2019年1月4日(金曜日)
正月4日、初詣のつもりではないのですが、京都・三十三間堂に行ってみたくなった。昨年末、三十三間堂を紹介するテレビ番組を見たからです。その中で、奈良の大仏にまさるとも劣らぬ大きさの大仏さんが、近くに建造されていた、ということを知りました。初めて知ったことで、非常に興味が湧いたのです。
調べてみると、三十三間堂界隈には見所がいっぱい。京都国立博物館を中心に、三十三間堂・法住寺・後白河法皇法住寺陵・養源院・智積院・妙法院・豊国神社が建ち並ぶ。そして豊臣家滅亡のきっかけとなった梵鐘のある方広寺もあります。
今年のお出かけウォーキングの1回目として、天気快晴の4日に京都へ。
法住寺殿
1:蓮華王院(三十三間堂)、2:法住寺>、3<後白河天皇法住寺陵、4:養源院、5:智積院、6:妙法院、
7:方広寺、8:大仏殿跡緑地、9:豊国神社
A:京阪電車・七条駅、B:京都国立博物館
(妙法院門跡発行の小冊子「国宝三十三間堂」より)
上のGooglMapに見える三十三間堂界隈は、平安時代に後白河上皇が院政御所として造営した「法住寺殿」を起源としている。
-*-*-*-*-*-*-「法住寺殿」の歴史-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
鴨川の東は,平安京としては洛外で辺鄙な地帯だった。平安中期の永延2年(988)、藤原道長の叔父太政大臣・藤原為光が妻と娘の菩提を弔うためにこの地に法住寺を建てた。しかし焼失し,その後再建されないままだった。
後白河天皇は即位の翌年,久寿2年(1155)正月,この地に行幸して大いに御感あり,譲位後の院御所とすることとされた。保元3年(1158)、後白河天皇は在位3年足らずで譲位し、上皇となると譲位後の居所としてこの地に御所の造営を図る。永暦元年(1160)新日吉,新熊野の両社を鎮守として招聘し,御所の造営を始めた。御所は、旧来の地名にちなみ「法住寺殿」と呼ばれた。永暦2年(1161年)からはここを住居とし、以後30年間,五代の天皇にわたり政治の実権をにぎり院政を行った。
法住寺殿の領域は広大で,東は阿弥陀峯山麓から西は鴨川の河原まで広がっていた。宗教施設からなる南殿は現在の智積院全域,政治施設が置かれた北殿は現在の国立博物館,豊国神社,妙法院を含む地域。
長寛2年(1164)には、御所の西側に千体千手観音像を安置する巨大な仏堂(蓮華王院,三十三間堂)が平清盛の寄進で造立された。嘉応元年(1169)には出家して法皇となる。安元2年(1176)、後白河上皇の女御・建春門院(平滋子)が亡くなると、女御の御陵として南殿に法華堂が建てられた。
後白河上皇と平家の権勢によってますます盛大を極めた法住寺殿であったが,平清盛の死去2年後の寿永2年(1183)、木曽義仲の軍勢が法住寺殿を襲い火がかけられた(法住寺合戦)。上皇は六条西洞院の長講堂に移りそこで生涯をおえる。建久3年(1192),66歳で崩御すると、焼失した法住寺殿の敷地に新たに法華堂がつくられ葬られた。それが現在の後白河天皇陵です。
現在、かっての「法住寺殿」の遺構は三十三間堂と後白河天皇陵しか残っていない。この法住寺殿のあった地には,その後秀吉の時代にかけて法住寺,養源院,智積院,妙法院,方広寺,豊国神社が建てられた。
京阪電車・七条駅を降り、地上に出ると七条通りです。西には鴨川にかかる七条大橋が見える。
七条通りを東へ向って歩く。突き当りが智積院で、その手前右側に蓮華王院(三十三間堂)が、左手に京都国立博物館が位置している。
京都国立博物館は独立行政法人国立文化財機構が運営する博物館。東京に次いで、明治30年(1897)5月にレンガ造りの旧本館(明治古都館、重要文化財)が開館し、2013年には新館(平成知新館)が建てられた。主に平安時代から江戸時代にかけての京都の文化を中心とした文化財を、収集・保管・展示するとともに、文化財に関する研究、普及活動を行っている。平常展示のほかに特別展が1年に2~4回行われている。
三十三間堂へ入口(普門閣)
