サマール日記(ブログ版)

チョイさんのフィリピン・サマール島での滞在記録

あのロラ・ピシンさん(レイテ島出身)が亡くなった!

2006年04月27日 | ロラズハウス関連

 4月24日(月)にマニラに着き、すぐにロラズハウス(第二次大戦当時の日本軍による性暴力被害者たちの組織、リラ・フィリピーナの事務所)を訪ねたことは26日のブログにも書きました。その時の話を詳しく書きましょう。

  門をくぐると、なんと、東京の柴崎さん、澤田さん(マニラ新聞)たちがいるではありませんか。柴崎さんは、長く、ロラたちの支援活動を続けておられる方です。

 久しぶりの対面で話がはずんで楽しかったのですが、リラ・フィリピーナのリッチーさんから悲しい報せを聞かされました。2月に証言を聞かせていただいたロラ・ピシン(プリシラ・バルトニコ)さんが、4月24日に急死されたというのです。

  2月12日、京都からやってきた証言集会のグループと、スモーキーマウンテン近くのナボタスを訪問しました。この辺りには、性暴力被害者のロラ(おばあさん)たちのコミュニティがあり、この日は、我々が行くというので10人ほどのロラたちが集まってくれました。そこで最初にお話いただいたのが、ロラ・ピシンさんでした。

  彼女は、レイテのタクロバン近くのブラウェンの町で被害にあわれました。このブラウェンの町には、当時、3つの飛行場があり、日本軍のレイテ島における最大の航空基地群だったのです。この町に駐屯していたのは、あの陸軍第16師団、すなわち京都出身の兵士たちでした。 米軍の上陸を直前にして、日本軍は飛行場の造成を急ぎました。そのために、大勢の現地の人々が工事にかり出されたといいます。

  1944年10月20日、マッカーサーがレイテ島に上陸しました。海岸部の防衛にあたっていた日本軍は一瞬にして粉砕されます。その後、少し内陸に位置しているブラゥエンの3つの飛行場の争奪戦が熾烈に戦われました。結局、10月末には、16師団は多くの犠牲者をだした後、飛行場を放棄して西側の中央山岳地帯に逃げ込んだのです。

 その後、16師団は、12月上旬になって、隠れていた山岳部からブラゥエンの飛行場に、最後の「切り込み」を行います。一時、飛行場を占拠しますが、結局、米軍の猛反撃によって、ほとんどの兵士はここで死んでしまいました。いわば、京都の16師団が壊滅したところなのです。(その後、生き残った兵士たちは、レイテ島中央の山岳部を西海岸に飢餓の行軍を続け、凄惨な最後を迎えます。)

  ロラ・ピシンさんの証言は、このような経過をふまえて聞くと、我々に切実にせまってきます。特に、彼女に暴行を続けたのは、京都の兵士たちなのですから、和我々にとっても他人事ではありません。私も、昨年12月には、このブラゥエンの町を訪ねているので、彼女の証言は強く記憶に残っています。

  彼女は、時々、涙をおさえながら、自らが受けた被害を証言してくれました。 当時、ブラゥエンに駐屯していた日本兵が3人、ゲリラに殺されたというので、日本軍による報復が始まったそうです。彼女は、従姉妹と一緒に日本軍に捕まり、ブラゥエンの小学校の駐屯地に連行されました。そこで、3人の女性らと教室に閉じ込められたのです。毎朝、トラックに載せられて、飛行場の造成工事現場で働かされ、夕刻、駐屯地に戻った後は、レイプされる毎日が続いたそうです。「殺されるのが怖くて抵抗できなかった。」と彼女は泣き続けました。そんなピシンさんを、隣にいたロラが、そっと肩を抱くようにして励ましているのが印象的でした。

  ロラ・ピシンさんは、証言が終わったあと、隣の彼女の家に我々を招いてくれました。壁には、彼女が描いたという絵が飾られています。今は、落ち着いた暮らしをされているのだなと思うと、やはり、ほっとしました。

  享年、78歳。2月にお会いした時は、あんなに元気だったのですから、突然の訃報に、もう言葉もありません。お通夜に行かれた澤田さんからのメールでは、ロラ・ピシンさんは可憐な白いドレスを着て、たくさんの花に囲まれて眠っていたそうです。大勢のロラたちが集まって、お祈りをささげていたとのことでした。

  彼女らは、長く、日本政府に謝罪と補償を求め続けているのですが、それもかなわないまま、こうして毎年、大勢のロラたちが亡くなられているのです。急がないと、残された時間は、もうありません。

 (このブラゥエンの飛行場造成では、他にも、フェリアスさんというロラが、自らの受けた性被害の実態を絵にし、それは『もう一つのレイテ戦(日本軍に捕らえられた少女の絵日記)』という本になって出版されています。

  レイテ島には、日本の遺族会等が建てた慰霊碑がたくさんあります。戦後60年の今も、慰霊団が時々やってきます。しかし、その一方で、こうした被害を受けた女性たちが多くいるのだという事実は、教科書から「慰安婦」という言葉が無くなってしまったように、次第に消されつつあります。それだけに、こうした記録を残していくことは本当に大切なことですね。その意味で貴重な本です。)


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