切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

福神社・住吉神社 京都市下京区・・・めでたい名前もある

2020-06-26 22:22:56 | 撮影


福神社



 福神社。漢字一文字の短い名前は比較的珍しいはずだ。JR山陰線丹波口駅の東側にある。五条壬生川通り交差点の南側だ。わりと細い道なのでそのまま歩いていると見逃してしまいそうな小さな神社。道路に面して赤い鳥居が建っているので注意していればすぐにわかる。
 現場には駒札をはじめとして何の情報もなく、ネットや色々な書物で調べても何一つ分からない。おそらく祭神が紀貫之ではないか、そして伏見稲荷の末社ではないか、という指摘はあった。京都市の観光案内にそのようなことが記されていたが、同様にこの辺りはかつて「福神の森」と言う社があったとのことで、そこからこの名前の神社が来ているのではないかという紹介内容だ。
 この小さな神社の管理者はどこなのか。おそらく近辺の少し大手の神社の常駐している宮司が、この神社を兼務という形でしているはずなので、そういったところで由緒などが分からないものなのか。神社を町内会で管理しているということはあまり考えられないので、このあたり何とも言いようがない
 いずれにしろ非常に縁起の良い名前の神社なので、そこそこ知られているようだ。
  




住吉神社   (下京区藪之内町617 下松屋町通松原下ル三丁目)



『住吉神社
 京都市下京区中堂寺通り大宮西入ルに鎮座する当社は、千余年の歴史を有する由緒ある社である。平安時代初期の延暦年中(七八三~八〇六)に建立され、保延四年(一一三八)に再興、天正十九年(一五九一) に再々興された。現在の社殿は、文政八年(一八二五)に修復されたものである。
 祭神である、表筒男命、中筒男命、底筒男命は、災難を除き病魔を守り、夫婦円満敬愛の神徳が極めて厚く、旅行波海の諸難を救うとされている。また、境内において、世人の尊崇信仰の的である稲荷神社、金比羅宮、天満宮、道祖神社を祀っている。
 また、地域の文化財として伝統的に受け継がれた住吉神社御神輿については、江戸時代中期の主永五年 (一七〇八)始めと伝えられる。天明八年(一七八七)には、大火により焼失したが、附属の小道具につ いては無事であったため、寛政三年(一七九〇)に再設された。以降、明治三〇年(一八九七)に修理を行い、現在に至る。
例祭 九月第四金曜日・土曜日・日曜日の三日間
剣鉾 松針・牡丹鉾・菊鉾 三基
祭礼当日 剣鉾 大・小神與 区内巡行
節分祭 二月三日       京都市』
    (駒札より)


 先ほどの福神社からさらに東へ数百メートル行ったところにある。のぼり旗が多く立っていたのですぐに分かった。
 下京区には住吉神社を名乗る神社が何箇所かあり、どれがどれなのか少々分かりにくい。ここの住吉神社には京都市による駒札が立てられていたので、それなりの立派な由緒があるということだろう。
 それによると平安時代の創建だ。特に場所の移転については何も語られていないので、創建当時からずっとこの場所にあったとみられる。名前の方から類推できるように大阪摂津国、住吉大社から勧請されたものだと言う。この神社の例祭では神輿が巡行され大いに賑わったとされている。
 さらに重要無形民族文化財に指定されている「中堂寺六斎」 が奉納されるということだ。この中堂寺六斎はいわゆる宗教系の六斎念仏ではなく、どちらかといえば芸能系のものであり、演目は主に長唄や三味線、獅子舞などといった人々が一緒に楽しめるような内容のものであったと言う。このような六斎踊りは各地にかつてはあったが、地域の縁が次第に薄れるようになり、ここの六斎も後継者不足から消滅の危機に陥ったこともある。そこで演目の中に子供たちが活躍できるような内容のものを入れて、今現在ではそこで育った子供達が高校生となって、さらに次代の子供達を指導して継承していると言う。中心となっているのは北嵯峨高校の生徒たちということだ。

     
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