」となっている。昭和47年(1972)5月15日国の重要文化財に指定される。

内部が見れないので、今井まちなみ交流センター「華甍」に展示されていた復元模型を紹介します。



 旧米谷家住宅(昭和47年5月15日指定重要文化財)  



音村家住宅のすぐ東側が旧米谷家(こめたにけ)住宅です。入口は開いたままで、自由に出入りできるようです。数人の人が見学中で、おばさんが説明されている。現在,国有(文化庁所有)になっており無料で一般公開している。1972年(昭和47年)5月15日重要文化財指定。
見学時間:午前9時~午後5時(但し12時~1時は閉館)
休館日:月曜日、年末年始(12月25日~1月5日)
中町筋北側に面し、切妻造、本瓦葺き、正面は格子と板戸で構成され、平入りで立ちの低い典型的な江戸中期の町家です。

土間からみた部屋。今井町の大型町家では二列六室からなるのが一般的だが、旧米谷家は二列五室構成で珍しいという。
火鉢のある中央が「中の間(オウエ)」で、居住部分の中心的な部屋で接客用や家族の居間として使用されていた。その奥が「納戸(ナンド)」で、寝室として使われていた。
右側が「ブツマ・ダイドコロ」で、家族が食事する台所と仏壇を安置する仏間とが一つの部屋になっている。
左の床を一段低くした板張りの間は「店(ミセ)」で、商品の展示販売や製作・加工をした部屋です。正面道路側を開放して商売をしていた。その奥が「店奥(ミセオク)」で、店の間の補助的な役割をしていた部屋です。

玄関を入ると通り土間となっている。中央にカマドが置かれ、カマドの奥から上にかけて壁が設けられ、居住部分へ煙を流れにくくした「煙返し」と呼ばれる仕組みとなっている。土間の上の天井は竹で編んだスノコになっている。これも煙対策でしょうか?。







土間の上の一部には「ツシ二階」と呼ばれる二階部屋があり、梯子がかけられている。奉公人の部屋として使われ、取り外しのできる梯子は脱走防止のためだとか。

土間を抜けて裏庭へ出ると、数寄屋風の家が建っている。内を覗くと頑丈な格子扉が見えるので、これは座敷牢かと思った。係りの人の説明では、これは蔵の扉で、主人が長火鉢に座り蔵への出入りを監視していたそうです。長火鉢の前には「蔵前座敷」と表示されていた。外でよく見ると白壁の土蔵がくっついていました。嘉永2年(1849)の増築だそうです。

 順明寺・北環濠小公園  



今井町で一番北側の北尊坊通りを西へ向って歩くと順明寺表門に突き当たる。浄土真宗本願寺派の寺院で、寛永3年(1626)に当地へ移って来た。本堂は戦後に改築されているが、表門は寛永期に建てられたもので市指定文化財となっています。
明治24年(1891)11月に英照皇太后が畝傍御陵参拝の際に宿泊し御座所になったお寺です。英照皇太后(1833-1897)とは孝明天皇の皇后で、明治天皇の嫡母にあたる方です。

順明寺の北東隅に「北環濠小公園」という小さな広場がある。
平成12年、小公園を整備するに先立ち発掘調査が行われ、土居や環濠、北口門とみられる柱の詰石、袖塀の遺構が発見された。北口門は柱間約11尺(約3.3m)の薬医門の形式で袖塀が付いていた。これらの遺構を再現し、小公園として整備された。公園内には、非常災害用にそなえ40tの防火水槽を埋設し、井戸(手押しポンプ)、ベンチ(炊き出し用のカマド)、簡易便所が設置されている。

順明寺表門の斜め南に「旧北町生活広場」があります。今井町には、北町・西町・南町・中町の四ケ所の生活広場がある。町家を利用したもので、普段は生活広場として近隣住民の憩いの場として使われているが、観光客には休憩所としても開放されています。
今井町はほとんどが木造の建物なので火災に対しては特に注意が必要です。そのため各生活広場には40t~80tの耐震性防火水槽が埋設され、また災害時には救援などの拠点としての役割も担っている。

 旧上田家(丸田家住宅)・山尾家住宅(今井まち衆博物館新堂屋)  



北尊坊通りの西よりに旧上田家住宅(丸田家住宅)がある。案内板には「吉村家」となっている。今井町の案内パンフなどには(丸田家住宅)となっているので、その後また所有者が変わったのでしょうか。
主屋、隠居部屋、内蔵、倉庫、作業場の5棟が奈良県指定有形文化財となっている。内部は非公開です。

北尊坊通りを東へ歩くと山尾家住宅です。主屋、座敷、内蔵、隠居所、東蔵の5棟が奈良県指定有形文化財です。
幕末には「新堂屋」の屋号で両替商も営み「今井しんどやは大金持ちや 金の虫干し玄関までも」とまで言われたという。明治10年(1877)2月10日~11日、明治天皇の畝傍御陵行幸の際、随行した木戸孝允、三条実美が投宿された。なお、明治天皇は称念寺に宿泊されている。
見学:事前に電話予約をしてください(0744-23-9478 今井まち衆博物館新堂屋 拝館料400円)
電話を入れたら「この時期は公開していません」でした。

 今井蘇武橋公園  



北尊坊通りの東端です。飛鳥川に架かる蘇武橋の紅い欄干が見えます。手前の大樹は榎(えのき)で、樹齢420年、樹高15m、幹周り約5m。「橿原市景観重要樹木第一号」に指定され、今井町のランドマークとなっているそうです。

榎の大樹とは車道を挟んで反対側の一段低くなった所に「蘇武之井」がある。
かって聖徳太子は愛馬「甲斐の黒駒」を伴って、法隆寺のある斑鳩から筋違道(太子道)を通って橘の宮に通っていた。その途中にある蘇武井で休憩され、水を飲まれたとも、また愛馬に水を飲ませたとも伝えられている。

蘇武井の南一帯は「今井蘇武橋公園」として整備されている。今井町の東端で、蘇武橋の先にはJRと近鉄の駅があり、今井町観光の入口にあたる場所です。トイレ、ベンチがあり、ここで一服するのに丁度良い。コンビニが無いのが残念・・・
私は南の神武天皇陵から来て今井町に入ったので、ここが出口になります。蘇武橋を渡り近鉄・八木西口駅から阿部野橋へ帰ります。


詳しくはホームページ

神武天皇陵から今井町へ 1

2020年03月25日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2020年2月11日(火曜日)
今まで多くの天皇陵を見てきたが、令和という新しい時代が始まったのを機に初代天皇の陵墓を訪ねてみることにした。その日は2月11日に限る。神武天皇が橿原の地に即位したとされる日だからです。即位地の橿原神宮では紀元祭が行われる。橿原神宮、神武天皇陵と近くにある第二代綏靖天皇陵、第三代安寧天皇陵、第四代懿徳天皇陵もついでに訪ねてみます。これだけでは一日ウォーキングにならないので、午後は今井町へ。今井町と神武天皇陵は何の関係もありません。ただ近いだけです。

 第4代・懿徳天皇陵(いとくてんのう)  



9時、近鉄南大阪線・橿原神宮西口駅に着く。駅北側出口から東へ歩くと、すぐ橿原神宮の西参道入口で鳥居が立っている。参道へは入らず、畝傍山と住宅に挟まれた左側の道を進みます。
この辺りは畝傍山南西の山麓で、橿原神宮のちょうど裏側にあたる。
第4代懿徳天皇(いとくてんのう)の陵墓です。宮内庁の正式陵墓名は「畝傍山南纖沙溪上陵(うねびやまのみなみのまなごのたにのえのみささぎ)」、陵形は「山形」、所在地は橿原市西池尻町。古墳のように造成された盛り上がりのように見えるが、畝傍山の飛び出た丘陵の一部を利用した自然地形のようです。宮内庁も「山形」といっている。ワンちゃんが散歩したくなるような環境です。

第4代懿徳天皇は「欠史八代」、即ち日本書紀・古事記に簡単な系譜のみが記載され、即位後の事績が無いことから架空の存在とみなされている(反対説もあり)。懿徳34年(前477年)77歳で崩御。古事記では45歳となっている。翌年10月、日本書紀は「畝傍山南纖沙溪上陵」(うねびやまのみなみのまなごのたにのえのみささぎ)、古事記では「畝火山の真名子谷(まなこだに)の上」に葬ったとされる。
陵墓の場所は、江戸時代に神宮の森の中に残るイトクノ森古墳だとされる時期もあったが、その所在は不明のままであった。幕末の文久3年(1863)現在地に治定され、翌年にかけて陵墓らしく体裁が整えられた。
ここより西側の丘陵を真砂山(マナゴヤマ、現在は安寧天皇神社が鎮座)と呼ばれ、そこと畝傍山との間は「マナゴ谷」と呼ばれていた。この地名が日本書紀「纖沙溪(まなごのたに)」、古事記では「真名子谷(まなこだに)」と合うことから治定の根拠になったようです。


 第3代・安寧天皇陵(あんねいてんのう)  



懿徳天皇陵から左側の道を上っていくとこんもりとした小山が見えてくる。一見、古墳らしく見えます。ここに安寧天皇陵がある。手前の家並みが吉田町で、ここの集落内に古井戸「御陰井」があります。

車道を進むと、すぐ左手に安寧天皇の陵墓が現れる。墓のある森は古墳のように人工的に造られたものではなく、畝傍山から西にのびる尾根の一部が車道によって切り離されただけのようです。第3代安寧天皇(あんねいてんのう)も「欠史八代」の一人で、実在性が疑問視されている。しかし不思議なことにお墓があるんです。そして国民の税金で保守管理されている。

宮内庁公式の御陵名は「畝傍山西南御陰井上陵(うねびやまのひつじさるのみほどのいのえのみささぎ)」、陵形は「山形」となっている。所在地は奈良県橿原市吉田町。
所在不明だったが、幕末の文久の修陵で現在地が安寧天皇陵として治定され、翌年にかけて陵墓らしく体裁が整えられた。そこは地元の人が「アネイ山」と呼び、また南側の吉田集落内に「御陰井(みほどのい)」と呼ばれる古井戸が現存していることから決められた。この古井戸「御陰井」は、現在でも宮内庁が管理している。治定の証拠物件として差し押さえしているようです。

 畝傍山口神社(うねびやまぐちじんじゃ)  



畝傍山西麓に畝傍山口神社(うねびやまぐちじんじゃ)があるので訪ねてみることに。この神社は畝傍山の頂上に鎮座していたのだが、戦争直前の昭和15年に日本政府より立ち退きを求められた。橿原神宮や天皇陵を見下ろすことはケシカランと。
車道脇の案内標識には「おむねやま」と振り仮名が付けられているのだが。

車道を北へ歩き、集落内から右手の細道に入る。集落を抜け山裾へ向って行くと紅い鳥居が見えてくる。鳥居を潜ると、ひと際目立つ位置に神社の由緒書きが掲示されています。由緒書きの最後に
「現在の社殿は昭和十五年皇紀二千六百年祭で橿原神宮・神武天皇陵を見下し神威をけがすということで当局の命により山頂から遷座した皇国史観全盛期の時勢を映した下山遷座であった。」
と無念さをにじませておられる。
7年前(2013/2/9)に畝傍山に登ったことがある。山頂はガランとした小さな広場になっており、そこに三角点と畝傍山口神社跡の石碑がありました。山頂は樹木で囲まれ視界が阻まれ、橿原神宮や天皇陵など見下ろせれなくなっていた。あんな窮屈な山頂より、現在の広々とした山麓のほうが神社には良いのではないでしょうか。また地元の人にも親近感が湧くと思います。

正面に見えるのは拝殿で、その奥に三間社流れ造りで銅板葺の本殿がある。本殿・拝殿は昭和15年の下山時に改築され、その他の施設は山頂から移されたもの。
鳥居の横に畝傍山(199m)への西の登山口がある。30分位で登れるそうです。

 橿原神宮(かしはらじんぐう)  


畝傍山口神社を後にし、橿原神宮西口駅近くの橿原神宮西参道入口まで戻る。

神社といえば非常に古い時代に創建されたと考えがちだが、橿原神宮は明治神宮(1920年)、平安神宮(1895年)などと同じく新しい時代の神社です。創建は新しいが、この地は日本発祥の地だと橿原神宮は誇りにされている。

「ようこそ、日本のはじまりへ」で始まる公式サイトには「日本最古の正史ともされる『日本書紀』において、日本建国の地と記された橿原。天照大神(あまてらすおおかみ)の血を引く神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこのみこと、後の神武天皇)が、豊かで平和な国づくりをめざして、九州高千穂の宮から東に向かい、想像を絶する苦難を乗り越え、畝傍山の東南の麓に橿原宮を創建されました。第一代天皇として即位されたのが紀元元年、今からおよそ2,600余年前のことです。日本の歴史と文化の発祥の地でもある橿原は、日本の原点ともいえるでしょう。」とあります。

橿原神宮には参道が三つあります。近鉄・橿原神宮前駅から通じるのが表参道で、多くの参拝客で賑わう。ここは西参道で神宮の裏側です。そのため日本建国を祝う紀元祭だというのにほとんど人影はありません。
少し行くと右側に深田池(ふかだいけ)が見えてきます。


深田池の横から南神門が見えてきた。南神門の先が神殿域だが、右手に曲がりまず表参道を覗いてみます。表参道こそ2月11日の何たるかを味わえる場所だからです。

近鉄・橿原神宮前駅へ通じる表参道。こちらはかなりの人出になっている。日の丸の小旗を手にした方も見かける。
参道の両脇には青々とした樹木が生い茂り、神社らしい森厳とした雰囲気をかもしだしている。しかしこの辺りは戦前まで、集落があり田畑だった。昭和15年(1940)、皇紀2600年記念事業として神域拡張整備がなされた。集落は移転させられ、その跡地は勤労奉仕により植樹された。橿原の地名にちなんでカシ類を主とする樹木7万本余りが植えられたという。表参道に立つ三本の鳥居もこの時に建てられたもの。

日章旗を先頭に紋付袴の正装姿の集団がやってきます。これから組織として紀元祭に参列されるのでしょう。

マイクで演説されている人も何人か見かける。「憲法を改正せよ!、安倍がんばれ!」などゲキを飛ばしている。「日本会議」の旗が揺らいでいます。参道脇ではチラシを配る人、署名を求める人、日の丸の小旗を配る人などが。差し出された日の丸の小旗を受け取ってしまい、処分するのに大変困りました。

参道を進むにつれ異様な空気感が漂ってくる。制服姿(戦闘服?)の集団、それを出迎える奈良県警、だんだんとカメラを向けるのが難しくなってくる。表参道の中程だが、この辺りで引き返します。


八脚門の南神門(みなみしんもん)へ戻ります。

橿原神宮が創建されたのは明治23年(1890)で近代に入ってから。幕末の文久3年(1863)、尊皇思想の高まりから初代・神武天皇の陵墓が新しく造営された。次は神武天皇の宮殿探しです。神武天皇の宮について、日本書紀は「橿原宮(かしはらのみや)」、古事記では「畝火の白檮原宮(うねびのかしはらのみや)」と記されている。「橿原」の地は不明だったが、畝傍山の東南あたりが想定された。明治10年代になると民間より神宮創建の請願が相次いだ。
明治22年(1889)、明治天皇の勅許が下り、県は土地の買収を始める。社殿として京都御所の賢所(現在の本殿)と神嘉殿(拝殿、1931年より神楽殿)の2棟が下げ渡された。明治23年(1890)1月に完成、3月に皇紀2550年を記念して社号を「橿原神宮」に、4月2日には格式の高い官幣大社に列された。
同年11月、第一条に「大日本帝國ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とうたう大日本帝國憲法(明治憲法)が施行されたが、万世一系の始まりである初代神武天皇の陵墓と宮殿の策定が急がれたのです。そして天皇の権威を高め天皇統治に利用されてきた。
その後も橿原神宮は神武天皇陵とともに拡張整備され大きくなっていった。昭和15年(1940年)の皇紀2600年記念事業でほぼ現在の聖域が完成し、その広さは約53万㎡で、甲子園球場約13個分の広さといわれる。

戦後の昭和31年(1956)、周辺の町村が合併し「橿原市」が発足する。ここで初めて「橿原」という公の地名ができたのです。

南神門には「紀元二千六百八十年」と大書きされている。「紀元2020年」じゃないの?。
明治維新を経て、西洋列強に伍するため暦法を改め太陽暦を採用するとともに、西暦(キリスト紀元)と同じような日本独自の紀年法をも取り入れた。明治5年(1872)、初代天皇・神武が即位した年を元年としたのです。日本書紀には「辛酉年」に即位した書かれている。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』は次のように説明してくれます。「ここでの「辛酉年」は西暦紀元前660年にあたる。その理由は以下のとおりである。日本書紀の紀年法は、元号を用いる以前はその時の天皇の即位からの年数で表している。また、天皇の崩御の年の記載もあり、さらに歴代天皇の元年を干支で表している。日本書紀のこれらの記述から歴代天皇の即位年を遡って順次割り出してゆけば、神武天皇即位の年を同定できる。これを行って神武天皇の即位年を算定すると、西暦紀元前660年となる」ということです。即ち歴代天皇の在位年数や即位年の干支を計算してゆけば、神武天皇の即位年が西暦紀元前660年に。

