春夏秋冬 ~止まった時と流れる時~

歴史の匂いが好き。

四季の変化が好き。

感じるままに、ありのままに。

熊本・熊本城 第二回

2009年01月23日 | 日本の城
熊本・熊本城 ~第二回~

いよいよ、復元された本丸御殿へ

西南戦争直前の明治10年2月に焼失した御殿の一部を、平成20年4月20日築城400年を記念して
総事業費:約54億円をかけ再建




この写真の右手にある銀杏が、次の復元模型の真ん中にある木です。


濃い瓦の部分が、今回復元された部分。


そしてこれが平面図(熊本城ホームページより)



大御台所の巨大な梁(もちろんすべて木造復元、釘も使わず、当時の技術を使用)



大広間



縁側



そしてこれが、加藤清正が大阪から豊臣秀頼を迎える予定で作ったとも言われる昭君之間

昭君之間」は「将軍之間」の隠語とも?


昭君之間の天井は格式の高い折上格天井(おりあげごうてんじょう)



茶室



本丸御殿を出て、天守閣へ

天守閣は明治10年(1877年)、西南戦争の年に焼失。
現在の天守閣は、古い写真や絵地図などを基に、昭和35年(1960年)に再建されたものです。

内部は現在、熊本市立熊本博物館の分館となっており、肥後歴代藩主の武具や調度品のほか、西南戦争の資料などを展示。



天守最上階からの景色


真上から見た本丸御殿


現存の宇土櫓



熊本城は別名銀杏城といいます。

加藤清正が熊本城築城の際に熊本城内に銀杏の木を多数植えたことが由来です。(前回述べた、籠城の食料確保等)
本丸御殿の隣に一際大きな銀杏の木があります。

この銀杏の木を加藤清正が熊本城築城時に植えた際、
「この銀杏の木が天守と同じ高さになった時、この城で兵乱が起こるだろう。」
と、つぶやいた言い伝えが残り
実際に、西南戦争(明治10年[1878年])で熊本城(銀杏城)が戦場になった時、
この銀杏の木は天守とほぼ同じ高さになっていたそうです。

いやいや、写真で見る限り小さいではないか!?

と思われるでしょう?

この銀杏、西南戦争の際に、一度燃えてしまったのです。
が、
奇跡的に、
芽吹いた脇芽が成長しで、130年でこれだけの大きさに成長したのです。
今はまだ天守より小さいですが、なんとも堂々とした姿をしています。

この木が二度目に天守の大きさになったとき、地球上から戦争が無くなっていることを切に願います。

続く............

2009.1.5

熊本・熊本城 第一回

2009年01月15日 | 日本の城
熊本・熊本城

羽柴秀吉(豊臣秀吉)の子飼いの武将で、賤ヶ岳七本槍の一人、加藤清正により、
安土桃山~江戸時代にかけ、中世の千葉城、戦国時代の隈本城を取り込み、
茶臼山丘陵一帯に長野県、松本城を参考に築城。
日本三名城の一つ。

加藤家2代(44年)、細川家11代(239年)の居城となり、明治維新を迎える。

明治10年(1877)の西南の役に際しては、西郷隆盛率いる薩軍を相手に、
司令官・谷干城率いる新政府軍は50日余も籠城し、難攻不落の城として真価を発揮。
しかし薩軍総攻撃の2日前、原因不明の出火により天守閣など主要な建物を焼失する。

現在の天守閣は昭和35年(1960)、熊本市によって再建されたもの。

平成19年(2007)築城400年に際して、本丸御殿をはじめ、
西出丸の塀、戌亥櫓、元太鼓櫓、奉行丸の塀、未申櫓、南大手門などの建造物を数年かけて復元、今後も多くの建物が復元予定


全体地図、ホームページより抜粋



10年ぶりに念願の熊本城へ、行幸橋から天守閣を目指す

お城タクシーと熊本城 右にあるのが加藤清正の銅像



昭和の復元、馬具櫓と現存する長塀(全長約242m)



備前堀と平成の復元、飯田丸五階櫓



櫨方門(はぜかたもん)から入門(500円)竹の丸を歩く


城内に数多く残る井戸

清正は文禄・慶長の役のとき、蔚山城(うるさんじょう)で明・朝鮮連合軍を相手に、
「泥水をすすり、死馬の肉を喰らう」という苦しい籠城戦を体験。
その経験から熊本城は、籠城の備えを万全にしました。
井戸はそのひとつで城内に120以上掘られたと言われています。(17箇所の井戸が現存)


