切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

京都府城陽市 水主神社・・・これほどの神社とは!

2017-08-20 00:16:41 | 撮影
  

 由緒
 水主神社は往古より世に聞こえたる名神大社なり。
其祭神は、天照御魂神(鏡速日尊)、天香語山神、天行雲神、天忍男神、建請赤神建諸陽命、逮筒草命、建多背命、倭得玉彦命、山背之国魂命の十社にして、天照御魂神は即ち火明命にて氏の高祖なり。第十世山背大国魂命にいたり、山背に移り大に其国に功烈あり。之を尊みて山背大国魂命という其の子孫山代水主連となり、世々其の祀を奉せしものなり。廷喜式には水主社十座並大月次新嘗と定められ、特に天照御魂神と山背大国魂命とは、四季祭、相嘗祭に預り、又祈雨大神の内に加わり、仁寿負観の頃、加茂両社、松尾稲荷、住吉大社等諸社と共に新年祈雨の奉幣あり。朝家御崇敬上下帰依信仰、尤も厚しと伝う。

 樺井月神社
 祭神は月読命にて、今より千二百五十年前、文武天皇大宝元年に神稲を賜り、貞観元年従五位上に進叙せらる。承和一二年五月京畿に牛疫流行。殊に綴喜相楽兩郡弊死して、殆んど盡きんとするや、当社に奉幣祈禳行われ日ならずして止む。延喜式には大社に列し、四度宮幣祈雨祭に預れる事、国史に見ゆ。古来朝廷より牛馬の守護神とて祈願奉幣と賜るは、当社以外に類を見ず。尚当社は綴喜郡に鎮座せしも、度重なる木津川洪水のため、二百八十年前、当地に遷座す。
 衣縫神社と申すは、天地ひらけ豊組野尊の御神穂にして、天照大神の時より衣類の女神の仕業として世に備れり。左右に座する二柱の神達は、神代天香語山命の御子天村雲命より九世の孫にて、人皇十三代成務天皇の御宇淡海国、志賀の高穴穂の宮に仕え奉り、糸縫針の職業を主宰し給う故に、末代の今に至るまで其職たる人達は、此の大神と祖神として敬い奉り給う。
  昭和五十四年十一月
  水主神社 』

 城陽市の西の端、木津川に近い地域にある。すぐ東側に府立西城陽高校があり、北側は国道24号大久保バイパスの曲がり角で、ここから京奈和自動車道が南へ向かう。その西の方に第二京阪国道が開通しており、そこと結ぶ新名神高速の一部が開通して、この辺りは大きなインターチェンジができている。
 近くまで住宅地が迫っているが、この一角が田畑になっており、その中に小さな森がある。ここが水主神社。

 

 神社へは田畑の中の細い道を参道として進んでいくが、最初の鳥居の辺りで車は入れないようになる。境内の中は高い木々に覆われて日中でも薄暗い。全体としては狭い方だが、正面に拝殿があり、その入り口には鍵がかけられていて、格子扉越しに本殿を見ることになる。その本殿は華やかな色は全くなく、渋く落ち着いた建物となっている。手前にある灯篭には電球が灯されていて、この地域でしっかり管理されているようだ。拝殿前から続く金網が草むらの中に続いていて、横から本殿を見るのも困難だ。境内には縫い針の石碑があって、全体的に掃除も行き届いており、よく手入れされている。
 ここまで来る人は誰もいないだろうと思っていると、一人のお年寄りが自転車で入ってきて参拝していた。近所の人だろう。

   

 境内の中央に由緒書が掲げられていたが、その文章を上に全部載せておく。ただし一部の文字が判別しにくく、いくつか文字間違いがあるかもしれない。文章表現からすると、この神社について記された江戸時代あたりの文献から引用されたものかもしれない。神社の祭神の特有な読み方があって、理解するのが少し難しく感じる。
 それでも文中にある山背之国魂命というのが人物の名前で、当時重要な役割を果たしていたらしいということが推定される。また神社は式内社で十座というのは、かなり重要な地位にあったものだと思われる。
 祈雨というのは、古代においてこの一帯の稲作に必要な雨を求めるように祈りが行われたということ、そしていわば雨乞いの神様でもあったんだろう。
 樺井月神社は水主神社の境内社で元は外部にあったらしい。近くを流れる木津川が東西の往来を分断しており、今の京田辺市と、こちらの東側を結ぶ渡しがあって、その守り神としてあったものであるとともに、水田耕作において、牛馬が大切なな存在だった時代だけに、その守護神でもあったものだと言われている。後の木津川の氾濫などによって社殿が失われたりして、最終的には水主神社の境内社になったらしい。
 衣縫神社はやはり境内社で、由緒にある「左右に座する二基の神」というのが、祭神の大縫命・小縫命であり、今では毎年4月29日に針供養がここで行われ、全国的に知られている。

  

 この水主神社については、ネット上にも多数の資料があって、興味深い内容が記されていた。自分にとっては明らかにオーバースペックで、なかなかうまく説明ができない。以前に紹介した水度神社や荒見神社との関係もあるようで、各神社の成り立ちを通してこの地域の歴史的な流れや、生活していた人々の切実な思いというのが、なんとなく分かってくるようだ。そういった意味で神社の由緒を調べるというのはなかなか面白いものだと思う。
 ネットで神社について発信している人はずいぶんたくさんおられて、皆さんとても素人とは思えない知識の持ち主で、ひょっとして研究者か何かと思われる人もいて、随分参考になるし、とてもかなわないなとも思う。
 なお、本殿は城陽市の指定文化財である。府登録文化財でもいいような気がするが・・・

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