西暦と紛らわしいので「紀元」といわず「皇紀(こうき)」と言います。戦後、皇紀は使われなくなったが、再び尊皇運動が高まり皇紀が復活し、令和2年(皇紀2680年、西暦2020年)と3つも年を覚えなければならないなんて勘弁してね。私は元号も不要だと思っているのですが・・・。


南神門では若い神官さんがロープを張って、通行規制している。これから天皇代理の勅使さまがお通りになるからです。今日は2月11日で建国記念日の祭日です。戦前までは「紀元節」と呼ばれていた。何故2月11日なのでしょうか?。
日本書紀は「辛酉年春正月庚辰朔(かのととりはるむつきかのえたつついたち))天皇即帝位於橿原宮是歳爲天皇元年」(辛酉年の正月朔日、天皇は橿原宮で即位す、この年を天皇元年となす)と記述する。「正月朔日」、即ち1月1日です(皇紀元年1月1日、旧暦)。明治5年新暦採用にともない、旧暦の明治5年12月3日を新暦(太陽暦:グレゴリオ暦)の明治6年1月1日することに決定。そうすると今までの神武天皇即位日だった1月1日は新暦1月29日にずれることになる。
ところがWikipediaによると「1873年(明治6年)1月29日、神武天皇即位日を祝って、神武天皇御陵遙拝式が各地で行われた。同年3月7日には、神武天皇即位日を「紀元節」と称することを定めた(明治6年太政官布告第91号)。なお、同年1月には、神武天皇即位日と天長節(天皇誕生日)を祝日とする布告を出している。(一部略)1月29日では、孝明天皇の命日(慶応2年12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇祭)と前後するため、不都合でもあった。そこで、政府は、1873年(明治6年)10月14日、新たに神武天皇即位日を定め直し、2月11日を紀元節とした。2月11日という日付は、文部省天文局が算出し、暦学者の塚本明毅が審査して決定した。その具体的な計算方法は明らかにされていないが、当時の説明では「干支に相より簡法相立て」としている。」と、紀元節が2月11日に替えられた背景を説明しています。

さらに「即位月は「春正月」であることから立春の前後であり、即位日の干支は「庚辰」である。そこで西暦(先発グレゴリオ暦)で紀元前660年の立春に最も近い庚辰の日を探すと新暦2月11日が特定される。その前後では前年12月20日と同年4月19日も庚辰の日であるが、これらは「春正月」にならない。したがって、「辛酉年春正月庚辰」は紀元前660年2月11日とした。」ともある。

戦前までは盛大に祝われた紀元節だが、昭和23年(1948)に占領軍(GHQ)の意向で廃止された。しかし激しい議論の末、昭和41年(1966)に佐藤栄作内閣は旧紀元節の2月11日を「建国記念の日」として国民の祝日とすることに決定したのです。
紀元節祭というのは無くなったはずだが、紀元祭と名前を変え皇室から勅使まで迎えてて行われている。

南神門を潜ると、畝傍山を背景に神殿が佇み、その前に掃き清められた玉砂利を敷き詰めた広場が。
大きな屋根の建物は外拝殿(げはいでん)。沢山の人が紀元祭を祝うために集まっている。ロープが張られているのは勅使さまのお通りのためです。
外拝殿の両側から長い廻廊が連なり「外院斎庭(げいんのゆにわ)」と呼ばれる広い庭を囲んでいる。庭の正面に内拝殿が建ち、その奥に重要文化財の幣殿と本殿がある。本殿は京都御所の賢所(かしこどころ)を移築したもの。神武天皇とその皇后・媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)が祀られています。
外拝殿の奥で紀元祭の祭礼が11時から天皇の勅使を迎えて行われます。一般参拝の場合は外拝殿の外での礼拝になるが、事前予約をすれば外拝殿から奥に入る事ができるそうです。

広場を北へ進むと北神門です。こちらはほとんど人影が見られない。神武天皇陵へはここから向います。

北神門の外は北参道。広々とした参道だがひっそりとし、人通りはありません。参道中程の左手に畝傍山(標高199m)への登山道入口がある。7年前にここから登りました。30分ほどで頂上でが、意図的に見下ろせないコースとなっているのか、また樹木で遮っているのか、途中神宮や天皇陵を見下ろすことはできませんでした。

参道は広い大通りに出ます。車道では、皇国の始まりである今日この日を祝うためにガイセンパレードが繰り広げられています。この日のために全国からこの種の車が橿原神宮周辺に集結するとか。奈良県警も忙しそうだ。

神武天皇陵



橿原神宮の北参道を抜け、大通りを北へ向って歩く。大通りの両側は青々とした樹木が茂り、神苑の雰囲気を漂わす。左側の畝傍山東北部は、かって集落が点在していたが、軍国主義・皇室崇拝の深まっていく大戦直前までに移転させられ神武天皇陵が拡張されていった。

左側に神武天皇陵の入口が見えてきます。深い緑につつまれた常緑樹の森が広がる。しかしこうした景観が作り出されたのは明治時代からで、それまでは田畑が広がっていた。

武士の時代は天皇の墓などないがしろにされ、その所在さえ判らなくなっていた。ところが江戸後期になると国学などの影響で尊皇思想が高まっていく。幕末の尊王攘夷運動の中で万世一系の皇統をいだく日本の国体が強調されるようになる。
幕府も無視できなくなり宇都宮藩(栃木県)の建議を受け、大規模な歴代天皇陵の探索とその修復造営を行った。それが文久2年(1862)から慶応元(1865)年5月にかけて行われた「文久の修陵」と呼ばれるものです。この時に100箇所以上の天皇陵が修陵された。玉砂利を敷き詰め、石造の玉垣で囲まれた拝所の正面に鳥居を建て、内側に一対の石燈籠を置く、という現在どこの天皇陵でも見られる基本的な姿が形作られた。また「みだりに域内に立ち入らぬこと」「鳥魚等を取らぬこと」「竹木等を切らぬこと」と書かれた制札も設けられ、現在までそのまま受け継がれている。

鳥居が建ったということは、陵墓が神の居ます神域として崇拝の対象にされたことです。神社と同じように森厳な環境にしなければならない。それまで雑木や雑草が生い茂ったり、田畑だったりしていた場所に松,杉,カシ,ヒノキなどの常緑樹が植樹された。今日見るような常緑樹の森の景観に整えられていったのです。

慶応3年(1868)、「諸事神武創業之始ニ原キ」と王政復古の宣言がなされ、幕府を廃止し神武から始まる天皇親政の開始を宣言する。また大日本帝國憲法(明治憲法)は第一条に「大日本帝國ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とうたう。万世一系の初代・神武天皇の陵墓を策定し修陵することが急務だった。ところがその場所がはっきりしないのです。日本書紀には、「127歳で崩御され、畝傍山の東北陵に葬る」とある。古事記には「135歳で崩御され、御陵は畝傍山の北の方の白檮(かし)の尾の上にあり」と記述されている。畝傍山周辺ということだが、その場所は判然としなかった。ただし学者の間では候補地が三ケ所あった。
一つは塚山説(福塚とも)です。畝傍山から東北へ約700mの所にあった福塚(塚山)という小さな円墳です。現在、第2代綏靖天皇陵に治定されている場所だ。
二つ目が、畝傍山の東北にあたる水田の中にあった「ミサンザイ(「みささぎ」の訛り)」あるいは「神武田(じぶでん)」と呼ばれる小さな塚。最終的にこの場所が神武天皇陵だと治定され、現在に至ります。
三つ目が「洞の丸山」説。畝傍山東北の山裾に高市郡洞村(ほらむら)があり、その山側に「丸山」と呼ばれる隆起する場所があった。「白檮(かし)」に似た地名があり、畝傍山の北の尾根にあたることから「白檮の尾の上にあり」(古事記)に合致し、最も有力視された。蒲生君平、北浦定政や本居宣長などがこの説を支持した。

修陵顧問団の中でも、北浦定政は丸山説を主張し、顧問団筆頭の谷森善臣は神武田を推すなど意見が分かれ決められなかった。両者の意見が朝廷に提出され、最終的に文久3年(1863)2月、孝明天皇の勅裁によって塚「神武田」に治定された。「神武田で決めなさい、但し丸山も粗末にしないように」という「御沙汰書」が出されたのです。
「神武天皇御陵之儀神武田之方ニ御治定被仰出候事
尤丸山之方も箆末ニ不相成様被仰出候事
右ニ月十七日夜御達」
顧問団筆頭の谷森善臣が、誰も異議を唱えられない天皇勅裁という形で決着させたのだと思う。当時、孝明天皇の大和行幸が早めら、神武天皇陵を早急に整備する必要に迫られていた。丸山だと洞村集落を強制移転させなければならず、その時間的余裕がなかった。それに対して神武田は平地の田畑なので工事がやり易かったのです。
他の天皇陵に先駆け、5月から大規模な造成工事が開始され、突貫工事で12月に終えている。水田の中の土檀(神武田)を基盤に方形の二重の丘を築き、裾は石垣でかためられた。鳥居や石燈籠も配され、周囲は柵でかこまれた。近くの桜川から引水し周濠もめぐらせた。全天皇陵の総修復費用の3分の一を費やして神武天皇の陵墓を完成させたのです。
「粗末にしないように」とあるように丸山もなお可能性が残るということで「宮」の文字を入れた石柱で囲まれ祀られた。

参道の長さは300mくらい。中程で「く」の字形に湾曲している。参道は砂利が敷き詰められているのだが、。その砂利がゴロゴロして歩きにくい。端に30cmほど砂利のない部分があり、そこを歩く。

新しく創造された神武天皇陵は、初代の天皇の陵墓としてふさわしいものに整備すべきだという意見が強まり、以後も明治から昭和にかけて修陵が続けられ、巨大で荘厳な「天皇陵」に作り変えられていく。明治23年(1890)には神武天皇を祭神とする橿原神宮が創建され、「万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と謳う憲法が施行された。神武天皇陵・橿原神宮・畝傍山が三位一体の神苑として聖域化され、整備拡張されていったのです。周辺の土地を皇室財産として収用し、クロマツ、ヒノキ、カシなどの常緑樹が植樹され、神秘的で厳粛な空間が演出されていった。地元住民から「糞田(くそだ)」とも呼ばれていた田圃が神聖な天皇陵に変貌したのです。
昭和15年(1940)の皇紀2600年記念事業では全国から建国奉仕隊が動員され陵域の大拡張が行われた。東西約500m、南北約400mの広大な現在の姿の陵墓が完成する。またこの年、神武天皇をまつる橿原神宮も大規模に造り直され、皇威高揚に利用された。そして天皇を中心とした大東亜共栄圏を目指し戦争へ突入する。そして無惨な敗戦です。

ネットで貴重な写真を見つけました。国際二本文化研究センターのデータベースの中の写真で、1891年(明治24年)となっている。

畝傍山から神武天皇陵を見下ろした写真。まだ周辺は田畑のままで、山裾に見えるのが洞村。

正面拝所が見えてきた。宮内庁発表の陵墓公式名は「神武天皇畝傍山東北陵」(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)、陵形は「円丘」となっている。

神代に、高天原から九州の日向の高千穂峰に天孫降臨したのが天照大神の孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)。瓊瓊杵尊のひ孫にあたるのが神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのすめらみこと、神武天皇)。天照大神からは五代目にあたる。
父は彦波瀲武??草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)、母は妃玉依姫命(たまよりひめのみこと)の四男。
履歴は「庚午年1月1日(庚辰の日)に日向国(南九州)で誕生。15歳で立太子。吾平津媛を妃とし、手研耳命を得た。45歳のときに兄や子を集め東征を開始。日向国から筑紫国、安芸国、吉備国、難波国、河内国、紀伊国を経て数々の苦難を乗り越え中洲(大和国)を征し、畝傍山の東南橿原の地に都を開いた。そして事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃とし、翌年に初代天皇として即位した。」(Wikipediaより)
即位76年3月11日、橿原宮にて崩御。127歳。翌年(丁丑年)9月12日、畝傍山東北陵に葬られた。古事記では137歳となっている。

広い拝所前の広場。私以外誰もおらず、静かで厳かな雰囲気が漂います。橿原神宮はあれだけ喧騒としていたのに、すぐ近くの神武天皇陵のこの静かさ。宮内庁のいう「静安と尊厳の保持」が完全に守られている。せっかく訪れたのだから手を合わせます、「南無阿弥陀仏・・・」。

神武天皇の実在性についてはいろいろ論争があるようですが、私は「神武天皇は弥生時代の何らかの事実を反映したものではなく、主として皇室による日本の統治に対して『正統性』を付与する意図をもって編纂された日本神話の一部として理解すべきである」(津田左右吉)を支持します。日本神話上の人物にすぎない。

普通の天皇陵の鳥居は一つですが、横から見ると鳥居は三つあります。今まで見た三つ鳥居は、仁徳天皇陵、明治天皇陵くらいしかなく、やはり神武天皇は特別な扱いだというのがわかる。

平成31年(2019)3月26日、平成天皇皇后両陛下(現在の上皇上皇后)が4月末の退位を報告されるためここ神武天皇陵に参拝されました。新聞報道では「ご参拝は計11に上る譲位関連儀式の1つ。天皇陛下はモーニング姿でゆっくりと墳丘前に歩み寄り、祭壇に玉串をささげてご拝礼。4月30日に譲位することを報告された。続いて皇后さまもグレーのロングドレスの参拝服で拝礼された。」そうです。

同年11月27日、今度は令和天皇皇后両陛下が皇位継承に伴う一連の即位の儀式を終えたことを報告するため参拝された。「モーニング姿の天皇陛下は、敷き詰められた砂利道をゆっくりと歩いて進み、玉串を捧げ深々と頭を下げられました。陛下に続き、ロングドレス姿の皇后さまも拝礼されました」という。この後、孝明天皇陵(京都市東山区)、明治天皇陵(同市伏見区)へも参拝されるそうです。新天皇が即位する際は神武天皇陵と前四代の天皇陵に参拝することが通例で、歴代の天皇が橿原を訪れるという。

どこの天皇陵にも置かれている番小屋がここにもある。しかし「見張所」とはっきり書かれた番小屋は初めてだ。”見張る”という言葉に、天皇をかさにした権威主義を感じます。

天皇主権の明治憲法は廃され、国民主権の新憲法となった。天皇は”シンボル”という摩訶不思議な存在になったが・・・。新しい時代になっても天皇陵行政は「万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」の明治時代のままです。研究者といえど立ち入れない聖域のままで、垣根の外から仰ぎ見るだけの、国民からは遠く離れた存在です。「陵墓は皇室祭祀の場であり、静安と尊厳を保持しなければならない」という理由で。「みだりに域内に立ち入らぬこと」「鳥魚等を取らぬこと」「竹木等を切らぬこと」などという子供のしつけのような注意書きも明治初期のまま。政治家も役人も、そしてメディアも天皇制に触れることはタブーのようで、前例主義、形式主義をとっている。

そんな中で、一つだけ大きく変更されるものがあります。天皇の葬法です。前方後円墳の時代は土葬、仏教が広まるにつれ火葬も行われ、中世では土葬と火葬が混在していた。江戸時代初め頃からは土葬だけになり、昭和天皇まで続いている。ところが平成天皇・皇后から「ご葬法については,天皇皇后両陛下から,御陵の簡素化という観点も含め,火葬によって行うことが望ましいというお気持ちを,かねてよりいただいていた。」(宮内庁)。そして平成25年11月14日、
「皇室の歴史における御葬法の変遷に鑑み,慎重に検討を行ったところ,
1)皇室において御土葬,御火葬のどちらも行われてきた歴史があること,
2)我が国の葬法のほとんどが,既に火葬となっていること,
3)御葬法について,天皇の御意思を尊重する伝統があること,
4)御火葬の導入によっても,その御身位にふさわしい御喪儀とすることが
可能であること,から,御葬法として御火葬がふさわしいものと考えるに至った。」
と発表されたのです(詳しくは宮内庁のページを参照)。もし天皇の火葬が行われるとしたら、江戸時代最初の天皇である第107代後陽成天皇(1571-1617)以来です。引退もそうだが、天皇自ら口にしないかぎり天皇制の変更は難しいのだ。令和天皇にお願いしたい。「古代の天皇陵古墳を発掘し、日本歴史の解明に役立ててください」とおっしゃっていただきたい。

入口に戻ると、警察車両と来賓車が対峙している。この日は何かと騒々しいので橿原市民は今日のお祭を敬遠しているとか。その代わり、神武天皇が崩御された4月3日の神武天皇祭には多数の市民が参加して、イベント、パレードなどが盛大に行われるそうです。


日の丸を掲げて親子連れ(社長と社員?)がやって来ました。おとうさんのタスキには、表に「天皇陛下万歳!」、背中には「天皇陛下を中心に団結せよ!」とあります。微笑ましいというより、なにか悲しくなってきます。





おおくぼまちづくり館





神武天皇陵からさらに大通りを北へ歩きます。左手に宮内庁の陵墓監区事務所の入口が見える。ここが昭和15年(1940)まで神武天皇陵への正式な参道だった。昭和15年皇紀2600年記念の神域拡大事業で南側の現在地に変更されたのです。
車道を渡った右側に「おおくぼまちづくり館」があるので寄ってみる。