高石垣の先に天守閣が見える




焼失を免れ現存する櫓群(繋がっているようにも見えるが、左から田子櫓 七間櫓 十四間櫓)


さらに四間櫓、源之進櫓




別の入り口、須戸口門の横にある平御櫓




さらに不開門の方向に進むと、現存、東十八間櫓




不開門(あかずのもん)
城の鬼門である北東に位置し、昔の陰陽道ではこの方角は塞いでも、開け放してもいけないとされ、
門は造るが普段は閉ざし、不浄なものを運ぶときだけこの門を開いたと言われる。
現存する唯一の門




本丸御殿入り口




全国的にも類例の無い地下通路「闇り通路(くらがりつうろ)」を抜け



やっとの思いで、天守閣、本丸広場へ


続く.........


あまりに広く、見所多いので三回に分けてUpしようと思います。
気長にお待ちいただけると幸いです。


2009.1.5


東京・江戸城

2008年12月14日 | 日本の城
東京・江戸城

現在の皇居とその周り一体が、江戸城跡である、説明不要と言いたいところだが、意外と知られていない。

まずは江戸という地名の由来は、
現在の東京都千代田区から中央区にかけての範囲を指します。
その地名を採った桓武平氏・秩父氏の流れを汲む江戸氏が、平安時代の終わり頃から、この地域を支配し、
現在の江戸城本丸の場所に江戸館を築いたことに始まると言われます。

室町時代に扇谷上杉氏の家臣・太田道灌が江戸城を築城。
戦国期、小田原城を本拠地とする後北条氏が関東一円に勢力を拡大し、遠山氏を江戸城城代としていました。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に後北条氏が滅亡。
この時の戦功で、徳川家康に関東八州の所領が与えられ、ここを居城としました。

家康、秀忠、家光と三代に渡り増改築を続け、港区・新宿区の境に一部が残る外堀と神田川とを総構えとし、
本丸・二の丸・三の丸(現在の皇居東御苑)に加え、
西の丸(皇居)、西の丸下(皇居外苑)、吹上(皇居吹上御苑)、北の丸(北の丸公園)の周囲16kmにおよぶ大城郭が完成、
以後200年以上、江戸幕府の中枢として機能します。

徳川氏の時代は15代将軍慶喜の大政奉還により幕を閉じ、
1868年(明治元年)4月、江戸城は明治新政府軍に明け渡され、(江戸城無血開城)明治天皇が京都から江戸城に入り、
10月に東京城(とうけいじょう)に改名、2年後、東京遷都により皇城となる。

関東大震災と空襲で、多くの建物に被害が出るが4つの櫓、天守台、門、番所などが当時のまま残っている。



一番観光客が訪れる、二重橋と伏見櫓(奥)

ほとんどの人が、皇居の正門へと続く橋を二重橋と勘違いするが、手前は西丸大手橋(石橋)である。
奥の鉄橋を二重橋という。(ちょっと写真だと見えにくいですが)


皇居の正門となっている、西の丸大手門(通行不可)



同じく皇居に続く半蔵門(通行不可)

昔、服部半蔵が警備をしていたためこの名前がついている。
非常時には将軍を甲州街道から幕府の天領である甲府への脱出ルートという説もある。


坂下門(宮内庁への入り口)

幕末、将軍家茂への和宮降嫁に激怒した水戸浪士が、老中・安藤対馬守信正の登城行列を襲った「坂下門の変」の舞台


桜田門(重要文化財)

この門の近くで水戸藩浪士による大老井伊直弼の暗殺事件(桜田門外の変)が起きた。


巽櫓(桜田二重櫓、辰巳櫓)と桔梗門(大田道灌時代の大手正門)



本丸大手門(昭和43年再建)



平川門(大奥の通用門)

平川門は通用門の横にもう一つの高麗門がある。これが別名を「不浄門」と呼ぶ門で、江戸城内の死者や罪人を城外へ運び出す役割をしていた。


清水門(重要文化財)

