切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

阪神淡路大震災から23年

2018-01-18 21:43:05 | 社会



1月17日は阪神淡路大震災が起こった日。1995年だからもう23年も経ったことになる。
当日の事は今現在でも極めて鮮明に覚えている。もちろん当時は現役でバリバリ働いていた時代。1月17日の早朝というか、外はまだ真っ暗だった。ぐっすり眠っていた。なぜか自分でもわからないが、突然目が覚めて真っ暗な部屋の中で立ち上がり、寝床のすぐ横にある大きな書棚を2つ、手で強く押さえた。その数秒後突然、今まで経験したことのないような大きな揺れに襲われた。大きな揺れはいつまでも収まらず、一体どうなることかと思いつつ、真っ暗な中で書棚の本が次々に吹っ飛んでいくのが音で分かった。ようやく揺れが収まり巨大地震であったことを意識できた。このあとすぐまた余震があるかもしれないので、そのまま5分ほどずっと書棚を押さえたまま。もう大丈夫かなと思って電気をつけると、停電もなくそのまま部屋が明るくなった。寝床の布団は飛び散った本で埋まってしまい、全く見えなかった。上の棚などに乗せていたものも全てが落下して、ちょうど寝ているときの頭の部分には重い落下物がその場にあった。もし寝たままこれが直撃しているとただでは済まないようなものであった。
呆然としたまま部屋の様子を見て、次に時計を見るとまだ5時台だった。ようやく我に帰って本を片付け始めた。一通り片付いたときには6時を回っていた。これはとんでもないことが起こったと思い、テレビをつける。テレビの臨時特別番組みたいな放送がなされていて、大阪方面から望遠レンズで神戸のほうの街の様子を映していた。コメントも何もなく、ただ静かに画面があるだけだった。カメラも全く動かずに同じ方向だけを映している。妙に静かで何が起こったのかよくわからない。しかし画面の一部に煙があがっているのが見えた。チャンネルを変えると緊急特別顔番組で、アナウンサーが大きな地震が淡路島から神戸にかけて起こったようなことを伝えていた。これが当日の朝の様子。

今考えてもなぜ、自分が地震が起こる前に突然目が覚めて、とっさに立ち上がって書棚を押さえたのか全くわからない。無意識のままそういう行動をとっていたと言うのは多分、自分の中にある動物的な本能が巨大地震の前触れを察知して、そういう行動を起こさせたんではないかと思っている。何しろ突然目が覚めたときには、全く揺れてなかったし何の音もなかったのを覚えている。
その後ずっとニュースを見ながら出勤の準備をして車で出かけた。職場について職員室に入るとテレビがつけっぱなしで、多くの先生方がその映像に見入っていた。多くの家が倒壊し火事が多発して、倒壊した家の下敷きになってる人が相当数いると言うようなことをアナウンサーがしゃべっていた。みんな言葉もなく静かにテレビを見ているだけだった。職員朝礼では家庭や親族、もちろん生徒たち本人にも怪我等なかったかの確認を取るよう指示があった。

教室に行って朝の出欠確認等をとって生徒たちに聞いてみた。生徒たちも意外に落ち着いていて、大きい地震があったなぁ、とか寝てて全然知らんかった、等々お互いに特に興奮することもなくしゃべりあっていた。幸いにも学校全体でけが人や家の被害とは全くなくてよかった。
この日の授業はいつもと同じように、そのまま普通に進められて放課後にはクラブ活動も行い、夕方に下校して行った。自分はさっさとすべき仕事を終えて家に急いだ。授業の合間の休み時間ごとに、職員室のテレビでは犠牲者の数がみるみるうちに増えていった。神戸には友人もいるし、どうなってるんだろうと言う思いが強く、しかも阪神高速道路の高架橋が横倒しになっている映像を見て愕然としてしまった。



家に戻ってからも食事の用意をしながら、ずっとテレビの特別顔番組を見続けていたが、阪急電車の高架駅が倒壊し、阪神電車の全面高架の車庫の全体が潰れて倒壊している場面もあった。あちこちで大きな火事が起こり、大きく傾いて今にも倒れそうなビルも写し出されていた。空中映像からはL字型の高層マンションの1棟が全体が傾いて、もう一方の棟に寄り掛かるような形になっている場面もあった。


