もっとましな嘘をついてくれ ータイ歌謡の日々ー

タイ歌謡について書いたり、うそをついたり、関係ないことを言ったりします。

木の葉を甘く煮る

2023年10月09日 10時09分28秒 | タイ歌謡
 タイ語ができずにタイ旅行をすると、タイ人が常軌を逸して過剰に親切だという傾向はタイに慣れている人なら誰でも知るところだ。タイ語が上達するのと反比例して外国人としての物珍しさが薄れるのか、過剰な親切はなくなる。もちろんタイ語に堪能な外国人に嫌がらせをするようなことはなく、普通に親切なだけになる。ただ、タイ語ができなくても「引き」の悪い人は狡いタイ人を引き寄せ騙されて何某かのカネを巻き上げられるなどしてタイが大嫌いになり、二度と行くものかと決意する。
 身も蓋もないことを言えば、カモられやすい人はどこの国へ行ってもカモられるので、危険度の高い国に行くのは控えた方が良いと思う。さすがにタイでカモられついでに命に危険が及ぶことは偶にしかないが、よっぽどの場合は強力な睡眠薬を盛られて入院したり、夜道で後頭部を石か煉瓦のようなもので殴打されたりということはある。ごく希にある。
 へべれけになるまで酔ってタクシーで眠り込んで、運転手さんに身ぐるみ剥がされて路傍に捨て置かれた日本人ならなん人か知っている。「よく他のクルマに轢かれなかったな」と皆感心していたが、本人は「いや。タイ人優しいから車道から離れた所に放り出しますよ」と、のんびり答えていて、優しさってのは必要だな、と話し合った。まあ車道から離れたほうが発覚も遅れるしね。身ぐるみ剥がすのも優しさなんだろう。命までは取らない。そういう飲み方はイカンぞという忠告。その代償としての身ぐるみ。教育なのか。なんだ、運転手さん良い人じゃないか。
 区別のわからない人というのはいるもので、ウエストポーチなんぞを装着して歩いている日本人旅行者を見かけるが、あれはいけない。ダサいからという理由もあるが、それよりもそんなものを装着してるってのは「貴重品とカネなら、ここにあるぞ!」と怒鳴って教え回っているようなもので、ウエストポーチを奪うのには刃物を使うのが手っ取り早いから、巻き添えで怪我しちゃうことがある。気の利いた熟練者はエスカレーターで仲間と前後を挟み撃ちにして後ろからグイグイ押してきて「え? え? え?」と外国人が混乱するうちにバックルを外す。「ソーリー」とか言って消えたときにはウエストポーチも消えている算段だ。このバックルがプラスティックの頼りないやつで、(こんなの、ぐい、と引っ張ったら簡単に外れてしまうのでは)と思うだろうが、それでいいのだ。あれが頑丈で簡単に外れなかったら刃物が出てくるでしょ。まして生地の素材が炭素繊維か何かで刃物で太刀打ちできないとなれば、(よし、まずポーチの持ち主を動けなくしなくては)となるのは間違いない。むかしイタリアだったかで擦れ違ったバイクに鞄を引ったくられた日本人女性がショルダーバッグの紐をたすき掛けにしていたばかりに身体を延々と引きずられて死亡した事件があったでしょ。頑丈な鞄は危ないのだ。
 いつだったか日本からの友人をバンコクでショッピングに連れて行って、「ここ、スリが多いから気をつけてね」と注意したら、うんうんと頷いてスリの被害には遭わなかった。でも鞄を置き引きされていて、「まあ財布は無事だったから、いいか」と笑っていた。数日後連絡があってカネを貸してくれというので話を聞いたら、財布を掏られたという。「ちゃんと尻のポケットに入れていたのに、気がついたらなかった。掏られたか落としたんだろう」ということで、まず間違いなく掏られてるな、それは。温泉街ぶらつくのと違って尻ポケットに財布はイカン。財布を持ち歩くんだったら鞄に入れないと、と忠告したら、「その鞄は置き引きされたんだよ」と憤っていた。これはもう二度とタイに来ないやつだな、と思ったが、何がどう気に入ったのか、度々訪れている。もう旅慣れて盗難やカモられることもなくなったのかというと、カモられてはいるが、そういうものだと割り切っているようだ。徳を積んでいるようだと言うと、「あ。その考えはいいね。いただき」と微笑んでいて、大物だったのだな。市井の偉人ってやつだ。