御三卿、清水家の名前の由来となる


北桔梗門

当時、有事の際に橋を跳ね上げて往来を遮断できることから「桔橋(はねばし)」と呼ばれる。


富士見櫓

かつて江戸城には19の櫓がありましたが、今は、伏見櫓、桜田二重櫓と、この富士見櫓の3つが残っています。


本丸大手門から、本丸を目指すとまず最初に
同心番所があります。

与力、同心が江戸城へ登城する大名の供を監視した。

次に通るのが
最大の検問所、百人番所

鉄砲百人組と呼ばれた根来組、伊賀組、甲賀組、二十五騎馬の四組が交代で詰めていた。


そして最後に
大番所

位の高い与力・同心によって整備され、ここから先は必ず乗り物を降りなければ行けない。

現存していないが、これ以外に本丸に辿り着くまで、四つの門をくぐったと思われる。
なんとめんどくさい(笑)



天守台

実際に天守があったのは、四代家綱の時代までで、計三回建てられた。
最後は大火で消失。

現在、江戸城再建の計画もあります
http://npo-edojo.org/top.html


西の丸は現在の皇居


北の丸内部には有名な武道館があり、そこに行くため、みな知らず知らずに
「田安門」という現存する重要文化財の門を通っています。


さらに、春の桜の次期に有名な千鳥が淵も江戸城のお堀の一部



中央線に乗ると見える、釣り堀がある池も、江戸城の外堀です。

他にもたくさんありますが、
知らず知らずのうちに僕らは江戸城と接しているのです。



江戸城本丸を久しぶりに訪れたのは、ちょうど大河ドラマで、江戸城無血開城を放送する日でした。
そして、今日、大河ドラマ篤姫が最終回を迎えました、あのドラマのお陰で、幕末に興味を持った人は多いと思います。

その舞台の中心となった江戸城

今でも、あの時代からずっといる木々や、建物が、当時の匂いを醸し出しています。
時代は徳川の江戸から、明治、大正、昭和、平成と変わりましたが、

今でも東京の中心には江戸城があります。
そんな江戸城に、一度足を運んでみてはいかがでしょう?


2008.11.30
一部昔の写真を使っています。

宇都宮城 ~甦った関東七名城~

2008年10月19日 | 日本の城
栃木県・宇都宮城



お城の歴史は古く平安時代にまで遡ると伝わる。
鎌倉時代以降、関東の名族、宇都宮氏の居城(居館)となり、北関東支配の拠点となった。
宇都宮氏は豊臣政権下でも所領を安堵され羽柴姓を授かるなど、仲は良好であったが、
慶長2年(1597年)に突如改易となる。

江戸時代には代々譜代大名の居城となり、将軍の「日光社参」の時の宿所として立ち寄るため、
本丸に「御成御殿」が設けられていたのが特徴であった。
家康の参謀・本多正純の大改造によりその広さは1キロ四方もの広さを誇ったという。
宇都宮城改修にまつわる正純謀反の噂が流布し「宇都宮城釣天井事件」舞台となる。

江戸幕府の北の要であった名城も、
幕末の“戊辰戦争”時、大鳥圭介・新撰組の土方歳三らの率いる幕府軍と新政府軍との激しい攻防の舞台となり、城の建造物や城下が灰燼に帰し、その後、明治23年(1890年)には城郭一帯が民間に払い下げとなり、現在では本丸跡も住宅地と化している。

しかし「よみがえれ宇都宮城」のもとに平成19年(2007年)3月25日に本丸の一部が復元された。


木造で復元された清明台櫓


(天守の代わりだったと言われる)




富士見櫓






お城ファンの間で問題になってる、土塁をぶち抜いた本丸入り口


本丸内側から櫓を見る


巨大エレベーター




本多家家紋(立ち葵)が見える



櫓内の子供たち、必死に何かを見ています。







鉄砲狭間!!!





夕日と富士見櫓





お城の復元は城好きにとってはすごく嬉しいこと、
櫓に関しては、木造でなるべく当時に技術と材木で復元してある。
しかし関東のお城の基本である土塁は、コンクリートで固められ、中は空洞、
そして存在していない橋を造り、存在したであろう土塁をぶち抜いた。

防災公園という利便上いいのかもしれないが、それは復元とはいえないと思うし。
郷土の歴史を伝えるという思惑からは到底かけ離れている行為だと思う。
「よみがえれ宇都宮城」と、唱っておいてのこの現状にがっかりしたお城ファンは多い。

色々な事情はあると思うが、関東七名城の一つに数えられ、日本を代表するお城だった宇都宮城
今後の復元には期待したい。




2008.10.3

夏の18切符 真夏の山形 山形城

2008年08月07日 | 日本の城
山形・山形城 真夏の空

山形城
別名・霞ヶ城(かすみがじょう)、霞城(かじょう)