もうすでに死者の数は三桁に達していた。あまりにもとんでもない地震に、ただただ言葉を失って、そのテレビに映された様子を見ているだけしかなかった。
この夜は遅くまで特別番組を見続けていたが、翌日には職場のほうも落ち着いた感じで、いつものように普段通りの一日が過ぎていった。


被害者総数は死者だけで6,435名。負傷者や家屋被害、インフラ被害などとんでもない大被害をもたらしている。まさか自分が生きている間に、これだけの大地震が起こるなんて思ってもいなかった。授業などでは大正時代の東京大震災のことを取り上げたりしていたが、自分が生きている間に起こった大きめの地震災害としては、 新潟地震があって、アパート1棟が横倒しになっている写真を見て、すごいことが起こるもんだと言う記憶があった。関西には何もなかったようで、ただ遠くで起こった地震との印象しかなかった。
しかしこの阪神淡路大震災では、大阪も京都も大きく揺れ、京都府では1名が犠牲になっている。また新幹線の高架橋にも被害が出て、しばらくの間補強工事のため、一部区間で新幹線が不通になった。6月に九州への修学旅行を控えていたので、このままいけるんだろうかと言う心配があり、学校でも業者と一緒になって、いざと言う場合の代替案を検討したことを覚えている。結果的には修学旅行に間に合って、無事に行くことができた。何分にも東京大震災以来の大きな地震であったので、マスコミも連日大きな紙面をとって、また長い時間をかけて報道が続いた。
当時はもちろん仕事があったので、テレビについては晩にしか見ることができなかったが、被害の状況を細かく見せたり被災者の声を拾って報道したりしていた。
そんな様々な報道の中でも今でも覚えている2つの許しがたい報道場面を覚えている。1つは神戸市に本拠を構えている暴力団山口組の総本部が、本部の前で周辺の住民に炊き出しを行っていたということがニュースで取り上げられ、多くの人が炊き出しをもらいに並んでいた場面。そして住民たちのコメントの内容だった。こうゆう大きな災害の中では一般人も暴力団もなく、お互いに人間として助け合うことが美徳かのような報道内容があり、極めて強い違和感を覚えた。いくら一般人に炊き出しをしたとしても、社会的に絶対悪の暴力団であることには変わりない。はっきり言って許される存在ではないのだ。それをあたかも地域住民に貢献して、良いことをしてるような報道姿勢には怒りさえ覚えた。

もう一つは確か朝日放送テレビの報道ステーションだったと思うが、(他の番組かも知れない)女性のキャスターが震災の被害現場に入って、生中継をすると言うものだった。そのキャスターと言うのが、すでにNHKのニュース番組で当時慶応大学の大学院生でNHKにコメンテーターとして出演していると言う才色兼備の凄い女性だと言うことで話題になっていた、あの宮崎緑氏だった。
彼女はこの後NHKだけではなく、民放にも出遠し、報道ステーションだったかそのような報道番組では、現地からの実況リポーターとして登場したわけだ。そして現地からの生中継の画面に切り替わった瞬間、信じられないものを見てしまった。なんと宮崎緑氏はいかにも高価な感じがする毛皮のロングコートに黒いロングブーツ、えりまきをし、手袋をはめ化粧整えてマイクを持って喋り始めた。この女には一般常識があるのかと疑わざるを得なかった。瓦礫の山で多くの建物が倒壊し、下敷きになって多くの人が亡くなっていたその現場で、こんな姿格好と言うのはあり得るのか。まるで今から高級ホテルのレストランに食事に行くようなその姿。呆れると言うのを通り越して、激しい怒りを覚える。

ちなみにこの宮崎緑氏は後に結婚するときに、高級ホテルの広間を借り切って、政財界の大御所を多数招待し、超豪華な結婚式をしたことでも知られる。まぁ多分このような姿勢が批判を浴びたんだろう。そのうちテレビからは姿を消した。今の彼女は女性ニュースキャスターの草分けとして評価されており、今現在では国際ジャーナリスト、政治評論家、千葉商科大学教授、東京都教育委員などを務めて活躍をされているらしい。メディアには上記のような事情から、本人も嫌気がさして一切出演しないとのことのようだ。

