หม้ายขันหมาก-เอิร์น เดอะสตาร์
この曲を歌っているのはสุรัตน์ติกานต์ พรรคเจริญ(スラティガーン・パッチャルーン)という歌手なんだけれど、この名前を聞いて「ああ。あの人か」とわかるタイ人がいたら、その方が珍しいと思う。彼女にはเอิร์น(アーン)という通称があって、その名だったら30歳くらいから上のタイ人の殆どは知っている筈だ。一般にタイ人は渾名で呼び合い、本名は明かさないことが多い。「本名を明かして呪いをかけられたら大変でしょ」って、昔の日本人と同じことを言う。
2004年、バンコクのシーパトゥム大学(カレッジの方)を卒業後、TVの公開スター発掘番組に出場したのが19歳のとき。上の動画がその時のものです。アーンの歌声はタイ国民の多くを魅了した。誇張ではなくタイ全国の職場で「昨日見た? アーンちゃん」といった会話が交わされた。勝ち抜きコンテストで、優勝者はデビューできるという、タイの人気番組だったが、まだ勝ち抜いて優勝したわけでもないのに、すでにスターになっていたのだ。
なぜか。
理由は簡単で、彼女の歌は多くの人の心を打ったから。
勝ち抜きコンテストの出場者の歌を聴いて涙する人は、滅多にいないものだが、彼女の歌はタイ国内のあらゆる街の各家庭の居間のTVの前にいる人たちの心を鷲掴みにし、かなしくもない人たちの涙を流すポイントを探り当てて、その秘孔を指先で突いたのだった。
コンテストの結果、最終的に彼女の順位は4位だったが、技術的なこと、特に音程やリズムということに関して言えば、この順位は妥当だった。
この動画でわかるように、音程はフラフラと定まらず、リズムも、もたつくように遅くなるし、なにより声がひらひらと裏返るのだ。ふつうに考えれば、優勝どころか観客の心を掴むなんて考えられない歌だった。
この歌い方は、田舎のタイ人が自己流で歌う場合の典型で、まあ、有り体に言って、下品。これだった。
ところで、田舎の一般人が放っておくとこの歌い方になるってことは、それは下品だったとしても普遍的ってことだった、とは言える。
自己流。たしかにそうだが、ヘタではない。アーンが歌うと、この唱法はそれほど下品に聴こえなかったし、音程のフラフラも、リズムのもたつきも、裏声への返り方も意味があって、ぜんぶ確信の下に現しているのではないかと思わせる歌唱だった。
勝ち抜いた者には、その都度インタビューがあって、どうして歌うようになったのかという質問に「ナコーンラチャシマの実家で、わたしが歌うと、お父さんが喜ぶんです。だからいつも父の前で歌っていました」と答え、ああ、そうだろうなと思わせる歌だった。こんな娘がいて、毎日こんな歌を聴かせてくれるなら、これはもう天国だ。ところで、歌手を恋人にして、耳元で小声で歌ってもらうというのは、これはもう歌手の恋人の特権で、あれは良いものです。
そんなことより、勝ち抜きも回を重ねる毎にファンは増え続け、動画のようにアーンが歌うときには嬌声が絶えず、彼女の歌のときだけリサイタルみたいな様相を呈していた。
今でもタイでは年間に幾つもの勝ち抜き公開スター発掘番組があって、どれも視聴者の人気を誇っているのだが、勝ち抜きの途中でこれほど人気を博した歌手は他にいないのではないか。番組は、彼女が4位だったにもかかわらず、プロとしてのデビューを約束した。優勝者よりも遥かに人気があったからだ。
さて、この曲なんだが、หม้ายขันหมาก(新郎の未亡人)といって、オリジナルはプムプワン・ドゥワンチャンが歌ったものです。
まずは歌詞を。
ああ
彼の叫び
微かな孤独
私たちの精一杯の愛は
儚く消えてしまった
葬列が彼を連れて行ってしまう
残されるのは私と悲惨
大概のものを私は失った
もう一度あの人と結婚できるなら
あの恐ろしいマラガの黒魔術で
老司祭の流す液体に望みを託すことさえ厭わない
他のことなどどうなったって構わない
恋が終わったら
私は生きていないのと同じこと
あなたのことを思い出しては嘆く
嫁入り道具の数々
新居
私たちの物のはずだったのに
私たちを繋ぐものはもう何もない
嘆き 傷つき
水の流れ
なんて悲痛な愛
水に溶け込む
新郎の未亡人
未亡人の涙
薄暗い罪を遠くから眺め
心の傷はいつまでも
彼の叫び
微かな孤独
私たちの精一杯の愛は
儚く消えてしまった
葬列が彼を連れて行ってしまう
