優しさ研究所

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宗教と“優しさ”

2005年10月28日 | “優しさ”各論
就職希望先の1つがキリスト教関連の団体なので、そこのホームページを見ていると至る所にキリスト教の教義が書いてあります。
(追記:キリスト教関連団体と言っても、創立者がキリスト教信者というだけですのであしからず)

それを見ていて思ったのですが‥‥

「自分って思想がキリスト教的なのかな?」と。

自分としては全くキリスト教を意識しているつもりはないし、家に来るキリスト教の勧誘も毎回やんわりと断っています。
でも結果的に似ているとなると、「こちゅはキリスト教の回し者」みたいに思われても仕方ないですね。

よくよく考えてみると、キリスト教ってすごいですよね。
今よりもずっと無秩序に人が殺しあっていた時代(それでも原始の頃よりはマシでしょうけど)に、愛を説くなんてなかなかできることじゃありません。
だからこそ、当時は宗教として支持を得ることができたのでしょうけど、今考えてみるとこれは宗教というよりは常識の範囲である気がします。
そう考えてしまうこと自体が、自分がキリスト教的と思われる理由なのかもしれませんけどね(笑)

自分の場合は、出発点が「せっかく人と人が手を取り合っていける時代になった(土台ができた)のに、なんで憎しみあったり無視しあったりしてるんだろう?」というところでしたから、誰でも考えつくものです。



世の中には様々な宗教があります。
たしかにどれも、入信している人にとっては素晴らしいものなんでしょう。
たとえ周りからどんな目で見られようとも、その宗教が入信している人の心の支えになれば、どんなものでもかまわないと思います。

はたから見るとどんなに異常に見える宗教でも、本人らはそれを心の支えにしています。
有無を言わさずに宗教を煙たがるのは、入信している人にとっては心の支えを否定することですから、あまり優しいことだとは思えません。


もちろん、他人に迷惑をかける宗教はNGですけどね。
それを考えると、あまりにしつこい勧誘というのも迷惑になります。
あくまで最終的な入信の判断をするのは入信する本人であって、誘う人ががんばれば入信してくれるというものではないと思います。
その宗教の教義が素晴らしいという自身をもっているのなら、必死になって勧誘しなくてもおのずと入信してくれるのではないでしょうか。
玄関先で長々と熱弁をふるう勧誘員さんよりも、パンフレットをサッと置いていくだけの勧誘員さんの方が、ずっと好感がもてます。


つまり何が言いたいかというと、宗教の中にいる人も外にいる人も、お互いもう少し相手のことを気遣いませんかということです。
宗教に関係なく、優しさを忘れるのは悲しいことです。



<ここから傍論>
また、宗教の中にも詐欺みたいなものがあるんですよね・・・お金を集めるために作られたものとか。
そうなるとまた話がややこしくなってしまいますが、ともかくそういった宗教は最終的に入信した人を幸せにすることを目的としていないので、当然許せないとだけコメントしておきます。

結局、宗教に頼らずに幸せになれればそれが一番ですよね。
こんなこと言ったら入信している方に怒られるかもしれませんが、やっぱり宗教が生まれたのは救済のためですから、それは否定できないと思います。


あまり言い過ぎるとこのサイトの趣旨からもはずれていくので、今日はこの辺で。

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