洞村の移転先となった大久保地区の中に「おおくぼまちづくり館」がある。まちづくりの歩みを学び、人権学習、またコミュニティの場として平成14年に整備された。展示場には、神武天皇陵と移転させられた洞村に関する史料が展示されている。
開館は午前9時から午後5時まで(但し入館は4時30分まで)、入館料100円。展示場では受付の方が丁寧に説明して下さいます。

神武天皇陵拡張にともない移転させられた洞(ほら)村は畝傍山の山裾にあった被差別部落でした。移転当時、200戸あまりの家があり、1000人位の人々が生活を営んでいたという。村には神武天皇の墓の守戸(墓守)だったという伝承があったが、神武天皇陵が新しく造られた際にそれまであった史料が全て焼き捨てられてしまったので詳しいことは判らないという。
戦後、この移転をめぐって天皇制と被差別部落の問題として注目されたのです。




上は移転当時の大正年間の年表です。
神武天皇陵を拡張整備し、橿原神宮・畝傍山とを三位一体とした神苑化を図ろうとしたとき、畝傍山と神武天皇陵との間にある被差別部落・洞村は非常に邪魔な存在になります。官だけでなく民間からも洞村移転の意見が出てくる。
左のパネルにあるように、根強い差別意識による圧力がうかがえます。汚辱が聖(天皇)を見下ろすのは言語道断でケシカランと。大正6年(1917)から移転交渉が始まっている。








大正6年9月、住民達は洞村の土地を宮内省に自主的に献納する「御願書」を提出する。天皇という名を持ち出しての官の圧力には抵抗しがたく、移転を余儀なくされたのだろうと思う。
その後、移転先について幾つかの村から拒まれ難航を重ねたが、大正7年(1918)2月、現在地(橿原市大久保)に移転先が決まり、大正10年(1921)3月に移転が完了している。移転に伴い村の面積は約4分の1になったそうです。


展示場の中央に置かれている畝傍山、移転前の洞村と神武天皇陵の位置を表した模型。現在残されている図面の中で最も正確に洞村の姿を表している「高市郡洞村実測全図」(明治22年9月18日作成)を参考にして復元したそうです。洞村の上方に見える白文字の石柱らしき場所が神武天皇陵候補地「丸山」です。
模型右下の説明板には以下のようなことが書かれている。洞村移転の理由の中に「御陵を見下ろすのはけしからん」というのがあるが、「神武天皇陵は海抜約66m、洞村の住居部分は海抜約69~83m。これが「驚愕に耐えざる」高低差だったのでしょうか」と疑問を呈している。

戦後、天皇制批判の立場から洞村移転問題が注目された。権力による強制移転だったと、天皇制と被差別部落の問題として取り上げられた。反面、力による強制移転ではなく洞村の人々が陵墓への畏怖心などから自主的に移転を決めた、という説もあります。
私には真相は判りませんが、当時の天皇崇拝の強まる時代背景を考えると、「御願書」に書かれているように「畏れ多くも神武天皇陵に接し、近くからこれを見下ろす位置にあるのです。・・・知らず知らずの内に御陵の尊厳まで冒してしまってはいないかと、憂いてさえいます」と自虐し、自主的献納という形をとって立ち退かざるをえなかったのだと思う。先祖代々、何代にもわたって住みなれた土地を去るというのはそう簡単にできるものではない。力による強制移転でなくても、強制移転に近いものだったと思います。

第2代・綏靖天皇陵(すいぜいてんのう)



また大通りに戻り、北へ歩くとすぐ第2代綏靖天皇の陵墓です。
第2代綏靖天皇(すいぜいてんのう)の履歴は(日本書紀)
・神武29年(皇紀29年、前603年)、神武天皇の第三皇子として生まれる。母は事代主神の長女の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)。名前は「神渟名川耳尊(かんぬなかわみみのみこと)」、古事記では「神沼河耳命」。
・神武42年(皇紀42年、前619年)14歳で立太子する。
・神武76年(皇紀76年、前585年)3月、先帝・神武天皇が崩御される。この後、皇位をめぐって異母兄手研耳命(たぎしみみのみこと)の反逆事件が起こる。
・綏靖元年(皇紀80年、前581年)正月8日即位。
・綏靖2年(皇紀81年、前580年)春1月、母の妹・五十鈴依媛(いすずよりひめ)を皇后に。

即位33年後の綏靖33年(前549年)12月、84歳で崩御され、「桃花鳥田丘上陵」に葬るとある(日本書紀)。古事記では45歳で崩御され「衝田岡(つきたのおか)」に葬るとなっている。

綏靖天皇の陵墓は中世以降不明だったが、元禄時代に幕府は畝傍山西北の慈明寺町にある「スイセン塚(主膳塚)」古墳(前方後円墳、墳丘長55m)とした。そして現在の綏靖天皇陵がある塚山(塚根山)を神武天皇陵としていた。ところが幕末の文久の修陵で、すぐ南の「神武田」を神武天皇陵と治定する。そこで空きとなった塚山(塚根山)が明治11(1878)年2月に綏靖天皇陵とされたのです。根拠はありません。宮内庁の公式名称は「桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのえのみささぎ)」で、陵形を「円丘」と公表している。

考古学的には「四条塚山古墳」と呼ばれ、直径約30メートル、高さ約3・5メートルの円墳。江戸時代に、円墳の周りを八角形の石柵で囲まれたという。
綏靖天皇は「葛城高丘」(かずらぎたかおか」に宮を置いたとされる。その場所を6年前に訪ねたことがあります。葛城山の山裾を南北にはしる葛城古道を歩いている時、たまたま出会いました。現在の奈良県御所市森脇で、九品寺から一言主神社へ行く途中に「綏靖天皇高丘宮跡」の碑が建っていた。お墓があり、宮跡が残されているのですが、綏靖天皇も「欠史八代」に数えられ、実在性が疑問視されている天皇です。



詳しくはホームページ


比叡山延暦寺 2

2020年02月08日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2019年11月21日(木)
東塔から西塔、横川へ向います。そして最後に無動寺谷へ。

 西塔(さいとう)へ  



法華総持院の廊下を潜り、緩やかな坂道を下る。突き当りが三叉路になっており、右手へ行けば戒壇院前から東塔中心部へつづく。左へ進めば西塔、横川、比叡山山頂へ通ずる。
三叉路に番小屋が建つ。この道を通るには巡拝券を見せるか、持ってなかったら買わなければならない。7年前比叡山登山を試み、坂本へ下山しようとここを通ろうとしたら「チョットチョット」と呼び止められました。下山するだけでお寺に寄るつもりはないと説明しても、ここは境内になるので巡拝料が必要だ、と巡拝券を買わされました。ここは7年前を思い出させる場所です。

番小屋から左へ歩けば、奥比叡ドライブウェイが見えてくる。ドライブウェイを右手に見ながら山道を進む。この山道は比叡山山頂、叡山ロープウェイ駅へ続いており、30分位かかります。やがてドライブウェイをまたぐ小さな橋が現れる。この橋を渡ると、そこはもう西塔地域だ。

<浄土院前に置かれていた西塔境内図>

橋を渡った先にお堂が見える。第六世天台座主の智証大師円珍(814~891)が住居にした「山王院堂(さんのういんどう)」です。円珍滅後百年、円珍派と円仁派の僧侶が対立した時、円珍派はここから智証大師円珍の木像を背負って園城寺(三井寺)へ降りていった歴史的な場所。





 浄土院  



山王院堂脇の階段を降り、坂道を下っていくと浄土院に突き当たる。東塔からここまで15分位でしょうか。浄土院の正面の門は閉じられているが、左側へ廻ると入口があり入れます。

公式サイトに「伝教大師の御廟がある浄土院は、弘仁13年(822年)6月4日、56歳で入寂された大師の遺骸を、慈覚大師が仁寿4年(854年)7月ここに移して安置した場所です。 東塔地域と西塔地域の境目に位置し、所属は東塔地域になります。」とある。
ここには12年籠山修行の僧が住まわれ、宗祖最澄が今も生きているかのように毎日食事を捧げ、境内を掃き清められているそうです。

お堂の背後に周ると開祖・最澄の御廟がある。現在修繕中のようです。
浄土院の境内は白砂利が敷き詰められ、整然と履き目がつけられ、ゴミ一つ落ちていない。白砂利には踏み跡一つついてない。特に注意書きも無いのだが、自然と白砂利を避けて歩いてしまいます。

 椿堂  



浄土院を出て、奥へ向う。杉木立に囲まれたゆるやかな参道が続く。参道の両側には、等間隔に石灯籠が置かれている。石灯籠には「山陰教区、九州東教区、神奈川教区」などの文字が刻まれています。各教区から寄贈されたものでしょうか。

浄土院から10分ほどで西塔地域への入口に着く。番小屋、要するに入場料金徴収所が目を光らせています。通りすぎようとすると、「巡拝券を見せてください」と声かけされます。持ってなかったら買わされます。ここで買う人は、比叡山山頂から降りてきた人、車で来た人だけでしょう。
脇に「聖光院跡」の石碑が建つ。聖光院は、親鸞聖人住持の寺といわれ、親鸞がこに住まいで修行された所とされる。

番小屋と道を挟んだ向かい側の、低くなった所に小さなお堂が佇む。これが聖徳太子ゆかりの「椿堂」です。椿の木が生い茂り、お堂を取り囲んでいました。
平安京も、延暦寺も存在していない6世紀末に、太子はここまで登って来られた。山登りが好きだったのですね・・・。聖徳太子は謎だらけ。

 にない堂(常行堂・法華堂)  



番小屋から入るとすぐ「にない堂」だ。
(公式サイト)「同じ形をしたお堂が廊下によって繋がっています。正面向かって左が、四種三昧のうち、常行三昧を修す阿弥陀如来を本尊とする常行堂、右が法華三昧を修す普賢菩薩を本尊とする法華堂です。弁慶が両堂をつなぐ廊下に肩を入れて担ったとの言い伝えから、にない堂とも呼ばれています。国重要文化財に指定されています。」

天長2(825)年に第2世天台座主寂光大師円澄(えんちょう)が法華三昧堂を建立。これが西塔の始まりです。後に焼失を繰り返し、文禄4(1595)年に現在の建物が再建された。
左の常行堂(じょうぎょうどう)、右の法華堂(ほっけどう)は全く同じ大きさ・形をしている。桁行5間、梁間5間、宝形造り栩(とち)葺きの建物で、正面に一間の向拝をつけている。内部は非公開です。

 転法輪堂(釈迦堂)  



(右の写真は階段下からにない堂を見上げたもの)
にない堂の廊下を潜った先には急階段が待っている。下りはよいが、上りが大変です。この階段を避けるまわり道でもあるのでしょうか?。階段を下りた先に転法輪堂(釈迦堂)が待っています。

階段を降りると広場となり、奥に西塔の本堂にあたる転法輪堂(釈迦堂)が佇む。入母屋造り銅板葺きの大屋根が風格を示し、正面7間の柱間は全て開け放されている。
お堂内陣には本尊の釈迦如来立像(重文)が安置されている。ここから通称「釈迦堂」と呼ばれている。秘仏なので辻子の中に安置され、お前立ちのみ拝観できます。

釈迦堂は延喜10年(910)に建立されたが、信長による焼き討ちで焼失した(1571年)。延暦寺復興をめざした豊臣秀吉は、文禄4年(1595)に大津の園城寺(三井寺)の弥勒堂(金堂)をここに移築さす。この弥勒堂は南北朝時代の貞和3年(1347)に建てられたものなので、現在延暦寺に残る建物の中では最古のものとなり、国重要文化財に指定されています。昭和34年(1959)に一度解体修理されている。

 横川への道  



12時、横川へ向います。釈迦堂の横に標識があり、横川中堂まで4キロとなっている。シャトルバスを利用すれば10分ほどだが、比叡山延暦寺を少しでも体検しようと思うならば、お坊さんたちが歩いた道を歩かなければならない。90分ほどかかるということだが、写真を撮りながらのんびり歩くつもりなので、もう少しかかるかもしれない。

小さなトンネルが現れました。奥比叡ドライブウェイの下を潜り抜けます。

平坦な山道が続く。幅は広くないのだが、横川への参道になるので、それなりに整備されています。時々、右手にドライブウェイが見える。ドライブウェイと併走しているのです。

この道は「京都一周トレイル」で、また「東海自然歩道」でもあります。このまま進めば東京の高尾まで行けるのだ。
山道といっても比叡山の尾根筋なので明るい。ただし展望はほとんど期待できません。樹間を黙々と歩くだけです。紅葉をもう少し期待したのだが、山上なので最盛期は過ぎていた。落ち葉を踏みしめて歩きます。

所々で丁石が見かけられます。「横川元三大師道 廿三丁目」と刻まれている。丁石は道程を記したものだが、「廿三丁」といわれてもピンとこない。「歴史と修行の道」は、まだ半ばにも達しません。

「横川への道」で唯一道しるべとなる「玉体杉」だ。ちょうど中間地点なのです。左手に京都市内が一望でき、
「横川への道」で唯一展望の開ける場所となっている。玉体加持する気はないが、休憩用に椅子も置かれているので一服します。


またトンネルが現れた。ここからは奥比叡ドライブウェイの右側を歩くことになる。

見えてきました、横川の駐車場が。やっと横川に着きました。1時20分なので、西塔から80分で到着したことになりす。








 横川(よかわ)参道  



広い駐車場の奥が横川境内への入口です。現在横川は紅葉祭り「比叡のもみじ」(2019年11月2日(土)~24日(日))の真っ最中で、テント小屋では全ての人に無料抽選クジをおこなっている。「オリジナルグッズ」「抹茶又はくず湯」が当たるようです。すぐ前のおばさんは当たったが、私は当たるはずもありません。紅葉に覆われた参道へ向います。

嘉祥元年(848)第3世天台座主慈覚大師円仁(794-864)が、現在の横川中堂にあたる首楞厳院(しゅりょうごんいん)というお堂を創建したのが横川(よかわ)の始まり。延暦寺の中心からかなり離れた場所にあり、奥深い樹林に包まれ森厳な空気感が漂う所。ここで親鸞、法然、日蓮、道元などの名僧が修行の日々を過ごしたのです。

駐車場の奥に紅葉に覆われた下り参道があります。この周辺が延暦寺の中で最も紅葉の美しい場所となっている。だから延暦寺の紅葉祭りはこの横川で開催されるのです。ここは今が最盛期のようで、眩しいばかりに燃え上がる紅葉のトンネルの中を下って行きます。


ゆるやかな下り参道は300mほど続く。参道脇には紙芝居風の絵パネルが並べられ、親鸞、日蓮、道元の生涯が説明されている。1枚ずつ読んでいけば勉強になるのでしょうが、そんな時間もないので先を急ぎます。

 龍が池と根本如法塔  



参道を下ると小さな池があり、その先に紅い横川中堂の一部が見えている。この池は「龍が池」と呼ばれ、元三大師と大蛇の物語があります。元三大師に改心させられた大蛇は、池の中央に祀られている弁財天女のお使いとして「龍神」となり、横川を訪れる人々の道中の安全を守っているという。

池の脇に丁石が置かれている。横川の中に入ったというのに「元三大師道 三丁目」とあります。元三大師堂までの距離でしょうか?