 20世紀もいよいよ終わりという頃、バンコクの日系デパートを歩いているとトイレに引きずり込まれ、気絶させられた上に連れ出されて臓器を摘出された日本人が続出という話が在タイ日本人の間で一気に広まり(か、買い物にも行けないじゃないですかぁ)と不安が伝播したものだが、日本大使館が「あれはデマだから」と発表するまで在タイ歴が長い日本人まで怯えていた。いかにもありそうな話だったからだ。
 そこまで荒っぽいのはないとしても、当時の中国では似たようなことが多発したらしく、あの頃の中国に住む日本人の間では「病気になったらすぐ帰国」というのが常識だ、と在中国日本人から聞いた。「ちょっとの病気で中国の病院に行ったら、麻酔を施されて臓器を抜かれる」というのだ。そんなことしたら死んじゃうだろ、と笑ったら、「いやいや。腎臓ひとつ抜かれてもわかんないんだって」と真剣な面持ちで主張した。
 うっわー。おれの腎臓抜かれちゃって移植された人は漏れなく尿路結石だぜ、と言うと、やはり真面目な顔で「んー。でも死ぬより良いんじゃない?」と答えていて、あー、シャレになんない頻度で起こっていることなのかな、と思った。そもそも内臓を「抜く」という動詞を普通に遣ってんのがリアリティーが濃くてイヤだ。
 バンコクの臓器密売デマの元になった話が中国の臓器盗難かもしれないね。

 そういえば、おれはあんまりタイ人に騙されたことがないな。多少のボッタクリくらいか。結婚してからはボラれることもなくなった。タイ語が上手くなったからではなく、うちの奥さんが値段の話はさせてくれないからだ。「あなたが値段を訊くと少しだけ高くなることがあって愉快じゃないんだもん」という。

 タイ語が覚束ないとタイ人が親切だって話をしたかったのだった。このブログって余談を全部削ったら文章量が1/10になっちゃうよね。いや。よく考えたら全部余談じゃねぇか。余談を削ったら更新がなくなるね。

 二度目のタイ旅行のとき、ぜんぜんタイ語ができなかった。
 というのも最初のタイ旅行でホテルや空港なんかの他では面白いくらいに英語がつうじなくて、もうすっごいドキドキして楽しかったんで、そのディスコミュニケートっぷりを求めての二度目の旅行だから、タイ語を憶えようという気は龍角散の匙一杯分もなかった。ただสวัสดี(サワッディー - こんにちは)とขอบคุณ(コプクン - ありがとう)だけはカタカナで憶えた。基本だからな。このブログではお馴染みの「ひと房だけでいいから揉ませてください(ขออนุญาตินวดครับพวงเดี๋ยวนม)」などというタイ語は憶えない。ていうか、そんな例文は教本に載ってねぇよ。
 あとは無謀にも英語と日本語で押し通した。もちろん日本語なんてつうじない。英語がつうじないときに、「だーかーらー、その人と同じ料理をくーだーさーい、って言ってんだよー!」などと言うのだが、つうじてるのは身振り手振りだけだ。日本語はそのリアリティーのためのBGMに過ぎなく、(あ。このひとタイ人じゃないんだな)と思わせる効果しかない。
 二度目のタイ旅行は仕事がらみではあったが、仕事は半日もかからずに済んでしまい、あとは併せて取った休暇を楽しむだけだった。当時「地球の歩き方」というガイドブックは、あるにはあったが米国編と欧州編、それとインド編くらいだったのではないか。とにかくタイのガイドブックなど、どこを探してもなかった。ずっとあとになって気がついたのは英語のガイドブックならあったから、それをイエナ辺りで買えばよかったのにね。もう遅いけど。
 そんなわけで今から思うと無謀の極みだが、日比谷のASEANセンターで貰った「ASEAN地図」だけを頼りに行き先を決めた。ASEAN地図にはタイ全土の地図と、ざっくりしたバンコクの地図、チェンマイの地図があった。よーし。「ぼうけんのしょ」は手に入れた。これを手懸かりにチェンマイ・チェンライ・メーサイの旅に出るのだ。黄金の三角地帯に行くんだもんね、と心を躍らせた。