残されるのは私と悲惨
大概のものを私は失った
もう一度あの人と結婚できるなら
あの恐ろしいマラガの黒魔術で
老司祭の流す液体に望みを託すことさえ厭わない
他のことなどどうなったって構わない
恋が終わったら
私は生きていないのと同じこと
あなたのことを思い出しては嘆く
嫁入り道具の数々
新居
私たちの物のはずだったのに
私たちを繋ぐものはもう何もない
嘆き 傷つき
水の流れ
なんて悲痛な愛
水に溶け込む
新郎の未亡人
未亡人の涙
薄暗い罪を遠くから眺め
心の傷はいつまでも
けっこう怖い歌詞で、その世界に負けるどころか、さらに鬼気迫る歌唱で歌い上げる19歳というのも凄い話なんだが、個人的な解釈で、これは「冥婚」を歌っているのではないかと。
冥婚ってのは中国や東南アジアの風習で、未婚で死んだ若者に、死んだ連れ合いを宛がうことで、つまり童貞で死んだ青年に、同じ年頃の娘さんを見つけて、その娘さんを生き埋めにしたりしていた訳です。しかしそれじゃあんまりだ。娘さんにも人生ってものがあってもいいだろうということで、若くして亡くなった娘さんを探して、死人どうしで結婚させればいいじゃないかということになり、いやしかし、そんなに都合の良い死体がなけりゃそれも大変だぞ、まあ十歳くらいなら歳上でも良いんじゃないか。ねえ村長。五十歳の歳上はダメですか? うわー五十歳の差って。それ孫じゃん。と困った挙げ句に花嫁人形を一緒に埋葬するようになった訳だ。
歌詞を読む限り、花嫁が殉じて後を追っているとは断言できないが、歌詞には入水自殺が仄めかされていてキモチの上では、これはもう冥婚です。
この曲はプムプワンの持ち歌の中でも異質で、タイの現代音楽から外れて先祖返りしたような曲なのだった。
自己流で野生的な唱法のアーンに、不思議と似合う楽曲ではないか。どっちも先祖返りみたいな趣で。この曲も相当に野生的だ。
つまり、この曲は、現在タイでも主流になっている西洋音楽の12平均律から外れているんです。外れて、どうなっているのかというと、タイ古典音楽の7平均律でできている。
そう。7平均律。
なんだそれ。聞いたことないでしょう。
12平均律ってのは、1オクターブを均等に12等分した音階で、ギターが1オクターブの間に12個のフレットがあるでしょ。ピアノでも1オクターブの音域に黒白合せて12個の鍵盤がある。ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シだと7個だけど、あと半音って存在があるでしょ。あれです。半音が12個あるという解釈で良いんだけど、この説明はわかりやすいのかな。
ギターで音程が高くなるにつれてフレットの間隔が短くなるのは距離ではなく、音程のセント数を均等に分けるとそうなるからで、この計算は基本的には周波数が2の12乗根(=1.059463)倍上がるように計上していく筈で、でもそれだとピッチがずれるので何だか修正する式もあったような気がした。この計算には確か三角関数だったか微分積分だったか、あるいはその両方だったかを使う筈で、高校生の時、こんなもの何の役に立つのかと憤ったものだが、ギター作るんだったら役に立つかもしれない。
まあ、そんな事はともかく、12平均律というのは、日本でも中国でも世界中の大体の国で使われている音律です。トルコみたいに53平均律という地域もあるけど、これは12平均律に慣れている私たちには聞き分けることが難しいと思う。12平均律にしか聞こえないのではないか。
ところが、7平均律てのは明らかに12平均律と音律が違う。オクターブの7等分ですからね。最初の音のピッチを合わせたとしても、あとの6音はピッチが大幅にずれる。
だから、タイの古典音楽を聴くと、7平均律だと知らない人は「あ。チューニング狂ってんじゃん」と思う。「ヘッタクソだなー」と思って、「ダメだなー」って思う。ラナートと呼ばれるタイ古典音楽に使う木琴なんかも7平均律で作ってあるから、「あー。この木琴作ったのはシロウトで音痴だったんだな」と思う。
12平均律の絶対音感か相対音感を持ってる人なら、7平均律の音楽を聴くとアタマ痛くなったり、吐き気を催します。これはしょうがないんだけど、先の感想は全部違う。チューニングは狂ってないし、下手くそじゃないし、ダメでもない。楽器職人も音痴じゃない。モノサシが違うだけなんだ。