龍が池の先に、横川中堂とは反対側に上ってゆく坂道がある。坂道の上に建つ多宝塔が「根本如法塔(こんぽんにょほうとう)」です。
慈覚大師円仁は自ら書写した如法写経を納めるためにここに塔を建てた。この跡地に、大正14年(1925)に建てられた多宝塔が現在のもの。慈覚大師の業績を慕い多くの写経が納められており、如法写経発祥の地とされる。




 横川中堂(よかわちゅうどう)  



石垣の上に舞台造り(崖造り)で建つ横川中堂(よかわちゅうどう)。横川地域の本堂にあたり、「首楞厳院(しゅりゅうごんいん)」とも呼ばれる。嘉祥元年(848)慈覚大師円仁が創建された。これが横川の始まりです。信長の焼き討ちで焼けたが、秀頼と淀君が再建する。しかしそのお堂も昭和17年(1942)落雷で焼失してしまう。現在の建物は伝教大師入滅1150年遠忌をを記念して昭和46年(1971)に鉄筋コンクリート造りで再建されたもの。
遣唐使船をモデルとし造られたそうで、下から見上げると船のように見えないこともない・・・。

お堂には焼失を免れた本尊の慈覚大師作と伝えられる聖観音菩薩像(国重要文化財)が祀られている。新西国三十三箇所観音霊場第118番札所の霊場です。

鮮やかな朱塗りのお堂は紅葉さえかすんでしまう。紅葉時期には、夜になると境内はライトアップされるそうです。

お堂前の広場。東塔と違い深山の中らしい空気感が漂う。奥の道へ入ると恵心堂へ行ける。杉木立に囲まれた緩やかな坂を歩くと道の中程から、左右に石仏が等間隔に置かれている。第廿九番松尾寺(左の写真)、第廿五番清水寺(右の写真)、第廿七番書写山、第三十番竹生島・・・などの石柱が立つ。西国三十三ケ所の観音石仏で、全て巡拝すれば「西国三十三所観音霊場巡り」をしたことになるのでしょうか。石山寺にも同じようなものがありました。

 恵心堂  



道は鐘楼に突き当たり、左右に分かれる。左へ進めば四季講堂(元三大師堂)へ、右へ行けば恵心堂です。

右へ入っていくと紅葉の美しい小さな境内が見える。ここが恵心僧都源信(942~1012)ゆかりの恵心堂。
恵心堂は恵心僧都源信が学問修行に励み念仏三昧に過ごした住居跡です。またここで名著「往生要集」を著し、法然、親鸞などの浄土各宗の祖師に大きな影響を与えた。

現在の堂は坂本生源寺の別當大師堂を移築したもの。内部非公開です。

 四季講堂(元三大師堂、がんざんだいしどう)  



鐘楼のある場所に戻り、今度は左の道へ入る。坂を下ると紅葉がひときわ冴える場所に出ます。左に四季講堂が、右手に比叡山行院と道元得度の地があります。

四季講堂の入口。山門の脇に「おみくじ発祥之地」の石柱が立てられている。
元三大師が大きな鏡の前で禅定に入っていたところ、骨の鬼の姿が鏡に映り、その姿を版木のお札(角大師の影像)に刷り人々に配布したところ、厄難から遁れることができた。これが魔除けのお札として崇められるようになったという(詳しくは説明板を)。(東山の青蓮院にある宸殿にはおみくじが置かれ、「おみくじの元祖」とあったのだが・・・)

良源さんは「元三大師」「角大師」「豆(魔滅)大師(下の説明板を参照)」とも呼ばれ親しまれてきた。また現地の案内板には「おつけものの元祖」とも記されている。

ここは平安中期の天台宗の僧で延暦寺中興の祖といわれる慈恵大師良源(第18代天台座主、912-985)の住居跡と伝えられる。康保4年(967)、村上天皇の勅命によって四季に法華経が論義されたことから「四季講堂」と呼ばれる。また正月三日に亡くなったため「元三大師(がんざんだいし)」とも呼ばれ、お堂を「元三大師堂」とも称する。本尊には慈恵大師良源の御影を祀っている。
現在のお堂は江戸初期の建築。

お堂から撮った境内。正面が入口の山門。

 元三大師御廟  


境内図を見ながら横川エリアの北側にある元三大師御廟へ向う。少し離れているので山道を歩かなければならない。
15分で元三大師御廟らしき建物が現れました。周辺を見渡すが、これが元三大師御廟だという案内も標識も全くありません。石鳥居の上部中央に文字らしきものが刻まれた様子が見てとれるが、黒っぽく消されています。ただ唯一、鳥居脇の消防局の立て札に「元三大師御廟」の文字があるだけ。はたしてこれが元三大師御廟だという確信がもてません。

中へ入ってみます。お堂の背後に墓域らしきものがある。柵で囲まれた中には、白っぽいエリンギのようなものが置かれて(生えて・・・?)いるだけ。ますます元三大師と関係ないのでは、と思うようになった。しかし境内図や手持ちの横川図にはこの場所に載っているのだが。

ここは横川中堂の背後。正面の道を進めば四季講堂(元三大師堂)へ行ける。左の道は今出てきた道です。案内標識には「←元三大師御廟」とあるのだが・・・。

駐車場に戻り、3時発のシャトルバスで東塔へ。バスは30分間隔なのでかなり混んでいました。バス代は670円。

 無動寺谷(むどうじだに)へ  



横川から東塔に戻る。まだ3時半なので、無動寺谷へ寄ってみることに。坂本ケーブル延暦寺駅の傍に石鳥居が立ち、「無動寺参道」の標識が建つ。後に、明王堂の近くで掃き掃除をされていた若い僧の方に「無動寺はどこですか?」と尋ねたら、「無動寺というお寺はありません」といわれました。
無動寺谷は東塔に属し、東塔5谷の一つで「南山」または「叡南(えなみ)」と呼ばれている(他に東谷、西谷、南谷、北谷)。明王堂を中心に幾つかの塔頭が点在しています。ただしかなり離れているので別格扱いで「天台別院」とも呼ばれた。

鳥居の横は展望台となっており、琵琶湖と大津市街の眺めがすばらしい。

急坂ではないのだが坂道がズーと続く。なかなか建物が見えてこない。下ったら、帰りは上らなければならない。それを考えたら引き返したくなる。もうすぐだろう、といいきかせながら下っていく。
ただ「参道」というだけあって、坂道は幅広くよく整備されている。横川への道とは大違いです。時々、色付いた枝葉の間から琵琶湖が見える。少しずつ大きく見えてくるので、坂本まで降りてしまうじゃないかと思ったくらい・・・。

 弁財天堂・明王堂  



閼伽井を過ぎると鳥居が見えてきた。やっと無動寺谷に着いたらしい。参道入口から15分位かかったでしょうか。「大弁財天堂」の鳥居を潜り脇道に入る。この奥に弁天堂がある。
なお、地図をみればこの道は「東海自然歩道」となっており、夢見が丘へ通じているようです。





誰もおらず、少々不気味感の漂う細道を行くと、紅いお堂が現れる。弁天堂です。無動寺谷を開いた天台宗の僧・相応が回峯修行の際に相応を外護した白蛇(弁財天)を祀っている。
二基の狛犬の間に、二匹の巻きつき蛇が・・・。蛇、大嫌いの私は急ぎ足で逃げていった。

弁天堂から参道に戻り、この先で左に上れば無動寺谷の中心伽藍の明王堂だ。明王堂には、本尊の不動明王と、無動寺谷を開いた相応が祀られています。ただし不動明王は秘仏で、6月23日の明王講曼荼羅供法要の時だけ開帳されるそうです。
明王堂は貞観7年(865年)、天台宗の僧・相応(そうおう、831-918)によって、比叡山中腹のこの谷間に建てられた。そして自ら刻んだ等身の不動明王像を本尊として祀った。「無動」とは、不動、不動明王を意味するので、「無動寺明王堂」(むどうじみょうおうどう)とも称されるという。

比叡山回峰行(かいほうぎょう)は相応が始めたもので、現在でも千日回峯行はここ無動寺谷が拠点になっている。千日回峰行とは「7年間、1年に100日から200日、合計千日間、比叡山の山内を巡拝する回峰行。途中、堂入りという荒行を行い、これを満行した者は生身の不動明王、当行満阿闍梨と呼ばれる。千日間を満行した者は北嶺大行満大阿闍梨と呼ばれる。第二次世界大戦以降で満行した者は、2017年現在、14人」(Wikipediaより)。
千日回峰行で最も 過酷とされる堂入りはここ明王堂で行われる。断食・断水・不眠・不臥を9日間にわたって守り続けるのです。

明王堂前庭からの眺め。すぐ下の法曼院の屋根越しに琵琶湖と大津の街をより近くに望むことができます。

明王堂、法曼院、大乗院、玉照院などの堂宇が、急峻な谷間に上から下に並ぶ。そのため急階段が設けられている。勾配のきつい階段なので、高度恐怖症の人や高齢者は無理でしょう。


 大乗院・玉照院  



恐怖の階段を下り少し進むと、「親鸞聖人御修行旧跡」の碑が建ち、その奥にお堂が現れる。「大乗院」の名札がかかっています。
後に慈円と改め日本最初の史論書「愚管抄」を著した天台宗の僧・慈鎮(じえん、1155-1225)が住まい修行した寺。慈円のもとで出家得度した親鸞(1173-1263)もここで修業したという。

大乗院からさらに下ると玉照院だ。山門に特色があります。千日回峯を満行した大阿闍梨がお住まいとか。
参道らしき道は玉照院前で終わっている。これから下は山道で、麓の坂本から延暦寺までの「無動谷ハイキングコース」となっています。「坂本まで1時間」の標識が立つ。降りてきたあの坂道をまた登る苦痛を考えたら、このまま下っていきたくなる。さっき明王堂近くで掃き掃除されていた若いお坊さんに「ケーブル駅へ戻るのと、坂本へ降りるのとどっちが早いですか」と尋ねたら、「断然!駅ですヨ」の返事だった。「断然!」と強調されていたので、引き返すことにした。さらに下ると、相応和尚、慈鎮和尚(慈円)のお墓があるようだが、もうそこまでの気力(足力)が残っていません。

無動寺谷も、織田信長の比叡山焼討ち(1571年)の時、延暦寺同様に焼失する。諸堂はその後に再建されたもの。明智光秀は密かにこの坂を登って延暦寺攻略に大きな功績をのこした。そして信長から坂本、南近江の領地を与えられた。来年(令和2年)のNHK大河ドラマは明智光秀のようです。楽しみだナ

無動寺谷からケーブル駅目指して登っていく。千日回峰行では、この坂を登り比叡山各地を周って無動寺谷へ帰ってくる。これを千日繰り返すそうだ。想像もできない精神力、体力ですネ。わたしは今回だけでも気力が萎えました。
しばらく登っていると休憩所がある。下るときは、なんでこんな所に休憩所があるんだろうかと疑問に思ったが、今やっと納得できました。本当に助かる休憩所です。

無動寺谷で出会ったのは掃除中の若いお坊さん二人だけでした。上の延暦寺は、紅葉シーズンで賑わっているが、こんな谷間まで訪れる人はいないようです。足跡が見られず、綺麗に掃き目のついた砂砂利の参道が印象的だった。

比叡山ケーブル駅へ戻ったのが5時前。5時発の縁号に乗って下山しました。坂本ケーブル駅に着くとバスが待っている。JR湖西線の比叡山坂本駅経由で大阪へ。





詳しくはホームページ

比叡山延暦寺 1

2020年01月30日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2019年11月21日(木)
今年の秋は比叡山延暦寺と決めていた。「日本仏教の母山」といわれる延暦寺をぜひくまなく見ておきたかったのです。延暦寺へは以前一度訪れたことがある。7年前の2012年12月16日に比叡山に登った。京都側の雲母(きらら)坂を登り、山頂~延暦寺~坂本へ降りてゆく縦走路コースです。下山時に延暦寺東塔に立ち寄った。というか東塔内を通らなければ坂本へ下山できなかったのです。だからいやおう無しに諸堂巡拝券(550円)を徴収されました。山登りが目的で延暦寺を見学する予定はなかったが、せっかくだからと根本中堂だけを拝観しました。

今回は延暦寺が目的です。東塔、西塔、横川を踏破し、時間があれば無動寺谷も予定している。山登りでないので、また時間を節約するためにも坂本ケーブルを利用しました。快晴で、紅葉の季節、比叡山延暦寺を訪れるには一番良い時期かもしれない。

 坂本ケーブル  



早朝7時半、JR湖西線の比叡山坂本駅に着く。坂本ケーブル駅へのバスは始発が8時00分となっている。歩いて20分位だそうだが、体力温存を考慮してバスを待つ。日吉大社前で降り、ケーブル駅まで少し歩く。日吉大社周辺も紅葉の名所です。

日吉大社入口横に幅広い階段が見えます。これが比叡山延暦寺への表参道で、約3キロほどの坂道となっている。事の始まりを「本」、終わりを「末」といいますが、「坂の始まり」なので、この辺りを「坂本」と呼ぶようになったそうです。
7年前(2012/12/16)、京都側の雲母(きらら)坂を登り、山頂から坂本へ降りてゆく比叡山縦走を試みました。その際、数百段あろうかと思われるこの石段を降りながら”こんな階段、絶対に登りたくない”と思ったものです。

坂本ケーブル駅です。今回は登山でなく、延暦寺探訪なのでケーブルを利用する。麓の坂本と延暦寺東塔とを結び、全長約2キロある日本一の長さを誇る「坂本ケーブル(比叡山鉄道)」です。昭和2(1927)年の開設。坂本駅と延暦寺駅の駅舎は登録有形文化財に指定されいます。


古風な駅舎とは対照的に、鮮やかな赤と緑で塗られた車両は大変モダンだ。車両は二台あり、「縁」号と「福」号と名付けられている。参拝者に、良いご「縁」と幸「福」が訪れるようにと祈りが込められているそうです。平成5年(1993)に新調された三代目。写真は「福」号。

8時30分発の福号に乗って出発。終点ケーブル延暦寺駅まで高低差484m、乗車時間は11分、その間は周辺の案内や坂本ケーブルについてのアナウンスが流され退屈しません。
トンネルが二ケ所あります。また中間駅が二つある。「ほうらい丘」駅と「もたて山」駅です。出発時に、前もって途中下車することを知らせておかないと停車せず無視します。「もたて山」駅の近くには平安時代の歌人で土佐日記の作者の紀貫之の墓碑があるそうです。紀貫之は裳立山(標高580m)山頂から眺める琵琶湖の風景をこよなく愛したと伝わります。紀貫之の墓にお参りするか、山菜取りの人しか途中下車しないと思います。

終点の延暦寺駅の横に展望台が設けられている。空気が澄みわたり陽光がまぶし朝は特に素晴らしい景観を見せてくれる。

 延暦寺の歴史  



ケーブル駅から東塔まで10分位。平坦な道で、時々樹間からのぞく琵琶湖の景観を楽しみながら歩きます。

公式サイトに「延暦寺とは、比叡山の山内にある1700ヘクタールの境内地に点在する約100ほどの堂宇の総称です。延暦寺という一棟の建造物があるわけではありません。山内を地域別に、東を東塔(とうどう)、西を西塔(さいとう)、北を横川(よかわ)の三つに区分しています。これを三塔(さんとう)と言い、それぞれに本堂があります。」とある。
三塔はさらに谷に細分され「三塔十六谷」と呼ばれる。
東塔・・・北谷、東谷、南谷、西谷、無動寺谷
西塔・・・東谷、南谷、南尾谷、北尾谷、北谷
横川・・・香芳谷、解脱谷、戒心谷、都率谷、般若谷、飯室谷

★★・・・創建・・・★★
延暦7年(788)、比叡山に最澄(766~822)が自らが彫った薬師如来を本尊とする一乗止観院(いちじょうしかんいん、現在の総本堂・根本中堂)という草庵を建て「比叡山寺」と号した。これが比叡山延暦寺の始まり。
延暦13年(794)桓武天皇が平安京に遷都すると、京の鬼門(北東の方角)に位置することから鬼門封じ・鎮護国家の寺院として保護された。最澄に帰依した桓武天皇は、最澄の渡唐を許可する。延暦23年(804)、最澄は遣唐使船で唐に渡り、天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想をともに学び、延暦24年(805)帰国し日本に伝えた(四宗相承)。延暦25年(806)、天台宗の開宗が正式に許可される。

最澄は唐で学んだ新しい教えを広め民衆を救いたい、そのために優れた僧侶を養成したい、と思うようになった。
当時の日本では、僧侶は国家資格であり、国家公認の僧侶になるには戒壇(僧に戒を授ける壇を設けたことからくる)にて儀式を受ける必要があった。当時、戒壇(小乗戒壇)は奈良の東大寺、筑紫(福岡県)の観世音寺、下野(栃木県)の薬師寺の3ケ所でしかできないことになっていた。
最澄は、教育理念と修学規制を定め、延暦寺において独自に僧を養成できるようにするため、弘仁11年(820)奈良の旧仏教から完全に独立した大乗戒壇設立の許可を求めた。しかし当時強い力をもっていた奈良の旧仏教(南都)から激しい反発を受け、最澄の生前には実現しなかった。

弘仁13年(822)6月4日、最澄は比叡山中堂院で56歳の生涯を閉じる。その7日後、延暦寺に大乗戒壇の設立が嵯峨天皇より許可された。これをきっかけに多くの人材が比叡山に集まり、後に法然・栄西・親鸞・道元・日蓮といった各宗派の開祖たちが育っていくことになった。

翌年の弘仁14年(823)、開創時の年号「延暦」を寺号に賜り、「延暦寺」と称されるようになる。最澄亡き後は、弟子の義真が最初の天台座主として後を継ぎます。その後、第2世天台座主・寂光大師円澄によって西塔が開かれ、さらに第3世座主・円仁は東塔・西塔の伽藍を整備するとともに横川を開く。円仁の弟子の相応は無動谷を開き、修験道を取り入れて千日回峰行を創始しました。
貞観8年(866)清和天皇より、最澄に「伝教大師」、円仁には「慈覚大師」の諡号が贈られました。日本で初めての大師号です。

★★・・・平安時代・・・★★
南都(奈良)の旧仏教はしだいに衰退し、代わって天台宗・比叡山延暦寺と弘法大師・空海によって開かれた真言宗の高野山金剛峯寺が中心になっていく。延暦寺は皇室や貴族の尊崇を得て大きくなっていった。特に、密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競ったという。

康保3年(966)10月、大火で諸堂の大半を焼失する。第18世座主・良源(912~985、慈恵大師、元三大師)は大火によって荒廃した根本中堂など多くの諸堂の再建と整備がなされ、また僧風の刷新を行い、組織的にはそれまで東塔の支配下にあった西塔・横川を独立させ、三塔十六谷と言われる陣容の基盤を完成させた。良源は延暦寺の「中興の祖」といわれている。