 昔の話だからね。ハワイでぐうぜん大麻畑に足を踏み入れたばかりに警告なしに銃撃されて匍匐前進で逃げ帰ったという友人の話を思い出し、(いかに黄金の三角地帯といえど、芥子畑に踏み込まなきゃ大丈夫だよな)と根拠のない旅行プランだった。もちろん徒歩で行ける圏内に芥子畑などあろう筈もなく、無事に帰ってきた。
 バンコクからチェンマイに行くのに、駅への行き方をホテルで尋ねると「チェンマイはバスの方が快適だし安いぞ」と教えてくれたが、わかってないな、おれは列車で行きたいのだと言い張ってファランポーン駅まで行ってくれという内容のメモを書いて貰った。タクシーの運転手さんに渡すためだ。あ、思い出した。せっかく持って行った装備の地図を指さして「ここ。行く」と英語で言ってもタクシーの運転手さんは地図を見て首を振るか、地図を投げて返すかされたんだが、その意味がわかるのは数年後だった。タクシーの運転手さんであろうと当時のタイ人で地図を読める者は余程の教養のある人だけで、(いや。こんなの見せられても)って感じだったのだ。さらに思い出した。タイに住むようになって、本屋に地図を買いに行ったが見つけられず、「地図はありますか」と訊くと「ないよ。そんなものは。ความลับของประเทศ(国の秘密)じゃないか」と言われて驚いた。そうなの? と感心した。その数ヶ月後、他の本屋で、ふつうに地図を売っていて、やっぱテキトーだな、と嬉しくなった。
 とにかくメモを書いて貰ったのは正解で、駅までは無事に行けた。その駅名も後年知った。バンコク駅とでも思い込んでいたのだろう。窓口で「チェンマイ。ファーストクラス」と簡潔に注文したら「ノー・ファーストの」と言われた。最後の「の」は「な」と「の」の中間の発音で、これが語尾に付くと「だよ」みたいな意味しかないが、タイ標準語だとนะ(ナ)で、それが訛ると「ノ」に近づく。訛りが強いと「ノ」にしか聞こえない。
 そうか。一等車は満席かぁ、と思いながら乗車すると、おれの席はリクライニングで列車のバルクヘッドにรถชั้น2とでも書いてあったのか2の数字があった。二等車だったのだ。えー。一等車はこれよりも豪華なのか。ちょっと見に行こうと探したら、その列車は一等車のない列車だということがわかった。窓口のおねえさんの説明は間違ってなかった。ノー・ファーストだ。三等は受刑者が彫ったような堅そうな木のカクカクしたボックス席で、もちろんリクライニングなどない。みな敷物持参で乗っていた。新聞紙を敷いて床に寝る者もいた。たしか午後3時半頃のバンコク発で、チェンマイ到着は翌朝5時過ぎだった。夜行バスだと途中の休憩を入れても8時間足らずだとホテルの人は言ってたな。
 乗り込むまえの探検で食堂車みたいなのがあるのは知ってたので、鞄を持って行こうとしたら、近くの席のおじさんがなけなしの英語で「ノー・バッド・ピープル。バッグ・ヒア。オーケー」とニコニコしている。悪い奴なんかいないから荷物置いていって大丈夫だと言っているようだ。タイ人の人相ってわかりにくいが、このおじさんは笑顔が真っ直ぐなかんじだったので、従うことにした。ま、いっか。鞄盗まれたって。大事なものは、このショルダーバッグに入ってるし。と、半分捨て鉢な気持ちで食堂車に行ったが、おれの知ってる食堂車とはちょっと違ってて、発泡スチロールの容器が二段くらいの高さでカウンターにびっしり並べられていた。座って食べる場所がない。座席に戻って食えってことか。中身は今で言うガパオライスと目玉焼きのコンビネーションだった。うわあ、見たことねぇ。でも旨そう、と買って座席に戻った。確かに鞄は盗まれてはいなかった。弁当の容器を開くと、周りのタイ人たちがガヤガヤとうるさい。「おお。ハングリーな」と嬉しそうに言い、それを合図のように車両中のタイ人がなんだかいろんなものを持って、にじり寄ってきた。「キャラメー。キャラメーな」見ると胡麻をまぶしたキャラメルっぽい物をおれに押しつける。