おれもタイの古典音楽を初めて聴いたとき、キモチ悪くなって吐き気がしたものですが、あれは数年間、我慢しながら聴き続けていると、だんだん慣れてくる。そのうち2つ目のモノサシができるとタイの古典音楽が気持ちよく聴けるようになります。いっそ西洋音楽の音感ができてない人とか音痴の人ならタイの古典音楽を聴いてもキモチ悪くならないんでしょうね。
そんなわけで、この動画を観て、「あ。音程メチャクチャじゃん」て思う人は(西洋音楽的に)耳が良いってことですね。
で、7平均律なんだが、アジアでこの音階使うのはタイ古典音楽だけなんですね。
ご存知かどうか、タイ民族のルーツは長江(揚子江)周辺の民の一つで、漢人の南下に押し出されるように西へ西へと逃げ続け、やがて雲南省まで追いやられ、そこからまた南下して今のタイの地へ辿り着いたという人々です。
だったら、その途中に7平均律の痕跡がありそうなものなんだが、これがどこにも、ない。雲南省なんてタイ族ってのがいて、ほとんどタイ語だな、っていう言語で、タイ人とは通訳なしで会話ができる程なのに、7平均律は、ない。そこから南下途中のラオスにすらない。
タイだけなんです。アジアでは。
あとアフリカのモザンビークの一部族にも7平均律はあるみたいなんだが、それは交流があったとかいう話じゃなくて、偶然でしょう。たぶん。
これは推測なんだけど、7平均律がタイ族の民に生まれたのは、タイ族が今のタイの地に定住してからとしか思えない。アユタヤ朝あたりの頃、「おう。楽器弾こうぜ」「いいすね」「でも太鼓しかないすよ」「じゃ、弦楽器とか作っちゃえよ」「えーと。どうだっけ。こんな感じだっけな」「1オクターブ、いくつに分けるんだっけ」「任せるわ」「7つでいっか」みたいな感じだったとしか思えないよね。見てきたように言ってるけど。
ブルーズやジャズなんかのブルーノートって、あるでしょ。♭3度や♭5度が、きっちり半音じゃなくて、もうちょっとピッチが低くなっちゃうの。クラシックしか知らない人がこれを聴くと「あ。音程ズレてるね」って不快そうに言うんだ。あと、日本の演歌を聴いてると、感極まったところで音程が♯気味に上ずる歌手が多いでしょ。絶対音感や相対音感を持ってると、すんごく下品に聞こえちゃうアレだ。7平均律のピッチの違いは、こういうのとは違うもので、きっちり7等分したら、12平均律とはズレるってだけで、未開とか野蛮ってことではない。
西洋のクラシック音楽は音程をわざと外したりしないのかというと、あんまりしない。ただ民族音楽のエッセンスが入ってる曲とかジャズの要素を取り入れた曲なんかは音程を外すものもあるよね。管楽器は「ベンド」って言ってリードの咥え方やマウスピースにあてる唇や舌の加減で音程を変えられるし、ヴァイオリン族なんかのフレットのない弦楽器は、容易くピッチを変えられる。皮を張ってある太鼓の類いも難しくない。難しいのはピアノや木琴みたいな楽器だね。グランドピアノは大屋根開いた状態なら、上半身潜り込ませて弦の端っこを押しつけたら音程が♯気味に変わるかもしれんが、そんな人見たことないよな。
と、ここまで書いていて気づいたんだが、7平均律って和音ができないのではないか。7で割った数って、倍音を構成できないような気がしてならない。ラナート(木琴)で2音同時に鳴らすではないか、とも思ったが、あれはオクターブ違いのユニゾン(斉奏)だし。それとも7平均律の耳がもっと研ぎ澄まされれば7平均律の和音が聞こえるようになるのだろうか。これは12平均律に慣れきった耳には難しい事だろうが、ドローン効果みたいに鳴り続けるチン(小シンバル)は邪魔になってないし、7平均律にも和音というものがあるのかもしれない。ただ、タイの伝統音楽を聴く限り、和音というものに重きは置いてないようだ。さらに言えば、和音のことなどあまり考えていない。ちょうど日本の伝統音楽もそうであるように(雅楽が日本の音楽かというと、ちょっとアレなんだが、それを含めても東アジアと東南アジアの伝統音楽は、いわゆる西洋音楽に比べて、和音について非常に貧弱なのではないか。中央アジアについては、知らない)。
これは考えてみる価値があるかもしれない。タイ以外のアジアでは12平均律で和音が好きに作り放題だというのに和音が貧弱なのは、劣っているからではなく、その必要がなかったからかもしれないし、単にアジア人の頭脳が和音に向いてないのかもしれず、何か生理学的に理由があるかもしれない。なんか考えているうちに、「それは単に未発達ってことじゃ」という予感がしてきたんで、どうでも良くなってきた。どなたか興味のある方は考察してみてください。