由来は、関ヶ原の合戦の頃に直江兼続(上杉軍)が富神山の麓からお城を十日間見てたが、
霞がかかって何も見えなかったことからその別名が付いた。今でも霞城公園として市民の憩いの場となっている。

山形城の築城は南北朝時代の1357年、足利家一族の斯波兼頼によるといわれ、
その後、斯波氏は最上家を名乗る。
今の城郭の基礎を作ったのは最上義光で、関ヶ原の功で57万石を領有。

しかし、最上義光以後は没落。1622年、義光の孫・家信(義俊)は家臣の争いにより改易
以後、鳥居忠政(24万石)が山形城を改築し、徳川家の親藩・譜代の大名が、石高を減少させながら次々と入城。
最後は水野氏5万石。

明治維新後、歩兵三十二連隊の兵営敷地となり、建物は全て無くなり、本丸は埋め立てられた。
現在、本格的に城(本丸)を復元するための調査と整備が進行中。
天守閣は元から存在しない。



二の丸 南大手門跡から霞城公園内へ



復元頑張ってます


本丸 復元中


大手橋復元完了(このあと門が2009年までに復元予定)


二の丸東大手門(復元)
 

堀の真横にJRが走る


隣接する最上義光歴史館


山形の基礎を作った最上義光像




当時、僕の中で日本最北端を記録した山形
東北なので、夏だが涼しいという勝手なイメージも、まったく通用しないくらい暑かった。
途中乗ったタクシーの運転手も、東北では一番暑いと自慢していた。(※夜は寒いです)

なにより印象的だったのが、空の青さ。
普段いる東京では見たことのない色だった。

日本にあるお城のほとんどが、江戸時代の一国一城令、明治の破却、昭和の空襲により失われた。
山形城もその良き例で、本丸は埋め立てられ、敷地内には野球場もある。

だが今、復元の流れが出てきていて、二の丸東大手門を皮切りに、本丸の堀を掘り起こし、
本丸の正門に当たる一文字門が石垣と橋ともに復元中である。

これからのこういう流れが活発になり、お城がその街の憩いの場とシンボルになり、
そこから自分たちの街の歴史や、偉人たちを知る機会に少しでもなれば、僕は嬉しい。


前回は細部まで見て回れなかったので、2009年、復元が終わったらまた訪れよう。


2007.8.24

18切符の旅 初夏の諏訪

2008年07月10日 | 日本の城
諏訪・高島城 初夏の風

もうすぐ18切符の時期ですね。
過去に行った夏の18切符の旅を少し紹介。


新宿から西へ西へ、JR中央本線を八王子、大月、甲府と乗り継ぎ、約三時間半、上諏訪駅へ
そこから徒歩15分



諏訪高島城

豊臣秀吉の部将、日根野織部正高吉が築城。
当時、湖水の端に位置する小島に築かれた水城で、小規模ながら湖と低湿地に囲まれた要害を成していた。
(今は開拓が進み、湖岸は遙か遠く)

関ヶ原の合戦後、旧領主の諏訪市が入り、明治4年(1871)7月、廃藩置県まで10代諏訪氏の居城。

浮城の異名を持っていたことから日本三大湖城の一つ



駅を降りてすぐ木槿(むくげ)の花がお出迎え


お城に向かうけやき並木。昔は柳だったけど、お殿様が虫が多いと怒ってけやきに(笑)



三の丸跡に到着
もとお堀の役目をしていたのかな?



江戸時代初期から諏訪で清酒「真澄」を作っている会社、味噌部門は「神州一味噌」でよく知られてます。


高島城天守閣と隅櫓(復元)






同じく復元、冠木門

冠木門から本丸内へ

護国神社


移築された三の丸御殿裏門


天守入り口へ


3層の天守閣から諏訪湖を望む
  


山と湖のある風土と相まって、東洋のスイスとも言われる温泉街、諏訪

国内にある最も古い神社の一つとされている諏訪大社(信濃国一宮)があり、そこに住む人たちには、諏訪信仰が根付いている。

この日ちょうど、春宮から秋宮へご神体の大移動をするお祭りお舟祭の日。

街全体がお祭りムードで、夜には諏訪湖で花火も上がりました



関東から夏を感じに、18切符で、のんびり電車の旅と、夏の諏訪。

2007.8.2