 せっかくおぼえた「コプクンカプ(ありがとう)」を言うと、車内が沸いた。凄い勢いのタイ語で話しかけられたが、ぜんぜん内容がわからない。しょうがないから「イズディスキャラメル?」みたいな、わざとカタコトにした英語を話すと、いっせいに「おー」とどよめく。なんかもう、ぜんぜんわかんないが、すっげーたのしかった。おれが笑顔になると車内のタイ人も全員笑顔で、いろんな食い物が怒濤のように押し寄せてきた。いろいろ言ってるが「これ食え」「あれ食え」みたいな感じなんだろう。甘辛のビーフジャーキーみたいな干し肉と、甘辛のボソボソの毛糸みたいな干し肉。どう考えても蒸しただけの餅米。食べてみるとやっぱり餅米なんだけど、米粒が長細い。当時はタイ米の形状なんて知らなかった。あと、なんか甘いココナツ風味のペーストみたいなの。それから、どうしてかパリパリした塩味の揚げ物(たぶん豚の皮の揚げたやつだと思う)や、見た目は雷おこしだけどサクサク柔らかいのとか、こんなに貰っても食べきれないよ、というくらい食い物が集まった。ニコニコと少しずつ味見してたら、ひとりの婆さまが、おれの目を見てタッパ容器に入った何だか薄茶色の半透明っぽい物体を手に、一歩一歩確実にジワジワ迫り来るのだった。笑顔だ。満面の笑みってやつだ。殺意や敵意は微塵もないのはわかる。だが、その手にしている謎の物体はなんだ。
 どう見てもシロップ漬けにしか見えない。
 遠近法の理どおり、婆さまが近づくにつれ姿が大きくなる。とうぜん、謎の物体も大きくなって接近するんだが、至近距離まで近づいたとき、婆さまはやおらフォークで謎の物体を突き刺し、持ち上げたその一枚の平たい形状の物を、おれに差し出すのだった。
 ほらよ。
 ぐい、と突き出された物体を、手のひらで受け止めるより他に術はなく、左の掌に、ぬるりとした粘性とともに僅かに体温より低い物体が乗せられた。
 葉っぱだ。
 広葉樹の葉っぱ。葉脈もはっきりと。それをどのくらい長時間煮込むと、こんなふうに半透明になるのだろう。
 これは食うよりあるまい。いつまでも掌に乗せていても仕方がないだけでなく、婆さまがニコニコしながら(ほら食べて)という顔をしている。
 ひと口で食べようと思ったが大きすぎた。半分を頬張り歯を立てると、弾力もなく柔らかく切れた。噛み応えはないが、ねっちゃねっちゃしている。と思うが早いか、眉間に甘さの固まりが、体重を乗せたパンチみたいにずぅーん、と押し寄せた。
 砂糖の味だ。
 砂糖の味しかしねぇ。
 葉っぱが主張するのは頼りない食感のみで、メイラード反応で少しカラメルっぽくはなっているが砂糖だけの味だ。シナモンとか香辛料も香料も添加されてない。砂糖と葉っぱ。それだけ。シンプルイズシンプル。以上。
 まずい物ではないが、旨いものでもない。ただひたすらに甘い。ハーゲンでダッツなバニラ味にマヌカハニーをどっさり垂らしたくらいじゃ勝てないくらい、甘さだけに特化している。イマドキの言い方だと甘さに全振り。
 あれは何て言う名前の菓子なのか。いつだったかうちの奥さんに訊いたことがある。
「ไม่ทราบ(存じません)」ときどき思いがけなく丁寧なタイ語が返ってくると、金箔ほどに薄く戦慄するんだが、べつに怒っての慇懃ではない。おれのタイ語の教本による習得に由来する必要以上の丁寧さと、うちの奥さんの育ちの良さが時々露呈するだけで、意味もなく上品が炸裂しているだけだった。とにかく甘く煮た葉っぱのことは、そんなの見たことも聞いたこともない。そのお婆さまのオリジナルなんじゃないかしら、と言った。家の近くにある木の葉を摘み取って砂糖で甘く煮るのね、と想像を巡らせたあとで、おれの肩に掌を乗せ、「เยี่ยมมาก อิจฉานะ(素晴らしいわね。羨ましいわ)」と、しみじみ言った。なんかいい話みたいになってる。
 そうなの?