折角だから7平均律の曲を貼っておきます。この演奏は凄いよ。
ปี่พาทย์ประชันวง เพลงโหมโรงไอยเรศ เถา
まあ、いずれにせよ、この7平均律はタイ古典音楽でしか聴くことのできない音律で、普段街中に溢れているタイ音楽は12平均律の音楽なので、現代のタイ人でも若者だと、この7平均律のモノサシを持っていない者がいる。だからタイ人なのに古典音楽を聴くとキモチ悪くなる。
そういう人が増えていて、いずれ7平均律はタイから、ということはアジアから絶滅する運命でしょうね。残念なことです。
さて、衝撃的なTV番組での人気を得て、デビューが決まって、しばらくは歌のレッスンなどしてデビューに備えるわけだが、じっさいのデビューは2007年で、3年近いブランクだった。ずいぶんと熟成させたのだな、でもアーンちゃんを応援してるぞ、というタイ人は多かったから、デビューは注目されていた。
満を持して登場したアーンを見て、聴衆は驚愕した。まず見た目が別人かというほど変わっていた。いや、変わり果てていた。美人にはなっているのだが、元の顔だって垢抜けないのは否めなくとも愛嬌があって、それも人気の要因だったのだ。それがどうだ。美人ではあるけれど、何ていうかプラスティックな感じだし、何より溌剌とした少女が「おんな」になっていた。
ああ。これは。……アレだ。いろいろと、アレだな。
まあ、しょうがない。それでも、あの、人々の心を震わせた歌声には磨きがかかったのだろうか、と期待と共に歌を聴いて、殆どの者は落胆した。
プロの、標準の歌い方になっていた。あのヴィブラートと言うには大胆すぎる節回しも、もったりと遅れるリズム感も、ころころと裏返るファルセットも。もうね。魅力だった点は全て剥ぎ取られて、標準のプロのルクトゥン歌手の唱法に矯正されていた。
それでも歌が上手かったんだろう。わずか3年足らずで普通の唱法もマスターしていた。
เหตุผลที่ฉันต้องรักเธอ - เอิร์น สุรัตน์ติกานต์ 【OFFICIAL MV】
直視したくないタイの暗部を晒された気分にでもなるのか、多くのファンは何事もなかったように、アーンの事を忘れた。
それでも歌は上手い訳だし、感動させる技術を知っている娘だったから、唱法を変えても素晴らしいものではあった。まあ、アレだけど美人だし。というわけで、ある程度の根強いファンは定着して、アルバムや関連商品の売上も好調だったから、プロモーションは失敗という訳でもなさそうだった。
だが、そんなささやかな成功と引き換えに、あの魂を揺さぶるフラフラした節回しと、妙なリズム感と、ころころ転がるファルセットは、垢抜けないけど素朴だった笑顔とともに失われてしまったのだ。
そうして6年間。2013年までに6枚のアルバムを出し、それぞれ堅調にヒットさせたアーンだったが、2013年に突然の結婚。女児の出産もあり、活動を休止した。
これですっかり過去の人になってしまったな、とおもっていたら、休止期間が4年経ったところで活動を再開した。
この、結婚、出産の後の2017年に出したアルバムは、それまでのモダーンスタイルのルクトゥン(田舎歌)ではなくて、デビューまえのように東北地方のオールドスタイルなルクトゥンに寄せてきていて、歌い方も少しデビューまえに、ほんのわずか戻ったようなハズし方が見受けられ、また昔はなかったドスの利いた「凄み」が加わって、ずいぶん良くなっている。
ขอเป็นคนรักอีกสักคืน - เอิร์น สุรัตน์ติกานต์ 【OFFICIAL MV】
あー。タイのルクトゥンという感じ。
いきなりルクトゥンといわれても、なんだそれという感じでしょうが、興味のある方はwikipediaの「ルクトゥン」の項を御覧ください。
長いけど、とても良い記事です。なぜなら、おれが書いたから。
ともあれ、アーンの歌声が少しだけデビューまえに近づいたから、次のアルバムでは、もっとワイルドな唱法になってほしい、と、欲が出てしまったのだった。ただ、このところ新アルバムの音沙汰は聞かないし、猫とアーンは呼ぶと、やって来ない感じだから、期待せずに待ったほうがいいんだろう。