もっとましな嘘をついてくれ ータイ歌謡の日々ー

タイ歌謡について書いたり、うそをついたり、関係ないことを言ったりします。

都会に出た彼氏へ

2020年01月21日 16時41分02秒 | タイ歌謡
สาวนาสั่งแฟน-พุ่มพวง

 たしかにタイ歌謡だけど、これ懐メロじゃん。とお嘆きの貴兄もいらっしゃいましょうが、いちおうね、初回だし。タイ歌謡史に燦然と輝く名曲で始めます。
 1984年にリリースされた「サオナーサンフェーン」という曲で、無理に片仮名にすると、なんかヘンで、タイ語をカタカナで書くことに意味なんかあるのかって話は、この際置いとくとして、タイ文字だとสาวนาสั่งแฟน。
 直訳すると「田舎娘から恋人への注文」みたいな感じ。注文、は「お願い」みたいな意味で使ってます。
 日本だと太田裕美が歌った「木綿のハンカチーフ」になるのかな。松本隆作詞で、作曲は筒美京平先生だ。大きくは違わないが、タイの、この曲の方が悲惨かもしれない。

 田舎から都会に出稼ぎに行ってしまった彼氏に宛てた、娘さんの気持ちを綴ったものです。ここでは恋人と言っているけど、タイ人は夫婦の場合でも相手を恋人(フェーンแฟน)と呼ぶことが多いし、そもそも夫婦といっても役場で入籍はしてませんという例も多い。仏前の結婚式の方が重要なのね。契約的なものではなく、私たちの結婚は仏様に立ち会ってもらっちゃったもんね、という訳で、そりゃ役場の小役人なんかよりは仏様の方が絶対的に偉いんだから、それでいい。
 そんな結婚だから、愛がなくなったら、すぐに解消される。世間体とか考えるんだったら、愛もないのに同居してる方がタイでは世間体が悪いんです。だって、それは誠実じゃないでしょ。仏様もお許しにならない。タイ人のこういう所がオトナだし、なんつうかマジメで理知的なんだよね。

 さて、歌詞だ。
 いつかもし時間が許せば田舎に帰って来てね、と始まる歌詞は、慎み深いというか弱気というか。そういうタイ人て、います。
 まあ、どっちかっていうと、気が強くて我慢などせずに言いたいことを言う人の方が圧倒的に多いとは思うけれど、気の弱いタイ人って、ホントたまにいる。大声出されると、「はいっ」って言うこと聞いちゃうような。
 で、この娘が、都会の街のネオンに騙されないでね、とか美人の歌手にお金を使ったりしないでね、と言い、帰ってきたら都会にないご馳走があるよ、忘れないで。と歌うわけです。恋人に。
 そのご馳走てのが目玉焼きなんだな。うちの目玉焼きは新鮮で、見るからに美味しそうで、香り豊かで、ひと口頬張れば味が広がるのよ、という訳だ。何なら炒めた空芯菜もつけちゃうという大盤振る舞いの歌詞で、こういう家に遊びに行くと、まず水を振る舞ってくれる筈だ。少なくとも、この歌が発表された1980年代中盤のタイの田舎の家は、客にコップ一杯の水を振る舞った。水は最高のもてなしだったのね。
 うちの奥さんなんかも家に来た電気工事人に水振る舞うもんね。今どきは水とコーラとか、水とコーヒーなんてのが都会のバンコクでは普通かな。

 田舎では「これはね、雨水だから美味しいよ」と言いながら、水瓶を柄杓でコンコンと叩いてから水を汲んでくれる。ココナッツ製の柄杓で陶器の水瓶をコンコン、というのはマジナイみたいなもので、でもげんみつに言えばマジナイではなく、柄杓でコンコン叩くと、水面のボウフラが驚いて水中に逃げるから、その間に静かに上澄みを汲む、という生活の知恵です。
 雨水だから、本当に旨い。
 ボ、ボウフラとかダメじゃん、などと言ってはいけない。「あー。ボウフラが棲める程にキレイな水なのですね」と微笑んで飲まなくちゃ。
 うひー。ボウフラ、うひー。って水を飲まないのは、たいへんに失礼な事だから、そういう人はタイの田舎の家に招かれても固辞すべきです。誘われたら、矢庭に腕時計見て「いけね。用事があったわ」と叫んで、外に駆け出すと良い。「用事がある」は「ミートゥラ(มีธุระ)」です。憶えておきましょう。