★★・・・平安時代後期<分裂・抗争と僧兵化>・・・★★
良源は延暦寺の全盛期を築いたが、同じ頃、円仁(794~864、慈覚大師、第3世座主)門徒と円珍(814~891、智証大師、第5世天台座主)門徒との対立が激しくなる。正暦4年(993)、円珍派の僧侶約千名は山を下りて園城寺(三井寺)に立てこもった。以後、「山門」(円仁派、延暦寺)と「寺門」(円珍派、園城寺)は対立・抗争を繰り返した。この僧侶達の抗争は延暦寺の性格に変質をもたらす。争いの中で僧侶達は武器を身につけ武装化していく。僧侶の僧兵化が進み、それがさらに両派の抗争に拍車をかけた。以後、鎌倉末期まで、座主補任や戒壇問題をめぐって紛争が続き、山門衆徒の園城寺を焼くこと7回に及んだ。やがてこの僧兵集団は強大な勢力になり、神輿を担いで朝廷に無理難題をもちかけたり、市中で乱暴狼藉を働いて恐れられるようにまでなっていった。

(Wikipediaより引用)「延暦寺の武力は年を追うごとに強まり、強大な権力で院政を行った白河法皇ですら「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と言っている。山は当時、一般的には比叡山のことであり、山法師とは延暦寺の僧兵のことである。つまり、強大な権力を持ってしても制御できないものと例えられたのである。延暦寺は自らの意に沿わぬことが起こると、僧兵たちが神輿(当時は神仏混交であり、神と仏は同一であった)を奉じて強訴するという手段で、時の権力者に対し自らの主張を通していた。
また、祇園社(現在の八坂神社)は当初は興福寺の配下であったが、10世紀末の抗争により延暦寺がその末寺とした。同時期、北野社も延暦寺の配下に入っていた。1070年には祇園社は鴨川の西岸の広大の地域を「境内」として認められ、朝廷権力からの「不入権」を承認された。
このように、延暦寺はその権威に伴う武力があり、また物資の流通を握ることによる財力も持っており、時の権力者を無視できる一種の独立国のような状態(近年はその状態を「寺社勢力」と呼ぶ)であった。延暦寺の僧兵の力は奈良興福寺と並び称せられ、南都北嶺と恐れられた。」
平安時代の中頃には、財力と武力を背景に朝廷の統制も効かない、独立国家のような状態にまでなっていった。

★★・・・平安末期から鎌倉時代<名僧を輩出>・・・★★
(右は根本中堂の覆屋外壁に掲げられた写真より)
全盛を誇った平安時代末期には、三塔・十六谷・三千坊を数えていたといわれています。そして平安末期から鎌倉時代はじめにかけて延暦寺は名僧を輩出した。法然・栄西・親鸞・道元・日蓮といった鎌倉新仏教の祖師たちが比叡山で学び独自の教えを開いていった。こうして比叡山は「日本仏教の母山」と呼ばれるようになったのです。
比叡山で修行した著名な僧としては以下の人物が挙げられる。
良源(慈恵大師、元三大師 912-985年)比叡山中興の祖。
源信(恵心僧都、942-1017年)『往生要集』の著者
良忍(聖応大師、1072-1132年)融通念仏宗の開祖
法然(円光大師、源空上人 1133-1212年)日本の浄土宗の開祖
栄西(千光国師、1141-1215年)日本の臨済宗の開祖
慈円(慈鎮和尚、1155-1225年)歴史書「愚管抄」の作者。天台座主。
道元(承陽大師、1200-1253年)日本の曹洞宗の開祖
親鸞(見真大師、1173-1262年)浄土真宗の開祖
日蓮(立正大師、1222-1282年)日蓮宗の開祖

★★・・・室町時代・・・★★
かって天台座主も勤めたこともある室町幕府六代将軍の足利義教と対立した。支配欲が強い義教は延暦寺を制圧し従属させようと何度か試みたが、そのつど失敗していた。。永享7年(1435)、延暦寺の有力な僧たちを誘い出し、その場で捕縛し、斬首したのです。これに怒った延暦寺の二十数名の僧侶たちは、根本中堂に立てこもり抗議したが、最期は絶望し根本中堂に火を放って焼身自殺した。この時、多くの堂宇が焼け、本尊の薬師如来も焼けている。
義教は焼失した根本中堂の再建を命じ、またわずかに焼け残った薬師如来の一部から本尊を復元し、根本中堂に配置した。こうして延暦寺の力も一時弱体化したが、嘉吉元年(1441年)に足利義教が暗殺されると、再び比叡山は武装化を強め、数千人の僧兵軍を抱えるまでになる。
明応8年(1499)、今度は室町幕府の管領細川政元に攻められ山上の主要伽藍が焼失する。再建された根本中堂もふたたび焼けてしまった。

★★・・・元亀2年(1571年):信長による比叡山焼き討ち・・・★★
戦国末期、織田信長(1534-82)と朝倉義景・浅井長政連合軍は戦う(姉川の合戦など)。この時、延暦寺は朝倉・浅井側に味方したので信長に睨まれる。広大な寺領や経済力をもち、数千の僧兵を抱えた延暦寺は戦国統一の障害になるとみた信長は、延暦寺に武装解除を要求した。延暦寺がこれを拒否すると、信長は延暦寺攻略を決意。
元亀2年(1571)9月12日、3万の軍勢を率い延暦寺を包囲し総攻撃する。1499年の細川政元の攻撃でも残されていた堂塔伽藍はことごとく焼き払われ、まさに全山焦土と化したという。僧侶や女、子どもにいたるまで、数千人もの人が殺害された。さらに麓の坂本、日吉大社なども焼き討ちにあっている。比叡山焼き討ちに大きな功績のあった明智光秀は坂本を手に入れ近江坂本城を築き力をつけていく(後に信長を暗殺するのだが・・・)。

★★・・・江戸時代以降・・・★★
信長による焼き討ち以後、信長に代わって天下をとった豊臣秀吉や徳川家との信頼関係を築き、彼らの力を借りて少しずつ復興していく。寛永19年(1642)には根本中堂、大講堂が再建された。

明治維新後の神仏分離令によって日吉山王社を分離するなどされたが、天台宗の総本山として現在まで不滅の法灯を守っています。平成6年(1994)には「古都京都の文化財」の一つとしてユネスコの世界遺産に登録されました。

 東塔境内図  


東塔の入口が見えてきました。番小屋のような建物で拝観料を支払い境内へ入る。延暦寺では「巡拝料」と呼んでいるようだ。巡拝料を払わないと境内さえ入れない。
大人個人の巡拝料は以下の通り。
東塔・西塔・横川共通券:700円、国宝殿(宝物館)入館料:500円
巡拝料と国宝殿入館のセット価格:1200円
また拝観(巡拝)できる時間は、東塔が8時30分~16時30分(12月は9時~16時、1・2月は9時~16時30分)、西塔・横川は9時~16時(12月は9時30分~15時30分、1・2月は9時30分~16時)となっています。


(Google Earth空中写真より)
東塔地域は延暦寺発祥の地であり、延暦寺総本堂にあたる根本中堂がある。延暦寺バスセンターがあり、坂本ケーブルにも近く、比叡山巡拝の起点となっています。
東塔に入ったら、まず中心となる文殊楼から根本中堂へ寄り、その後に周辺を周ることにします。

 文殊楼(もんじゅろう)  



文殊楼は、東面する根本中堂の東側の小高い丘の上に建つ。根本中堂にお参りする入口にあたるのです。即ち、総門の性格をもち、坂本側から参拝道にあたる本坂を登ってくると、まずこの門を潜ることになる。

慈覚大師円仁が中国五台山の文殊菩薩堂に倣って創建したものですが、何度も火災に遭っている。現在の建物は、寛文8年(1668)に焼失した後に再建されたもの。二階建ての楼門で、入母屋造・銅瓦葺。重要文化財指定。

二階には「知恵の文殊菩薩」が祀られ、階上に上がって拝観祈願することができる。堂の中央に通路が設けられています。
左の写真の左が入口で、右が出口。入口を入ってハシゴを登るのだが、これがまたとてつもなく急傾斜のハシゴで、ほぼ垂直に近い。諦める人もかなりいてそうだ。降りも同様です。



学問の仏様だけあって合格祈願の絵馬がたくさん吊るされている。ここのハシゴは受験より難度が高いゾ。








 根本中堂(こんぽんちゅうどう)  




文殊楼前から見下ろした根本中堂。現在、平成の大修理中なので覆屋で囲まれ根本中堂の外観を見ることができない。








2012年12月16日に訪れた時の写真で、文殊楼前から撮ったもの。廻廊と銅板葺きの大屋根がよくわかる。
根本中堂は比叡山延暦寺全体のの総本堂で、最澄自ら刻んだと伝わる本尊の薬師如来が祀られれています。創建以来幾度か焼けたが、現在のお堂は、寛永19年(1642)に江戸幕府三代将軍・徳川家光の命で再建されたもの。
入母屋造で幅36.7メートル、奥行23.9メートル、屋根高24.3メートルの荘厳な建物。比叡山にある建造物としては、昭和28年(1953)に唯一「国宝」に指定されています。


工事中の覆屋外壁に掲示されていた「根本中堂の変遷」

(工事中の覆屋外壁の写真より)
お堂内部は内陣と、床張りの礼拝場所に分けられる。礼拝場所はそれぞれ1間ずつの外陣と少し床が高くなった中陣とに分けられる。中陣の欄間には、紫雲に踊る天人の姿が色鮮やかに彫られている。
工事中の現在、外陣と中陣は真ん中を仕切り板で塞がれ、半分しか入れない。そこから内陣を拝することになる。

(工事中の覆屋外壁の写真より)
外陣は組入(くみいり)天井だが、内陣に近い中陣の上は格天井となっている、その格天井の天井版に百花の図が極彩色で描かれ、江戸初期の絢爛豪華な寺院装飾をよく表しているという。

(延暦寺発行の小冊子「比叡山根本中堂」より)
(左は工事中の覆屋外壁の写真より)内陣です。中陣より見ると、一段と低くなった正面に厨子があり、釣灯篭の灯りだけが照らす薄暗い雰囲気は、何か神秘的で厳粛さを漂わす。中腰で覗いていたのだが、いつのまにか正座してしまう。

内陣は中陣より3mほど低い石敷きの土間になっていて、中央と左右に三基の厨子がある。中央の厨子には最澄が比叡山の霊木をみずから刻んだと伝えられ本尊・薬師如来立像(秘仏)を安置、左右に日光菩薩像、月光菩薩像を置き、さらに十二神将像が配されている。通常、仏様は見上げて拝するのが普通だが、ここでは中陣の参拝者と同じ目線の高さになるように配されている。これは“仏も人もひとつ”という仏教の「仏凡一如」の考えを表しているそうです。しかし仏と人との間には、不気味な暗い谷間が横たわり”一如”とはなれそうにない気がします。一段と低くなっているこの石敷きの暗い谷間は「修行の谷間」と呼ばれ、僧侶の修行の場だそうです。凡人には越えられそうもありません。

厨子の前でボンヤリと灯りをつける3つの釣灯篭がある。これは「不滅の法灯」と呼ばれ、最澄の開創以来1200年間消えることなく燃え続けているそうです。信長の比叡山焼き討ちで一度だけ消えたが、立石寺(山形県)に分灯されていた火を移し、現在まで燃え続けている。「油断大敵」と、僧侶達が日々菜種油を注いでいるのです。

寛永19年(1642)の徳川家光による再建後、7回目の修復工事が現在行われている。平成28年(2016)に着工され、令和8年(2026)完工の予定。
根本中堂全体が覆屋に囲われ外観は見ることができず、内部は鉄骨だらけです。ただし堂内に入って拝観することはできる。といっても中陣、外陣の半分だけで、廻廊や中庭も見ることができない。唯一の特典は、階上のステージに上がり、廻廊の屋根やお堂の側面がみれること。修復作業風景を見れたらよいのだが、あいにく休みなのか、休憩中なのか、見れなかった。このステージ上のみ撮影可とあります。
鉄骨とお寺のお堂は全くそぐわない、ということがよく判りました。

根本中堂の正面は、急な階段がありその上に文殊楼が建つが、横を見れば幅広の緩やかな坂道が上っている。山中のお寺なのでともかく坂が多いんです。

 万拝堂・一隅会館・大黒堂  



坂道を上ると、東塔に最初に入った場所に出ます。この辺りが東塔の中央部。建物は、右が万拝堂で、左が一隅会館。

公式サイトに「万拝堂は根本中堂大坂を登ったところにあります。日本全国の神社仏閣の諸仏諸菩薩諸天善神を勧請し、合わせて世界に遍満する神々をも共に迎えて奉安して、日夜平和と人類の平安を祈願している平成の新堂です。」とある。平成の新堂だけあって、ピカピカに輝く千手観音が坐されている。仏様の周りを大きな数珠玉が取り囲んでいる。人間の煩悩の数と同じ108個あり、この玉に触れながら一周すると煩悩が消えるそうです。

一隅会館は、参拝者のための無料休憩所で、地下にはおそば屋さんもある。延暦寺を紹介する映像も見れます。
天台宗が近年もっとも力を注いでいるのが「一隅を照らす運動」だそうです。自分自身が一隅を照らす人になるように努め、その一隅の輪を社会へと広げていこうとするもの。自分が輝き、まわりの人も照らす・・・俺にできるんだろうか?

一隅会館の向かいに建つのが大黒堂(だいこくどう)。わが国で初めて三面をもった大黒天が祀られている。米俵の上に立ち、食生活を守る大黒天を中心に、右には勇気と力を与える毘沙門天、左には美と才能を与える弁財天の三つの顔をもつ。
豊臣秀吉が三面大黒天を護持仏にして太閤にまで出世したことから「三面出世大黒天」とも呼ばれる。
伝教大師最澄が比叡山へ登った折、この地において大黒天を感見したところであり、日本の大黒天信仰の発祥の地と言われています。

大黒堂前に「摩尼車(まにくるま)」なるものが置かれている。お堂の人が「願い事をしながらゆっくり3回廻して下さい」と教えてくれた。後で「摩尼」の意味を調べたら、梵語の”mani”からきており、濁水を清らかにする力をもつ宝玉。

 大書院・延暦寺会館  



大黒堂前から右手に下っていく坂道がある。この坂道を下るとすぐ大書院と延暦寺会館です。
この坂道は、比叡山からの下山道になっており坂本に出る。逆に坂本から延暦寺への表参道でもある。大書院前に「法然上人得度御霊場」の石柱が建っており、10分ほど下った所に法然上人得度の地といわれる法然堂があります。

幔幕の張られた門が大書院、左の建物が延暦寺会館。宿泊施設の延暦寺会館では写経や坐禅の修行体験もできる。それぞれ約90分間で1人 1、080円(税込)、予約が必要です。また喫茶・レストランもあるので休憩にも利用できます。
延暦寺会の1階部分に駐車場がある。この駐車場からの眺めが素晴らしく琵琶湖を一望できます。


大書院に入ってみます。昭和に建てられた書院造りの建物。昭和天皇・皇后をお迎えした建物なので勅使門(唐門)が威厳を保つ。
現在はお化けをお迎えしているようです。境内の各所に「非公開大書院特別公開・ゲゲゲの鬼太郎・・・」の幟が立てられている。2019年10月12日(土)~12月8日(日)間の特別展示。水木しげるさんの妖怪と延暦寺に古くから伝わる七不思議の妖怪を京都の日本画絵師が描いたものだそうです。この展示を見るには別途千円必要です。

誰もいてない。受付係りも見かけない。展示中のはずだが、静まりかえっている。明るい日中だというのに妖怪でも出てきそうな雰囲気だ。幔幕の両脇に吊るされた妖怪提灯が、いっそう不気味さを増す。急いで引き返しました。

 大講堂  


万拝堂前の広場に戻り、これから東塔の西側の境内を巡ります。広場の西側に、階段と緩やかな坂道が並んでる。どちらを使っても大講堂や法華総持院へ行けます。階段を使えば、ほんのチョットだけ大講堂へ近道になる。

階段を登ると鐘楼が、その向こうに大講堂が佇む。どちらも鮮やかな朱色に染まってる。

鐘は「開運の鐘」と呼ばれて、「一打50円」で撞くことができます。多く撞くほど運が高まるのでしょうか?。「連打しないで下さい」とありますが。華人が冥加料を入れないで、撞きまわっていました。
鐘が重いのか、楼の中にさらに柱でもって支えています。

大講堂は、僧侶が法華経の講義を聞いたり、問答をして勉強する学問修行の場。天長元年(824)に天台座主第一世・義真が創建したが信長による比叡山焼き討ちで焼失。寛永19年(1642)に再建された。しかしこれも昭和31年(1956)に放火により焼失する。現在の大講堂は、昭和39年(1964)に山麓坂本にあった東照宮の讃仏堂を移築したもの。この建物は寛永11年(1634)の建築なので、大講堂は国重要文化財に指定されています。

内陣には本尊の大日如来坐像を中心に、左に十一面観音坐像、右に弥勒菩薩坐像を祀っている。その左右には比叡山で修行した各宗派の宗祖(向かって左から日蓮、道元、栄西、円珍、法然、親鸞、良忍、真盛、一遍)の等身大の木像が並ぶ。これらは関係各宗派から寄進されたもの。
また、外陣の壁には釈迦を始めとして仏教・天台宗ゆかりの高僧の肖像画がかかっています。仏教に深く関わった聖徳太子の肖像画もありました。

 国宝殿・戒壇院  



大講堂の先に、下っていく坂道が見える。これを下ると国宝殿と延暦寺バスセンターにでる。この坂道の両側に、紙芝居の絵のようなパネルが並ぶ。伝教大師・最澄の生涯を紹介したものです。

国宝殿は延暦寺が所蔵する国宝・重要文化財を含めた数多くの仏像・仏画・書跡などの貴重な文化財を管理・保管するため、平成4年(1992)に開設された。
入館料は大人500円。1、2階に分かれ、平成の建物なので明るく綺麗な内部。明るすぎて、居並ぶ仏様は居心地よくなさそう。東寺の宝物館のように薄暗くして雰囲気をだしてほしいものです。適宣入れ替えながら展示しているようだが、残念ながら国宝にはお目にかかれなかった。

注意事項に「メモを取られる際は必ず鉛筆をご利用ください」とあるが、ペンでは何か不都合あるんでしょうか?


