切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

西光寺・長岡京市立中山修一記念館・・・長岡京  京都府長岡京市   2024.6.20 訪問

2024-07-12 23:30:02 | 撮影

西光寺



 西光寺は阪急京都線 西山天王山駅から東へ 約1km あまりのところにある。街道から少し入ったところなので注意する必要がある。
 当日は残念ながら閉門状態で、柵から体を乗り出して撮影するほかなかった。境内は全体的に緑が豊富でちょっとしたジャングル状態。中央の通路を通して本堂が一部だけ見える状態だった。そのためよくわからなかったが、本堂そのものは鉄筋コンクリート造りのように見えた。それ以外の様子はあまりわからない。

  

  浄土宗のお寺であり本尊は阿弥陀如来となる。色々と調べたが特にこれといった資料はなく、長岡京市の公開された歴史の歩みの中に、安永2年1773年、半鐘が鋳造される、とあった。おそらく多くの浄土宗のお寺と同様、戦国時代末期あるいは江戸時代初期の創建ではないかと考えられる。今まで 浄土宗のお寺を数多く見てきたが、江戸時代中期の創建 というのは記憶にないので、多分江戸時代早期あたりということになると思われる。

 


長岡京市立中山修一記念館

 

  中山修一氏というのは、かつて幻の都と言われていた「長岡京」が実在したことを信じながら、個人で発掘調査を続けて、ついに物的証拠を発見した人であり、その一生をかけて 長岡京の具体的な様子を再現した人だ。
 元は戦前、京都師範を卒業し、小学校教諭を務め後に中学校の教諭。そして戦後に古文献には記録がある長岡京が実際にあったのではないかと考え、自ら発掘を始めた。後に京都大学大学院にて専門知識を深め、個人で発掘を続け同時に高等学校の教諭も勤めていた。

 昭和29年、発掘開始からまもなくして長岡京の門跡を発見し、それが新聞報道されると大反響を呼ぶことになり、一躍長岡京の実在性が現実的なものとなった。その後自ら乙訓地域の航空写真をもとに、長岡京の図を写真の上に落とし込み、内裏の場所なども次々と特定していった。当時はパソコンなど何もなく、全て手作業において作り上げたものだ。その図を元に長岡京市のみならず、北は向日市から南は大山崎町に至るまで、次から次へと発掘を続けて、もはや誰しもが長岡京の実在を否定できないほどの実態を明らかにした。無論発掘調査が進む中で、中山修一氏に賛同する人々が発掘団を組織し、最初はほとんど手弁当で行っていたものが、途中から該当する自治体や京都府などからの支援も含め、本格的な大掛かりな発掘調査となっていった。

  

 その功績は誰しもが認めるところであり、数々の表彰を授与されている。当初は中山修一氏の功績を伝える場はなかったのだが、私的に設けられた記念館が中山修一氏の生家であったが、そこを長岡京市が公的に市立記念館として開館することになって今に至っている。

 場所は阪急京都線 西山天王山駅から東へ1km あまり。街道沿いなので、しかも上り旗も立っていてすぐにわかる。入管は無料で彼の発掘した成果が展示されている。
 今でこそ長岡京はわずか10年で終わった都であった ことが、教科書にも掲載されているが、かつては古文献記録にその名称はあっても、誰もが実在を疑問視していたものだっ。た一人の学者の執念がこの長岡京の壮大な跡を発見に至らしめた。その情熱はすごいものがあると思う。

 

『*参考資料  (乙訓郡史より)

長岡京は、桓武天皇によって造営され、延暦3年(784)11 月 11 日に 平城京から山背国 乙訓郡に遷されたものです。わずか 10 年間の都でし たが、それまで宮・都が展開していた奈良盆地を離れた長岡京遷都は、新 しい時代への幕開けであったとされています。 京域は、現在の向日市・長岡京市・大山崎町・京都市の一部からなり、東 西 4.3km・南北 5.2km に及びます。都のなかは、朱雀大路をメインスト リートに、幅24mの大路と幅9mの小路によって碁盤目状に整備され、西 側は右京 、東側は左京と呼ばれました。本市域では北は二条大路から、南は八条大路までの道路が確認されており、現在の長岡京市役所南側の東西道路は、おおよそ五条大路にあたります。道路に囲まれた区域は「町」と呼ばれ、官庁や身分に応じた居住地が割り当てられました。発掘調査によ って、建物跡や井戸、土器や漆器 、木簡 、四仙騎獣八稜鏡など、当時の生 活・生産に関わる遺構・遺物が確認されています。また、「蘇民将来」呪符木簡や墨書人面土器き 、土馬などからは祈りや儀式の様子を窺い知ることができ、京域の南西辺、境界に位置する西山田遺跡では大規模な祭祀跡も確認されています。都の造営には、平城京や難波宮を解体して運び込まれた部材が多く利用されました。それだけでなく、谷田瓦窯群では新様式の瓦を生産しており、主要な施設に用いられました。古代寺院として知られる乙訓寺・鞆岡廃寺も、「京下の七寺」として都のなかに組み込まれたとされています。ところが、2度の大洪水や桓武天皇の弟 、早良親 王の 死 、その怨霊などが問題となったのか、新しい都として平安京が造営され、延暦 13 年(794)10 月 22 日に遷都し、長岡京は廃されました。主な建物は解体、移されてや がてかつての様子はわ からなくなり、都市近郊の農村風景が広がるこ とになります。いつしか「幻の都」と呼ばれるようになった長岡京でしたが、昭和 29 年(1954)当時高校教員で本市出身の中山修一氏らによって発掘調査が開始され、翌年長岡宮朝堂院南門跡(向日市鶏冠井 町)が発見されました。これを皮切りに、現在までに長岡京の発掘調査は 2,400 回を超え、平成 22 年(2010)には長岡京発掘 2,000 回を記念して、石碑「長岡京発見之地」が建立されました。建立地は、同氏の「長岡京」発見のきっかけとなった田地や発見当時の住まいに程近い、JR 長岡京駅前交差点が選ばれました。また、同氏の生家は一部が長岡京市に寄付され、その足跡と発掘調査の成果が一目でわかる施設として整備され、平成 14 年(2002)「中山修一記念館」が開館しました。なお、「水陸の便なるをもって都をこの邑 (長岡)に遷す」として、この地に造営された長岡京でしたが、それ以前にも本市域には、弟国宮が所在していたことも知られています。弟国宮は、継体 12 年(518)継体天皇によって遷都されたもので、所在地は確定していませんが、本市域北部が候補地とされています。 長岡京跡の整然と造成された街区は、都として充分に整えられていた情景を思い起こさせ、遠隔地から運ばれてきた土器や荷札木簡などの出土遺物は、列島各地からやってきた多くの人々で賑わう様子を想像させます。発掘調査の成果からよみがえる長岡京の姿は、桓武天皇が造営した「王城の地」の歴史文化を示しています。 』


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