 これ、いい話だったの?
 言われてみると、そうかな、と思った。
 ババアがそこら辺で拾った葉っぱなんか甘く煮て出しやがってよう、という話ではなく、木の精霊と水と光が作った木の葉を選んで摘み取り、砂糖で甘く煮た夢の国から来たような菓子。向こうが見透かせるような儚いけれどもキラキラと眩い佇まい。そして純粋な甘さが口に広がるという天使からの贈り物。
 だよなぁ。
 そういえばタイの首都のバンコクってのは国際的な場での呼び名で、タイ人はバンコクなんて呼ばない。กรุงเทพ(クルンテープ)と呼ぶんだが、これは日本語世界では一般に「天使の都」と訳されることが多い。大きくは間違っていないが、正しくは天使というニュアンスは殆どなく、「神」だ。タイ人の思い描く神だから、「どっかよその国のキリストとかアッラーとかガネーシャとか、なんかそんなの」とざっくりしたものだ。「都」部分も正しくは英語で言うキャピタルが近い。首都って意味もないわけじゃないが、資本っていうか「神が与えし賜(たまもの)」の方が近い。クルマのナンバープレートなんかにはกรุงเทพมหานคร(クルンテープマハナコーン)と書いてあり、このマハナコーンが大都市って意味だから、都って意味は、そっちに任せよう。
 さいしょに「クルンテープって、どういう意味?」と訊いた人への答えが「うーんとね、なんかカミサマみたいなひとのシティーな」とかテキトーで、「おー。そんじゃ天使の都、ってかんじ?」「そうそう。そうだな」というような会話があって、それを得意気に書き付けたのが今でも踏襲されているんだろう。
 だから、婚約していた頃、「あー。クルンテープってのは正しいな。きみみたいなテープがいる」と言うと、「は? 何言ってんの? あたしカミサマじゃないんですけも」という流れになり、「え。テープってエンジェルだろ?」「ちがうわよ」って会話があった。
 バンコクの正式名称「クルンテープマハナコーン……」は全部書くと「寿限無」のフルネームみたいに滅法長くて、タイ文字でも100文字を超える。ギネスに登録されている「世界一長い首都名」として有名なんだが、これを暗唱できるタイ人は、そう多くない。多くはないが希少という程でもなく、というのも初老から上の年代のタイ人は歌で憶えた者が多いのだ。歌といっても学校で教わる唱歌なんかじゃなくて、当時人気絶頂だったロック・デュオのアサニー&ワッサンというユニットの歌で、歌のタイトルも「クルンテープマハナコーン」だ。
กรุงเทพมหานคร - อัสนี&วสันต์ [ เกิดทันล้านตลับ ]
 歌詞が潔い。タイの首都の正式名称だけを延々と歌い、繰り返す。うちの奥さんもこれで憶えたと言って笑っていた。
 このアサニー&ワッサンというユニットは兄弟なので、解散もしていない。1986年のデビュー以来、コンスタントにアルバムを出し続けた。10枚くらいは出してる。最後のアルバムは2007年で、それからも活動は続けてはいるが、10年ほどまえから活動はめっきり少なくなった。もう、ひと財産作っちゃったし悠々自適なんだろう。
 いつものように歌詞を訳しても都市の正式名称を延々と歌っているだけだから、今回は訳詞なしだ。