話が少しずれたが、この大震災によって日本の甚大な災害に対する対処のマニュアルが極めて弱いことが明らかになり、これ以降様々な対応策が全国で作られることになり、また活断層に対する大掛かりな調査もなされ、危険地域等のハザードマップなども整備されるようになる。
当時は自衛隊の災害出動に制約があったため、行動が大きく遅れたことが一つの教訓となって以降、法律改正され今ではマグニチュード5以上で自衛隊が緊急出動、あるいは緊急点検活動をすることができるようになったと言う。
更に大きいのがボランティアの活動だ。あまりにも手薄な救助体制に対して援助は兵庫県だけではなく、近隣府県からも多くの救急車やレスキュー隊の車などが災害地に向かったが、大渋滞でなかなか到着することができず、火事を食い止めることもできなかったと言う大きな反省もあった。
そんな中で日本各地から多くのボランティアの人たちが、リュックを担いで神戸に乗り込んできた。このような大掛かりなボランティアについては、おそらく日本で初めてだったので、その対応も混乱を極めていたが、次第に整理されボランティアの割り振り等も後にマニュアル化されたりして、以後の東日本大震災などにも生かされるようになって行く。
自分が当時勤務していた学校の生徒たちも、大人と一緒に日曜日を利用して、神戸にボランティア支援に入っていった子が何人もいた。自分は当時の状況からとてもそこまでできなかったものの、生徒たちの具体的な動きには感心したものだ。また生徒会が自主的に動いて募金活動して、少ないながらも神戸に送り届けたと言う活動も大いに評価していた。
こういうところが、ある意味日本人の偉いところだと思う。困った人がいれば助ける。それを比較的自然な思いの中で行動に移せると言うところが素晴らしいと思う。

あれからもう23年とは思えないほどだ。震災から1年後に、あるテレビ局で震災の発生から復興への動きをまとめた特集番組が放送された。それはビデオに録画し、今ではDVDに移して保存してある。 貴重な歴史的な出来事の記録して大切にしているつもりだ。
6月に3年生の生徒たちを引率して、山陽新幹線に乗って長崎の方へ向かった。震災から半年経っていなかったが、車窓から見た神戸の街の悲惨な状況はまだそのままだった。修学旅行と言うこともあって、生徒たちは、また引率の先生たちは自分も含めて、阪神大震災のことをもはや遠くに置いているような心境でもあった。
それから1年経ち2年経ち5年、そして10年・・・毎年1月17日の早朝には慰霊が行われている。23年も経てばその記憶も次第に風化され、表面上はすっかり復興した神戸の新しい街がある。しかし一方、復興に伴って地域社会がバラバラとなり、特に高齢者にとってはそれまでの近所付き合いが崩壊し、孤独死と言う新たな問題が出てくるようになり、それに対応すべく、こういったケースでの新しい研究がなされるようにもなった。
公的な援助があったとは言え、すべてがその援助で生活が成り立つわけではなく、被災者にとってみれば大きな負担を強いられることにもなり、たまたま住んでいた地域が大きな災害にあったために、人生設計が大きく狂わされたと言う人々も大量に出た。こういった問題が解決されないまま表面上の復興は、さすがに23年も経つと、復興は終わっていると言うふうに見える。