三十三間堂への入口は、七条通りから赤十字血液センターの場所で南の道に入るとすぐです。車の出入り口でもあるので注意が必要。
塀の中は駐車場が広がっている。瓦葺白壁の建物が、駐車場と三十三間堂の境内を区切っている。この建物は「普門閣」と呼ばれ、平成になってから参拝受付・管理棟を兼ねて建立されたものです。細長い平屋の造りは三十三間堂をイメージさせます。
普門閣の中央辺りに拝観受付があり、その横から境内に入ります。9時前なのでまだ入れません。
開門時間:8時~17時(11月16日~3月は9時~16時) 年中無休、受付終了は30分前
拝観料:一般600円・高校中学400円・子供300円(25名様以上は団体割引)
電話番号: TEL (075)561-0467
公式サイト:蓮華王院 三十三間堂
境内図と歴史
(拝観受付で頂けるパンフより)
所在地 京都府京都市東山区三十三間堂廻(まわり)町657番地
正式名 蓮華王院(れんげおういん)、その本堂が「三十三間堂」と通称されます。
別称 三十三間堂
山号 (南叡山妙法院に所属する仏堂につき山号はなし)
宗派 天台宗
本尊 千手観音
創建年 長寛2年(1164年)
開基 後白河天皇
札所等 洛陽三十三所観音霊場第17番
蓮華王院(三十三間堂)は独立した寺院ではなく、天台三門跡の一つである妙法院の境外仏堂であり、同院が所有・管理している。
-*-*-*-*-*-*-「蓮華王院(三十三間堂)」の歴史-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
平安末期、法住寺殿で院政を行っていた後白河上皇は何度も熊野詣を行っている。この熊野参籠の折,上皇は千手観音を感応したという。ここから上皇の千手観音信仰が始まった。当時は末法の世とされ、この末法の世から救われるために多くの造寺造仏が行われていた。長寛2年(1164)、御所の西側の一画に,当時権勢を誇った平清盛に命じ千体千手観音像を安置する巨大な蓮華王院本堂(三十三間堂)を建立します。上皇の信任をとりつけ,権勢を増すため平清盛は所領備前国の資材を提供したといわれる。千体仏像も蓮華王院の落慶供養に間に合うように造られた。
嘉応元年(1169)、後白河上皇は出家し「行眞(ぎょうしん)」と名乗り法皇となる。平清盛の死去2年後の寿永2年(1183)、木曽義仲の軍勢が法住寺殿を襲い火がかけられた(法住寺合戦)。蓮華王院はかろうじて戦火をのがれたが,法皇は六条西洞院の長講堂に移り、建久3年(1192)66歳で崩御する。
後白河上皇や平清盛がすでに世を去り、栄華を誇った平氏も壇ノ浦で滅んだ1185年、京都一帯を襲った大地震により蓮華王院も被害を受ける。建久元年(1190)上洛した源頼朝が再建に尽力し,ほぼ再建が完了したと思われる建長元年(1249)3月,こんどは洛中をおおう大火となり,蓮華王院にも飛び火し,三十三間堂や五重塔、多くの仏像、伽藍が焼失してしまう。焔の中,本尊の御首と左手,千体仏のうち156体と二十八部衆がやっと取り出された。
文永3年(1266),後嵯峨上皇により本堂のみ再建され,これが現在の三十三間堂です。当時は朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られていたという。焼失した870体ほどの仏像はこの頃から16年かけて再興された。運慶、快慶などの名が残されているという。
室町時代も修理が続行された。「室町期・足利第六代将軍義教により本格的な修復が行なわれます。彼は仏門に入って義円と名のり,、比叡山・天台座主を勤めたが,兄義持の後を継ぐことになり還俗し,永享元年(1429)に足利第六代将軍に就いた。そして蓮華王院の大修理を敢行した。京洛の禅寺に修理の寄付勧進を命じて、修理は屋根瓦の吹き替え,内々陣須弥壇,中尊・千体仏,二十八部衆像などと5ケ年を費やし内外両面の整備を行ったのでした。」(公式サイト)
その後,応仁の乱(1467ー1477)で京都は焦土と化すが,三十三間堂は奇跡的に戦火を免れた。そして洛陽三十三箇所観音霊場として庶民の信仰を集める。