坂道を引き返し、大講堂脇から西側へ坂道を上ってゆく。数分で右側に階段が見えます。階段上に建つのが戒壇院(かいだんいん、重要文化財)です。




戒壇院は、正式な僧侶になるための大乗戒(規律)を授ける儀式を行う重要なお堂で、年に一度授戒会が行われている。信長による比叡山焼き討ちで焼失後、延宝6年(1678)に再建されたのが現在の建物。栩(とち)葺屋根に宝形造り、正面に軒唐破風(のきからはふ)をもつ。二重屋根のように見えるが、裳階(もこし)をもった一重の建物。内部は石敷きで、石の戒壇が築かれている。




 法華総持院(ほっけそうじいん、阿弥陀堂・東塔)  



戒壇院の階段を降り、緩やかな坂道を上ります。坂道の先には大階段が待ち受け、阿弥陀堂の大屋根が覗いている。傾斜はきつくないので、年配者でも大丈夫でしょう。

大階段を登りきると、正面に阿弥陀堂が佇む。起伏の多い東塔地区で一番高い所です。
昭和12年(1937)に延暦寺開創1150年大法要を記念して建てらた。檀信徒の先祖回向の法要が執りおこなわれています。お堂の中に入り、ピカピカの丈六・阿弥陀仏座像を拝観できます。
またお堂の右前には、よく見かける水琴窟の仕掛けがあり、耳を澄ませば微かな音色を聴くことができる。

昭和55年(1980)、阿弥陀堂の横に多宝塔形式の東塔が再建された。阿弥陀堂とは廊下でつながり、両建物を総称して「法華総持院(ほっけそうじいん)」と呼ぶ。朱色が鮮やかなお堂と塔が並び、延暦寺の中でも最も印象的な場所です。

(上の絵は坂道のパネルより)



伝教大師最澄は、全国を6区に分け、各地区に1塔ずつ計6つの宝塔を建てる計画をたてた。その中核となる東塔が貞観4年(862年)慈覚大師円仁によって創建された。信長の焼き討ちで焼失したが400年ぶりに再建されたのです。

朱塗りの二層の塔で、上層部が通常の多宝塔に見られる円形でなく方形となっているのが珍しいという。塔内部へは入ることはできない。塔の下層には胎蔵界大日如来が、上層には慈覚大師円仁が唐から授かってきた仏舎利が安置されている。また上層には法華経1000部が安置され、その様子が写真付きで説明されていた。






東塔の縁側から撮った琵琶湖の眺め。


右が阿弥陀堂、左が東塔で、両建物は廻廊でつながっている。正面の廻廊の下を潜くれば、西塔・横川へ、さらには比叡山山頂へ行くことができる。次は西塔を目指します。



詳しくはホームページ
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北野天満宮界隈ブラ歩き 3

2019年12月25日 | 寺院・旧跡を訪ねて

■2019年2月25日(月曜日)
北野天満宮の周辺を訪ねる。地蔵院~大将軍八神社~平野神社~花街・上七軒~千本釈迦堂~石像寺(釘抜地蔵)~称念寺(猫寺)から千本ゑんま堂(引接寺)の順に。

 地蔵院  



嵐電・北野白梅町駅の近くに椿で知られる地蔵院があるので寄ってみる。山門の脇には「義商天野屋利兵衛乃墓」「豊公愛樹五色八重散椿」の石柱が立っています。拝観時間は午前9時から午後4時まで。

山門潜り正面の地蔵堂(本堂)との間に五色八重散椿が植えられている。
かつて秀吉の朝鮮出兵の時に加藤清正が朝鮮蔚山城から持ち帰って秀吉に献上し、天正15年(1587)北野大茶会を催した際お世話になったお礼にと地蔵院に献木された。初代は昭和50年代に枯れ,現在のはその二世。
「五色八重椿」の名のとおり,1本の木から白、紅、黄、桃、紅絞りなど五色の花を咲き分ける。散り具合にも特色があり,花びらが1枚ずつ散っていくという。花が丸ごと落花すると,打ち首のようで戦国時代の武士には嫌われた。そういうところから人々に「椿寺」として親しまれ,秀吉も愛した椿の木だそうです。京都市の指定天然記念物に指定されている。見ごろは3月下旬なので,まだ少し早く,小さな蕾が見られるだけでした。
山門をくぐって真っ直ぐ奥に地蔵堂が建っています。
安置されているお地蔵さまは「鍬形(くわがた)地蔵さま」とも呼ばれ、次のような説話が残る。我田引水する男を一人のお坊さんが注意すると,男は腹を立て持っていた鍬でお坊さんの顔を殴りつけた。そのお坊さんが入っていった地蔵堂の中を見ると,お地蔵さまの頬に鍬の傷がついていたという。それ以来、男は改心したという。この鍬形地蔵菩薩は地蔵菩薩洛陽四十八箇所十二番の霊場となっている。

本堂(地蔵堂)の横に周ると,忠臣蔵で有名な天野屋利兵衛(1661-1733))の墓所がある。吉良邸討ち入りを影で支えた大阪の商人で,晩年にはこの寺に隠棲し,剃髪して義士の冥福を祈ったと伝えられています。
また与謝蕪村の師・夜半亭巴人(やはんていはじん,1676-1742)の墓もある。本名は早野巴人(はやのはじん)で,夜半亭は俳号。

 大将軍八神社(だいしょうぐんはちじんじゃ)  



地蔵院の前を東西に通るのが一条通り。大将軍商店街と呼ばれ,別名を「妖怪ストリート」と称して宣伝しているようです。電柱に「妖怪ストリート」の幟がはためいています。よく整備され明るい通りなので,妖怪など出そうにみえないのだが・・・。
お店のおばさんに「妖怪ストリート」の由来を尋ねたら,「分かりません,組合の事務所で聞いてください」と。

妖怪ストリートを東へ歩くと大将軍八神社(だいしょうぐんはちじんじゃ)が現れる。

神社の創建は,延暦13年(794)桓武天皇が平安京造営の際に,大内裏(御所)の北西角に王城鎮護のため陰陽道の星神大将軍を勧請したのに始まるとされる。当初は「大将軍堂」と呼ばれ,江戸期に入り「大将軍社」と改称した。その後,八柱の神様(暦神八神)も合祀され,「大将軍八神社」へと変更され現在にいたる。

現在の本殿は昭和4年に八棟権現造りとして造り替えられたもの。
主祭神は大将軍神で,方位の厄災を除く陰陽道の方位神。そのため建築や転居、旅行,交通などあらゆる方位の厄災から守ってくれる神社として信仰されてきた。

ところが明治時代になり,「神仏分離令」によって陰陽道などの外来神は廃されることになった。そのため「素盞鳴尊(スサノヲノミコト)を主祭神とし、その御子五男三女神、並びに 桓武天皇を合祀」となり、御子八神と暦神の八神が習合して現在のかたちになったという。
本殿の真正面に奇妙なモニュメントが。石柱の上に八角形の石の台座,その上に陰陽道を示す五芒星が載っている。八角形の台座には「乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤」の八文字が刻まれています。これは八卦と呼ばれる陰陽道における方位を示す漢字だそうです。陰陽道が復活したのでしょうか。

 平野神社  



北野天満宮の北門を出て、西に歩くとすぐ平野神社の紅い大鳥居です。「平野皇大神」の扁額が掲げられている。

もともと桓武天皇生母の高野新笠の祖神・今木神が平城宮の宮中に祀られていた。それが延暦13年(794)平安京遷都に伴って大内裏近くに移し祀られたのが平野神社の創建とされる。
「当初境内地は方八町余(平安尺で1500m四方)で、現在の京都御所とほぼ同じ大きさでしたが、時の変遷とともに現在の200m弱四方となりました。」(公式サイトより)

臣籍降下(しんせきこうか・皇族が源氏、平氏などの姓を賜り臣下になること)した氏族から崇敬され、源氏・平氏・高階氏・大江氏のほか中原氏・清原氏・菅原氏・秋篠氏らから氏神として崇敬されており、「八姓の祖神」と称されたという。平氏とは特に強い結びつきにあった。天皇の行幸も度々行われたという。
「中世以降は荒廃したが、近世に入り寛永年間(1624年-1644年)には西洞院時慶によって再興が図られ、現在の本殿が造営された。近世の社領は100石であった。明治維新後、明治4年(1871年)5月に近代社格制度において官幣大社に列した。戦後は神社本庁の別表神社に列している。」(Wikipediaより)

紅灯籠の間を進むと中門です。承応2(1653)年頃の造営だが、昭和12(1937)年に改造を受けているので新しい。中門から左右に回廊がめぐらされている。中門は京都府登録文化財に登録されている。

中門を潜るとすぐ拝殿が建つはずだが、拝殿は跡形も無く、その敷地は柵で囲まれている。

平成30(2018)年、関西を襲った台風第21号によって平野神社は大きな被害に遭っています。拝殿は全ての柱が折れて檜皮葺の屋根が崩落してしまった。多くの樹木も倒木し、平野神社のシンボル・桜の木も大きな被害を受けている。
周辺には被害の様子を伝える写真が貼られ、復興のための義捐金を呼びかけています。

拝殿は、江戸時代前期の慶安3(1650)年に東福門院(後水尾天皇中宮・徳川秀忠の娘・徳川和子)によって寄進されたもので、四方を吹き放す舞殿形式をとる。京都府指定文化財です。

本殿です。(Wikipediaより引用)「本殿は4殿2棟からなり、江戸時代前期の寛永年間(1624年-1644年)の西洞院時慶による再建である。うち第一・第二殿は寛永3年(1626年)の造営で、第三・第四殿は寛永9年(1632年)の造営。春日造檜皮葺の4殿はいずれも東面し、それぞれ今木神(第一殿)、久度神(第二殿)、古開神(第三殿)、比売神(第四殿)が祀られている。第一殿と第二殿、第三殿と第四殿はそれぞれ空殿を挟んで連結する形式を採っており、この平野神社独特の形式は「比翼春日造(ひよくかすがづくり)」、または社名から「平野造(ひらのづくり)」と称される。これら本殿2棟は、国の重要文化財に指定されている。」

平野神社は珍しい種類の桜が見られることでも有名で、本殿前の境内にはいろいろな種類の桜が植えられ、それぞれに名前が付けられています。
公式サイトに「当社に珍種が多いのは、臣籍降下した氏族の氏神でもあったことから、蘇り、生産繁栄を願い各公家伝来の家の標となる桜を奉納したからと伝えられています。」と書かれている。上記の公式サイトには桜の種類が写真つきで紹介されています。

南側に広い桜苑が広がっており、本殿前左側から入れる。今は桜のシーズンではないので閑散とし、寂寥感が漂っています。
平野神社は関西でも有数の桜の名所として知られる。寛和元年(985)年、花山天皇が平野神社に行幸したおり、桜を手植えしたことに始まるという。それ以降、現在まで50種約400本の桜が植えらてきたそうです。早咲きは3月初旬から、遅咲きは5月初旬まで楽しめる。
毎年4月10日には平野桜祭り(桜祭神幸祭)が行われ、満開の桜の下を約200名による華やかな時代行列が練り歩くそうです。江戸時代から始まった「平野の夜桜」も平野神社の名物になっている。

桜苑の南側に見えるのが京都府指定文化財に指定されている南門。慶安4(1651)年に御所の旧門を下賜されたもの。もとは現在の大鳥居の位置(境内東側)にあったが、昭和18(1943)年に南門として移築された。形式は薬医門(本柱の後方に控え柱2本を設け、頑丈にしたもの)、切妻造で、屋根は桟瓦葺。
提灯に描かれた神紋の「桜」が鮮やかです。

 花山天皇紙屋川上陵  



平野神社に桜をもたらした花山天皇のお墓が、ここから北へ400mほどの所にあるので立ち寄ってみます。

第65代花山天皇の「紙屋川上陵(かみやがわのほとりのみささぎ)」です。花山天皇の墓所は所在不明になっていたが、記録に紙屋川のほとり,法音寺の北に葬ったとある。慶応元年(1865)、法音寺跡の北にあった菩提塚をもって陵所とし陵墓を造営した。宮内庁上の形式は方丘となっている。4月10日の平野神社の桜花祭では、関係者がここを参拝します。花山天皇が平野神社に桜をもたらしたからです。

花山天皇(968~1008)は冷泉天皇の第一皇子。わずか生後10ヶ月で皇太子に任命される。永観2(984)年、17歳の若さで第65代天皇として即位。寛和2(986)年6月19歳の時に寵愛していた女御藤原?子が逝去したため、天皇は悲しみのあまり内裏を脱出し東山の元慶寺(げんぎょうじ・花山寺)に入り、剃髪し出家した。従兄弟の第66代一条天皇に皇位を譲って法皇となり、「花山院」「花山法皇」と呼ばれる。在位わずか2年だった。
「西国三十三所巡礼」を始めたことで知られている。

 花街・上七軒(かみひちけん)  


花山天皇陵から南に下り北野天満宮に戻る。天満宮の東門から外に出ても大変な賑わいになっている。そこは花街・上七軒の通りだ。天満宮東門から今出川通上七軒交差点に至る400mほどの道です。「北野天満宮東参道」の石柱が建てられています。
「上七軒」の起こりについて「上七軒歌舞会」サイト
「上七軒の歴史沿革は、古文献記録その他伝説等に依て之を要約すると、 文安元年(西1444年)室町幕府武営の頃、北野社殿が一部焼失し、時の将軍、十代足利義稙は所司代 細川勝元に命じて、社殿の造営をさせました。その際、社殿御修築の残材を以て、東門前の松原に、七軒の茶店を建て、 参詣諸人の休憩所としましたので、人呼んで七軒茶屋と称したのがその由来であります。」とあります。
その後、天正十五年1587)に豊臣秀吉が北野大茶会を催し、洛中洛外より多くの人が集まり賑わったという。その時、秀吉は七軒茶屋を休憩所として、差し出された御手洗団子を大変気に入り、団子の山城一国における販売権を認めた。同時に、京都における茶屋株(営業権)を公許した。これが幕府より公認された国内最初の茶屋街です。花街としての上七軒の始まりで、京都五花街の中で最も古い。なお「上七軒」と称されたのは、御所の北(上)に位置したからといわれる。
北野門前遊里として賑わったが、江戸中期には一時島原の支配下に入ったり、幕府の制限を受ける。西陣織の隆盛とともに多くの茶屋が軒を連ね、江戸後期には芸妓中心の花街として発展し、祇園と並ぶ花街として賑わった。

上七軒は戦前まではお茶屋50軒、芸妓、舞妓あわせて60名で娼妓も3名いたが第二次世界大戦でお茶屋の大半が転廃業する。戦後すぐ再開したが、西陣織産業の衰退により茶屋の数、芸妓数も大幅に減少した。
現在(2015年)、お茶屋10軒、芸妓、舞妓合わせて31名だそうです。
上七軒通りを100mほど進むと、右側に上七軒歌舞練場への標識が見える。そこの路地を入り少し歩けば上七軒歌舞練場(かみひちけんかぶれんじょう)の建物が見えてきます。

歌舞練場とは、練った歌舞の芸を披露する場で、京都の五花街はそれぞれ歌舞練場をもっている。芸妓・舞妓の芸は一見さんお断りのお座敷でしか見ることができず敷居が高い。それを催しという形で一般に披露・公開するのです。

歌舞練場の建物自体は明治の中頃に建てられ、増改築などを繰り返して、1931年に現在の歌舞練場が建てられた。第二次世界大戦後、「北野会館」と呼ばれ、進駐軍のダンスホールに使用され「北野キャバレー」とも呼ばれた。1952年に本来の姿に戻り、2010年に耐震補強などの大規模改修工事が終了する。京都市歴史的風致形成建造物に認定されている。タイル貼り外装の二階建て、400席超(1階椅子席:361席、桟敷席:19席、2階桟敷席:30席)のキャパをもつ。