 雨水を何とかクリアすると、今度は鶏で、庭を走り回ってる鶏のうち一羽を見せて「どう? Good?」とか、なけなしの英語で誇らしげに訊くから、よくわからずに「おー、いえー。グッド」なんて親指立てたりしたら、「そうかい」ってニコニコしながら間髪入れずに鶏の首を刎ねる。
「どうだい? 肉捌いてみるかい」とか訊かれて、「いや。やったことないす」と答えると、(え。そんなに貧しい育ちなのか、こいつ。それとも上流の人だったりするのか? いや。どう見ても平民だよなあ。よし! たっぷり喰わせてやるか!)って死ぬほど辛くて真っ赤な鶏スープを振る舞われることになる。

 あ。また話がズレた。歌詞だった。
 お金はいつ受け取れるのですか、とかお父さん達がグズグズ文句言っててツラいですとか、新しい服が欲しいな、とか、売りに出された牛や弟を買い戻したいですねとか、都会の美人に入れ込んじゃダメよとか、まあそういう歌詞です。さらっと悲惨なのが混ざってるけど、当時珍しいことではないから、これは共感しちゃう。田舎のタイ人は「そうね。目玉焼きは田舎がいちばん美味しいのよ」とか「いつか生活がラクになったら良いだろうな」といったことを思っている人が多いし、都会の人は「あー、そう! 田舎の人って目玉焼き自慢したり、雨水をボトルに詰めてお土産で持ってきたりするよね。なんだろうねアレは」とか「出稼ぎに来た人って、なんか可哀想な事になっちゃう人が多いよね」というような事を思いながらこの歌を聴いて心を痛めるわけです。
 しかし、お金はいつ受け取れるのでしょうとか訊いているくらいだから、これは仕送りが途絶えてるとか、まだ一度もないとか、そういうことなんだろうね。
 木綿のハンカチーフとは、少し違うけど、まあベクトルは近い。

 オリジナル曲を歌ったのが、プムプワン・ドゥワンチャンという名の歌手で、名前は日本語だと、「月の歌姫」みたいな意味です。詳しくはウィキペディアを御覧ください。 
 gooblogからwikipediaへはリンクが貼れないので、ご自分でどうぞ。
 とてもよくできた記事で、というのもwikipediaの記事は、おれが書いたからですね。ときどき知らない間に画像が増えたり、数字が全角だった箇所を半角に直してくれる人がいたりして、ヘンなものです。
 このプムプワン・ドゥワンチャンという人の実家がまた絵に描いて額縁に入れたみたいに盤石で不動の貧乏。
 生業のサトウキビの絞り滓から滲み出た貧乏のエキスを、スパンブリーの田舎の灼熱の太陽光線を一点に集めて煮詰めたみたいにチョービンボーな育ちで、小学校も殆ど行けずに小作農の手伝いに明け暮れていたものだから、彼女はタイ語の読み書きができなかった。
 読み書きができないというのをタイ語で「เขียนไม่ได้ อ่านไม่ออก(キアンマイダイ アーンマイオーク)」と言って、直訳すると「筆記はできない、読みは出てこない」というような言い回しです。この世代(1961年生まれ)で文盲というのは正直珍しい。自分の名前すら書けなかったというのね。
 プムプワンの名が売れてから、インタビューで文盲について尋ねられ、「はい。書くはできないし、読むは出てきません」と恥ずかしそうに答えたTV番組を見たとき、胸を締め付けられたタイ人は多かったと思う。タイは識字率が驚異的に高いけれど、当時、じぶんの名前が読めて書くことができれば、それは文盲ではないことになっていたので、「あー。おれも似たようなものだな」と思った人は多かった筈だ。
 字が読めないというのは意外とバレやすくて、おれもタイ語を憶えるようになって最初の一年くらいは読み書きができなかったが、薬屋で何か買うときなど、英語のパッケージは読めるのに、タイ語の薬品なんかだと「これ」とか言っちゃうし、的外れな事を言ってしまったりするんで、まあバレるバレる。字が読めないというのは、控えめな膝かっくんを毎日喰らうみたいに、けっこう堪えるもので、ひどく取り残された気分になります。
 当時、婚約者で大好きだったうちの奥さんが読んでくれたりするんだけど、あの「仲間に入れない感」はキツイ。これは、うちの奥さんにしてもそうで、あの人は大学で第二外国語に日本語を専攻したにもかかわらず、テキトーにサボってたから日本語はそれほど上手くない。おまけに日本人と結婚したとはいえ、あれは俺が無理にお願いしたもので、だから俺がタイ語を憶えるべきで、うちの会話はタイ語です。これでは日本語が上手くなる訳がないんだが、日本語のTV観て笑ったりしてるから、ある程度はわかるんだろう。とはいえ、うちの奥さんが日本で暮らし始めた時期、おれが友達と日本語で談笑したりしてると、その会話の意味がわからず、ふいに涙ぐんでたりしてたんで、まあそういうことです。