豊臣秀吉の時代になり,この地が交通の要所だったことに目を付け三十三間堂の北隣に方広寺(ほうこうじ)を建立し,奈良の大仏をもしのぐ大仏殿を造営することになった。大仏殿は天正14年(1586)着手され,文禄4年(1595)に完成し,秀吉の亡父母のために千僧供養が行われた。蓮華王院も方広寺の境内に組み込まれ,手厚い庇護を受け修理と境内整備が続けられた。秀吉の死後もその意志を継いだ秀頼の代まで続いた。千体像は慶長5年から9年まで,二十八部衆は同10年に,すべて大仏師康正が秀頼の下命により修復した。境内整備も行われ,境内の南と西に練土塀を築き,大仏殿の真南にあたる箇所には南大門を,西塀のうち七条通りには西大門を築いた。この築地塀が「太閤塀」と通称され,現在南大門から西端まで92m,高さ5.3mが残っている。
江戸時代には、3代将軍徳川家光によってさらに建造物、仏像の修理が行われた。お堂の正面中央に7間の向拝が設けられたのもこの時です。
戦前から戦後にかけても,順次修理が行われてきた。南大門の修理,千手観音一千一体の修理,太閤塀の修復,西側築地塀の構築,東側廻廊塀,東大門など。さらに鐘楼,普門閣が建てられた。
戦後も木造千手観音立像1001体全ての保存修理が行われ、45年後の平成29年(2017)12月に完了する。
翌平成30年(2018)には東京、京都、奈良の国立博物館3館に寄託されていた5体が戻され、1001体全てが勢ぞろいした。そして国宝指定されたのです。
蓮華王院本堂(三十三間堂,国宝)
境内に入ると、北から南に伸びる細長い建物が目に入ってくる。境内で建物らしき建物はこれしかありません。それだけに存在感は圧倒的です。その存在感を公式サイトから紹介すると「朱塗りの外装で、堂内は、花や雲文様の極彩色で飾られたといい、今もわずかにその名残を停めています。地上16メートル、奥行き22メートル、南北120メートルの長大なお堂は、和様、入母屋造り本瓦葺きで、手前からはるか彼方へ一点透視的に漸減する眺めは、胸のすく壮快さです。」
日本で一番長い木造建築です。現在の堂は文永3年(1266),後嵯峨上皇の時に再建されたもの。洛中にある建物の中では大報恩寺(千本釈迦堂)本堂に次いで古く、洛中で鎌倉時代にまで遡る建物はこの二棟のみだという。
南北に細長い本堂の東側が正面です。砂利が敷き詰められ広々とした境内には、その一部に池を配した庭園があります。池端に「此付近 法住寺殿跡」の碑が建ち、説明板が立てられている。後白河上皇が院政を行うため、鴨川の東側の広大な領域に「法住寺殿」と呼ばれる住居兼政庁を造営した。千体千手観音像を安置するために造営された三十三間堂はそのほんの一部でしかない。
南北に細長い建物は、東側から眺めると柱間は35ある。それでは「三十五間堂」では?。堂の中に入ってみるとわかるのだが、北と南の両端一間分は通路となっており、実際に仏像が安置されているのは三十三間の中なのです。ですから通称「三十三間堂」と呼ばれている。寺の正式名称は「蓮華王院(れんげおういん)」で、この建物はその本堂なのです。
正面中央に、幔幕の取り付けられた七間分の出っ張り部分がある。これは「向拝」と呼ばれ、慶安3年(1650)、3代将軍徳川家光の時の修理で設けられたもの。
35の柱間は、左右開閉式の板扉となっている。東側正面は全ての板扉が開けられ、白い障子がのぞく。黒さびた建物と白障子のコントラストがいいですね。
南側から北方向を撮る。正面奥に横たわるのが入口の普門閣。建物の南側は五間で、東側一間だけが板扉で他は連子窓となっている。お堂の周りには広縁がめぐらされている。
蓮華王院本堂(西側)
蓮華王院本堂(三十三間堂)の裏になる西側。本堂と西側の樹木の間は、砂利の敷かれた空き地で、ガランとしている。ここが宮本武蔵と吉岡伝七郎との「雪の蓮華王院の決闘」で有名な場所。吉川英治が描いたもので史実かどうかは不明だそうですが・・・。
吉岡一門が武蔵に渡した果し合いの出合い状