 1989年リリースの歌だから、つい最近のようでも30数年経っている。1989年って激動の年で、昭和天皇の崩御で平成になったり、中国の天安門事件もドイツのベルリンの壁崩壊も、この年だ。タイは平和だったかというと、そうでもなくて、安定していたチャチャイ政権を快く思わないスチンダー(のちの首相)が不満分子をけしかけて不穏な状態が始まった頃だ。1991年には「暗黒の5月事件」てのが起こって、と言っても何のことだかわからないだろうが、1991年のタイのクーデターで市民に山ほど人死にが出て、タイ国王であらせられるラーマ9世ことプミポン国王がスチンダーとチャムロンを呼んで「きみたち、いいかげんにしたまえ」みたいなこと言うと、二人が額を床に擦りつけて「ははーっ!」って両手を頭上で合わせて、そんなのタイ人だったら「うっせー」どころか「いや、あのですね。畏れながら」と弁解すらできない。あの映像が世界中に流れて「うっはー! やっぱタイの王様って偉いんだなー」と地球上の民が感心したんだが、あのニュース映像が流れなかった国が唯一あって、それがタイ王国だった。首相とその相対するリーダーが共に額を床に擦りつけて平伏してる姿なんてそんなの、国民に見せられないってことで、そんなの見せつけなくても王様への尊敬は盤石なんだし、ま、いいでしょ、って感じか。
 そういえば、それから数年後に会社でスチンダーの世話係みたいなことを言いつけられて同行したことがあったな。そんなに威張るわけでもないのに圧が凄かった。おれの当時の上司がスチンダーの鞄持ちみたいなことをやらされて、上方の中小企業の社長が持ってるような集金鞄を一回り大きくしたようなボロボロの鞄を預けられて、ファスナーの隙間からは札束がぎっしり詰まってるのが見えたって言ってた。「あれはワザと見せてるな」と言ってたのがおかしかった。商談の時スチンダーは国境近くのチーク材の権利を持ってるんだけど、チーク材買わない? みたいなこと言ってて、(それ密伐採だよな)と想像がついたんで、また王様に叱られろ、と思った。まだ生きてんだよな。90歳かぁ。
↑べったり平伏してる写真は見つけられなかった
 あ。いやいや。タイ語がヘタだと、って話だったんだ。
 そういえば、がっこんがっこん列車の揺れが半端じゃなく、(これホントにオリエント急行のルートだったのォ?)と疑いつつ、やっとチェンマイに辿り着いた頃には体中の骨がバラバラになりそうだったとか、拉致られるように連れて行かれた安宿(20バーツの部屋を断って50バーツの部屋にしたら一つのベッドが二つに増えるだけの違いだった)の娘の名が「ピヨピヨ」だったとか、巨大蜘蛛と対面する話を2年くらいまえに書いて、「続きはまた今度」で、ずーっと放置されていたのを思い出した。図らずも約束を守ることになりそうだ。

 このあとチェンマイのバスターミナルからチェンライ、メーサイと行って、国境で「日本人の陸路での越境はダメ」と言われて追い返されてションボリしてたら、川辺の爺さまが小舟に乗せてくれて、結果的にビルマに密入国しちゃった話とか、ランパンで迷子になって困っていたら親切なタイ人に強引に滝見物に連れて行かれたり、もう遅いからホテルに連れて行ってくれと頼むと「はぁ? この村には、そんなもの、ないぞ」と、家に泊めて貰って鶏を捌く手伝いをさせられたりする冒険の話になるんだが、ここまででも、もう長い。
 いやあ。ざんねんだなぁ。続きは、また今度だ。そのうち。
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