切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

独居癌爺さんのつぶやき・・・今回もまた年賀状を  2021年12月24日

2021-12-24 20:36:17 | つぶやき
 今日はクリスマス。世間では特に若者を中心に何かイベント事のある日には、集まってしゃべり合って飲み合って大いに楽しむいい機会なんだろう。テレビなどでも盛んに放映している。昨日なんか戸建ての一般家庭の家で、外壁全面にイルミネーションを飾っているところが紹介されていた。何万球ものをLEDを使い全部で今までにかけた費用が200万円などと言っている。特に他人様に迷惑でない限り自由であると言える。またこういったことを楽しみにしている人たちがいるのも事実だ。

 クリスマスというのは元来、日本の催し物ではない。サンタクロースがトナカイに乗って世界を回り、子どもたちにプレゼントをという趣旨が戦後の日本でも大いに受けて、積極的に取り入れられたものだ。我が家は子供の頃は相当な貧乏の家だったので、クリスマスプレゼントと言っても簡単なおやつが少し、何ていう程度だったと思う。高価な物などをもらった記憶は全くない。それに使うお金があるならば食べ物の方に回すはずだ。そういった意味ではクリスマスでも誕生日でも、もらった思い出はないに等しい。一度だけ誕生日で小さな望遠鏡を買ってもらった記憶がある。夜に持ち出して星を見ていた。性能的には低いものだったので土星の輪が見えたとかそういったものではなかった。極めてまれな嬉しい出来事だった。

 自分自身でも小学校から中学・高校と成長するにしたがって、世の中の様々な催し物や出来事、あるいは自分の家庭が置かれている状況などが分かってくるようになると、欲しいものは自分で稼いで買わざるを得ない現実も見えてきた。従ってクリスマスとはいっても相変わらず、何かが楽しみであるという気持ちにはなれなかったものだ。
 それは大人になっても変わらなかった。実際就職して自分で稼ぐようになっても、クリスマスだからこれを買おうなどと言う思いは皆無に等しい状態。そう考えれば子供の頃に体験してきたことというのは、一生にわたって大きな影響を与えるものだなと改めて思ったものだ。さらに年月は過ぎ、定年退職。そして老後の生活に入っていく。何十年経ってもやはり変わらぬ想い。世間ではただ単に個々の若者たちや、各家庭でのクリスマスの楽しみにさらに加えて、企業などがイルミネーションやクリスマスの飾り付け、コラボ商品の販売などなどで大いに盛り上がる。ましてコロナ禍で控えめな生活をせざるを得ない状況の中で、クリスマスや新年というのは少し羽目が外せるチャンスということになる。先日のハロウィンにしても本来日本には全く関係のない話だが、いつしかアメリカの真似をして様々な奇抜な服装で人の多いところに集まって騒ぐ、といったようなことが恒例行事となっている。

 独居癌爺さんにとってみればどうでもいいことだという思いが前面に出るが、その一方、大勢の人々がこのようなイベントを楽しみにして待っており、実際その場所に行って一緒に少し羽目を外して騒いだりするという事に対する羨望感みたいなものが心の奥底にあるのも事実かと思える。いろんな事情で独居生活に陥り、時々親友たちと会って飲んでしゃべって歌って、という程度の人間関係しかない者にとってみれば、今までも含めてもっともっと言葉は悪いが、馬鹿騒ぎをしてもよかったのではないかなどと、時に思ったりもする。でも現実はもはやそういうところにはいない。これからさらに歳をとって体も次第に弱っていく。いつしか歩くのも困難な日がやってくるのは間違いないだろう。



 そんな時に一年間の恒例行事の中で、「年賀状」というのは今の自分にとってある意味貴重な楽しみのイベントとなっている。かつては教え子の生徒や卒業生からの多くの年賀状をやり取りしていたものだが、年を経るとともに少しずつ減っていく。でもまた新たな出会いの中でやり取りが始まる。しかしそれらも現役を引退すると状況は一変して行く。今やかつての教え子たちとやり取りしているのは数えるほどになってしまった。それでも彼ら彼女たちの活躍や家庭の様子や、お子さんの成長を知らせていただくとこちらも元気が出るものだ。もちろんそれはただ単に教え子達だけではなく、かつての同僚の先生方や中学時代・大学時代の友人達とのやり取りにおいてもそうだ。自分自身の近況をお知らせするだけではなく、先方の方が近況を知らせて頂いてお互いまだまだ元気だな、と思えることが今年もまた健康に気をつけて頑張っていこう、との気持ちにさせてくれる面もかなり大きいと言える。

 最近は年賀状の発行枚数が大きく減っていると言う。特に若い層であればスマホやパソコンを通して SNS で簡単にやり取りができると言うか、敢えて新年の挨拶ということにとらわれずに日常的にやり取りができるので、特に年賀状などということを意識するする必要もないんだろう。やはり時代が時代なのだ。近くのショッピングセンターでは12月前になると郵便局から出張販売を行なっていたものだが、今年は全く見なかった。やはり年賀状に限らず、普段の挨拶ややり取りも手紙やはがきを使うよりは、 SNS あるいはメールで済ませられるものはそちらへ流れるのは当然のことなんだろう。素っ気ないといえば素っ気ないものだ。
 私にとっての年賀状のやりとりについても実際には、パソコンを使って印刷し余白2に自筆で簡単なコメントを記す、といったパターンになっている。今や全面手書きといった人はほとんどいないだろう。これまた人から言わせればやはり素っ気ないものになるのかもしれない。まぁしかしないよりはある方が心の中の一種の支えのようなものにはなるのではないかと思う。

 別に年賀状そのものについてことさらに難しく、あれこれ考える必要は本来はない。ただ単純に独居爺さんにとってみれば、社会との繋がりが少しでも途切れずに続いていれば良いのだが、といった想いになる。子供や孫と一緒に生活し、日々が楽しいお年寄りにとってみれば気持ちの中の豊かさというものは、そちらの方面から得られることができる。でもそんな状況にない者にとってみれば、年賀状なんてめんどくさいものはもういらないなどと簡単に切り捨てることはやはりできないのだ。

 そういうわけで今回も今、印刷の真っ最中。来年もするんだろうか。分からない。やり取りしていた人の中には、今回から年賀状を廃止したと言う方もおられる。やはり全体的にそのような方向に流れていくのは仕方がない。日本では年賀状以外に、暑中見舞いなどの季節の挨拶といったものもある。私自身はそのような四季の挨拶は特には出さないが、せっせと毎年送ってくれる友人もいる。
 はっきり言って老い先短い身であり、お互い元気なうちに直接会うだけでなく、そのようなやり取りも含めて改めて大切にしてみたいものだと思うようになってきた。年賀状のようなものについては外国でもあるようだが、四季の挨拶といったものは日本独特のものかもしれない。このような良い意味での伝統はやはり続けられて欲しいと思うのだが、老いてきたからこそ大切にしていきたい部分でもある。

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