先日テレビ放送のニュースを見ていると、震災後に生まれた震災を直接知らない大学生たちが、お年寄りを相手に心の安定を図るためのボランティア活動をしている様子が報道されていた。そういった意味では震災そのものは、人によってはまだまだ終わっていないと言えるんだろうと思う。
自分にとっても直接的な被害がなかっただけに、阪神淡路大震災は比較的早く遠いものになってしまった。尚神戸の友人宅は無事だったと聞いた。しかし2011年3月、まさか阪神大震災を上回るほどの巨大地震が東北で起ころうなどと言う事は全く考えてもいなかった。自分の生きてきた人生の中で、こんな巨大地震が2回も起こるなんて、どうにもこうにも信じ難いと言うのが本当の心境だ。さらに地震研究が進み、近い将来南海トラフ大地震が起こることがほぼ確実視されている。そうなると四国から関西東海にかけて甚大な被害が予想されている。ある意味、日本と言う国の宿命なのかもしれない。今も地下深くでは太平洋プレートのが少しずつ動いて、アジアプレートの下に潜り込んでいると言う。お互いのプレートのせめぎ合いが最高潮に足したときに、カタストロフィックな大暴発が起こることになるんだろう。
その時に備えているのかと言われれば何にもしてないのが実情だ。不謹慎だが、自分のように爺いになってしまうと、死ぬこと自体に大きな恐怖は覚えないようになってしまっていて、言葉は悪いが「なるようにしかならない」と言うふうな受け止め方になってしまっている。まだ20歳ならなんとしても生きたいと思うだろうが、何せ歳の問題でこんな風な心境になってしまった。
でも今から考えてみれば、阪神淡路大震災の起こった1995年の前年1994年、秋ごろから小さな地震が頻発していたのを思い出す。「また地震が起こっている」「最近震度2や3クラスご地震が多いなぁ」と言うのは実感として覚えている。ひょっとしてこれが阪神淡路大震災の予兆だったのかもしれない。当時の気象庁や地震学者たちはどのような総括をしたんだろうか。それらが後の巨大地震に活かされたんだろうか。地震予知はいまだに非常に困難だと言う。確かにそうかもしれないけど、東日本大震災では死者行方不明者が2万人にも達している。やはり予算を組んで、必要な地震計などを各地に一層進めてもらいたい。耐震化工事も進めてもらいたいと思う。
尤も我が家は阪神淡路大震災で屋根瓦が一部ずれて落ちかけたりするような状態になっていた。後日そこから雨漏りがし始めて、仕方なく家の修理をする羽目になってしまう。でも耐震化工事はしていない。独居爺いだし、そのために何百万もお金をかける気は全くない。どうしても「なるようにしかならない」との心境になってしまう。

神戸市を中心とする被災地域は、確かに復興はしたんだろう。テレビでもしばしば神戸からの中継映像などが映るが、超高層ビルが立ち並び道路も拡幅され、商店街も非常に綺麗で23年前の姿が想像できない。
しかしその一方で地域社会がバラバラにされ、孤独な生活を強いられる人々や、上にも記した孤独死の問題など、いわゆるインフラ整備だけでは人間の気持ちというのは満たされないと言うことが大きくクローズアップされ、その問題はいろんな意味でいまだに続いている。だからこそ若い学生たちがボランティアとして、独居老人などを前にして様々な取り組みをしていると言うのは、本当に偉いと思う。
確かに行政側にもいろいろな問題や課題、財政面の問題とあるだろう。国がどれほどのことをしたのかは知らないが、未曾有の大被害に対して国を挙げて復興に取り組むと言うのが大前提であり、同時に一人ひとりの生活環境と、思いに寄り添って、復興計画を立てることが大事だと改めて思わされる。

(画像は全てウェブより)
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2 コメント

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2023-05-14 17:05:46
写真に写っている黒いコートの女性はどなたなのでしょうか?

宮崎氏は、後にマスコミによる風評被害を扱った検証番組で、現地取材時の服装などご自分で事実誤認であることをテレビで説明しております。


毛皮のコートでもなく、普通の地味な冬服でした。

日本テレビの木村優子アナウンサーと混同されていないでしょうか?

なぜ無関係の写真を貼る意味があるのでしょうか?
1995年1月の時点で、報道ステーションという番組は存在していません。
久米宏のニュースステーションとう番組名で、ニュース枠は存在していました。
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Unknown (切れ切れ)
2023-05-14 21:48:34
 黒コートの女性レポーターは確かに言われてみれば宮崎氏ではないのかもしれません。元の画像が小さく見誤った可能性があります。
 大震災発生日の2~3日後だったように記憶していますが、宮崎氏が場に不釣り合いなコートとブーツで実況していたのは覚えており、強い違和感を覚えました。番組は今思えばテレビ朝日のニュース情報番組だったかもしれません。
 今となってはこのくらいのことしか言えない状況です。
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