春夏秋冬 ~止まった時と流れる時~

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山梨・甲府城

2010年05月17日 | 日本の城
山梨・甲府城


武田氏の支配下の頃の政務の中心は、前回書いた、「躑躅ヶ崎館(武田氏居館)」でしたが、江戸時代の中心は甲府城です。
戦国時代末期、武田勝頼が甲府盆地の西に「新府城」を築き政務の中心地が変わるかと思われたが、勝頼が織田・徳川連合軍に滅ぼされ、途中で終わりました。

その後、信長の配下、川尻秀隆が甲斐のほとんどを拝領する。
しかし本能寺の変で甲斐の情勢は不安定になり甲斐国人の一揆が頻発。河尻秀隆は戦死してしまいます。

その後、徳川家康が甲斐を平定、家臣の平岩親吉に命じ一条小山に縄張りを行い、当時その地にあった、一蓮寺を移転させて築城を開始したのが甲府城の始まりと言われています。


しかし完成を待たずして、家康が関東に移封になると、その後は豊臣秀勝、さらに加藤光泰、浅野長政・幸長父子ら豊臣系大名の領主が代わり、浅野氏の時代に完成した言われています。


江戸時代は、初期の幕府直轄領時代~甲府藩時代、享保年間に再び直轄領とされた甲府勤番時代を通じて甲斐統治の拠点となりました。

市街地か進み、城の中心部が舞鶴公園として残るのみです。



建物の遺構はなく、四つの門と一つの櫓が復元されています。
2007年に復元された山手渡櫓門
(城跡が中央線に分断された北側に復元)


内松陰門


鍛冶曲輪門


稲荷曲輪四足門


2004年復元 稲荷櫓


遊亀橋から、鍛冶曲輪~本丸


現存する唯一の濠と、復元された長塀


甲府城には城郭内に石切場が残る大変珍しいお城。


3年前の写真ですが、積み直した「二重の石垣」


絵図にも載っていない、秘密の水溜跡


天守台。天守閣を描いた絵図面などは見つかっていないが、浅野氏の時代に天守閣は作られたという説もあります。

信玄祭りの期間なので、武将がたくさんいます!!



天守台からの景色「山梨といったら富士山!!」



2010.4.10


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