 そこそこ地アタマは良いのに読み書きができないタイ人というのはいて、でも文盲だと地アタマの良い悪い以前に、もうスタートラインが違うし、入り口も違うから、楽しい毎日を迎えるのが大変なことになる。
「親で負けたら、子の代でも負け」というのはどこの世界でもだいたい正しい。
 貧しくて、教養のカケラもない人、というのがいる。目がガラス玉みたいで、なんていうか椅子に座るとき、後ろを確認せずに引力に任せてドン、と座るようなひとです。静かに座るということができない。そんな奴、いるわけないだろうと思ったあなた。タイへ行くと、そんな人は一箇所に集めると巨大な畳鰯が千枚も作れるほどいて、フアランポーン駅の待合所に座ってたら、入れ代わり立ち代わりにやってくる。

 でもプムプワンは、貧しくて教養もなかったけど、じぶんで考えるアタマを持っていたので、ドン、と座るタイプではなかったと思う訳です。根拠もソースもないけれど、そんなのは顔を見て、歌を聴けば、わかる。
 プムプワンの評伝なんかを読むと、彼女には愛に囲まれた幼年期ってものはなかったし、長じて男に深く愛されるって機会にも恵まれなかったようだ。男を深く愛することはあったけれども、男たちは彼女を裏切ってしまう。
 それでもプムプワンは愛を歌った。愛を知らない者、幸福を知らない者は、ちょっとイビツな形でそれを求めてしまいがちだ。
 いや、あんた。旨いもの食って、それでシアワセー♡とか。そうじゃないでしょ。シアワセとか愛とか、そんなお手軽なもんじゃないんだ。なんか、こう、もっと、うんと、なんつうかアレなんだよ。とくべつなんだよ。そんなんじゃない。そんな物じゃない。おまえらが簡単に手に入れられるもんじゃないんだ。
 でもね。生まれつき、愛に囲まれた人は、そんなふうに思わない。簡単に「わあ、シアワセー♡」と思うし、人としては、そのほうがいいんだろうね。
 それでもプムプワンは本気で、とくべつな愛とかシアワセを求めてるから、それを歌う。そんなものは見渡しても、どこにもないのに。でも、あるんだ。どこかにある。そんな人も、どこかにいる。そう信じてた。
 だからね。プムプワンの歌の愛とかシアワセは、キラキラ眩い。
 現物は知らないけど、わたしの思う愛は、もっと、こう、心臓を締め付けるような、この、ぎゅっとした情熱なのよ。と、彼女は聴く者の心臓を掴んでみせる。不幸の土壌に咲く花は、だいたいうつくしいものだ。

 プムプワンが、当時在タイの邦人たちから「タイの美空ひばり」と呼ばれていたのは有名で、おれもその名はなん度か耳にした。歌がめっぽう上手い以外に共通点がないように思うんだが、考えてみたらそれで十分なのか。
 ただ、この曲を聴いて思ったんだが、これは曲想が美空ひばりが歌った「りんご追分」に似ているよね。キーは違うけど。どちらの曲も冨田勲先生が生きていたら、先生の編曲で聴きたかった。ほら、新日本紀行ふうに。
 で、プムプワンのこの曲なんだが、Cmの和音が鳴っているテーマの4小節目の終わりで6度の音が放り込まれる。Cm6なんて、ボサノバなんかのエンディングに使われる和音で、こういう使われ方は珍しいというか、初めて聴いたんで、それはビックリした。前述の「いつかもし時間が許せば田舎に帰って来てね」という冒頭の歌詞を歌いきった所だもん。最初はへりくだって、ここで6度のテンションノート打ち込んできてから一転、攻撃に転じるのかといえば、そんなこともなくて、ここからも延々とお願いが続くんですけどね。
 そういえば「りんご追分」でもEmの曲調から途端に曲想が変わる所でⅤsus4という和音をブチ込んできたりするんだよね。津軽娘が泣くとこで。
 どちらも、とてもよく考えられた曲です。