場所 蓮華王院裏地
時刻 戌の下刻(夜九時)
淡雪の積もった夜の蓮華王院裏地。吉岡伝七郎は廊下から離れた背の高い松の根元で待つ。武蔵は、待ち伏せを防ぐため寺僧に案内させ、北側の庫裏から扉を開けて三十三間堂の長い縁の端に立つ。長い縁の中程まで進み、縁上の武蔵、地上の伝七郎が睨みあう。武蔵は飛び降り、一瞬のうちにケリはついた。伝七郎の巨体は、後ろへよろめき真っ白な雪しぶきに包まれた。周辺に潜んでいた吉岡一門の連中が飛び出してくる。武蔵は相手を睨みつつ縁端に上がり北の角まで歩き、「忽然と蓮華王院の横へと影を消してしまった」という。
これが吉岡一門との最後の決戦「一乗寺下がり松の決闘」の前哨戦なのです。
北側から南方向を撮る。この場所は、武蔵以上に「通し矢」で有名。
(上は境内の案内板より。右の「通し矢」の浮世絵画像は妙法院門跡発行の小冊子「国宝三十三間堂」より)
「通し矢(とおしや)」とは、本堂西側の縁で、南の端から120m離れた北端まで軒下を弓で射通すこと。強く射なければ軒天井に当たってしまい軒下を射通すことができないので、力自慢の武芸者が競った。
桃山時代の天正年間に、今熊野の観音堂別当が射芸を好み,思いつきで「堂通し」をやってみたところ,たちまちに流行したのが始まりという。
矢数をきめて的中率を競う「百射(ひゃくい)、千射(せんい)」等があったが、江戸時代、殊に町衆に人気を博したのが「大矢数(おおやかず)」。夕刻に始め、翌日の同刻まで一昼夜、縁の北端に的を置き、射通した矢数を競い合ったもの。天下の武芸者の栄誉をかけた競争となった。尾張、紀州の二大雄藩による功名争いは、人気に拍車をかけ、京都の名物行事になったそうです。
「通し矢」は明治28年(1895)を最後に行われなくなったが、戦後間もなくの昭和26年(1951)古儀にちなむ大的大会が復興された。1月中旬の日曜日、大法要「楊枝のお加持」と同日に、お堂の西庭で「全国弓道大的大会」と銘うって行われています。ただしかってのような力比べでなく、約60m先の的を射るもの。関西では新年恒例のイベントとして、弓道をたしなむ新成人が振袖袴姿、晴れ着姿で行射する姿がテレビニュースで毎年放映されています。
本堂(三十三間堂)内部へ
本堂(三十三間堂)内部への入口は、普門閣から境内に入ってすぐの所にある。履物を脱いで入る。ここからは撮影禁止。以下の仏像写真は、妙法院門跡発行の小冊子「国宝三十三間堂」よりお借りしたものです。
北側から入り、西側の長い拝観通路(外陣)を通って南端へ、そこから内陣背後の通路を通って入口の場所から出る。即ち、堂内は仏像の置かれている内陣を一周する順路となっています。
堂内に入るなり、内陣に居並ぶ仏像の数に驚愕し圧倒される。千体以上の等身大仏像が階段状に居並ぶ様は、まさに壮観というか、異様というか驚くばかり。この内陣の柱間が三十三ある。だから「三十三間堂」なのです。
中央3間に本尊の千手観音坐像を置き、その左右15間に五百体ずつ千手観音立像が並ぶ。一列に50体が並び、十列が階段状に配置されている。位置、角度が計算され、全ての仏像の顔が拝めるようになっているのです。本尊の背後に1体あるので、合計1001体の千手観音立像が居並び、前を通る拝観者を見下ろしています。
さらに1000体の千手観音立像の前には二十八部衆立像が並ぶ。ありがたいのか、気味が悪いのか、異様な雰囲気をかもし出している。現在は薄暗く地味は空間だが、建立当初は彩色で覆われ極彩色の文様が描かれていたという。現代感覚で想像すれば、一種異様な世界と思われるが、当時とすればそれが救済の空間だったのでしょう。
これだけ膨大な数の等身大仏像を配置するためには120mもの長い建物を必要としたのでしょう。なお、「蓮華王院」という名は、千手観音の別称「蓮華王大悲観自在」から後白河上皇が命名したものです。