この歌舞練場で、春には「北野をどり」が、秋には「寿会」が催される。「北野をどり」は、昭和27(1952)年北野天満宮1050年記念大萬燈祭に奉賛したのが始まりという。日頃お目にかかれない芸妓・舞妓さんの花柳流舞踊を鑑賞することができます。

期間:3 月25 日~ 4 月7 日(14日間)
開演時間 : 13時30分 / 16時 全日2回公演 
御観覧料
お茶席付御観覧券  4,800円
御観覧券(お茶席無)4,300円

秋の「寿会」は 10月上旬頃に5日間行われます。

建物の裏は、小さな庭園となっており、テーブルが置かれランチメニューや飲み物を提供している。丁度昼過ぎだったのでランチタイムにと入ったが、かなりの順番待ちだったので諦めた。お手ごろ値段なので人気があるようです。
夏は、この庭や室内が「上七軒ビアガーデン」に変身するようです。夏の行事として昭和32年(1957)から始まった。特筆なのは、おそろいの浴衣姿の芸妓,舞妓さんが席まで挨拶に来られるという。また記念撮影にも応じてくれるそうです。
●期 間:7月1日 -9月5日 (お盆期間中(8月14-16日)はお休みさせていただきます)
●時 間:17:30 - 22:00(21:30ラストオーダー)
●料 金:最初のセット 2,000円(生ビール&お付き出し)、その後のお飲み物や料理は一品1000円(アイスクリームなど一部500円のメニューもあり)です。

予約制のようなので、詳しくは「上七軒ビアガーデン」公式サイトを。

歌舞練場から上七軒通りに戻り、東の方、即ち北野天満宮とは反対方向へ歩きます。400mほどの通りは、景観を損なう電柱・電線が見当たらず、石畳風舗装がなされ、すっきりした情緒ある街並みとなっています。これは、2001年に上七軒一帯が京都市の「上京北野景観整備地区」に指定され、電線地中化、舗装、照明灯設置などの景観整備が行われたためです。

通りには、お茶屋、小料理屋、民家などの街屋が建ち並ぶ。2015年現在、お茶屋10軒、芸妓、舞妓合わせて30名ほどだそうです。
舞妓・芸妓を抱え芸を教える置屋はお茶屋も兼ねている。舞妓・芸妓を呼んで飲食できるのです。こうしたお茶屋が集まっている所を「花街」(かがい)といい、京都には、祇園甲部、祇園東、先斗町、上七軒、宮川町の「五花街」がある。その中で、ここ上七軒は規模は最も小さいが、歴史的には一番古い。北野天満宮に寄り添いながら、西陣の旦那衆をご贔屓にしながら存続してきた。

上七軒通りを歩いていると、写真のように「五つ団子」の紋の入った提灯をよく見かける。この「五つ団子」が上七軒の定紋となっている。かつて豊臣秀吉が「北野大茶会」を催した際、ここ七軒茶屋で休憩し、みたらし団子を献上され大変気に入ったという。そういう由来から五つ団子が上七軒の定紋となったそうです。現在でも上七軒では、秀吉を祀る豊国神社(東山区)に団子を奉納しているという。
右の写真は上七軒の記章で、二本の「五つ団子」で円を描いたもの。

今出川通り上七軒交差点への出口から上七軒通りを撮ったもの。ここにも石柱「北野天満宮東参道」が建つ。

最後に、上七軒の舞妓・芸妓さんに逢えるかもしれないイベントです。
●2月3日か4日・・・節分(北野天満宮での舞、豆まき)
●2月25日・・・北野天満宮梅花祭(野点茶会で芸妓による手前披露)
●4月15-25日・・・北野をどり(上七軒歌舞練場)
●6月第3土・日曜日・・・五花街の夕べ(五花街合同)(京都会館第一ホール)
●7月1日-9月5日・・・上七軒ビアガーデン(上七軒歌舞練場)
●10月上旬・・・寿会(上七軒歌舞練場)
●10月1日-5日・・・ずいき祭(芸舞妓による神輿の見送り)
●10月22日・・・時代祭(京都御所-平安神宮)、五花街が交替で、小野小町、静御前、巴御前に扮する。
●11月1日・・・上七軒歌舞会(北野天満宮)
●12月1日・・・お献茶(北野天満宮、西方寺、歌舞練場)
●12月上旬・・・顔見世総見(南座、五花街の芸舞妓の総見)

 千本釈迦堂(大報恩寺)  


今出川通り上七軒交差点を渡り、北へ向う路地に入る。200mほど歩けば、突き当りが千本釈迦堂だ。千本通りにある釈迦堂なので、通称「千本釈迦堂(せんぼんしゃかどう)」と呼ばれているが、正式には「大報恩寺(だいほうおんじ)」。真言宗智山派に属します。

大報恩寺の創建は、鎌倉時代初期の承久3年(1221年)、求法上人義空が小堂を建て一仏十弟子像を安置したのに始まるとされている。最初は小さな草堂であったが、摂津国尼崎の材木商の寄進を受けて、安貞元年(1227年)に現存する本堂が完成した。

山門を潜ると、すぐ本堂が見えてきます。
安貞元年(1227年)に建てられた本堂は、応仁・文明の乱にも奇跡的に戦火から免れ、創建当時の姿を残している。京洛(京都市内)で最古の建造物といわれ、国宝に指定されています。
入母屋造り、檜皮葺き、正面五間、側面六間で、正面に一間の向拝が設けられている。どっしりと落ち着いた佇まいをみせている。

本堂前の東側に「おかめ塚」と呼ばれる宝篋印塔が建つ。傍の「おかめ銅像」は昭和54年におかめ信仰者によって建てられたもの。紅高欄に囲まれ、きょとんと座っているおかめさんは珍妙に見えます。
このお寺には「おかめ物語」というお話が伝わっている。少し長いが、傍らの説明板「おかめ塚由来」を紹介します。
「鎌倉時代の初め、西洞院一條上るの辺りで長井飛騨守高次という洛中洛外に名の聞えた棟梁とその妻阿亀が住んでいました。そのころ義空上人(藤原秀衡の孫)が千本釈迦堂の本堂を建立することになり、高次が総棟梁に選ばれ造営工事は着々と進んでいきましたが、高次ほどの名人も”千慮の一矢”というべきか信徒寄進の四天柱の一本をあやまって短く切りおとしてしまったのです。心憂の毎日を過ごしている夫の姿を見た妻の阿亀は古い記録を思い出し「いっそ斗組をほどこせば」というひと言、この着想が結果として成功を収め、見事な大堂の骨組みが出来上がったのです。
安貞元年12月26日厳粛な上棟式が行われたが、この日を待たづして阿亀は自ら自刃して果てたのです。女の提言により棟梁としての大任を果たし得たということが世間にもれきこえては・・・・「この身はいっそ夫の名声に捧げましょう」と決意したのです。高次は上棟の日、亡き妻の面を御幣につけて飾り、冥福と大堂の無事完成を祈ったといわれ、またこの阿亀の話を伝え聞いた人々は貞淑で才智にたけた阿亀の最期に同情の涙を流して、菩提を弔うため境内に宝筐院塔を建立し、だれ言うことなくこれを「おかめ塚」と呼ぶようになったのです。」
現在でも建物の上棟式では、「おかめ御幣」と呼ばれるおかめの顔の面をつけた飾りを飾るという。
ここは全国のおかめ信仰の発祥の地で、縁結び・子授け・夫婦円満などの「おかめ招福」,また工事の安全祈願のために多くの人が参拝するそうです。
本堂前の立派なしだれ桜は「阿亀桜」となっている。

本堂西側に廻ると下足棚があり、履物を脱いで上がる。近くに受付があり本堂・霊宝殿共通拝観料:600円を支払う。本堂内部は特に注意書きも無いので写真撮りました。

本堂内部は拝観者が自由に歩ける外陣と、立ち入り禁止の内陣とに分けられている。内陣中央には四天柱で囲まれた内々陣が設けられ、須弥壇上の厨子には本尊の釈迦如来坐像(重要文化財)を安置する。像高89cm、玉眼入りのヒノキ材寄木造り。鎌倉時代の仏師・快慶の一番弟子行快(ぎょうかい)の代表作のひとつ。もちろん秘仏で普段は目にすることはできませんが、お盆や正月、12月7,8日の大根炊き法要など年に4回ほど開帳されるそうです。須弥壇前では、おかめさんもきちんと正座し私達をお迎えしてくださっています。

本堂内部から外を撮る。しだれ桜の阿亀さんが色付く頃には一風の絵なるんでしょうが。

外陣の一番奥に「おかめ人形展」の入口がある。展示室は細長い一室だけですが、横一列に並ぶガラスケースに夥しいほどのおかめさんが並べられ、圧倒される。一番奥正面には大きなおかめ銅像が据えられ、私達を歓待してくれているようです。

阿亀さんはどれもふくよかで健康的で、美人とまではいえないが・・・大変愛くるしいお顔をされています。「おかめ」と「お多福」は同義語のように使われるが、こういう相貌の嫁さんもてば、多くの福をもたらしてくれるのでしょう。

本堂入口の反対側に霊宝殿があります。有料だが、本堂・霊宝殿共通券(600円)で入れる。
当寺が所有する宝物のほとんどがこの霊宝殿に保管されている。中でも特筆なのが、快慶作の十大弟子立像と定慶作の六観音菩薩像です(共に重要文化財)。
「運慶と並ぶ鎌倉時代の2大仏像彫刻家である快慶作の釈迦「十大弟子」像が10体揃って残されています。像の大きさはいずれも約90cmで玉眼入りの木造彫刻です。大報恩寺の本尊・釈迦如来(秘仏)が快慶の弟子行快作であり、ここに快慶の師弟が心をこめて合作した一群の像を拝むことができます。重要文化財
六観音像は、運慶の弟子である定慶の作で、聖、千手、馬頭、十一面、准胝、如意輪の六体の観音様で、六道信仰に基づいて作られた仏像で、全国で唯一の六体一同に安置されている観音様を拝むことができます。」(公式サイトの説明)

山門をくぐり本堂までの左側に、瓦葺きのお堂がある。「太子堂」の額が掲げられています。
かって北野天満宮の大鳥居の前に「北野経王堂願成就寺」という大きなお堂があった。足利義満が謀反をおこした山名氏清や、敵味方双方の戦死者を弔うため応永8年(1401年)に建てたもの。その後江戸時代に荒廃し、仏像や経典、義満の宝物などはここ大報恩寺に移され、現在は霊宝殿に保存されています。最終的に、明治の神仏分離によって破却、解体されたが、その際の木材を使ってここ大報恩寺境内に小さなお堂として復元された。お堂の前には山名矩豊が建立した「山名陸奥太守氏清之碑」が建つ

 石像寺(釘抜地蔵)  



山門をくぐったその奥正面が地蔵堂。正式名は「家隆山 光明遍照院 石像寺」(かりゅうざん こうみょうへんじょういん しゃくぞうじ)。後述の釘抜地蔵伝説から「釘抜地蔵(くぎぬきじぞう)」として親しまれている。

寺伝によれば弘法大師・空海(774-835)による弘仁10年(819)の創建。空海は、唐から持ち帰った石で石像を彫り、あらゆる苦しみから救済する「苦抜(くぬき)地蔵」と名付けたという。
当初真言宗寺院であったが、鎌倉時代に俊乗坊重源(1121-1206)による再興を機に浄土宗に改宗された。

地蔵堂には空海作といわれる本尊の「石造地蔵菩薩立像」、別名「釘抜地蔵」が安置されている。この地蔵は「苦しみを抜き取る」ということから「苦抜(くぬき)地蔵」と呼ばれていましたが、それがいつの間にかなまって「くぎぬき(釘抜)」と呼ばれるようになったそうです。

地蔵堂の前に大きな釘抜きのブロンズ像が置かれている。これは1964年、日本画家・堂本印象(1891-1975)が、母の回復祈願のために奉納したものだそうです。

地蔵堂の周りは二本の八寸釘と釘抜をくくりつけた「御礼絵馬」で埋め尽くされている。これは釘抜地蔵さんにより救われた人々によって奉納された実物の八寸釘と釘抜きを貼り付けた絵馬だそうです。

次のような釘抜地蔵の伝説がある。「室町時代の終わり頃、紀ノ国屋道林という商人がいた。彼は両手に激しい痛みを感じていたが、どんな治療を施しても効き目がなかった。そこで霊験あらたかな石像寺の地蔵菩薩に7日間の願かけをしたところ、満願の日の夢に地蔵菩薩が現れた。地蔵菩薩は「お前の苦しみの原因は、前世において人をうらみ、呪いの人形(ひとがた)を作ってその手に八寸釘を打ち込んだことにある」と告げ、呪いの人形から抜き取った八寸釘を道林に示して見せた。道林が夢から覚めると、両手の痛みはすっかり消えていた。そして、石像寺に参詣すると、本尊地蔵菩薩の前には血に染まった2本の八寸釘が置かれていたという」(Wikipediaより)。
道林は以後、100日間参籠し、地蔵尊の功徳に感謝したという。その時より、地蔵尊は「釘抜地蔵尊」と呼ばれるようになったとか。

地蔵堂の背後に小さなお堂があり、重要文化財の石像阿弥陀三尊像が安置されている。中央に阿弥陀如来坐像が、その左右に脇侍の観音・勢至菩薩像が立つ。花崗岩製で、元仁2年(1225)の銘が刻まれ、制作年の明らかな鎌倉時代初期の石造彫刻として貴重である。また一尊を台座、光背共に一石で作り出した石仏としては日本最古のものだそうです。

弘法大師が彫った井戸があるという墓地を探すが、なかなか見つからない。お寺の方に尋ねたら、すぐ裏手でした。塀で囲まれ、入口が小さかったのでわかりにくかった。墓地の奥に、瓦葺の屋根で覆われ、石段を下りた先に井戸が見えます。「弘法加持水」といわれ「京都三井」の一つとされるだけあって、大変仰々しい構えをしている。弘法大師・空海は井戸掘り名人で、各地に弘法大師お手堀りとされる井戸が残されています。

この墓地に『新古今和歌集』の撰者を勤めた藤原定家(1162-1241)、藤原家隆(1158-1237)の墓があるというので探すと、井戸の前にありました。名前の書かれた卒塔婆がもたせかけてありました。Wikipediaをみると定家の墓は上京区の相国寺に、家隆の墓は大阪市天王寺区夕陽丘町になっている。藤原定家、家隆はここ石像寺に住んだことがあるということなので、供養塔(宝篋印塔)が建てられたものと思う。

 称念寺(猫寺)  



石像寺(釘抜地蔵)から北東方向へ10分位歩けば称念寺(猫寺)だ。

寺伝によれば、慶長11年(1606)、嶽誉上人が常陸国土浦城主松平信吉公の帰依をうけ建立した。そして嶽誉上人は、私淑していた浄土宗捨世派の祖・称念上人を開山とし寺号を「称念寺」とした。その当時 松平家菩提寺として、300石の寺領を得て栄えていたという。

 寺は一時荒廃したが、三代目住職の「猫の恩返し」でお寺が再興されたという。公式サイトから紹介すると
「しかし松平信吉公が没すると共に、松平家とだんだん疎遠の仲となり、いつしか300石の寺領も途絶え、称念寺の寺観は急激に色あせてまいりました。
さて、3代目の住職還誉上人の頃のお話になります。和尚は一匹のかわいい猫を飼っていました。寺禄を失った和尚の日課のほとんどは、その毎日を托鉢による喜捨にたよるしかありませんでした。しかし、猫を愛した和尚は自分の食をけずっても愛猫を手放すことはありませんでした。そんなある日 名月の夜でした。、和尚は疲れた足をひきずるようにして托鉢を終え寺へ帰ってきて、山門をくぐり本堂に近づいた時、ギョッとしてそこへ棒立ちになりました。 世にも美しい姫御前が優美な衣装を身にまとい月光をあびながら、扇をかざし、いとも優雅に舞っていました。本堂の障子には、月光により姫御前の後姿が愛猫の影としてボウッと映し出されていました。愛猫の化身ときづくと和尚は「自分はこんなに苦労しているのに、踊り浮かれている時ではあるまい」と立腹し心ならずとも愛猫を追い出してしまいました。
 姿を消した愛猫は数日後、和尚の夢枕に立ち、「明日、寺を訪れる武士を丁重にもてなせば寺は再び隆盛する」と告げました。翌朝その通りに松平家の武士が訪れ、亡くなった姫がこの寺に葬ってくれるよう遺言したと伝え、以後松平家と復縁した寺は以前にも増して栄えました。」このことから称念寺はいつしか「猫寺」と呼ばれ親しまれてきたという。

本堂前に長く横に枝を伸ばした松が見えます。これは「猫の恩返し」の話から、愛猫を偲んで植えたと伝えられる老松です。地面と平行に横に伸びた姿は猫が横たわっているように見えるので「猫松」とも呼ばれている。

 千本ゑんま堂(引接寺)  



最後の千本ゑんま堂(引接寺)に向う。称念寺(猫寺)から西へ200mほど行けば千本通りに出る。その通りに面して建っています。正式名は「光明山 歓喜院 引接寺(こうみょうざんかんきいんいんじょうじ)」、高野山真言宗に属す。