 さて、プムプワンは23歳で元俳優と結婚して、その後一男をもうけた。歌手活動は絶好調で、とにかく不世出の大スターとしては円熟期。ところが好事魔多しの理で、プムプワンは多忙で家のことなど構ってられないから、とうぜん夫とは擦れ違う。夫は元俳優で男前だし、金ならある。妻の金だけど。で、タイの男だから、これは浮気してくださいと大声で頼んでるようなもので、その通りのわかりやすい展開になった。
 プムプワンがタイ文字を独習したのは、この頃からで、じぶんの名前と、簡単な2~3語の文章なら書けるようになったというのね。たぶん書きたい文章だけ憶えたんだろうけど。
 愛人と家を出てしまった夫に宛て、彼女は短い手紙を書いて自ら夫の滞在先へ赴き、扉の下の隙間に手紙を滑り込ませた。住所が書けなかったし、こんなことは他人に頼めなかったから。
「กลับบ้านเถอะ」(一緒に)家に帰りましょう。そう記した。そして、じぶんの名を添えた。
 この、とても短い手紙が読まれたかどうかは不明だが、おそらくこれが最初で最後の唯一の手紙だろう。

 この頃から、プムプワンの体調は思わしくなく、思いがけず倒れて病院に運ばれても、治療費に事欠くことがあった。一生遊んで暮らせるほどの財産はあった筈だが、プムプワンがタイ語の読み書きができないことに乗じて、夫はプムプワンの財産の名義を自分宛てに書き換えてしまっていたから、一時は無一文になっていた。
 今でも伝説になっている「デュシタニホテルの舞台」が行われたのは、体調を崩してからで、まさに気力だけで乗り切った舞台は、彼女の芸能生活の集大成だったろう。
 その後、次第に体調は衰え、訪れる者も少なく、プムプワンは独り泣いて暮らすことが多かったという。二十代後半の晩年。
 最晩年は全身性エリテマトーデス(SLE)による腎臓の合併症により病院を転々とした挙げ句に1992年、地方の小さな病院で死去。
 かつて眩いばかりのスポットライトと喝采を浴び、大スターの名をほしいままにした娘は、活躍した都会の地とも故郷とも何の所縁もないタイ北部の遠い小さな町で、名もない一人のタイ女として世を去った。 30歳だった。

 最後に、プムプワンの持ち歌の「ナックローン・バンノーク(นักร้องบ้านนอก-田舎の歌手)」という曲を聴こう。この歌詞がプムプワンの生涯を暗示するかのような内容で、聴くと、いつもかなしくなる。プムプワンの歌だと切なすぎるので、若い歌手の歌を選んでみたが、これもいい。
 簡単に歌詞を要約しておく。

 カラスの群れが、彼らの巣へ向かって飛んでいく
 わたしは都会にいて、故郷の原野に思いを馳せた
 いつになったら帰れるのだろう
 私の望みは一つだけで、それはスターになることだった
 でも、友達にそれを言うのは恥ずかしくて、独り黙って故郷を出た
 歌手でいることは私の望みなのに
 なぜ、こんなに傷つくことばかりなのだろう
 場末の酒場で、酔っぱらいに背中を触られたりしながら私は歌う
 幸福になるんだ
 そう思って故郷を出てきたのに、目立たず、有名にもなれず、引き返せない
 眠りに就くまえ私は泣いてしまう
 いつになったら運が良くなるのだろう
 陽が沈んで、黄昏でさえ家に帰って暗くなるというのに
 私は耐えられるだろうか
 それでも この私は田舎の歌手
 バンドに合わせて今夜も歌わなくちゃ
 (冨田勲先生と筒美京平先生以外は敬称略)
นักร้องบ้านนอก...



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