内陣の中央三間分を内々陣とし、本尊の千手観音坐像(国宝)が安置されている。丈六の坐像で,像高が3メートル余(335cm)、台座や光背を含めた全体の高さは7メートルを超える。玉眼,檜材の寄木造りで全体に漆箔が施されている。光背は舟形に雲形や宝樹形を透かし彫りし,さらに観音の「三十三変化身」を透かし彫りで配している。鎌倉期の再建時に、運慶の長男で大仏師湛慶(たんけい)が、同族の弟子を率いて完成させたものです。「42手で「千手・せんじゅ」を表わす通例の像形で、像全体の均整が保たれ、厚ぼったい感じのする一種の張りのある尊顔や、温雅な表情は湛慶の特徴的作風とされ、観音の慈徳を余すところ無く表現しています。84才で亡くなる湛慶が、その2年前に完成した鎌倉後期を飾る代表的作品です」(公式サイトより)
千一体の千手観音立像は、等身大(164~7cm)で桧材による寄木内剥造りの漆箔像。玉眼が五体,その他は彫眼です。光背は頭部を縁どる輪光,台座は八角四重の蓮華座。
「各像は、頭上に十一の顔をつけ、両脇に40手をもつ通形で、中尊同様の造像法で作られています。千体の中、124体は、お堂が創建された平安期の尊像、その他が、鎌倉期に16年かけて再興された像です。その約500体には作者名が残され、運慶、快慶で有名な慶派をはじめ、院派、円派と呼ばれる当時の造仏に携わる多くの集団が国家的規模で参加したことが伺えます」(公式サイトより)
本尊の千手観音坐像と一千一体の千手観音立像は、座っているか立っているかの違いだけで同じ千手観音です。正式名称は「十一面千手千眼観世音菩薩」といい、頭上に十一の顔をつけ、本手2本と脇手40本をもち、これで千本の手を表す。それぞれの手のひらには眼があり、衆生を救うための持ち物(数珠、錫杖、法輪など)をもつ。十一の変化面や千手は、観音菩薩の無限の救済を表し、一切衆生のあらゆる悩苦を救い願いを叶えてくれるのです。
45年間に及ん大修理が終わったのを機に全ての千手観音が平成30年(2018)に国宝指定された。今まで5体が東京、京都、奈良の国立博物館3館に寄託されていたが、この国宝指定をうけここに戻され、一千一体が勢ぞろいした。一千一体一つとして同じ表情のものはないという。「会いたい人の顔をした千手観音像」に出会える、と云われるが、俺には同じに見えてしまう(信仰心が薄いからなのでしょうか・・・)
千体の千手観音立像の最前列に二十八部衆立像が並び、その両端、北端に風神像(国宝)、南端に雷神像(国宝)が配置されている。寄木造、彩色、玉眼で、象高さ1m位と、他の群像と比べてやや小ぶり。鎌倉時代の再建時に造象された日本最古の風神・雷神像で、その後の日本での原型となったもの。建仁寺の俵屋宗達の名画「風神雷神図屏風」(国宝)のモデルになったそうです。
左が阿修羅王像(あしゅらおう、165cm)、右は婆藪仙人像(ばすせんにん、156cm)
最前列に北端から南端まで横一列に並ぶ二十八部衆立像も全て国宝です。各彫像はいずれも桧材の寄木造りで、漆を塗って彩色仕上げされ、眼は水晶がはめ込まれた玉眼となっている。像高は160cm前後の等身大。
二十八部衆は、千手観音の眷属(けんぞく、従者のこと)といわれ、そろって千手観音に供奉し、それを信仰する者を守護する神々。そのため、元々は中央の本尊・千手観音坐像の両脇を取り囲む群像として配置されていたという。昭和初期に、本尊修理のため堂の西裏の廊下に移され、保護フェンス付きの台上に一列に安置された。その後、平成4年に、緊急時の減災と拝観便宜の観点から現在のような配置になったという。
東大門・法然塔・夜泣泉
境内の東側は、緑色の連子窓がはめ込まれた回廊塀が南北に貫く。回廊塀の中央には、本堂向拝と対峙する形で東大門がある。単層切妻造り,本瓦葺き。桁行18m,高さ11.6mの五間三戸門。
朱塗りと白壁が鮮やかな東大門と回廊塀は昭和36年建造なのでまだ新しい。本堂(三十三間堂)と対照的です。