寺の始まりについては諸説あり、ハッキリしない。門前の説明板には「開基は小野篁卿(おののたかむら、802~853)で、あの世とこの世を往来する神通力を有し、昼は宮中に、夜は閻魔之廰に仕えたと伝えられ、朱雀大路頭に閻魔法王を安置したことに始まる。その後、寛仁元年(1017)、叡山恵心僧都の法弟、定覚上人が「諸人化導引接仏道」の意を以って当地に「光明山歓喜院引接寺」を開山した」と書かれている。

「引接」とは「引導」と同義語で、仏が我々人間をあの世に導いてくれるという意味。当時の一般庶民は死体を放置され雨風にさらす「風葬」が一般的だった。平安京のの三大風葬地は、東山の「鳥辺野(とりべの)」、嵯峨の「化野(あだしの)」、そしてこの近辺の「蓮台野(れんだいの)」だった。引接寺はちょうど蓮台野の入口、即ちこの世とあの世の境となる場所に位置する。小野篁はここに自ら刻んだ閻魔法王を安置し、死者の魂を弔いあの世へ送ったのです。
「千本」とは、葬送地の蓮台野に立てられた精霊供養の「千本卒塔婆」からきている(他にも諸説あり)。そしてこの地の町名は現在でも「閻魔前町」。

本堂には本尊の閻魔王坐像が祀られている。応仁の乱(1467-1477)でお堂と閻魔像は焼失するが、長享2(1488)年に閻魔像は仏師定勢によって再造された。正面中央に裁判官の閻魔法王が、右脇に生前の行いを閻魔様に伝える司命尊(しめいそん)、左脇に裁判の結果を記録する司録尊(しろくそん)を置き、裁きの間が再現されているという。写真に撮るが、全面にビニールが張られ、よく撮れない。
また内部壁面は、現存する地獄壁画の板絵としては我が国最大のもので室町・桃山時代に狩野光信等により描かれたもの。ポルトガルの宣教師ルイスフロイス(1532~97)の著書「日本史」の中にも、閻魔法王とこの壁画の事が記録されているという。志納料を納め、内部を拝観しておくべきだった・・・と後で後悔。

これは壁に貼られていた写真です。閻魔像は高さ2.4メートル 幅2.4メートル 木製。室町時代に来日した宣教師のルイス・フロイス(1532-1597)が、閻魔像についてはその大きさに驚き、「嫌悪すべきもの、身の毛もよだつ」と表現している。
「えんま様の特別開扉致します。本堂にあがっていただき簡単に解説致します。志納料としてお一人五百円以上お願いいたします」ということだった。

これが境内の全てです。右端が鐘楼、右奥に紫式部供養塔と普賢象桜が、正面奥が狂言舞台?。

鐘楼から奥への小径の脇に普賢象桜(ふげんぞう桜)の木が並ぶ。4月中旬から下旬に咲く遅咲きの八重桜で、花冠ごと散る珍しい桜だそうです。花の中央の2本の雌しべが緑色で葉のようになって突出する。これが普賢菩薩が乗っている象の牙の形に似ていることから名前がきている。
ここはかっての処刑場の道中にあり、この桜が花房ごと落ちる様子を見た足利義満が「刑場でつゆと消えた人の哀れさを世に伝えるために、咲いているかのようだ」と評したという。

小径の突き当たりに、高さ6m、花崗岩製の十重石塔(国の重要文化財)が建つ。一番下の円形の基礎石には十四体の地蔵菩薩が刻まれ、その上の方形部には薬師如来(東面)、弥勒菩薩(南面)、阿弥陀如来(西面)、釈迦如来(北面)の四仏坐像が彫られ、像の横に、至徳3年(1386)8月22日に僧・円阿上人の勧進により建立された旨の刻銘がある。
「当時の住職が源氏物語にうそを交えたとして地獄に落ちて苦しむ紫式部を救う夢を見て、彼女を供養するために建てたという」(貼り出されている新聞記事より)。なので紫式部の供養塔となっているようだ。傍には紫式部の銅像まで置かれている。








毎年2月3日の節分と5月1日 - 5月4日に行われる「千本ゑんま堂大念佛狂言」が有名です。壬生寺、嵯峨釈迦堂(清凉寺)、神泉苑とともに京都を代表する念仏狂言です。念仏狂言のほとんどは無言劇だが、千本ゑんま堂念仏狂言だけが台詞のある有言劇なのが独特。京都市・無形民俗文化財になっている。

どこが狂言舞台なのだろうかと探したが、案内も無くよく判らなかった。後でネットの関連写真から境内奥のこの建物だと判明しました。正面のガラス戸(ビニール膜?)を取っ払って舞台にするようだ。

<壁に貼られた写真です>ゑんま堂狂言は鎌倉時代から行われていた。当初は布教のための念仏法会の合間に狂言が催されていたが、いつのまにか法会は行われず、滑稽味のある狂言のみが披露されるようになった。戦前までは、専用の狂言堂(一階が楽屋兼衣装倉庫、二階が舞台)があり、桟敷席が仮設され、境内には市が建ち、多くの人で賑わったという。
戦後は、後継者不足やテレビの普及などにより途絶えた。さらに昭和49年(1974年)、不審火によって狂言堂が全焼、狂言衣装も焼失してしまう。幸い狂言面が残っていたので、翌年に「千本ゑんま堂狂言保存会」が結成され、仮設舞台で再開された。以来、今日まで復活した狂言二十数演目が毎年境内で公開されている。ボランティアの保存会員によって公演活動が行われ、観覧は無料となっています。

ここはエンマさまが主役です。おみくじでエンマさんがどんな判定を下されるのか興味ありますが、私の過去を振り返るとおみくじをひく勇気はありません。
境内左側の建物を見上げると、なんとビニール膜の奥で巨大なエンマさんが監視されています。”汝は地獄だ!”と言われているようで、急いで退散。


詳しくはホームページ

北野天満宮界隈ブラ歩き 2

2019年11月30日 | 寺院・旧跡を訪ねて

■2019年2月25日(月曜日)
二月末,梅花の季節。2回目は北野天満宮の史跡御土居、梅苑、そして社殿背後の紹介です。

(追記)11月23日(土)用事で京都へ行ったので、ついでに北野天満宮に立ち寄った。「もみじ苑」で知られる御土居の紅葉を鑑賞してきました。

 史跡御土居  



社殿西側にもみじ苑/史跡御土居/梅苑への入り口がある。ここしか入り口はなく,入園券売り場のテント小屋が設営されている。ここで800円(大人,子供は400円)の券を手にすると,もみじ苑/史跡御土居/梅苑を自由に歩きまわれます。
テント小屋の先を少しばかり登ると,そこはもう「御土居」と呼ばれる史跡の上だ。まず目にするのが半分朽ちかけた巨樹。「東風(こち)」と名付けられた樹齢600年のケヤキの大樹です。ここから天高く大宰府まで東風を吹き続けているそうです。
御土居の上を左方向へ行けば梅苑です。



史跡に指定されている「御土居(おどい)」とは何でしょうか?。周辺に置かれている説明板を集めてみました。

豊臣秀吉による京都改造事業の一つ。敵から都を守る防塁と、鴨川の氾濫から守る水防を目的として、秀吉が京都の周囲に築いた大土堤です。御土居の高さは約10メートル。洛中洛外がこれで区別されるようになった。
一部が京都市内に現存し、史跡に指定されている。特にここ北野天満宮に残る御土居は当時の原型に近いそうです。



御土居上を北側へ少し進むと展望台があり,御土居東側の北野天満宮境内を見渡せる。本殿,拝殿を構成する社殿の複雑な屋根の構造が見て取れます。


御土居はさらに続いているが,展望台から先へは入れないようになっている。秋のもみじ祭りの時期には開放されるのでしょうか?。





御土居の西側は急斜面となっており,谷底に紙屋川が流れ,紅い太鼓橋が見えます。










 もみじ苑  




大ケヤキの場所に戻り,西側の急斜面を下りてみます。降りた先に,清流紙屋川が流れ、朱塗りの太鼓橋「鶯橋(うぐいすばし)」が架かっている。




鶯橋を起点に,紙屋川の両岸を歩けるように散策路が設けられている。豊臣秀吉の築いた土塁「御土居」の斜面や紙屋川の両岸にイロハモミジなど約350本の紅葉が植えられ,名所「もみじ苑」となっています。モミジを上からも下からも楽しめるのが、ここの良いところ。もみじ苑は11月中旬から12月上旬にかけて公開され、夜間ライトアップもされるそうです(もみじ苑入苑料600円・茶菓子付)。

川沿いの一部には梅林もあり,この時期でも紙屋川沿いを楽しみながら散策できます。

 もみじ苑の紅葉(11/23) 1  



11月23日(土)、京都へ来たので北野天満宮に立ち寄った。御土居の紅葉を見るためです。用事があるため9時半過ぎまでしか滞在できない。そのため朝早く出かけ、天満宮に着いたのは8時過ぎ。
2月の梅花祭の時と違って、静かな大鳥居前です。早朝なのでまだ参拝者もいない。露店も無く、すっきりとした神社らしい参道。梅花祭の際には見られなかった臥牛像も、参道脇にいくつも見られる。

楼門をくぐり、絵馬堂前の風景。参道正面が中門(三光門)、左に紅葉に包まれた紅梅殿が見える。もみじ苑の開園は9時なので、それまで静かな境内を散策。

絵馬堂前の太鼓橋を渡り紅梅殿へ。紅梅殿前の庭園で、梅花祭の際は幔幕で囲い野点大茶湯が催されていました。その時は大茶湯参加者以外は立ち入り禁止になっていた。この時期、紅い紅梅殿が紅く染まり綺麗です。
この庭園は、入苑券の裏に「船出の庭」とある。どういう意味なのだろうか?。

絵馬堂前に入苑券売り場があり、その横が入苑口となっている。入苑料は千円です。8時半過ぎ、売り場の前に立っていると、私の背後に列ができてきた。いの一番に入苑できる。9時までまだ5分少々あるが開けてくれました。

入苑するとすぐお茶屋があります。春の梅花祭の時と同じお茶屋で、すぐ目の前が梅苑だ。
入苑券を見せると、茶菓子のサービスを受けられるのだが、ゆっくりしている時間がないのでお菓子だけ頂く。

お茶屋の横の坂を上ると、そこはもう御土居の上です。茶室・梅交軒が建っている。春の梅花祭では閉まっていたが、今もまだ早朝のせいか開いていない。
茶室・梅交軒前の展望台。下の紙屋川沿いは、まだ「見ごろ」には早いのか青葉のほうが目立っている。

史跡御土居のシンボル「大ケヤキ」。ケヤキも紅葉するんだ、知らなかった。

大ケヤキの所から御土居の上を北へ歩く。人がいてないので写真を撮りやすい。

展望所から社殿を眺める。春とはまたちがった佇まいを見せています。

展望所からさらに奥へ進める。二月の梅花祭の時にはこの先立ち入り禁止になっていたが、今は開放されている。ですから史跡御土居の全体を見れるのは秋の紅葉時期だけのようだ。

 もみじ苑の紅葉(11/23) 2  



御土居を百メートルほど進めば、カーブとなった坂道を下って谷底へ降りるようになっている。

これから谷底の紙屋川沿いを歩く。谷底なので陽が少ないせいか、まだ青葉が目立つ。紅葉から青葉まで、グラデーションがかったまだら模様の風景もまた良いものです。

やがて朱塗りの太鼓橋「鶯橋(うぐいすばし)」が見えてきた。青葉のさえる初夏の頃には、紅い鶯橋がより映えることだろう。

人が増えてきました。鶯橋も史跡御土居のシンボルだけあって人が集まっている。写真撮るのに苦労します。左の階段を登れば大ケヤキの場所だ。

鶯橋の上から南側を撮る。まだ紅葉の「見ごろ」とはいえないようです。下を流れる紙屋川は、かっては紙漉き場だった、と入苑券の裏に書かれていた。

鶯橋から南へ歩く。紙屋川の両岸に散策路が設けられ癒される場所となっています。対岸は梅の見所の一つになっている。マイナスイオンが充満しているような・・・。

この辺り、梅の木が多く植えられ、梅のシーズンには見物人で混みあっている所だ。



鶯橋まで戻り、階段から大ケヤキの場所へ。時刻は9時半過ぎ、40分位の紅葉鑑賞でした。紙屋川沿いは青葉が目立っていたが、こんなものなのでしょうか?。「三分咲き」との表示もあったので、見頃は12月上旬なのだろうか?。
北野天満宮・御土居の「もみじ苑」も京都を代表する紅葉の名所です。梅と紅葉は北野天満宮へ、桜はすぐ北側の平野神社へどうぞ。














 梅苑  



御土居の上に戻ります。大ケヤキの少し先に茶室 梅交軒がある。名前に「梅」とあるのですが,この梅の時期には閉まっていた。紅葉シーズンにお茶をいただけるそうです。「紅葉軒」ですね。






梅交軒前に設けられた朱塗りの欄干付き舞台から御土居の下を見れば鶯橋が見える。紅葉時期にここからみる眺めはさぞ絶景のことでしょう。


御土居の上から紙屋川とは反対側に下っていくと,いよいよ梅苑だ。














入り口近くの茶屋で沢山の人が寛いでいる。入園券を見せると茶菓子が振舞われるということで,多くの人が順番待ちをしています。時間がもったいないので私はパスしました。

約2万坪の境内には50種,1500本の梅が植えられているという。社殿周りや紙屋川沿いにも多くの梅が見られ人だかりができているが,やはり北野天満宮の梅をたっぷり堪能できるのは梅苑です。

梅苑には梅木の間をぬって遊歩道が設けられ,白梅、紅梅、一重、八重などいろいろな梅を楽しめる。
公式サイトには「早咲きの梅は例年12月中旬頃からつぼみがふくらみ始め、正月明けから開花。徐々に咲き繋ぎ、3月末頃まで長く楽しめます。」とあります。
例年2月初旬から3月中旬まで一般公開され,また金・土・日曜には夕方からライトアップもされれそうです。

梅をこよなく愛した菅原道真に「飛梅伝説」が伝わる。道真が大宰府へ左遷される際、庭の梅に別れを告げて
   東風(こち)吹かば 匂い起こせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ
と詠った。すると,その梅が主の菅原道真を慕って一晩のうちに大宰府に飛来したという。こうして道真と梅との深い関係ができ,道真の命日にあたる2月25日に梅花祭が行われるのです。

御土居から「梅花祭野点大茶湯」の様子をのぞき撮り。私には不似合いの場所のようです。

 本殿の背後  



梅苑を後にし、これから本殿の背後に周ります。末社、摂社が並び、その周辺には開花した梅が華やかさを添えている。
北野天満宮境内には多くの「なで牛」が寝そべっているが、一番有名なのが社殿北西の牛舎に横たわるこの牛です。撫でると一つだけ願いが叶うといわれ、「一願成就のお牛さん」と呼ばれている。

菅原道真と牛の縁について、「牛は天満宮において神使(祭神の使者)とされているが、その理由については「道真の出生年は丑年である」「亡くなったのが丑の月の丑の日である」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など多くの伝承があり、どれが真実なのか、それとも全て伝承に過ぎないのかは今となっては良くわからないものの、それらの伝承にちなみ北野天満宮には神使とされる臥牛の像が多数置かれている」(Wikipedia)、「無実ながら政略により京都から大宰府に流され、延喜3年(903)2月25日、道真公はお住まいであった大宰府政庁の南館(現在の榎社)において、ご生涯を終えられました。門弟であった味酒安行(うまさけ やすゆき)が御亡骸を牛車に乗せて進んだところ、牛が伏して動かなくなり、これは道真公の御心によるものであろうと、その地に埋葬されることとなりました」(公式ページ)と説明されています。

「一願成就のお牛さま」の傍に絵馬掛所があり、おびただしい数の絵馬が奉納されている。絵馬というより「絵牛」ですが。ほとんどが学業成就、合格祈願のものです。

北野天満宮創設以前からこの地にあった神社「地主社」。そのため境内で最も古い社で、天地すべての神々「天神地祇」を祀っている。

境内図を見ればわるのだが、一の鳥居から楼門を潜り、参道を直進するとこの地主神社に突き当たる。天満宮の社殿は脇にそれており、通常の神社の配置とは異なっている。元からあった地主神社の正面を避けて建てられたからです。「筋違いの本殿」といわれ、天神さんの七不思議の一つになっている。

文子天満宮。託宣を受け、北野に菅原道真を最初に祀った多治比文子を祀っている社。かつては西ノ京にあったがが明治6年(1873年)にここに移された。



社殿の東側に「東門」がある。切妻造り、銅葺きの四足門。東門を出ると、そこは西陣の花街・上七軒の色町です。










北側の出入り口、「北門」です。



北門を出ると、「西陣名技碑」と刻まれた大きな石碑が見える。これは西陣織りの発展に貢献した五世伊達弥助を讃えたもの。説明板は「伊達弥助顕彰碑」となっている。西陣はここ北野天満宮から近い。



北門の外にも露店が並び、人垣ができている。遠くに見える紅い鳥居は、桜の名所「平野神社」。






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