回廊塀の前に、極楽往生の信仰を示す「南無阿弥陀仏」の名号が刻まれている碑が建つ。これは「法然塔(名号石,みょうごうせき)」と呼ばれている。傍の説明板には「元久元年(1204)3月、時の土御門天皇が当院で後白河法皇の十三回忌を行った際、請いをうけた法然上人が音曲に秀でた僧を伴って「六時礼讃」という法要を修しました。この碑は、その遺蹟として「法然上人霊場」にも数えられ、いまも参拝する方々があります。上人は”浄土の軽文”を書写し、参集した人々にも紙を分け与えて念仏・写経を勧めたといわれています。刻まれた「六字の名号」は温雅で素朴ながらも力強く、数多の法難をのりこえて念仏に専修した上人の人柄が偲ばれるようです」とあります。
法然塔の近くに手水舎が建ち、井戸が見えます。この井戸は「夜泣泉(よなきせん)」と呼ばれている。説明板によると、お堂創建の翌年(1165)6月の7日、ひとりの堂僧が夢のお告げにより発見したという霊泉で、夜のしじまに水の湧き出す音が人の”すすり泣き”に似ていることから「「夜泣泉」と言われるようになったという。いつの頃からか傍らに地蔵尊が奉られ、その地蔵尊の前掛けを持ち帰り、子供の枕に敷けば”夜泣き”が治るとされ、現在も「夜泣き封じ」の功徳を求める参拝者が続いているそうです。
「楊枝のお加持」
三十三間堂は頭痛封じの寺でもあります。1月中旬の日曜日、「全国弓道大的大会通し矢」と同日に大法要「楊枝のお加持(やなぎのおかじ)」が行われる。これは「頭痛封じ」の行事で、本尊の千手観音に祈願した法水を参拝者に注ぎ、聖樹である楊枝(やなぎ)の枝を参拝者の頭上で振って頭痛や病を癒す儀式です。
三十三間堂と頭痛封じについてWikipediaは以下のように記しています。
「三十三間堂について次のような伝承がある。後白河上皇は長年頭痛に悩まされていた。熊野参詣の折にその旨を祈願すると、熊野権現から「洛陽因幡堂の薬師如来に祈れ」とお告げがあった。そこで因幡堂に参詣すると、上皇の夢に僧が現れ「上皇の前世は熊野の蓮華坊という僧侶で、仏道修行の功徳によって天皇に生まれ変わった。しかし、その蓮華坊の髑髏が岩田川の底に沈んでいて、その目穴から柳が生え、風が吹くと髑髏が動くので上皇の頭が痛むのである」と告げた。上皇が岩田川(現在の富田川)を調べさせるとお告げの通りであったので、三十三間堂の千手観音の中に髑髏を納め、柳の木を梁に使ったところ、上皇の頭痛は治ったという。「蓮華王院」という名前は前世の蓮華坊の名から取ったものであるという。この伝承により「頭痛封じの寺」として崇敬を受けるようになり、「頭痛山平癒寺」と俗称された。」
頭痛封じの御守が売られています。真中の紅い「頭痛除御守」には、「お堂の完成により上皇の頭痛が治られたので当院の千手観音様は、殊に「頭痛封じ」に霊験あらたかな仏さまとして信仰され親しまれている」と書かれている。
右側の丸いお守りは、楊枝の枝と秘呪「消伏毒害陀羅尼経」一巻が納められ、とくに効験があるそうです。その分お値段が高いが。
南大門と太閤塀
蓮華王院(三十三間堂)から出て東側の道路に出る。道の正面が南大門で、右に三十三間堂の紅い回廊塀が、左に養源院、法住寺が並ぶ。
南大門(みなみだいもん、重要文化財)が車道をふさぐように建ち、車も出入りしている。蓮華王院(三十三間堂)の領域外なので蓮華王院の門とも思われない。どこの門なのでしょうか?。
調べると、かって秀吉が大仏殿の方広寺を建立した時、蓮華王院(三十三間堂)を含めこの地域の広大な領域が方広寺の境内に取り込まれた。その方広寺の南門として建てられたようです。
切妻造、本瓦葺、三間一戸の八脚門。虹梁の刻銘により豊臣秀頼が慶長5年(1600)に新築したものと推測されている。秀頼は西大門も建てたが、これは明治の中頃、京都国立博物館の建設と七条通を更に東に延長さすため邪魔になったので、東寺の南大門として移築された。
南大門の西側に築地塀が見える。豊臣秀吉(太閤)によって寄進された塀で、瓦に太閤桐の文様を用いていることから「太閤塀」と呼ばれています。南大門同様に方広寺建立時のもので、方広寺の南限を区切る塀。西側にも存在していたが、残っているのは南側のここだけ。塀の長さ92m、高さ5.3m、本瓦葺で、重要文化財となっている。
詳しくはホームページを
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